二 :一言坂の死闘




 忠勝は衰退著しい今川の領地である隣国の遠江侵攻にも随行、賜った蜻蛉切と共に武功を挙げていった。家康は東へ勢力を拡大するべく本拠地を岡崎から遠江の浜松へ移し、忠勝ら三河譜代の家臣達もそれに帯同した。
 浜松城は岡崎城とは異なり、石垣をしっかりと組み小さいながら天守を設け、さらに城の周囲を堀で囲った上で水を入れる念の入った仕様であった。新領主として影響力を領民に広く誇示する目的の他に、来るべき敵への備えと見る者が多い。ただ、城中に限れば簡素にまとめられており、必要以上に金をかけていない。
 屋敷の内にある中庭では家康が稽古用の木槍を手にして鍛錬に励んでいた。相手をするのは、戦場で無双の働きを見せる忠勝。
「ちょっ、待った!!」
「待ったなしと申したぞ!」
 一方的に押し込まれている側が窮した様子で「待った」を要求するも受け付けない。防戦一方の相手は遂に槍から手を放して参ったを宣言。勝負は圧倒的だった。
「ははは、これでは稽古にならぬぞ。忠勝」
 愉快そうに笑う家康。小姓から手拭いを受け取ると、全身から噴き出す汗を拭いていく。
 一方で、申し訳なさそうに下を向いているのは、徳川家で一二を争う槍の遣い手である忠勝。戦場では無類の強さを誇る武人も、稽古となると途端に弱くなってしまう。それも手加減している訳ではなく全力でぶつかっているにも関わらず、だ。
「誠に申し訳ありませぬ……」
 しょげている様を目の当たりにして、家康も調子に乗り過ぎたと反省する。一方的に苛めて自信を喪失させては元も子もない。
「いや、儂もつい言い過ぎた。許せ」
 謝罪の言葉を口にすると頭を下げた。他の家では主君が家臣に頭を下げるなど考えられないが、これが徳川の家風であった。
 幼い頃、家康(幼名:竹千代)は今川へ人質として送られた。その際に年齢が近い家臣の息子が付き人として駿河の駿府へ同行した。酒井忠次、鳥居元忠、石川数正などがそうである。今川の属国から送られてきた人質という関係上、酷い扱いや悔しい思いを数え切れない程に味わったが主従は互いに励まし合い、血は繋がらなくても兄弟以上の太く強い絆で結ばれた。その結果、徳川家は他家に類を見ない結束力を保っていた。それは家康より下の世代である忠勝に対しても同様だった。
その気持ちはありがたいが、いつまでも主君に頭を下げさせておく訳にもいかない。
「誰か、殿に水を持って来て参れ」
 忠勝が機転を利かして小姓を呼ぶと、すぐに竹筒を手にした小姓が飛んできた。別の小姓も忠勝に水を絞った手拭いを渡してきた。
 濡れ縁に二人で並んで腰かける。両者言葉を交わす訳でもなく、ゆったりと空を眺めていた。熱を含んだ体を吹き抜ける風が心地いい。
「……静かだのう」
 家康が呟くと、忠勝も無言で頷いた。
「こうして中庭で槍の稽古をしていても、誰かに邪魔される心配なく没頭することが出来る。民は何も恐れる事なく土を耕し、商いに集中し、日々の営みが行われる。平凡で退屈な時こそ、最も価値のある尊い事だと思わないか?」
「……生憎ながら某は小難しい事を考えるのは苦手でして」
「ならば聞いてくれるだけで構わぬ」
 家康はにこやかに微笑むと、再び話を始めた。
「儂の中には“業”が潜んでいる。知りたいのだ、あらゆる事象を。学んで、感じて、考えて」
 家康は、この時代に珍しい文化人であった。今川への人質時代に、当主の義元を支える参謀として辣腕を振るった僧・太原雪斎から教えを受けて以来、様々な書物を好んで読み耽った。読み書きさえ出来れば充分という認識の武士が大多数を占める中で、自ら積極的に学ぼうとする意欲を持つ稀少な人物だった。
 部屋に閉じ篭って書物を読み耽るだけでなく、武術の修得にも意欲的だった。馬術や弓術といった戦国武将の嗜みに留まらず、まだ一般的に広く普及していなかった鉄砲術や剣術、一説によれば忍術も会得したとする話もある。特に剣術の修得には熱心だったとされ、師から免許皆伝に匹敵する扱いを受けたとされる。但し、当時は『武将が一騎駆けの端武者が用いるような技能は不用、寧ろ邪道』と敬遠されていたのだが……。
