プロローグ:図書室とギョーザ






 何か、分かるんだよな。見えない糸が頭を引っ張る感覚とでも表現すればいいか。
 四月も中旬に差し掛かり、入学式の際に咲き誇っていた桜の花も今では全て散ってしまい葉桜と化している。放課後の図書室の一角、四人掛けの机に初々しさがまだ漂う制服を着た男子生徒四人の一人が、気配を察して読み進めていた文庫本から目を離して頭を上げる。
 やはり予想通り。橘 敦[たちばな あつし]は図書室の入り口に佇む一人の女子生徒の姿を目にして自分の感覚の正しさを噛み締めた。
 「俺、帰るわ」
 机を囲む面子に対して一方的に宣言すると、文庫本を手にした鞄へ放り込んで立ち上がる。それぞれ本に釘付けだった視線が一斉に俺の方へ向くが、誰も言葉を発することなく元の状況に自然と戻る。まぁ、一々断り入れなくても自由に帰れるけれど。比重的には居ても居なくても一緒な部活より、今来た彼女の方が優先順位は上だ。
 「お待たせ。行くか」
 短く声をかけると彼女はコクンと頷いた。それから彼女と二人で並んで廊下を歩く。
 彼女の名前は川辺 茉里奈[かわべ まりな]。俺と同じクラスの高校一年生で自宅は隣同士。世間一般的に表現すると“幼馴染”の間柄だ。二人で揃って帰るなんて親密な関係だと疑う奴もあるけど、断じてそんな感じではない。二人で居るのは単に習慣なのだ。
 小柄で整った顔立ち、円らで大きな瞳、艶のある黒髪ロング。多分、幼馴染視点から見ても茉里奈は清楚で可愛い部類に入ると思う。入学半月という短い期間ながら校内で評判になっているのを何回か小耳に挟んでいるから事実なのだろうけれど、噂の美少女に対してアプローチをかける輩はまだ存在していない。
 理由は簡単だ。茉里奈の左目は美しい外見に不釣合いな黒色の眼帯で常に覆われているから。
 小学生の頃に眼球が腐る原因不明の難病を発症した茉里奈は、手術の末に眼球を摘出した上で生々しい手術痕を隠す為に眼帯を着けるようになったのだ。それ以来、風呂と洗顔の時以外は眼帯が左目を覆っている。
 親同士も互いの家を行き来する関係だったので俺はもうその姿に戸惑いも動揺も感じてないけれど、事情を知らない人々からすれば『彼女は眼帯を着用している』ただその一点の特異性だけで近付くことさえ尻込みしてしまう。
 それに加えて彼女にはもう一つの特徴がある。一言も喋れないのだ。“喋らない”のではなく“喋れない”、つまり自分から発しようとしても言葉が相手に届かないのだ。
 茉里奈が眼帯を着用し始めたのと同時期から徐々に言葉数が少なくなり、中学に入る頃には完全に喋れなくなってしまった。川辺のお母さんが言うには『お医者さんに診てもらったけれど分からなかった』らしい。治療も小学生の時から継続してきたが改善の兆しは一向に見えず、現在では年に一回の診断だけとなっている。
 自分から言葉を発することが出来なくなった茉里奈は意思伝達の疎通さえ難しい状況となったが、学校だけでなくプライベートでも親交があった俺は喋れなくなった茉里奈の動作や仕草などで何が言いたいか分かるので通訳として重宝された。その影響からか学校もクラスも離れ離れになった機会は一度も無く、それどころか席も常に隣同士がお決まりのパターンとなっている。
 “眼帯”と“寡黙”。たった二つだけで特別扱いされていることに違和感を抱きつつも、世の中の人々は簡単に距離を詰められないみたいだ。
 「で、分かった?」
 俺が問いかけると茉里奈はコクンと頷いた。「良かったな」と応じると柔らかな微笑みを浮かべた。
 終礼後、いつものように帰る準備をしていたら隣の茉里奈が俺の袖を引いてきた。何だろうと視線を向けると申し訳なさそうに数学の教科書を顔の前に立てていた。
