其の壱拾「刀を奪う荒法師」




 ある日突然お登勢が夜出歩くのを控えるように我々に伝えてきたのだ。
 その顔色は一面蒼白で安心できないみたいだった。
 しかしお登勢の忠告を耳にも留めず頑真は豪快に笑い飛ばした。
 「お登勢、如何した。我らなれば心配無用だ。帯刀しているなれば武士と判別できる。町人狙いの野党ならば刀を帯びている輩を襲うなどあるまい。」
 私が念押しを込めてお登勢に伝えるとさらにお登勢は続けた。
 「それがですね。厄介なのは此処からでしてねん。なんでもお武家はんだけ狙っているようでして夜な夜な都の街に出没してはお武家はんの太刀を奪うんです。先日なんて三人がかりで倒そうとしたお武家さんが返り討ちにされましてお一方は右腕が麻痺してしまったそうな・・・。」
 その話に一瞬にして場の雰囲気が凍りついてしまった。

 お登勢が下がっても凍った空気はなかなか溶けなかった。
 しばらくして何を思ってか上様が(お龍。)と独り言のような声で囁いた。
 直後(此処に。)と天井裏でお龍が返事した声が微かに耳に入った。だがその声は主以外の者に聞こえないような大きさで風の音一つで掻き消されるやもしれないくらいである。
 (今女将が話していた事情を全て調べてこい。それと夜な夜な襲っている者の素性も出来れば。)
 (心得ました。明日までには・・・。)
 そう言うと天井裏にあったお龍の気配は瞬く間に消えてしまった。物音一つ立てず、いとも簡単に。
 それでこそ一流の忍び、いや忍びの道に生きる者ならば必要不可欠であろう。
 「さて、既に賽は振られたのだ。お龍の報告がどのようなモノか想像できないが、恐らく私が思うに良い事ではないだろう・・・。」
 この上様の直感は常人を遙かに凌駕しているモノである。我々にとって普通に見えないことでも上様には先の先まで読めるのであった。
 上様を先導に我々臣下はただついていくのみ。例え間違った道であろうと突き進むしか道はない。
 だがもしも誤った道に踏み入れそうになった時は命を張ってもその道から上様を出さなければならない。この国の舵取りの少しでも間違った方向に船を進めた場合、船は別の方向に進んでしまい大変なことになってしまう。
 近くをみていては過ちに気付くのが遅れる。逆に遠くを見続けているといち早く過ちに気付くことができる。
 その為この国を背負う舵取り役には“未来”という全く見えないモノをいち早く察知する能力が必要不可欠なのである。


