白球は無常にも弧を描いてライトスタンドにまで運ばれていった。ここまでの反撃ムードを断ち切る一発で流れが相手に傾いていることはヒシヒシと感じていた。
ライトにいた九十九宇宙は打球の行方を追うことはなく、ただその場で佇んで頭上を越えていくのを目で追わなかった。
そして皮肉にも最後のバッターとなった九十九は相手投手の落差ある変化球に喰らいついていったが、金属バットは高い音を奏でることは一度もなかった。
こうして彼の高校野球はあっけなく幕を下ろしたのであった……
『友と、男の背中』
あかつき大付属高校といえば地元では野球の名門校として全国に名が知れ渡っており、地元では負け知らずであった。
ここ数年はプロからも熱い視線を浴びるほどの実力がある選手が集まっていた。昨年のドラフトにおいても一ノ瀬投手がドラフト1位で指名されプロの道に進んでいる。
さらに現在超大型ルーキーとして名高い猪狩守を抱えており、その弟で兄に負けず劣らずの才能を誇る猪狩進も今年春に入学したので甲子園制覇に向けて磐石の態勢と言っても良かった。
予選は破竹の快進撃で勝ち進み、甲子園に移ってもその勢いは留まることを知らなかった。
そして決勝では昨年甲子園を制覇した帝王実業が今年もあかつき大付属高校ナインの前に再び立ちふさがった。
昨年夏は一回戦に激突し、地方大会決勝にて完全試合を達成して波に乗っていた一ノ瀬が先発したが、破壊力抜群の帝王打線につかまり6点を奪われ、初戦で涙を呑まされた。
そのため、あかつきナインにとっては雪辱を晴らすには絶好の舞台であった。
それぞれ個性溢れるあかつき大付属高校ナインに対して総合力で上回る帝王実業。どちらが勝つかわからないくらいの好カードと予想され、高校野球ファンにとって待ち望んでいた対戦だった。
まず先制したのはあかつき大付属高校であった。
後攻めのあかつき大付属高校は1回裏に先頭打者で『あかつきのイダテン』の異名を持つ八嶋が先頭打者ホームランならぬ先頭打者セーフティバントを決め、1人倒れるも3番・二宮がセンター前にクリーンヒットを放った。続く4番・三本松が特大の犠牲フライを上げて先制点をもぎ取った。
だが覇者・帝王実業も負けてはいない。2回表に連打ですぐさま1点を返し、さらにサード五十嵐のエラーで逆転。その後も猪狩守の高めに浮いた球を狙い、点差を4点に広げた。
その一方であかつき大付属の打線も先発・山口の前に三振の山を築き、数少ないチャンスを活かせずにいた。
中盤から波に乗った猪狩守は本来の投球が蘇るが、対する山口も快投練磨の働きを見せ、両チームは互いに0行進が暫く続いた。
だがその0行進も7回裏に突如途切れた。9番・猪狩守のHRを皮切りに後続も連打を浴びせ、一挙に3点を奪って1点差に詰め寄った。
8回表には1アウト満塁の大ピンチをショート・六本木の華麗な守備によって切り抜け、流れは完全にあかつきに傾きかけていた。
しかし……9回表に動きが起きた。2アウトを簡単に取った後に大きく打ち上げたボールをライト・九十九が太陽の中に入って見失ってしまうイレギュラーを犯してしまい、その直後にそれまでの流れを断ち切る2ランホームランを浴びてしまった。
3点。序盤の失点があかつきナインに大きな足枷となったが、それでも諦めていなかった。
9回裏、30℃を超える炎天下の中でただ一人全試合を投げ続けてきた山口にも流石に疲労の色が見えてきた。この最大のチャンスを見逃すあかつき打線ではなかった。
先頭打者である八嶋が倒れるも2番・四条が出塁して3番・二宮が繋ぎ、4番・三本松がライトへ特大のフライを上げて三塁ランナー四条が生還。
2アウトながら2塁にランナーを置く絶好のチャンスで5番・七井がタイムリーヒット。そしてここまで4三振の五十嵐も際どいボールを見逃してフォアボールを選ぶ。この場面でヒット2本を放っている7番・九十九。