 「了解。俺はいつもの所に行くから終わったら迎えに来て」
 そう言うと茉里奈は教科書とノート、筆記用具、筆談用のメモ帳を胸に抱えて教室を後にした。
 一連の流れを他人が見れば何を伝えたいか分からなかっただろう。だが、付き合いの長い俺には動作だけで阿吽の呼吸みたいに分かる(ような気がする ← ※ここ重要)。
 教科書を見せていたのは『授業で分からなかったから先生に聞いてきていい?』の合図。喋れないと色々と不都合な点も多く、勉強の理解度にも支障を及ぼしているようだ。大体は茉里奈の苦手な数学。時々、一緒に勉強する際には俺が分かる範囲で教える場合もあるけれど、数学に関しては俺もイマイチ理解度が追いついていないので自信がない。なので、放課後に担当の先生に直接指導を仰ぐようにしている。
 茉里奈が教えてもらっている間、俺はクラスの同級生三人と共に結成した読書倶楽部(人数不足により正式な部の扱いではない)へ参加するために図書室へ向かう。
 活動場所は図書室。部活の目的は“多種多様な本と触れ合うことで見識を深めると同時に、読書活動の推進を促す”こと。簡単に言えば読書好きの集まりだ。部員は来たい時に放課後の図書室を訪れて本を読み、帰る時間は個人の自由。本当であれば顧問を置かなければいけないのだが、入学半月でどの先生がどんな性格か把握してない中で新規に立ち上げた部活の後ろ盾をお願いするのは難しいという建前で、頼んだり探すのが面倒なのが本音。なので正式な部に昇格することは半永久的に有り得ない、非常に緩い部活動となっている。ちなみに俺も幽霊部員状態だが、誘った親友二人も実は読書に興味がない連中なので活動自体も非常に怪しい。
 グラウンドの方から威勢のいい掛け声が聞こえてくる。廊下の窓から茉里奈はチラリと眺めるが、すぐに目線を屋内に戻した。
 聴覚は普通の人と同じように音や声は聴こえるし理解も行えている。運動神経も決して悪くなく、特に足は早いので小中と運動会ではクラスのリレー走者に選出されていた程の実力を持つ。本人も体を動かすのは好きな様子で、体育の授業では参加できる競技だと活き活きとした表情で楽しんでいる。色々と眼帯や喋れないことで我慢したり諦めているので、この程度の好き勝手なら許されても構わないと思う。
 下駄箱から靴を取り出して履き替えると、再び茉里奈と合流して家路につく。これも俺にとって日常の光景であり、普通の出来事だ。男女が二人揃って帰る姿を風紀委員の人間や生徒指導の教師に目撃されると後々個別に呼び出されて注意を受けるが、この組み合わせは自然とスルーされていて半ば公然扱いである。思春期の少年少女は異性と親密な距離にあると恥ずかしさを覚えたり反発する気持ちが芽生えたりするが、茉里奈とはこういう関係がずっと継続してきたので何の感情も湧いてこない。それよりも約束を果たしている責務の意識という面が強い。
 『片目で視野も狭くなっているし、声も出せないから……あっくん、登下校の時に付き添ってくれない?』
 茉里奈が学校へ復帰する際に茉里奈のお母さんからお願いされた小学生の俺は、何の躊躇もせず快く応じた。それには一つ理由がある。
 俺の父は幼少期に亡くしており、それ以来母と二人で暮らしている。生命会社に正社員として勤務する母は残業や休日出勤等で家を空ける時間も長い場合もあり、日頃から親しい付き合いのある茉里奈の両親が面倒を見てくれることも多かった。色々と世話になっているのは幼いながら理解していたので、少しでも恩返しになればと思い引き受けたのだ。
 その約束を交わして以来、ずっと茉里奈と登下校だけでなく学校生活の大半を共に過ごす環境が続いている。
