「桂殿の許嫁(いいなずけ)が突如姿を消した。」
その言葉が耳を通り抜け脳まで達した直後、背筋に電撃が走った。
突然の失踪。この報がまさか自分の耳に入るとは思ってもいなかったし、予想すらできなかった。
桂とは相思相愛の関係。金銭的な問題であれば桂が工面してくれるだろうし、悩みなども見た限りでは感じられなかった。
だとすれば誘拐しか考えられない。
いくら芸鼓をしているとは言え裏社会に足を踏み入れたこともないし、そういう人との関わりも一切なかった。恨みを買われるような性格でもないしそういったこともしないであろう。
寧ろ面倒見が良くて人から好かれる存在である。両親は既に世を去っており、お金も幾ばくかしか手持ちに持っていない。
実に不可解な失踪である。誘拐にまで発展する理由が見当たらない。
「これは推測の域なのだが・・・。」
険しい表情を浮かべながら上様は言葉を続ける。
「我らの動きを警戒して相手方が西郷・桂の間を攪乱(かくらん)させようと謀って起こした事ではないか。」
「確かに……。既に我らが京の街に潜入していることは百も承知ですし、見えないながら秘密裏に動いていることも察していると存じます。」
「しかし拙者が思うにこれまで石田方の動きと少し違うような気もするのですが……。」
「ふむ、それは何故だ?」
永禮は自ら進み出ると己の考えを述べる。
「これまで石田方のやり方は我ら“隠密方”に狙いを定めておりました。従って現在狙われているのは拙者と頑真両人のみで上様や他の方に危害が及ぶことはございませんでした。しかしながら今回は桂殿の許嫁を奪うというなんとも手段を選ばない外道に打って出て参りました。」
言われてみればそうである。
京に潜入した際に襲われたときも、京の街を散策していた時に追われたときも共に狙いは永禮・頑真だけ狙っていた。
恐らく北陸道を上ってくる時に夜盗が襲ってきたのも後ろには石田方が糸を引いていたと考えられる。
しかし今回は何の関係もない幾松に狙いを定め、桂・西郷を揺さぶろうとする卑怯な手段に出てきたのだ。
形振り構わず、といった雰囲気が滲み出ているのである。
「……要するに相手のやり方が変わったと?」
「仰る通りでございます。」
上様には永禮の言葉の意図を察したのだが頑真は未だにわからないらしく呆然としている。
そして今後のことを少し話した後に永禮は休む暇なく部屋から 立ち去っていった。
桂邸に赴くと門前にまで人が溢れかえるほどの数が訪れていた。
その大部分が桂を支持する侍達で、血気盛んな若手の侍も数多く見受けられる。
騒然とした熱気に包まれているので少し入るのを躊躇っていると以前対面した高杉氏に遭遇した。
高杉氏の片手には多くの酒瓶を持っており、どうやら今夜の晩酌のつまみと酒を買ってきたのであろう。
此方が挨拶をすると相手も釣られて会釈を返してきた。
「これは高杉殿。本日火急の用事が御座いまして此方へ参ったのですがこの騒ぎは一体…。」
高杉は顔色一つ変えることなくに言葉を返した。
「いや、ご心配には及びません。本日は桂殿の屋敷にて相撲大会を開いているのでございます。ですので血気盛んな者共が勢揃いしておりまして、このように足の踏み場もないような状態なのですが。」
「して、桂殿はいらっしゃるのでしょうか?」
「勿論ですとも。お取り次ぎしますか?」
「忝なく存じます。」
“相撲大会”とは上手く逃げたものだ、と感心した。何も知らない人間だったとしたらそれで上手く丸め込めたかも知れない。
外部の人間に秘密を漏らさないためにこのような緊迫と雑踏が入り交じった雰囲気を悟らせないよう細心の注意を払っているのであろう。
塀の外から見ればそのように思えるかも知れないが、いざ中に入ってみると庭先にまで座り込んで熱く議論を展開させている。
老若の幅を超えて我が未来の行く末について懇々と話を詰めている集団もあれば、血気に任せて強硬論を訴える集団もある。
だが、高杉に連れられてこの屋敷の廊下を歩いていく余所者の私には明らかにわかるくらいの敵意を向けていた。
その視線を体の隅々にまで突き刺されながらも、ようやく一番奥にある桂の書斎にまで辿り着くことが出来た。
