其の七「窮地」




 翌朝。坂本の姿は寺子屋にあった。
 その様子は昨日の激戦を微塵とも感じさせない程いつものようにぐっすり眠っている様子だった。
 起きてみると既に太陽は最高点に達していた。
 お登勢に頼んで遅い朝餉を食べ終えると久しぶりに街へ繰り出した。
 街では瓦版売りが昨日の出来事を必至に話して通行人の目を引こうとしている。そんな所に彼が近付いていって瓦版を一つ貰った。
 中に書いていることを一通り目を通してみると昨晩の出来事が書いてないようでホッと胸を撫で下ろした。
 大通りを歩いてみると都と呼ばれているだけあって人々の賑わいは江戸に勝るとも劣らない。
 行き交う人々の顔には活き活きとした人間味溢れる表情が伺える。
 平穏こそ何より大切―――。街に出ると決まって感じる気持ちである。
 ふと蕎麦屋を覗いてみると其処には上様の御身が見受けられた。
 まさかこんな所に上様が潜んでいるなんて誰も気付いていないだろう。
 「おぉ、坂本。」
 彼方もこっちを見つけたらしく、こっちだと言わんばかりに手を振った。
 上様のお誘いに断ることも他人のフリをすることも出来ず、蕎麦屋へ入っていった。
 「いらっしゃ〜いまし〜。」
 「あ、蕎麦を頼みたい。席は此処で頼む。」
 「かしこまりました〜。」
 席に座ると再び上様は蕎麦をすすりはじめた。
 「この蕎麦なかなか旨いなぁ。あんな所にいたらこんな美味しい料理が一生食べられないだろう。」
 「ははは・・・。」
 私としてはどう答えて良いのかわからなかった。
 上様がいつも口にしているモノなど毒味どころか見たことなどない。寧ろどんな味なのか想像したこともない。
 恐らくは宮廷料理さながらの新鮮な物を食べさせてくれないのだろうな、と考えるだけに留まった。
 そうこう思いを巡らせている内に「お待たせしました〜」、と娘は蕎麦を席まで運んできた。
 早速口に運ぶが妙に胃が重い。何故だろうか。
 しかし上様も蕎麦を食べている建前、自分は食べないわけにはいかない。無理矢理ながら胃に押し込んだ。
 二人が食べ終わると上様は懐から巾着を取りだしてお金を机の上に置いた。
 「ご馳走様。勘定は此処に置いておく。」
 「はいはい。おおきに〜。」

 店を出ると少数の侍に囲まれた。
 「貴様、昨夜大阪城代の屋敷に居た男だな。」
 正面のごつい男が訊ねた。
 しかし当の本人は全く聞く耳を持っていない。
 「はて、拙者は昨晩京の居酒屋にて一人晩酌をしておりましたが。人違いでは?」
 「ほぉ…。貴様しかおるまい。幕府方隠密、坂本永禮殿。」
 此奴、拙者の正体を知っている―――。
 という事はやはり誰かが情報を握っているとしか考えられない……。
 「どうします?勝殿。」
 「さぁて、相手の出方次第ですな。」
 昨日大暴れして今日平然と京の街を歩いているのだから一緒に居る者も当然殺される運命であろう。
 それを示しているかのように彼等からは夥(おびただ)しい殺気が感じ取れた。
 此処で決着を付けても良いのだが生憎ここは人通りが多い。殺傷沙汰になったら間違いなく奉行所に突き出されて相手の思うツボにされてしまう。
 最善策は“逃げる”事だった。
 こうすれば刀を使わずに相手から逃げられるので実に都合がいい。但し「弱虫」等々と罵倒されかねなく、あまり良い手段ではないが。
 人垣をかき分けて早々と距離を広げる二人。
 それに対してどんどんと距離を縮められず息を切らしているごつい男達。
 「ハァ、ハァ・・・。おい、京の街中に包囲網を作れ!藩邸の下級武士も集めろ!大至急だ!」
 連中の中で一番若い男が藩邸の方向へ走っていった。
 そして近くの茶屋にどっかと座り込む残りの者達。
 その中に一人息を切らさずに立っている男がいた。
 「・・・我々で捕まえられなかったのだから仲間を掻き集めても無意味ではないか?」
 ふと疑問に思ったらしく、リーダー格と思しき侍に声を掛けた。
 するとその侍は怒った表情で言い放った。
 「黙れ!堂上!貴様この組頭に文句があるというのか!?」
 明らかに自分達で手に負えない事に対する苛立ちの矛先がこの男に向けられた。
 仕方なく引き下がったが、彼の顔色には未だに疑念の色が浮かび上がっていた。



