其の四「始動」




 その後5日間は何事もなかったかのように敵側からの攻撃は無かった。
 拍子抜けのまま大文字山にまで辿り着くことが出来た。
 大文字山というと京都の名所にも思われるかも知れないが、実はそんなに人が来るような場所ではない。
 せいぜい人が集まるのは送り火(大文字焼き)の時くらいしかない。
 なので格好の待ち合わせ場所と言っても良い。
 「・・・さて。お龍の到着を待つか。」
 腰を降ろして長旅の疲れを休めることにした。
 中岡はゴロンと寝転がってぐーぐーいびきをかきながら眠り始めた。
 対して坂本はそよそよと草の揺れる音に耳を傾け、気持ちを安らがせていた。
 5日前から警戒しながら旅してきただけに精神的な息抜きが必要なのだろう。
 坂本が次に目を開ける頃には夕陽が沈みかけている所だった。
 隣で死んでいるように眠っている中岡を叩き起こすと既に辺りは闇に包み込まれていた。
 しかしその場の何か不審な気配を見逃してはいなかった。
 「・・・。誰だ。何故この場所に居ることが分かった。」
 背後に忍び寄る黒い影。忍び独特の“間”が見え隠れする。
 眠い目を指で擦っている中岡が素なのか演技なのか相手は分からず機会を伺っているが多分相当の腕の持ち主と見れる。
 「貴様、隠密だな。」暗闇に潜む者は此方に訊ねた。
 「だったらどうする。」坂本は少し挑発気味に返答する。
 その会話にようやく自分の身に危機が迫っていると気付いた中岡は身構えた。
 後ろは断崖絶壁。逃げようにも逃げられない。
 これが平地なら敵を撒く事も少なからず出来たかも知れない。但し自分一人だけの話だが。
 「悪いが坂本殿、中岡殿。貴様等が生きていては困る。死んでもらう!」
 横一筋に細い手裏剣を紙一重で避けて抜刀する。
 しかし相手の方が上手だった。投げたと同時に此方に突っ込んできて死角に潜り込んだ。
 ヤバイ。そう思ったときには顔が殴られていた。
 唇から血が少し出た。しかしこれくらいの威力なら踏ん張れる。
 片腕に持っている刀を一閃すると相手は後ろへ下がった。そこへ坂本は足を相手の腹へ一蹴した。
 しかし相手は腕で見事人間の弱点である脇腹を抑えていた。
 「ほぅ・・・これは貴殿の実力を甘く考えていたな。失敬。」
 顔を覆う布を弛めると白髪が暗闇の中はっきりと見えた。生憎表情までは見えなかったが。
 「それは光栄な・・・。で、何で拙者達を狙ってるんだ?」
 「忍びの口が軽かったら長年生きていけない。」彼はサラリと話した。
 如何なる拷問に屈せず、数々の誘惑にも負けず、目的の遂行に全力を尽くす。それが“忍び”。
 この老獪は恐らく多くの山場を乗り越えてきた猛者。一騎当千に値する実力を持ち合わせているに違いない。
 これ程の実力を持つ刺客を送り込んでくるとは相手も相当我々を警戒しているのだろう。
 5日間攻撃しなかったのは我々を油断させる為だったのか・・・。
 「でもお前さんはヤケに口が軽いな。」中岡は含み笑いを浮かべながら喋りかけた。
 相手もフッ、と鼻で笑った。
 「死ぬ者には少し多弁になって死への恐怖を和らげてやらないと。」
 「だったら影の黒幕教えてくれないか?死ぬ者への餞(はなむけ)として。」
 「生憎だが答えられないな。貴殿は未だに諦めている者の目ではないからな。」
 皮肉か、嫌みか。最も聞き出したい情報に簡単に口を割らない。
 再び両手で柄を強く握ると坂本は相手に突っ込んだ。
 それに呼応した中岡も続けざまに大刀を振りかざして突進してくる。
 「ふん。その粋を勝って苦しまずに逝かせてやる!」
 相手が腰にぶら下げた小太刀を抜くと逆握で迎え撃つ。
 その時だった。静かな闇に発砲音が鳴り響いた。
 何事か、と思った坂本と中岡は足を止めた。
 迎え撃つ体勢のまま倒れ込んだ老獪は心の臓が一つの小さな穴で貫通されていた。即死だ。
 未だに何が起きたか掴めていない二人は呆然とその場に立っていた。
 「・・・今のは種子島か?」
 「いや、種子島にしては弾が小さい。一体何がどうなっているのか検討もつかない。」
 「これは“ピストル”という外来の武器だ。」
 突然後ろの林から声が聞こえてきた。
 咄嗟に二人は身構える。敵なのか、味方なのかわからない者に対して・・・。
 雲の隙間から月明かりが差し込んできた。真っ暗闇な辺り一帯が照らされる。
 月明かりに照らし出された謎の男の正体は・・・・・・・。
 「・・・う、上様!」
 その顔の主が判明すると刀を鞘に戻して膝を地面に着けた。
 姿格好は些か貧しいが、確かにその顔は現将軍のお顔だった。
 「久しいの、永禮。それに頑真。」
 親しげに語りかけてくる上様に対して緊張の色が隠せない二人。
 寧ろ今の心境は緊張よりも驚愕の方が大きいが。心臓の鼓動は速くなっていくばかり。
 「さ、こんな所で話すのもなんだ。寺子屋に参ろうか。」
 「はっ、お供いたします!!!」
 誰にも気付かれないように京の街へ入っていった・・・。