一塁側観客席は割れんばかりの歓声と祈らんばかりの声援に包まれていた。一打出れば同点、そして長打になればサヨナラの可能性も残されている。それに反して打席に入った当の本人は至って普通だった。
心臓の高まりもそれ程感じられない。手の震えもない。
その初球だった。
山口が武器としている落差のあるフォークをキャッチャーが後ろに逸らしてしまったのである。ランナーは自動的に次の塁へと進み、さらにチャンスが広がる。
七井・五十嵐両者の足はさほど速い部類には入らない。しかし、これで逆転サヨナラの可能性は大きく飛躍した。
高まる期待。高まる鼓動。そして甲子園球場を覆いこめるくらいに膨らんでいるあかつき大付属高応援団の勝利への祈り……
でも、それらの願いは野球の神様には届かなかった。
九十九は無我夢中にバットを振った。自分の背中に圧し掛かっている重圧と期待に応えるべく、そして自分が甲子園のヒーローになるために。
普段の九十九であれば変化球であれば柔軟に対応できるバッティングが出来ていたのだが、この打席だけはそれがなかった。
白球は無常にもこの打席だけは一回もバットに当たることはなかった。
そしてそれが九十九にとって、あかつきナインにとって、全高校3年球児にとって最後の夏が終わりを告げた―――
歓喜に沸くグラウンド。マウンドに集まる帝王ナイン。飛び上がるくらいに喜び、嬉し涙を流して祝福している三塁側観客席。
対照的にどんよりと重い空気に包まれるあかつきベンチ。あと一歩で届かなかった夢に涙する一塁側観客席。
そして、バッターボックスからベンチに戻ってくる九十九。ベンチに戻ってきたその顔は意外にも笑っていた。
「いや〜、やられたわ。ワイにはあんな球打てんな〜、はっはっは。」
沈んだ雰囲気の中で唯一笑っていた。しかし、一人その笑いが癪に障った人がいた。
「……てめぇ、なに笑ってるんだよ。」
怖モテな二宮であった。ベンチに戻ってきてすぐさま九十九の胸倉を掴みかかると、その勢いで一発右の拳が入った。
もしあのイレギュラーヒットがなければサヨナラだった。もしあの場面で九十九が打てればサヨナラだった。
二つのサヨナラを手放したにも関わらず笑っている九十九に対して心の底から腹が立ったのであろう。
矢継ぎ早に次の一発が入ろうとしたときに、横から誰かが飛び掛ってきた。いや、ボディーブローだったと言っても良いか。
二宮が鬼の形相で睨んだ先にいたのはレギュラーの中で最も小さい八嶋であった。
「中(あたる)……邪魔するな。俺はアイツに用があるんだ。」
怒りで我を忘れていた。必死にその小さい体を振り払おうとするが、なかなか離れない。
八嶋も八嶋で必死だった。普段の八嶋なら荒れている二宮に手も足も出ないのだが、必死に喰らいついて離れようとしない。
その様子に怪力自慢の三本松・七井が二宮の体と腕を押さえ、どうにか九十九から引き離そうとしている。
「わかってやりなよ!瑞穂!宇宙(そら)が一番辛いんだから!」
はっと気付いた時には目の前に九十九の姿はなく、ベンチの奥隅で一人沈んでいる姿が目に入ってきた。ヘルメットを脱ぐこともなく、ただ俯いて誰にもその涙を見せまいとしていた。
あの笑いは悔しさと悲しさを押し殺していた偽りの笑顔だった。
自分のミスで、自分の不甲斐なさでチームを優勝に導くことが出来なかった。ベンチに戻るのが申し訳ないくらいに思える。
だが、いつもみんなの雰囲気を和やかにさせ、何事にも動じずに気さくでいる自分を振舞うために敢えて笑ってベンチに帰ってきたのだ。
みんなも痛いほど伝わってくる九十九の心境を察して何も言わなかったが、それが返って二宮の癪に障ってしまったのであろう。
