其の壱拾弐「波乱」




 翌日、桂邸に出向くと桂殿はなにやら頭を抱えているようだった。
 「おや、桂殿。いかがしましたかな?些か窶(やつ)れた風にお見受けしますが。」
 「あぁ、坂本殿か。心配御座らぬ。少し痩せただけです。」
 しかし桂の笑顔で皮肉にも以前より肉が削げ落ちたのがよくわかってしまう。公務が色々と溜まっているせいか殆ど休んでいないのだろう。
 己の身体を犠牲にしてでも藩の為に尽くす。眠る時間も恐らく一刻たりとも勿体ないのだろうか。
 縁側に陣取っているから陽の光が射し込んできている。その光に当たっている桂殿が何故か透けて見えるような気がした。
 「お久しゅう。桂はん。」
 絹のような綺麗で透き通った細い声が縁側から聞こえた。とても大の男が出せるような声ではない。
 後ろには舞妓のような顔立ちの女性が立っていた。顔も細いし顔立ちもすっきりしている。なにより色白。
 「幾松か・・・。今日はどうした?」
 それまで険しい表情だった桂の顔が女性の訪れによって柔らかな笑顔が浮き出てきた。
 多忙で気の休まる日々がなかったのだろう。まるで永久凍土の氷が太陽の光に当てられて溶けていくように顔の筋肉における固さがほぐれていった。
 「ところでそこにおわすお方はどなたですのん?ここらでは見ない顔でんなぁ。」
 「あぁ、このお方は加賀藩の坂本永禮と申すお人だ。最近私をよく見舞ってくれるので非常に助かっている。」
 桂が紹介すると不安そうな表情をしていた女性は一転して明るい顔で私に顔を向けた。
 「失礼しはりました。私芸鼓をしとります幾松と申します。以後宜しゅう。」
 確かに彼女は芸鼓のような身振り・顔立ちであった。召している着物も実に華やかで高価な一品であろう。
 簪(かんざし)一つにしても細かな部分にまで細工が施されている。
 ひたすら無礼を詫びる態度は夜に生きる女性とは思えないほど物腰が低かった。
 そして何やらその場に居合わせた事が邪魔だと察したのか引き留める桂に挨拶をして元来た道を戻っていった。
 取り残された二人は縁側に庭の方向を向いて腰掛けた。
 「しかしお美しいですな・・・。あのお方ならば良い夫婦(めおと)になりましょうぞ。」
 「いやはや、お恥ずかしい。」
 照れ隠す素振りを見せずに赤面して耳まで見事に茹で鮹のように赤くなっていた。
 そうして雑談を交わしていると反対方向から誰かが此方に向かって歩いてくるのが目に入った。
 年の頃は二十か三十。痩せ形で色男といった風貌ではないがなにやら一癖ありそうな顔つきである。
 何事も顔で判断してはならないが、大体顔の様子からその人物を把握することが出来るし相手の印象を形作ってしまうのだ。
 「桂〜、調子はどうだ〜?」
 「高杉。客の目の前だぞ。少しは礼儀を弁えろ。」
 飄々とした物言いに桂が注意を促すが聞く耳を持っていない。虚け(うつけ)と言うべきか大物と言うべきか。
 どうやら堅苦しいことは苦手なのだろうと推測できる。
 「ん、お主何者?」ようやく客がいるということがわかったが一向に態度を変えようという兆しは見受けられない。
 「拙者、加賀藩家老の坂本永禮と申します。以後お見知り置きを。」
 此方側が会釈を相手もつられて会釈を返した。
 「俺は高杉勇(たかすぎいさみ)。その若さで家老なんて職に就いているなんて大変ですな。」
 単なる皮肉なのか此方側の裏事情を把握しているからなのか。
 普通なら褒めることをこのような振る舞いで返すとは非常に読めない相手である。
 しかし常人には思いつかないような発想を持っているということを才能と捉えるならば、桂というお方は人材に溢れていると考えても良いだろう。
 乱世であったならば、それが身の破滅を呼びこむとも、はたまた天下を制するとも転んだかも知れないだろう。実に惜しい人である。
 暫く三人で語り合っていたが、所用のために坂本は桂邸を後にした。無論大切な客人として扱われていたため桂自らが玄関先まで見送りに赴いてきた。
