一 : 突貫、姉川




 時は遡り、元亀元年六月。忠勝は当時二十二歳。その日もまた忠勝は槍を手に空を眺めていた。
「おう、平八郎。何を阿呆な顔をしている」
 不躾な言葉が飛んできて振り返ると、鉢巻を締めた若い男が立っていた。
「なんだ、小平太か」
 声をかけてきたのは榊原“小平太”康政。忠勝とは同い年ということもあり、戦場で互いに武功を競い合ってきた仲である。
「空を見ていた」
「それは分かる。だが、一目見れば分かるだろう?」
 天候は合戦の勝敗を左右する大切な要素だ。風向や強さ、見通しの良し悪し、降雨が見込まれるか否か。特に雨は鎧の紐や着衣の水分を含んで重くなったり泥濘に足を取られて行軍に影響が出たりする。
 しかし、この日は少し朝靄がかかっているだけで天気は晴れ。遠くの雲も含めて空には白い雲ばかり浮かんでいて戦況に不安は無い。
「天気云々は別にして、空を見ていないと気持ちが抑えられないからな」
 忠勝が顎で示すと、康政は合点がいったとばかりに納得した表情を浮かべる。
 川を隔てた向こう岸には点と化した人が大勢集結しており、三つ盛木瓜の紋が入った旗が乱立していた。
 今忠勝が居る場所は徳川の本拠・三河から離れた近江国。目の前を流れる姉川を挟んで対峙しているのは近江の隣国・越前を領する朝倉勢。互いに応援で参戦した者同士である。
 本日の主役は尾張美濃から京畿を制して勢いに乗る織田と北近江を治める浅井。両者はつい先日まで同盟関係を築く親密な間柄であったが、去る二ヶ月前の越前攻めにおいて浅井が織田に反旗を翻したことで関係は決裂してしまった。
 織田も京畿と美濃を結ぶ動線を確保するため、一方の浅井側は近江国から織田の影響力を一掃すべく、両者御家の未来を左右する重要な争いであった。そして徳川もまた、先日の越前攻めに援軍として参加していたので、本国へ帰還するために負けられない戦いだ。
 ただ、忠勝の見た限りでは向こう岸の軍勢は明らかにこちら側の倍は居るのではないか。最低限の守りを国に置いて総動員しても四千、織田から付けられた稲葉一鉄の援軍一千を加えても五千だ。
 朝倉が治める越前国は全国屈指の石高を誇るだけでなく、海運や関所の通行料等の収入も豊富な国。国元に余力を残しても、徳川を上回る軍勢を他国へ送れる。対して我が方は木綿の原材料である綿くらいしか特産品の無い、米の取れ高も僅かな貧しい国。
 数だけで比べれば圧倒的劣勢と言っても良い。
「怖いのか?」
 康政も同じ方角を眺めながら問いかけてきた。
「まさか。楽しみで仕方ないわ」
 その言葉が偽りでないことは、忠勝の表情を見れば一目瞭然だ。瞳は爛々と輝き、口元は綻んでいる。目の前に立ち塞がる難敵を倒したくて心底うずうずしていた。
 乗り越えるのに苦労が見込まれる程に燃える。忠勝は根っからの武人であった。
 雲霞の如く埋め尽くす対岸の朝倉勢へ突っ込む時を今か今かと心待ちにじっと河原で空を見つめていた。

 同時刻、徳川本陣。一人の男が陣内に入ってきた。
 口を固く真一文字に結んでむっつりとやや怒っているような顔つきの男は、上座に据えられた床机に腰かける若者に一礼する。若者は少々小柄ではあるが、筋肉質で引き締まった体つきをしていた。
「どうであった?」
 不安げな表情で問いかける若者こそ、この軍の大将である徳川家康。若年であるがごたごたの続いた三河を一つにまとめた戦国大名だ。
 怒った顔つきの男は鳥居“彦右衛門尉”元忠。元忠の役目は斥候・偵察。敵陣の様子を調べて報告するのが主な仕事だが、元忠は私見を挟まず俯瞰して端的に情報を伝えるので家康は好んでいた。小柄ながら俊敏な身のこなし、勇敢な性格で口が堅いことも気に入っていた。
 問われた元忠は一拍間を空けてから答えた。
「さて、某の見た所では、敵勢は一万一千から一万二千。当方の倍はまずあるかと」
「倍……」
 家康は一言呟いたきり黙り込んでしまった。顔色も先程と比べると幾分か青ざめているようにも見える。明らかに報告を受けて狼狽していた。もし仮にこのまま両者がぶつかれば、十中八九徳川が敗ける。
 家康の額にはいつの間にか汗が滲み、無意識の内に親指の爪を噛んでいた。爪を噛むのは不安や焦り、防御本能の表れであり、家康にとって幼少期から抜けない癖でもある。
 そんな主君の反応に一つ息を吐いてから元忠は再び口を開いた。
「されど、敵の士気はあまり上がってないように見受けられました」
「こちらが圧倒的に少ないからであろう」
 やや苛ついた口調で返す家康の言葉を受けても、元忠は眉一つ動かさずに話を続ける。
「それもありますが、朝倉には此度の戦にて旨みが見出せてない事も一つあるかと」
 元忠の指摘に家康が反応する。瞳に落ち着きの色が戻ってきた。
