照りつける太陽、揺らめくグラウンド、こだまする掛け声に澄んだ金属音、そして真っ白なユニフォームに努力の証として刻まれている土や砂。
ここパワフル高校のグラウンドには野球部が夏の太陽に負けじと練習に励んでいた。
7月も残り数日しか残されていないにも関わらず、グラウンドには多くの選手がおり影からはスカウトの視線が光っていた。
他の高校は、地方に地元に新たなチームの形を作るべく合宿へと赴いているにも関わらず3年生が残っている、ということは……
そう、パワフル高校は甲子園出場という創設以来の快挙を成し遂げたのであった。
しかもただの偉業ではない。同じ地区には高校生ながら既に知名度は全国区の人気を誇る猪狩守率いる野球の名門校・あかつき大付属高校がおり、甲子園出場は困難を極めた。
実際に1年前にもあかつき大付属高校と決勝で甲子園行きの切符をかけて戦ったが、その時は豪華かつ個性的な面々を誇るあかつき大付属に大敗を喫してしまった。
そして秋の大会でもまた猪狩守・進兄弟の前に惜敗してしまい、またしても甲子園に駒を進めることが出来なかった。
彼の前に常に立ちはだかる高く聳え立つ壁、猪狩守。これを破らなければ憧れの甲子園には行けない。3年間ずっとそう思っていた。
キャプテン・小波は『打倒あかつき(本当は猪狩守)』を目標に練習してきた。
猪狩守に関しては投げても打っても活躍できるスーパープレイヤーであった。幾度か挑戦してその実力に屈していた。
時には弱気にもなった。発奮した時もあった。めげずに只黙々と練習を重ね、いつの間にかスカウトも目を見張るような実力を兼ね備えていた。
だが、そんな状態でも小波は未だに未完の大器であった。底知れぬ潜在能力の持ち主であることは彼の周りの人物が認めていたが、当の本人は気付いていない。
高校入学当初はそれ程上手とは言えないレベルの実力だった。だがここ数年でその実力は徐々に片鱗を見せ始め、パワフル高校にとって欠かすことができない存在にまで成長していたのだ。
そこまで彼が成長したのはパワフル高校の何事にも拘束されない環境や、周りを取り巻く人々が良かったと言って良いだろう。
そして数週間前に開幕した地方予選。小波は獅子奮迅の活躍を見せた。
緒戦から準決勝まで連続安打・連続猛打賞・連続打点を記録。さらには予選ながらも打率.495、4本塁打と大爆発であった。
小波だけでもパワフル高校を引っ張ってきたと言っても過言ではない実力である。もはや猪狩守以外の投手にとって彼の勢いを阻むことは出来ない程になっていた。
そして迎えた決勝戦。
先発で1年後輩にあたる手塚が立ち上がりに苦しみ、初回にあかつき打線がその隙を突いて先制されるもどうにか乗り切った。
その裏、あかつき大付属高校のマウンドにはスーパールーキー・猪狩守が当然のように上がっていた。
猪狩守もまた小波の実力を高く評価して、準決勝までマウンドに上がらず実力を温存してきた。(これに関してはあかつき大付属の戦力の厚さもあって戦力温存の考えなのだが。)
体力温存してきたためか、絶好調で迎えた決勝戦のマウンドではその実力は遺憾なく発揮された。
バッテリーを組んでいる弟・猪狩進の構えるミット目掛けてただひたすらボールを放る。
彼が放ったボールは脅威の伸びでバッターボックスに立つ打者を圧倒し、差し出したミットへ乾いた音を立てて吸い込まれていく。
一球ごとにスタンドからは大観衆の中から4割ほどの黄色い声援が聞こえてくる。三振を取ろうものならばスタンドは女性ファンによって狂喜乱舞に揺れる。
初回は三者三球三振と三が三つも並ぶ好発進でボールを当てさせることなくベンチへと退いていった。
二回表の攻撃は得点圏にまでランナーを出すも、手塚が粘りのピッチングでどうにか0点に抑えた。
そして、その裏の先頭バッターは4番に座り最も警戒すべき小波であった。