 民宿“寺子屋”。
 坂本が京滞在時に贔屓にしている宿屋である。特に女将のお登勢は非常に京都に来たときに毎度お世話になっている。
 心意気に惚れているらしく、一度寺子屋で襲われたときにはコッソリ裏から逃がしてもらった経験もある。
 寺子屋の扉を開けると其処には待ち侘びたように座って女将が待っていた。
 「久しいですな。お登勢殿。」坂本は迎えてくれたお登勢に労いの言葉をかけた。
 「ホンマ、お待ちしておりましたわぁ。何時来るんか待っていましたわ。」
 坂本の言葉にニコッと笑って深々とお辞儀をした。
 「おや、今日は新しい人を連れてきたんですね〜。」
 新しい人、とは上様の事である。中岡は何回か坂本と一緒に京都滞在時にお世話になっている。
 その凛々しい顔立ちに頬を赤らめてまじまじと見つめていた。
 「初めまして。勝玄宗(かつげんしゅう)と申します。今後宜しくお願いします。」
 「かしこまった挨拶おおきに〜。私此処“寺子屋”の女将をしておりますお登勢です。よろしゅう。」
 「お登勢殿。メシは要らないから風呂の準備をしてくれないか?」
 「わかりました。少々時間が掛かりますので先に部屋に行って待っていてくださいな。」


