寺子屋に帰ってくると中岡が部屋にいた。
部屋を見渡すと辺り一面に仏典が転がっていた。どうやら一日中部屋に籠もって仏典を複写していたようだ。
「おう。遅かったな。」
日が暮れてようやく戻ってきた事も気にも止めていない様子だ。
それよりも今写している巻物はなにやら貴重な仏典なのかひたすら下を向いて写経に勤しんでいる。
どかっと座り込むと大きく息を吸い込んで吐き出すと共に返事を返した。
「あぁ・・・。」
自分でも気付いていないみたいなのだが、今日起きた出来事が案外体に来ているらしく、フラフラとしている。
肩が重い。倦怠感が感じられる。途轍もない睡魔に襲われつつある。
流行風邪なのかも知れないが、今はそんな悠長な事を言っていられる事態ではない。
ゴロリと横になると畳のひんやりとした冷たさと独特のざらつきが顔に伝わってくる。
時代と共に風化しているが微かに畳の香りも漂ってくる。
なんだか心が落ち着く感じになった。そしてうつらうつらとしてきた頃・・・・・・
「ところでいつもの場所に行ってきたのか?」
中岡は突如として話しかけてきた。意識が朦朧(もうろう)としていた時に声を掛けられてハッと我に帰った。
(そういえばもうそんな時期なのか。)モヤモヤとした頭の中でなんとか考えられたのはこれ唯一だった。
いつの間にか夢の中に紛れ込んでいた。
周りを見渡すと一面白い霧に覆われている。視界はほぼ零と言っても過言ではない。
だが、自分の足は何かに導かれるようにその濃霧の中を前に歩き出していた。止まろうと思っても止まらない、寧ろ止まりたくない気持ちが働いた。
黙々と歩き続けた後に見えたのは一軒の朽ち果てた廃屋だった。
外見は今にも崩れ落ちそうなのだが、柱が強固なのか風が吹いてもビクとも動かない。
風で動くと言えば屋根瓦の代わりに乗せてある藁と、足下の草くらい。
壁は廃材を集めて自分で釘を打ち付けているのか、形が異なっている。その為、穴が空いているところにはまた廃材で繕っている。
扉というものはなく、簡単な筵(むしろ)が掛かっているだけの簡素な作り。
これだけの判断材料では余りにも不気味である。普通の人なら躊躇する所を躊躇いなく筵の入り口を潜った。
中に入ると意外にも快適な雰囲気を醸し出していた。
部屋の中央には囲炉裏があり、その上には煙が上へ昇るのを利用して魚を薫製にしている。
その囲炉裏の側にはこれまた筵が敷かれており、火の暖かさに触れながら雑魚寝をすることも可能。
壁には酒の入った徳利(とっくり)が幾重にも重なって掛かっており、その隣には長い釘にお猪口(ちょこ)を引っかけてある。
この光景を見ても滑稽には思えない。それよりも心の底に懐かしき故郷の念が沸き上がってきた。
人の気配もしないので外に出てみると一人の老人が立っていた。この家の主だろうか。
目深に帽子を被り、片手には長い杖を持っている。
誰だろう。何処かで見た覚えがあるような。一生懸命記憶の糸を手繰り寄せようと努力しているがなかなか出てこない。
“お前、また怠けたな”
後ろにも同じ老人の姿が。よくよく見渡すと同じ姿の老人が群がってきている。
それも同じ言葉を発しながら。まるで操り人形のように。
正に恐怖である。頭が狂ってしまいそうだ―――。
そこで夢は途切れた。
気が付くと上様と中岡が脇に座っていた。
体中からは冷や汗が止めどなく流れ出ていたのか濡れた布団と着物が体にまとわりついて実に気持ち悪い。
「坂本。体の具合はどうだ?」
事の経緯を伺うと三日三晩高熱に魘(うな)されていたらしく、ずっと寝込んでいたらしい。
京の都に到着してから緊張の連続でその糸がプツンと途切れて発症したらしい。
