三:大将首を挙げよ

 暴風雨が始まった未の初刻(午後一時)から四半刻、風や雷は収まり雨も小康状態になった。嵐に耐えながら進んだ織田勢二千五百は……桶狭間に陣取る今川本陣を見下ろせる高台に到達した。
 桶狭間に張られた幔幕には今川家の家紋の足利二つ引両が染められている。その周囲に見張りの兵が散見されるだけで、他の兵はあちらこちらに分散して固まっていた。振る舞われた酒で酒盛りをしていたか、それとも俄かに襲った猛烈な雨を凌ごうとしたか。どちらにしても、敵地にも関わらず非常に無防備な状態だった。
 総勢四万と喧伝していたが、今見えているのは多くても五千。しかも本陣の守りは薄く、三千くらいか。それならば今の織田方とほぼ互角だ。
 目の前に巡ってきた千載一遇の絶好機。仕掛けるなら、今だ。
「皆の衆、あそこに見えるのが今川の本陣だ」
 信長が指差した方向には足利二つ引両の家紋だけでなく、義元の馬印である今川赤鳥の紋が染められた旗も立てられていた。それこそ総大将の今川義元が桶狭間に居る何よりの印だった。
「狙いはただ一つ、大将義元の首のみ。他は打ち捨てよ」
 落ち着いた口調で将兵達に語りかける信長。首級は義元だけで、他は放置しろと宣言した。有象無象の者を幾ら倒したとしても、大将である義元を逃してしまえば勝利したとは言えないからだ。織田の将兵達も信長の言葉を静かに聞いているが、その眼は飢えた獣が獲物を探している時のようにギラギラと輝いていた。
 将兵達の顔を確かめた信長は腰に差した刀を鞘から抜き放つと、頭上に掲げて制止する。
 思い切り息を吸い込んでから、腹の底から声を発した。
「掛かれ!!」
 信長の号令を皮切りに、将兵達が鯨波を上げながら一斉に眼下の今川本陣へ突撃していった。我先にと味方同士が競い合いながら、手にした得物を振り翳して襲い掛かる。
 俄かに湧き上がった喊声に、幔幕の周りで警護していた兵達もすぐさま対処しようとしたが、機先を制した織田勢に呑み込まれて瞬く間に刀の錆となる。本陣から離れた場所で雨宿りしていた兵達は突如降って湧いた織田の軍勢に狼狽し、武器を捨てて逃げ出す者が続出。勇敢に立ち向かおうとする者も居たが、臨戦態勢が充分に整っておらず返り討ちにされてしまった。
 雲霞の如く押し出していく人波を見つめる信長の眼に、朱塗りの槍を握り締めて切り込んでいく利家の姿を捉えた。
(……又左よ。皆を納得させる武功を挙げ、本懐を遂げよ)
 織田家の頂点に立つ者として、特定の人物に肩入れするのは好ましくないことだと分かっていた。それも刃傷沙汰を起こして出奔した者だ。だからこそ信長は家臣を均一公平に扱い、信賞必罰では身贔屓が出ないよう細心の注意を払ってきた。しかし……親しく接してきた者が居るとどうしても目で追ってしまう自分が居る。
 又左の武運を秘かに祈っていると、利家の姿は人波に紛れてしまった。それで良い。自分の視線を感じて足を止めてしまうならそれまでの男だ。きっと必ず、武功を挙げる筈だ。
「はぁ〜……皆凄いなぁ」
 不意に、戦場とは思えない程に間抜けな声が上がる。誰かと思って声のした方を向くと、そこに居たのは藤吉郎だった。
 鉢金を頭に巻き、配られた胴丸を身に着け、支給された長槍を持っている姿は一介の足軽のように見える。ただ、決して強そうとは思えないが。
「こりゃ!! 油を売ってないで早く戦いに行かぬか!!」
 信長付の馬廻衆の一人が藤吉郎を咎めるが、信長はそれを手で制した。
「構わぬ。下手に突っ込んでも味方の足を引っ張るだけだ」
 遠回しに『戦力に値しない』とバッサリ斬り捨てた信長の物言いに、藤吉郎は申し訳なさそうに首を竦めた。馬廻の者も藤吉郎の存在を無視して周囲に敵が居ないか目を光らす。
 戦場を見つめている藤吉郎の体が微かに震えているのを、信長の眼は見逃さなかった。