高杉が障子越しに取り次ぐと人目を避けるようにして私を部屋の中へ入れさせた。
部屋に入ると桂が平然とした表情で私を迎えてくれた。だが、その顔からは生きている心地がしないことが滲み出ていた。
対面するような格好で座ると桂は用件を伺ってきた。
「これはこれは坂本殿。本日は火急の用事ということで如何様なことで?」
声にも元気がなかった。ここ数日見ないだけでまるで死に際の病人のようになってしまった。
思うように口に食物が運ばないのであろう。前見たときよりも頬が痩せこけている。
「えぇ。なにやら桂殿が大切なモノを失われた、というのを聞いて早速此方へ伺ったのです。」
大した話ではないように聞こえるかもしれないが彼には言葉の裏の意味をしっかりと把握していた。
すぐさま人払いをすると、そのまま座布団ごと私へ近寄ってきた。
その行動に合わせて私の方も上座の方へ移動する。
「…そのお話は一体何処でお聞きになったのですか?」
「私共も情報には敏感でして。この度は誠に卑劣極まりない輩の仕業で…心中お察しします。」
どうやら話をはぐらかせる程度の情報でもない言動に気付き、溜め息を一つ吐くとそのまま言葉を吐き出した。
「“大切なモノは失ってから気付く”と言うが、正にその通りだな…。私は守ってやることすら出来なかった。」
ひどく落胆している表情であった。その一つ一つの言葉を発するごとに生気が抜けていくようにも感じた。
これまで見てきた彼と今目の前にいる彼は似て異なる人物である。
その仮面のように表情を表向きに出さず多くを語ることはなかったが、それでいて時に人を惹き付け、時に相手を威圧する雰囲気を醸し出していた。
が、今は水を失った河童のように抜け殻で威圧することも魅せる力もない。
外見こそ同じだが、中身は全くの別人である。
「いつまでも後悔していても始まりませんよ。これから宝物を取り返すように貴方自身が努力していかなければならないのですから。」
私はそんな桂の変わり果てた姿を見るのが嫌だった。
冷静でありながら情に厚く、決して人を見捨てるような真似は一切しない。物事にも真っ正面からぶつかるあの姿。
本来あるべき姿に戻ってほしく、このように語気を強めて言葉を吐いてみた。
彼はその後そのまま俯いた状態で一言も話すことはなかった。私が席から立つときも、部屋から出たときも。
下を向いていたのは溢れ出てくる涙を見せないためなのか、それとも不甲斐ない自分の姿を見せたくなかったのか。そればかりは彼にしかわからない。
喧々囂々(けんけんごうごう)と白熱した議論が繰り広げられている中、何事もなかったかのように桂邸を後にした。
結局その日は全然休む暇もなく、全てが片づいた頃には子の刻を過ぎていた。
寺子屋のすぐ目の前には淀川が流れており、船宿としての機能もある。時々大坂方面から船に乗ってやってくるお客もいるくらいである。
なので川沿いを歩いていくと真っ直ぐ寺子屋にまで戻ってこれるのである。
彼は真っ暗闇な中、提灯で足下を照らすことなく寺子屋へ向かっていた。一体何故か。
夜中に明かりを灯して道を歩いていると、それだけで夜盗などの標的にされやすくなるため、なるべく明かりをつけないで歩いているのである。
しかしながら常人では真っ暗闇の中一人で歩くのはとても困難である上に、必ず不安になってくる。
だが彼はお庭番の一員であり辛い修行なども多く経験している。さらに常人の数倍に匹敵する五感を持ち合わせているので夜道で足を踏み外すなどということもない。
そのため月が出ていない夜でも明かりを灯すことなく歩いていくことが可能なのである。
普段なら普通の人が出歩く時間ではないので一目散に寺子屋まで行けるのだが、この日は違っていた。
川沿いにやたら軒を連ねて屋台が出ており、それに釣られてまばらながら人がいるのである。
「そこのお侍さん、ちょっと寄っていきませんけ?」
屋台の中から初老に近い男が声を掛けてきた。店の中には数人の客が私に背を向けている。
そういえば朝から何も食べていないのを今頃になって思い出した。多忙だったために空腹であったことすら忘れていた。
