廃寺に居候している武僧は仏に向かってただ黙々とお経をあげていた。やはり元は僧侶なので仏へ尽くす心は忘れていないようだった。
しかしお供えしてあるのは食べ物や花ではなく、これまで侍達から力づくで奪ってきた太刀である。その山積みにされた刀は軽く百に達しているのかも知れない。
この静寂な廃寺にあるのは小さな藁(わら)の筵(むしろ)とこれまで奪ってきた刀の山、それに必要最小限の荷物のみ。
筵は寝床の敷き布団替わりの為に使っている。掛け布団には綿の布でもかければ風邪をひくことなどない。
広い敷地は荒れ放題なのだがその一角は耕されており、野菜が丁寧に育てられていた。きちんと肥料も与えられているようだ。
小さな蝋燭の灯に照らされて彼は細々と簡素な生活を送っているようだ。
「・・・何奴。」
これまで読んでいたお経の巻物を巻くと外へ向かって歩き出した。
扉を開けるとそこに一人の若い男が立っていた。
浮浪者な身形(みなり)ではない。麻で織られた上下の着物と腰にさしてある刀、それに相手が所持している得物で侍だと識別した。
手にしている得物。それは十字に交錯している白金の長槍。
そんな大きな武器を所持するなどこの太平な世の中では到底考えられない。ただの見せ掛けならばもっと派手な武器を選ぶだろう。
だが歌舞伎者とは目の色が違っていた。明らかに戦意が此方に向いている。
只ならぬ様子に心の底から興奮が湧き上がってきた。薙刀を握る手に力が入る。
(面白い。久しく強い輩と手合わせしていなかったからな。これは楽しくなるぞ。)
横殴りに強い突風が吹いた。体が持っていかれそうになるほどの強い風。それはこれから起こる壮絶なやり取りを予想していたのかもしれない。
「近頃、京の都で侍を狩っている武僧がいるという噂を聞いていたが、御主か?」
「拙僧じゃないと誰がいるとする。」
「名前は何と言う?」
「拙僧は趨賽(すうさい)。貴殿は?」
「我が名は勝玄宗。暁月流槍術(ぎょうげつりゅうそうじゅつ)の使い手だ。」
相手に自分の武術の流派を教えると言うことは余程のことがない限り絶対に教えないのが筋である。それほど自らの腕に自信があるという現れなのであった。
互いの武器を見てみると持ち手が長い武器である。若干ながら勝の槍の方が刃の部分で長いが大差は殆どないと言ってもいい。
見た目から判断すれば明らかに体格の良い趨斎の方が力押しで勝てるだろう。だがこれまで剣の相手しか相まみえたことがないので経験不足も拭えない。
侍が大体使うのは持ち運びが便利で使い勝手が良い刀が主流。その上剣術を教える道場は町中に幾つかあるが、槍を教える道場などは滅多にないので扱う人が少ない。
しかもその長さから容易に扱いにくく、接近戦では勝ち目がない。だが一歩戦場に足を踏み入れると非常に槍という武器は活躍する。
唯一の攻撃手段“突”は殺傷能力が非常に高く、混戦になった場合にもその威力はいかんなく発揮される。
戦国時代前半に於いては馬上から槍を扱うため、その長さは比較的短かった。
しかし歩兵である足軽が主力となると槍は長くなり、その威力は飛び道具には勝らないが敵陣に切り込むのに必要不可欠な武器になった。
その大胆な方向転換を行ったのが、かの有名な織田信長である。
信長は他にもそれまでの常識を覆すような戦い方をしている。
南蛮渡来の新兵器・鉄砲をいち早く取り入れ、騎馬隊中心で構成された編成を足軽主体にしたり。
その他にも彼はキリスト教を受け入れ、身分に関係なく有能な人材がいるのであれば起用したりとその時代では考えつかないことを多くやってのけてきている。
さて、話を元に戻そう。
辺り一帯は静寂な空気に包まれているのだが、対峙している二人は先程から微動たりしていない。
お互い得物を構えてから息を止めているのかと疑いたくなるほどである。が、当の二人には既に激しいやり取りが始まっていた。