 客人の姿が見えなくなると高杉はぼそりと呟いた。
 「なんか怪しい・・・。なにか重大な隠し事を持っていて我々に話していない。」
 「勇。そんなことを申していたらきりがない。お前の眼に入る万人全てが怪しく見えるだけだ。」
 独り言のように高杉の警戒心を諫めた。しかしそれは自らにも言い聞かせていたのかも知れない。
 だが高杉の顔には未だに納得していないと書かれていた。
 「・・・そんなに怪しいなら召し抱えている密偵を放ってみてはどうだ?」桂は半ば諦めたかのように呟いた。
 高杉には普段は町民として生きているがいざ命令を受けると秘密裏に動く“密偵”のような者達がいた。数は把握できないが相当多くの人数が全国に散らばっていると思われる。
 忍びと比べるとぎこちなさもあるが、情報収集力にかけては非常に優れている。
 なにより彼らは常日頃の生活は民衆として生きているので戦闘能力は皆無であるがそれでも充分に満足のいく働きをしているのだが。
 だが“密偵”を雇っている以上、いつ幕府から監視の眼に引っかかってもおかしくない状況である。これが表沙汰になれば藩が取り潰しにされてしまうだろう。
 そんな危険と隣り合わせの裏事はもしかしたら他の藩でも同様の密偵を放っているのかも知れないが、実際の事実を把握しているので真相は定かではない。



 大坂、石田邸。先日狼藉者が侵入した一件以来、屋敷の警護が一段と強化された。
 松明が煌々と焚かれ、人員もそこかしこに配置されており、易々と不審者が侵入できないようになっている。
 先日の一件では幸い世の中に晒されずに済んだが甚大な被害を被っている。忍び六人が殺傷されていることから重要な情報を盗まれた可能性も否定できない。
 だが計画は既にちゃくちゃくと見えない所で滑り出している。兵糧も徐々に決戦の時に備えて蓄えられている。
 寝床には天下を乗っ取る野望に思いを馳せている主君が蝋燭の火を灯しながら思い耽っている。
 その傍らには彼の腹心である島左近丞久昌(しまさこんのじょうひさまさ)が控えている。別段大柄というわけではないのだが身体全体が盛り上がっており、鍛え上げられた筋肉は見事に引き締まっている。
 彼の左目には戦場で負った傷からなのか眼帯が当てられていた。隻眼(片方の眼しかないこと)なのである。
 その眼帯からはみ出るように刀で斬られたと思われる傷が顔に深く刻み込まれている。
 「・・・嶋よ。」
 はっ、と低く声を出して主の寝床へと寄る。だがさらに接近することを望む。
 こういう時はほぼ間違いなく他人に聞かれたくないような話をする。忍びなどに聞かれて幕府に察知されたら身の破滅に一直線である。
 耳元にまで近寄るとようやく小声でぼそぼそと話しかけてきた。
 「首尾はどうだ?」
 「問題なく着々と進行しつつあります。・・・ですが肝心要である片貝家の切り崩しが難航しています。」
 その報告を聞くと一瞬にして石田の顔色が曇った。たまらず手元に置いてある扇子の端を囓る。
 当然である。計画の核となる部分が遅れを生じていると全てに於いて遅れが発生し計画自体が頓挫(とんざ)しかねない。
 これまで極秘に進めてきた事が水の泡に帰すのも非常に無念である。
 「・・・殿様もなかなか大変ですな。」
 突如聞き覚えのない声が聞こえてきた。
 嶋は屋敷に仕えている者・家臣一同の声や顔は全て記憶に叩き込んでいるが全く身に覚えがない声である。
 「何奴!」一瞬にしてその場に緊張が走る。嶋は主を守るため刀の鍔に手をかける。
 外では兵が警備し、忍びも屋敷内に蔓延(はびこ)っている。その包囲網を難なくすり抜けるとなると相当の強者である。
 だが辺りを見回してみても天井を見上げても誰もいない。殺気も感じられない。
 気のせいか。肩の力を緩めると石田の側に見知らぬ老人が座っていた。
 「な・・・。貴様、いつの間に!?」
 狐に摘まれたような表情をしている嶋に事の真相を話す。
 「あぁ、貴奴は我が片腕で“綾円(りょうえん)”と申すお方だ。今回の計画で智恵を貸して下さっている。」
