二:うつけ、足掻く(後)

 熱田神宮を出発した織田勢三千は、未の正刻(午前十時)に善照寺砦へ入った。善照寺砦は大高城と共に今川方へ転じた鳴海城を監視する為に設けた拠点で、対今川の前線基地の位置づけも含まれていた。
「何か報告は入っているか?」
 信長が砦を守る兵に訊ねると、問われた兵が沈痛な面持ちで答えた。
「……先程、丸根及び鷲津の両砦が陥ちたと報せが」
 丸根・鷲津の両砦は、知多半島の先端に位置する大高城へ人や物の行き来を封じる役割があり、実際に効果を上げていた。兵糧に困窮していた大高城を救助すべく、今川の先鋒を任されていた松平・朝比奈の両勢が丸根・鷲津の両砦に攻め懸かったという報せは信長にも既に届いていた。
 松平勢は今川家の属国という扱いを受けており、今回の戦で是が非でも実績を残さなければならない立場にあった。そのため、犠牲も覚悟の上で丸根砦へ遮二無二攻め立て、二刻足らずで陥落させた。この戦闘で丸根砦を預かっていた佐久間“大学助”盛重以下、兵五百が命を落とした。
 鷲津砦の方も、松平勢と連動する形で朝比奈勢が攻め懸かった。こちらは篭城策を選んだが彼我の差は埋め難く、朝比奈勢の猛攻に耐えられなかった。この戦いで、信長の大叔父・織田“玄蕃允”秀敏と飯尾定宗が討死している。
「……で、あるか」
 言葉短く応える信長。
 敵が攻めてきた時点でこういう結果になることは分かっていたが、自分を信じて戦ってくれた者が亡くなるのは辛かった。犠牲になった者を悼んで信長は丸根と鷲津の両砦がある方角に向かって手を合わせる。
 しかし、いつまでも悲しい気持ちを引き摺ってもいられない。死んだ者の頑張りに応えるため、絶対に勝たなければならない。
 合掌を解いた信長は「信盛」と呼び掛ける。程なくして佐久間信盛が現れた。
「お呼びでしょうか?」
「五百の兵と共に、此処を任せる。何としても守り抜け」
「承知致しました」
 信長の命に信盛は表情を引き締めて応じる。
 善照寺砦は鳴海城へ睨みを利かせる拠点だが、今川方が清洲へ向かう際には進軍を食い止める防波堤の役割も含まれていた。信盛は稲生の戦いでも武功を挙げ、“退き佐久間”の異名で知られていた。信盛の実力を買った信長が重要な拠点を任せることにした。
 それと……今川と内通の疑いのある信盛を、同じく嫌疑のかかる林秀貞と引き離す意図もあった。互いに連携が取れなければ、万一の事態が起きても傷を浅くすることが出来る。
 こちらの意図を悟られぬよう神妙な面持ちで信盛が退っていくのを見届けると、次に呼んだのは……。
「猿」
 こちらは一声掛けるとすぐに現れた。足軽格であるにも関わらず信長の声が届く範囲に大体は居るから不思議である。
「へい、お呼びでしょうか?」
「お主の知り合いに使いを出せ」
「その必要はないですよ」
 信長は言っていることが呑み込めないのか、小首を傾げる。
「……お主、知っておったのか?」
「いえ、オイラが頼もうとしたら先に動いていたみたいで」
「……用意がいいな」
「そりゃそうで。通常の倍の金を払うと言われれば嫌でも躍起になりますって」
「で、あるな」
 藤吉郎の返答を聞いて納得した。金が懸かれば人の心も変わる。
 信長が清洲城を出る間際に藤吉郎へ四つのことを託したが、残りの一つは……。
『鳴海近隣の村人を装い、今川の本陣へ酒を届けろ』
 敵が侵略してきた時に、村々で乱暴狼藉や田畑が荒らされるのを防ぐ目的で敵軍に誼を通じるのはよくある事だ。戦勝を祝す名目で酒や金品を献上し、代わりに禁令を出したり年貢の減免を出したりしてもらうのだ。尤も、貰う物は貰って約束を違えることも少なくなかったのだが……。
 藤吉郎は尾張中村の水呑み百姓の生まれだが、武家に仕えるのは織田家が初めてではなかった。
 十五の時、継父の折檻に耐えかねた藤吉郎は故郷を飛び出して諸国放浪の旅に出た。途中、木曽川の上流域を根城としている土豪・川並衆の頭領・蜂須賀小六と出逢った。機転が利き人懐っこい性格の藤吉郎を気に入った小六は暫くの間、自らの屋敷に逗留させた。