先手で攻めていくか、それとも相手の出方を伺うか―――両者共に痺れをきらして出てくるのを狙っていた。
が、お互い図太い神経の持ち主なのか一向に動く気配がない。
(さて、どうしたらいいのやら・・・。)
やはり一筋縄にはいかない、と趨斎は改めて思った。これまで小物ばかり捕まえてきただけに身体が膠着状態に慣れていないのだ。
実を言うと彼は本格的に体術の教えを受けたことがないのである。
寺の修行の合間に林へと抜け出してこっそりと我流ながら身体を鍛えていただけである。
そのため人と対戦したことは無論ないのである。相手との駆け引きを知らないで一方的な勝ちばかりを得てきたので無理もない。
しかしこの場では彼は未知数の実力者相手に待っている。推測なのだが自らの本能がそうさせたのであろうか。
だが慣れていない独特の張り詰めた空気に押し負けて身体は既に待てないと思った。
彼は電光石火の疾さで勝負をつけようと決心した。全ては先手を逃さずに薙ぎ払う。それしか勝ち目はないと自らに言い聞かせた。
境内の一角にある大きな紅葉の木からひらりひらりと紅葉(もみじ)の葉が強い風に煽られて色鮮やかな渦を作り出した。
その形成されたばかりの渦は二人の間の空間を通り抜けつつある。
「はぁぁっ!!!」趨斎はその渦をけたたましい掛け声と共に縦一直線に薙刀を振り下ろした。
確かに斬った。回転する風と風に乗っていた紅葉の葉を。
趨斎の視界から玄舟の姿を見失ってしまった。先程の渦を破壊した影響もあり、彼の眼前には紅葉が舞っているのだ。
彼が一生懸命に消えた姿の行方を捜していると、空に舞っている紅葉の壁から槍が突き出てきた。
一瞬の不意を突かれた。趨斎の意識が前方に集中しているのを図って横から攻撃した。
玄舟の槍は趨斎の体を捉えた。
が、手応えはなかった。
纏っている衣までは刺さっているのだが貫通していないのだ。つまり致命的な打撃を与えられていないということになる。
趨斎は不敵な笑みを浮かべた。
「残念ながら貴殿の得物では我が鉄壁の堅さを貫けないみたいですな。」
自分の体に当たっている、もとい“触れている”槍を薙刀で払いのけると破れた衣を自らの手で引き剥がした。
その衣の下には黒光りした鎧が隠されていた。身に纏っているその鎧は一見普通のように思えるが実際には想像以上に堅いのである。
いつもなら簡単に鎧もろもと貫くことが出来る筈なのに出来ないのである。
勝はじっと趨斎の鎧を見つめてある代物に結論がついた。『黒堅武者鎧“仁王”』と呼ばれるこの世に二つとない逸品である。
作は平義一(たいらよしかず)。陸奥の国にその名を知られている職人で、特に鎧に関しては天才の才能を持ち合わせていた。
右の脇腹に輝く白墨色で“平”と彫りこまれているのはなによりの証拠。義一自らが完成間際に筆を入れる。
主に朱色や濃紺を好んで作ったのだが、晩年は黒色の鎧を丹精込めて作り上げた。
奥州特有の蹈鞴鉄(たたらてつ)特有の黒色を何の細工も施さずにそのまま鎧に仕立て上げたのである。
『仁王』は黒一色ではなく、まるで後世にまで名器と呼ばれるような焼き物のように波打っており見る者を引き込むような錯覚を覚えさせた。
見た目だけでなく実用性にも優れている。精度の高い鉄を用いている上に若干量の薬剤を含んで非常に頑丈な鎧に仕上がっている。
作者である義一自身も「これに勝る代物は過去においても未来であっても存在しない。」と豪語している。
どういう経緯かわからないが趨斎はその逸品を手に入れ、実際に着用しているのである。
「流石天下に名を轟かせる究極の品。易々と貫かせてもらえないな。」撥ね返された槍を手元に戻すと他人事のように呟いた。