 藤吉郎が信長という人物を隅々まで知ろうとしたように、信長もまた藤吉郎がどういう人物か見ていた。人並み外れた探究心を持つ信長はずば抜けた観察眼で個人の性格や器量を推し量ろうとしたのだ。
 貧しい水呑み百姓の生まれである藤吉郎は、誰よりも立身出世を望んだ。“美味い物を腹一杯食べたい”“広い屋敷に住みたい”“良い服を着たい”“綺麗な女性を抱きたい”、直截的な欲望こそ藤吉郎の原動力だった。草履取りから異例の出世を遂げて周囲を驚かせたが、藤吉郎は現状に満足していなかった。明確な終着点が無いからこそ、もっと上を目指そうと馬車馬のように働くのだ。
 その“出世の為なら何でもやる”と我武者羅に働く藤吉郎のやり方を『意地汚い』と貶す者も少なくなかったが、それは誤解であり大きな間違いだ。競争相手を蹴落としたり、他者を騙したり貶めたりしたことは一切無い。他者に理解を求め、手間も労苦も自らが一手に引き受け、周囲への迷惑を最小限に抑える配慮を凝らしていた。その点で言うならば、藤吉郎は織田家で一番綺麗な仕事をしていた。
「功名の為なら、火の中に飛び込むことも厭わないお主のことだ。怠けている訳でも、旨い所を横から攫う訳でもあるまい」
 信長の問いかけに藤吉郎は無言で頷く。 
「……死ぬのが怖いか?」
「はい。それもありますが……」
 信長の指摘に藤吉郎は素直に認めた。藤吉郎は言葉を探しながら続ける。
「……自分が傷つくのは勘弁願いたいんですが、人を傷つけるのも御免被りたいんです。おっ父[とう]は戦場に駆り出され、深い傷を負って戻ってきました。その後寝たきりになって田畑に出ることも適わず、古傷が痛むのか夜もろくに眠れず、悶え苦しみながら亡くなりました。人は五体満足に生きてこそ、生きている価値があるのです。戦場で数え切れないくらい敵を倒しても、人殺しに変わりはありません。人を殺して偉くなるより、人を活かして偉くなりたいです」
 いつもの剽げた口調とは対照的に、真面目な語り口で淀みなく話す藤吉郎。陽気で饒舌な仮面の下に隠れていた藤吉郎の本性を垣間見た瞬間だった。
 人を殺して偉くなるより、人を活かして偉くなりたい、か。なかなか面白いことを言うなと信長は感心した。
 武士にとって“死”は身近なものだ。合戦は無論のこと、平時でも面目を保つために切腹したり、謀叛の疑いがある者を成敗したり。そうした犠牲の上に武士の生活が成り立っていると言っても良い。だからこそ、武士はいつ死んでも良い心構えで日々を過ごす。
 しかし、百姓上がりの藤吉郎には武士の常識が備わっていない。それを藤吉郎のことを快く思っていない者達からすれば『恥を知らぬ』『見苦しい』と扱き下ろすだろうが、信長は違った。武家社会にとって異分子である藤吉郎を、貴重な価値観を持つ稀有な存在と捉えていた。
「猿よ」
 本心を晒した者には真正面からぶつかる。それが信長の流儀だった。
「皆は俺が怖い者知らずと口々に言うが、俺も死ぬのは怖い。命の危険が迫れば全てを投げ出して逃げたくなる衝動に駆られる」
 率直な気持ちを打ち明けると藤吉郎は驚きで目を剥いた。それもそうだ。今まで一度もそんなことを口に出したことが無いのだから。
 周囲の者達も事の成り行きを注視する中、信長は「でもな」と言葉を継ぐ。
「人を傷つけるのが嫌なら、お主は武器を捨てて自らの命を敵に捧げるか?」
「それは……」
 信長の指摘に藤吉郎は口ごもる。
「そんな酔狂な輩、居るはずが無いわな」
 答えに窮する藤吉郎を信長は斬り捨てた。俯く藤吉郎へさらに追い討ちを掛ける。
「『人を殺して偉くなるより、人を活かして偉くなりたい』という考えは立派だ。しかしな、そんな綺麗事は戦場で通用せん。嫌かも知れんが、戦場を生き抜くには傷つくことを承知で戦うしかないのだ。戦っている味方を置き去りにして逃げ出せば、例え命を永らえたとしても『味方を置いて生き延びた恥ずべき者』の烙印を押さえ、死に体も同然の扱いを受ける。武家に生きる者は、その手を汚さなければ高みを望めない。今後出世していきたければ、そのことは肝に銘じておけ」