北風も夜になって一段と強くなり、空きっ腹には実に苦しい。こういう時に暖かい物を食べると小さな幸せすら感じてしまう。
ここで遅めの夕食を摂るのも山々なのだが、いかんせん屋台の存在自体が怪しい。
屋台にいる人は何の異常もなく平気そうに食べているが、毒を盛られる危険性も低くはない。
そんな想定される危険を頭に駆け巡らせているのと並行して対岸の屋根には何人かの人が隠れて何かをしていた。
月が顔を出していない曇りの夜は辺り一面真っ暗で、屋台につり下げられている提灯一つの周りだけぽっかり明るい。
おもむろに重ねてある布包みの中から弓を取りだし、矢を番えると目標めがけて目一杯引き絞った。
目標、それは…刺客として差し向けられた永禮只一人。
手から放れた矢は、風に揺られることなく邪魔するものもなく標的へと突き進む。
只ならぬ気を察知していち早く背後の危険を感じ取ると、矢が当たる間際まで引きつけると咄嗟に左へ体を傾けた。
一方、行く先定まらぬ矢は屋台に座っていた客人の背中に直撃した。
「えぇぃ、小癪な真似を…野郎共、此奴を楽に死なせるな!」
屋台の主人が急変すると、屋台の客に加えて近くに筵がかけられてあった小船からも続々と狼藉者が出現してきた。
その数およそ20。対岸にも幾ばくか仲間のような人影が見えるので恐らく30は下らないであろう。
「命を粗末にする輩が大勢いるとは…痛みをもってその愚かさを知れ。」
刀をスラリと抜き放つと瞬く間に襲いかかってきた連中を切り伏せる。しかも右手で片手のみ。
これでも並以上の戦闘力を持つ集団であろう。梟のように闇夜でも昼間のように把握できる視力を持ち合わせていなければ仲間討ちが起きる。
剣閃もしっかりしている。体運びも無駄がない。だがそれでも勝てないのは何故か。
至極簡単である。束になってかかっても勝てない相手だからである。
刃をやや斜め下にしてジリジリと相手との間合いを詰めていく。それに応じて相手の足も同様に間合いを守ろうとする。
だが背後には罠のために作った屋台があり、徐々にその間合いは詰められ追いつめられていく。
そしてまた屋根の上から隙を窺っている連中もまた好機を掴めずにいる。矢を番えている状態のまま手を放すことが出来ない。
追い込められやけになってかかってくると咄嗟に刀が反応して返り討ちにしていく。
剣筋すら見えない。五人束になって襲っても返り討ちにされる。体捌きも半端なく速い。そしてなにより…格が違う。
背中を見せられたとしても決して手を出すことが出来ない。それくらい実力差があるように感じられる。
と、そこへ風のように突如現れて何者かが無防備な背中に斬りかかっていった。先程の屋台の主人である。
鍔迫り合いの均衡状態に持ち込むと仲間に対して指示を放つ。
「お前達で勝てるような相手ではない!下がっていろ!」
声から推測すると明らかに年を重ねていない若々しい声色であった。
恐らく薬物を使って顔を変えているのであろう。見た目は初老であるが中身は恐らく三十路にも達していないであろうか。
しかし動きのキレが明らかに違っていた。忍びの者を束ねる頭であるらしく、先程までいた連中とは全然違う。
「私はお主のような逸材を斬りたくはない。大人しく投降すれば命と地位の保障はする。」
「生憎天の邪鬼なもので…そのような話受けるつもりは毛頭ない!」
鍔迫り合いの状況から一回間合いを置くべく互いに引く際にもその跳躍力は凄まじかった。
一回の跳躍で刀が届かない場所にまで跳んでいけるのだから相当の腕なのであろう。
剣の闘いであれば恐らく負けることはないのだが、間合いの外に逃げられると流石に手の出しようがない。
相手は忍びであるのでどのように仕掛けてくるかわからない。時には正攻法から逸脱した戦い方で挑んでくる。
色々想定できる攻撃に推考していると正面から手裏剣が飛んできた。しかし飛んできた方向にはいるべき敵の姿がなかった。
次々と飛んでくる手裏剣をかわしつつも相手の居場所を探ろうとするが、気配が全く掴めない。
動揺している隙を狙われないように注意しながら安全な方向へ避ける。特に背後を取られないように集中した。