 翌日の晩。夕餉が終わると上様は私を将棋に誘ってきた。
 碁盤を取りだして早速一局打っているとお龍が情報を集めて戻ってきた。いや、いつの間にかその場にいたと言った方が正しいか。
 「只今」と一言お龍は言うと早速傍らに持っていた大きな藁半紙(わらばんし)を広げて説明し始めた。
 「寺子屋の女将が言っていた事は真実です。確かに武士ばかり狙っている刺客がいると。町人の話によると格好から恐らく法師かと思われまする。」
 法師、という言葉に反応して一斉に頑真の方を向いたが姿格好から到底仏に仕える身に見えないのであっさりと疑念は晴れた。
 それはそうだ。お経を読んでいる者とは思えないくらい筋肉質で体格も大きく、召している着物もどちらかというと町人が着ているモノに近い。
 肉こそ食べないが、魚は食べる。殺生を(一応)嫌うが喧嘩は大好き。女遊びもそこそこ。さらに数珠をしていても数珠とは見えず装飾品(現在でいうアクセサリー)ととられても遜色ない。
 さらにお龍の口は動いた。
 「相手の得物は薙刀(なぎなた)で他に武器は身につけていないと思われます。だが纏っている鎧は相当頑丈らしく敵からの攻撃を一切受け付けないそうです。」
 「して、その法師が夜な夜な武士を襲う目的は?」
 「それが生憎わかりませぬ・・・。一応襲われた武士の身元を探ってみたのだが共通する箇所が見当たらないのです。更に法師が仇と思うほど恨みを買っている輩もいませんでした。素性もわからないので無闇に成敗するのは得策ではないかと・・・。」
 この報告に上様は黙って腕組みをして考え込むしかなかった。
 わかっているのは相手の得物くらい。こんな情報不足の状態で相手に向かっていくことはあまりにも無謀極まりない。
 「だがこのまま野放しにしていると面目が立たない。そればかりか模倣するものまで出てきかねない。そうなった場合武士としての立場がなくなってしまい、町民から馬鹿にされてしまうだろう。」
 “武士は食わずも高楊枝”といった具合に侍というのは自尊心が高い。その自尊心が崩壊した場合、武士としての威厳が保てなくなるのだ。
 武士の誇りがなくなった場合、武士はそれまで威張っていた存在から一転して蔑まれる存在になりそこから生まれる格差に苦しみ奈落の底にまで落ちてしまう。
 それを裏付ける歴史が現実にある。
 (後々の話になるのだが)明治維新設立後の武士は『俺達が今の政府を作ったんだ!』と胸を張っていたのだが政府の官職に就いている者から見れば武士は邪魔者にしか思えなかった。
 何故か。武士の戦い方は非常に古く、とても銃火器を使った戦いに於いて太刀打ちできない。
 さらに政府予算の約六割を武士の食い扶持に費やしていた事も重大な要因になると言えよう。
 武士の命、刀を廃刀令で取り上げ、四民平等で士族(武士)の特権を失い、廃藩置県で藩を潰した。トドメに政府は一時金を支払った後、一切の給料を払わないとした。
 無論次々と特権が取り上げられていく中で徐々に新政府に対する不満が蓄積していった。結果、反乱が起きた。
 その中でも最大の反乱は木戸孝允・大久保利通と共に“維新三傑”と揶揄された西郷隆盛が首謀者の『西南戦争』である。
 およそ10万人の士族が西郷の元に集結して打倒新政府を掲げて進軍したが数・武器共に上回る政府軍に圧倒されて最後に西郷は故郷・薩摩で命果てた、とされている。
 ここで(特権を奪われた以上、どうして他の職に就かないのか)と疑問に思う人が多いと思われる。
 武士は普段から殿様(藩主)に仕えているのが普通である。藩主に身を捧げ、藩の仕事をこなすのである。
 それが廃藩置県によって藩主は東京に移されてしまい、主はいない。さらに仕事も新政府の人間が執り行うのでやることなどない。正に抜け殻な状態である。
 ならば別の道に生きる術はなかったのか。
 商売を始める者は誇り高き自尊心が仇になって客と対等に商売できない。その為商売に手を出した者は没落していった者が多い。
 未開の地、蝦夷(現在の北海道)に渡る士族もいる。しかし極寒の地で暮らしていけるまで相当の苦労が待ち構えていたのである。
 もちろん成功した士族もいるのだが極々僅かしかいない。大名の腰元などでさえ遊郭で働くなど没落ぶりは非常に酷い有様であった。
 さて、話を戻そう。
 「では拙者が参ろう」と永禮が立ち上がると上様は「待て」と制止させた。
 「今回の相手は勝手が違う。例えお主が相当な手練れであったとしてもお主が一暴れした場合、お主の活躍は京中に知れ渡ってしまうだろう。それは今後のことを考えると得策とは到底思えない。」
 確かに今ここで成敗したとしたならば必ずや敵方から要注意人物としてほんの些細な部分まで細かな視線を浴び続けられる程警戒されるだろう。
 今後のことを考えた場合派手な行動は控えるのが筋である。
 しかしながらこのまま放っておくのも納得がいかない。武士の面目が丸潰れである。
 「なれどこのままでは・・・」
 「心配いらぬ。この余自らが直々に成敗してくれるわ。」
 「上様!それはなりませぬ!」
 この発言に皆揃って猛反発した。
 当然だ。どこの世界に国を動かしている者自らが危険を犯してまで犯罪者を成敗する人間がいるのか。いるはずもない。
 今の世界で例えるならば総理大臣が銀行強盗を取り押さえるのと一緒なモノである。あまりにも無謀極まりなく、しかも万が一何かあった場合重大な影響が出かねない。
 「案ずるな。不届きな輩を懲らしめるだけだ。余が万が一つに負けるなど有り得ない。」
 その言葉に迷いがないことは顔に書いてあった。
 真っ直ぐ一点を見つめる澄んだ瞳。不安など全くなく、余裕を醸し出している表情。
 最早誰が止めようとも止めることが出来ないのである。
 「・・・かしこまりました。それでは上様、呉々(くれぐれ)もお怪我のないように。」
 そう言うと我々に背中を向けて出掛けていった。