「それだけ知って『何か役に立つのか』と問われても、儂には答えられない。もしかしたら意味が無いかもしれない。されど、知っておけば将来的に知識を活用する機会が訪れるかも分からない。儂が望んで行っているものか“業”の所業か定かではないが、今後も知ることについては貪欲に続けていきたい。それが唯一の楽しみだからな」
「殿は生粋のケチですからのう」
 忠勝が茶化すと、家康は「やかましい」と一蹴する。
 家康の倹約志向は徹底されていた。下帯(今で言う下着)は汚れても目立たない薄黄色、衣服が多少破れたり解れたりしても修繕して使う、弓の稽古で用いる藁束は何度も再利用、さらに普段の食事も白米ではなく麦飯。ある時、家臣が機転を利かして白飯を出した際には『身の丈に合わぬ贅沢をして家を傾けるつもりか』と逆に叱責した、という逸話も残されている程だ。
 ちなみに貧乏性なのは終生変わらず、天下を獲った後も懐紙が風で飛ばされたため、庭まで追いかけた……とされる。岡崎城に保管されていた旧式の鎧兜も捨てずに残しておいたのも、生来の吝嗇の影響だったかもしれない。
「……ただ、この平穏は一時の凪みたいなものだ」
 それまで明るい表情を見せていた家康だったが、一瞬の内に主君の顔に戻っていた。
「東が少々怪しくなってきましたな」
 同意するように忠勝も表情を引き締める。東、即ち武田の動きが活発になってきたのだ。
 東海地方にその名を轟かせた今川義元が桶狭間で討たれて以降、今川家の勢力は急速に衰えてしまった。これを好機と捉えた武田は、徳川と手を結んで、今川領を侵攻する事を提案した。山に囲まれた甲斐・信濃の二国を領有する武田は海に面する土地を欲していたし、徳川もまた版図拡大を狙って東へ勢力を伸ばそうとしていた。そうした点で両者の思惑は一致していた。大井川を境にして西を徳川、東を武田が治めることで合意した。
 しかし、駿河一国を手に入れた武田ではあったが、決して満足はしていなかった。密かに武田の兵を大井川より西の徳川領に出没させたり、遠江に間者を派遣したりと不穏な動きを見せていた。隙あらば掠め取ろうと虎視眈々と狙っているのだ。そんな飢えた虎と接している以上、警戒を怠る訳にはいかない。
「忠勝よ。ここだけの話になるが、近々嵐が来るぞ」
 家康の口から明かされた内容に緊張が走る。戦国最強と謳われた武田が、遂に動く。
 末端に至るまで精悍で知られる兵士、行く手を阻む者は全て薙ぎ倒す騎馬軍団、経験豊富で指揮統率の面でも秀でている武将、そして変幻自在に将兵を操り数多の勝利へと導いてきた総大将・武田信玄。
 その強さは風聞で伝わってきた話になるが、最早神懸かっているとしか言い表し様がない。甲斐を治める大名だった信玄は手始めに諏訪を手中に収めると、小規模な国人が群雄割拠していた信濃の大半を支配下に収めた。さらに戦で無類の強さを誇り“軍神”として崇め恐れられた上杉謙信と五度に渡り互角の戦いを繰り広げ、一度として負けることは無かった。今では版図を上野から飛騨にまで及ぶ一大勢力になるまで成長を遂げていた。
 武田の強さの源は、本国の甲斐が山に囲まれ耕作地に恵まれない貧しい国であるという点だ。徳川も似たような環境だが、三河は海に面している上に東海道が通っているのでまだ良かった。武田が生き残る為には他国を侵略するしか方法は無く、他国から攻め込まれる状況に陥れば滅亡も同然であった。信濃でも過酷な環境は同じだったので、下卒に至るまで兵は逞しかった。
 自らが豊かになる為には勝ち残らなければならない。だから強くなる。
 もし仮に徳川がもっと前から武田と国境を接していたとしたら―――間違いなく武田の軍門に下っていたか、滅ぼされていたことあろう。
 徳川方も度重なる戦を経験したことで、今川に従属していた頃から比べれば遥かに強くなっていたし、旧今川領を吸収したことで動員可能な人員も大幅に増えた。しかし、無類の強さを誇る武田との戦力差が今現在どのくらいあるのか、全く見当がつかない。
「……だが、儂は負けぬぞ。どんなに厳しい戦いになっても、必ず生きてみせる。儂の中の“業”が満たされるまで死ねぬ。まだまだ知らぬ事がこの世には沢山あるからな」
 淡々と語る家康の瞳には、揺るぎない意志の炎が赤々と灯っていた。普段は頼りなく感じる家康の並々ならぬ決意に、忠勝もまた表情を引き締めた。

 元亀三年十月。遂に武田が動いた。