 「綾延と申します。以後お見知り置きを。」
 老人は簡単な挨拶をすると頭を下げた。
 召し物は真っ赤な上下で実に動きやすそうな服装である。顔には無数の皺が刻まれている。
 しかし気になるのは奇怪な技によってこの部屋に辿り着いたことである。一体相手が何者なのかといった考えが脳裏を過ぎる。
 万が一、この老人が敵だった場合この世に嶋と石田の存在は消し去られていたであろう。
 なにやら密談が始まったらしく、一礼してその場から下がった。

 「嶋殿。」
 廊下を歩いているところで突然声を掛けられた。彼の元に仕えている堂上であった。
 まだ若干27歳ながら頭の切れと剣の腕が買われ、同期と比べて飛躍的な出世を遂げている。
 もちろん嶋もそんな後輩を可愛がっており目にかけている。その敏腕を買って将来は嶋の片腕を担うと家臣の中から出ている程である。
 堂上もまた同様に嶋を慕(した)っており尊敬している。
 「おぉ。堂上ではないか。如何した?」
 「先程石田様の部屋になにやら怪しげな格好をした者がおりましたが何方なのでしょうか?」
 流石は堂上流剣術師範の息子。そこら辺にいる人達とは全然違う。
 人にはそれぞれ“間合い”というものがあり、気持ちを許さない他者の侵入を許さないのである。
 その“間合い”は鍛えられた者であれば長くすることが可能であり、しかも見えない敵をも手に取るように見透かすことができる。
 実際に剣の達人で少し離れた庭に生えている木から葉っぱが落ちるのを実際に見ないで当てたことがあるというから驚きである。
 恐らく彼も何らか不穏な気配を察知して突如忍び込んだ者を割り出したのであろう。
 「あぁ。なにやら策士のような者なのだが正直私は気に食わない。」
 実を言うと嶋は幾度か綾円と顔を合わせたことがある。先日何者かが屋敷に忍び込んだ時にも嶋は石田の指図で彼を玄関まで送り届けている。
 だが彼の表情の裏には怪しげな思惑が隠れているのが見えるのである。
 堂上も嶋同様に綾円を信頼していない。堂上に言わせれば『あの者は只ならぬ怪しい気を発している。』ということだ。
 「しかし我らという者がありながら石田様は何を考えていらっしゃるのか・・・。」
 「侍が陰口を叩くのではない。それに主君へ対する悪口も慎むべきだ。」
 堂上の武士ならぬ態度に嶋は戒めた。が、堂上の表情は未だに曇ったままである。
 やはり熱たぎるように熱くなれるのは若気の至りなのか・・・。三十路に踏み込んでいる我が身と比べて多少羨ましさを感じた。
 疲れを知らず、夜眠らなくても支障なく、無尽蔵に溢れる体力、いつでも熱くなれる心。自分も数年前まではそうだったのに今ではなにもかも懐かしく思える。
 だが押し寄せる年並みには勝てない。最近では熱くなることもなく物事を冷静に、悪く言えば冷ややかに捉えてしまう。
 酒を口にすると愚痴が出てきたり、妙に涙もろくなったり。なんとも嫌な話である。
 しかし体術・体力は衰える兆しはない上に、冷ややかに物事を評価できる為若い輩に負けるようなことはまだまだない。
 「・・・そういえば堂上の家は武士ではないのだな?」
 「はい。普段は屋敷へ出仕することないので父の剣術道場を手伝いつつ街を散策しております。時折暫しの間諸国を旅することもありまする。」
 「何に縛られることないそなたが、今の私には非常に羨ましい限りだ。」
 虚ろで悲しげな瞳をしながら嶋は語る。
 「昔より家に囲われ、主君につながれ、忠誠に縛られた。そのため堂上のように自由になれるような時などなかった。私はただひたすら飼い主に尾っぽを振っている狗(いぬ)でしかないのだ。」
 忠誠心が高く、文武両道で器も大きいと評判の嶋が漏らした言葉は何故か心に響いていた。
 長年石田の家に仕えてきた譜代の生まれで幼い時分より稽古と手習いを覚えさせられていた。彼の父もまた主君に対する忠誠心が非常に厚かった。