守備から戻ってマネージャーで幼馴染の栗原からヘルメットを受け取り、愛用のバットをベンチ前で大きく一回振ると小走りでバッターボックスへと向かった。
バッターボックスに入る前に主審にお辞儀して打席に入るとマスクの影から猪狩進の目が光った。
猪狩進にとって、いや全てのキャッチャーにとって小波というバッターは嫌な存在であった。
典型的なセオリーも綿密に調べられたデータも彼の前には無に帰す。得意・不得意も特に存在しない。正しく難攻不落である。
彼を攻略するには頭脳で争うよりも場当たり勝負であった。
猪狩進は暫し推敲を重ね、サインを送るがマウンド上の兄は首を縦に振らなかった。続いて別のサインを送るがこれにも頷かなかった。
どのサインにも頷かないので困惑していると猪狩守は自分からサインを出してきた。
それはキャッチャーである進からは到底受け入れがたいサインの要求であった。しかし、頑として首を縦に振らない兄の様子に遂に折れてその要求を呑んだ。
この間およそ3分という時間が経過していた。これほどまで長い間を置いたことは、余程大切な戦いであることを意味していた。
一方、彼もまたその3分という意味合いを察していたようであった。
猪狩守に出会った頃は血液が沸騰するくらい熱くなり、とても冷静な判断ができるような状態ではなかったが今は違っていた。
3分の間に集中力は全く途切れることなくマウンド上にいる猪狩守に向いていた。
ようやく動作に入ると、普段以上に大きく振りかぶりマウンド上の左腕は風を纏いながらボールを放った。
白球は一筋の矢のように十数メートルの間を真っ直ぐ駆け抜け、パーンという乾いた音の直後にミットへと突き刺さった。
スタンドはそれまでの騒々しい雰囲気からグラウンドに立っている二人を固唾を呑んで見守っており、一転して水を打ったような静けさが辺りを包んだ。
「ストラーイク!」
高くもなく、低くもない。外角でも内角でもない。世に言う『ど真ん中』な絶好球だった。
彼は悠々と見逃したが判定はわかっていた。
特に手が出なかったというわけではない。マウンド上の猪狩守の初球を確かめたかっただけであった。
しかし猪狩守の態度がわかった以上躊躇することはなくなった。
次の球も気迫が白球に乗り移ったようなボールを投げてきたが小波は躊躇うことなくバットを出してきた。
典型的なアッパースイングであった。的を一本に絞り、下から上へと押し上げるように全力で降るその形はホームランを狙うのには格好の打法である。
が、ボールとバットの距離があまりにも遠すぎた。猪狩守が放った球は力が入りすぎたせいかコントロールが定まらず、暴投とも取れる球になってしまったのだ。
当然当たるはずがないボールだったためにバットは無常にも空を切った。
スコアボードに照らされているライトに黄色いランプが二つ灯された。もう後はない。
三球目。
追い込んでいるはずの猪狩守は、それでも尚気を緩めることなく弾丸のような白球を放った。
これまで以上の伸び・球速である。1回表の投球も他者を圧倒していたが、それを軽く凌駕していた。
それだけの投球を一人に対して行っていることは、小波の実力を認めているという証であろう。
小波もまた猪狩守の期待に応えようと全精力をバットに託してフルスイングする。
「――……ストライックアウッ!」
主審の声が球場全体に木霊した。
公式・非公式上での記録では空振り三振である。が、十数メートルを挟んで対峙していた当事者にはその記録は誤りであった。
ほんの少しながらバットにボールが掠ったのである。ボールの軌道は若干変化したが、それは主審の目では識別できないくらいの微々たるものであった。
それがわかったのはボールを投げた本人、打席に立っていた本人、そしてボールを受け止めた本人の三人でしかない。
だからこそベンチに引き上げていく小波の顔には笑みが浮かんでいた。猪狩守もまた俯いて足元の土をスパイクでいじって込み上げてくる悔しさを紛らわせようとしていた。