 坂本達は時間を追う事に次第に袋小路に追い込まれていった。
 数の原理で虱潰しに袋の鼠にしていくから逃げようにも逃げられない。
 見つかり次第刀を抜いてのチャンバラになるのでそれだけは何としても避けたいところ。
 「勝殿。このままではいつか見つかってしまう。如何致す?」
 坂本は訊ねてはみるが・・・
 「いや〜、坂本。この追っ手から逃げるとはなかなか味わえない事だな。非常に面白い。」
 ノンキだと言うか、平常心を保っているというか。通常の人では考えられないような感じ方で流石に戸惑いを覚える。
 もう少し緊張感を持って行動して欲しい、と思うが緊張感があったら江戸から抜け出してくるような真似はしないのだが。
 そうこう考えている内に二人は裏路地にまで追い込まれていた。
 声の距離は次第に近付いてきていることも感じ取れる。
 すると坂本は民家の家にかくまってもらい、難を逃れることにした。
 狙いは小さな子供が居ない家庭。出来れば老夫婦が一番手っ取り早い。
 幸い一件目にして見つけることが出来た。
 木戸を開けるとそこには二人の老夫婦が暮らしていた。
 「おや、なんでっしゃろか?お侍はん。」
 「すまない。只今何者かに追われている身だ。勝手ですまないが、些かの間かくまって頂けないか?」
 「えぇですぜ。」
 幸い家主は快く承諾してくれた。
 もし見つかったら自分達の命もないというのに・・・。
 「かたじけない。」
 そそくさと見つからないように押し入れの中に隠れる。
 ここまら土足で入ってきたとしても見つからないだろう。と思ってのことだろう。
 そうこうしている内に次第に声は此方へ近付いてきた。
 声は家の前で止まった。この家の前で立ち話をしているらしい。
 見つけたか?いや、見つかっていない。そんな大声で交わされるやり取りが手に取るように聞こえる。
 まさか自分達が立ち話している家の中に標的が隠れているとは微塵にも思っていないだろう。
 (お、これは気付かずに行くな。)
 安心しきって気を緩めると突如ガラリと戸が開く音がした。
 誰かが家に入ってきた!
 すると主は親しげに話しかけた。
 「おぉ、堂上はんか。まぁ、上がっていきなはれ。」
 なにやら親密な間柄の者か。しかも上の名前を名乗っていることから相手は武士か。
 相手が敵なのか味方なのか判別できない状況なので物音を立てずに潜むことにした。
 「久しいですな五郎左殿。腰の調子は如何ですか?」
 「あぁ、大分ましになりましたわ。堂上さんのお陰ですわ。さすが石田はんの家臣や。」
 この言葉を耳にして一瞬で背筋に緊張が走った。
 敵か味方かわからない状況で潜むのと敵のいる状況で潜むのとでは全然違う。
 大体この御仁がどんな関係か知らないが、はめられたということは無さそうだ。
 するとまたしても急にドンドンと古い畳の上を歩いて此方の襖に近付いてくる音が聞こえてきた。
 (いかん!)
 このまま扉一枚を開けられたら一巻の終わり。敵方の手練れと戦い、指名手配になり、行く末は逃亡生活で上様が将軍職に返り咲けなくなる―――。
 こうなれば相手が扉を開けたら間髪入れずに切り伏せるしか方法は無い。
 じっと息を顰(ひそ)め、機会を疑う。
 すると外から声が掛かった。
 「おーい、堂上〜。見つかったか?」
 すると扉一枚隔てて立っている男が返事を返す。
 「いや、こっちにはいないみたいだ。別の場所を探してくれ!」
 相分かった、と声が聞こえると外にいた男は別の場所へと歩いていった。
 暫くしてガラリと襖を開け、光が射し込んできた。
 目が眩んでいたが、目が慣れてよくよく見るとその男は丸腰だった。
 「安心なされ。あなた方を斬るつもりは毛頭ござらん。」
 そう言われても簡単に信用できない。なんせ敵方の人間。もしかしたら敵が潜んでいるかも知れない。
 チラリと御仁の方を見るが安心しきっている様子。
 それどころかなかなか出てこない我々に対して主人はまるで猫を扱っているかのようにおいでおいで、と手招きをしている。
 敵の罠か。あの老人も実は忍びで我々を誘き出すのに一役買っているのか。
 多くの考えが脳裏に浮かんでは消えていった。
 ふと現実に戻ると上様はいつの間にかさっさと安全な押し入れから出ていた。なんて用心のない人だ。世間を知らないにも程がある。
 ・・・とよく考えてみると上様は庶民の感覚とはかけ離れていたことをすっかり忘れていた。
 そんで一人ポツンといつまでも押し入れに居座っているのも何だか嫌なので出ることにした。
 「・・・確か貴方様は坂本殿でしたな。」
 何故か自分の知っているが、そんなに気にはならなかった。
 多分相手の情報網で事前に我々の情報を入手していたのだろう。
 無愛想にあぁ、と応えるに留まった。未だに信頼が置けない。