「……成る程。我等は本国へ安心して帰る為に、浅井は自らの領地を守る為に、それぞれ意義がある。なれど、朝倉は勝っても土地が増える訳でもなく見返りがある訳でもない。無論浅井から感謝されるし将来的な脅威が遠ざかるものの、それすら気付いているかも怪しい」
 顎に手を当てて考え始めると、次々と言葉が滑り出てくる。この様子を見て元忠も安堵した。いつものあるべき主の姿であった。
 家康は大名の子どもではあったが、齢二十になるまで苦労の連続だった。
 自力で三河一国を守れず今川の強い影響を受ける事情から、幼い頃に駿府へ人質に送られることになった。しかし、途中で家臣の反逆に遭って尾張の織田に連れて行かれた。数年後に三河へ取り戻されたものの、すぐに再び駿府へ送られることとなった。その際に家臣の子どもも付き従うことになり、元忠もその内の一人として共に駿府へ赴いた。
 家康は常日頃から人当たりが好く笑みを絶やさず律儀に振舞っているが、中身は異なる。感情的ではあるがそれを内面に押し留める忍耐力を備え、優柔不断な部分はあるが冷静な分析力を持つ。それが元忠から見た家康という人だ。
 人を惹き付ける力や決断力の点では他人より劣るかも知れないが、決して無能ではない。寧ろ、飛び抜けた才を持たないのを自覚しているので、自分の実力を過信したり驕ったりする事がない。そういう点では仕えている身とすれば安心出来る材料だ。
「敵中へ潜ませている者の報告でも、『早く帰りたい』と口にする兵が少なからず出ているようです。戦が始まる前から嫌気が差している以上、こちらに勝機があるかと」
 兵士一人一人の士気は勝敗を左右する重大な要素である。厭戦気分が広がれば戦力は格段に低下するし、少し劣勢に陥っただけで踏ん張れず逃げ出してしまう。逆に高すぎると命令を無視する者が現れたり、功名欲しさに暴走したり統率が取れずに隙を生んでしまう。多くの人の感情を制御するのは至難の業である。
「幸いなことに機は熟しておらぬ。各方へ探りを入れ、弱き面を見つけてくれ」
「畏まり候」
 と、そこへ慌てた様子で前線に居た武者が駆け込んできた。
「も、申し上げます!!」
「どうした、騒々しい。如何した?」
 鉄砲の音や喊声は届いていないので戦端はまだ開かれてないのに、どうした事か。元忠が狼狽している武者を怪訝な眼差しで見つめる。
 だが、次に明かされたのは衝撃的な報告だった。
「本多平八郎様、単騎にて突貫された由!!」
 報告を受けた直後に家康は「はぁ!?」と声を上げ反射的に床机から立ち上がった。今さっき攻め口を探れと指示した矢先の出来事なので、当然の反応である。
 元忠は半ば呆れた口調で呟く。
「……全く。勇敢と蛮勇を履き違えているのではないか。捨て置きましょう」
「いや、それはならぬ!」
 突き放した意見を退けたのは誰でもない大将の家康であった。
「あ奴が勝手に敵陣へ切り込んだ以上、朝倉方も応戦してくるのは必至。そうなれば傍観などしてられん。急ぎ各陣へ遣いを送り臨戦態勢を整えよ! 三河武士の強さを示してみよ!」
 法螺を吹け。馬を曳け。矢継ぎ早に家康が指示を出していくにつれ、陣内が俄かに慌しくなってきた。
「元忠、お主も直ちに弓衆を率いて前線に向かえ。朝倉の出足を挫くのだ」
「承知」
「忠勝め……覚えておれよ」
 覚悟を固めないまま合戦へ引きずり込まれたことに不満を溢すと、遠くから喊声が聞こえてきた。
 いよいよ、戦が始まる。

 目の前を流れる川に一切の躊躇を見せず水飛沫を上げながら突き進む。大小様々な石が転がる不安定な足場であろうと平地を進んでいるようである。乗り手が誘導したり合図を出さなくても、愛馬は主人の意図を察してくれる。正に人馬一体。向こう岸で待ち構える朝倉へ一気に距離を縮めていく。
 大枚を叩いて本当に良かった。忠勝は心の底から実感していた。
 ・ ・ ・
 時は少し遡ること二年前の永禄十二年。三河・岡崎の城下を歩いていると、大量の馬を連れた商団が休息しているのを見かけた。
 この時代の商業中心地は京や堺などの畿内およびその周辺で、地方から中央へ商品を運ぶ手段として一般的なのは陸路を使う方法だった。徳川の城下町である岡崎もまた奥羽や関東の商団が通過していく光景をよく目撃する。
(……ほう、馬か)
 まだ機械の存在しない戦国時代、生き物は生活を支える大切な存在だった。特に馬は牛より早く移動が出来る上、賢く人間に従順ということで重宝されていた。乗り物としてもそうだが運び手としても便利で、農耕に向かない土地では良馬を育てて収入を得ている者も少なくなかった。その影響からか良馬の生産地が集中する東国では騎馬主体の軍編成、反対に異国から新しい技術が入りやすい西国では歩兵主体の軍編成、というのが源平の頃からの傾向である。