 彼の全ての生活に置いて“武士”に関係しない一時など存在しなかった。食事の時も作法を教わり、寝床の傍らには何十冊もの書物が置かれていた。
 遊びも殆ど体を鍛えるために存在していた。水泳・馬術・相撲。どれも負けることは少なかった。
 それに対して堂上は幼いときから剣術を初めてはいたが、普段はそこら辺にいる町人の子供と遜色なかった。
 年を経て父から腕を認められると、いち早く大坂の街から飛び出して諸国へ武者修行の旅に出ていった。
 色々と苦労は絶えなかったのだが全国を放浪して数多の剣士と渡り合い、常に大勝を収め経験を積み重ねていった。
 大坂に戻った後には父の強い薦めにより大阪城代の元に仕えることとなった。が、お堅いことが苦手な堂上は時折外の空気を吸いにふらりと出ていく。
 それさえ無ければ今頃は恐らく重要な官職についていたかも知れない。
 「・・・拙者のような道楽者の考えなのですが、時間を頂いて近場へ参るというのは如何でしょうか?不束ながら拙者も同行しますが。」
 「それは有り難い。だが暫くは用務が多くてな、二月後というところかな。」
 「拙者は構いませぬ。何処へなりともお供いたします。」
 まだ二月も先の約束なのに今から心待ちにしている二人であった。

 一方先程の寝床では蝋燭の灯を消し、声色を低くしてなにやら密談が交わされていた。
 「…して、手筈のほうは整っているのか?」
 「無論に御座いますとも。近習の者共もあなた様の謀略には誰も気付いておりませぬ。」
 「うむ。手抜かりのないようにな。」
 「心得ております。」
 廊下から何者かが近づいてくる物音を聞くと「では御免」と言い残して屋根裏へと落ち延びていった。
 襖を開けて侍従が中の様子を伺ったが何も変わったことはなかったので何事もなかったかのように通り過ぎていった。
 しかし寝床にいる主人が仮面の裏側で壮大な計画を練っているとは到底考えつかなかったであろう。



 厚い灰色の雲が北風に流されてきた。時期に初雪の便りが届きそうである。
 山の木々も既に丸裸となっており青々とした松の木の緑が周りの木々と比べると実に映えている。
 都の街も冬の移ろいへと変わりつつあった。
 そんな中、水面下で行われている西郷・桂との交流も徐々に頻度を増しており休暇をとれる時間すらなくなりつつあった。
 交渉役を任されている永禮は寒い北風の下、西郷邸へと赴いていた。
 部屋の片隅に置かれている火鉢には火が入っており、つかの間の暖をとってくれる。
 障子がガタガタと揺れる音からは外の風が一段と強く吹いている様が如実に伝わってくる。
 「いやいや、お待たせしましたでごわす。」
 寒さから手を擦りながら上座の方へ足を進めていく。
 「この寒い中わざわざ屋敷にまで出向いてくれるとは誠に忝ないことでごわす。」
 「なんの。このくらいの寒さなど北国生まれの私にとっては生易しい方でございます。」
 「おいどんなどはこの京に幾年か暮らしておりますが、南国育ちゆえになかなかこの寒さには慣れることができませぬ。」
 お互いに故郷の四方山話(よもやまばなし)で盛り上がっていたのだが突然西郷が顔色を変えた。
 「・・・ところで、お前さんらは何が目的なんでごわすか?」
 「はてさて。私にはさっぱりわからぬでございますが。」
 話をはぐらかそうとしたが、西郷の顔色は一向に変わっていない。
 その円らで大きな瞳が此方の顔を穴が開くほど凝視している。細かな皺の動き一つすら捉えるようにも見てとれる。
 なんらかの不穏な様子が表情に浮かんでしまった場合には拷問にかけてでも問いただす意気込みである。
 不審な動きも話を逸らすことも出来ない。ならばここは真っ向から当たるしか方法はない。
 出されたお茶を一口ほど口に含んで喉を少し湿らすと俯かせていた顔を西郷と対面させた。
 その大きな体はこれでもかと言わんばかりに近付いているように感じられた。
 実際には西郷との距離は畳半畳程度の間があるのだが拳二つ分しかないように思えるほどである。