 部屋の障子を閉め切ると一気に坂本と中岡は下座に座った。
 別に気にしていない、と上様は言うのだが二人には台頭の席に座ると天からの罰が下りそうで怖かった。
 今までの旅に於いての現状報告と土産話を済ませると話は本題に移った。
 「・・・して、何故上様は5日で京の都まで上ってきたのですか?」
 「いや、普通に船で江戸から大阪へ来たんだ。無論菱垣廻船に忍び込んで。」
 なんて大胆不敵な将軍だ、と驚愕の思いだった。
 普通の将軍なら輿に乗ってのんびり東海道を大名行列の様にして行くのが主流。
 しかし単身、しかも民間の商業用に使われる荷物運びの船に隠れて乗船して来るから驚きである。
 前代未聞というべきか無謀と言うべきか破天荒というか。
 京滞在中の江戸に於ける職務はどうするのですか?と訊ねるとこう答えた。
 「あぁ、影武者がやってくれる。心配ない。あんな退屈で中身のない仕事では誰でも3日で飽きる。」
 そんな国家の一番大切な機関で代理の一人を代わりに置いて心配ないの一言で片付けるのは伊達に肝が据わっていない。
 これは何回か抜け出した経験が有るな、と二人は実感した。それも長期の滞在を何回かこなしている。
 上様というお方はもしかしたら窮屈な場所にはいつまでも居ることなく外へ飛び出すやも知れない・・・。
 薄々とそんなことを脳裏がよぎった。
 ふと脇を見るとお龍が隣に座っていた。
 「お龍。ご苦労であった。」
 「大阪城代、それに京都所司代の邸へ偵察に参りました。」
 流石上様、手が早い。
 大阪城代は常日頃大阪城にいるわけではなく、大阪に屋敷を構えている。京都所司代も同じである。
 見取り図を指しだした上で報告を淡々と話し始めた。
 「やはり大阪城代は天下をひっくり返そうとお考えらしいです。対して京都所司代の方はお止めになろうと考えていらっしゃるらしいです。」
 現在京都所司代の役職に就いている片貝は幕府の中でもかなりの権力を持っている重鎮。
 以前は大老にまでのし上がった経験があるが、現在は息子に全てを相続させて自分は静かな京都に引っ込んでしまった。
 しかし大阪城代の謀反を簡単に手玉にすることも可能。だが様子がおかしい。
 この老いぼれは幕府一の平和主義者で戦は好まない。こんな政権を覆す大事が起きたとなると自分が井の一番に反対するはずである。
 「しかし片貝殿は只今家老のもめ事で頭を抱えているそうです。」
 「なぬ?もめ事?」
 話を聞くとこういう事らしい。
 京都所司代の片貝には指折りの家老が二人居る。
 どっしりと構え戦上手な西郷筆頭家老。何事も豪快にこなし、堪忍袋の緒も長い。
 対して常に冷静に物事を考える参謀的存在な桂前筆頭家老。主に内政を担当する切れ者である。
 この全国に名を轟かす両者が常に均衡を保って片貝を支えてきた。
 だが欠点があった。両者は典型的な犬猿の仲なのである。
 一つの意見に対しても『白』と西郷が話せば桂は『黒』と答える。
 互いに人望はあるのだが完全に片貝家は西郷派・桂派に真っ二つに分かれていた。
 この状況に頭を抱えるのは板挟みにされている片貝だ。
 齢70を超えて未だに健在な間に相続を決め幸い息子一人だけだったから良かったものの、もし男が二人いるとしたら確実に幕府に目を付けられていただろう。
 度々二人の仲を取り持とうと努力してきたがなかなか解け合えない。
 奴等が仲良くなればサッサと逝けるのに、と冗談なのか本気なのかわからない冗談を最近では口にし始めた。余程心配なのだろうか。
 「成る程・・・。状況はよくわかった。坂本、中岡。」
 「はっ。」
 下座に控えている二人は声を揃えた。
 「お主達は明日より片貝邸に入り、両人と親密になれ。そして仲介させろ。」
 「心得ました。」
 上様直々の勅命。しかも秘密厳守で誰にも話したらいけない事―――。
 二人同時に頭を深々と下げた。坂本の声は少しばかり震えていた。
 歓喜で震えていたのか、先行きの不安で震えていたのかわからない。しかし確かに震えていた。