 槍働きによって生計を立てている侍にとって、馬は戦に欠かせない仕事道具であり命を預ける相棒でもあった。勇ましく力強く躍動する馬を持つ事は合戦において武勲を挙げることに直結する。
 何気ない日常の光景ではあるが、忠勝の目に留まったのは連れている馬の質の高さだった。艶のある毛並み、逞しいくらいに隆起した脚、見知らぬ土地であろうと平然とする姿。なかなかの上物と見た。
「もし」
 忠勝が声をかけると、馬の毛を櫛で整えていた男が作業の手を止めてこちらを向いた。長旅の影響か陽に灼けた肌をした男の瞳には、明らかな警戒心が滲んでいた。
「怪しい者ではない。某は三河の国主・徳川家康様に仕える直臣にて本多忠勝と申す。素晴らしい馬を連れていると見て、つい声をかけてしまった」
 称賛の言葉を掛けられた男は警戒心が緩んだようで、表情を綻ばせる。しかし、それも一瞬のことですぐに口元を引き締める。
「当然だ。連れている馬共は儂等が手塩にかけて育てた自慢の逸物揃い。それに見合うだけの高値を出してくれる者に売るつもりだ」
 話す訛りから甲信ではなく奥羽の出身か。言葉の端々から忠勝に売る気は無いと伝わってくる。
 三河は特産品も少なく土地も痩せている貧しい土地柄。一方で隣国の尾張は肥沃な土地である上に市場も栄え、さらに領主・織田信長が大の馬好きだけあって家臣の間でも良馬を求めている傾向があるので高値で売れる可能性がある。わざわざ京畿まで運ばなくても尾張の城下町である清洲で、と考えていても不思議でない。
「して、幾らだ?」
 諦めきれない忠勝が問うと、男はフンと一つ鼻息を鳴らしてから答える。
「馬の質によって異なるが、一番安い馬でも十貫」
 一貫は千枚の銭を連ねた単位で、現在の価値に換算すると一銭は十円に相当する。つまり一貫だと一万、十貫だと十万円。当時の金銭感覚で言えばとんでもない金額であった。
 法外だと抗議したくなるが、実物を目の前にすると提示された金額でも納得してしまう。そのくらいに質の高い馬であった。見れば見る程に欲しくなるが、残念ながら若年で蓄えの少ない忠勝にはそう易々と手を出せる代物ではない。
 すると突然、辺りが騒がしくなった。音のする方を向くと一人の若者が駆け込んできた。
「大変だ、頭!!」
「どうした!?」
「結んでいた紐が緩んでいて、一頭の馬が脱走して暴れているんです」
「何やってやがる!!早く取り押さえろ!!」
「それが……興奮していてとても手に負えられなくて……」
 直後、人垣の一角が割れると、その隙間から一頭の黒い毛の馬がこちらへ向かって突っ込んできた。
 暴れ馬は大柄で毛並みも良く、脚も太くて筋肉も逞しい。正しく惚れ惚れする良馬だ。
「おい!!悪いことは言わないから、早く避けろ!!あいつは気性が荒くて暴れ出したら鎮まるまで手が付けられない!!これまで何人も怪我人を出している!!」
 男も忠告しながら既に逃げ腰になっている。他の者も同様に暴れ馬の進路から逃げるように遠くへ避難していた。
 だが、忠勝は動じなかった。敢えて暴れ馬の進路上で仁王立ちになって構える。
「どうなっても知らねぇぞ」
 捨て台詞を吐くと、男は巻き込まれたくないと言わんばかりに退散していった。
 興奮して暴走する暴れ馬は立ち塞がる忠勝を目にしても臆せず猪突猛進していく。その距離は刻一刻と縮まっていくが勢いは落ちるどころかさらに加速していく。
 ぶつかる。誰もがそう思って目を覆いたくなったが、事態は予想外の展開を迎えた。
 接触する間際、忠勝は僅かに体を滑らせると暴れ馬の轡を掴んで、そのまま制止させてしまった。そればかりか忠勝の太い手で首を優しく撫でると、それまで乱れていた暴れ馬の呼吸がみるみる内に鎮まっていき、いつの間にか騒ぎは沈静化してしまった。
 これには馬の扱いに長けている商団の男達も呆然としていた。
「どうどう……何だ、聞き分けの良い馬ではないか」
 鷹揚に笑う忠勝の姿に信じられないという目を向ける一同。馬の方も忠勝にすっかり懐いている様子だ。
「気に入った。この馬は幾らするのだ?」
 忠勝が訊ねると先程の男が恐る恐る近付いてきて答える。
「へぇ。その馬は儂等が連れてきた中で一番優れた逸物で、本来なら百五十貫は下らないです。ただ気性が荒くて儂等も手を焼いておりました……もし旦那様がお気に召したのでありましたら、お代は結構でございます」
 先程まで貧乏人と見下していたのに、騒ぎを静めた途端に呼び名が『旦那様』へ格上げとなった。その変わり様に思わず苦笑するが、忠勝は男の方へ歩み寄る。
「いやいや、流石に百五十貫もする名馬を一銭も払わずに貰い受けるとなると丹精込めて育ててきたお主達に申し訳ない。少ないかも知れぬが、代金として受け取ってくれぬか」
 そう言うと忠勝は銭の入った麻袋を男の懐へ捻じ込む。そして意味あり気な笑みを口元に浮かべながら耳元で囁く。