人間の視野はおよそ120度までしか物を捉えることが出来ない。残りの240度は気配で察知できても眼で見て確認することは出来ない。
そのため背後から攻撃された場合は正面から攻撃された場合と比べると、どんな達人であったとしても確実に反応が鈍る。その鈍さが命取りになるのである。
さらに腕も後ろに廻らない。後ろの相手に攻撃を与えるのであれば体を回転させて攻撃しなければならない。それにも時間が必要であるため、背後から攻撃するメリットは高い。
だが背後に回るには視覚で捉えられる以上の速さか、相手を惑わす技術が必要になる。
縦横無尽に飛んできた手裏剣の嵐を紙一重でかわし続けたが、突然何事もなかったかのようにピタリと止まってしまった。
怪しく思いつつも警戒を緩めずに辺りを探る。
水のせせらぎしか聞こえない。雲がかかっているため漆黒の闇。風は川沿いに一直線に吹いている。針地獄のように辺り一面を覆っている手裏剣の数々…全てが不気味である。
と、極微々たるものだが僅かな気配を背後から感じた。間違いない、奴だ。
咄嗟の判断、いや無意識に前へ跳んだが遅かった。次の瞬間には背中に一筋の痛みが走った。
力が抜けてふらっと地面に膝をつけ、刀を杖代わりに倒れまいとする。
振り向くと誰もおらず、前に先程の忍びが姿を現していた。目線の先には手にしていた刀の先からは血が滴り落ちていた。
幸い深手を負わなかったが背中を斬りつけられ出血していることは変わりはない。
「ふむ…流石は幕府隠密方。仕留めたと思ったのにかすり傷程度とは。」
相手は懐から何かを取り出すと地面に置いて片手から火花を発する。火花が得体の知れぬモノに点火すると大きな爆発音と共に辺り一面が煙に覆われた。
煙が眼の中に入ると突然瞳から涙が溢れ出してきた。袖で拭っても拭っても止めどなく溢れてくる。それと共に先程まで存在した奴の気配も消えていた。
恐らく火薬か爆発するモノの中に細工を仕込んであったらしい。煙に紛れて今度こそ仕留める覚悟みたいのようだ。
刀を軸にしてゆっくりと立ち上がると、地面に刺さっている刀を鞘に収め静かに瞼を閉じた。
視覚は闇に加えて煙が発生しておまけに涙も出てきた。ならば他の感覚を最大限に用いて相手を察知して勝つしか方法はない。
首から下は居合いの構え。体を開いてどの方向から攻撃されても瞬時に反応できるように待機している。
勝負の行方を左右するのはなんと言っても聴覚だろう。
蝙蝠(こうもり)や梟(ふくろう)は自ら発する超音波の反響具合で何処に何があるかを把握するのである。
その為闇夜で何も見えない場所でも餌や障害物の場所が手に取るようにわかり、それ故に梟は『闇夜の暗殺者』と呼ばれているのである。
また人間も全盲の視覚障害者の聴覚は常人の何倍にも敏感で、普通なら聞こえない小さな音も聞こえる。
白杖だけでなくこうした聴覚からの情報をキャッチして歩行に役立てているのである。
同じ人間なのにどうして差が出るのか。やはり生まれつきというのではなく、通常より神経を使うからその分発達するのであろうか。
しかし普通の人でもそこまではいかないのだが近いところまで一時的に能力を向上させることが出来る。それは“集中”することだ。
普段眠っている能力は多くある。筋力にしても常に全力を引き出しているわけではなく7割程度しか発揮していないと言われている。
それは全ての力を常に発揮している場合には筋肉や骨に少なからず負担がかかるため、無意識のうちに抑えているのである。
だがそれは生と死の瀬戸際や本当に自分の力が必要とされるとき―――土壇場と呼ばれる事態―――にその力は覚醒するのである。
最もわかりやすい具体例として挙げられるのは火事の時に発揮される“火事場の馬鹿力”である。
火事に見舞われた際に、意外にも普段持てないような重い物でも易々と運べるのである。誇張しているのだが奥さんがタンスを運び出したというのもこれに該当する。
人間は逆境の立場に置かれると思いがけない力を発揮することができるのである。“生きたい”という一心が人に力を与えてくれるのである。
それもまた永禮も一緒であった。
(わかる。瞼を閉じていても奴の居場所が見える!)