 翌日。早速京都所司代の上屋敷を坂本は訪れた。
 まずは西郷から会って話をすることにした。
 待たされること数分。大柄な男が部屋に入ってきた。
 「お待たせして申し訳ないでごわす。」
 最初この声を聞くと随分と訛がある言葉だな、と思った。なにしろ薩摩(現在の鹿児島県)の出身らしい。
 肌の色は南国育ちとあって黒い。そして体格は中岡並、いやそれ以上か。
 武術に秀で農業にも詳しい。人を惹き付ける魅力も兼ね備えている。
 そして一度戦いが起きれば率先して戦う“武神”―――。
 「いえ。此方こそのんびり庭園を眺めておりましたので。拙者加賀藩の家老、坂本永禮と申します。」
 「ほぉ。これは律儀な者でごわすな。おいどん京都所司代の片貝殿の筆頭家老、西郷吉之助と申します。」
 そうこう話している内に女郎がお茶とお茶菓子を運んできた。
 お茶を啜(すす)っている間に彼は大きな口で一つ菓子を放り込むと一気にお茶で飲み込んだ。
 なんとも一つ一つやる事成す事の仕草だけでも豪快だが、そこがまた憎めない。
 こういう所が人を惹き付けるのか、と少々感心していた。
 「ところでお前さんは何故この屋敷に来もうしたのですか?」
 此処で自分は裏のことは一切語らず全てを話した。
 「いや、実は噂になっておりまして・・・。なにやら桂殿と西郷殿の仲は非常に悪いと。」
 「そうでごわすな。おいどんと桂どんとはなかなか気が合わないでごわす。まぁ、そんな大した事ないので心配ないでごわすが。」
 「それが実は大変な事なんですよ〜。」
 ずずいと座布団ごと西郷に近付いた。
 興味津々な表情で西郷も大きな体を持ち出してきて此方に向かってくる。
 「ほぉ・・・それは一体なんでごわすか?」
 「西郷殿は言わば陰陽道では“陽”に当たります。対して桂殿は同じように考えれば“影”。互いに悪いところばかりしていたら何の得もしませんよ。」
 陰陽道の話にはイマイチ疎いのか首を傾げた。
 昔平安朝の時代に陰陽師などが活躍した時代は黒歴史として滅多に語られることはないが、歴史学者は必至に資料探しに躍起になっている。
 今の現在の世の中でも特に占いなどに陰陽が使われている。
 脱線したが話に戻ろう。
 「つまり仲良くしましょう。喧嘩なんてしていたって互いに利益はありませんし、他から漁夫の利を狙われるかも知れません。」
 「しかし、犬猿の仲のおいどん達に打つ手はあるのでごわすか?」
 「あるじゃないですか。」
 坂本は笑顔で西郷に対して話しかけた。
 「ほぉ・・・。」
 「大体童話の『桃太郎』では猿と犬が一緒に鬼退治をしたではありませんか。動物に出来て人で出来ないのはおかしいと違いますか?」
 二人は腹を抱えて大笑いした。
 この様子に何が起きたのかと警護の武士達が部屋になだれ込んできたがこの状況に何が何だかよくわからないようだった。
 「まぁ自分にお任せください。さすれば片貝殿に迷惑がかかりませんし。」
 「まぁ、お頼みもうしますわ。」
 集まってきた人集りを掻き分けながら坂本は帰りの途についた。


 同じ日の夕刻。京の街にある一軒の料亭に坂本はいた。
 昼に会った西郷とは別に桂とあう用件を入れておいたのだ。幸いにも桂の予定も空いていることも確認できた。
 桂は時間丁度にやってきた。
 「初めまして。坂本殿。」
 入ってくるなり会釈して挨拶をした。噂に違わずなかなか礼儀正しい。
 ひょろっとしているが剣の腕は免許皆伝を貰っている程の達人。並みの暗殺者では倒されないだろう。
 酒をつごうとしたが手を前に差し出した。
 「お気持ち有り難い。しかし拙者下戸な者ではないですが、この後も会計方と会う用事がありますので。」
 なんとも噂通りだな、と思った。
 室内で行う事は桂、室外で行うことは西郷と役割分担され藩内の民は潤っていると聞いたが此処まで均衡になっているとは想像できなかった。
 だからこそ鎹(かすがい)になっている片貝殿が亡くなられたら一大事になるだろう、と心配しているのか。
 恐らくそのせいで永らく命を保っているのかとさえ今では思えてきた。なんとも悲しき大往生である。
 黙々と箸を進める中、遂に本題を切り出した。
 「何やら、現筆頭家老の西郷殿と仲が悪いそうで。」
 「ははは。仲が悪いわけでは御座らん。」
 なんとも此方側の思惑を見抜いているかのように桂は笑った。
 筆頭家老を退いたとはいえ、まだ30代。巻き返そうと思えば簡単に巻き返せるだろう。
 それを裏付けるかのように家老の職は退くことはなく、重要な役柄について藩政の実権を握っている。
 「しかし仲が悪いだけでは利益が逃げていきますよ。」
 「左様か。しかし相性が悪いのかな。なかなか意見が合わない。」
 「まぁ、この坂本にお任せください。必ずや仲違いを解消させてみせましょう。」
 「頼もしいお言葉ですな。期待しております。」
 一度お辞儀をすると席を立って藩邸へと向かった。


 夜遅くになって漸く坂本は寺子屋に戻ることが出来た。
 一日に二人の多忙な日であったせいか、顔には疲れが出ていた。
 戻ってくるなり風呂にどっぷり浸かって大きな溜め息を漏らした。
 風呂から上がると自分の部屋に戻り、布団も敷かずに雑魚寝で寝入った。

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