「この馬は、『途中で暴れて行方知れずになった』ということで頼むぞ」
 声を潜めて告げると男も了解したとばかりに小さく頷いた。今後のことを考えて逃げたとした方が都合の良い場面があるかも知れない。
 口止めにしては少々物足りない金額だが貰わないよりは良しと男は受け止めた。一方の忠勝も身の丈を超す出費となったが散財したとは思っていない。次の合戦で周囲も認めるような活躍を遂げれば充分に元は取れると信じて疑わなかった。
 ただ、馬を連れて帰ると妻は呆れ果てて夜が更けるまで延々と小言を喰らうという苦行を味わうことになるのだが……。
 ・ ・ ・
 その気性の荒さと力強い走り、美しい黒色の毛並みから“黒夜叉”と名付けた愛馬は忠勝によく懐いた。世話を任せた家人を困らせる事はあったが、何者も恐れぬ性格や荒々しさが主人と似ているからか忠勝に対しては従順で大人しかった。平時に遠乗りしている時も、今のように戦時で単騎敵中へ突撃していく時も、己の走りたい気持ちを抑えず殺さず体現した。
 手綱を左手で握りながら忠勝は正面しか見ていなかった。目の前の敵を倒す、その一点のみ集中していた以外は無心であった。
 始めの内は何事かと遠くから傍観していた朝倉の兵も、水量のある姉川を一騎の若武者が遮二無二に突き進んでくるのを目の当たりにして徐々にざわつき始めた。まだ臨戦態勢が整っておらず上からの指示も出ていないが、命令を待たずに弓を手にした兵が慌てて矢を番えて放っていく。しかし、突然の事で的外れな方向に飛んでいく物が多く、放たれた矢は放ち手の気持ちが如実に表れていた。
 ただ、中には的確に馬上の忠勝を捉える矢もあった。馬の速度や距離を考慮して放たれた矢は対象を射る意図が伝わってくる。朝倉にも気骨のある者が居るな、と感心しながら手にした槍で向かってくる矢を払いのける。
 すると黒夜叉が不満そうに鼻を一つ大きく鳴らした。『俺の脚を信じられないのか』と主張していたので宥めるように首筋をポンポンと叩く。
 相手との距離が徐々に詰まっていく。両者を隔てていた川を渡り切っても、黒夜叉の健脚は衰える気配を微塵も見せない。
 矢を放つも難なく弾かれたことにより、矢盾の後ろに控えていた足軽達が俄かに騒がしくなってきた。開戦までまだ余裕があると思っていたら突然戦闘に巻き込まれる事態に恐怖を覚えたのだ。
 そうしている間にも自陣に迫ってくる忠勝に右往左往している所へ、組頭から鋭い指示が飛ぶ。
「皆の衆、槍を構えよ!!一列になって奴を串刺しにするのだ!!」
 組頭の的確な指示に足軽達は急いで槍を手に取って横へ一列に並ぶ。仮に馬が怯めば馬上の武者を直接狙い、驀進してきた場合は馬を仕留めた後に転げ落ちた所を討つ。どちらにしても安全に対処することが可能だ。
 大急ぎで準備にかかる様を一瞥した忠勝は、股を引き締めて槍を脇に挟む。そのまま黒夜叉を走らせ、相手の顔が見て取れる距離まで接近した忠勝は、声を発した。
「跳べ」
 刹那、黒夜叉は後ろ足で地面を蹴ると忠勝を乗せたまま大きく跳躍した。槍衾を作っていた兵も、盾の後ろに隠れていた兵も、軽々と越えていった。
 頭上を越えていく馬体を唖然と見送る者や、巨体に押し潰されたくないと逃れる者など、朝倉陣営は局所的な混乱が起こっていた。
 そして悠々と敵地へ単騎突入することに成功した忠勝。周囲を見渡せば刀の刃や槍の穂を一点に向けられている。だが、当の忠勝は絶体絶命の危機とは思っておらず、寧ろ一番乗りを果たした充足感の方が大きかった。
(……残念ながら張り合いのある相手は居ないな)
 北国の雄である朝倉は強兵と聞いていただけに落胆の色は大きい。目に付くのは雑兵ばかりで自分と同じ匂いのする歴戦の猛者は見当たらない。忠勝は己と同等または自分以上の実力を有する者と対峙する事に喜びを覚える、生粋の武闘派だった。
「えぇい!!何をしている! 相手は一人! 皆で包み込めば確実に討ち取れるぞ!!」
 組頭か足軽大将と思しき者が叫ぶと、遠巻きにしていた足軽達の目の色が変わった。命令する者が雑兵の後ろに隠れているのが情けないが。これでは端武者も同然だ。
 それでも兵士達は手にしている槍や刀をしっかりと握り締めて距離をじりじりと詰めてくる。その歩みは亀の如く遅いが、縮まった分だけ忠勝の命が危うくなる。
 と、その時忠勝の耳に微かな音が聞こえてきた。一瞬だけ視線を音のする方角へ向けて確認すると、槍を持つ手の位置を変える。それだけで敵勢は怯むが、目の前に現れた敵に囚われているせいか異音に気付いていない様子だ。
 直後、唸り音と共に無数の矢が朝倉の陣地に降り注いだ。対処する間もなく身を貫かれる者、咄嗟に矢盾の裏に隠れて難を逃れる者、武器を捨て他人を押し退けてその場から離れようとする者。様々な人の思いが交錯して辺りは大混乱に陥った。
