翌朝。
目が覚めると中岡が側に座っていた。
「珍しいな。お前が早く起きるとは。」
「上様からの言伝だ。『大阪城代が動き始めた。一度偵察に赴け』と。」
この情報は最も意外だった。
まさか既に大阪城代が動き始めるとは思ってもいなかった。早くても一ヶ月は後だと踏んでいた。
監視の目をかいくぐるには綿密な計画と莫大な資金・時間が必要。なのに急ぐように準備を整えている。
「・・・我々の情報が入ったとか。」
「かも知れない。先日襲ってきた奴らの一味が密告したのだろう。」
(今夜辺り大阪の屋敷に忍び込むか。)
起き上がると顔を洗って飯をのんびり食べると船に乗って大阪へ向かった。
琵琶湖から大阪湾に注ぐ淀川を使えば半日で大阪まで行ける。それに船の上だったら逃げ場はないが周りを警戒出来る。
大阪の舟場に船を結びつけて夜になるまで待った。
そして闇が大阪の街を包んだ。
昼間の活気ある街から一転して静寂の雰囲気にある。
大阪城代、石田康成(いしだやすなり)は温厚な人柄で部下からの信頼は厚い。だがそんな表の顔とはうって変わって東西きっての策略家でもある。
幕府はこの危険人物の影響を最小限に抑えるため大阪城代に左遷した。
しかし今回の左遷は裏目に出た。
大阪は全国各地から品物が集まる天下の台所。武器を仕入れるのも江戸に比べると容易である。
その結果着実に幕府へ反旗を翻す準備が整い始めた。
今回の偵察では敵方がどのくらい計画が進行しているか確かめるために忍び込むのである。
早速屋敷の周辺を見て回るが塀が高い。それに正面を守っている警備も普通より多い。
厄介、というより元から塀を飛び越えて侵入する事しか考えていないが。
こう見えても一応二人は忍びの端くれである。中忍程度の技術は持ち合わせている。
「お前だったら体格で目立つ。拙者一人で参る。」
「おう。気を付けろよ。」
軽々と塀の上にまで跳躍し、周辺を見渡す。
幸い辺りには誰も居ない。足早に屋根の上にまで駆け上がった。
瓦を外すと静かに建物内部へと潜入した・・・・・・・・・。
狭く窮屈な空間を匍匐前進で気付かれないように静かに進んでいく。
途中人の気配を感じると移動を止めて会話に耳をそばだてる。
良いのか悪いのか謀反の話は欠片も入ってこない。
仕方なしに館主の主、石田の部屋へ足・・・ではなく体を進めた。
石田の頭上に到達する頃。招かれざる客がいる事を坂本が確認した。
相当な年齢に達している老人。髪の毛は全て真っ白で顔には深い皺が刻み込まれている。
(これは結構大手柄か。)
じっと耳に神経を集中させて会話の一つ一つを聞き漏らさないように注意した。
「…嶋。」
石田の隣に控えている侍が返事をした。
見る限り厳つい体格をしている。これは殺る時には強敵になるな、と心の中に焼き付けていた。
「この御仁……を玄関先まで送ってあげなさい。」
生憎肝心な所が上手く聞き取れない。少し残念だが次の会話に出てくることを期待した。
老人は嶋と他の侍に抱えられて玄関へおぼつかない足取りで向かった。
彼は護衛に囲まれた老人を追うより一人残された石田の動向に注目した。安心しきっている表情なので案外重要なことを独り言で漏らすかも知れない。
「くくく・・・。江戸の奴等め。これで一泡吹かせてやるわ。見ていろ。」
本当に独り言だった。何も得られず自然と肩を落とす。
暫くして老人を見送った嶋と呼ばれる男が戻ってきた。
下座に静かに座ると小声で石田は話しかけた。
「・・・勝算はあるのか。」
「勿論で御座いますとも。大阪の蔵には着々と鉄砲・刀・槍など武器の類が山積みになっております。」
「誰にも気付かれていないな。」
当たり前ながらかなり慎重になっている。事が発覚したら自分だけでの問題では済まなくなる。
扇子を取りだしてパタパタと扇ぐと話を続けた。
「・・・して。いつ頃に挙兵できる?」
最も聞いておきたい情報の話題になった。
これさえわかれば先手を打つことも可能になり、対策も大まかながら立てやすくなる。
嶋は周りを気にしながら袴を持ち上げて傍らに近寄る。
耳打ちしようと頭上にいる坂本の耳に捉えられないハズがなかった。
「・・・恐らくながら再来年の二月には。」
今は八月の中旬。2年半もあれば西郷・桂の仲裁も易々と成立させることが出来る。
その声に石田の顔は敏感に反応した。
「何?そんなに時間が掛かるのか。」
