四 : 決戦、設楽原




 天正元年(元亀四年七月に足利幕府が滅亡したのに伴い、『天正』へ改元)十二月。忠勝は馬上の人となって寒風に身を震わせながら西へ向かっていた。道中はほぼ徳川領であるが、まだ武田の影響が残る中なので警護の兵を連れての行路であった。警戒は怠らないが、目指す方角を思うとつい懐かしい気持ちになってしまう。
(……さて、あの地に戻るのはいつ以来になるのだろうな)
 今回、家康の命により忠勝は岡崎へ赴くこととなった。
 岡崎は三河の中心的な町であり、徳川が松平姓を名乗っていた頃から本拠地としてきた場所でもある。家康の原点とも言える場所だ。勿論、忠勝にとっても思い出深い地である。小姓として出仕したのも、主と初めて対面したのも、康政と初めて顔を合わせたのも、一向一揆の際に覚悟を決めて登城したのも、全て岡崎であった。
 遠江へと版図を広げていく中で、軸足を東へ移す必要があったため現在は浜松に居を構えているが、三河から仕える徳川の者にとって岡崎は故郷のような位置づけとして心の中に深く刻まれていた。
 岡崎へ到着後、忠勝は直ちに城へ出仕した。まるで実家に帰ったようにスルスルと奥へ進んでいくと、目当ての部屋には既に先客が待っていた。
「お待たせ致しました」
 忠勝が一声かけて着座すると、上座に座っていた先客は鷹揚な態度で応じた。
「何、構わぬ。浜松から遠路はるばる御苦労だったな」
 労いの言葉をかけられ、こちらも変わらない様子だと忠勝は内心安堵していた。
 対面している相手は、石川“与七郎”数正。徳川家では酒井忠次と共に家臣を束ねる重臣である。家康が今川家へ人質として送り出される際にも付き従った内の一人で、忠勝より仕えている年数は長い。
 武骨で純朴な者が多い三河者には珍しく、数正は弁が立ち人当たりも柔らかかったので他家との外交や折衝事を任される貴重な存在だった。桶狭間の戦いの後には、今川方と交渉して駿府に人質として出されていた正室・築山殿と嫡男・竹千代を人質交換という形で救い出したのも数正の功績である。
 また交渉事のみならず戦でも手腕を振るい、現在は三河に駐留する家臣団のまとめ役を務めていた。無意識の内に傲慢な態度を見せる忠次と比べると、数正の方が幾分か家中の評判は上であった。
「用向きは殿から聞いている。早速だが本題に入ろう」
 数正が話そうとした矢先、廊下を歩く足音がこちらへ向かって近付いてくるのが耳に入った。すると数正は中断して姿勢を正したので、忠勝もそれに倣う。
「数正、おるか?」
 数正を呼ぶ声がした直後、長身の若い男が部屋へ入ってきた。爽やかな風貌に好印象を抱いたが、心の片隅に既視感を覚えた。はて、どこかで見たような……。
 すると数正が改まった口調で短く告げた。
「平八郎。若君である」
 その言葉で合点がいった。成る程、道理で似ているはずだ。潮が引くように疑念が消えていくのと同時に、感慨で胸に満ちる。
 徳川信康、幼名竹千代。岡崎城主であり家康の嫡男だ。この時、齢十五。
 家康がまだ今川の傘下にあった永禄二年に駿府で誕生。永禄五年には織田と同盟を結んだ暁に信長の長女である徳姫との婚姻を決定。さらに五年後の永禄十年にめでたく結ばれ、それと前後して元服、名を信康と改めた。諱に信長の“信”と家康の“康”、織田と徳川を結ぶ架け橋となって欲しいという願いが名前に込められていた。現在は母・築山殿と共に岡崎城で生活している。
「若君、こちらに控えているのは本多“平八郎”忠勝にございます」
「お久しぶりに御座います、若君」
 忠勝が挨拶すると信康は頬を紅潮させて応じた。
「おお、忠勝か!!昨年は一言坂で少数の兵ながら武田を相手に互角以上の戦いをしたと、この岡崎にもお主の武勇は届いている。父を助けてくれたこと、儂からも礼を申すぞ」
 手放しに褒められて忠勝は面映い気持ちになった。信康はさらに続ける。
「儂も初陣を果たしたが、真に戦とは難しいものだと痛感させられた。書物に記されているように上手くいかぬし、人の生死を間近で突きつけられて恐怖を抱いた。儂も手柄を立てたいと思うたが、適わなかった。そう考えると、お主のような他国にも知られる武に長けた臣を持てたことが誇らしく思うぞ」
 興奮した面持ちで連ねる信康の熱い言葉に、忠勝は内心くすぐったい思いになりながら頭を下げた。若年の信康はまだ精神的に幼さを残しているのか素直な感情をぶつけてくる。殿が同じ年頃の時はどうだったのか分からないが、その佇まいはやはり父親の面影が重なって映った。
「身に余る光栄に存じます」
「ところで若君、私をお探しの様子でしたが何用でしょうか?」
「うむ。昨今武田が兵を引いて以降、その影響力も日に日に弱まってきている。我等は長年に渡り辛酸を舐めさせられてきたが、ようやく反攻の機会が巡ってきた。そこで、この岡崎から兵を出すなら何処が良いか相談したくて、な」
「承知致しました。その件につきましては、平八郎と話し合ってから相談致しましょう」
「相分かった。では、待っておるぞ」
 そう言うと信康は踵を返して廊下を歩いていった。その背中を二人は平伏して見送った。
「……頼もしき方ですな」
 忠勝の呟きとも分からない言葉に、数正は静かに首肯した。
 まだ初陣を果たして間もない身でありながら、既に家臣を束ねる主君として必要な風格と威厳を漂わせていた。実際に年長者の数正が信康に対して明らかに臣下としての礼で接しているのも、信康を主として相応しいと思っているからだろう。忠勝もまた、僅かな対面を終えたばかりにも関わらず惹きつけられていた。
「しかし、殿と多少異なる点が些か気になる」
 どちらかと言えば父である家康よりも母の築山殿の血を濃く引いているのか、父に似ず上背もあり目鼻立ちもくっきりしている。それに、築山殿の下で愛情深く育てられた為か、幼少期から苦労の連続だった父親と印象が異なるのも気になる。親子で色が違うのは、時に争いの種に発展するので不安を覚えた。
 数正も三河一向一揆では石川一族が敵味方に分かれて争った苦い過去がある。忠勝の懸念に思い当たる節があるらしく、沈んだ表情を浮かべた。
 岡崎と浜松、気軽に行き来することが難しい距離にあるからこそ、不満を抱く者が現れても不思議でない。信康も幼い頃から父とは疎遠で、寂しい思いをしてきている。
 尤も、家康は自分よりも年上で勝気な性格、さらに今川家と縁の深い家から嫁いできた築山殿を苦手にしている。その築山殿が最愛の息子である信康と離れ離れになりたくないという強い意向もあり、父と母子が別に暮らしている背景がある。
「今はまだ皆が一丸となって殿を支えようとまとまっているが、これから若君が成長して父君と違う道を目指そうとなれば……想像しただけで恐ろしい」
「心配に及ばぬ。仮に若君が不穏な動きを見せれば、私の命に代えても止めてみせる。三河衆も、私の目が黒い内は好き勝手させぬ」
 忠勝の杞憂に対してはっきりとした口調で数正は言い切った。やはり家康から留守の三河を預かっている身、絶大な信頼と共に揺るぎない決意は説得力がある。
 徳川家にとって希望とも危険とも判別のつかない逸物の嫡子・信康。忠勝はその存在が次を担う稀有な人であって欲しいと心の底から祈らずにいられなかった。