 矢の飛んできた方向を睨みながら忠勝は呟いた。
「容赦が無いのぉ……」
 我が身に降りかかる矢を槍で払いながら、敵中に単騎突貫した味方にも矢の雨を浴びせた犯人を思い浮かべた。

 同時刻、徳川陣営でも奇しくも一人暴走した男の顔を頭の中で描いている男が居た。
 先程家康から弓衆の指揮を任された元忠だ。
「彦右衛門尉様! あの中には本多平八郎様がいらっしゃるのでは!?」
「構わぬ。味方の矢に当たって死ぬならそれまでの男だ」
 部下の懸念を元忠は斬って捨てた。元々命令違反を犯したのは敵中にある忠勝の方であり、その暴走から戦端が開かれた為に応戦せざるを得ない状況になった。もし死んでも文句は言えない立場だ。
 ただ、元忠個人としては忠勝の行動は正しいと考えていた。大軍を前にして決めきれない家康から選択肢を絞らせて決戦に持ち込ませたのは奴にしか出来ない荒業だ。尤も、徳川家中でも一二を争う戦巧者が朝倉の兵に負ける筈がない、という前提条件があるが。
 他の者が命令を待たず勝手に敵中へ突っ込んでも見捨てられるが、忠勝だけは例外だった。主従の関係であるが、家康には忠勝に借りがあった。
「首尾はどうだ?」
 弓衆の様子を案じて前線近くまで出てきた家康が元忠に問う。
「まずまず、といった具合でしょうか。平八郎が単騎突貫して敵の目が集まっていた所に我が方の矢が降り注いだので浮き足立っているかと」
「よし!」
 大きく頷くと、家康は腰に帯びていた刀を鞘から抜くと天に向けて真っ直ぐ伸ばす。後ろには突撃の命令を待つ大勢の足軽や騎兵が控えていた。ピリピリと張り詰めた緊張感と熱気を全身に受けながら、家康は腹の底から声を張り上げる。
「三河武士の強さを見せつけてやれ!!突撃!!」
 刀を振り下ろすと同時に法螺貝が吹き鳴らされる。辺り一帯に木霊した法螺の音を合図にして、徳川の兵が一斉に喊声を上げながら川の中へ勢い良く駆けて行く。
「忠次よ」
 家康に呼ばれて姿を現したのは、酒井“小五郎”忠次。家康が今川の人質として駿府へ送られた際に付き従った一人で、徳川家で家老職を務める人物だ。現在の徳川家では家康より若年の者が多い割合を占めるが、忠次は年長者として家中を引き締める役割も担っていた。
「お主は対岸から渡河してくる朝倉勢を防げ。もし兵が足りなければ遠慮なく申せ」
「はっ」
 血の気の多い者は与えられた任を忘れて手柄を求めて敵陣へ突っ込み陣形を乱す恐れがあるが、分別のある忠次は状況に応じて攻めにも守りにも臨機応変に対応する事が出来る。徳川勢は人が少ない分だけ適材適所で用いないと、ふとした拍子で一気に瓦解してしまう。
 打てる手は全て打った。あとは朝倉の出方を待つだけだ。

 忠勝の突貫により出端を制したものの、倍の人数を有する朝倉勢は落ち着いて対応して、その後は互いに姉川を挟んで一進一退の攻防を繰り広げていた。徳川方も人数では劣るが押し寄せる朝倉勢を川岸で防いで善戦していた。
 一方、織田の方は明らかに苦戦を強いられていた。数で劣る浅井が損害覚悟の猛攻を仕掛け、幾重にも布陣していた織田軍を突き破り本陣近くまで押し込まれていた。
 しかし互角に渡り合う状況は決して好ましくない。時が経つにつれ兵が疲弊すれば、必ず人数で下回る徳川方が不利になる。もし徳川が崩れれば隣接する織田へも波及する。何としても現状を打開する必要があった。
 陣幕の内で逐一入る報告に耳を傾けながら思案する家康。
「元忠を呼べ」
 近習に命じてから程なくして、元忠が現れた。弓衆の出番も終わって自由に動ける状況らしい。
「お呼びでしょうか」
「朝倉の陣立てに付け入る隙を見つけられるか?」
 単刀直入に家康は訊ねた。
 陣幕の内側で報告を受け、戦況を眺めていても見えない部分もある。己の代わりに見て考えられる人物は家中に多く居るが、元忠以外に適任者は居ない。
 そして指名された元忠も、それを自覚していた。
「必ずや」
 主の目をしっかり見据えて答えるその姿に、家康は頼もしさを感じた。
 無言で一礼してから直ちに辞去する元忠の後ろ姿を見送りながら、この場から肉眼で捉えられない距離にある朝倉陣営で奮戦する忠勝の顔を思い浮かべていた。

 次から次へと繰り出される槍の穂や刀の刃に、少し飽きてきた。ただ振り回すだけの得物を避けてから自らの槍の穂で薙ぎ、槍頭で叩き、石突で払う。戦闘不能にさせれば兵としての役割は損なわれるので、無理に命を奪うことは極力しない。常に全力で戦っていると早く疲れてしまい、後々辛くなる。
 乱戦では七割方の力で、冷静な思考を持って対処する事が肝要。それこそ忠勝が数多の戦場に出て学んだ一つの哲学であった。
 ちらりと脇目で自陣を確認する。こちら側と同様に敵味方入り乱れての混戦模様だが、押し込まれているようには見えない。酒井忠次の手勢が最前線で踏ん張っているようだ。
