終 : 引き際




 そして時は戻り、慶長十四年五月。忠勝は長い長い過去を巡る旅から現実に戻ってきた。
 蜻蛉切の導くままに暴れ回って火照った体も冷め、気だるさだけが肉体に残っていた。日々の鍛錬は欠かさず行っているものの、老いと衰えには勝てず、遂に相棒の柄を詰める決断も下した。
 あの天下分け目の大戦以降、幸か不幸か忠勝が戦場に立つ機会は巡って来ていない。そのため、天下無双の評判は変わらず保たれ、ある種伝説のように扱われている。
(そうか。あの戦いからまだ九年しか経ってないのか)
 月日の移ろいの早さにはいつも驚かされたが、自分の感覚より年数が経過していないことに驚きを禁じえなかった。
 関ヶ原の合戦の後、家康は西軍に与した大名の多くを改易または大幅な減封の処分を下し、代わりに東軍に与した大名や自らの家臣に手厚く分配した。また、豊臣家に対しても『世を乱した責任がある』として全国各地に有していた直轄領を没収、河内和泉摂津の三国を治める一大名に転落した。これにより豊臣家は諸大名を統べる資格を失うこととなる。
 関ヶ原の戦いから三年後の慶長八年二月、家康は後陽成天皇から征夷大将軍に任じられ、名実共に武家の頂点に立った。征夷大将軍就任を契機に江戸で幕府を開き、徳川を頂点とする新しい時代の到来を世間に示した。その二年後には、自ら将軍職を辞すると秀忠にその後を継がせ、『徳川が征夷大将軍職を世襲していく』ことを天下に強く印象付けた。
 忠勝も関ヶ原の戦いでの働きが認められ、伊勢桑名十万石へ移封。旧領の大多喜五万石は次男忠朝に別家という形で与えられた。桑名は伊勢湾に面した東海道を東西に結ぶ要所であり、地理的に豊臣家の拠点である大坂に近いことから、信認の篤い忠勝に託したと考えて良いだろう。忠勝は桑名入封後に既存の城郭及び町割りの再編を行い、街道の宿場町として相応しい町にするべく尽力した。
 桑名の町割りも目処が立ち、治政も嫡男の忠政が堅実に進めている。それを見届けた忠勝は領国を忠政に任せ、江戸に上って現在に至る。
 現状に不満はない。強いて挙げるならば何もしなくて良いことに退屈を覚えることだが、それは自分でも贅沢な悩みだと分かっている。泰平の世を築くまでに道半ばで逝った者から叱責を受けるに違いない。そしてまた相棒も戦いを欲しているかと思ったが、今は静かに眠っている。
 再び空を見上げれば、雀が数羽右から左へ飛んでいった。先程まで天高く悠々と泳いでいた鳶の姿はもう居ない。
(……そろそろ、頃合かも知れぬな)
 忠勝は淋しそうに息を一つ吐くと、重い腰を上げて室内に戻っていった。