 そもそも、武家が領民の上に立っているのは武器を持ち強い力を持っているからではない。武家が命を賭けて戦うことで領民の安心安全を保障する代わりに、領民が汗水垂らして得た作物や銭を対価として受領しているのだ。それを勘違いしている阿呆も少なからず居るが、血で汚れた手は武家が存在する意義の証であり代償でもあった。
 武家の生まれでない藤吉郎に、信長は武家の常識を伝えようとしていた。
 藤吉郎の器量は下っ端の足軽で収まるような男ではないというのが、信長の見立てだ。戦の道理や武士の仕来りを覚えれば、一軍を率いる将にまで上り詰められることだろう。但し、今のままでは難しい。信長が認めても他の者が絶対に認めないからだ。現に、皆が勇んで敵中へ突撃していく中、当の藤吉郎は躊躇してしまっている。その一事だけでも“臆病者”の謗りを受けるのだが、要するに藤吉郎は武家の者になりきれていないのだ。武家の価値観に囚われないのが藤吉郎の強みではあるが、この場合は無知こそ悪だった。
「猿、お主の股にぶらさげている物は何だ? 偽者か? 男なら腹を括れ」
 真面目な顔をした信長の口から猥雑な表現が飛び出すと、藤吉郎は思わず吹き出してしまった。馬廻衆の中でも懸命に笑いを堪えようとする者がちらほら見られる。
 くっくっくと噛み殺した笑いを溢すと、藤吉郎は迷いの晴れた顔で信長と正対した。
「分かりました。オイラなりにやってみます」
 そう言うと藤吉郎は長槍を構えて乱戦の中へ飛び込んでいった。駆けて行くその後ろ姿は貧相で頼りないが、やる気に満ち溢れているのは伝わってきた。
「……あの猿が、戦の役に立ちますでしょうか?」
 先程藤吉郎を咎めた者が訊ねると、信長は「ならぬな」とばっさり斬って捨てた。
「だが、今のあ奴に必要なのは功名ではなく場数を踏むことだ。その内、肝が太くなって皆が驚く程の手柄を立てるかも知れぬ。尤も、死なねばの話になるが」
 どれだけ期待しても、死んでしまえばそれまでだ。どんなに強い剛の者でも運が悪ければ呆気なく命を落とすのが戦場の慣わしだ。賽の目は思い通りになるが、人の運命だけはどうしようも出来ない。無論、俺自身も、だ。

 しとしとと降り頻る小雨に体を濡らしながら、信長は必死に勝機を見出そうと藻掻いていた。天の助けもあって奇襲は想定以上に嵌まったが、楽観視はしていない。時が経てば本隊襲撃の報を聞いた今川方の部隊が救援に駆けつけて来る。その前に何としてでも決着をつけなければならない。
 大将は、義元は何処に居る。
 聞いた話では、義元は公家のように薄化粧をしてお歯黒をつけているという。日頃は輿に乗って移動しているが、それは義元の足が短いために馬へ跨るのに難渋するから……という理由らしい。真偽は別として、噂通りの人物ならば、遠目からでもかなり目立つ。信長は戦場を隅から隅まで見回して、僅かな変化も逃さないよう目を凝らす。
 小降りになっていた雨がまた強くなってきた。激しく打ち付ける雨も構わず、信長は戦渦の坩堝と化した桶狭間を懸命に探す。
 ――その時だった。
 幔幕の裏から人目を憚るように逃げる一団が目に留まった。両軍入り乱れる大混戦にありながら、身に纏う甲冑は交戦した痕跡が見られず、絶えず周囲の様子を気にしていた。加えて、相応の身分の武者達で固められているのも、何か引っかかる。
まるで……要人を警護しているみたいだ。
 そして、人垣の隙間から覗いたのは――煌びやかな当世具足に身を包んだ男が、用意された馬へ跨るのに難渋している様だった。
「あそこだ!!」
 信長が反射的に叫ぶと、手にしていた刀の切っ先で一団の方角を指し示す。織田方の将兵が俄かに色めき立つ。
「あれこそ今川の総大将を守る一団に相違ない!! 功名の立て時は今ぞ!!」