 目の前から自転車が接近してきた。さり気なく俺は道の片側に寄りながら茉里奈の袖を引いて自分の方に来るよう促す。茉里奈も抗う様子を見せず俺の方へ近付いた。その脇をすり抜けていくように自転車は通り過ぎていく。
 片目一つの限られた範囲で周囲の情報を拾わなければならないので負荷も大きいし見落としも少なからず発生してしまう。俺は茉里奈の目の肩代わりと呼べる程ではないが、自分が予測可能な限りでサポートすることによって物にぶつかったり石で転んだりする機会は減った。
 逆に俺が他のことに気を取られていて茉里奈が郵便ポストの角に肘をぶつかってしまうと自分に対して無性に腹が立つ。それで申し訳ない風に茉里奈が俺の方を見てくると余計に俺への苛立ちが増してくる。
 そして何事も起こらず今日も無事に茉里奈を家へ送り届けることが出来た。
 「また明日な」
 声をかけると茉里奈は手を振って応じた。それから戸を開いて家の中へ入っていくのを確認して、俺も自分の家へ足を踏み入れた。

 「ただいま〜」
 しかし返事は無い。母は仕事で出て行っているから当然と言えば当然か。静まり返った玄関で黙々と靴を脱いで奥へと進む。
 着替えを手早く済ませたら家事に取り掛かる。昨日の夜、寝る前に部屋干しした洗濯物が乾いていることを確かめて畳んでいく。小学生の頃からの習慣なので、あまり時間はかからない。
 次は冷蔵庫をチェック。……生憎ながら今日はハズレの日だ。炒める肉も焼く魚も残っていない。野菜や生魚はあるものの、煮物はまだ俺の腕ではムラがあるし野菜炒めだけでは食卓が幾分寂しい。栄養バランスに偏りが生じる恐れがあるので母との約束で週に一回と決められている、最終手段の乾麺は三日前の日曜昼に食べてしまったからダメ。
 一応、台所の引き出しには“集金や買出し等の目的”で一万円と幾らかの小銭が収められた財布が保管されているけれど、今からスーパーに出掛けるのもなぁ……と気が引ける。時計の針は四時半を過ぎており、今から行って買い物して帰ってきて夕食に取り掛かると仮定した場合、どう早く見積もっても二時間はかかる。その労力が面倒に感じて億劫になる。
 悶々と悩んでいる最中、ポケットの携帯が震えた。何かと思って確認してみると茉里奈からメールが入っていた。
 『今日、ギョーザだけど食べる?』
 母子家庭の我が家を茉里奈の両親は何かと気遣ってくれる。時折夕食のお誘いを受けるのもその一つだ。ちょうど食材が尽きかけていたタイミングだったので渡りに船とばかりに即応する。
 そのままの服装で隣家へ出向き、チャイムを鳴らすと普段着姿の茉里奈が出てきた。居間に通されるとギョーザの餡が詰まったボウルと皮が乗せられた皿がテーブルに置かれている。川辺家のギョーザはいつも手作りなので、お相伴に預かる際は皮を包む作業もセットとなっている。
 俺は洗面所で手を洗うと早速腰を下ろしてギョーザを包む作業に取り掛かる。
 「あっくん、いつも悪いわね〜」
 「いえ、大丈夫です。これくらい余裕ですよ」
 台所で洗い物をしている茉里奈の母から声がかかる。皮の中央に一匙分の餡を乗っけて形を整えるだけで大した労力じゃない。餡の下拵えの方が面倒だし手間も掛かるので、それを代わりに行ってくれるのはありがたいと思っているくらいだ。
 茉里奈も俺と共にギョーザを包む作業に着手する。成形したギョーザを別皿に置くと次の皮を手に取って再び包む。互いに一言も発さず流れ作業のように進めていく。豚挽き肉をキャベツやニラなどの野菜を刻んだもの、さらにショウガとニンニクの摩り下ろし汁を隠し味に加えてある餡は、焼いても茹でても非常に美味しい。
 黙々と集中して作業に没頭して、気がつけばボウルの中身は始めた時から四分の一に減っていた。別皿には成形の終わった大量のギョーザが所狭しと並べられている。チラリと茉里奈の方を見ると、俺より数が少ない。別に勝ち負けは存在しないが他人より早く仕上げられると何だか気分が良い。