しかし、ほんの些細な違いにグラウンドにいる選手も、ベンチにいる選手も、スタンドに陣取っている観客も、試合を見守っている審判団も誰一人としてわからなかった。
太陽はさらに高度が上がった。降り注ぐ日光に当たったものは全て熱を帯び、球場全体は熱気に満ちていた。
球場の周りを囲んでいる街路樹からはセミによる大合唱を奏でているが、それに負けないような応援団の歓声が外にまで聞こえていた。
スタンドにいる群集の中には、ただの高校野球好きなオヤジとは到底見えない人も複数見え隠れしていた。
流れ落ちてくる汗をハンカチで拭いつつ、その鋭い目でグラウンドに立つ選手一人一人の動きを観察しつつ手に持っているメモ帳に殴り書きで書き記していく。
プロ野球の球団スカウトであった。
彼らは日夜有望なルーキーを求めて全国を東奔西走している。中でも夏は、秋に控えているドラフト会議に指名する高校生の選定に追われるために最も忙しい時期であった。
あかつき大付属に所属する猪狩守の知名度・実力は既に折り紙つきで、どの球団もその潜在能力を高く評価していた。地方大会の決勝とは言っても注目しないわけにはいかなかった。
猪狩守もスカウト達の視線に気付いていた。その期待に応えるべく、ベストの投球を行い目的の球団に入る。それが今の彼の目標であった。
だが、そんな猪狩守にも気付いていない点があった。小波の存在である。
誰もがその実力を認める猪狩守が高飛車な性格なのもスカウト達の間では既に承知済みである。
そんな彼が実力を認め、そして今全力を出している彼と台頭に渡り合っている小波の存在は否が応でも注目せざるを得ない。
スカウト達は9回裏に確実に打席が廻ってくる小波の登場を心待ちにしていた。
9回裏。ノーアウト。パワフル高校最終回の攻撃。
1点ビハインドで選手層・全体の質に勝るあかつき大付属高校に勝つことは困難になりつつある状況。しかも疲れの色一つ見せていない猪狩守がマウンドを未だに守っている。
だが幸運にも2番からの好打順である。最後の望みの小波には確実に廻る。
「2番 センター 矢部」
アナウンスが球場全体に響いた。しかし最後の望みを信じるパワフル高校応援団がその放送をかき消してしまう。
まん丸メガネをかけた矢部がベンチから大勢の女性に手を振って出てくるが、誰もそんなオタク顔には興味がない。興味があるとすれば何千分の一の割合でいるスカウト達か。
見た目に似合わず俊足でまだ未知数な部分も多い。打撃・守備にムラがある所が欠点だが、それさえ克服すればプロに行っても活躍できるであろう。
大半の観客が期待しない男が、次の一球から突然運命の歯車を変えた!
本人自身半ば諦めているような表情を浮かべているが、心の奥底ではまだ諦めておらず、奇跡を信じていた。
対して気温30℃を超える猛暑の中、たった一人で70球以上投げている猪狩守にも疲れがじわじわと襲ってきていた。涼しい顔をしているが、8回から若干制球力が落ち、球威も鈍ってきた。
矢部対猪狩守、本日四回目。その初球だった。
内角低めに投げたはずの球が、真逆である外角高めへすっぽ抜けたのである。当然普段のような力・球威のないボールであり、正しく絶好球であった。
藁をも縋りたい気持ちにある矢部にとってそれは思いがけない失投であったに違いない。必死の形相でその白球に喰らいついた。が!
力みすぎたせいか金属音の鈍い音を立て三塁線に力ない打球が転がっていった。
その瞬間、スタンドにいる観客の十中八九はアウトになるだろうと確信した。もしこれがプロ野球の世界であったならベンチに引き下がるときに野次が飛ぶことは間違いない。
それでも矢部は快足をフル活用してライトポールまで一直線に引かれている一塁線のラインの上を駆けていく。
マウンドから降りてきた猪狩守は死んでいる打球をグラブに納め、体勢を戻して一塁へと投げようとした。
その時であった。
猪狩守のグラブから白球が零れ落ちてしまったのだ!