 信玄死去の訃報は瞬く間に知れ渡ることとなったが、そんなこととは露とも知らない武田方は信玄健在であることを示そうと躍起になっていた。後を継いだ勝頼は、先日の西上作戦で得た拠点を足掛かりにして積極的に攻勢をかけた。天正二年には東美濃の明智城や遠江の高天神城を攻略した。
 特に高天神城は信玄存命時でも陥とせなかった難攻不落の城で、遠江における重要拠点の一つを奪われたのは徳川にとって大きな痛手であった。
「おのれ勝頼め……」
 悔しそうな表情で親指の爪を噛む家康。信玄の遺言では三年の間は内治に専念するよう伝えたとされていただけに、予想外の活発な動きに腹立たしく感じるのだろう。まだ三方ヶ原の敗戦で生じた傷は癒えておらず、高天神城へ後詰めを送るだけの余力も時間も与えてくれなかった。
「されど、我等も奥三河の奥平をこちらへ引き込むことが出来ました。今少しの辛抱です」
 康政が家康を宥めるように口を挟む。
 信玄という偉大な君主を失ったものの、その家臣団や兵は依然として手付かずで残されている。とても徳川単独で太刀打ち出来る相手ではないし、己が領地を脅かす存在として共通認識を抱いている織田に助力を求めるしか方法はない。
 その織田も畿内の石山本願寺や越前で発生した一揆などで、武田討伐に動ける状況ではない。織田が動けるようになるまで、徳川だけで凌がなければいけないのが現状だ。
「分かっておる」
 康政の指摘は家康も重々承知していた。頭では理解しているが、感情ではなかなか受け入れ難いみたいではあるが。
「まだ機は熟しておらぬ。しかし、時が来れば話は別だ。これまでの辛苦を倍にして返してやるわ」
 爪を噛みながら言い捨てる姿に、家康の凄まじい執念を感じ取った。平素は律義者の評判高いが、案外こちらの顔が真実なのかも知れない。
「だが、これ以上我が領土で好き勝手されるのも問題だ。三河・遠江の諸将に武田への迎撃態勢を整えるよう申し伝えよ」
 家康が険しい表情で居並ぶ面々に通達すると、家臣達も神妙な面持ちで応じた。

「お主は凄いな。奥平を調略で引き込むとは」
 その日の夜、忠勝は康政を自らの屋敷へ誘った。二人の前には酒の入った徳利と肴の載った膳が置かれていたが、互いに盃を一度交わしただけで話に興じている。
 忠勝が盛んに話を振るが、康政は聞き役に徹して頷くのみである。
 頃合を見て康政は盃の中身を一気に飲み干すと静かに語り始めた。
「大したことはしておらん。元々奥平は徳川に属していた者、武田の圧力もあって一旦は屈したが、心根から仕えようとは考えていなかった。故に勝算はあると踏んだ。だからそんな大仰に褒められても嬉しいとは思わない」
 かなり突き放したような言い方ではあるが、別に他意がある訳ではない。康政はありのままの気持ちを述べたまでだ。
 それは忠勝も承知しているようで、素っ気無い言い方にも「うむうむ」と大きく頷いた。同じ年齢で付き合いも長いので、言葉を重ねなくても相手の意図は十分に伝わっていた。
 康政はさらに続けた。
「御家も大きくなったのに昔と同じような役割をしていては意味がない。版図が広がり、人も多くなった。ならば分相応の働きをしなければならない。変わらねば、いつか捨てられるか置き去りにされる。それだけは勘弁だ」
 言い終えると康政は空になった盃に手酌で酒を注いでから、一気に呷る。その様を眺めながら、忠勝は思い当たる節があった。
 先の戦で武功を挙げた。しかし、それもいつまで続けられるか分からない。今日手柄を立てて喜んでいた者が、次の日には首を失って戦場に転がっている姿を、嫌と言うほど見てきた。その危うさを乗り越えて今があるが、これからも猪のように何も考えず突っ込むだけで良いとは考えていなかった。
 いつしか二人は口を閉ざしてしまい、深い沈黙が場を覆う。忠勝は膝の上に置かれた拳を見つめながら、じっと動かない。康政も盃の水面を見つめている。
 果たして、自分は康政のように上手く立ち回ることが出来るのだろうか。考えてみたが、想像がつかない。
 三河一国を治めていた頃から一貫して武辺の道を突き進んできた。ひたすら腕を磨き、戦場では誰にも負けたくない一心で突っ込んだ。それが正しいか常に疑問を抱いてきたが、目の前の敵を倒すことだけで手一杯だった。
 だが、齢を重ね、徳川の身代が膨らんでいく中で、自分の事だけ考えていれば良いとは言えなくなってきた。槍働きしか能がない人間は家中に大勢存在する。これからも殿の側に居続けるには、他の者とは違う何かが必要となる。
 酒井忠次は曲者揃いの家中を束ね、石川数正は他家との折衝に長け、鳥居元忠は独自の情報網を持ち、同朋の榊原康政もまた調略で頭角を現した。皆それぞれ武辺とは別の役割で存在感を示している。
 出世して偉くなりたいとは思わないが、一方で現状に満足はしていなかった。ただ、今後どうすれば良いか見当がつかず、途方に暮れるしかなかった。忠誠心は他の誰にも劣らないと自負するが、それだけで渡り合えるなんて甘い考えも無い。
 出口の見えない袋小路に迷い込んだ気分になって、口の中が苦いもので満たされた気持ちになる。悶々としていると不意に言葉をかけられた。
「……無理に探さなくても構わないんじゃないのか?」
 言っている意味が分からず向かいに座る康政の顔を呆然と見つめていると、盃を一旦置いてから付け加えてくれた。
「焦って闇雲に動いても良い結果に結び付くとは限らぬ。ならば時が来るのを待てばいい」
「……そうかのう」
 珍しく弱気を口にした忠勝に康政は「うむ」と力強く応じる。まるで落ち込んでいる友の背中を押すようであった。
「不器用なお主があれこれと小細工を弄しても、勝ち目は無い。家中にはその道に通じている者も少なからず居るから、そういう者に任せれば良い。いつか“お主にしか出来ない”役割が来る」
「まるで分かっているような物言いだな」
「分かるんだ。何となく、だが」
 他人の目から見て飛び抜けた才があるとまで康政は言わなかった。口にすれば自己嫌悪に陥る。『どうして自分には誇れるだけの物がないのか』と。
 康政は今のままだと御家に貢献していくのは難しいと判断したから、別の道を求めた。文治でも武辺でもその道に長じる者には敵わないが、どちらも不可分なく行えると分かったから満遍なく伸ばそうと決めた。
 ただ、忠勝は無理に今進んでいる方向性を変える必要が無い。槍働き一筋で道を極められるだけの力があるからだ。周囲が羨むだけの才能を極めれば、自然と他の役割も生まれてくる。忠勝はそんな稀有な存在だった。
「普段頭を使わぬ者が下手に考えても役に立たん。慣れないことをして足を止めるくらいなら何も考えずに動いていた方が御家の為だ。だから、お主は今まで通りに励めばいい」
 康政の言葉に一つ二つと頷いた後に、忠勝は顔を上げた。その表情は先程と比べると幾分か明るい。
「……そうだな。くよくよと悩んでいても仕方ない。ならば愚直に己の道を貫いてみるか」
 言うなり忠勝は手元で弄んでいた盃を一気に呷った。思い切りの良さが徐々に戻ってきた。単純な奴だなと康政は苦笑したが、その一方でこれこそ忠勝の強みであると感じていた。徳川家で忠義一筋の武辺者は数多く居るが、忠勝はその中でも突出した存在だった。
 そしてまた、忠勝も朋輩の飾らない言葉によって失いかけていた自信を取り戻していた。
(康政の申す通りだ。槍働きでもまだお役に立ててない分際で、他の事に手を出しても中途半端に終わるのが目に見えておる。それならば一つを究めてみるか)
 結論に至るとそれまで迷っていた姿はどこへやら、いつもの忠勝に様変わりしていた。それからは互いに差しつ差されつでゆっくりと夜が更けていった。