「はっ。事は慎重に行っておりますので・・・このくらいは必要かと。」
「もう少し急がせろ。待っても来年、いや来年の秋までだ。」
「かしこまりました。」
これには流石に参った。
信頼関係を築くまで最低でも数ヶ月は要する。しかも幾多の人が交渉しても仲直り出来ていないのだから相当の時間を必要と考える。
更に交渉成立後、計画を阻止させる為に準備の期間も必要。間に合うか微妙な線に立たされた。
しかし僅かばかりながら情報は手に入った。大まかな相手の情報も入手したし、建物の構造も一応自分の体の感覚に叩き込んだ。
そろそろ引き上げようとしたその時。背後から微かな小さな音が聞こえた。
鼠でも猫でもない。天井に張られている板の反発する音にしては体重が重いモノが乗っている音。
気付かれた。咄嗟に下の者に気付かれないように静かに梁の上を走り出した。
侵入した場所に舞い戻る頃には複数の忍びに囲まれていた。
背後には一人、左手にある北側の塀側に三人、前方に二人。逃げるには強行突破若しくは南側の塀を超えて逃げるか―――。
どちらも非常に難しい。今の格好は忍び装束ではないので走るのには不向き。一応万が一に備えて手裏剣を用意してきたが圧倒的に数が足りない。
更に悪いことに屋根の上なので足場が不安定。居合いには向かない。
この乗り越え難き逆境を如何にして突破するか。彼の頭の中はそれで一杯になっていた。
すると突然声が掛けられた。
「貴様、何者だ。」
どの方向から聞こえたのか分からないが声の調子からして推測ながら30代若しくは40代。動きや力は若い者に負けるが技でカバーでき一番厄介な年代。
他の者達の様子から察して相当の腕の持ち主と見える。
新米で駆け出している頃の忍びなら挑発して隙を作って突破することも出来るのだがこの年代では体力もあり、冷静さも兼ね備えている。
力押しにも、精神的圧力にも屈しない。
「あっしゃ、大工の佐介でさぁ。」
とぼけた表情で答えた。通じない冗談だとわかっていながら。
大体袴姿の大工なんて何処にいるんだ。そう自分の心の中で突っ込んだ。
「そんな格好の大工何処にいる。」
後ろの赤色の装束を着た男が返事を返した。
他の男達はただ黙って月明かりに照らされている。
坂本は大きく息を吸い込んでゆっくり吐き出した。
強行突破。
ようやく心の中で決心が付いた。
(どうせやるなら思いっきり華々しく散った方が粋がいい。)そんな感じの気持ちが彼にあった。
刀に手を掛け抜刀の姿勢に入ると背後の忍びが近付いてきた。
短刀で突かれる刹那に刀の鞘で相手を怯ませた。この隙に振り返って一気に抜いた刀で斬り下ろした。
残り5人の方を向くと突然の攻撃に戸惑いながらも一人が突っ込んできてそれを二人が手裏剣で援護してくる。
的確に的を射抜くように飛んでくる手裏剣をかわしながら突っ込んでくるヤツの相手をするのは至難の業。
幸いにも太刀筋が粗いので先が簡単に読める。焦る相手に出来た大きな隙を見逃さず、利き腕と思われる右腕の動きを止める為右肩口を貫通させた。
もんどり打って倒れた所で相手の持っていた忍者刀を左手に取ると今まで持っていた愛刀・雨露を右手に持った。
先程の赤装束の男が叫んだ。
「えぇぃ!相手は高々一人。此方は四倍だ!数で勝る我らに勝機はある!」
一人でいとも簡単に二人を倒していることから相手は動揺していた。
多分元から勝てると踏んでいたのに思わぬしっぺ返しが来たからであろう。
それに一介の浪人一人も倒せず取り逃がしてしまったら自分達の帰る場所は一瞬にして消えてしまい、役立たずとしてお払い箱にされた挙げ句今度は家族もろとも命を狙われるハメになる。
背中に担いだ忍者刀をサッと抜き払うと赤装束の男を先頭に全員が無我夢中で突っ込んできた。
横一線で並んで向かってくるので全てを相手にするのはなかなか難儀である。
対して彼は低い位置に腰を据えて迎え撃つ。
四人と交叉する瞬間、相手から見ると彼は舞を舞っているように見えた。
その後に残っていたのは切り傷一つ負うこともなく平然と立っていた彼と横たわる四つの体があった。
相当激しい戦闘があったのか血飛沫が飛び散って瓦は赤く染まっている。
下の方では屋根の上の出来事も未だに知られていない。しかしもうそろそろ気付かれる時分である。
奪い取った忍者刀をその場に置いて彼は夜の暗闇に消えていった―――。