慌ててボールを掴んでそのまま投げるが、既に矢部は一塁ベースに頭から滑り込んでいた。記録はピッチャー・猪狩守のエラーだが、ノーアウト1塁のチャンスには変わりはなかった。
次の3番でパワフル高校はエンドランを仕掛けるも、ファーストの正面に打球が飛んでしまい1アウト2塁になったがこの試合初の得点圏にまでランナーを進めた。
しかも次のバッターは4番・小波。生憎この試合3打数無安打だが、一発だけでなく進塁打も期待できる。
一打サヨナラの場面にも関わらず当の本人にはプレッシャーを感じていないのかと思わせるくらいに普段どおりの表情だった。
好材料はある。最初の打席では空振り三振に倒れたが第二打席ではボテボテのセカンドゴロ、第三打席では強い当たりのセンターライナーで徐々にタイミングを掴んできた。
流れも、勢いも、調子も、全てにおいて小波が上回っている。対して猪狩守にとっては正しく正念場であった。
猪狩守は体の底から滲んでくる汗を拭いつつ、流し目でベンチの監督のサインを確認した。が、それを見た途端彼の顔色は曇ってしまった。
するとそれまで座っていた猪狩進が突然立ち上がり、小波のバットが遠く届かない場所にミットを出した。
敬遠である。
1アウト二塁で4番を敬遠、その後に控えているのは今日3三振と全く良い所のない1年生の猿山である。
最も警戒するバッターと勝負して打たれるよりも、ここは勝負を避けて調子の悪い5番と勝負する方が無難かも知れない。
だが、それを果たして猪狩守自身のプライドが許すだろうか。彼のプライドは実力に見合うほど高く、ちょっとしたことでは決して妥協しない。
猪狩進はただマスク越しに祈るしかなかった。
血が繋がっているからこそ兄の気持ちや性格も痛いほどわかるのだが、勝負の世界では自分を捨てなければならない時もある。正に今がそうである。
そしてランナーを気にすることなく普通のモーションで振りかぶった。
しかし腕の振りは普段通りで全く落ちることなくスピードをボールに伝え、そのまま球を放つ。しかもそれは明らかにミットを構えた場所とは違い、ど真ん中である。
それに対して小波もまた猪狩守が敬遠してこないことをわかっていたようにバットを出す。
バットは澄んだ良い金属音を発したが、ボールは左翼ポールを大きく左にきれる大飛球となった。
あかつき応援団からは安堵の溜息がこぼれたが、一方ここまで良い所なしだったパワフル高校スタンドは大いに沸きあがる。
堪りかねて猪狩進はマウンドに向かい兄を諭そうとしたが無駄であった。頑なに勝負に拘り、尚且つ敬遠は絶対にしないと。
監督からの指示を携えた伝令もまた冷静な行動を促すが当の本人は至って冷静であった。
マウンドに集まったナインを持ち場のポジションに散らすと再び猪狩守は投球動作に入った。
これには先程敬遠のサインを出した猪狩進も兄の頑固さに諦めを感じ素直に座ってボールを待つ。
ゆっくりとした動きでありながら重みがあり、全力を注いでその黄金の左腕を振り下ろした。
小波も全身全霊を持ってバットを一閃させると、白球は高々と前へ高く打ちあがった。それはスタンド・グラウンドにいる全ての人が結果を確信した。
ボールは外野フェンスを高々と越え、遥か彼方にある道路に着地するまで飛び続けるほどの場外ホームランになった。
それと同時に夏の地方大会は雌雄を決し、パワフル高校が創設以来成し遂げられなかった甲子園行の切符を見事手にした。
『虚(うつろ)と現(うつつ)』
そして現在、パワフル高校のグラウンド。最初は甲子園に行ける実感がなかったが、今では喜んで野球に取り組んでいた。
皆それぞれ全国各地を勝ち抜いてきた猛者が甲子園で待ち受けていることなど知らないように、生き生きとした表情で開幕を心待ちにしていた。
しかしそんな中でも例外が一人いた。あの小波であった。
あかつき大付属高校戦以来魂が抜けた抜け殻のようになってしまい、まるで人形のようであった。
食事も摂れず、睡眠もあまり出来ず、完全に集中力を欠いている彼は周りから何を言われても無反応である。
この日もまた同じようにグラウンドでぼさーっと立っているだけであった。
「小波君!行ったでヤンス!」
決勝戦で逆転サヨナラ弾につながる値千金のエラーを引き出した矢部の大暴投が小波へ一直線に飛んでいくが彼は避けようとする様子は全くない。
ボールはゴスッと鈍い音の後に地面へと落ちたが、小波は倒れることなくその場に立っていた。