 徳川方は朝倉の半分以下という状況で、人数を割いて攻めている。攻めていることで互角の状況を作っているが、仮に均衡が崩れてしまえば戦力で劣る味方が間違いなく負ける。そうなる前に何とか打開しなければ。
 兜首目当てに群がる雑兵は尽きることなく襲い掛かってくる。朝倉方も自陣の前方でしぶとく喰らい付く徳川の兵が目障りなのか、次々と新手を投入してくる。懲りない奴等だなと内心呆れるも、忠勝の脳裏に閃くものがあった。
(……待てよ。前線にばかり人員が集中している。つまり―――)
 開戦してから暫く経ち、朝倉の陣形も当初の形から変わっている筈だ。前衛は姉川の向かいに陣取る徳川の陣地へ次々と乗り込み、中盤の兵も遅れまいと前のめりになっている。人的優位で一気に押し切ろうとしているのだろうが……逆に考えれば、攻撃に偏っていて隙が生じる可能性がある。
 視線の端で微かに動く何かを捉える。織田から援軍として加わった稲葉一鉄の旗印と、榊原康政の隊の旗印を掲げた集団。主戦場となっている姉川河畔から朝倉に見つからないよう迂回して行動していた。
 ……どうやら主は、虎の子の手勢を投入して勝負に出たらしい。
 その後も湧き上がる雑兵を相手にすること四半刻、朝倉勢の後方から突如声が上がった。
「敵襲ー!!」
 悲鳴にも似た叫びに朝倉勢の間に動揺が走った。縦に伸びきった陣形に徳川の遊撃部隊が側面から奇襲を仕掛けたのだ。自分達の背後に敵が現れたことで挟み撃ちにされる恐れがあり、一転して窮地に立たされたことになる。
 この好機を逃す訳にはいかない。
「今だー!押せー!!」
 忠勝が腹の底から割れんばかりの大声を張り上げる。戦場で鍛えられた銅鑼声は、様々な音が交じり合う乱戦であっても味方の耳に洩れなく届いた。忠勝の呼びかけに呼応するかの如く徳川勢が一気に活気付く。
 対して朝倉は前後を挟まれる恰好となって、明らかに矛先が鈍った。そこへ追い討ちをかけるように徳川兵が押し寄せてきて、朝倉方は大混乱に陥った。
 前から押し寄せる兵と、後ろから襲われる恐怖。『戦おう』とする気持ちを『生きたい』という気持ちが上回った瞬間、一人の兵士が背中を見せて逃走した。すると堰を切ったように離脱遁走する者が続出していった。
「待て! 踏み留まれ!」
「逃げると斬るぞ!」
 足軽大将が必死の形相で命じるが、戦意を喪失した兵士達の耳にその声は届いていなかった。それでも懸命に止めようとする足軽大将は明らかに敵への警戒が薄れていた。その隙を逃さず忠勝は一気に距離を詰め、手にしていた槍で渾身の突きを胸へ繰り出す。自らの体を槍の穂が貫通したことに驚きの表情を浮かべながら足軽大将は地面へ倒れ込んだ。統括者が討たれた事で、雪崩を打って朝倉の兵は引いていった。
 一度崩れた形勢を挽回するのは難しく、朝倉勢は北の方角へ遠ざかっていった。退却していく後ろ姿を眺めていると、不意に声をかけられた。
「おう、無事だったか」
 馬を寄せてきたのは遊撃部隊を率いていた康政だ。あちこちが返り血で汚れており、合戦の激しさを物語っている。
 一方の忠勝も、見た目だけなら負けていない。槍の穂は血が滴り、肌も至る所から血が付着している。単騎突貫した身でありながら、掠り傷すら負ってない。
「当然だ。手強い猛者の居ない相手など物の数に入らないわ」
「お主が言うと本当だから憎たらしい」
 自信満々に胸を反らせて語る忠勝に、康政も苦笑を浮かべるしかなかった。
 結局、朝倉勢は崩された形勢を最後まで立て直すことが出来なかった。旗色が悪いと見た朝倉方の大将・景建は即座に撤退を決断。敗走する兵を待たず、少人数で戦場から離脱した。織田や徳川が越前に通ずる道を塞ぐのを恐れての判断だが、大国の軍の統括責任者としては些か軽率な行動であった。
 一方で、織田の中盤まで突き崩した浅井であったが、分厚い織田の陣形に阻まれて膠着している状況で朝倉敗走の知らせが届いた。大将の長政は敗色濃厚と悟り、迅速に兵をまとめて退却していった。
 これにより、姉川の戦いは織田・徳川の連合軍勝利という結果に終わった。死者は両軍合わせて二千人は下らないとされ、姉川の下流は数日朱に染まったという逸話が残される程に壮絶な争いであった。
 合戦後、浅井は本拠地の小谷に次ぐ重要拠点の横山城を織田に奪われ、北近江の東側南半分は織田の勢力下となった。これで織田は岐阜と京を行き来する大動脈の安全を確保。畿内と中京圏が再び地続きで繋がり、信長の影響力低下という最悪の事態は回避された。
 そして援軍として参加していた徳川も、敵に襲われる危険性が解消されて悠々と三河への帰路についた。

 一月後。忠勝は家康に召し出された。
