一:当主の苦悩(後)

 織田方が具体的な方策を立てられない間も、今川方は着々と尾張に迫っていた。
 五月十二日に駿府を発った総大将・今川義元は、十七日には尾張の沓掛城へ入った。この時、知多半島の付け根に位置する大高城が織田方の築いた丸根・鷲津両砦の圧迫を受けて苦境に陥っているとの報告を受けた義元は、松平元康に大高城へ兵糧を運び入れるよう指示を出した。同時に、尾張国内における今川方の重要拠点である鳴海城を囲む丹下・善照寺・中嶋砦を攻めることも決定した。
 一方、今川の軍勢が尾張国に入り危機的状況が目前に迫ってきてもなお、清洲城で繰り広げられている議論は紛糾したままであった。
 信秀死去に伴う混乱や信長の資質に疑問を抱く等で三河国境に近い武将が相次いで離反しており、既に織田領内で今川の侵食が進んでいる。先述した丸根・鷲津・丹下・善照寺・中嶋の各砦が現段階で織田方の最前線となっていた。
「今川の大軍相手では多勢に無勢じゃ。ここは籠城策を採るべし」
「否!! 先代から戦の際には自領の外へ出て戦うことを信条としてきた!! 此度もその姿勢を貫いてこそ活路がある!!」
 今川義元が沓掛城に入った翌日の十八日になってもまだ、堂々巡りは続いていた。
 林・佐久間の両名は一貫して籠城策を訴え、柴田・森の両名は主戦論を唱える。柴田・森の両名は武人肌、林・佐久間の両名は吏僚肌とそれぞれの意見は平行線を辿っていた。
 目の前で熱を帯びた議論が行われているが、最終決定権を持つ信長はどこか上の空で聞いていた。
(……秀貞と信盛は今川と通じていると見て間違いない)
 藤吉郎の報告では、依然として二人の屋敷に素性定かでない人物が出入りしているらしい。おまけにその者に駿河の訛りが微かに混じっていることも掴んでいる。黒と見ていい。
 かと言って、二人を粛清するのも躊躇われる。長年に渡り織田家の屋台骨を支えてきた功臣二人が今川に通じていることが明るみになれば、家中に与える影響は大きいだろう。知らぬ存ぜぬを貫くしか選択肢はない。
 だが、野戦を挑むとしても、一体どうすれば良いのだ。既に敵は尾張へ入っており、各方面に展開しつつある。平野でぶつかれば数で圧倒的に劣る我方は大敗必至。地の利を活かした奇襲戦で臨むしか方策はないが、それでも勝ち目は薄い。
 考えれば考える程に、底なし沼へ沈み込んでいく錯覚に陥る。負の想像がどんどんと膨らんで、信長の脳内を圧迫していく。
「……止めだ」
 脇息に体を預けながら成り行きを静観していた信長がポツリと漏らすと、沸騰していた場は一瞬にして静まり返った。
 一向に結論が見出せないことに信長は心底嫌気が差した。その一念が口を突いて出た。
「皆も疲れただろう。各々屋敷に戻って休むがいい。俺も休む」
 信長から発せられた言葉に唖然とする一同。一両日中にも今川の兵が清洲に達するかも知れないという時に「疲れた」も何もないだろう。
 だが、信長は精根尽き果てる程に疲れ切っていた。どれだけ考えてもこの難局を打開する手立てが浮かばず、一方で気持ちが昂ぶっている為に満足に眠れてなかった。
「何を申されますか!? 敵はもうすぐそこまで迫っているのですぞ!!」
 勝家が懸命に食い下がろうとしたが、信長は煩わしそうに眉を吊り上げると素っ気無く「寝る」と一言。一同の制止を振り払うように立ち上がると、そのまま部屋を後にした。
 時間が無いのは重々承知している。でも、今は一刻も早く布団に潜りたかった。

 評定を打ち切った信長はそのまま寝所へ直行すると、宣言した通り眠りについた。連日連夜眠れなかった反動なのか、それとも見通しの立たない評定に付き合わされて疲れたのか、横になると間を置かず深い眠りに落ちた。
 しかし―――束の間の休息も長くは続かなかった。
 日付変わって五月十九日、寅の初刻(午前三時)。信長は取次の声で起こされた。
「殿、火急の報せが届きました。丸根・鷲津の両砦が敵方から攻撃を受けているとのこと」
 無理矢理起こされたにも関わらず、信長の思考は目覚めた瞬間から冴え渡っていた。
「寄せ手は?」
「丸根は松平勢、鷲津は朝比奈勢にございます」
 松平も朝比奈も今川方の主力だ。丸根・鷲津の両砦は大高城へ人や物の動きを封鎖する目的で設けた拠点。この両砦に睨みを利かされて窮地に陥っていた大高城を救出するのが松平・朝比奈の狙いだろう。
 今川本隊は既に沓掛城まで来ている。孤立する大高城の救援が完了すれば直ちに本隊は鳴海城に移り、そこから清洲城へ進撃する手筈か。鳴海城は鎌倉往還も近く大軍を動かすのに適した地である上に、鳴海城まで来れば清洲まで遮る城砦は存在しない。
 丸根も鷲津も兵を配しているが、どちらも数百程度。松平・朝比奈勢が一気呵成に攻め立てれば、半日も経たず陥落するだろう。
 いよいよ、追い詰められた。取次を下がらせると信長は布団の上で胡坐を組んで考え込んだ。
(……このまま、座して死を待つのか?)