かなり強く投げたはずなのに痛みなど感じていないのだろうか、と投げた張本人の矢部を始め周囲は気にしていたが当の本人は痛がる仕草を見せないため心配ないと判断した。
しかし練習後に患部が腫れてきたためにマネージャーが応急処置を行ってそのまま小波は家路についた。
そして彼は真っ直ぐ家に帰らず、途中にある神社へと吸い込まれていった。
灯りは道沿いにある街灯と月のみで、人気が全くないので秘密の練習場所としては格好の場所であった。
バックから練習道具一式を取り出すと、そのままの格好で練習を始めた。しかし、今世間で騒がれているような実力とは思えないくらい動きにキレはなかった。
バットを振っても軸は大きくぶれ、走りこんでいても何もない所で躓いたり、壁当てでも簡単に取れるボールを取りこぼしたりと素人以下のレベルである。
こんな逸脱した状態ではレギュラーどころかベンチ入りすら危ぶまれるであろう。
上の空状態でありながら自らの危機を感じているらしいが、一向に改善の余地はなかった。
このような状態になったのは決勝戦が終わった直後からであった。
猪狩守からサヨナラホームランを打って勝ったという実感が湧いてくるにつれて虚脱感に襲われるようになった。
それ以来何事にも集中できないようになってしまったのだ。
「……はぁ。何やってるんだ、俺。」
虚ろな瞳で空を見上げると真ん丸に輝く月の周りをダイヤモンドのような光を帯びている星が無数散りばめられている。
夏特有の湿気に満ちた暑さも頭上に広がる星空を眺めているだけで忘れられるような気がした。
だが暑さを忘れても自分の心に広がる悶々とした気持ちは晴れることはない。
この日の練習も早々に切り上げて帰ろうかと思ったその時である。
ビュッと耳元で風切り音が聞こえ、何かが駆け抜けていくと目の前に白い何かが当たり、跳ね返ってきた。
そしてコロコロと手元にまで転がってきたその物体は間違いなく野球のボールである。
「ふぅ、名無し君がこんな場所にいるとは思いもしなかったよ。」
振り返ってみるとそこにいたのは猪狩守がランニング姿で立っていた。
地元でも有数のボンボンであり、噂では自分専用の球場を持っていると言われている彼がこんな場所にいるはずがない。
何がなんだかわからないが、彼が今こうして目の前にいることだけは真実だった。
「でも、君には失望したよ。」
これには小波もカチンときた。
そんな小波の気持ちを知ってか知らずかさらなる言葉を浴びせる。
「今の君なら僕が右で投げたとしても勝てるだろうな。まぁ、今の僕に勝てるとは思えないけれどね。」
容赦なく浴びせられる言葉。
それに僅かながら反応する器。
余裕綽々と語る彼の言葉は、何故か小波の心を激しく突き動かしていた。
その原動力は何か?それは失われていたはずの闘争心であった。
小波の最大の武器――いや、本人は気付いていないがライバルやスカウト達は気付いている武器――は相手を脅かす打撃でも、相手の裏をかく走塁でも、華麗な守備でもない。
なにがあっても挫けず、常に後ろを振り返らずに行動する“不屈の精神”だ。
どんな障害があっても突破するよう全力を尽くし、チームを明るく活気付け、3年で個人能力を急成長させたのにも全て彼の強い心が関わってきている。
もし小波に“不屈の精神”が備わっていなかった場合には、パワフル高校で万年補欠としてベンチに入ることも出来ず、パワフル高校もあかつき大付属高校に対抗できるような実力を兼ね備えるまでに至らなかったであろう。
猪狩守はここまで魅惑の投球術を支えてきた左肩をぐるぐると廻しつつ、突き放すような口調で言い放った。
「3球勝負だ。もし僕を満足できるような結果を出せなければ、野球をやめろ。そして二度と野球に関わるな。」
なんとも自分勝手な言い草である。
万全の状態でもないのにも関わらず、小波の将来を左右するようなことを勝手に決め付けるなど言語道断である。
しかし小波は黙って首を縦に振った。
彼自身にもわかっていた。うやむやな状態で野球を続けていたとしてもみんなに迷惑がかかるし、プロ入りしたとしても万年2軍に甘んじてしまうだろう。
そんなくらいなら自分の人生を天秤にかけて一世一代の大博打に打って出た方がすっぱりと踏ん切りがつく。
だが現実はそんなに甘くはなかった。
1球目・2球目と立て続けにバタバタなスイングでタイミングも合っていなかった。