 徳川の本拠地である三河・岡崎城は櫓や土塁、堀はあるが岐阜城や清須城のように石垣を組み漆喰を塗った近年流行している形ではなく、屋敷に防御機能を加えた程度の代物であった。三河国が尾張や美濃と比べて貧しいのもあるが、『城に金をかけるくらいなら別の所にかける』という家康の意向が如実に表れていた。
 平服で登城した忠勝は田舎じみた建物に懐かしさを抱きつつ、主が待つ部屋へ向かう。
「忠勝、只今参りました」
 声をかけると中から「入れ」と応答があった。それを合図に部屋へ足を踏み入れる。
 家康は文机の前に座り、文書に目を通していた。長く本国を離れていた為に治政が滞っており、それを懸命に解消しようと努めているのだろう。ずば抜けた才は持ち合わせていないが身の丈に応じたやり方で地道に努力する姿は、仕える主として好感を抱く。
「本日の用向きは何でしょうか?」
「こいつ、儂に礼の一つくらい言ったらどうなんだ?」
「はて……そのようなことがありましたか? 見当がつきませんが……」
 心当たりが無い忠勝は小首を傾げていると、家康は苦笑いを浮かべたまま教えてくれた。
「先日の戦の後、お主を庇ったではないか」
 指摘されてようやく思い出した。確かに、そんな事があった。
 朝倉軍の撤退を見届けて自陣へ戻った忠勝は、早々に上役の忠次に捕まってしまった。
「この馬鹿者!!お主の勝手な暴走で、我等の準備が整う前に戦端が開かれてしまったではないか!!今回は幸いな事に勝てたから良かったが、一歩間違えば潰走の憂き目に遭っていてもおかしくなかったんだぞ!」
「されど、機先を制しなければ人数で劣る我が方は守勢に回って、反撃の糸口すら掴めなかったかと……」
「やかましい!!相手が大軍であるからこそ、慎重に行動しなければならんのだ!!勝機の見えぬ博打に付き合わされる身にもなってくれ!!」
 弁解を試みるもあっさりと引っくり返され、余計に叱責の言葉を浴びる。忠次は一度怒りに火が点くと細かい点まで指摘する性格なので、叱責を受ける身としてはそれが辛い。一応自分の行動に対して引け目は感じているので甘んじて受けるが。
 そこへ家康が現れて、忠次を宥めるように諭す。
「まぁまぁ、忠次よ。忠勝も反省しているようだし、その辺にしておけ」
 主君から助け舟を出され、忠勝は内心ホッとした。このままだと日頃の些細な点まで持ち出されて延々と続いていく恐れがあったので、本当に助かった。
 忠次も主君からそう言われては、矛を収めるしかない。
「……以後、気をつけろよ」
 そう言い残すと忠次はスタスタと立ち去っていった。こうして忠勝は、家康の機転により虎口を脱することが出来たのである。
 それから、公の席に列したり家臣を交えて協議したり家康と顔を合わせる機会は何度かあったが、今日まで会話をするような場面は訪れなかった。
「……まさか、某に礼を言わせたいが為に呼び出したのでしょうか?」
 ちょっと棘を含ませて訊ねると、家康は文書を文机の上に畳んで置いた。少しだけ困った笑みを見せているが、怒ってはいない。先程の発言は単なる戯言だったのだろう。
「今日呼んだのは、先日の戦における論功褒賞についてだ」
 ようやく本題を切り出されて忠勝も合点がいった。
「その話なれば某は後回しにして頂いて構いませぬが……」
 恩賞を頂戴できるのは光栄なことだが、忠勝は尻込みした。先日の戦で勝利に貢献したのは別働隊を率いて活躍した榊原康政や、朝倉の攻撃を食い止めていた酒井忠次であり、その者達より先んじて褒美を貰うのは筋目に反する。ほんの些細なことかも知れないが、渡す順番を誤れば家臣の間に不平不満の火種となり将来的な禍根になりかねない。忠勝はそれを危惧した。
 確かに忠勝も敵陣へ斬り込み奮戦したが、首級は挙げていないし命令違反を犯したという後ろめたさがある。この時代の軍律違反は大変厳しく、その場で打ち首にされても文句は言えなかった。忠勝の行動は一歩間違えば自軍の敗北に直結していただけに、胸を張って恩賞を頂けるとは考えていなかった。
「儂もそう考えたが、『忠勝こそ今回の戦における第一の武功』と推す声が多くてな。康政、忠次、元忠、その他にも幾人か推挙している」
 手柄を立てた康政は齢も一緒で気が合う仲なので分かるが、身勝手な振る舞いを叱責した忠次やあまり接点のない元忠からも評価されているとは夢にも思わなかった。ここまでお膳立てされている以上は、自分が受けないと他の者の恩賞にも支障を来してしまう。
「……なれば、お受け致します」
 忠勝の殊勝な姿勢に家康は「そうか」と一言呟くと、不意に立ち上がった。
「ついて参れ」
 そう言うと家康は部屋を出た。何処に行くか分からないが、忠勝もその後をついていく。
 土地を渡すなら認め状を、金銭や刀剣を下賜するなら予め用意していた物を、その場で手渡せば済む話だ。だが、今回はそのどちらでもない。果たして主は何を渡したいのだろうか?