 ここで目を逸らした場合には相手の疑念はさらに高まってしまう・・・。回避するには負けじと此方も折れることなく相手の瞳をじっと見つめること只一つ。
 潰れそうに感じる重苦しい雰囲気。音で溢れている外界と遮断され静寂を保つ室内。音を奏でるのは障子に吹き付ける風の音と火鉢に灯されている炭の弾ける音のみ。
 先程出された茶の器には風の波動が伝わってか波が立っている。畳は何も語ることなくただ冷たくじっとしている。
 石のように固まって対峙していた二人だったが、ふと西郷が唇の乾きを潤すために前に置かれているお茶に口をつけた。
 そして喉の奥から小さな溜め息を吐きだし、遂に動いた。
 「・・・本当になにも知り申さぬのか。」
 沈黙に耐えかねて遂に西郷が口を開いた。
 それに対してあえて此方側は沈黙に徹する。普通ならこのような手を打つとまた膠着状態に陥ってしまう可能性が高いのだが、この場合には沈黙に徹した方が効果的だと判断した。
 「いやいや、おいどんが悪ぅもうしたでごわす。永禮殿を疑うなど本当に申し訳ないでござった。」
 遂に相手側の疑念が晴れたみたいだ。顔色も先程までの表情から一変して親しみのある微笑みが浮かんでいた。
 これで何事も起こらなければ二度と私を疑うような行為や眼差しを向けることはない。彼の顔を見てそれを確信した。
 何度も疑ったことを謝ったがそれをなんとも思っていないように振る舞ったが、西郷は一向に納得しなかった。
 お詫びの意味を込めて金子少々を私に無理矢理受け取らせた上に帰りの駕籠を手配し、自ら寒い風が吹き荒む中玄関まで出てきて見送ってくれた。

 その後西郷は先程の部屋まで戻ると自ら座していた場所にどっかと腰を降ろした。
 そしてぼそぼそと誰にも聞こえないように細心の注意を払いながら小声で背面の襖に話しかけた。
 「・・・大久保どん。奴はどうだったでごわすか?」
 襖が僅かばかりに開くとその奥の間にて控えていた大久保が応えた。
 その部屋は窓一つなく、明かりもないので真っ暗であった。漆黒の闇でその部屋の大きさがどれくらいなのかわからないがかなり手狭である。
 「貴奴、なかなかの強者ですね。心の中には別の思案があるのですが、それを表にするどころかこの鏡にすら映し出せませんでした。」
 幾重にも包まれた鏡を手の平に乗せて覗き込む表情は驚きと冷淡さが混同していた。
 そのような表情を浮かべている大久保に対して西郷は至って平然としている。
 先程まで一対一の真剣勝負をしていたとは思えないくらいである。
 「それに・・・私の存在にも気付いていたようですし。なかなか喰えない輩ですな。」
 「うむ、じゃけども信用して足る存在でごわすな。そこら辺がわかっただけでも大きな収穫でごわす。」
 片方の膝を立ててそのまま立ち上がるとまた西郷は何処かへ向かおうとした。
 そんな西郷が部屋から出ていこうとするところへまた大久保が声をかけた。
 「・・・そういえば先程、間者から入った報告なのですが・・・。」




 寺子屋まで駕籠で送ってもらい、ほっとして寺子屋に帰ってくることが出来た。
 西郷との信頼関係を築く上で最大の難関を乗り越え、まだ完全にとは言えないが一段落つける状況になったのである。
 帰ったら祝杯と言わんばかりに酒を片手に頑真と酌み交わそうと思案しながら部屋へ戻ると何やら雰囲気が違っていた。
 上様がなにやら深刻な顔をして腕組みをしながら座っているのである。
 なにがなんだかわからないまま早速西郷邸での出来事を伝えた。
 「只今戻りました。西郷殿が我らを疑うような事は最早ないと存じます。」
 「ご苦労。早速だが急ぎその足で桂邸へと向かってくれ。」
 その顔つきから察するに恐らく何か重大な出来事があったのであろうと思われる。
 「はっ。・・・して、如何ような用件で?」
 「桂殿の許嫁(いいなずけ)が突如姿を消した。」

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