小波にとって現段階で猪狩守の球を打てる可能性は1割を切っていた。
だが、バットを振るにつれて顔色に血の気が戻ってきており、振りも若干に鋭さが見えている。
徐々に彼の魂が抜け殻に戻ってきたのだ。
「どうした?君の力はそれだけだったのか?」
「……」
小波は肩を上下に揺らし、黙り込んで何も喋らない。話すほどの余裕を、今の彼には持ち合わせていなかった。
これまでの自分がどのようなスイングをしていたか、必死に思い出そうとしていた。
境内に続く真っ白な石畳。その脇には均等な大きさで灰色を帯びた白い砂利が敷き詰められている。
そして境内を囲むようにして林が深閑と密集しており、上から見ると境内に向かって真っ直ぐ石畳と砂利によって飾られた道がくっきりと映る。
そんな一本道の鳥居と狛犬の中間くらいに猪狩守は立ち、境内へと上る階段の一歩手前に小波が対峙する。その距離は偶然にもマウンドとホームベース間の距離に近かった。
しかし二人の脳内ではグラウンドに立っている錯覚にあった。照明の光も届かず、星月の光の下でのほの暗い中で。
小波はそんな中で一生懸命自分のスイングを思い出そうとするが、手に届きそうな部分で記憶の糸がぷっつり切れていた。
何が足りないか。ただそれだけである。その1ピースを埋めれば全てのパズルは完成する。
「あの時打ったホームランはまぐれだったのかい?」
その一言が全てを変えた。
「……――!」
あの時の感触が今まさに蘇ってきて、体中に力が戻ってきたのだ。それと共にそれまで欠落していた自信がみなぎってきた。
“覚醒”なんて言葉は似合わないかもしれないが、それに似たような感覚に陥っていることには間違いなかった。
その証拠に、これまで虚ろだった瞳には闘争心のような炎が見え隠れしており、眼光も鋭くなった。
猪狩守は先程と同じように――ゆったりとしたフォームで軽く――ボールを放った。それは速さもなく、力もなく、勢いもない死んだような球。打ちごろの球である。
そして次の瞬間にはボールは鳥居の間をすり抜けて、真っ暗闇な空へと消えていった。
ここが球場だった場合には打球はセンター・バックスクリーンへ叩き込まれたであろう。互いに打球の行方を追うことはなかった。
打たれた本人は打たれて当然だと思っていたため、結果に関してはなんとも感じなかった。
だが打った本人には特別な打球だったに違いない。
天に向かって拳を突き上げると、そのまま天に向かって声にならない叫びを発した。有耶無耶・虚ろ・不甲斐ない自分を吹き飛ばすために。
その様子を口元に微笑を浮かべて猪狩守は見守っていた。
息が切れるまで叫び続け、一呼吸置いた後にようやく小波は人の言葉を発した。
「ありがとう、猪狩。お陰ですっきりしたぜ。」
つい先程までと打って変わって普段の小波に戻っていた。ハツラツとした表情が普段周りから『悩みがなさそうな顔』と言われていることが納得できる。
そんな謝意にも猪狩守は特に表情を変えなかった。
「礼には及ばない。僕もウォームアップ程度の運動にはちょうど良かったし……」
顔を背けて格好よく髪をかき分けた。嫌味らしく前髪をかきあげるポーズも実に気障っぽい(実際気障なのだが)。
「それに……僕らを破った以上は甲子園優勝でもしないと僕の評判が落ちるからね。」
「猪狩……。」
これまで見せたことのなかった猪狩守の一面を今頃になって発見したように思えた。
常に相手を突き放すような態度だったが、それは相手を思いやる優しさと相手の実力を認めていたことの裏返しだったのかも知れない。
少し照れているのか顔色も赤い。が、その表情は瞬く間にきりりと引き締まった表情に変わった。
「甲子園は全国の予選を勝ち上がった強豪揃いだ。僕に勝ったからと言って気を緩めるなよ。」
「勿論だ。必ず真紅の優勝旗を持ち帰ってみせる!」
フッと何故か満足気な表情を浮かべると、猪狩守は「自主トレがあるから」とそそくさと帰っていった。
だが思わせぶりな言葉を残していったのも彼らしいと言えば彼らしかった。
――今度はプロの世界で会おう。
そして一人取り残された小波は、これまで気の抜けていた分の練習を取り戻すべく猛練習を重ねた。
家に帰ったのは満月も真上にまで至った頃であり、当然のことながら両親にこっぴどく叱られた。
そしてその翌日からは普段通りの性格で野球部に戻り一堂を安堵させた。