 今川滅亡に伴い関係が悪化していた関東の北条と去年再び同盟を結び、十五代将軍・足利義昭の仲介で石山本願寺の当主・顕如に働きかけ、越後で一向一揆を発生させて強敵・上杉謙信の足止めを図った。これにより長期出征しても本国を脅かされる心配は払拭され、全軍を西へ向ける下地が整ったことになる。
 秋山信友率いる一隊は信濃の伊那から美濃の岩村城を攻め、山県昌景率いる一隊は信濃から奥三河へと進軍させた。そして、総大将の信玄は三万を超える軍勢を率いて遠江へと侵攻する。
 武田が遠江に入ったとする情報が拡散されると一部の遠江国人が寝返ったものの、大半の者は徳川に臣従していた。これは徳川にとって嬉しい材料であった。
 家康は武田への対抗策を話し合うべく、浜松城に諸将を召集して軍議を開催した。
 中央の机上に遠江の絵図が広げられ、主要な城名と色づけされた駒で状況を確認していたところへ、物見に出ていた兵が部屋へ入ってきた。
「申し上げます。敵勢、二俣へ向けて進軍中にございます」
「二俣か……」
 報告を受けた家康は苦い顔になる。二俣城は浜松城・掛川城・高天神城といった遠江の重要拠点を繋ぐ要所であり、ここを失えば三箇所の連携が取れなくなってしまう。二俣を陥とされれば、一旦落ち着いた造反の動きが再び起きる恐れがある。
 流石は天下に名を轟かせる武田勢、狙いが的確である。
「殿」
 静まり返った議場で声を発したのは忠勝であった。
「某が手勢を率いて武田の動きを探って参りたいのですが……」
 忠勝が偵察を願い出たが、家康からの返答はない。
 この時代の偵察には大きく分けて二つの種類があった。一人または極少数で状況を探る方法と、手勢を率いて様子を確認する方法だ。前者は敵の人数やどちらの方角へ向かっているかを見極めるものだが、後者は状況に応じて敵方と一戦交える場合もある。下手に刺激してしまえば損害が大きくなり、味方の士気を削ぐことになりかねない。
「信成」
 家康から名前を呼ばれた男が反応する。内藤“三左衛門”信成、この時二十八歳。三河国人の血筋で、戦巧者として家中に知られている人物だ。
「忠勝と共に先行せよ。儂も後詰としてすぐに向かう」
 その発言に場内はどよめいた。大将自ら偵察に赴くのは異例の出来事だが、いつにも増して家康が積極的に物事を決めている姿にも驚きを隠せなかった。
 常ならば家臣の意見を幅広く聞いた上で自らの考えを明かすのに、今回はいつも以上に決断が早い。存亡の危機が目前に迫っている為に気持ちが昂ぶっているのか気負っているのか。いずれにしても、あまり良い兆候とは思えない。特に三河から付き従う家臣達の間に不安が広がった。
「畏まりました。されど、殿に一言申し上げたき事がございます」
 信成が背筋を正して家康と向き直る。その態度に家康も気持ちを引き締めて発言を待つ。
「後詰に出られる気持ちは大変ありがたいのですが、くれぐれも前線へ出過ぎませぬようお願い致します」
 違和感を抱いたのは信成も同じだったらしく、強い口調で釘を刺した。全身から発せられる信成の気迫に圧され、家康も黙って頷いた。

 本多忠勝と内藤信成の手勢は直ちに城を出立した。家康も準備が整い次第、三千の兵を率いて出陣する手筈となっている。三河や遠江各所に守りの兵を割いている現状で、動員可能な兵八千の約半分を偵察へ投入するのも前代未聞である。
 同盟を結ぶ織田にも武田の遠江侵攻と援軍を求める使者を派遣したものの、武田の別働隊が美濃境にも出没していることからどの程度の兵がいつ到着するか見当がつかない。
「三左衛門殿。先程の殿の様子、どう思われます?」
 忠勝が馬を並べる信成に問いかけると、声を落として返してきた。
「……正直な所、不安だ。『あの時』と重なって映った」
「『あの時』とは、九年前の一向一揆の時のことでしょうか」
 信成が頷く。忠勝は自分の抱いた懸念が間違っていなかったことにホッとする一方で、心が不安で満ちる。
 今から遡ること九年前、家康は今日と同じ顔をして家臣達の前に立っていた。その後に待ち受けた苦難の日々を嫌が応にも思い出される。それは信成の方も同感らしく、険しい顔をしていた。
 そこへ一騎の武者が二人の元へ駆け寄ってきた。予め先行させていた隊の者だと思われるが……土煙を上げながら近づくその姿に、忠勝は嫌な予感がした。