 五日後。忠勝が出仕したのは江戸城ではなく、駿府城だった。目的は、家康に会う為だ。
 家康は慶長十二年に江戸城を出て、駿府城に住まいを移した。将軍職を辞して隠居した身ということで、江戸より温暖な気候の駿府を隠居所に選んだのだろう。
 駿府は何かと縁のある場所だ。今川の人質生活で苦い思い出もあるだろうが、武田を滅ぼした後から関東へ転封になるまでの十数年を過ごしてきただけに愛着もあるのだろう。
 案内されたのが大広間でなく書院の間だったことに、忠勝は内心安堵していた。無駄に広い空間の部屋では、居心地が悪くて落ち着かない。これも主の配慮か。
 暫く部屋で待っていると、遠くから衣擦れの音が聞こえてきたので頭を垂れる。
「久しいな、忠勝」
 頭上から親しみの込められた声がかかる。それを合図に頭を上げると、恰幅の良い初老の男性が目の前に座っていた。紛れもない主君・家康だった。
 上機嫌な表情を浮かべているが、体からは微かな重厚感を発している。これが天下人になった者が漂わせる威厳か、と思うと嬉しくて涙が溢れそうになる。また少し肉付きが良くなって、まるで農家の好々爺みたいだ。
「大御所様のご機嫌麗しく……」
「あー、よいよい。そんな堅苦しい挨拶は抜きだ。儂とお主の付き合いではないか」
 型通りに口上を述べようとすると、家康に制されてしまった。確かにその通りだ。他人行儀で余所余所しいし、一語一句間違えないよう注意を払うためか肩が凝る。
 思い切って正座から胡坐に足を崩してから再び口を開く。
「お久しゅう御座います。長らく呼ばれる機会が無かったので、某のことをお忘れになられたかと……」
「こやつ、相変わらず口の減らない奴だな」
 直後、二人で顔を見合わせると声を出して大笑いした。離れていた距離が一気に縮まった思いだ。
「大御所様は隠居なされてからも、変わらずお忙しい様子で」
「幕府を開いたが、課題は山積している。戦乱の世が続いて田畑も人心も荒廃しているし、外国との交易もある、京の帝や朝廷とも上手に付き合わなければならん……秀忠もよくやっているが、気掛かりでな」
 将軍職は秀忠に譲ったものの形だけで、実権は変わらず家康が握っていた。産声を上げて間もない幕府を軌道に乗せるために、舵取りを放す気はまだ無いらしい。
 天下人となってからも、主は今までと変わらず同じように接してくれる。慌てず急がず、そして驕らず。立場や外見は変わっても中身は同じだ。それが無性に嬉しいし、誇らしくもある。
「……あぁ、済まぬ。懐かしい顔を前にして、つい喋り過ぎてしまった。して、今日はどのような用件だ?」
 家康から訊ねられた瞬間「来たか」と身構える。自然と気が引き締まり、背筋が伸びる。短く息を吸うと腹に力を込めて言葉を発する。
「実を申しますと―――家督を嫡男の忠政に譲り、某は隠居しようと思います」
 誰にも明かさず考えていた事を、初めて口にした。忠勝にとって大きな決断だった。
 体の衰えも理由に挙げられるが、長年戦場で功を競い合ってきた仲間が次々と鬼籍に入っていくことも背中を押す要因だった。
 文武で秀でた才を発揮していた頼もしい後輩の井伊直政は関ヶ原の合戦から二年後の慶長七年二月に、同い年で親しい間柄だった榊原康政も慶長十一年五月に、それぞれ亡くなっている。俗に“武闘派”と呼ばれ、三河遠江の頃から仕えている家臣が一人また一人と減っていくのは気持ちに堪えた。
 戦乱渦巻いていた世も落ち着きを取り戻し、家中で求められる人材も変化している。有事に活躍する体力や腕っ節に自信のある者から、平時に頭脳を駆使する者が重用されるようになった。
 加えて、忠勝の独壇場だった戦場でも、時代の波が着実に迫っていた。日々厳しい鍛錬を積んだ武者が主戦力だった時代は終わりを告げ、徴用された足軽が軍の大勢を占めるようになった。個人の力量の差で勝敗が左右された時代から、鉄砲や長槍など誰でも扱えて統率力が重視される時代に変化を遂げた。これでは槍一本で敵陣に斬り込むやり方の忠勝に、出る幕は無い。
 御家に貢献出来ないのであれば、潔く身を引くしかない。隠居を決断した忠勝に、後悔や口惜しさは微塵も感じていなかった。
 忠勝から突然の申し出に、家康は当初目を丸くして固まっていたが、瞑目して暫し考えた末に応えた。
「ならぬ。まだ、許さぬ」
 まさか斥けられるとは考えてもなかった忠勝は、困惑の表情を浮かべる。
「それは……何故でしょうか? 乱れていた世も無事に鎮まりましたのに」
「まだ火種は消えずに燻っている。それを煽り立てる輩が出ないとも限らない」
「……豊臣、ですか」
 忠勝が指摘すると、家康は不快そうに頷く。
 太閤秀吉の遺児・秀頼は当年十六歳。淀の方の下で養育されて、健やかに成長していた。十六歳と言えば初陣を果たすに相応しい適齢期。噂では大柄な若武者になっていると聞く。
 しかも太閤が精力を傾けて築いた堅城の呼び声高い大坂城と、存命時に蓄えた膨大な金銀も備えている。徳川の天下に不満を抱く者が担ぐには、格好の神輿だ。
 末永く徳川の世を続けていきたい家康にとって、秀頼は極めて目障りな存在だった。
 おまけに、乱世を生き抜いてきた武将もまだ多くが存命のままだ。関ヶ原で西軍に属していた毛利や島津、東国でも上杉や野心溢れる伊達も油断ならない。秀頼が徳川にとって危険な存在である以上、大義名分は潰しておく方が得策だ。
「戦塵の匂いを知らぬ者も多くなってきた今、お主のような一騎当千の武人は稀有な存在。我が徳川の宝と申しても過言でない。今後とも我が家の守り神として支えてくれまいか」
 長年仕えてきた主君から最大限の賛辞を受け、忠勝は喜びで胸が詰まる思いだった。しかし、忠勝も甘受する訳にはいかなかった。
「いえいえ、何も大御所様の元を去る訳ではありません」
 穏やかな口調でやんわりと否定してから、忠勝は続ける。
「某は三河一向一揆の際に誓った通り、天寿を全うするまで上様にお仕えする気持ちに変わりはありません。それに、戦働きでしかお役に立てませんので、火急の折には必ず上様の元に馳せ参じましょう」
「その言葉、嘘偽りはあるまいな?」
「某が、大御所様に嘘偽りを申したことがありましたか?」
 質問に質問を重ねる形で啖呵を切ると、家康は堪えきれずに吹き出した。
「はっはっは!!そうだな、お主が人を騙すなど有り得ぬな……忠勝よ」
「はっ」
 声をかけられ無意識の内に居住まいを正す。三河の田舎大名から諸大名を束ねる武家の棟梁へ一瞬で変わり、自然と発せられる威厳に反応する。
「康政も直政も居ない今、お主だけが頼りぞ。“徳川の兵とはこうあるべき”という手本として、経験の浅い若人を良き方向へ導いてくれ」
「承知致しました」
 重みのある言葉に平伏する忠勝。どこか頼りなく決断の鈍かった昔と違い、堂々と自信に満ち溢れた態度で接する主君の姿を目にして、自分の出る幕は無いことを悟った。
 役に立たぬ老骨がいつまでも居座っていては、邪魔になるだけだ。後は若い者に任せて、必要な時に顔を出すだけで良い。―――それも、徳川の手本としての生き様だと思った。