幸いにもお龍が都一の薬の調合士を訊ねて解熱薬を処方してくれたそうだ。
最も忍びなら自分で調合する事も可能なのだが、「餅は餅屋」と言う様に上様直々に本職に任せた。
「・・・三日も寝ていたとは忝ない。」
「西郷殿や桂殿から見舞いの品物を預かっている。暫く此方の方はやっておくから静養に赴くが良い。」
「重ね重ねの御厚意、誠に勿体のうございまする。」
その後数日間坂本は寝込んだが、五日後には全快した。
京の烏丸三条。坂本はある場所に向かっていた。病み上がりな体にも関わらず歩む足は別段常人と変わらない。
向かった先は刀鍛冶の居る店だった。
烏丸三条に店を構えている“立風”。腕利きの職人が揃っている事でその実力は畿内では一二を争う。
その中でも刀鍛冶師で全国で五指に入る腕を持つ職人が居た。
彼の名は八代五右衛門(やしろ ごえもん)。元は平民なのだがその腕前では勿体ないと帝直々に名字を賜ったそうな。
若い頃から刀を打つことに専念し、年数だけなら既に五十年を数える。
その腕は神業と言っても過言ではない。非常に年季の入っている腕で剣を打つ時は正に真剣勝負の眼差しである。
彼の打った太刀は使うことだけでなく芸術的にも非常に価値のある一品を仕上げる。
坂本は毎回この刀鍛冶師に依頼している。
「頼もう〜。」店先の暖簾から入っていくと誰の姿もなかった。
この声に反応して奥から若い刀鍛冶師が出てきた。
「あ、お侍さんですか。」
額から吹き出ている汗を手拭いで拭いながら応対した。中では刀を打っているのだろう。
現在のガラス細工をしている人達は真夏だと工芸の室内温度が50℃を超えてもおかしくない環境下に置かれていることも稀ではない。
「失礼だが、五右衛門殿は?」
訊ねてみるとその若い連中の顔色は一瞬にして曇った。
「あぁ、親方ですか・・・。親方は最近になって隠居しました。」
この話を聞いて一番驚いたのは本人だった。
まさか隠居生活に入っているとは・・・。年齢的にはまだまだ元気でやっていると思っていたが体力が持たないのか。
その若い連中に五右衛門の現在の住処を教えてもらい、早速訪れることにした。
隠遁生活を送っていた場所は京都の嵐山だった。それもかなり山奥の方である。
実際に向かってみたが、かなり簡素な造りの家に住んでいた。
こんな家に住んでいて雪が積もったら大丈夫なのか、と一抹の不安を抱えつつも家の扉を開けた。
中を覗いてみると刀を打てる窯と煙突があること以外別段変わらない。
辺りを見渡してみると誰も居ない。留守か。
改めて出直してこようと振り返ったとき、そこに人影があった。
「誰だ?この老い耄れなんぞに用があるモンは。」
釣り竿を肩に掛けて反対側の手には魚を入れている魚籠がある。どうやら近くの川で魚釣りをしていたようだ。
「五郎左殿。お久しゅうございます。」
「おぉ、お前さんか。今回はどんな土産話を持ってきてくれたのか楽しみじゃわい。」
すると五郎左右衛門は自宅に入ろうとせず、そればかりか反対側の方向へと歩き出してしまった。
呼び止めようとすると此方に振り返って手招きをしてヒョコヒョコと歩いていった。
仕方なしに自分も彼の後を着いていくことにした。
暫く歩いて行き着いた先は川の側にある小さな小屋の集落だった。
住んでいる者達は大体想像できる。都に住むことが出来ない“えた・非人”と呼ばれと蔑まれている者達であろう。
着ている物はボロボロで所々繕っている箇所が見受けられる。草鞋も履けず、砂利道でも素足で歩かざるを得ない。
「ほれ。今日釣れた収穫じゃわい。」