 翌天正三年四月。一時は沈静化していた武田が再び動き出した。狙いは徳川領の三河・遠江。総勢二万を超える軍勢を率いて、五日には奥三河の長篠城を包囲した。
 城を守る兵はおよそ五百、城を任されているのは奥平貞昌(後に信昌と改名)。信玄死去の混乱で徳川へ寝返った不届者への見せしめの意味合いも込められていた。
 家康は長篠城包囲の一報を聞くと、直ちに織田へ援軍を要請。畿内やその周辺も鎮まったのもあり、信長は三万の軍勢で救援に向かう旨を伝え、宣言通り迅速に岡崎城へ向かった。家康も兵八千を率いて岡崎へ急行する。その中には忠勝の姿も含まれていた。
 五月十五日、織田勢が岡崎城に入ると即座に軍議が開かれた。大広間には織田・徳川両軍の将が向かい合う形で座り、上座には信長と家康が座る席が並べて用意されている。
 織田方で参陣したのは家老格の柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀と錚々たる面々で、今回の一戦に賭ける思いが伝わってくる。徳川方も酒井忠次・石川数正の両家老に榊原康政・本多忠勝・大久保忠佐・鳥居元忠・内藤信成・水野勝重と主要な家臣が顔を揃え、嫡男・信康も同席していた。
 別室で小姓も遠ざけて二人で話す両家の主はまだ現れていないが、既に場は合戦前の張り詰めた空気が充満していた。これが徳川だけなら上座が空でも雑談したり会話しているのが常だが、織田は少々事情が異なるらしい。皆一様に険しい表情で唇を固く結んでいる。その雰囲気に流されるように、徳川方も黙って主の到着を待つ。
 暫くして遠くから足音が聞こえてきたので一斉に頭を下げる。上座の方から着座する物音がしたので双方の大将が到着したのを察した。
「皆の者。表を上げよ」
 発せられた声に応じて、忠勝は静かに顔を上げる。その際に気付かれぬよう上座を窺い見る。主の隣には色白で痩せた長身の男が鎮座していた。その外見には威厳が自然と滲み出ており、近付き難い雰囲気を漂わせていた。
(……あれが、織田“上総介”か)
 何度か織田と関わる機会はあったが、忠勝がその目で信長を見たのは初めてだった。
 若い頃は破天荒な行動と奇抜な格好で“うつけ”と呼ばれる程に周囲の者を呆れさせていたが、家督を継いで尾張を統一してからは数々の苦難を乗り越えて成長を続けた結果、諸大名に先んじて上洛を果たした。由緒ある延暦寺を焼き討ちしたり刃向かった幕府を滅ぼしたりと、悪評を恐れず果敢かつ大胆に行動する人物と聞いていたが……主より九歳年上にも関わらず、目鼻立ちはくっきりしており肌も瑞々しさを保っていて、年齢より若く映った。
 桶狭間の戦いで初陣した忠勝は信長が率いる本隊と交戦する機会が無く、清洲同盟を締結した際も若年ということで同席していない。姉川の戦いの際は、浅井・朝倉の動きが予想以上に早かったので軍議を開くだけの余裕は無かった。織田家との交渉は主に石川数正が務めており、武辺一筋で口下手な忠勝には同席する機会さえ与えられなかった。
「武田の様子は?」
 信長が問うと元忠が応じた。
「長篠城を囲んだまま動く気配がありませぬ」
「その長篠城の状況は?」
「五百の兵で守っていますが、武田の襲来に備えて鉄砲二百挺を与えてあります。兵糧弾薬も充分に運び入れましたので、暫くは保つかと」
 流れるような説明に信長も満足気に首肯する。
 そこへ慌しく一人の武者が駆け込んできた。
「申し上げます。長篠城より火急の使者が参りました」
「会おう」
 信長が即決すると、全身を泥や埃で汚れた男が現れた。武田も城方から放たれる密使を厳重に警戒していた中で脱出してきたことが察せられる。
「拙者、奥平貞昌の家臣で鳥居強右衛門(すねえもん)に御座います。昨晩長篠城を抜けて参りました」
 一昼夜走り通した為か額には大粒の汗が浮き、脚も震える程に疲労困憊していた。それでも荒れる息を抑えて必死に口上を述べる。
「武田勢の猛攻により兵糧蔵が焼失してしまいました。幸い水の手は問題ありませんが、このままでは数日中に兵糧が尽きて落城は必至の見込みでございます」
 強右衛門の説明に一同がざわつく。頼みの長篠城が陥ちてしまえば、再び三河は武田の脅威に晒されるのみならず、救援に出向いた織田の面子も潰されてしまう。
「城中の士気は高く、数十倍の敵を相手に一歩も引かず頑強に抵抗を続けております。何卒、お助け下さい!!」
 言い終えるなり平伏する強右衛門。その必死さから悲壮感がひしひしと伝わってくる。
 だが、五百の味方に対して二万の敵に攻められている現状は何とも覆し難い。通常の城攻めでは三倍から五倍の数で当たるのが相場だが、四十倍と遥かに凌駕している。守りに有利な地形であっても、犠牲を覚悟で無理攻めされれば瞬く間に陥ちてしまうだろう。
 なかなか判断が難しい状況ということで、満座の空気も重苦しい。出兵しても長篠城を救えず武田が兵を引けば徒労に終わるばかりだ。皆が口を閉ざす雰囲気を振り払ったのは、意外な人物だった。
「相分かった。一両日中に岡崎を出立して長篠へ向かう」
 誰一人言葉を発しない中で出た声は、当人が思っていたより大きく響いた。その人物とは、他の誰でもない信長であった。
 家康も驚きを持って信長に視線を送る中、強右衛門が「ありがたき幸せ!!」と絶叫しながら頭を下げる。皆が信長の方に注視する中、平然とした表情で信長は受け流している。今度の出征に信長自身も並々ならぬ決意を秘めているのが英断に繋がったのだろう。
「強右衛門よ、よく報せてくれた。大儀であった。暫し休むがよい」
「ありがたいお言葉ですが、拙者直ちに城へ帰って今申された事を報せたく存じます。味方が来ると分かれば、奮って武田と対峙出来ましょう」
 信長からの労いを強右衛門は首を振って固辞した。それに対して信長は「そうか」と述べるのみで、無理に引き止めなかった。強右衛門は席を暖める間もなく面前から下がっていくと、軍議が再開された。
「……今、強右衛門が申した通りだ。長篠城は一刻の猶予も残されていない。支度が整い次第、直ちに岡崎を発つ」
「されど上総介殿。相手は天下にその名を轟かせる強敵の武田ですぞ。下手に動かれるのも如何かと」
 懸念を示したのは傍らに座る家康だった。二人が並んでいるとまるで兄弟のように映る。
「心配には及ばぬ。俺に策がある」
 自信あり気に答えると「五郎左」と呼ぶ。応じたのは丹羽長秀だ。
「俺が言った物は揃っているか」
「はっ。丸太、麻縄の用意は既に万端整っております。鉄砲の方も三日以内に到着する手筈となっております」
 長秀が挙げた単語に忠勝は小首を傾げた。丸太と麻縄は戦の際に用いることが普通で、この場で敢えて確認するような品物ではない。何か意図があるのだろうか?
 すると信長は家康の方に向き直った。
「三河殿にお願いしたい」
「何なりと」
「至急、丸太と麻縄を用意して頂きたい。それと、徳川家で保有している鉄砲をありったけ掻き集めてもらいたい」
「……承知致しました。直ちに準備させます」
 信長は家康のことを敬意の念を込めて“三河殿”と呼んでいる。日本随一の勢力を有するまでに成長した織田と対等の立場を示すことで、“徳川は織田にとって特別な存在”ということを演出していた。徳川には上洛以来助力を受けているだけでなく、織田が窮地に立たされても離間することなく支え合った間柄なので丁重に扱わなければいけないという配慮が窺える。
 そして家康もまた信長の娘を嫡男の嫁に貰い、血縁関係となっても一歩引いて殊勝な姿勢を堅持していた。今や京を含めて中央を制するまでに成長した織田へ気遣う必要はあったが、それでも腰の低さは家臣の目から見ても明らかに過剰だと映った。
 家康の返事に信長は満足そうに頷くと、席を立って大広間を後にした。家康も慌ててそれに倣う。双方の大将が下がったことでこの日の軍議は散会となった。

 その後強右衛門はすぐに岡崎を発つと翌日には長篠城の近辺まで戻った。そこから城へ戻ろうと試みたが、周辺を警戒していた武田の見張り兵に見つかり、捕縛されてしまう。
 その際に「『味方は来ない。諦めて投降するように』と言え。さすればお前の命は助けてやる」と助命を条件に嘘の情報を伝えるよう取引を持ち掛けられ、強右衛門も快諾した。
 翌日。磔にされた強右衛門は「あと二、三日で三万の援軍が来る!!それまで何としても堪えるのだ!!」と真逆の内容を叫んだ。すぐに強右衛門は控えていた兵に槍でその身を貫かれて絶命したが、城兵は強右衛門の呼び掛けで大いに奮い立った。
 長篠城はさらに数日持ち堪えて見事武田を退けることとなるが、強右衛門の命と引き換えに伝えられた情報が大きな影響を与えたのは言うまでもない。