 自らに問い掛けるが、即座に否定する。幼い時分から腰を落ち着けていられない性分だった。全てを受け容れて潔く腹を切るくらいなら、醜態を晒してでも戦って討死を選ぶ。
 だが……即断即決が信条の信長には珍しく、迷いが生じていた。
 一人思案に暮れていると廊下から衣擦れの音が近付いてきた。取次を下げた際には自分が呼ぶまで余人を遠ざけるよう固く申し伝えたのに。
「……誰だ」
 主君の命令に背くとはいい度胸ではないか。その不心得者の顔を拝んでから成敗してやろうかと本気で考えた。
「まぁ。そんなに怖い声を出されて」
 緊迫した状況とは不釣合いな、間延びした声が返ってきた。直後、許可していないのに襖が勝手に開けられる。
 声を聞いた瞬間、成敗する気は失せた。確かめなくても相手が分かったからだ。
「濃、か」
 そこに立っていたのは、濃姫であった。
 顔を合わせて開口一番に「怖い顔」と漏らす。それ程に俺は今怖い顔をしているのか。
「……何をしに来た?」
 不機嫌さを隠さずに訊ねると、濃姫はさも当然とばかりに胸を張って答えた。
「あら? 妻が亭主と会うのに他人の許可など要りますか?」
「余人を遠ざけて極秘の会談をしている場合もあろう」
「ああ! そういうことも有りましたね!」
 指摘されて気付いたのかポンと手を叩いた。その無邪気な反応に信長はすっかり毒気を抜かれてしまい、怒る気にもならなかった
「どうしてこんな夜更けまで起きているのだ?」
「何やら城の中が騒がしくて。皆も気が立っているみたいですし」
 濃姫が今川の動きをどこまで知っているのか定かでないが、ただならぬ雰囲気に包まれていることは把握している様子だ。
 じっと信長の顔を見つめていた濃姫が、ふと小首を傾げた。
「……殿は何をそんなに考えているのですか?」
 信長の心を見透かしたように鋭い質問を投げかけられ、思わずドキッとした。普段はぼんやりしているのに、時折核心を突いてくる。
 暫し信長は言い淀んでいたが、やがて観念したように明かした。
「……時折、半端な自分が無性に嫌になる」
 常にはない弱々しい声色で打ち明けたのは今川の脅威に怯えるものでも、まとまりに欠ける家中を憂うものでも、信の置ける存在を欲するものでもなく、自分自身のことだった。
 幼少の頃から、信長は異端児だった。常識を疑い、人に倣うのを嫌い、常に自分の感性を信じた。他者から後ろ指を指されても、白い目で見られても、信長はいつも自信あり気に振る舞っていた。
 ただ、傾奇者を演じていたのも虚勢を張った仮の姿なのかも知れない。誰一人として自分のことを理解しようとせず、味方となって寄り添うべき存在の身内からも突き放され、頼むのは自分自身だけだった。周囲の圧迫に屈さないために、自分自身を大きく見せようとしていたのかも知れない。
 唯一の味方と言える父・信秀も、時として信長を苦しめた。守護職斯波氏の陪臣の生まれながら、信秀は織田弾正忠家を他国にも勢力を伸ばすまでに成長させた傑物である。戦に強かったこともあるが、商人を庇護して商業振興に尽力するなど施策でも辣腕を振るった。信長は信秀の嫡子として育てられたが、父の功績や名声を汚してはならないという重圧を常に背負っていた。そしてまた、他人は偉大な先代・信秀と対比する。
「俺はまだ何も成し遂げておらぬ。そして、何を成すべきか分からぬ」
 家督を継いだが離反が相次ぎ、遠回りした末にようやく尾張半国まで回復した。それでも、周囲は信長の功績とは認めてくれない。
 昨年二月、信長は僅かな手勢を連れて京を訪れた。室町幕府第十三代将軍・足利義輝との謁見し、代々斯波氏が引き継いできた尾張国の守護を認めてもらうのが目的だった。その際に足を伸ばして堺まで赴いたが、畿内を訪れたことで信長は少なからず衝撃を受けた。