 その後、藤吉郎は時勢に乗る今川家へ仕官する為に駿河へと旅立った。その途中、遠江で今川家家臣・松下加兵衛に拾われて頭角を現したが、同僚の嫌がらせに遭い止む無く退転。故郷の尾張に戻った藤吉郎は、その後織田家に仕官した……という経緯がある。
 織田家で頭角を現すようになった藤吉郎は、昔の伝手を頼り小六の力を借りるようになった。小六の方も、織田家で一定の地位を確立させた藤吉郎に協力することで利益を得ていた。信長はその関係に着目したのだ。
 裏仕事も請け負うと噂される川並衆を利用して、信長は一計を案じた。
 丸根・鷲津の両砦が陥落したことで先行きは良好、まだ幾許か織田方の砦は残っているがそれも時間の問題。清洲を攻め落とせば尾張は手にしたも同然。前途洋洋で気分を良くした所に村人から酒が届けられれば……勝ちを意識している今川方は必ず足を止める。酔いが入れば自然と気も緩む。それこそ信長の狙いだ。
 少しでも今川の足を止めさせ、隙が生まれる状況を作り出す。逆転の可能性を僅かでも上げるべく、最大限手を尽くす。その為ならば味方の犠牲も止むを得ない。
 未明に丸根・鷲津の両砦が襲撃されたと一報を受けた時、信長は万に一つも助からないと悟った。逆に考えれば、局地戦であろうと勝利したならば必ず論功行賞が行われる。その頃合に酒が運び込まれれば……前祝と称して宴に発展すると信長は考えた。
 川並衆も独自の諜報網を持っているらしく、こちらから指示を出す前に今川の動きを察知していた。手間が省けて助かる。
 これで打てる手は全て打った。あとは運を天に委ねるだけだ。
 ……神も仏も信じてないのに、今更神頼みか。自分勝手な解釈に自嘲の笑みが零れる。
「……殿?」
「いや、何でもない」
 藤吉郎が不思議そうな顔でこちらを見ていたので、咄嗟に緩んだ口元を引き締める。
 これから一世一代の大勝負に打って出るのだ。織田の命運を握る俺自身が気を緩めていては勝てる戦も勝てなくなる。
 必勝を信じて、いざ行かん。命の使い時は、今だ。

 午の初刻(午前十一時)、信長は二千五百の兵を率いて善照寺砦を出発。四半刻(三十分)後に中嶋砦へ入った。中嶋砦もまた善照寺砦と同様に鳴海城へ睨みを利かせる出城だったが、今川の本隊が迫っている現況ではその意義が薄れつつあった。
 これから先に織田方の砦は無く、信長は出撃に向けて最後の仕上げに入ろうとしていた。
 物見を放って今川の動向を探ると共に、まだ合流を果たせていない味方を待とうと考えた。それと平行して兵に休息を与え、来るべき決戦に備えてもらう。
 中嶋砦に入ってから四半刻が経とうとしていた頃、動きがあった。
 柴田勝家や森可成と自軍の状況について意見交換していた最中に、見張りをしていた兵が駆け込んできた。
「申し上げます!! 隼人正様より伝令が到着しました!」
「通せ」
 佐々“隼人正”政次は先代信秀の代から仕えている家臣で、弟“内蔵助”成政は信長の馬廻衆を務めている。そう言えば今日は姿を見ていなかったなと今更ながら気付いた。
 伝令を送ってきたということは、何か伝えたい事があるに違いない。取り次いでくれた者に促して、伝令を中に入れさせる。
 間を置かず、兜を目深に被った武者が面前に通された。途中交戦したのか具足は返り血で汚れていた。本来であれば目上の者と面会する際は兜を脱いで顔を晒すのが通例だが、非常時であるので黙認された。
 武者は信長の面前で跪くと、深く一礼してから言葉を発した。
「申し上げます! 佐々隼人正様と千秋四郎様率いる手勢が今川勢を急襲致しました!」
 姿が見えないと思ったら、本隊と別に行動していたのか。熱田神宮に集った者共には先駆けを固く慎むよう言い渡したが、聞いていないのであれば単独行動を咎められない。先駆けは味方の士気を上げる効果があるので、禁じない限りはある程度まで容認されている。
 武者の滔々と話す声は聞いていて心地良く感じたが、信長は秘かに驚きを覚えた。
