カーンと澄んだ金属音がグラウンドに響き渡る。宙に美しい弧を描いて白球はスタンドへと吸い込まれていった。
あかつき大学付属高校野球部は全国でも名を轟かせる強豪校で圧倒的な戦力を誇る。地区に留まらず全国各地から優秀な選手を掻き集めるだけでなく、部内でも熾烈な競争に晒されている。練習設備も素晴らしいもので、一軍の練習グラウンドはプロ野球の公式戦にも使用可能な専用球場という厚遇っぷりだ。
その立派な球場では打撃練習であっても柵越えすることは並の高校生では難しいとされているのに―――今、打席に立っている選手は次々と越えていっている。
サングラスをかけて黙々とバットを振っているその男の名は、七井アレフト。現在あかつき大付の四番候補として名前が挙がっている選手だ。
そして、その姿を食い入るように見つめている大柄な選手がいる。彼の名前は三本松一。七井の親友でもありライバルでもある。スラッガー同士気が合うらしく日夜練習に励んでいる。
しかし妙に様子がおかしい。いつもならば目の前でライバルが快音を響かせていると「俺も負けてたまるか」と燃えてくるが、今日に限っては逆に気持ちが打ち沈んでしまう。
自分は果たして四番に相応しいのだろうか。快音を響かせるライバルを前に、三本松は自問自答を繰り返した。
[ 四番の条件 ]
それは前日のこと。テレビを点けると様々なジャンルの優れた人にインタビューを行う番組がやっており、昨日は球界を代表するスラッガーが番組に出演していた。
『あなたが考える理想の四番像とは』
インタビュアーから投げかけられた問いにスラッガーは淀みのないハキハキとした口調で答えた。
『やはり第一に挙げられるのはどんなボールにも負けない圧倒的なパワーが求められると思いますね』
豪速球も捻じ伏せる長打力。これこそ三本松が目指す理想のスラッガー像であり、テレビの中の人物と価値観が一致したことに内心満足感を覚えた。
だが、それも束の間のことだった。
『―――ですが、四番に相応しい打者は決して長打が打てるだけではありません』
一拍、間を置いて再び口を開く。
『本塁打を量産できる力は脅威かも知れませんが、そればかり狙っていて三振ばかりでは怖くありません。ですので、時には逆方向へ痛烈な打球を放てる絶妙な技術も不可欠なのです』
大打者が指摘したことは、三本松の胸に深く突き刺さった。
確かに細かいことは気にせずガンガン大振りしていくスタイルをこれまで貫いてきたが、三振の数はチーム内でも多い部類に入っていた。逆に七井は三本松より筋力で劣る分だけ技術でカバーして打っているので、打率に関して言えば三本松より数字は上だ。
後先考えずフルスイングしてくるバッターと、いざとなればヒットを打てるバッター。接戦で得点圏にランナーが居る場合、相手バッテリーが恐れるのは間違いなく後者だ。
そうなると……四番に相応しい資格を持っているのは七井ということになる。考えてみれば自分よりも打点を稼いでいるではないか。
冷静に見つめなおしていく内に憂鬱な気持ちへズルズルと引き込まれていくのを、三本松は止めることが出来なかった。
そして、現在。
今日も七井は絶好調な様子で、ライトスタンドへ何本も柵越えの当たりを連発していた。シャープなスイングからホームランを量産出来るのは、やはり四番になる資格を備えている証拠か。
「次、三本松」
監督の声で我に返り、慌てて打席へと向かう。目の前で実力を見せ付けられ、内心では焦りと不安で押しつぶされそうだった。
これまで好きだった打撃練習が、かつてない重圧のせいか足取りも重い。気のせいか今日はいつもより外野フェンスが遠く高く感じる。
―――待て。脳裏に一瞬浮かんだ閃きをもう一度だけ思い返す。
七井も最初からああいうタイプのバッターではなかった。練習を重ねていく中で技術でパワーを補う打撃を作り上げてきたのだ。
ということは即ち、俺もその技術を身につけられる可能性が残っていること。
今からでも遅くはない。力任せに打ち返すだけでなく広角に打ち分けられる技術を会得すれば、間違いなく四番の椅子がグッと近付くはずだ。
迷いが晴れると急に視界も開けてきた。今まで何を小さいことでクヨクヨと悩んでいたんだ、と数分前までの自分とは全くの別人に生まれ変わっていた。
バッターボックスに入ると自信と共に気合も甦ってきて、マウンドの上に居る打撃投手が小さく感じる余裕まで生まれた。
(さて、逆方向へ打つためには……)
これまでのバッティングスタイルだとコースに関係なく自慢の力で強引にスタンドまで運ぶことを目指していた。細かいことなど気にせず力で押し切るため、引っ張り重視のスイング。
バットを短く持ち、心持ちタイミングは遅めに。じっくりボールを引き付けた上でレフト方向へ意識して……コンパクトに振り抜く!