 その頃、京の一角にある寂れた廃寺。陽は既に沈んでおり辺りは闇に包まれている。
 無論人がいないと思われているのだが仄かに灯りが灯されている。灯りの側には一人の大武者がいた。
 姿格好は僧兵で頭には頭巾を被っている。彼は胡座(あぐら)をかいて手を合わせてひたすら念仏を唱えていた。
 潰れたと言っても仏の像は存在する。例え略奪目的で夜盗が盗みに侵入したとしても彼らが欲しがる得物の対象になることは有り得ない。
 小難しい法典などは薪と一緒に燃やして焚き火の足しにするであろうが、仮に仏像に手を出した場合は自らに仏罰が降り注ぐかもしれない。
 例え床板が剥がされようとも、法典が焼かれようとも、金品が奪われたとしても、仏像に手を出すことはないのである。
 「・・・参るか。」
 念仏を唱え終わると傍らに置いてあった薙刀を手に取り、立ち上がると勢いよく外へ飛び出していった。
 石畳の上を彼が履いている下駄で歩くとカランコロンと小気味良い音を奏でた。それがリズムにのって徐々にテンポが速くなっているのがわかる。
 秋の涼しい風が京の夜を通り抜ける。その風に後押しされるように大手を振ってどこかに向かっていた。
 向かったのは橋の上である。それもかなり人通りが多く、橋幅も広い。
 そこに到着するやいなや橋の中央に立ち、誰も通さないと言った事を意志するかのように立ち塞がった。
 こういった大通りに面している橋に陣取ることによって目的の人物を特定するのは早くなるということだ。
 しかも橋という場所は実に見通しがいい。
 京の町は平安の時代に隣国・唐の都を真似て作られている。その為碁盤の目のように大きな道が何本も南北・東西に延びている。さらに都だけあって人々の往来も激しい。
 しかも川を渡るには掛かっている橋を渡るか自らの体を濡らして渡るかのどちらか。しかし荷物を持つ者や体力のない者、それに寒い季節などは虚け者でも橋を渡るしかない。
 そういった意味で橋に陣取ることは最適なのである。