 信長渾身の音声に呼応した将兵達が、義元達と思しき一団に殺到していく。対する今川方も大将を討たせまいと応戦、両軍の思いが互いにぶつかり合ってたちまち大混戦となる。
「お前達も行け!」
「しかし……」
 信長の身を守る馬廻衆に加勢するよう命じるが、本来の役目を放棄することに躊躇する馬廻衆達が戸惑いの反応を見せる。彼等は総大将の信長を守ることが最優先事項であり、もし万が一自分達が持ち場を離れて信長が討たれたら本末転倒だ。
 だが、信長は困惑する馬廻衆に間髪入れず怒鳴りつけた。
「俺の身くらい俺自身で守れる!! 俺に構わず大将首を獲ってみせよ!!」
 部下の懸念は百も承知していた。しかし、敗色濃厚な状況から転がり込んできた千載一遇の絶好機を死んでも離したくなかった。自らの身を危険に晒してでも、この場で決着をつけるべく虎の子の兵をつぎ込む決断を下したのだ。
 只ならぬ勝利への執念に、馬廻衆達も従わざるを得なかった。
「……承知致しました!」
 先ず数人が槍を手に駆けて行くと、それに続いて警護の任に就いていた馬廻衆達が混戦に飛び込んでいく。彼等は功名を求めて飢えた狼のように襲い掛かっていった。
 それを見届けた信長は、残った数人の近習と共に高台から下りた。大将一人だけ高所から望んでいれば格好の的となるからだ。流れ矢に当たって命を落とすなんて無様な死に方はしたくない。
 群がる雑兵に信長は刀を振るって応戦する。斬る、突く、撥ねる。返り血を浴びて甲冑が汚れても構うことなく、ただひたすら近寄る敵を倒していく。
「今川義元、討ち取ったりー!!」
 誰かの叫びが、戦場の真っ只中で突如響いた。その声は、喧騒の坩堝にあった桶狭間を漣のように伝播していった。
 織田方の将兵達は当初その声を耳にしても、その内容を理解出来なかった。しかし、時が経つにつれてその声の意味を分かると―――その場で歓喜の声を上げる者が続出した。言葉にならない声は天地を震撼させ、人々の心も揺り動かす程の衝撃だった。
 そして、総大将である信長もまた『義元討ち取る』の声を聞いた瞬間、信じられないといった表情を浮かべた。
(……真、なのか?)
 用心深い信長は、義元が討たれたとする情報を第一に疑った。しかし、偽りの情報を流して何の得があるのかと考え、虚報という線を消した。
 それでも、疑念はまだ晴れない。
(義元本人が討たれたと決め付けるにはまだ早い。誰かが身代わり、または影武者を立てたということも有り得る)
 懸命に冷静さを保つよう努め、歓喜に沸く周囲に流されないよう自らを戒める。
 仮に義元を討ち漏らした場合、態勢を整え直した上で再度上洛すべく兵を興すだろう。今回不測の事態を招いたことも鑑みて、次は念を入れた陣容で尾張へ乗り込んでくる。そうなれば、地力で劣る織田方に勝機は無い。一旦脅威は去るが、待っているのは絶望だ。
 周りでは雄叫びを挙げたり、腕を突き上げたりする者が多い中で、信長は最悪の事態が頭から離れず恐怖で体を震わせていた。
「殿」
 不意に、背後から声を掛けられた。動揺する姿を他人に見せられないと信長は平静を装いながら振り返る。
 そこに立っていたのは、長秀だった。
 どうやら長秀は信長の変調に気が付いていない様子で、いつもと同じように落ち着いた口調で話し始めた。
「お待たせ致しました。首実検の支度が整いました」
 首実検。あぁ、義元と思われる首か。一瞬何の事か分からなかったが、すぐに理解した。
「左様か。すぐに参る」
 微かに声が上ずったが、長秀は何も言わず下がっていった。体の底から込み上げてくる震えを必死に堪えながら、信長は用意された場所へ向けて一歩を踏み出した。

 桶狭間の一角に幔幕が張られ、急拵えの本陣が設けられていた。とは言え、桶狭間に滞陣している今川本陣を突くために行軍速度の遅い荷駄部隊は帯同しておらず、苦肉の策として今川方の物資を拝借して設えたのだが。