「前方に武田菱の旗を掲げた大軍あり! その数、軽く見積もっても数千は下らないものと思われます!」
 頬を上気させて報告する武者の声に、二人の表情が瞬時に強張る。
 早い。早すぎる。
 先行している徳川の偵察部隊も決して遅くはなかった。しかし、武田の方が徳川の予想を遥かに上回る速度で進軍していたのだ。
 通常、敵地へ攻め込む場合は敵の襲撃に備えながら地形を調べて進むので、通常の行軍よりも時間を要するものだ。だが、武田軍は予め忍びを用いて進軍経路や地形を入念に下調べさせていた為に、領内を進むのと変わらない速度で移動することが出来たのだ。この点でも徳川の諸将は武田の実力を甘く見ていた。
「直ちに兵を引け。相手に見つかったとしても決して応戦するな」
「承知しました!」
 短く応えるとすぐに今来た道を戻っていく。一方で忠勝も後詰で迫っている本隊へ急を報せる使者を送り出していた。
「まずいな……」
 信成が苦々しく呟く。二人が想定していたよりも早く武田と遭遇してしまった。おまけに信玄が率いている武田本隊である可能性が極めて高い。
「三左衛門殿。ここは某が引き受けますので、殿と共に浜松城へお戻り下され」
「何を申す! 敵を前にして退けと言うのか!」
 突然の提案に信成は反発するが、若年の忠勝も引き下がる気配は見せない。
「殿があのような様子では、『家臣を捨てておけぬ』と逆に押し出してくる事も十分に考えられます。どちらかが殿を説得しなければいけないとなった場合、某よりも経験豊かな三左衛門殿の意見の方が耳を傾けてくれるに違いありません」
 捨て駒になるなら自分だ。この一点だけはどうしても譲れない。固く結ばれた忠勝の唇が、眼前に迫った危機を如実に物語っていた。
 ここで言い争いをしている暇は無いことは両者分かっていた。折れぬと悟った信成は観念して一つ息を吐いた。
「……相分かった。だが、くれぐれも無茶はするなよ。お主も今の徳川に欠かせぬ戦力の一人であることを忘れるな。必ず生きて会おうぞ」
 信成はそれだけ伝えると自らの手勢をまとめて直ちに退却していった。残ったのは本多忠勝の手勢だけだ。
 そこへ先程急を告げてきた武者が再び戻ってきた。信成は既にこの場から去っていたが、武者は動じることなく忠勝の前に進み出た。
「武田勢、我等の動きを察知して追手を差し向けて参りました」
 やはり、か。付け入る隙があらば即座に突く。百戦錬磨の武田兵が易々と見逃してはくれない。忠勝の想定内の出来事ではあるが、あまり好ましい状況とは言えない。
「……ここに暫し留まる。先手を収容し次第、直ちに兵を退く。皆には辛いと思うが、急がせよ」
「承知」
 手早く馬首を翻して走っていく。忠勝はその背中を見送りつつ、さらに先を睨む。
 退却戦は戦闘の中でも特に難しく厳しい。背中を見せた相手に敵は前がかりになって攻めてくる上に、退く方は追いかけてくる敵と戦いながら逃げなければならない。死の恐怖を背負いながら、理性を保って行軍する必要に迫られる。もし統率の取れない状態に陥れば即座に軍の崩壊を招き、被害は甚大なものになる。
 忠勝は黒夜叉を前へ一歩進ませると、振り返って自らの兵に向き直った。
 何か言葉をかけるべきか。色々と思考を巡らせるが、自分の中でピンと来る言葉が浮かんでこない。ふと目線を移すと、兵士達は一様にこちらを注視していた。その瞳には不安も気負いも恐怖も滲んでいない。ただ純粋な戦意だけが宿っていた。
(……止めだ。下手に何か言って士気を挫いては元も子もない)
 そう割り切ると、遠くから数騎こちらへ向けて近づいてくる。敵かと一瞬身構えたが、どうも様子が違う。警戒する兵を手で制して目を凝らす。
 接近してくる者の輪郭が徐々にはっきりと浮かび、相手の顔が判明すると同時に忠勝は驚いた。
「無事であったか、平八郎」
 男は余程急いで駆けてきたらしく荒々しく息を吐く愛馬を宥めながら声をかけてきた。
「何故こちらへ参られましたか、治右衛門殿」
 大久保“治右衛門”忠佐。兄の忠世と共に先代の松平広忠の頃から仕えている家臣で、数多くの武功を挙げてきた。この時、三十五歳。
「殿の命令で、な」
「殿、が……」
「『忠勝は時々無茶をする。必ず生きて連れ戻せ』と強い強い口調で厳命されたわ。何事にも慎重居士な殿にしては滅多にない果断な決定に見直した気分だ」