 資材や武器弾薬の調達に一日費やした織田・徳川の連合軍は五月十七日に岡崎を出発。翌十八日には長篠近くの設楽原に着陣した。武田との距離が迫っていることもあり、再び軍議が開かれる運びとなった。
「武田の様子は?」
「目立った動きは見られませぬ」
 応じたのは先日と同じく元忠。独自の諜報網は健在だった。
「長篠城の方はどうなっている?」
「食料庫を失いましたが士気は高く頑強に抵抗を続けており、流石の武田も些か手を焼いているようです。ただ……それもいつまで保つか」
「……で、あるな。飯を食わねばいつか倒れる。そうなる前に決着をつけなければならん」
 まるで謡を口ずさむように軽い調子で応じる信長。そこへ不意に割って入る声が上がる。
「上総介様。一つ申し上げたき儀があります」
 声の主は徳川家の家老、酒井忠次。無言で先を促したので忠次は懐から絵図を取り出してから切り出した。
「長篠城は現在、武田が築いた鳶ヶ巣山の砦と四つの支砦で監視されております。されど、急拵えで兵の数も多く居ません。そこで、長篠を囲む砦に奇襲を仕掛けたく存じます。武田が信濃・甲斐へ戻る道筋であり敵の背中を脅かすと共に、城に篭もる味方も救えます。何卒お許しを頂けますよう、お願い申す」
 忠次の献策に忠勝も内心で感嘆した。もし忠次の見立てが正しければ、武田へ動揺を与えられる上に味方も助けられる。今回の出兵は長篠城の兵卒を救出するのが目的だから、その意義も果たせる。武田が長篠城から兵を引けば、徳川の勝ちと世間は見るだろう。試してみるだけの価値は十二分にある。
 他の者も忠次の策に手応えを感じているようで、頻りに首を小刻みに動かしている。これは決まりかと思ったが―――
「ならぬ」
 はっきりと短い言葉で信長は却下した。その声色には強い拒絶が含まれており、前言を覆す見込みも極めて薄い。
「……何故でしょうか?」
 まさか斥けられるとは思わなかった忠次が諦めずに食い下がる。何事にも慎重な性格の忠次が提案したとなればそれだけ自信があるに違いない。
 しかし、信長も揺るぎない姿勢で反論する。
「お主の策が成立する為には、枝葉の支砦も含めて一気呵成に落とさねばならない。されど敵も奇襲を警戒しているだろうし、万が一に備えて伏兵を忍ばせているかも知れん。攻めるはずが前後を挟まれては元も子もない。しかも行軍を悟られぬよう少数に絞る必要があるから余計に刻がかかる。それ等を勘案すれば、このまま陣を構えて武田の来襲に備えるのが道理だ」
 信長が指摘した懸念は確かに筋が通っている。砦を守る者は中へ篭もって粘り強く迎撃していれば、間を置かず武田の本陣から救援が到来する。それまでの間に全ての砦を攻略しなければ全滅する危険も充分に考えられる。やや消極的ではあるが、見方に誤りはない。
「……分かりました」
 指摘された点については反論出来ず、忠次も不承不承ながら引き下がる。表情に出さないが不満そうである。
「改めて申し付ける。設楽原にて武田と相対する。柵を立て、土塁を築いて武田の来襲に備えよ。兵達に一刻も早く作事を完了させるよう急がせろ」
 最後に信長が念押しに言い放つと軍議は散会となった。信長が場から退いた後、忠次は家康に呼ばれて陣を離れていった。
 何とも後味の悪い微妙な空気に耐えかねて一人また一人と席を立っていく中、臨席していた信康が忠勝の元に近付いてきた。苛立っている様子らしく歩みが荒々しい。
「……何だあの態度は。あれが天下に鳴り響く織田の大将か」
「若様、ちと声が大きゅうございます。相手は舅殿ですぞ」
 織田方の家臣もまだ残っている中で不平不満を口に出すのは流石に不味いと思った忠勝が懸命に宥める。しかし、信康の方は一向に気にする気配を見せずに続ける。
「忠次の策は試すに値するだけの内容なのに織田様は一蹴された。あれでは忠次の面目が立たぬ。それに土塁を築いて柵を設けるとは、あまりに消極的過ぎる。腰が引けているとしか思えぬ」
「それは違います。無闇に攻めれば我方の損害が大きくなり、敗北している様を城の者が目の当たりにすれば士気に関わると考えられたのでしょう。上総介様は失敗を恐れている訳では決してありません」
 信康の過激な物言いに忠勝は懸命に擁護する。もし仮に信康の発言が信長の耳に届けば同盟に亀裂を生みかねないので必死である。慣れない宥め役に神経が擦り減る思いだ。
 忠勝の説得に信康は唇を噛む。不満は相変わらず表に出ているが、矛先が鈍ったのを好機と捉えて一気に畳み掛ける。
「若様はまだ合戦の経験も浅く、表面では分からぬ点も多いですが、戦は出来るだけ損害を少なく抑える事も考えなければなりません。その為に広い視野で物事を捉えて采を下す力が求められます。ですので、今度の件も『こういう考えがあるのか』と呑み込まれませ」
 場数を踏んでいる年長者である点を利用して、忠勝は抑え込みにかかる。やり方としては汚いかも知れないが、この場を丸く収める為には止むを得ない。
 歴戦の猛者である忠勝の言葉に信康も言い返せず、不満そうな表情を浮かべて陣を後にした。その背中を見送りながら内心安堵していると、入れ替わりで近付いてきた康政が声をかけてきた。
「お勤め、ご苦労さん」
「……骨が折れた」
 確たる芯を持っているだけに丸く収めるのに苦労した。頭で理解しても心は納得してない様子だったが。
「若の申すことも分かるがな。しかし、方向が固まっている以上は従わなければなるまい」
「与七郎殿にも不満を洩らしておった。『父上は何も言わぬのか。織田に遠慮ばかりされて、まるで腰巾着のようだ。情けない』と嘆いておられた」
「それは……」
 父子の間柄でも家康は徳川家の頭領。信康の発言は主君への反感と受け止められかねない。思ったことを率直に出す性格だけに、忠勝も聞いているだけで冷や汗が背中を伝う。
「まぁ気持ちは分からぬでもないが、立場も思考も異なるからな。殿は幼い頃から人質として常に周囲の者へ気を遣っておられたが、若様は岡崎で不自由なく育てられたから真っ直ぐな性格をされている。今や十カ国を超える太守になられた上総介様に対して、配慮する必要があることに若様は気付かれていない。あの気性がこの先に仇とならなければ良いのだが……」
 康政の口にした不安に忠勝も思い当たる節があり、心の臓が粘っこい何かが張り付いたような気持ち悪さを覚えた。その懸念が時限爆弾となり炸裂するのは、二人の予想より遠くない未来だった―――