 総大将の義元を討たれた今川方は、算を乱して駿河方面へ逃げたとする斥候の報告が上がっている。まだ大高城や鳴海城の周辺に今川の兵が残っているが、こちらへ向かう気配は見られない。結果、圧倒的劣勢に立たされていた織田方の奇蹟的な大勝利―――というのが大多数の評価だった。思いがけない勝利に織田方の多くの兵が余韻に浸っており、皆一様に明るい表情をしていた。
 ただ一人、総大将である信長を除いて。
 床机に腰を下ろした信長は固く目を瞑り、腕を組んだまま微動だにしない。
(喜ぶのはまだ早い。この目で義元の首を確かめるまで、俺は決して信じぬぞ)
 険しい顔つきで一言も発さない総大将を、家臣達は戦勝気分で浮かれることなく冷静であろうと努める威厳に満ち溢れた御姿と勘違いしていた。家老格の柴田勝家や若手将校の佐々成政も信長の殊勝な姿勢に倣おうと表情を引き締めていた。
 やがて……小姓が首台を捧げて進み出てきた。
 首実検を執り行う際は様々な仕来りがあるが、合戦直後という事情もあり簡略化して行われている。信長も略式ながら作法に則り、首台に据えられた義元の首を見る。
 刹那――信長の眼が大きく見開かれた。
 首台に据えられていた御首は、顔一面に白粉を塗られ、唇から覗く歯はお歯黒が染められていた。噂に聞いていた公家風の装いだったが、それより着目すべきなのは表情。
 眉間に深い皺を刻み、口はへの字に曲がり、醜く歪んだ表情。
 京を目指すと高らかに宣言して駿府を発った筈なのに、それがまさか取るに足らない尾張の小倅如きに不覚を取るとは。二度と動かないと分かっていても、その表情から悔しさや怒りが手に取るように伝わってきた。
 ふと、義元の口の中に何か含まれているのに気付いた。信長が訊ねると、控えていた小姓が答えた。
「首を掻く際、指を噛み千切ったとのこと」
 その言葉が事実だとすると、義元は今際の際まで生き延びようと足掻いたこととなる。信長が絶望的な状況を引っくり返そうと奔走したように、義元もまた同じように逆境を覆そうとしていたのだ。その凄まじい生の執着に、感じ取るものがあった。
 仮に影武者であったならば、ぎりぎりまで抵抗した後に潔く討たれる場合が多い。主君の身代わりとなって死ぬことで自らの役目を完結するからだ。しかし、目の前に置かれている首の主は醜い姿を晒している。
 従って、この首は総大将義元の首に間違いないという結論に達した。
 死者に最大限の敬意を表すべく、信長は目を閉じて合掌する。
(……武士として、立派な最期だった)
 心の中で語りかけると、合掌を解いてから小姓に告げた。
「義元の首級は首桶に入れ、丁重に保管しておくように」
 目の前に運ばれてきた首級を、信長は初めて『義元の首級』と口にした。それ即ち、信長の中にあった疑いが晴れた証でもあった。
 この時代、自軍の勝利を喧伝する目的で敵方の首級を人目に晒すことも多かったが、信長は丁重に扱うよう指示を出した。敗者に対して最大限の配慮を示したのだ。
 控えていた小姓が「承知致しました」と答えると、首台を捧げて速やかに下がっていった。それと入れ替わるように、別の小姓が一人の武者を伴って現れた。
「殿、義元を討ち取った毛利新介殿をお連れ致しました」
 毛利新介は信長の馬廻衆の一人で、信長も見知っている人物だった。才気溢れるとは言い難いが、忠義心が強く与えられた職務をひたむきに取り組む印象があった。よく見れば、左の薬指の先端に包帯が巻かれている。
 その新介が片膝を付いて頭を垂れると、義元の首級を挙げた時の状況を語り始めた。
「朋輩の服部小平太が敵将義元へ一番槍を付けましたが、反撃され膝を斬られました。そこへ某が義元の脇へ槍を突き、崩れた所を馬乗りになり首級を挙げました」