 待つこと数刻。遂に待ち人がやってきた。
 相手は二人連れだった侍。雪洞(ぼんぼり)片手に自らの屋敷に戻るのであろう。
 侍達が橋に差し掛かったとき、突如僧兵は声をあげた。
 「そこのものども。待てぃ。」
 両の手を大きく横に張り出して行く手を遮る。その様子に声を荒らげて片方の武士は言葉を返す。
 「おい、坊主。我ら何者かわかって口をきいているのだな?」
 どうやら声を荒げている方は少し酒が入っているようだ。千鳥足になっていないのだが昂揚して顔が赤い。
 だがもう片方の武士は冷静で相棒を宥めようとしている。
 「待たれい、権丞(ごんのじょう)。もしや近頃都で恐れられている荒坊主ではあるまいか?」
 「黙れ蔵之助(くらのすけ)。このまま引き下がっては武士の面目が立たないではないか。仮に噂の荒坊主を倒したとするならば我らの株が上がるというものよ。」
 挑発され酒の勢いも手伝って刀を鞘から抜き放つと橋に陣取る相手に向かって刃先を向けた。
 相対して薙刀を構えて臨戦態勢は万態。一線を画すのは間違いない状況である。
 「ふっ、大人しく刀を差し出せば怪我せずに済むものを・・・。」
 「黙れ。貴様は今宵我が太刀の前に敗れさるのだ。覚悟せぃ。」
 その自信の表れか、構えはなかなかのモノであった。並大抵の腕で負かされることはないであろう。
 だが冷静な相方から見たこの対決、明らかに此方側の負けだった。
 酒が入っているとか扱っている武器の違いとかの問題ではない。覇気からして違っているのである。
 生半可な実力ではいとも簡単に跳ね返されてしまうであろう。相手に睨まれるだけで体が麻痺するような感覚に陥るほどの威圧感。
 例え二人がかりで向かったとしても勝ち目はないと想像した。いや、出会った時点で運がなかったと諦めなければなかったであろう。
 勝負は一瞬で雌雄を決した。
 勢いをつけて上段の構えから切り込んでいったが虚しく空を切り、太刀は縦に放物線を描いた。
 そして放物線が橋下駄に触れる直前に大きく振りかぶった薙刀の柄が鳩尾(みぞおち)に直撃した。
 侍は一回、二回と体を回転させ勢いよく相方の体を通り越して飛ばされていった。
 その破壊力は凄まじく、内臓と骨数本が痛み肋骨二本が折られていた。無論意識は既になく、口元からは出血している。
 主から無理矢理引き裂かれた刀は僅かな間空中を彷徨った後、虚しく鈍い音を立てて橋の上に落ちた。
 その刀を坊主が手に取るともう片方の武士に対して右手を差し出した。
 「さて、お主は如何する。敵討ちをするか、それとも倒れている者を担いで逃げるか。逃げるならば腰にさしてある刀を置いて行け。」
 これ程圧倒的な大敗を目の前にして戦えるほどの勇気を悲しくも持ち合わせていなかった。悔しいがこの場は逃げるしか道はない。
 腰にさしてあった刀を足下へ静かに置いた。『これで私は丸腰だ。我々が立ち去るまで何もするな。』といった現れであろう。
 地に臥せている相方を肩に担いで元来た道を何も語らず引き返していった。その瞳からは無数の涙がこぼれていた。
 空もそれに呼応するかのように黒く分厚い雲から地面を叩き付けるくらい激しい風雨が彼らを追いたてた―――。
 彼らが立ち去って暫く余韻に浸っていたが二振りの太刀を手にすると雷が轟いている空に向かって豪快に雄叫びをあげた。
 天に届かせようとしているような大きな雄叫びは激しい雷雨の中ずっと狂ったように叫び続けていた。


 その事件から数日。寺子屋の部屋に上様の姿はなかった。替わりに窓の側で碁盤を挟んで坂本と中岡が対峙して将棋を打っていた。
 「なぁ、永禮。」中岡が突然口を開いた。
 「なんだ。待ったはなしだぞ。」余裕綽々で返事を返しながら次の手を打ちつつも用意していた茶菓子を啄(ついば)む。
 「待ったじゃない。上様が心配にならないのか?」負けじとお茶を啜(すす)るが、その表情に余裕は見えない。
 心配するのも無理はない。かれこれ四日程宿を出て戻ってきていないのである。
 普通なら暢気(のんき)に将棋なんて打っている場合でもないのだが、こうなった以上は無闇に詮索しない方が良いだろう。
 なんせ常日頃上様の周辺を守っており、お付きであるお龍ですら何処にいるのか見当も付かないのだ。広い都の中で捜そうなど無謀なのである。
 「心配するな。もうそろそろ成敗して戻って来るであろう。」盤上の駒は相手方の王を捉えた。
 中岡が挽回の手を画策している合間に坂本は空を眺めた。
 数日前の雷雨の影響が残っているのか未だに月に雲がかかっている。そろそろ晩秋なのかも知れない。

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