胴の部分を覆っている鎧は正しく鉄壁に値する。如何なる攻撃も受け付けない上に鎧に傷一つつけることも困難であろう。
趨斎の目からは勝が勝負を諦めたと判断したが、彼の瞳から闘志は消えておらず、鋭い眼差しを向けていた。
鉾先(ほこさき)は未だに趨斎に向けられている。視線も鋭く今にも彼を貫いてしまいそうな勢いである。
だがあの鉄壁を打ち破らない限り勝機を見出すことは出来ない。腕にも鉄拵え(こしらえ)の籠手が装備されているので攻め手を失わせることも困難。
残念ながら今のところは攻撃を休めて相手の様子を伺うしか手段はなかった。
「どうした。貴殿が参らないならば拙僧から参るぞ。」攻撃を与えられない様子を察知してか立場が逆転した。
趨斎の絶え間ない攻めに対して軽やかな足取りで攻撃を避ける。
実に隙のない攻撃を繰り出してくる。相手に付け入る隙を入れさせることなく次の効果的な一手を放つ。
正に熟練した技で、一介の坊主などはおろか武士ですら普通では出来ない芸当である。
一瞬でも気を緩めれば忽ち(たちまち)この体は真っ二つに引き裂かれてしまうだろう。油断はできない。
と、その時だった。
先日の雨で地面が緩んでいたらしく、勝の軸足がぬかるんだ土に足を滑らしたのである。
攻撃にも守りにも必要不可欠な軸足が足をとられたとなると素早い動作に移るのに若干ながら遅れてしまう。
その若干が猛者達との駆け引きにとって命取りになるのである。
「勝機!」
ここぞとばかりに趨斎は大きく頭の上にまで薙刀を振り上げる。
だが勝もまたその大振りになった僅かな隙を見逃すはずがなかった。
片手で持っていた槍を両手で持ち、その上持ち方もどちらかというと穂先の方を持っている。
縦に大きく振り下ろされた刃先を斬られる刹那でかわし、その反動で長くなっている槍の柄を趨斎の脛(すね)目掛けて思いっきり打ち込んだ。
「ぐぁっ!!!」
脛に鋼鉄の柄が叩き込まれた直後、趨斎はその激痛に耐えかねて悶えながら地面に倒れこんでしまった。
人体致命の急所とまではいかないが激痛から体全体の動きは鈍る。
動きが止められたところで槍を翻して(ひるがえして)彼の喉元に穂先を当てた。少しでも不穏の動きあればその喉元は穂先によって一貫される。
勝負はこれをもって雌雄を決した。
趨斎の喉元に突きつけられていた穂先を引くと趨斎は不敵の笑みを浮かべた。
「ふっ。拙僧のような不届者を処罰しないとは。仏の道に邁進すべき坊主が薙刀を手にして暴れておったのに。」
「生憎拙者は無用の殺生を好まないのでな。それより御主に尋ねたいことがある。」
「なんなりと。」
負けを潔く認め、痛みがひいてきたのか胡坐(あぐら)をかいて座った。但し痺れがあるのか打ち込まれた右脛には手がそえられていた。
「何ゆえ御主は侍ばかり狙うのだ。何か侍に対して恨みを持っていたのか?」
「・・・復讐。この肩の傷に込められし無念と恨みを晴らすために。」
肩に装着されていた肩当を外し鎧を脱ぐとそこには肩口から胸にまで伸びている切り傷が刻み込まれていた。
雷鳴轟き、風は荒れ狂い、雨も疎らに降り始めてきた。廃寺の中へ一旦入ると彼はその切り傷に関する過去を静かに語り始めた
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今から十年の月日を遡る。趨斎は数え年で十二歳になっており、それなりに分別のつく年頃である。
彼は京の一角にある寺、つまり今滞在している寺でひたすら仏門に帰依していた。
幼い頃に流行病(はやりやまい)で両親と乳飲み子の弟が亡くなり、身寄りのない状況で住職に拾われて命を救われた。
その当時、親を失った子供は乞食になるか夜盗になるか道端で野垂れ死ぬかしか道がない。拾われることなど滅多にないことである。
住職はまさに自分の子供のように育ててくれ、愛情を注いでくれた。貧しいながら幸せな生活を送っていた。