 「江戸から遠く離れたこの京の街でもあなた様の噂はかねがね聞き及んでおります。なかなかの剣の腕前だそうで。」
 「そんな事無い。江戸の街には免許皆伝を習得しているものなんて腐るほどいる。」
 すすめられた薄汚い湯飲み茶碗に入ったお茶を啜りながら素っ気なく答えるに留まった。
 まさか睡眠薬が入っているかも知れない。もしかしたら自白剤か?そんな事も脳裏に過ぎった。
 「・・・ところで石田候の謀反の噂は聞いていますか。」
 突如として本題に持ち込まれた。辺りの空気は一瞬にして重たくなってしまった。
 「まぁ・・・ね。」
 上様が何となく思わせぶりのある雰囲気を残しつつも曖昧に答えた。
 すると声色を小さくして話を続けた。
 「拙者は謀反に関しては反対派なので御座います。何か手伝える事がありましたら何なりと申しつけ下さい。」
 「相待った。貴殿は石田候に仕えている身なのに何故我々へ翻(ひるがえ)るのですか?」
 「我々“侍”は元々民の安泰を勝ち取る為に刀を取って戦いに赴いていた身。それを今更になって民を巻き添えにしてまで天下を覆そうとはとても正気の沙汰とは思えないのです。」
 この男の話は一理ある、と内心感心していた。
 さらに男は話を続けた。
 「確かに武士に在らざる事とは委細承知しておりまする。しかし個人の野望が成就されたとしても決して国の為になるとは考えられません。」
 正論である。古今東西に於いて自我に勝てず欲望のままに横暴を振るっていた者は長続きせず、血筋が絶えてしまった一族が数多くいる。
 今は少なからず上様の目が光っているのでそんな事は決してない(と信じたい)。
 「例え拙者が末代まで恥と言われようとも裏切り者と呼ばれても構いません。民の事を想ったならば拙者の武士としての誇りは捨てましょうぞ。」
 「・・・相判った。貴殿の命、この勝が与ろうではないか。」
 今まで腕組みをして黙って聞いていた上様が遂に英断を下した。
 なんとも賭けに近い状況である。これがもしも芝居の上手い相手の罠だったら計画どころか上様の命すら危ぶまれてしまう。
 未だに相手を完全に信用しきっていない自分にとってこの判断はあまりにも無謀としか思えなかった。
 しかしこの決断には逆らえない。全ては上様の采配に委ねられているのだから。
 相手の男はなんとも言い表せない嬉しい顔で喜びを表現した。
 「おぉ・・・・・・、有り難い。この喜びを表現したいが何とも表現しがたい・・・。」
 その大きな瞳からは光るものが微かに見えた。
 これで民が救われる。そういった所なのか。
 「拙者堂上嶽家(どうじょうたけいえ)と申します。なんなりとお聞き下さい。」
 堂上、という性に思い当たる節があった。
 暫く一生懸命何でなのかと考えるとようやく思い出すことが出来た。
 「・・・失礼ながら堂上殿。堂上、と申しますともしや・・・」
 「ははは、お気付きになりましたか。」
 少し謙遜とした笑いが部屋に響いた。
 「左様。拙者の父、嘉見左右衛門(かみざえもん)は関西では有名な堂上流という剣術の師範で御座います。僭越ながら拙者はその次男坊に当たります。」
 剣術に長けている者なら一度は戦ったことがあると言われる“堂上流”―――
 初代堂上流継承者“堂上嘉見左右衛門”は元々大和の国の生まれであった。
 大和と言えば太古の昔には都が置かれていた事がある歴史ある街を思い浮かべる者が多いだろうが、彼は大和の田舎で育った。
 齢15の時に剣の道に入り、以後天性の才能を武器にメキメキと腕を上げ、関西で知らぬ者がいなくなる程の実力にまで成長した。
 剣の道を極めたと周りが認め始めた25の春。彼は突如全国行脚の旅に出て周囲を驚かせた。
 彼は頂点に立っていない、と未だに思っていた。全国を放浪する中で数多の猛者へ挑戦し、また挑戦を受けいずれも勝ってきた。
 この全国行脚の修行で遂に彼の前に敵はいなくなった。
 そうして自分の剣の技を後生に伝えるべく剣流の看板を立てたのは41という当時としては異例の若さだった。
 現在の嘉見左右衛門は二代目と歴史は浅いが、これまでに数多くの猛者を輩出してきた。
 その剣技は一言で言い表せば“押しの一手”だが相手にしている立場から見ると非常にやり辛い。
 何故なら攻撃と攻撃の間の間隔が短く、反撃の暇を与えない事が最大の一因と言える。
 現在は三代目の長男を育成するため、老身に鞭を打ちながら齢72で尚も頑張っている。
 「成る程。さぞかし剣の腕は凄いのでしょう・・・。」
 「いえいえ、拙者なんて全然父上に遠く及びませんよ。では拙者はこの辺で失礼仕ります。」
 立ち上がると次の待ち合わせの約束を決めてそそくさとその場から立ち去っていった。

BACK TOP NEXT

Designed by TENKIYA