 荒廃しながらも独特の品格を保つ京の町、異国との交易で栄える堺の町。それまで尾張や周辺国しか目にしたことが無かった信長は、自らが井の中の蛙だったことをまざまざと思い知られた。
 世界の広さを知ると共に、自分は今後何を目指すべきなのか分からなくなってしまった。これまでは父が生きていた頃の勢力まで回復させることを目的とし、ゆくゆくは父が叶えられなかった美濃・三河へ版図を伸ばそうと考えていた。しかし、それも上洛以降立ち消えてしまい、方向性を見失ってしまったのである。
 されど、自分の悩みを誰かに打ち明けることも適わず、一人光明の見えない闇の中で葛藤する日々を過ごして今に至っている。
 初めて濃姫に自分の葛藤を打ち明けたが、果たしてどのような反応が返ってくるか。全てを明かすと信長は俯いて濃姫の反応を待った。
「……やれやれ、殿方は時に下らない事で深刻に悩まれるものですね」
 それまで黙って信長の吐露を聞いていた濃姫だったが、呆れたと言わんばかりに一刀両断した。
 あまりに身も蓋もない物言いに驚いて顔を上げると、濃姫は構わず続けた。
「この先どうしたいかなど、一旦お忘れなさいませ。周囲の者の目は気にせず、ご自分がなさりたいようにやればいかがでしょうか? 殿を慕う者は付いてきますし、相容れないと思った者は離れていくことでしょう」
 濃姫の言葉を聞いた直後、様々な思いが混濁していた信長の瞳に光が甦った。唇が微かに動いて、声にならない声を発する。
(――そうか。その手があったか)
 暗闇に、一筋の光が差し込んだ。どうして気付かなかったのか分からないくらい、簡単な答えが自分の足元に転がっていた。
 既存の価値観に囚われていないと自分では思っていたが、存外人並みに世間体を気にし過ぎていた。俺は織田“上総守”信長、少し前まで人々から“うつけ”と馬鹿にされていた男だ。周囲の目など知ったことか、自分の信じた道を突き進めば良いのだ。
 目の前を覆っていた霧が晴れると、途端に爽快な気分になった。
「……礼を申すぞ、濃」
「いいえ。特に礼を申される謂れはありませぬ。それより……」
 そう言って濃姫が取り出したのは、鼓。
「一節、舞いませぬか?」
「……それも一興」
 突然の申し出に信長は快諾した。濃姫は様々な教養を身に付けており、信長の元に嫁いでからも乗馬を習得して時折遠乗りに出掛けていた。この場に鼓を持ってきたのも、嗜みとして打てるからだった。
 濃姫が鼓を肩に担ぐと、信長は立ち上がって静かに扇子を開く。
「――人間五十年」
 伸び伸びとした声で信長は唄い出す。
「下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」
 濃姫が奏でる鼓の音に合わせて、信長は悠々と舞った。
信長が謡ったのは幸若舞『敦盛』の一節。『敦盛』は源平合戦の頃、一の谷の戦いにおいて熊谷直実が平敦盛を討つ際に戦死した嫡男の面影が重なり、戦の無常さと命の儚さを描いた演目である。信長はその中でも特に中段後半の一節を好み、その部分だけ何度も何度も謡っていた。
 その一節を要約すれば『人の世の五十年など下天と比べれば夢幻のようなもの。生を受けた者で死なない者など居るものか』といったものだが、その内容は周囲からなかなか認められない信長の死生観と相通ずる部分があった。
「……お気分は?」
「……良い。すこぶる良いぞ」
 晴れ晴れとした表情で応える信長に「それは良うございます」と濃姫はこの夜初めて微笑んだ。