 だからこそ危なっかしいのだが、と忠勝は思うが口には出さない。
「……あまり悠長に話している暇は無いみたいだな」
 忠佐の声に後ろを振り返ると、退却してくる味方からそう離れず武田菱の入った旗が迫っている。
 予期せぬ遭遇に動揺している中で、兵の被害を最小限に抑えつつ常よりかなり迅速に撤退してきたのは良かったが、それを上回る速さで武田が押し寄せている。その差は刻一刻と縮まっていた。
(『侵掠(しんりゃく)すること火の如く』、正にそれを体現している)
 武田の兵を前にして忠勝は他人事のように捉えていた。
 信玄の軍旗・旗指物には『孫子』の一節が記されていた。『疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し』、要約すれば『移動は風のように早く、整列したら林のように静かに、攻める時は火のように勢いよく、攻められた場合はじっと山のようにどっしり構える』という意味合いであった。言わば戦に対する心構えであったが、その風林火山の教えが末端の兵士に至るまで浸透していることが武田の強さの根源と言ってもいいだろう。
 しかし、感心してばかりいられない。
「治右衛門殿、ここは退きましょう」
「応」
 短く言葉を交わすと忠佐は先頭に立って兵を導いていく。一方の忠勝は最後尾に立って敵の動きを見極めようと努めた。
「誰か、弓はあるか」
 忠勝が問うと即座に弓と矢が手渡された。馬上であったので、通常の弓兵が用いる代物よりは小振りな大きさだ。素早く矢を番えて目一杯引き絞ると、武田の先頭を走る騎馬武者に狙いを定めて放つ。
 放たれた矢は地面を滑るように宙を裂き、武者の体に突き刺さった。その威力に堪えられず、武者は馬上から転がり落ちる。
「次」
 次の矢を促して受け取ると、間髪入れず矢を放つ。これも命中したが、敵は怯む気配を見せない。例え地位のある侍が倒れても、構うことなく進むのか。これはなかなか厄介だ。
「退くぞ」
 足止めを諦めた忠勝は味方を先行させて自らは最後尾に立った。悪足掻きで二本続けて矢を放つと、忠勝は黒夜叉の腹を蹴って一目散に退却した。追いつかれないことを、ただただ祈るしかなかった。

 陣形も戦術も一切ない、各々がそれぞれに逃げる本多隊と武田の追撃部隊の間はみるみる内に埋まっていった。忠佐と忠勝が交互に入れ替わり立ち替わり踏み留まって食い止めようと努めるも、効果は薄い。このままではいつか追いつかれてしまう。
 二俣の付近から浜松の一言坂まで懸命に戻ってきたが、忠勝は観念して叫んだ。
「逃げるのは止めだ! この場で迎え撃つぞ!!」
 馬上から発した大音声に本多隊の面々の表情が強張る。ただ、忠佐は一人気色ばんだ反応を示す。
「……お主、正気か!?」
 今にも噛み付かんばかりに詰め寄った忠佐は必死の形相で諌める。進退極まって血迷ったかとさえ思ったが、忠勝は正気だった。
「ならば敵を通してさらに勢いづかせるおつもりですか!?」
 強く問い返されて忠佐は言葉に詰まった。確かに、忠勝の言う通りだ。
 ここまでずっと隘路が続いていたが、坂を下りれば平野が広がり大軍の展開が可能になる。数的優位の武田がこの一言坂を抜けてしまえば、浜松城まで遮る障害はほぼ存在しない。そうなれば結果は火を見るより明らかだ。
 ならば―――一か八か、今この場に居る手勢が一言坂で食い止めるしか方法はない。
 忠佐は諦めたように一つ深い溜息を吐いた。忠勝はそれを了承と受け止め、全員が直ちに臨戦態勢に入った。
 とは言え、元々は偵察目的の出撃だったので携行している装備は少なく、資材どころか楯すら持ち合わせていない。矢も足止めでかなり消耗しており、鉄砲も数丁あるのみで不安はある。
 おまけに徳川勢は既に一言坂を下りきった位置にあり地形的に不利であった。高所から矢を放てば通常とり遠くまで飛ぶし、坂の上から駆ければ下る分だけ勢いが増す。低い場合は反対の影響が出るので、戦いの際は高所から攻める方が有利なのだ。
 忠勝は馬に乗っている者も含めて総員徒士になるよう指示を出した。最前線は指揮官の忠勝を含む腕に自信のある者や胆力のある者で固め、装備は全て槍で揃える。部隊を三つに分け、退路を確保する最後尾に忠佐が入る。