 こちらから視線を感じた茉里奈が一旦手を休めて顔を上げる。俺の表情と自分より多くギョーザが乗っている皿を見て、眉がピクッと上げて顔をムッと顰[しか]めた。その強い瞳には「別に早ければ良い訳じゃない」とはっきり書かれている。恐らく立場が逆であれば間違いなく俺はそう茉里奈にそう言っているに違いない。
 五時半過ぎには大方片付いた。台所で夕飯の支度をしていた茉里奈の母が居間に入ってきて「少し早いけれど夕飯にしようか」と言ったので同意する。手元しか動かしてないけれどいつの間にかお腹が空いていた。
 それぞれが茶碗や箸を用意したり、包み終えたギョーザの皿を持ってきたりと夕食の準備にかかる。食卓となるテーブルの上にホットプレートを設置して、充分に鉄板を熱したら油を差してからギョーザを並べていく。白粉[おしろい]を纏[まと]ったギョーザが隙間なく埋まる光景は壮観だ。小麦粉を少し混ぜた水を入れてからガラス蓋で蓋をする。香ばしい匂いが漂ってきたら蓋を開けて水気を飛ばしていく。頃合を見てギョーザの焼き目を確認して、焦げ目がしっかり付いているのを見届けて皿へ盛り付けに入る。ギョーザの周りに付いているカリカリの羽根も、美味しそうに映る。
 ギョーザが焼き上がったタイミングで白ご飯を茶碗に盛り、味噌汁を入れる。冷蔵庫から漬物類も出してきて、一気に食卓が賑やかになった。
 今日の献立は炊きたてご飯にキャベツと油揚げの味噌汁、そしてメインには焼きたて羽根つきギョーザ。大満足なラインナップである。
 早速ギョーザを一口齧[かじ]る。カリッとした香ばしい焦げの食感も素晴らしいが、口中に広がる野菜の甘みと豚挽き肉のジューシーさに加えて香味のアクセントが絶妙で、これだけでご飯が進む。醤油と米酢の合わせ酢を付けるとさっぱりした感じで印象がガラリと変わる。白味噌の味噌汁もキャベツの甘みと油揚げのコクが素晴らしいハーモニーを奏でていて、これだけでもご飯のおかずになる。
 最高、幸せ。他人様のお宅だけど。
 茉里奈の方も食が進むらしく、山のように積まれていた焼きギョーザはみるみる内に嵩を減らしていく。
 「やっぱり多めに用意しておいて正解だったわね〜」
 清々しいくらいの食べっぷりに茉里奈の母は満足げに漏らした。このペースだと追加でギョーザを焼くことも考える必要がある。
 成長期の胃袋を侮ってはいけない。腹ペコ学生の食欲は時に許容量を上回る勢いを見せる。食べ過ぎてお腹を壊すことで自分の限界を徐々に知っていくのだ。茉里奈の母もその点を考慮した上で、後から旦那さんと食べる分を別にして冷蔵庫に入れてある。ただ、二人で食べ切るには若干多いくらいの量だったので、もしかしたら俺の母の分も含まれているかも知れない。
 「すみません、お代わりいいですか?」
 米粒一つ存在しない空となった茶碗を見せると茉里奈の母は鷹揚に応えた。
 「どうぞ。それだけ美味しそうに食べてる姿を見せられるとこっちも嬉しくなるわ。茉里奈は?」
 訊ねると茉里奈は首を横に振った。まだ少し残っている分だけで大丈夫なようだ。
 「あっくん、どれくらいにする?」
 「半分くらいでお願いします」
 「あらあら。まだ食べれるのね。茉里奈ももう少し食べれるみたいだから追加で少し焼くね」
 再びホットプレートの電源を入れ、キッチンペーパーで油を全体に馴染ませる。その間も俺と茉里奈は箸を動かし続けた。互いにまだ胃袋の方は若干の余裕がある様子だった。


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