(……又左、か)
 通されてきた姿を目にした瞬間、利家だと分かった。声を聞いて確信を得た。
 刃傷沙汰を起こして出奔した経緯はあるが、喧嘩別れした訳ではない。元々利家は忠誠心が篤く魅力のある男だ。御家存亡の危機と聞いて駆けつけてくれたのだろう。
 政次の部隊に加わったとなれば、誰かが手引きした者が居るはずだ。仲が良かった藤吉郎の仕業か。いや、奴は武家と関わりが薄いから、恐らく権六の指図か。彼奴も又左のことを高く買っていたからな。
 罪人という立場上、姿を現せばその場で手討ちにされても文句は言えない。斬られるのを承知の上で加わったのだ。その心意気がとても嬉しくて、今すぐ抱きしめてやりたい衝動に駆られる。
 しかし――俺は一軍の大将だ。多くの将兵の命を預かっている以上、私心は固く封じて一介の武者と対峙する気持ちで臨む。
「……ですが」
 言葉を区切った武者の声は、微かに震えていた。
「多勢に無勢、形勢は覆し難く。佐々隼人正様、千秋四郎様、刺し違える覚悟で敵中へ突貫致しました由!!」
 恐らく最期まで見届ける前に発ったのだろう。無念さや悔しさが込み上げてきたからか、跪く上体が小刻みに震えていた。
 手柄を立てて帰参を認めてもらおうと考えたのだろう、懸命に戦った証左はその返り血に塗れた格好から充分伝わってくる。特に腰の辺りに汚れが目立つのは首級を提げていたからに違いない。負け戦で得た首級に価値は無いと考え、途中で投げ捨てたか。
「……ご苦労だった。疲れているだろう、暫し休息致せ」
 信長は労いの言葉を掛けるが、武者は首を横に振った。
「お気遣い頂き、恐悦至極に御座います。なれど、御家存亡の危機に瀕しているこの状況で某一人だけ休む訳にはいきません。何卒ご同道をお許し頂きたく」
「……で、あるか」
 武者がそう言うのであれば、信長も無下に断れない。今は一人でも多く戦力が欲しい。応諾すると武者は一礼してから下がっていった。
 武者の姿が見えなくなったのを確かめてから、勝家が声を落として訊ねてきた。
「……殿。又左を参陣させてよろしかったのでしょうか?」
「何を申しているのだ、権六」
 信長が勝家の言葉を遮るように返した。
「今のは名乗らなかったが隼人正の手の者だ。誰かと勘違いしているのではないか?」
 先程の武者が利家だと分かっていたが、信長は敢えて惚けてみせた。勝家も察したのか「失礼致しました」と平謝りした。
 この戦いで誰もが認めるような武功を挙げることが出来れば、利家の帰参を許そうと信長は考えていた。だからこそ利家が手勢に紛れることを黙認したのである。
 二人だけの密約を交わした直後、取次の者が現れた。
「申し上げます。簗田四郎左衛門様が面会を求めております」
「通せ」
 簗田“四郎左衛門”政綱は九ノ坪(または此壷)城主で、所領は中嶋砦にも近いことから、この辺りの地理に精通している人物だった。
 程なくして通された政綱は、中肉中背で特徴のない顔をしていた。信長が知る政綱は寡黙な性格で、家臣が集う場でも発言している姿を見たことが無かった。
 信長の面前で跪いてから一礼すると、政綱は単刀直入に本題を切り出してきた。
「今川本隊と思しき一隊が、桶狭間にて休止しているとの報せが届きました」
 政綱の報告を耳にした瞬間、信長は雷に打たれたような衝撃を受けた。無意識に立ち上がった拍子で腰掛けていた床机が倒れたが、それも信長は気付いていなかった。
 天啓を得た。信長はそう直感した。
 桶狭間は鎌倉往還から分かれた道沿いにある谷あいの地で、周囲を丘陵に囲まれた盆地である。沓掛城から鳴海城へ至る際に用いる道の一つだが、道幅は広くなく桶狭間の土地も手狭な為に大人数が一箇所に留まるには適さない場所だ。溢れた部隊は前後の離れた場所で休まざるを得ず、その分だけ兵力も少なくなる。
「今川の様子は」
 興奮で声が震えそうになるのを懸命に堪えながら、信長は訊ねた。
「戦勝を祝しているのか、陣中にも関わらず宴が催されているみたいだと聞いています。雑兵達にも酒が振る舞われているとか」