ありがたい、と深々と頭を下げる貧民の人々。中には手を合わせて合掌をする人の姿も。
「坂本殿。これが最も下で苦しんでいる姿なのだ。この世の中はもっと変わらなければならん。民が繁栄してこそ安寧の世を迎えるのだ。心の奥底に必ず秘めておくのだぞ。」
これは何かを諭すかのように語りかけていた。まるで何かを悟った賢者のように。
そうして自分が今日釣った魚を分け与えると自分の住んでいる小屋へと戻っていった。
囲炉裏に薪を焚いて暖を取ると早速今回の用件を見抜いた。
「・・・そろそろお主の太刀を直す季節かな。」
「そうですね。早一年になりますし。あれから京を出発して江戸に一度戻った後に信州を経由して北陸路を旅しました。そして金沢では一ヶ月ほど滞在していました。」
太刀を手渡しで五郎左右衛門に見せると顔色が曇った。
「ふむ。お主、相当振り回したな。刀が大分痛んでおるのぉ。悲鳴を上げている。」
「どれくらいの時間がかかりますか?」
「・・・一から打ち直すとして大体二週間程かかる。早く仕上げても十日か。」
十日も自分の腰から太刀を手放すとなるとこれは一大事である。
武士にとって刀は自分の命と言っても過言ではない。
さらに紫電の方も鞘から出してみると五郎左右衛門の喉が唸った。
「それにこっちの方も使ってはいないが長い間使っていないから刀が拗ねている。こっちも直さなければならない。じゃから占めて二十日から一ヶ月与らせてもらう。」
流石にこの姿格好で脇差一本とはなんとも貧相である。それにいざという時の対応を考えるとあまりにも不用心だ。
「・・・どうにかなりませんか。脇差一本では不意打ちを喰らった場合に太刀打ちできません。」
「ふむ。確かに武士にとって刀とは身体の一部。今時の武士ときたら自らの身体の一部を鍛えるのを疎かにしている。だから最近の若い武士は好かん。」
「しかし代わりの太刀が見当たらないのですが・・・。」
「おぉ、そうだった。お前さんに見せたい物がある。着いて来なさい。」
また簡素な入り口の暖簾を手で払って外に出ていくとまた貧民の集落へと歩いていった。
衰えない脚力でずかずかと集落に入っていく姿を見て戸惑いながらも着いていく坂本。
しかし辺りからは見慣れない若いモンが自分達の領域に踏み入っていく姿を快く思わない連中が白い目で睨み付けてくる。
そんな容赦なく浴びせられる痛い視線を潜り抜けてようやく一軒の仮設小屋に辿り着いた。
小屋の中に入ると鉄槌や鋏み、それに鉄屑が足の踏み場もない程一面に散らばっていた。
「わしゃな、此処に来て本当に心が洗われる思いだった。土をいじったり、暢気に釣りをしたり、時には柄でもないが詩歌を嗜んだり・・・。でも次元が違う者が居ることを此処に来て知った。明日食う事に困る者、怪我や病になっても医者に診てもらえない。差別だけで他人からは白い目で見られる。彼等に少しでも生活の糧になってくれるように文字を教えたり、メシを分け与えたり、薬を煎じてやった。何もかもが初めての体験で全てが無我夢中だった。・・・じゃが此処での生活は非常に活き活きとした生活を送る事が出来る。わしは神様のように崇められている。なんとも皮肉じゃのぉ。彼奴達を堕とす為に一役買ったワシがこんなになるとは。」
この話をただただ黙って頷いて耳を傾けるしかなかった。
全国に幾つの数の非人がいるのか現在の幕府はおろか我々ですら把握できていない。
華のある大奥や将軍様の生活と比べれば非人の生活は正に天国と地獄である。
「じゃがのぅ。彼等の魂は根元から腐っていない。欲望に手を染めていないから彼奴達に刀を打たせると実に透き通った傑作を作ってくれる。・・・わしがその時点に到達するまで二十年かかる技術を半年で習得した事には甚だ驚きとしか言い様がない。」