 軍議の行われた陣幕を後にして自陣に戻ると、思わぬ人物が忠勝の帰りを待っていた。
「……遅かったな」
 淡々とした口調で呼び掛けられ、正直驚いた。持ち場も役割も異なり接点も薄いので訪ねて来るとは思いもしなかった。
「珍しいな、お主が来るとは」
 その感情の起伏に乏しい顔を眺めながら床机に腰かける。向かいに座って忠勝を待っていたのは、鳥居元忠。
 元忠は家康が駿府へ人質として送り出された際にも近習として同行しており、辛苦を共にしてきた仲で主従の絆は強く太い関係にあった。
 鳥居家は元忠の父・忠吉が三河・矢作川の水運で財を成した特殊な経緯のある家で、その成り立ちから独自の情報網を持っていたために、斥候や諜報に長じていた。
 元忠は三河武士の鑑みたいな人物で、主君への忠義の意識は殊の外篤く、無駄口を叩かず堅実に任務を全うする性格だった。
 しかし、昨年斥候として敵陣付近へ潜入した際に銃弾を足に受けてしまい、後遺症で歩行に支障を来たすようになってしまった。それでも戦となると足を引き摺りながら参陣して、自らの役目を果たすべく奔走していた。
「どうしたのだ? 何か用でもあったのか?」
「小五郎殿より、言伝を預かって参った」
 忠勝の心臓がドキリと撥ねた。忠次と言えば、先刻武田方の砦に奇襲を仕掛ける提案をしたが却下された渦中の人物ではないか。それがどうして元忠を通じて忠勝に言伝を頼もうというのだろう。確か軍議の後で殿から呼ばれていたが……。
「……今宵、秘かに一千の兵で長篠を囲む砦へ奇襲を仕掛ける。指揮するのは小五郎殿」
「何、だと?」
 先程は一考の余地なく斥けられたはずの策が、いつの間にか受け入れられている事実は俄に信じ難かった。これは明らかな命令違反であり、重臣と言えども重たい処分が科せられる可能性が極めて高い。あの慎重居士の忠次がそんな暴挙に出るなど考えられない。
「そのこと、殿は存じておるのか?」
「無論存じておる。上総介様も此度の案を承知されている。その証拠に、織田の兵一千を助力に付けて下さった」
 あの場で一蹴した信長も忠次の策を認めたばかりか自軍を割いて支援するとは。一体どういう流れでこうなったのか。
 あまりの急展開に混乱している忠勝に元忠が解説を始めた。
「当初、砦の守備が手薄と掴んだのはこの儂だ。それを小五郎殿に伝え、鳶ヶ巣山と四つの砦へ奇襲を仕掛ける策を立てた。されど、上総介様は武田の間諜が陣内に潜んでいることを警戒されていた。そこで、敢えて軍議の場で小五郎殿の献策を一蹴して偽りの情報を流した。武田に隙を作らせる為に、な」
 信長の深慮遠謀に思わず唸らざるを得なかった。常日頃から情報を扱う元忠は機密保持の重要性は認識していたが、戦場での槍働きしか能のない忠勝には敵が味方の中に潜んでいるなんて考えは全く無かった。
 咄嗟の出来事とは言え、瞬時に味方まで欺くとは凄いことだと率直に思った。
「……して、何故その話が某と関係あるのだ?」
「小五郎殿が申された。『徳川家中に勇士は多いが、武勇に於いて平八郎に勝る者は居ない。自分が長篠救援へ赴いた際に、残された主君を託せるのは平八郎以外に考えられない。くれぐれも軽挙妄動を避けて、殿の命を最優先に行動しろ』と」
「失敬な。それくらいの分別は弁えているつもりだ」
「……まぁ、小五郎殿の気持ちも分からなくもないが。姉川の合戦のように、単騎突貫されて味方をかき乱されてはたまったもんじゃない。お主は気にしていないかも知れぬが、他の者が釣られて逸る者も後を絶たぬからな」
 前科があるだけに、不承不承口を噤む。初陣から一貫して武功欲しさに暴れ回ってきた。咎められていないが、軍令に抵触するような事も一つ二つで収まらないだけ犯している。自分で気付いていないが結果として上の者の思惑と外れた展開になったこともある。
 忠次としては極力想定外の事態を避けたくて、元忠に言伝を頼んだのだろう。
「案ずるな。誓って殿の命を危うくするような真似はせぬ。最悪身代わりになってでも刻を稼ぐ所存」
「当然だ」
 自信を持って忠勝が断言すると、元忠はばっさりと斬り捨てた。頑固な性格だけに三河武士なら誰しもそう考えていると思っていても不思議でない。
 そんな元忠のぶれない姿に苦笑しながら、天を見上げた。曇天の合間から星が顔を覗かせてキラキラと瞬いていた。

 五月二十日。酒井忠次率いる別働隊二千が長篠城を包囲する砦を急襲。突然の出来事に守兵は蜂の巣を突いた騒ぎとなり、さらに別働隊の動きに呼応した長篠城の城兵が門扉を開いて突撃、武田方は大損害を出して退却した。
 この局地戦で武田方は砦を預かる将が複数討たれ、長篠城も解放されて当初の目的を達したこととなった。
 しかし、戦いはこれで終わりではない。まだ武田の総大将・勝頼を始めとした主力は長篠の付近に手付かずで残っていた。長篠城の攻略に失敗したが、設楽原に陣を張る織田・徳川と一戦交えて勝利すれば敗戦を帳消し、挽回することが可能だ。勝頼は逆転の一手に希望を託し、設楽原へ出撃することを決めた。
 偉大な統率者である信玄は死去したが、野戦における武田軍の無類の強さは今でも織田・徳川にとって恐怖の象徴であった。その武田と対峙する時が、刻一刻と近付いていた。

 翌二十一日、早暁。朝靄で辺りが霞む設楽原は四里先も見通せなかった。
 血が猛ってまだ暗い内から目が覚めた忠勝は、白一色に塗り潰された東の方角をじっと見つめていた。
――― 恐いのか? ―――
 また、あの声だ。周りに人は居るが、誰も忠勝を気にする素振りを見せる者は居ない。今日は黒夜叉にも乗っておらず、蜻蛉切を握るのみの徒士だ。
 開戦までまだ幾分か余裕はある。誰とも分からぬ声に応じた。
(正直、分からぬ。前回は戦力差があったとは言え大敗を喫した。幸い生き延びたものの、此度はどうなるか皆目見当がつかぬ。気負っている訳でもないし、昂ぶっている訳でもない。こんな気持ちは初めてだ)
 忠勝は素直に今の心境を吐露した。どんな答えが返ってくるか期待半分不安半分で待つ。
――― それで充分ではないか ―――
 意外にも肯定する返事が耳に届いた。謎の声はさらに続ける。
――― 己を過信せず慢心せず卑下せず歪まず、あくまで自然体の証だ。変に感情が混じってない分だけ、視野は広がり思考も冴えてくる。今はありのままのお前で居ろ。そうすれば光明は必ず見つかる ―――
(今日はやけに親切だな)
 忠勝が茶化すと、すぐに突っ撥ねるような返事が返ってきた。
――― ……余計なお世話だ。直に戦の幕が上がる。犬死せぬよう、精々気をつけることだな ―――
(重々承知)
 靄の中から激しく金属が擦れる音が近付いてくる。目を凝らすと徳川の旗を背負った雑兵の姿が浮かんでいた。音と共に謎の気配が薄れていく。
 やがて互いに目視で確認出来る距離になると、忠勝と識別して急いで駆け寄ってきた。
「申し上げます。この先に武田と思しき騎馬の部隊を発見しました」
「相分かった。本陣へ案内するから一緒に参るぞ」
 両雄、遂に激突する。互いの未来を賭けた大一番がいよいよ始まろうとしていた……!!