……しかし、重たい金属音だけ残して打球はフラフラと力なく宙へと舞い上がり、飛距離も勢いも欠いてそのままショートの定位置付近にポトリと落ちた。
ボールの下を叩いてしまったのか。改めて投じられたボールを再び打ったが今度は浅めのレフトフライ。七井のそれとは明らかに違っている。
普段の豪快なバッティングとはかけ離れた有様に、部員の間から戸惑いの色が見え始める。そして最後まで三本松の代名詞であるフルスイングは見られないまま、打撃練習を終えることとなった。
やはり一朝一夕で身につけるのは難しい。変幻自在に打ち分けられる技術の困難さを痛感した。
全体練習が終わった後で一人室内練習場で黙々と居残りで練習することにした。まずは従来のスタイルから柔軟に打てる打撃フォームを想像しながら素振りをする。
内角に来たボールは思い切り引っ張り、外角の球には逆らわず流し打つ。それを会得しない限り、七井の絶対的優位を崩せないと考えていた。
ただ無心にバットを振る。金属バットが空を切る音だけが、練習場に木霊する。
「おー、やっとるのー」
後ろから声が聞こえて振り返ってみると、そこには同学年の九十九。眠たげな瞼に伸びた黒の長髪、そして何処で拾ったか分からない草を咥えて、バット一本持って立っていた。
斜に構えているというか、飄々としているというか、あまり肩肘張らず自然体を貫いている。一見すればサボっていると受け止められるが、影で人の倍以上努力をしているらしい。でなければ熾烈な競争に晒されているあかつきのレギュラーを守れるはずがない。
今日もまた恐らく物足りない分を自主練という形で補おうと室内練習場に来たのだろう。
「……三本松、お前何かあったんか?」
不意に投げかけられた質問に心臓がドキリと跳ねる。
「図体の割に縮こまったフォームをしている。妙に肩に力が入っているし、スイングスピードも普段より遅い。まるで自慢のパワーを殺したがっているような」
他人からそこまで指摘されるほど、自分の素振りがおかしいのか。内心では愕然とする思いだった。
そこまで分かっている以上、自分の気持ちを隠していられなかった。
「実は……―――」
「―――なるほど。ホームランだけでなく逆方向に打てるようになりたい、と」
静かに三本松の悩みを聞き終えて九十九は一つ息をついた。
どうして考えることまで示し合わせたように似てくるのかな、と呟いたが三本松の耳には届いていなかった。
「……九十九よ、逆方向へ打つコツを伝授してくれないか?」
目の前に居る九十九は部内でも随一の流し打ちが上手な選手だ。パワーでは劣るが卓越したバットコントロールや逆らわないバッティングは光るモノがあり、クセ者としてチームに欠かすことの出来ない選手として頭角を現しつつある。
だが、九十九の反応は素気無いものだった。
「三本松が苦労しているのは分かるけど、申し訳ないが教えられないわ」
あっさりと断られてがっくりと肩を落としていると九十九はさらに言葉を続けた。
「オレが身につけた技はあくまでオレがあかつきで生き残るために身につけた技やから、お前みたいなスラッガーには必要ない技術や」
九十九の言っていることも一理あるかも知れない。だが、今日の七井の打撃が脳裏に過る。
これまで確実に勝っていると思っていた長打力をライバルは猛追してきている。そうなっている以上、自分も何か新しい武器を手に入れなくてはいけないという焦りや不安が再び込み上げてくる。
表情で何を考えているのか悟った九十九は「まぁ気持ちは分かるが」と同意を示した上で、「さっき、グラウンドでな……」と話を始めた。
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時は遡ること三十分前。
閑散としたグラウンドに快音が響いている。ピッチングマシンをマウンドに据えて淡々とバットを振るその人物は、先程まで柵越えを連発していた七井だった。
振り抜いた打球は相変わらず無人のスタンドへ運ばれる。打撃の調子は一向に衰える気配を見せないが、何故か七井の顔色は冴えない。放った白球の行方を一球一球確かめ、到達するのを見届けて不満そうに舌打ちを打つ。
「ダメだ。コレではアイツに追いつけない」
誰に聞かせるでもない呟きが漏れたが、その言葉の裏には事情がある様子。
じっと観察を続けていたが、ピッチングマシンのボールが尽きたタイミングで七井に声をかけた。
「凄いやないか。さっきからホームラン連発しとるやん」
「……イヤ。マダマダだ」
謙遜しているのかと思ったが、サングラスの奥に隠れた瞳は真剣そのものだった。
何か理由があるのか。訊ねてみると七井はライトスタンドの方角を見つめながら答えた。
「甲子園で三本松が放った、あの当たりが瞼に焼き付いて離れないネ」
まだ記憶に新しい、春の選抜一回戦。新生あかつき大付属の実力を試す絶好の機会ということでナインの士気は最高潮に高まっていた。
しかし、結果を残したい気持ちが先走ったのを見抜いた相手バッテリーに翻弄され、得点圏までランナーを進めるもあと一本が出ない苦しい試合運びを余儀なくされた。
先発した一年後輩の猪狩守も要所を締める素晴らしいピッチングを続けていたが、疲れが見え始めた中盤に不運な形で連打を浴びて遂に得点を許してしまった。
追いかける展開となった終盤、四番に据わった三本松が打席に入った。ここまで三打数無安打、二つの三振。お世辞にも相性が良いとは言えない。