 傍らで政綱の報告を聞いていた勝家が膝に置いた拳を静かに、そして強く握り締める。勝てる見込みが全く分からない中で、初めて勝機を見出した瞬間だった。
 それは信長もまた同じ思いだった。
「政綱」
「はっ」
 信長から呼ばれた政綱が畏まった様子で応じる。
「此度の合戦における武功第一は御主だ。楽しみにしておれ」
 政綱は面喰った表情で呆然としている。主君の発した言葉の内容を理解出来てなかった。
 まだ今川に勝った訳でもなく、そもそも政綱は部下から上がってきた内容を報告しただけである。敵と槍を交えてもいないのに武功第一と言い渡されるとは、夢にも思っていなかった。
 政綱が曖昧に頭を下げてから辞すると、信長は即座に傍らで控えていた勝家に全軍出撃を指示した。モタモタしていては折角掴んだ勝機が手の中からすり抜けてしまうかも知れない、と信長は必死だった。

 中嶋砦に入って半刻後、信長は約二千の兵を率いて出撃した。出撃に際して、旗指物や馬印といった目立つ物は砦に置いていくことと、馬の口に枚を銜ませることを厳命した。旗指物は遠くからでも目立ち、馬の嘶きでこちらの動きを勘付かれる恐れがあるからだ。今川本陣がある桶狭間まで今川方に見つからないよう、あらゆる危険性を排除するよう気を配った。
 桶狭間で休止しているという政綱からの情報を元に、織田方は敢えて間道を進んだ。鳴海城へ通ずる主要な道は今川方の軍勢で溢れているので、地の利がある織田方はその優位を活かしてそれを避けるのが狙いだ。
(……恐らく、今川は当面動かない)
 馬上で揺られながら信長は思考を巡らせていた。
 今川本隊は駿河から延々行軍を続け、ここまで戦闘はないが疲れは確実に溜まっている。織田家の本拠地の清洲を攻める前に将兵達に休息を与え、士気を高める必要がある。
 未明に丸根・鷲津の両砦を陥とし、先頃の局地戦でも織田方の部隊を撃破している。首級が届けられて軍全体が勝利の高揚感に包まれる頃合に、地元住民から酒が届けられる。そうなればこれ幸いと部隊を休止させ、将兵達に前祝と称して酒が振る舞われるに違いない。酒が入れば四半刻で行軍再開とはいかない。しかも織田は少勢、恐るるに足らずと捉えていれば……『別に無理をして行軍を急ぐ必要もない』と考え長陣となることだろう。
 しかし……一方で、このままズルズルと足を止めてくれるとも考えにくい。
 今川義元は家督を巡り家中を二分する争乱を制し、軍事面でも秀でた能力を持つ当代髄一の武将。“海道一の弓取り”の異名は伊達ではない。限りない優勢であっても、敵地で長時間軍勢を一箇所に留めておくことの愚は百も承知している筈だ。何かあともう一押し、行軍を遅らせる材料があれば……。
 ――その時だった。
 俄かに上空が暗くなったかと思うと、突然凄い勢いで雨が降り出してきた。それも大粒の雹が混じる程に激しく、地面を叩き付ける雨粒で辺りが白く霞む程だった。おまけに暴風も吹き荒れ、遠くでは雷鳴が聞こえる。
「何という天佑!!」
 激しく打ち付ける雨に全身を濡らしながら、信長は天に向かって叫んだ。
 目を開けているのも辛いこの状況ならば、行軍中の姿も雨が隠してくれる。激しい雨や雷鳴、吹き荒れる風の音で行軍の音も掻き消してくれる。そして何より、休止中だった今川勢は雨宿りに必死で行軍の再開は先延ばしにされる。敵に見つかりにくくなっただけでなく、信長が今一番欲しがっていた時間が転がり込んできたのだ。
(これも熱田の神の御加護なのか?)
 織田方にとってあまりに都合の良い展開に、無神論者の信長でさえ「この世に神は存在するのか」と信じてしまいそうになった。この好機、絶対に逃す訳にはいかない。
 容赦なく浴びせられる雨で視界が妨げられ、道は泥濘と化していたが、歩みを止めている暇はない。御家存亡の危機ということもあり、将兵達は粛々と足を進めた。

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