 途中、履物を履いて行き着いた先は、城の土蔵。古く今川の統治下にあった頃は手元に残った少ない銭で、今川の監視の目を盗んで入手した武器武具の類をこの土蔵の中に保管してきた。言わば徳川家中の者にとって思い入れのある蔵ではあるが……。
「皆の働きに応じて相応の恩賞で報いてやりたい気持ちは山々だが、今度の戦では領土も金も得ておらぬから、なかなか難しくてな」
 土蔵の扉を開けながら家康は申し訳なさそうに話す。
 戦でかかった経費や遠征および滞在に関係する費用は、救援依頼をした織田から礼金も含めて多額の銭を渡されたが、弁済などで手元に残るのは僅かな額だ。徳川家の直轄領も限られているので、それを分け与えることも難しい。そのことは忠勝も理解していた。
 蔵の中には埃の積もった鎧兜や刀槍が整然と並べられている。埃が堆積した分だけ時を重ねた事が伝わってきて、自然と先人の苦労に思いを馳せる。その中を家康はスルスルと歩いていき、奥の窓の下で止まった。
 窓から洩れて入ってくる光が、一本の槍を照らしていた。
「忠勝よ。ここにある槍、どう思う?」
 家康は目の前に置かれている槍について訊ねてきた。忠勝は家康の思惑が掴めず、率直な感想を述べた。
「……見事な逸品ですな」
 世辞ではなく本心であった。穂先から石突に至るまで丁寧に作られており、作り手の技術の高さと強い信念が一目触れただけで分かる。細部の金具から拵えの隅々まで手が込んでいる。その槍は、差し込まれた光を浴びてキラキラと輝いているように映った。正直な話、こんな土蔵の奥で眠らせておくのが勿体無いくらいだ。
 忠勝の反応を見て家康は一つ二つ頷いてから返した。
「そうか、気に入ったか。この槍は先日上洛した際に茶屋四郎次郎から贈られた品でな、もし良ければお主に授けようと思うのだが」
 茶屋四郎次郎(正式には茶屋清延)。元は三河の武士という出自ながら、商才があったのか京で呉服商を始めると一躍大商人の仲間入りを果たした。商売柄、都の公家や堺の商人とも交友があることから徳川家との仲介役を務め、その見返りとして三河特産の木綿の商権を優先的に渡していた。その関係は家康の代から急速に近づき、今では強い信頼関係を築いていた。
 下手すれば徳川よりも財力のある茶屋四郎次郎から贈られたということは、やはり相当値打ちのある品であるに違いない。
 しかし、どうしてそんな逸品を一家臣である自分に譲ろうとしているのだろうか。それにこれだけの品を家康が使おうとせず、土蔵の奥深くに閉じ込めておくのか。
「折角の業物ですので大将である殿が使われては―――」
「それがのう、この槍……“蜻蛉切”の銘をつけられているのだが、作り手が“村正”と縁のある者らしくて、な」
 歯切れ悪く明かしてくれた主の言葉に、逸品ではあるが使われない理由を理解した。
“村正”とは当代随一の刀鍛冶で多くの名品を世に送り出したが、徳川家では松平と名乗っていた頃から妖刀として忌み避けられてきた。三河の大半を支配するまで成長させた家康の祖父・清康が、家臣の謀反により殺害された際に用いられた刀が村正の作とされる。清康の死をきっかけに松平家の勢力が急速に衰え、結果として今川の傘下に入らざるを得ないくらいに弱体化した。また、家康も村正の小刀で指を傷つけた過去もあり、呪われた刀として家中に広く知られていた。
「こんな薄暗い中で眠らせておくなら、徳川で最も槍の似合う遣い手に使ってもらいたいと前々から思っていた。この槍、受け取ってくれるか?」
 最後に嬉しいことを付け加えられ、忠勝に断る理由は無かった。
「……では、ありがたく頂戴致します」
 妖力が宿る名槍。面白い、必ず使いこなしてみせる。並々ならぬ決意を胸に、蜻蛉切の柄をぐっと握る。心なしか、力が湧いてくるような気がした。
 これが後々まで幾多の戦場を共にする戦友との出逢いであった……。


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