 夢を見ているのか、それとも幻想を見せられているのか。
 そう疑う程に、目の前の光景が現実のものとは信じられなかった。
 武田側から見れば丘陵のある平原を抜けると、小川を挟んで三重の馬防柵を設けた土塁。その先には無防備に晒された敵方の本陣。大将の姿もはっきりと捉えられる。
 自慢の騎馬軍団は、障害物であろうと人であろうと薙ぎ倒して突き進むだけの力は十分に擁していたし、過去に数え切れない程に障壁を乗り越えてきた。急拵えで設けられた柵を突破すれば、容易く勝利を掴める―――筈だった。
 最強と謳われた騎馬軍団の行く手を阻んだのは柵ではなく、小さな鉛の玉だった。
「放て!!」
 組頭が手にした旗を振り下ろすと同時に、百雷が一挙に落ちたような轟音が辺りに轟く。立ち昇る白煙で視界は遮られるが、煙の先から呻き声や馬の嘶きが断末魔の叫びとなって聞こえてくる。
 しかし、それも束の間で既に組頭の手は頭上に戻っている。
「放て!!」
 喧騒に負けじと叫ぶように発すると、再び無数の破裂音が木霊する。硝煙の臭いが鼻を衝くが、その刺激臭があるからこそ自分達が守られているのだ。
 馬防柵の前には鉄砲を手にする兵が一列に並ぶ。その後ろにも同じように鉄砲を捧げる列、さらにその後ろにも同様の列。三段に分けられた兵は全員鉄砲の放ち手だ。さらにその後方には弓隊や長槍を持った部隊も控えているが、目の前で行われている戦闘を傍観するのみであった。
 最前列は発射、中列は弾薬を装填、最後列は筒の掃除。発射後は速やかに最後列へ回り、他の部隊はそれぞれ一つ前の列へ前進して次の段取りを行う。
 効率的な仕組みを構築したことにより、各自がそれぞれ与えられた作業に集中することで迅速かつ的確に行うことを可能とした。単純作業化したことで、放ち手の技量に関係なく均一に精度の高い攻撃を切れ目なく行えるようになったのである。
 鉄砲の弱点は発射後に筒内の煤を取り除いた上で、改めて弾と火薬を詰める必要があった。掃除しなければ射程距離が短くなったり暴発したりする恐れがあるので、欠かすことが出来ない。発射してから次に撃つまで手間が掛かる為に、同じ飛び道具の弓より使い勝手は劣る、というのが一般的な見解だった。熟練の放ち手となれば再装填までの間隔を短縮出来たが、それでも弓矢の方が主戦力だった。
 威力も有効射程距離も上回るが、命中精度も低く扱いが難しい……これこそ鉄砲が普及しない悩みの種だった。
 それ等の課題を見事に解決させたのが“三段撃ち”の仕組みだった。大多数が一列になり一斉に発射するので、外れる数が多くても目標には命中する。正確に狙わなくても済むので放ち手の気持ちにも余裕が生まれ、落ち着いて引き金を絞れる。それに筒を掃除している間も弾薬を装填している間も敵に襲われる危険が無いのも好循環に結び付いた。加えて、与えられた指示も簡単で、誰にでも理解出来たので混乱も生まれない。
 忠勝は鉄砲隊の奥で出番が来るのを待っていたが……戦況を見守る内に虚しさを覚えた。
 無敵と謳われた武田の騎馬軍団でさえ、こうも簡単に崩れるものなのか。名のある猛者を求めて敵中へ一騎駆けしてきた己の姿が、目前で名も無い雑兵の放った鉛玉に貫かれて倒れていく武者と重なって映った。誰が仕留めたか分からなければ、武功として認められない。それを是とするならば、今後どうやって戦に臨めばいいのだ。
 そこへ慌しく一人の武者が駆け寄ってきた。
「申し上げます。武田方右翼の一隊が大きく迂回して我が陣に迫っております。旗印から恐らく山県勢かと」
 中央部で引き付けている間に射程範囲の外から回り込んだようだ。流石は武田、戦国最強と謳われるだけはある。
 しかも相手は信玄より薫陶を受けた山県昌景の部隊。もし仮に騎馬軍団が柵の内側に入り込んだ場合、現場は大混乱に陥るだろう。
「本多隊に告げる。これより山県勢を迎え撃つ」
 忠勝は自らの隊で迎撃することを即断した。それと共に急報を知らせてくれた武者に声をかける。
「これより殿へ急ぎ伝えてくれないか。『本多忠勝以下百五十名で迎え撃つ』と」
「承知」
 これで本陣には緊急事態が伝わるはずだ。各自で臨機応変に采を振るうのは認められていたが、万が一に備えるに越したことはない。本陣へ走っていく武者の背中を見届けると、忠勝は短く告げた。
「行くぞ」
 本多隊百五十名が応と答えると、忠勝は力強く一歩を踏み出した。主を守る使命感と、武田と再び対峙する興奮で胸が満ち、静かな闘志で身を焦がす思いであった。

 山県昌景の兵は兜から鎧、具足に至るまで全て朱色で統一されており、その無類の強さも相まって“赤備え”として恐れられていた。遠くからでもはっきりと分かる鮮やか朱色の一団は、紛うことなく山県勢であった。しかし、今日見る赤備えはどこか悲壮感を漂わせているように忠勝の目に映った。
 馬防柵の端や切れ目から敵が自陣内に侵入しないよう兵を配していたが、犠牲を顧みない捨て身の山県勢は勢いを落とすことなく猛進してくる。出足を止めようと矢を放つが、体に矢が刺さっても構わず迫ってくる姿に、兵も恐怖で顔を青白くしていた。
「弓兵、下がれ」
 忠勝が声をかけると一目散に後方へ下がっていく。替わりに前へ進み出たのは本多隊に属する十数名の鉄砲の放ち手。
「合図と共に斉射後、直ちに下がれ。二発目の準備が整い次第、下知があるまで待機せよ」
 鉄砲は引き金を引けば次に撃てるようになるまで若干の時間を必要とする。人海戦術で間を補っていた時とは状況が異なる。死に物狂いで向かってくる敵に対処するには、鉄砲では些か分が悪い。
 忠勝はさらに矢継ぎ早に指示を出していく。
「弓兵は矢を番えて待つように。鉄砲の発射音を聞いてから放て。その後はいつでも放てるよう支度を整えて指示があるまで待て」
 殺傷能力では鉄砲に劣るが、距離の離れている相手に対して有効な対抗手段である弓も活用していく。但し、連射はさせず間合いを詰められた場合に随時対応させることとする。
「槍兵は陣内で待て。敵が侵入するのを食い止めよ。騎馬武者ならびに足軽兵は、頃合を図って陣外へ出て山県勢を迎え撃つ」
 織田の影響で近年導入された長槍の部隊は、構えているだけで相手を威圧するだけでなく守りにも長じているので、陣内に留めておく。そして、残りの部隊は向かって来る敵と全力で相対する。鉄砲の援護も受けながら突破されないよう最大限尽力する。
 多数の馬蹄が土を削りながら近付いてくる様は、地鳴りのようにも聞こえる。刻一刻と鮮明になっていく真紅の波を眺めながら、忠勝は発射の機会をじっと窺う。体の底から這い上がる恐怖を懸命に堪えながら冷静さを保つよう努力する。
 そして、武田の騎馬隊が射程範囲に入った。
「放て!!」
 直後、一斉に銃口が火を噴く。先頭を走っていた騎馬武者数名が銃弾に撃ち抜かれて馬上から転がり落ちるが、全体の勢いは衰えず猛進してくる。続けて弓隊が矢を放つが、こちらも効果は限定的で、怯む気配は全く見せない。相手は命を捨てて敵陣に襲い掛かる突貫、なので止まらないのは想定済だ。
「長槍隊は一列となり出入口を固めよ! 騎馬隊、足軽隊、かかれ!!」
 忠勝の命令を皮切りに、兵達が咆哮を上げて勢いよく駆けて行く。是が非でも柵の内側へ雪崩れ込みたい武田勢と、何としても死守したい徳川勢が交錯して、両軍入り乱れた激戦が展開される。その様子を忠勝は陣の内側で見守る。
 本来であれば忠勝が真っ先に陣の外へ飛び出していくが、今回は自重する。
(今は御家の命運を握る大事な一戦だ。手柄欲しさに突っ込む猪武者のような振る舞いは避けなければならん)
 忠次の戒めが、功名を欲する自分への自制心となって機能している。
 今の自分は一部隊を預かる身。采配を放り出して敵中へ攻め入る真似をしてはならない。
 ただ、味方が懸命に戦っている姿を目にすると、武人の血が騒いで“戦いたい”と体中が疼く。蜻蛉切を掴む手が自然と力が入る。
 早朝に開戦してから数刻が経つが、山県隊は疲れを見せず徳川勢と互角の勝負を繰り広げていた。武田もまた今回の戦に並々ならぬ思いで臨んでいるから必死である。
 本多隊と山県隊が激突して暫く経過したが、山県隊の鬼気迫る勢いに押され気味である。このままでは不味いと本能的に感じた忠勝は、無意識の内に一歩二歩と前へ出る。
 このまま距離を詰められると同士討ちの恐れから鉄砲も弓も使えなくなり、不測の事態が起こらないとも限らない。数々の修羅場を生き抜いてきた武田の底力次第で、総崩れになる可能性も十分有り得る。
 打開策を懸命に探していると、急に閃くものがあった。
「鉄砲隊の支度はどうなっている!?」
「命じられた通り、万端整っております」
 先程出端を挫く目的で発射させた鉄砲隊は、火縄を消さず弾薬を詰めた状態で待機させていた。控えていた者の返答を聞いて忠勝は即座に下知する。
「これより直ちに陣外へ出て山県勢の横っ腹へ撃ち掛けよ! 発射次第即座に撤収しろ! 相手が向かって来ても反撃せず帰陣を優先するように!」
 これまで陣地の中から発射されていた鉄砲隊を陣の外へ展開させる、大胆な策である。脇腹を突く射撃の効果は期待出来るが、反面無防備な状態で晒されるので貴重な鉄砲隊を失う恐れもある。痛手を承知の勝負手だった。
「場所、発射の時機は全て一任する。必ず仕留めよ」
「……畏まりました」
 忠勝の緊迫した雰囲気に、伝令の武者も表情を引き締める。急ぎその場を後にした伝令の背中を一目確かめると、再び戦場へ目を向ける。一進一退の攻防を続けているが、山県隊に他の隊が加勢すればどうなるか分からなくなる。一刻も早く退けなければならないが、気持ちばかり急いて身を焦がす思いだ。
 と、乱戦の隙間から十数騎の武者が抜け出した。他に遮る者はおらず、一心不乱に柵へ目掛けて突撃してくる。
「長槍隊、柵の手前に並べ!!槍の穂を下げて待て!!」
 赤備えの武者が飛び出したのと同時に忠勝が叫んだ。それに応じて長槍を手にした兵達が馬防柵の前に整列する。
「馬に乗っている者は狙うな。馬の首や胴を刺せ。落馬した所を仕留めるのだ」
 動く獲物を仕留めるには鍛錬と呼吸が要求されるが、個々の技量が異なる兵に求めるのは難しい。そのため、柄の長さを活かして馬を先に仕留めてから倒すのだ。騎乗している武者は小回りの利く短い槍を用いる者が多いので、長さで勝る味方が優位に立てるはずだ。
 そうこうしている間に、山県隊の武者が柵目掛けて突進してくる。
「今だ!!槍を起こせ!!」
 忠勝の合図で一斉に伏せていた槍を柵の隙間から突き出す。槍の穂で体を突き刺されて棒立ちになる馬や、突然出現した槍の穂に驚き興奮して暴れだす馬が続出して、振り落とされる者も数人居た。すぐに立ち上がって武器を手に襲い掛かるが、次々と長槍の餌食となって倒れていく。混乱する馬を宥めようと試みる猛者も少なくないが、とても応戦するどころではない。
 そこへ追い討ちをかけるように、鉄砲の発射音が木霊した。徳川勢と四つに組んでいる最中に側面を突かれ、山県勢にも動揺が広がる。足が止まったと見た徳川勢はこれを好機とばかりに奮い立つ。
 すると遠くから法螺貝の音が聞こえると、全身赤で統一された敵兵が後方へと引き返し始めた。追撃しようとする徳川の兵を、一人の騎馬武者を中心とした数十騎の集団が踏み留まって返り討ちにしている。
 風向きが変わったのを悟った忠勝が「深追いはするな」と伝令に告げると、前線で暴れていた兵も潮時と見たのか徐々に自陣へ戻ってきた。
 波が引くように山県勢の大半が撤収すると、後に残ったのは最後まで留まった一固まりの集団だけとなった。
 柵の内側から見ていた忠勝は、その手際の良さに敵ながら天晴れと感服していた。退き陣は最も難しいとされるだけに、鮮やかな捌きに忠勝も惚れ惚れとしながら、集団の先頭に立つ男を見つめていた。
 身に着けている鎧兜は遠目でも凝った逸品と分かるし、馬もまた泰然としてどっしり構えている。手にしているのは槍か。相手もこちらの方に視線を向けて動こうとしない。
 それから一人また一人と去っていき、最後に先頭に立っていた男が殿となって引き揚げていった。
 この男こそ、信玄が認めた功臣であり赤備え隊の統領である山県昌景だった。
(……清々しいくらいの負けだな)
 一縷の望みを託して徳川方の守りが手薄な箇所を攻めたが不発に終わってしまった。鹿の角をあしらった兜に黒の具足に身を包んだ姿を一見して昌景は守将の忠勝だと分かった。
 此度の合戦では自分達の強さを過信したことが仇となり、多くの勇士と兵を失う結果となった。たった四年で立場が逆転したことを昌景は痛切に感じていた。
 一方の忠勝もまた対峙する武者が昌景とは知らなかったが、その立ち振る舞いから常勝武田を支えた歴戦の猛者であることを悟った。そうした御仁と直接槍合わせすることが叶わなかったことが、残念でならなかった。
 武者は全員が引いたのを確かめると、悠々と馬首を翻して立ち去っていった。忠勝はその姿が遠く彼方に消えるまで、目を離すことが出来なかった。