おまけにライトスタンドから本塁方向へ強い逆風が吹いている。バックスクリーンの上に掲げられている旗は強風に煽られてバタバタと横向きになっている。これでは自慢のパワーで強引にスタンドまで持っていくスタイルの打撃が、風によって圧し戻されてしまう。
不利な状況から長打を捨てて後に繋ぐか。固唾を呑んで打席に立つ三本松の姿を見守る。
だが―――そんな心配は杞憂だった、と痛感させられた。
三振することを恐れず自分の全力をバットに乗せてアッパー気味にフルスイングして捉えた打球は―――高々と大空に舞い上がり、圧し戻される風に勢いを殺されることなく、充分に宙を満喫した白球はライトスタンド中段へ突き刺さった。
広大な甲子園球場は並の高校生だとフェンスまで到達するのも難しい。風の力を利用してギリギリでスタンドまで到達するバッターもそう多くない。
それでも三本松は、向かい風にも負けず特大のアーチを放った。悠々とダイアモンドを一周する三本松の雄姿を眺めながら、果たして自分はどうなのかと考えてみた。
確かに右にも左にもホームランを打てる技術はある。でも、三本松のように全てを覆す絶対的なパワーを今の自分は持っていない。
三本松がホームを踏み、場内が騒然とする雰囲気の中で打席に立つ。
ライバルのアイツが出来るのなら。そう勇んで全力でフルスイングした結果は……勢いよく飛んでいったもののライト定位置までしか届かなかった。
このままじゃダメだ。アイツに肩を並べるレベルに到達しない限り、四番にはなれない。そう決意した瞬間だった。
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「……という訳で、アッチもアッチで苦悩しとるみたいやで」
九十九の話は俄かに信じられなかった。まさか七井も自分と同じように苦しんでいたとは。
「苦悩するポイントまで一緒なんて、ホント似た者同士やな」
「うるさい」
明らかに冷やかしを含んだ言葉ではあったが、九十九なりに励ましているように聞こえた。お陰で少し元気が湧いてきた。
ふと視線を下ろしてみると自分の掌が視界に入る。何度も何度も強く握り締めてバットを振ってきた名残が、そこには確かに刻まれていた。
そうか、俺にはこれがあったんだ。グッと掌を握ると練習で出来たマメの痕や分厚くなった皮膚が、感触として伝わってくる。
長い長いトンネルからようやく抜け出せた気がした。
「それとな、この前監督が知り合いの記者と話していたことなんやけどな……」
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「ちょっと前に監督が記者に対して話しているのを耳に挟んだ話なんやけどな……」
『一ノ瀬キャプテンが引退して、あかつき大付属の破壊力が低下したという声もありますが』
『私はそういう風には受け止めていません。確かに一ノ瀬は投手として打者としてチームを引っ張るに相応しい選手でした。しかし、一ノ瀬のような超一流の選手はそう簡単に出てくることはありません。寧ろ、走攻守に秀でたスーパースターよりも何か一つでも誰にも負けない武器を持っている選手の方が多いです。幸いなことに今年の選手は個性豊かな面々が揃っていますので、彼等には短所を克服するよりも長所を伸ばしていって欲しいと考えています』
『四番不在の状況についてはどうお考えになりますか』
『それに関しては特に問題があると感じていません。打率も残せて長打も打てて得点を稼げる打者は早々に出てくるものではありません。一長一短はありますが、ウチのクリーンナップに座る打者全員にチャンスがあると思っています。それに、敢えて四番を決めないことで互いに切磋琢磨して成長することを期待しています』
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言いたいことだけ言い終えると九十九はさっさと室内練習場から去っていった。
そして一人だけ残された三本松の表情は何かを見据えて引き締まった顔へ変わっていた。
茜色に染まっていたグラウンドも既に暗くなっており、照明に照らされる中を七井は一人で黙々と素振りをしていた。長時間の練習で疲れているにも関わらず体に鞭を打つようにバットを振っており、珠のような汗が肌に浮かんでいる。
「一緒にいいか?」
呼びかけた声に対して返事はない。相手も声の主が分かっているらしいので、その隣に何も言わずに並ぶ。
スラリとモデルのような体型ではあるが効率よく筋肉が付いている。そして、その手には使い古された金属バット。ゆったりと構え、一拍の間を置いてスイング。風切り音が低く唸る。もう何百回、いや何千回と耳にしてきた音だ。
こちらも持参したバットを振る。言葉は要らない。こうやっているだけで言葉は交わせるのだ。
名門あかつきの四番を賭けて負けられない戦いを繰り広げているライバルではあるが、それと同時に気が合う親友でもある。恐らく、この関係は今後も続いていくのだろう。
理想の姿は異なるが、最強の打者として励む意思に変わりはない。
すると七井は一旦素振りを止めて、背中を向けてポツリと呟いた。
「負けないからナ」
「……うむ」
静寂の中、素振りする音だけが球場に響いている―――
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