終:人間五十年

 六月二十九日。桶狭間の勝利から十日が経過したこの日、信長は熱田を訪れた。先日のように気分転換が目的ではなく、公務での訪問だった。
 桶狭間の合戦直後、今川水軍の服部友貞が撤退途上に海から熱田の焼き討ちを企んだが、町人達の猛反撃を浴びて失敗に終わった。今川方の掃討も一段落したこともあり、熱田の被害状況を確認するべく信長は現地を訪ねたのである。
 服部勢は海から船で襲撃したため、湊や海に面した地域に被害が集中していた。
「……幸い死人は出ませんでしたが、各地で火を付けられた為に焼け落ちた家が幾つか御座います」
 町を取り仕切る長から説明を受けながら、被害の大きかった地域を見て回る信長。火は完全に鎮火していたが、辺りにはまだ焼け焦げた臭いが漂っていた。焼け跡を片付ける住民の姿を目にすると、罪のない人を巻き込んだ自責の念で心が痛んだ。
「……済まぬな。手が回らなかった」
 素直に詫びると長は頭を振った。
「いえいえ。今川が攻めて来るとなれば総力で当たらなければならんのは皆も承知しておりました。それに、自分達の町は自分達の手で守りたいですから」
 戦乱の続く世相を反映してか、非戦闘員でも武器を手に取って立ち向かうことはよくあることだった。圧政に苦しむ民衆が蜂起して一揆を起こしていたし、商人は自衛の為に私設兵を雇うこともしばしばだった。それ程に、血の気の多い時代だった。
「差し当たって、被害を蒙った者達には速やかに見舞金を払おう。地子銭も二年の間は免除とする。再建に向けて要望があれば何でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
 信長がその場で支援策を即決すると、後ろに付き従っていた者達に指示を出す。
「……暫し、一人で考えたい事がある。俺の事は構わず、好きにしていてくれ」
「承知致しました」
 長は信長に一礼すると立ち去って言った。一人になった信長は浜の方へと歩いていく。
 浜辺では一仕事終えた漁師達が網の手入れや片付けをしていた。信長の姿を目にすると軽く頭を下げ、それから元の作業に戻った。
 砂浜に立った信長は沖の方を眺めながら一人思案に耽った。
(……人間五十年。そう考えれば、俺はまだ折り返しを過ぎたばかりだ)
 これから先、どういう人生が待っているのだろうか。尾張半国の身から遥かな飛躍を遂げるか、はたまた道半ばで非業の死を遂げるか。命が尽きるその時に、俺は俺自身の生き様に満足するだろうか。
 波の音に耳を傾けながら自問自答したが、迷いを振り払うように頭を左右に振った。
(……所詮、この世は夢幻のようなものだ。一々気にしていてもキリがない)
 空を見れば、鴎が悠々と飛んでいる。海を見れば、大小様々な波が陸に打ち付けてくる。自然の大きさに比べれば、自分という存在は何とちっぽけなものか。いっそ何も考えず流れに身を委ねてみるのも悪くないかも知れない。
 迷いの晴れた信長は、どこか吹っ切れた表情をしていた。
「信長様ー!!」
 潮の香りを感じていると、遠くから懐かしい声が聞こえてきた。声のした方を向けば、弥助が手を振りながらこちらへ走ってくるではないか。
 そう言えば、弥助も俺の帰りを待っていたな。別れ際の台詞を思い出した信長は口元を緩めた。
 海に背を向けた信長は弥助の方へ歩み寄っていった。その横を、一筋の潮風が颯爽と駆け抜けていった。

 織田家の家紋に使用されている木瓜の花言葉には“平凡”“早熟”という意味の他に、“先駆者”“指導者”という意味も込められている。
 果たして、信長はどちらの意味に当てはまるだろうか? その答えは木瓜だけが知っている――


(完)

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