 山県勢が退却したのを確認すると忠勝は引き続き警戒を怠らないよう指示して、報告の為に本陣の家康の元へ向かった。中央部ではまだ戦闘が継続しているらしく、遠くから断続的に発砲音が聞こえてくる。
「おぉ、忠勝か。待っておったぞ」
 忠勝の姿を目にすると、家康は表情を綻ばせた。嫡男・信康も同席している。
「あの“赤備え”で有名な山県勢が攻めてきたと聞いて心配していた。忠勝のおかげだ」
「とんでもない。某は何もしておりません。そのお言葉は戦った兵達におかけ下さい」
 柵の内側から指揮していただけで、敵と刃を交えていない身で褒められるのは違うと忠勝は考えた。
 これまでは武功第一で我武者羅に敵中へ突貫していたが、今回は守将として慣れない用兵術を駆使して一部隊を指揮したのは、これまでにない経験だった。戦場独特の呼吸や駆け引きで他者に負けない自信はあったが、今回はそれが役に立ったのも大きな収穫だった。
「疲れたであろう。代わりの者に任せて、少し休むがよい」
 家康が労いの言葉をかけたが、忠勝は頑なに固辞した。
「いえ。皆が働いている中で某だけ休むわけには参りません。直ちに前線へ戻る所存」
 先程まで戦闘を繰り広げていた余韻か、気持ちが昂ぶっているせいか疲労は全く感じていなかった。戦場は生き物で、僅かな機微で状況が大きく様変わりする。動ける人間は不測の事態に備えて、前線へ置くに限る。
 幾度も戦場を経験してきた家康も、忠勝の固辞を無理に引き止めようとはしなかった。
「左様か。済まぬがもう少しの辛抱だ。くれぐれも、頼む」
「承知」
 側に控える信康から熱い視線が送られているのも肌で感じていた。主君親子に一礼すると忠勝は本陣を後にした。
 前線へ復帰すると、戦況に変化は無かった。迫って来る武田の兵に対して間断なく射撃が行われていた。
「状況は?」
 忠勝が近くに居た組頭に問うと、組頭ははきはきと応えた。
「一時は向かって来る兵が少なくなりましたが、ここに来て息を吹き返したのか人数を投入して攻め懸けてきています」
「……ふむ」
 忠勝が今居る場所の彼方向こう、設楽原の東に陣取る総大将の位置を示す大旗の麓は不気味なくらいに静かであった。対照的に徳川と織田の陣地へ向けて続々と将兵が殺到している。犠牲を顧みない無謀な攻めに、忠勝は違和感を覚えた。
 ある推測が浮かんだ忠勝は、組頭の方を向いて短く指示を出した。
「長時間の戦闘で皆も疲れていると思うが、ここが踏ん張りどころだ。最後の一人を討ち取るまで気を緩めぬよう伝えよ」
 気持ちが張り詰めている状態が断続的に続くと、不意に集中が切れる場面が必ず訪れる。そういう時に敵が押し寄せると普段以上に動揺してしまい、自陣が混乱する場合がある。
 忠勝は釘を刺すと、その場を離れてある人物を探しに出た。気になることがあるから至急調べてもらいたい。その為に必要な人物は、思いの外早く見つかった。
 鳥居元忠。徳川家の斥候を一手に任されている男だ。
「……平八郎か。何用だ」
「急ぎ調べてほしいことがある。相手の総大将・勝頼の所在を知りたい」
「それなら今、物見から報告が届いた」
 一旦話を区切ると、人目の付かない場所まで移動してから声を落として明かしてくれた。
「……後詰めしていた親類衆の穴山信君と武田信廉が旗色悪しと早々に離脱した。昨日長篠城を囲っていた砦が陥ちたのもあり、退路を塞がれるのを恐れての行動と見ている。それに釣られる形で勝頼も目立たぬよう少人数で退却したようだ。ただ、こちらは確認待ちだが……お主、どうして勝頼が引いたと分かった?」
 鋭い眼光で元忠が問い質すと、忠勝は事も無げに答えた。
「敵の攻めが些か噛み合ってないのが気になった。前線では苛烈な勢いで攻めかかっているのに後方は水を打ったように静かだった。考えられるのは、身を挺して大将を逃す時間を稼ぐこと」
 忠勝の推察に元忠は唸り声を上げた。当て推量だったが外れてないらしい。
 大局的に物事を捉えるのは苦手だが、戦場での些細な変化を察知する能力や勘は長けていた。あとは長年の経験から大体の結論を導いていけばいい。
「そうか。既に勝頼は退却したか……」
 忠勝は小さな声で漏らした。合戦が終わることに安堵した訳ではなく、この先に待ち受ける悲しい結末を思っての呟きであった。
 敵は一人でも多く道連れにしようと死に物狂いで襲い掛かってくる。俗に“死兵”と呼ばれるが、生への執着を捨てている分だけ死の恐怖を恐れず最期の瞬間まで闘志を失わない厄介な相手だ。
 忠勝は死兵の集団と化した武田の残存部隊の攻めを如何に損害を少なく凌ぐか、その一心で頭が一杯になっていた。