 程なくして武田方の先頭が姿を現した。が、それを確認しても本多勢は微動だにしない。忠勝が『指示があるまで地に伏せていろ』と予め厳命していたのだ。命を預けた将の言葉に抗う者はおらず、全員が体を地面に密着させながら息を潜めて忠勝の指示が出るのを待っている。
 坂の下で待つ敵の異様な光景に武田勢も足を止めるが、やがて前線に屯していた足軽達が下がり、代わって弓を手にした兵が前へ出てきた。
 これは予想していた範疇。忠勝は周囲の者に声をかけた。
「矢を放ってきても決して頭を上げるな。顎を上げるな。敵の様子が気になっても堪えろ」
 一旦間を置いて、不気味な風切り音が闇中に響いた。闇に紛れてどれだけの数の矢が放たれたか見当もつかないが、慌てても仕方ない。人はいつか死ぬもの。当たり所が悪ければ己の運を恨むしかない。
 直後、辺りに数え切れない矢が雨霰となって降り注いだ。地面に刺さる音、鎧や兜に弾かれる音、低く呻く声。どれだけの者が無事か気になるが、必死に我慢する。今動けば、矢の餌食となる。奴等は一人一人を狙っている訳ではない、当たれば幸いと思っている程度だ。そんな流れ矢に当たって傷つくなど馬鹿げている。
 すぐに矢の雨が止んだ。波状攻撃で二発目が飛んでくるかと身構えたが、坂の上に目配せしてもそういう様子は無い。弓を下ろしている所を見ると、次の段階への準備か。
 前線に陣取っていた弓衆がさっと引いていく。こちらは相変わらず蛙のように地を這う姿で固まっている。これで終わる訳がない。次に控えているのは―――考えるより先に姿を現した。
 横一列に並んだ騎馬武者の面々。遂に登場したか。無意識の内に忠勝の体がぶるりと震える。
 甲斐から遠く離れた三河の地でも知られている武田の騎馬軍団。その行く手を阻む者は蹄に踏まれるか、巨体に薙ぎ倒されるか、馬上の武者から繰り出される刃の餌食になるか。荒々しく猛る馬の勢いは武田の強さの象徴でもあった。上等だ。その強さ、どれだけのものかこの目でしかと確かめてやる。
 やがて騎馬部隊が坂を駆け下りてきた。地面を力強く蹴る音が地響きとなって徐々に迫ってくる。居並ぶ味方の表情は幾分か強張っているが怖気づいている者は一人も居なかった。気持ちで負けていなければ上出来。これなら相手に一泡吹かせられる。
 一歩また一歩と近付く迫力にも怯まず地面に伏せる兵。その巨体に踏まれれば潰されるし、蹴られれば骨を折るか気を失うか。迫る恐怖を懸命に堪えながら忠勝の指示を待つ。
「今ぞ!!」
 忠勝が声を張り上げると、前線に並んでいた兵が傍らに控えていた槍を手に取り、一斉に上へ向けて突き上げる。眼前に突如現れた槍の穂に驚き嘶く馬、棒立ちになる馬、その身を貫かれた痛みから暴れる馬。さらに先頭に続いて突撃してきた者達とぶつかったり急停止させられたりと現場は一瞬にして大混乱に陥った。
 勢いを止めた次の標的は、馬上の武者。暴れ狂う馬に気を留める隙を狙って、徳川方の歩兵が次々と槍を繰り出す。馬を扱う者の槍は足軽が用いる物より短く、刀は槍より短い。さらに高低差も加わって距離は平地の時よりも開きが生じるので、下から突けば相手は反撃したくても届かないのだ。忠勝は地形の不利も考慮してこの場を選んだのだ。坂を下る勢いも含めて嵩にかかって押し寄せてくるに違いない、と踏んだ。
 狙い通り緒戦を制したが、武田勢は混乱している前線から兵を引くと、瞬く間に態勢を立て直して第二陣を投入してきた。出端で全力を出していた本多隊は突っ込んできた騎馬部隊に対処出来ず、忽ち形勢は逆転してしまう。
 第一陣が崩されたのを見た忠佐は間髪入れず第二陣を投入するも、戦況に変化は見られない。騎馬部隊が本多勢を縦横無尽に引っ掻き回すと潮が引くように後退していくが、入れ違いに体力十分で控えていた歩兵が坂を下りてくる。
「どうする、平八郎」
 混戦となり、陣形も配置もぐちゃぐちゃになった中で、雑兵を槍で叩きながら忠佐が問いかけてきた。
「どうするもこうするもござらん。目の前の敵を倒すだけで手一杯ぞ」
 忠勝は自慢の蜻蛉切を振り回しながら返答する。今は倒しても湧いてくる敵の数を減らすのが最優先だ。ただ、状況は圧倒的不利であることに違いない。こちらは身分問わず全員で応戦しているのに対して、武田勢は坂の上に投入されてない戦力が控えている。
「ならば、一か八か姉川の時みたいに突貫してみるか」