耳だけに全神経を集中している。お陰で今まで捉えられなかった敵の姿を捕まえることができた。
土を蹴って滑るように走る音、二の足が地面に接した時の音が正確な位置を教えていた。
恐らく攪乱させようとしたのだろうが逆効果であった。自らの居所を知らせているのと同じである。
しゅたっ、という音を最後に音が全く聞こえなくなった。砂利を蹴った音。そしてその音は先程までの音とは若干違っていた。
上だ。確信は全くないのだが直感で悟った。
すらっと刀を抜き放つとその勢いで上空に向かって刀身を突き上げた。正直天に全てを託すしかなかった。
もし外れれば自分の命はこの場で果てる運命、当たれば起死回生の一撃になるであろう。
―――ドスッ。何かが刺さった音。その音は鈍く、そして小さい。
瞬く間に血飛沫があがった。新月の夜に断末魔の悲鳴は挙がることはなく、静かに地面に倒れる音が聞こえた。
無惨に散らばった手裏剣、死闘の巻き添えにあった屋台は原型を留めることなくただの残骸になりはてていた。
貫通した提灯は中にある火が燃え移り、徐々に自分の陣地を広げていく。それが自分を追い込むことと知らずに。
それは正に人間そのものの生き方を表していたのかもしれない。
変わり果てた提灯の明かりが辺りに僅かな光をもたらしている。そして時間と共に先程まで煙に包まれていた一帯が姿を露わにしてきた。
煙が晴れた先にいたのは―――地面に両足をつけてしっかりと立っていて、尚かつ右腕を勝ち誇ったように堂々と空へ突きだしていたその姿。
間違うことなくそれは坂本永禮本人であった。
対して地面に伏せている忍びは腹を抉られて黒一色だった衣服は真っ赤に染まり、切り口からは全身から絞り出されているように血が出ている。
永禮の足下からほんの少し、いや一差し指の長さくらい先の場所に相手が持っていた刀が突き刺さっていた。
この差が全てを決したのであろう。もしこの刀が彼の体を捉えていたとしたら相打ち、いやこの勝負負けていたのかも分からない。
ふらりと体が傾くとそのまま抵抗することなく倒れるように仰向けになった。体力が尽きかけたのであろう。ケガをするかもしれないその場所で所構わず。
「…トドメを、刺さないのか?」
自分の腹に大きな風穴を開けられたにも関わらず、意外にも話しかけてきた。
「ふ。限界まで力を使い果たした。去るのであれば追わん。」
「…私を殺さないのか?」
「殺しはあまり好きではない方なのでな。甘いと思うかもしれないが。」
「それで後々自ら命を落とすかもしれないのだぞ?」
「天命と思えばそれで悔いはない。そうだろ?」
これが先程まで相容れることなく緊迫した空気の中戦っていた両者の話なのか。これまでと比べると実に多弁だ。
両者満身創痍の状態である。そんな中に互いに何か芽生えるものがあったのかもしれない。
ヒュッ―――風を切る音が耳元に飛び込んできた。
振り向いてみると視線の先には横になっていた名も無き忍びの心臓を一本の矢が貫いていた。致命傷を負っていた上にトドメの一撃を喰らい即死である。
その手には大切そうに握られていた掌に納まるくらいの大きさの布袋があった。血で滲んでいるが、それでもなお大切に扱っているとすれば相当思い入れのある品なのであろう。
その布袋を拾い上げると両の手に包み込んで静かに手を合わせた。心からの敬意と弔いの意を込めて。
刀を収めるとそのまま寺子屋の方へ再び歩き始めた。背後を振り返ることなく、ゆっくりとした足取りで。
その場から去ってすぐ、先程までいた場所から火の手が上がった。恐らく仲間の内の一人が火を付けたのか、それとも差し金が存在していたのか。
真相はよくわからないのだが、数日後にその場所の近くにほんの小さな盛り土がされていた。
線香が真っ直ぐに立ててあり花も蒲公英(たんぽぽ)が植えられ、土には細く短いながら棒きれが立ててあった。
名も知らない猛者にささやかながら弔いをしたのは恐らく坂本永禮本人しかあるまい。