それから3週間ほど経過した8月の中旬。もうじき下旬に差し掛かる頃であった。
西宮にある甲子園球場ではおよそ1ヶ月間に渡って繰り広げられてきた高校球児達による夏のドラマがクライマックスを迎えていた。
大会最終日・決勝戦。
先攻は今年彗星のように現れ、破竹の快進撃を続けてきた氏素性のわからぬ初出場のアンドロメダ高校。
初出場にも関わらずその実力は高校生離れしており、何故か皆不気味なサングラスをかけている風貌で泥だらけになったユニフォームとミスマッチしている。
対するは前評判はそれ程良くなかったものの、ここまで順調な試合運びを繰り広げてきた同じく初出場のパワフル高校。
これだけを元にした上での予測ではアンドロメダ高校が圧倒的優位に立っていた。
ガソリンタンクで制球以外穴のない大西を中心に総合力で勝るアンドロメダ高校を前に、強打を誇るパワフル高校でも敵わないとされたのだ。
しかし、試合が始まるとその概念はあっという間に打ち消されてしまった。
ただ淡々とプレイするアンドロメダ高校ナインに比べて、パワフル高校ナインはキャプテン・小波を中心に常に笑顔であった。
ヒットを打たれても、三振しても、エラーしても皆笑っている。彼らは純粋に甲子園でのプレイを楽しんでいた。
程ほどの緩みは肩の力を抜き、ピリピリとした空気を振り払ってくれる。だからみんなが笑っていられるのである。
そして両チーム膠着状態で迎えた最終回。呆気なく2アウトを取られるも、(いつの間にか)“ドラマを作る男”と呼ばれるようになった小波が打席に入った。
小波の調子は甲子園に来ても続いていた。何かが吹っ切れたように小波はまるで真夏の夜に打ちあがる花火の如く華々しく爆発していた。
打って走って守ってチームを勝ちに導きながらもチームのムードを上げていくのは彼にしか出来ない芸当だった。
マウンド上の大西はサングラスのようなマスクをかけて様子を伺うことが出来ないが、まだまだ投球には余裕があるようであった。直球のスピード・変化球のキレ共に衰えていない。
(……そんな黙々と野球していて楽しいの?面白いの?)
小波は心の中で問いかけるも応えは当然のように返ってこない。
マウンド上にいる大西はただひたすら機械のように動作を繰り返すだけで、そこには人間の温もりが感じられない。
同じ間隔で投球動作に入り、所定の時間でボールを放ってくる。正しくピッチングマシーン。
だが小波が先日まで陥っていた魂が抜けた状態とは少し違う。彼らは進んで魂を抜いたのだ。
そんな無表情な彼らを見ていると悲しく、そして腹立たしく思えてきた。
そして彼は投球モーションに入って意思のないボールを投げてくると、小波は何の躊躇いもなくバットに自分の思いを乗せてフルスイングした。
彼の思いを乗せたバットからボールへと伝わり、思いを託された白球は大きく弧を描いて内野を通り過ぎ、外野を越えて、レフトスタンド中段にまで到達してようやく着地した。
甲子園にいる誰もが打った瞬間にわかる程の打球であった。
一塁側ベンチにいたパワフル高校ナインは狂喜乱舞し、対峙する三塁側ベンチはがっくりと肩を落とす。
狂喜乱舞していたのはナインだけでなく観客席で応援していたパワフル高校全生徒も同じ気持ちであった。
当の本人はゆっくりとサヨナラホームランの感触を確かめながら、この一ヶ月のことを振り返っていた。
(ここまで来れたのも猪狩のお陰だな……アイツがいなかったらここまで来ることすら出来なかったかもな。)
二塁ベースをしっかり踏み、三塁へと歩みを進める。
ふとスタンドに目をやるとそこには割れんばかりの大歓声で甲子園優勝を祝福している生徒達の姿が見えた。
生徒だけではない。他の観客からもカーテンコールが湧いており、小波はただ一人グラウンド上でスポットライトを浴びているのである。
三塁にまで到達するとゆっくり膨らんでナインが待ち構えているホームへと向かう。
(あぁ、やっぱり野球って楽しいな……)
中身のないことなんか決して楽しくない。時間を送るには無駄に使いたくない。だから人間は一生懸命実りある時間を使おうとするんだ。
そして小波はこれから現実ではなかなか味わえない至福の一時を迎えることになる。
一度虚を味わった彼にとっては格別楽しい時間になるであろう――
了
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