そして奥の手作りと思われる見窄(みすぼ)らしい棚から一本の刀を取りだした。
「わしの全ての技術を結集して一から作り上げた傑作、“なまくら”じゃ。」
その銘を聞いて愕然とした。あまりにも縁起が悪い極まりないからだ。
俗に“役に立たない刀”を“なまくら”と呼ぶだけに心持ち心配が尽きない。
そんな困惑した顔を見て五郎左右衛門は大笑いをした。
「かっかっか。心配ない。この出来は今まで作ってきた刀の中でも最高の一品じゃ。この裏山に竹藪があるから試し斬りでも致せ。」
なんと傲慢な翁なのだ。この時ばかりはそうとしか感じられなかった。
確かにお誂(あつら)え向きで竹藪があった。
土地の地主には話をつけているらしく、自由に斬って良いらしい。
人気もない。着いてきた者も居ない。誰に構わず斬り続けることが出来る。
しかし試す刀はと言うと鞘に収まっているとは言え、実に奇妙な感触だった。
重くもなく、軽くもなく。普通なら鞘に収めているだけで相性がわかるのにこの刀からは相性が感じられない。
つまり万人向けなのか。誰にも使いこなせるのか。
そう勝手に断定した。決めつけた方が無駄に考えるより気が楽だからだ。
呼吸を整え、静かに目を瞑る。精神と肉体を鎮めて集まった力を一気に解放する。
例え試し切りとは言え真剣勝負。怠った場合使い手に大きな損傷を与えかねないからである。
笹が風で靡く音が辺り一帯をこだましている。その音は竹の中に吸い込まれていくように静まっていった・・・。
風が止む頃、坂本に風神が舞い降りた!
急な斜面にそびえ立つ竹の群生を斬りながら一気に頂上まで駆け上がる。そして頂上に到達すると静かに刀を鞘に収めた。
すると今まで何ともなかったようにそびえ立っていた竹が次々と薙ぎ倒されていった。
竹藪の群生地帯だったはずなのに彼が切り倒した一角だけ直線的に広く見渡せるようになっていた。
そこへ先程の五郎左がやって来た。
「おぉ、精が出るね〜。」
今まで見通しが利かなかった場所が一瞬にして様変わりしていることに驚きを隠せなかった。
だが今の五郎左右衛門にとってそんな事より自分の作品がどんな感じなのか確かめる“職人”の意地が強かった。
「どうじゃ〜、感触の方は?」
そう言われても返す言葉が出てこなかった。
結論から言うと“良い”に違いないが、その中には紆余曲折が含まれている。
使い手に馴染んではいないが、実に忠実に刀が使い手の力に組み込まれていく。
時に重く感じ、また軽く感じるのは多分刀の作用なのだろうか。まるで使い手の意志を鏡のように写しだしている。
刀が使い手に馴染んでいない事は大変な事を意味する。
互いの関係は一心同体が一番望ましい。その為全国に名を轟(とどろ)かすくらいの剣士は必ず刀を選ぶ目が厳しく、自分の呼吸に合った物を愛用している。
もしも呼吸が合わない剣を使った場合、刀が折れる若しくは使い手に大きな打撃を与える危険性がある。
使い易い、と言えば使い易い。しかし“馴染んでいない”という点では重大な欠点でもある。
なので五郎左右衛門に返事を返すことなくただただ俯いているしか方法はなかった。
右手に持った刀をただじっと見つめる様子に何か察したのかまた大声で叫んだ。
「その刀、お前にくれてやる。答えが見つかったらいつでもワシの元に来なさい。」
言いたいことだけ言ってその場をそそくさと立ち去っていった。
一人残された坂本は暫く呆然と同じ体勢で立っていたが、空に暗雲が立ちこめて雨が降り出すと鞘に刀を納めて雨宿り出来る場所を求めてその場から立ち去った。