ベンチ内は再び重苦しい雰囲気に包まれた。九十九の噛み殺した啜(すす)り泣きにナイン全員が感傷的な気持ちになった。
それから数日後。あかつき大付属高校の登校日とあって大勢の生徒が校門を潜っていた。本当であれば真紅の優勝旗を携えての凱旋だったはずだが、それも帝王実業に破れて叶わなかった。
九十九は普段通りに朝の練習をこなして教室に入ると、クラスメイトから賞賛の声が上がった。
「よ、九十九!惜しかったな〜」
「九十九君はよく頑張ってたよ!」
殴られた左の頬にガーゼがあることには誰も触れず、脱力気味な九十九を励まそうと労いの言葉をかける。
だが本人は、そんな同情の言葉よりも貶された言葉の方がよっぽど良かった。
罵声にも近いことをボロクソに言われ、追い討ちをかけるくらいの言葉をかけられた方が踏ん切りもつくし、すっきりするだろうに。
そのため、あの時殴った二宮の方がこんな偽りの言葉なんかよりも数倍嬉しかった。
この日は授業が午前中で終わったのだが、野球部だけは甲子園に出場していたために特別補習が組まれていた。
“文武両道”を掲げているあかつき大付属高校ではエスカレーター方式を取らず、一定の成績でなければ大学に進めないシステムになっている。
そのため野球部と言えども夏休みの課題を消化しなければならないが、練習時間などの関係もあるため自主学習に近い形での補習を行っている。
無論先生もついているのだが、質問を受ける程度で授業を行うわけではない。だから自主勉強に近いのである。
幾つかのグループに分かれて溜まりに溜まった夏休みの課題を消化していくが、九十九だけはグループに属することなくただ一人上の空で窓の外を眺めていた。
彼の頭は甲子園決勝のあの場面が脳裏を何回も駆け巡り、入るべき勉強が脳内に入ってくることを阻止していた。
そんな様子を察して後ろの席にいた八嶋は必死に九十九を現実に引き戻そうとする。
「宇宙〜、ちゃんと勉強しなきゃダメだぞ〜」
「……んあ。そうやな。」
九十九のやる気のない返事と表情に教壇で座っている教師の目が光るも、また別の方向へ向く。
「オイラがしっかり教えてあげるから!だから宇宙も一緒に勉強しようよ!」
九十九はやる気のない顔をしながらも、八嶋の潤んだ純粋な瞳に後押しされるように白い部分が多いテキストを開く。
「……中、鎌倉幕府が成立したのは1192年やぞ。」
「え〜?『いーくに作ろう』だから192年じゃないの?」
「アホ。語呂は『い・い・く・に』やぞ。鎌倉時代より前の時代すっ飛ばしてどないするん。」
「あ、そうだね〜」
カリカリカリ……
「宇宙〜、『泣かぬなら 泣かせてみせよう ホトトギス』って誰のことだったっけ?」
「そりゃ豊臣秀吉や。太閤の性格がそんなんだったことからそう言われるようになったんやで。(あと字間違ってるで。)」
カリカリカリ……
「ありがとう、宇宙。お陰ではかどったよ!じゃあオイラは用事があるから先に帰るね〜」
急いでカバンの中にテキストをしまうと、そのまま走って何処かへと走っていった。
(……ん、そういや中から教えてもらうはずやったのに逆に勉強教えてたなぁ。まぁえぇか。)
そして補習が終わると九十九はその足で学校を後にした。
3年間休むことなく勤しんできた野球も甲子園大会が終わって引退して、今では後輩が新しいチームを模索している状態で顔を出しても相手にされないと思って最近では行かなくなった。
行かなくなって数日ほどはゴロゴロしたり友達と遊んでいたりしたのだが、最近では体を動かしたくてうずうずして止まらない。
元々九十九は周りの面々と違って天賦の才を持ち合わせていなかった。特化した能力もセンスもなく、他のレギュラーから比べると見劣りした印象を与えていた。