 慶長十四年六月。忠勝は正式に隠居を認められ、本多家の家督を忠政に譲った。表舞台から下りた忠勝は江戸から桑名に戻り、余生を過ごした。
 翌慶長十五年十月十八日、忠勝は桑名の屋敷で死去した。享年六十三。臨終の際に『侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という』と遺している。
 また、有名な逸話として、死ぬ数日前に忠勝が小刀で彫り物をしていた時に、誤って左手に掠り傷を負ってしまった。そのことに忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と嘆いたとされる。
 事実、この傷を負うまで五十七回にも上る合戦で掠り傷一つ負うことは無かった。同じ猪突猛進型の井伊直政は、戦場に出る度に必ず傷を作って帰ってきたとされるから、その凄さが分かると思う。
 ちなみに忠勝の死去から四年後の慶長十九年十一月、豊臣と手切れになり大坂冬の陣が勃発。一旦休戦となるも翌慶長二十年五月に起きた大坂夏の陣では真田信繁(幸村)に家康の本陣間近まで迫られ、一時は家康が自害を覚悟する程の苦境に立たされた。もし忠勝がこの戦いに参加していれば、このような醜態を晒すことは無かった……かも知れない。
 忠勝は最期まで三河武士の生き様を貫いた。無駄口を叩かず、主君への忠誠は篤く、実直質朴。相棒の蜻蛉切を携えて、今も家康の傍らで侍っているに違いない ―――

   (完)




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