 俺は何をくよくよと悩んでいたのだ。布団の上で縮こまっていた姿とは打って変わって、自信を全身に漲らせていた。
「誰か、あるか!」
 部屋の外に向けて力強く呼び掛けると、間を置かず控えていた者が駆けつけてきた。
「湯漬を持て。それと具足を」
 信長が言い終わると控えの者が直ちに廊下を駆けて行く。平時から多くを語らない信長に仕える者は、少ない言葉数の中から主君の意図を推察して行動することが求められていた。加えて、信長は時を無駄に費やすのを極度に嫌う性格。少しでも遅れれば気短な信長から癇癪が飛ぶので、仕える者も必死である。
 すぐに二人の小姓が信長の具足櫃を運んできた。濃姫が同席する中、無言で下帯一枚の姿になった信長に小姓達が順を追って鎧を装着させていく。
 具足姿が整った頃合に、湯漬が運ばれてきた。冷飯に白湯を注いだだけの丼が一つだけ膳に乗せられており、添え物は一切無い。時間を問わず湯漬を所望する信長の為に、台所では常に冷飯と湯を沸かす火が用意されていた。
 信長は立ったまま丼をかき込むと、あっという間に平らげた。
「法螺貝を吹け!!」
 慌しく戦支度を整えた信長が短く告げると、小姓達は急いで部屋を後にする。再び濃姫と二人きりになると、信長は背中越しに小さく呟いた。
「……もし危なくなれば、俺に構わず逃げよ」
 万一の時には落ち延びるよう諭すと、濃姫は事も無く答えた。
「あら? 私にどちらへ参れと申されるのですか?」
 濃姫の返事に、はたと気付いた。濃姫の実家・斎藤家は父・道三に反旗を翻した義龍が実権を握っている。生まれ育った家も今は敵方、帰る場所ではない。
 迂闊なことを口にして沈黙する信長に、濃姫は両手をついた。
「――ご武運を」
 それだけ伝えると濃姫は深く頭を下げた。
 そうか、ここにも俺を慕い信じてくれる者が居たではないか。今更ながら気付かされ、自分の至らなさを心の中で嘆く。
「……必ず、戻ってくる。それまで待っておれ」
 濃姫の方を向かず一方的に告げると、信長は意を決して部屋の敷居を跨いだ。その動きに一切の迷いも見られず、堂々とした足取りであった。
 遠ざかっていく足音を耳にしてもなお、濃姫は深く頭を下げ続けた。

 一直線に館の外まで突き進むと、用意された愛馬へ流れるように跨った。
「猿!!」
 馬上から大声で信長が呼び掛けると、直ちに黒い影が側に寄ってきた。藤吉郎だ。
 意外にも、藤吉郎は胴丸に鉢金と戦装束の姿をしていた。乾坤一擲の勝負に打って出ることは誰にも漏らしていないし、覚悟を決めたのもつい今し方の出来事だ。
「お呼びでしょうか?」
 その声は普段と比べて、幾分浮ついているように聞こえた。暫しまどろんでいたか、突然の呼び出しに動転したか。
「俺が動くと分かっていたのか?」
「そりゃそうですよ。殿は座して死を待つくらいなら、最期の一時まで足掻かれる性分のお人ですので」
 出撃前で張り詰めた空気が辺りを包む中、いつもと同じように軽い調子で答える藤吉郎。その調子を楽しむように、信長は口元を綻ばせながらフンと鼻を鳴らした。
「これから駆けて熱田神宮で待つ。猿には急ぎ頼みたいことがある」
 信長が伝えた内容に、藤吉郎は困惑の表情を浮かべた。その反応を見た信長はニヤリと含みのある笑みを浮かべるのみで、それ以上語ろうとしなかった。
「分かったな。屹度申し付けたぞ」
 念押しするように言い渡すと、信長は愛馬を促して走り去っていった。一方、その場に残された藤吉郎は呆然と立ち尽くして遠ざかる信長の背中を見送るしかなかった。

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