 大将首を獲たにも関わらず、落ち着いた口調で説明する新介。興奮で舞い上がったり武功を誇るために話を盛ったりする者も少なくないが、新介はありのままの事実を述べていると信長は感じた。
 信長は二つ三つと頷くと、膝を付いて新介の肩に手を置いた。
「此度の働き、真に見事であった」
 主君からお褒めの言葉を掛けられた新介は深く頭を下げた。その頬は僅かに赤みが差していた。
 それから信長は立ち上がると、傍らに控えていた小姓に声を掛けた。
「政綱を呼べ」
 信長の思いがけない発言に、その場に居合わせた全員がきょとんとした顔を浮かべた。てっきりこのまま論功行賞へ移るとばかり思っていたので、信長の意図が呑み込めていなかった。大将首を挙げた新介こそ武功第一に相応しく、その人物を差し置いて目立った活躍をしていない政綱をこの場に呼ぶ理由が分からなかった。
 それでも主命に抗うことは許されず、小姓が一旦下がっていく。暫くして先程の小姓に伴われて政綱が姿を現した。
「お呼びでしょうか……?」
 おどおどと訊ねる政綱。当人も呼び出しを受けたことに困惑している様子だった。
 既に『毛利新介が左の薬指の先端を噛み千切られながらも義元の首級を獲った』という噂は味方中に広まっており、政綱の耳にも届いていた。主君の面前で噂の当事者と並ぶこととなった政綱だが、何故自分が呼ばれたのか思い当たる節は全く無かった。
 そんな政綱とは対照的に、満足気な笑みを浮かべた信長が声を掛けてきた。
「政綱。先に申した通り、此度の武功第一はお主だ」
 事情を知らない小姓が驚愕の表情を見せる中、信長は高らかに告げた。
「お主には知行三千貫文を授ける。仔細は追って申し付ける。これからも励め」
 今度は政綱も驚きで目を剥いた。『今川本隊が桶狭間で休止している』と知らせただけで六千石相当の知行が与えられるなんて。それも直接刃を交えた末に義元の首級を獲た新介より先に、だ。破格の扱いと言って良い。
 その後、新介には感状と幾許の金がその場で信長の手ずから与えられた。一番槍をつけて負傷した服部小平太も同等の扱いだった。首級を挙げた者及び一番槍をつけた者が武功第一と考えられていた当時の常識に照らせば、信長の仕置は明らかに常軌を逸していた。
 大半の者が新介こそ武功第一と思っていたが、信長だけは違っていた。
(政綱があの時あの報せを届けてくれたからこそ、迅速に桶狭間まで向かえ、その結果万に一つの勝ちを拾えたのだ。大将首を獲たのは新介だが、新介一人の働きで勝利に導いた訳ではない。よって、新介の働きより政綱の働きの方が価値がある)
 信長は論功行賞において首級や一番槍だけでなく、勝利に大きく寄与する情報や工作をもたらした者も評価することを示したのだ。これにより、腕っ節に自信の無い者でも登用される道が開けたこととなる。例えば……藤吉郎とか。
(……それに、此度の戦では新たな領地を得ておらぬからな)
 発端となったのは今川による尾張侵攻、つまり織田方からすれば防衛戦だ。敵の領地を攻める時とは異なり、勝っても領地が増える訳ではない。一方で、精一杯働いてくれた家臣達には働きに応じて褒美を出さなければならない。そうなれば直轄領を割くか、金蔵を開けるしかない。それに加えて、戦死者や重傷者には見舞金を払わなければならないし、消費した矢や秣の補充もしなければならない。どちらにしても金が掛かる。
 今川方の総大将を討ち取る戦果は抜群だが、一方で出費が嵩むのは頭が痛い所だ。
 政綱の知行地が決まっていないのも、新介の対価が吝いのも、そうした背景がある為だ。信長としてももう少し報いてあげたい気持ちはあるが、青天井とはいかない。
 その後も首実検は続いたが、合戦前に信長が『義元の首以外は打ち捨てよ』と命じた手前もあり、感状を下したりお褒めの言葉を掛けるだけに留まった者が大勢を占めることとなった。

BACK TOP NEXT

Designed by TENKIYA