仏に仕える身であったなら欲を捨てるべきなのである。だが若い時には溢れ出てくる欲望を抑止することが出来ない。
悪友に誘われて住職に内緒でこっそり街に繰り出して魚を捕らえて食べたり、女と会話を交わしたりした。
寺に帰ってくるといつも住職は黙って仏に手を合わせているだけであった。だがそれだけで威圧されているように感じて自分に罪悪感を覚えるのである。
その内悪友からの誘いを断りひたすら仏の道に邁進していくようになった。
だがそんな幸せな日々を無残にぶち壊すような出来事を彼の元を襲った。
山々の木々が赤色や黄色に色付いてきた頃。空の青色と混ざり合って非常に色鮮やかな季節である。
京の都に吹き抜ける風も心地よく感じられ、紅葉狩りにでも出掛けるには格好の日和。
だがそんな風はまた舞い落ちる紅葉や銀杏(いちょう)を片付ける小坊主にとっては憎い仇でもあるのだが。
そんなある日、門前で掻き集めても塵積もる落ち葉を彼が掃除していると侍が寺を訪れた。
「おい小僧。住職はいるか?」
「はい。和尚様ならいつものように念仏をあげていますが。」
なんの変哲もない廃寺なのに何故用事があるのか疑問に思いつつも客間に通してその場を後にした。
数年間この寺に住んでいるのだが見覚えのない顔であった。在家の人々も大抵はこの近くの百姓が多いので毎日のように顔を合わせるので顔をしっかりと覚えている。
彼は直感的にあの侍は招かれざる客だと感じた。だが理性によってその考えを心の奥底に隠してしまった。
話し合いは難航を極めたらしく夕刻にまで及んでいたが、陽が傾きかけるとやむなく侍は引き下がって元来た道を戻っていった。
その夜、彼は住職に今日の話について聞いてみることにした。
膳を前にして一汁一菜の夕餉を食べていると彼は真相を聞きだすために切り出した。
「和尚様。」
黙々と箸を進めていた住職は箸を置いて若い彼の話に耳を傾けようとした。
「どうした。なにかあったのか?」
「本日見知らぬお侍様がお越しになりましたが何用だったのでしょうか?」
「これこれ、大人の世界に口をはさむでない。」
「しかし!」
住職はまるで他人事かのように振る舞い必死に諌めようとする。しかし彼も直感的な不安が治まらず、引き下がろうとしない。
彼の瞳は一点集中して住職の顔に穴を開けるように見つめているのである。
「…お主は頑固に自分の道を貫こうとする。一度決めてしまったら梃子(てこ)でも動くまい。」
その並々ならぬ気迫に押されて遂に住職は根負けしてしまった。
「実はな、とある大名からこの土地を譲れと言われてきていてな。何度も丁重にお断りしているのだが聞き入れてくれなくてのぉ。」
話によると事の発端は十数年前程昔になる。
鷹狩りの帰りにとある大名がこの寺にて泊まることになり、侘びしい寺ながらも精一杯の持てなしを披露した。
だがどういう訳なのかその殿様は殊の外(ことのほか)気に入ってその土地に執着するようになったのである。
この寂れた寺を隠居後の屋敷にでもしようと考えたのであろうか。相手方の考えはわからないが住職は住み着いた土地を離れる気持ちにはならなかった。
だが執拗にこの地を離れるように大金を積んで要求してくる。十年間も粘っている方も住職も互いに頑固である。
「…私もお主に負けないくらいの頑固者だな。とても使い切れないくらいの大金を払うと言われても私の意志は揺らがない。なんとも馬鹿な男じゃ、私は。」
「とんでもございませぬ!和尚様のお人柄はこの地の者に慕われているのはその無欲さがあってからこそと思いまする!」
その言葉を聞くと住職の眼にはキラリと光る涙が浮かんでいた。
大事に大事に我が子のように育ててきた愛弟子の一言でこれまでの苦労が全て報われたような気分になった。