入部当初の九十九は同期入部した面々のレベルの高さに愕然を覚えた。『自分はこんな所は場違いなのではないか』と疑ったこともあった。
が、努力だけは人一倍していた。飄々とした表情とは裏腹に、誰も見てない場所で部活の練習以上のトレーニングをしていた。
それも一歩先にいるみんなに追いつき、追い抜こうとする強固な精神が九十九をここまで育て上げたと言っても過言ではない。
だからこそ3年間染み付いてきた体内リズムのせいで燃え尽き症候群に似た症状に襲われているのかも知れないのだが。
(ぁー、終わってしまったんやな。これからどないしようか……)
商店街に寄って晴れていたら河原でボーっとした後に家へ帰る、これまでのルート通りに帰っている九十九はまだ上の空であった。
時間が無駄に流れていく感覚を感じることができないくらいにボーっとしている。こんな状態で歩いていたら交通事故にでも遭わないかと思えるくらいである。
と、その時であった。
「ちょっと……離してください!」
「いいじゃんかよ。俺らとちょーっと遊びに付き合ってくれるだけでいいんだから。」
声の方向を見てみると、ガラの悪い三人組の男に囲まれて一人女子学生が孤立していた。
女学生の顔は嫌がっていることが明らかに出ているのだが、執拗な誘いに助けを求めているようでもあった。
しかし石をも溶かしてしまいそうな炎天下の中出歩く人の姿はまばらで、いるとすれば九十九ただ一人しかいない。
ふと九十九の足が止まった。足が止まると同時にふつふつ怒りの感情が時間の経過と共に湧き上がってきた。
言葉では表せない何かが彼の心を揺さぶり、呆けていた脳に強烈なパンチを繰り出して活性化を促進していく。
脳がK.Oを出した瞬間、彼の手は躊躇うことなくリーダー格と思われる男の肩を叩いた。
ポンポンと2回叩いた後に振り向いた男は憎憎しげな表情をしていた。お楽しみの時間を邪魔されたことに腹が立ったらしい。
「あ?なんだオメェ。痛い目にあいたいのか?」
脅しともつかぬ低い声に九十九は怖気づくことなく、逆に言葉を吐き捨てる。
「下衆が。アンタらがやっとること見とったらコッチが腹立ってくるわ。」
今の言葉が相当ムカついたらしく、次の言葉を発する前に手が出てきたが彼の瞳の中に九十九は映っていなかった。
拳を振りかぶる直前までは見えていた九十九の姿が突如視界から消えたのである。
無論その状態で殴りかかっても相手がいないので、拳は空を切り上体が大きく前へ傾いた。
そこに横に避けていた九十九が咄嗟に足を出してみると、見事に足がひっかかって彼は前へ倒れこんでしまった。しかも顔面から着地してしまったがために耐え難い激痛にその場で悶える始末である。
そんな光景に奮起(?)したのかこれ以上恥の上塗りをしたくないのか二人まとめて飛び掛っていくも、九十九はそのやる気ない表情の如く相手の攻撃をのらりくらりとかわして隙あらば痛ーい一発お見舞いする。
顔とは裏腹に普段からトレーニングを行っているその引き締まった体を持ち合わせている。“健全な肉体には健全な精神が宿る”と言うが、正にそのことである。
「ちぃっ。この野郎、調子に乗るなよ。」
リーダー格の男がフラフラと立ち上がると、ジャケットの中からサバイバルナイフを取り出した。
刃渡り数十センチと下手すれば銃刀法違反で現行犯逮捕されかねないくらいの長さである。そんな危険物で刺されるとなれば最悪命を奪われる危険性すら考えられる。
「座子谷さん、それは流石に……」
「うるせぇ!これ以上こんな高校生の輩に馬鹿にされてたまるか!」
周りの取り巻きが静止しようとするも、既に頭に血が上っている状態で無理に止めれば自分達にも危害を加えかねないのでそれ以上は何も言わない。