 開戦から四刻余り経過した昼過ぎ、遂に設楽原の東方に陣取っていた武田の本隊が撤退を始めた。織田・徳川の一部が追撃の動きを見せるも、信長から『追撃不要』の指示が即座に出たため、兵を引くこととなった。
 この戦いにより織田・徳川方の死傷者は前日の鳶ヶ巣山砦等への奇襲戦も含めて千人前後だったのに対して、武田方の死傷者は一万を超えた。しかも、信玄の頃から武田の黄金期を支えてきた内藤昌秀や馬場信春・山県昌景といった重臣や、今後の武田を支えていく有望株の真田信綱や原昌胤・土屋昌続が戦死するなど、数字以上に甚大な痛手を被った。
 信玄の代から武田家を支えてきた老臣と先代の威光に劣らぬよう誇示したい勝頼の間で認識の溝があったが、長篠の合戦により武田家の屋台骨が大きく揺らぐ程に多数の勇士を喪う結果となった。天下に鳴り響く無敵の騎馬軍団が壊滅的打撃を受けたのも相まって、これ以降挽回する機会も訪れず衰退の一途を辿ることとなる。
 設楽原の一帯は激戦を象徴するように武田方の旗指物や刀槍の類、そして無数に転がる人馬の死体で埋め尽くされた。その中を、価値ある刀剣や鎧を求めて湧き出した戦場狩りの連中が蠢いていた。また、設楽原を流れる小川は死傷者の血が流入した影響で真っ赤に染まったとする逸話が残っている。
 すっかり静まった設楽原を目の前にして、忠勝は複雑な表情でじっと立っていた。
「平八郎様、如何されましたか?」
 ただならぬ様子に忠勝の家臣・都築秀綱が声をかけた。その後ろには同じく家臣の梶勝忠も心配そうな表情を浮かべている。
 都築秀綱は元々今川家の家臣だったが、永禄十一年に遠江へ侵攻した際に徳川へ臣従。姉川の合戦でも武功を挙げ、後に忠勝の与力として加わった。梶勝忠は元々家康の使番として仕えていたが、永禄九年に忠勝が旗本先手役に抜擢されたのに伴い、忠勝の与力として加入した。
 どちらも代々仕えている家臣ではないが、家康の側近くに侍ることの多い忠勝の不在を埋める頼もしい存在であった。
 秀綱の呼び掛けに忠勝は反応を示したものの、視線は変わらず戦場の方を向いていた。暫く無言だったが、やがて重い口を開いた。
「……此度の戦で、有名無名問わず数多くの歴戦の武者が散っていってしまった。そう考えると勝利した喜びよりも虚しさや惜しい気持ちが強くて、な」
 それから一つ長い息を吐くと、普段の忠勝から考えられないくらいに弱々しい声色でぽつりと漏らした。
「……もしかすると、今後の戦いで今日のように血が騒ぐことは二度と無いかも知れぬ」
 この一戦に対して忠勝は過去と比べ様のないくらい意気込んで臨んだ。一言坂では主君を逃す為に絶体絶命の危機を乗り切り、三方ヶ原では力の差を否が応にも突きつけられた。
 今川を滅亡させた後の徳川家にとって、武田は巨大な壁だった。それは信玄が死去しても変わらず、絶対的な強敵として心に刻み込まれていた。だからこそ今回の戦では身を焦がす程に激しい闘志で挑んだ。
 しかし……行く手を阻む障害物を全て呑み込む大津波のように思っていた武田は、拍子抜けするくらいに呆気なく崩れ去ってしまった。それも生死の境が紙一重の差ではなく、幼子が見ても分かる程に圧倒的な大差で。忠勝自身も敵と槍を交えることなく、誰が撃ったか分からない鉛玉の前に倒れていくのを眺めているだけだった。
 当然のことながら達成感も無ければ、手応えも無い。勝った事実を未だに信じられない自分が居た。
 今日のように鉄砲が戦の主戦力となるならば、自分のような武人は明日からどう生きていけばいいのか。命を擦り減らすような猛者と手合わせする日の為に日夜厳しい鍛錬を積んでも、鉄砲玉の前では全くの無意味ではないか。
 生き甲斐は、存在価値は、果たして存在するのだろうか。
 忠勝は答えの見つからない霧の中に迷い込んだ気分に陥っていた。
 忠勝の心中を察して秀綱と勝忠は何も答えられずにいると、家康からの使番と思われる武者が近付いてきた。
「本多平八郎様、こちらにいらっしゃいましたか。殿がお召しです。急ぎ、本陣へ」
「……相分かった。すぐに参る」
 捉えようのない自分の気持ちを振り払うように、腹に力を込めて応じる。
 恐らく、今芽生えた感情はこれからずっと向き合わなければならないのだろう。それなら今すぐに答えを導き出さなくても構わない。一旦頭の片隅に置いておこう。
 忠勝は自らの役割を全うした。今日散っていった無数の勇士達に敬意と鎮魂の念を表すべく、瞑目して合掌する。敵味方で争ったが、立派な戦振りだった。その気持ちをどうしても形として示したかった。
 三度念仏を口の中で唱えてから瞼を上げる。その瞳に先程まで浮かんでいた迷いの色は一切消えていた。今日の戦で命を散らした者達に背を向け、本陣へ向かうべく一歩を踏み出した。
 設楽原で日中ずっと続いた喧しさは嘘のように静まり返り、草花が風で揺れる音しか聞こえなかった。

 長篠の合戦は、大量の火縄銃とそれを活かす工夫によって絶対的な大差をつけて織田・徳川連合軍の勝利で幕を閉じた。
 その勢いのまま武田の領地へ攻め込むような真似はせず、織田は尾張へと引き揚げていった。畿内では石山本願寺が頑強に抵抗を続けていたし、北陸や中国など各方面への対処も必要だったので武田を徹底的に叩くために長期遠征するだけの余力はまだ無かった。一方の徳川も、まだ単独で武田と対峙するだけの力は持ち合わせていなかった。
 多数の将兵を喪失して戦国最強の評判に傷のついた武田は凋落の傾向が色濃く出ており、熟した柿が枝から落ちるのを待つように放置しても問題ないところまで衰退していた。
 力を大きく削がれた今こそ、徳川にとって奪われた城や領地を奪還する絶好の機会だ。一つ一つ取り返していくことで、武田の体力をじわりじわりと削っていく方針で一致した。
 忠勝も徳川勢の反転攻勢に従軍し、武功を積み重ねていった。長篠の合戦で抱いた感情に一旦蓋をして眼前の敵を倒すことに集中した。変わった点と言えば、戦に挑む際に首から大きな数珠をぶら下げ、戦が終わると敵味方を問わず手を合わせるようになったことか。


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