「無茶言わないで下され。あの時とは違います」
 やる気の無かった朝倉と違い、戦意充分な武田に突貫しても失敗するのは明らかだ。それくらいの分別は忠勝にもあった。
 しかし、依然として本多勢は苦戦を強いられていた。このままでは全滅だ。忠勝は槍を振るいながら必死に打開策を脳内で模索するが、何も浮かんでこない。
 刹那、背後から破裂音が轟いた。直後、最後尾に配していた第三陣の兵が忠勝の元へ駆け寄る。
「申し上げます!!後方より武田勢が発砲!!死傷者多数!」
「何と……」
 前方の敵にばかり気を取られ、武田の別働隊に後ろへ回り込まれてしまった。これで前後を挟まれ、進退窮まった形となった。
 今更ながら自分の至らなさを悔やむが、直後にある策が閃いた。
「全軍に告ぐ!!直ちに退却するぞ!!騎馬出来る者は身分問わず乗って構わぬ!!立ち塞がる者を斬り崩して突き進め!!」
 反射的に飛び出した忠勝の命令に、皆一様に驚きの表情を浮かべる。すかさず忠佐が血相を変えて叫んだ。
「お主正気か!?鉄砲に向かって突っ込めとは、あまりに無謀だぞ!」
 無茶苦茶な命令に忠佐は反発したが、忠勝はそれに答えず顎で後方を示した。その合図に忠佐も後ろを見ると、考えを改めた。本多勢の後方から射掛けた武田の別働隊だったが、発射した後の次弾装填に手間取っていたのだ。
 当時の火縄銃は発射後に発射口や筒内に詰まった火薬の煤を掃除して、その後に発射準備のため火薬と弾丸を筒内に入れて棒で突き固める作業が必要だった。連射する場合には放ち手の技量で大きく時間が異なるのが、当時の常識であった。また、連続して使用した場合には、銃身が高温になるので銃身を冷まさなければならなかった。
 東国の大名は西国の大名と比べ、鉄砲が普及・浸透するのが遅く、導入数も経験でも劣っていた。おまけに武田は騎馬隊主体の編成で鉄砲隊の割合も少なく、練達度は(積極的に鉄砲を用いていた織田は別としても)徳川より劣っていた。
 加えて、後方へ展開していた武田の別働隊の中央に、不自然な空間が空いていた。まるで「ここを通れ」と言わんばかりである。
「……罠ではないのか?」
 相手は天下に最強と名高い武田勢、突如見せた隙を何かの策と疑うのは当然だ。罠に嵌めて一網打尽にする、と考えても不思議でない。
「そんな事くらい百も承知!!我等に他の選択肢がありますか!?」
 忠勝が猛然と反論すると、忠佐も黙り込んだ。無論敵の策略である可能性も否定出来ないが、このまま踏み留まっても活路は見出せない。本来の目的は主を無事に逃がす事であり、玉砕しろと命じられていない。ならば、一縷の望みでも生きて戻る最善の道を採るしかあるまい。
 本多隊の一人が馬に跨り、後方に待ち構える武田方へ血路を開くべく単騎突貫していく。すると、敵は応戦する態度を見せないばかりか、道を空けたではないか。それを確認して一人また一人と後退していくが、武田の兵は銃口を向けたり刀を構える仕草は見せたりするものの迎撃しようとする動きは見られない。
 怪しい……だが、考えても仕方ない。駄目ならその時だ。
 危険が無いと分かると流れるように撤退が進んでいく。忠勝は隊列の最後尾に留まって追撃に備えるが、武田勢は遠巻きにするばかりで向かってくる気配は皆無だ。
「……どういう事だ?」
「さぁて。分からん」
 黒夜叉に跨り敵へ蜻蛉切の穂先をぐるりと向けて威嚇した後、脇目も振らず走らせた。途中、敵が潜んでいないか警戒しつつ、闇中を無我夢中で逃げ続けた。

 一言坂から程近い場所に張られた陣幕。そこに染められていたのは武田菱。紛れもなく、武田本陣である。篝火が焚かれた中央に恰幅の良い中年の男性が床机に腰を下ろしている。口周りには立派な髭が蓄えられているが髪は綺麗に剃り上げられ、静かに瞑目して座する佇まいからは威厳がひしひしと感じられる。
 そこへ一人の男が入ってきた。それを察知して男性はゆっくりと瞼を上げる。
「お屋形様、只今戻りました」
 帷幕の中央に居たのは総大将、武田“徳栄軒”信玄。この時、齢五十一。武田の旗を京で掲げるべく、一世一代の大勝負に出ただけに全身から並々ならぬ覇気を漂わせていた。
「信春、首尾は?」
 信玄が短く問うと、信春と呼ばれた男がすかさず応じた。
「我が方、大勝。まず上々かと」