と、山門の方から物音が聞こえたので溢れ出ている涙を拭いつつも立ち上がり、門の方へと向かっていった。
しかし考えてみると妙である。こんな夜分に寺を訪れる門下などいるはずもない。大体夜もそんなに出歩く人など多いはずがない。
住職が扉を開けると昼に来ていた侍が二人の応援を引き連れて立っていた。
「住職さんよ、あんたは本当に頑固だね。」開口一番に侍は住職に罵声を浴びせた。
「いえいえ。私なんて身にあれほどの大金を積まれても困ります、と毎々申し上げているわけではないですか。それだけあるのであれば何処か他の場所でも宜しいじゃないですか。」
宥(なだ)めようとするが相手は殺気立っていた。
こんな押し問答が何回か繰り広げられる内、苛立ちが頂点に達して仕舞いには一人が鞘から刀を抜いて脅しにかかった
「これが最後の頼みだ。黙ってこの大金を受け取って此処から立ち去ってくれ。」
「お断りいたします。」住職は即答した。
その返答を聞くと残りの二人も一斉に鞘から抜いて構える。
住職は何の抵抗をする素振りもなく手を合わせて突っ立っているところを三本の刀が一瞬のうちに体を貫通した。声を荒げることなく、反撃することもなく。
暫くして戻ってこない住職の安否を気遣って後をつけてみると、そこに血に塗れた刀を持っている侍と血塗れになって倒れている住職を見つけた。
我を忘れて素手のまま侍たちに向かっていったが袈裟懸けに斬られてしまった。両者の傷は重く、放っておけば生死にかかわる程であった。
彼は口から血を吐き、朦朧(もうろう)としてきた意識をしっかり持とうと気を持たせたが、力尽き瞼を重く閉じてしまった。
次に彼が瞼を開けたとき、そこは涅槃でも地獄でもなかった。近くの百姓の家の天井が入ってきた。
事情を聞くと彼が意識を失っている間に住職の意識が戻り倒れている彼を見つけると重体な体を押して彼を近くの家にまで運んできたのである。
しかし余命を悟ったのか百姓に彼の今後のことを言伝するように頼むと静かに息を引き取った。
一方彼は近くの百姓や町医者の懸命な看病により一命を取り留めることができたのである。
その事実を聞いて彼は魂が抜けたような表情をして住職の死を悼んだ。その日一日体の水分が全て涙に変わったように涙が枯れることはなかった。
数日後、ようやく落ち着いた彼に百姓は住職から最後の力を振り絞って言伝されたことを話した。
「……和尚様は残されたあなたへ『私のことは一切忘れて平穏な暮らしを送ってほしい』と最後に仰っておりました。」
最後の言葉を聞いた彼にはこの遺言に納得がいかなかった。
一方的に立ち退きを要求して断ってきた結果、何の理由もなく斬られた。そしてこれまで平穏で幸せだった生活が凶刃によってすべて奪われた。
この言伝の意味合いは深くわかっている。『決して敵討ちなど考えるな』ということも含まれているのであろう。
だが彼にとってその裏の理由こそ理不尽である。何故このままみすみす引き下がらなければならないのか。どうして自分の無念を晴らそうとしないのか。
傷が癒えるとお世話になった百姓に心ばかりのお礼をして全国行脚に向かった。住職の供養と武者修行のために――――――。
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吹き荒んでいた風も、激しい音を立てて打ち付けていた雨も、空を切り裂いていた雷も、いつの間にかおさまっていた。
雲の切れ間からはぽっかりとまん丸な月が顔を見せていた。
「今思えば敵討ちのための武者修行は非常に過酷なものだった。辛酸を嘗め、苦しみ・痛み・煩悩に耐え、ようやく誰にも負けない力と技を会得した。年月は湯水のように費やしたが……。」
ぼんやりと嵐が去ったあとの庭を眺めて昔に思いを耽(ふけ)っていた。