ここは素直に退くのが正論だろうと九十九は考えるもそうはいかない。
常に彼女を自分の背後に位置させるよう庇っている状態である今、相手に背中を見せて走った場合には間違いなく切りつけられる。
かと言って刃物を持っている相手に素手で対抗するなど到底不可能。窮地に立たされた。
そして無意識の内に後ずさりをすると、ふと自分の肩から提げているバックに肘が当たってコツンと澄んだ音が耳に入った。
バックの中からその物を引き出してみると普段持ち歩いている金属バットであった。いつでも練習が出来るように野球道具一式がバックの中に入っていたのだが、このような形で役に立つとは夢にも思わなかったであろう。
しかし扱い方次第では人を殺傷するくらいの威力がある。返り討ちにしてしまえば翌朝の朝刊一面を飾ってしまうだろう。
九十九は左手一本でバットを持ち、まるで侍が刀を持って相手と対峙しているような形である。空いている右手は地面から水平にして相手が女性に襲い掛かるのを防いでいる。
「俺とやり合う気か?面白ぇ!」
彼はナイフの柄を両手でしっかり握り締め、突進してくる猪の如く突っ込んできた。切りつけるのではなく刺すことだけに特化しているが、殺傷能力は倍増する。
一方迎え撃つ九十九はこの場面で信じられない行動を起こした。
なんと目を瞑ったのである。一歩間違えれば自分が黄泉の世界へ旅立ってしまう状況にも関わらずである。
(集中や。一瞬に賭ければ勝機が見えるはずや。)
ここ一番の集中力は誰にも負けない自信がある。逆転の場面、結果が求められる場面、その他大切な場面で常に結果を残しここまで上り詰めてきた。
あの時こそは力及ばずに屈したが、今度ばかりは負けられない。なにより後ろには守るべき存在がいる―――
自分の心と精神が一致したその時、九十九は瞼を上げた。
それを表すかのように普段眠っているかいないかわからない目は、ぱっちり開いて獲物を狙っている鷹のように鋭く光っていた。
視界にあるのはナイフを持って突っ込んでくるチンピラの姿。刻一刻と近づいてくる姿が目に飛び込んできても動揺はしていない。
そしてバットが届く居合いの間に彼が入ってきた瞬間、手にしていたバットを一閃させた。それは片手打ちの要領で打球を流し打ちするかの如くバットを無心で振った。
振りぬいたバットはナイフの先端部分を直撃して真っ二つに折れ、その衝撃に体は耐え切れずに横へと投げ出された。いや飛ばされたと表現しても良いだろう。
その光景に慌てて兄貴分の元に駆け寄っていくが、その頼れる兄貴は体を強打していて動こうにも動けない状態であった。
完膚なきにまで叩かれた二人が取る行動は一つしか残されていなかった。
「くっ、覚えてろ!」「いい気になるんじゃねぇぞ!」
お決まりの台詞を吐き捨てていくと倒れこんでいる兄貴を肩で抱えて立ち去っていった。
始まりから終わりまでわずか数分の出来事であったが、この場に居合わせた者達にとっては1時間とも感じた時間であった。
逃げ出した三人を追うことなく、二人はその場を後にした。
二人の間には会話はない。女子学生の方はショックが大きかったらしく声が出ないらしく、九十九はそんな彼女にどんな言葉をかければ良いかわからず普段の冗舌は鳴りを潜めて黙々と歩く。
互いに顔を見ることなく熱せられたアスファルトを見つめながら歩いていく。それでも彼女の顔に浮かび上がっている不安や恐怖を少しでも和らげるべく付き添い程度の距離を置いている。
そして近くの駄菓子屋に到着すると、九十九は彼女を店先に置かれている長椅子に座らせて自分は店の中へ入っていった。
軒先が長いので長椅子にまで日陰が出来ており、さらに風も吹いているので少しは涼しく感じられる。そして軒先に風鈴も飾り付けられており心を和ませてくれる。