 馬場“美濃守”信春。信玄が晴信と名乗っていた頃より仕える功臣で、晴信の初陣にも参加していた。今回の西上作戦でも先鋒を任され、信玄からの信頼は特に篤い存在だった。
 ただ、報告を受けた信玄の表情は、幾分冴えなかった。局地戦とは言え圧勝にも等しい戦果であったにも関わらず、である。
 若干の逡巡の末に、信春が信玄に対して尋ねた。
「されど……宜しかったのでしょうか? 仰せの通りに退路は空けておきましたが」
 指摘したのは一言坂での戦闘終盤、徳川勢の背後から鉄砲を放った後の仕置である。一回だけ斉射させると、僅かに道を空けて徳川勢が逃げるように仕向けたのだ。結果、こちらの思惑通りに徳川勢はその間隙を突いて敗走していった。
 懸念の表情を浮かべる信春に信玄は静かに答えた。
「構わぬ。たかが百か二百の小勢の為に、時を費やすのは惜しい。して、我が方の損害は?」
「我等馬場の手勢で死傷者はおよそ五十人、坂下に展開させた別働隊の方はまだ詳細が届いていませんが、軽微かと思われます」
「たかが百か二百の相手に、それだけの数の死傷者を出した。戦闘を続ければ殲滅させる事も出来たが、犠牲はさらに増えていたことだろう。敵を少数と侮るな。慢心は己の内に巣食う大敵と心得ろ」
 股肱の臣に対して責めることなく諭す信玄に、信春は黙って頭を垂れた。
「しかし、徳川の若造もなかなかやるではないか。そのような勇士を抱えているとは……此度の戦で敵中にこれと思えた者は?」
「部下の報告では、鹿の角をあしらった兜を被り、黒の具足に身を固めた侍大将が手強かったと。二丈(約六メートル)の長槍で次々と味方を屠る様は『凄まじかった』と」
「其奴、恐らく本多“平八郎”忠勝だな」
 外見の特徴を伝えただけで、信玄は名前を挙げて即答した。“草の者”と呼ばれる忍びが、相手家中の状況から領民の噂話に至るまで徹底的に調べ上げた情報を、自らの頭の中に叩き込んでいるからこその反応であり、莫大な情報量から決断する思考能力も並大抵の者が成せる技ではない。
「兵の駆け引きは見事ですし、劣勢と見れば己が盾となり味方が退くのを助け、囲まれても長槍を巧みに操って襲い掛かった兵を返り討ちにし、ここぞと思えば果断かつ迅速に動く。正しく、相手にしたくない猛者でありました。私も一言坂の上から眺めていましたが、あれだけの猛者と渡り合える者は我が家中でも数えるくらいしか居ないかと……」
「“将勇敢なればその下に弱兵なし”。おまけに後方に迫っていた家康を逃すべく、決死の覚悟であったに違いない。死兵ほど厄介な敵は居ない。だから傷が広がる前に戦を仕舞うに限る。下手に追い詰めると最後の一人が動かなくなるまで喰らい付いてくるからな」
 数々の戦を生き抜いてきた信春にも思い当たる節があるらしく、信玄の言葉を神妙な面持ちで静かに耳を傾けていた。

 後世に“一言坂の戦い”と呼ばれる熾烈な攻防戦は、武田方の勝利という結果に終わった。武田勢は当初の目標であった二俣城へ進軍、そのおよそ二ヶ月後に二俣城は陥落した。これにより遠江国内に楔を打たれた形となり、国人達の間に少なからず動揺が広がった。
 二俣城が陥落する前後、浜松城の正門前に一本の立て札が立てられた。書かれていたのは一句の狂歌だった。
『家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の頭に 本多平八』
 内容は至極分かりやすい。
『家康には二つ不釣合いなものがある。家康が被っている唐から渡来したヤクの毛を用いた兜と、本多“平八郎”忠勝』
 忠勝の武勇を褒め称えると同時に、作中の『唐』は『空』と置き換えることで主君家康の無能っぷりを痛烈に皮肉った一句である。
 立て札を立てたのは、徳川の統治を乱したい武田の仕業であった。浜松城の正門前に敢えて立てさせたのも信玄の指示で、素破(俗に言う忍び)が人目に付かない僅かな隙を突いての行動だった。暗に“武田の素破が容易に動ける”ことを示しているので、家康としては頭を抱える事態であった。
 この狂歌は浜松だけでなく遠江や三河の各地に撒かれ、広く拡散された。これにより、忠勝の武勇が諸国に広まるきっかけとなった。


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