「…一つ聞きたいが、あの鎧はどのような経緯で手に入れたのだ?あれ程の代物ならば武家の者であれば肌身離すことなく持ち続けるであろうに。」
「あれは通り掛かった質屋にて求めた代物で御座います。」
「なに!?質屋だと!?」
時代の流れは時に残酷である。
戦乱が収まり、太平の世が訪れたこともあり侍は常々戦支度をする必要がなくなった。
そうなると今までそれらのために使われていた金は自然と遊郭や酒などに注ぎ込まれ、質素だった姿格好や装飾なども派手になってくる。
しかし何分金が掛かる。そこで武士の魂と言える刀を残して鎧・兜などを質屋へ流す者共が後を絶たなかった。
酒に溺れ、女に溺れ、そして欲に溺れ。欲望に注ぎ込む金の工面に業物ですら質屋に流れる現状に悲しく思った。
二人は黙って縁側にまで足を進めてそこにどっかりと座り込んだ。縁側は多少雨が入って濡れていたが月明かりが差し込んでいた。
しばらく重苦しい沈黙は続いたが、玄舟が再び語りかけた。
「御主はこれから如何致す?」
「…これまでの罪を償うため、お上に全てを委ねまする。恐らくお侍様に刃向かった重罪で断罪に処せられると存じますが。」
「これは拙者の提案なのだが…。」
不思議そうな表情をして玄舟の声に耳を傾けた。
「実のところ奉行所の者共は御主の存在に気付いておらぬ。正確には『手出しして自らの身に火の粉が降りかかるのを恐れている』のだ。故に所在どころか素性も特定できていない。」
奉行所の裏事情に趨斎はただ黙って頷くしかなかった。
「そこで京の街中にこういう噂を言い触らすのだ。『十年前に斬り捨てられた寺の住職が甦(よみがえ)って侍を懲らしめている』とな。」
この時代、ちょっとした噂が流されるとたちまち民衆に広まり、いつの間にか尾ひれがついて大きくなっていった。
噂は大きく話題になりそうなものであるほど伝達する速さは速まり、尚且つ大きくなりやすい。
そしてなによりも街の民が怯えると自然と混乱を招き、街を大混乱に陥れることも出来るのである。戦国大名も相手方の城下に間者を放って民を混乱させ、その隙を狙って攻め入るという方法を実際に行っていたりする。
「すると張本人の侍共はこの場所へ亡き住職の魂を鎮めに弔いに来るし、御主の存在も奉行方に知られることも格段に少なくなる。『拙僧は亡き住職の魂を鎮めにきた』などと言っておれば怪しまれることもないであろう。」
玄舟が提案した策は下手人の趨斎もこれにはただただ感服するしかなかった。
常人には到底考えつかないような考えを的確かつ素早く判断する頭の回転の速さ。人を惹き付ける雰囲気。なにより相手を思いやる寛大深い心。
この侍…いやこのお方は一体何者なのか?心の中で趨斎は一抹の疑念を感じた。
「…貴方様は一体何処の何方なのでしょうか?是非お聞かせ願いまする。」
玄舟は少し間を置いて改めて口を開いた。
「拙者はただの一介の侍で先刻申したように勝玄舟と申す者。決して高貴な家柄の者ではないのでお気になさらず。」
ふと空を見上げると先程まで厚く雲が覆っていた空が嘘のように晴れ渡って雲一つ見当たらなかった。
今宵は良き月だな、と独り言のように呟くと縁側から降りて草鞋を履くとそのまま後ろを振り返ることなく元来た道を戻っていった。
玄舟が宿に戻る頃には月も頂天から傾きかけていた。無論宿の者は皆床に入っている。
しかし部屋の灯りは灯されたままである。永禮と頑真は寝ずに(退屈しのぎに遊んで)主君を待ち続けているのであろう。
空の暗雲は風に流されていったが自分の心に残る心の靄(もや)が未だに晴れない。
確かに趨斎は罪を犯した。だが根本には傲慢な侍がいたからこそ道を外れてしまったのである。
咎めるべきは趨斎よりも世の闇に潜む害虫だ、と改めて思い直した。
闘い終えた愛槍は月明かりに賞賛されているように一段と白く輝いていたのであった。