中に入るとそこには所狭しとお菓子が詰まれており、まるでお菓子が家を占領しているようでもあった。
そのバリエーションは豊富で最近発売になった新製品から昔懐かしい駄菓子まで様々である。そのため子供だけでなくお年寄りも時々お菓子を買いに来ている……らしい。
「おばちゃん、アイス2本のお金ここ置いとくからな。」
九十九はアイスボックスの中からアイスキャンディーを2本取り出すと、そのボックスの上に代金を置いてそのまま外へと向かっていった。
外に出ると彼女に近い位置で長椅子に座って先程買ったアイスを一本頬張って片方を彼女に手渡した。
しかし会話がない。風鈴が奏でる風の音色と涼やかな風が辺りを包む。
何するでもなくただアイスを食べてながらちらちらと横目で見ているとふと気付いたことがあった。
この女性、なかなか可愛いのである。薔薇のような男を惹きつける美人ではないが、百合のように素朴だが魅了される部分があった。
(これをキッカケに付き合ってそのまま結婚!……いやいや、ありえへん。早すぎる。でもチャンスやで、宇宙。千載一遇のチャンスとはこのことやで。)
九十九の頭の中を不純な考えが高速回転で巡っていく。これでは先程の男達と同じではないか。
そんな頭に喝が入るまで時間はかからなかった。
思い切って声をかけよう。決意を腹で固めて声を発する。
「お嬢さん、今度ワイと一緒に……」
「お兄ちゃん!!!」
彼女は誰かを見つけると一目散に駆け寄って抱きついていった。
その“お兄ちゃん”と呼ばれた男は胸の中で涙する可愛い妹の頭を優しく撫でる。
―――あ、お兄ちゃんがおったんや……―――大多数の安堵とほんの少しの苛立ちが一つの溜息に一緒になって出てくる。
兄妹の再会を見ることが出来ず、背を向けて二人の邪魔をしないようにした。
「どうしたんだい?そんな顔をして。」
「変な人にからまれて、ひっく……怖かったよー……」
「……ったく、何処の誰だ。今度会ったらぶっ飛ばしてやる。」
声が変わって二人目の男が現れた。が、どこかで聞き覚えのある声のような気がするがなかなか思い出せない。
「ミズくん……」
「まぁまぁ、ミズホ。その辺にしておけ。彼女が無事だからそれで良いではないか。」
『ミズホ』。このキーワードだけで二人目の声の主が特定できた。
二宮瑞穂。あかつき大付属高校在籍。野球部所属でレギュラー。打力と強肩が売りで何球団かが食指を伸ばしているという噂。
そう、あの二宮であった。ガーゼで隠している左頬の傷をつけた張本人。
―――なんや、アイツの彼女やったんか。しかし意外やな〜……あんなべっぴんさんが彼女なんて―――
二宮の人相は比較的コワモテの部類に入る。聞いた話によると小さな子供が彼の顔を見た途端にその怖さのあまり泣き出してしまったというエピソードもある程だ。
また投球練習でもマスク越しに彼の睨みを受けた小心者は、思わずコントロールを乱してしまう逸話も残されている。
そんな彼に彼女がいるなんて思いもしなかったし、こんな可愛い女性だとも予測が立たなかった。
余談だが、九十九自身は気付いていないのだが彼は九十九と息が合わないと感じていた。
いつも飄々とした表情で緊張感のないように見える九十九の考えがわからなかった。その態度から幾度かぶつかり合ったが、いつも九十九から身を引いた。
しかし引き下がったことにより彼の心中には不発弾の如くしこりを残し、それが甲子園の最終舞台で爆発したことにつながった。
「それで、誰が助けてくれたのだい?今度お礼を言わなくてはな。」
「あ、それなら大丈夫!そこにいる人に助けてもらったの!」
突然話を振られた。振られた以上は顔くらいは見せておかなくてはならない。
そして特にお礼なんかいらなかった。(邪な思いが一時よぎったが)謝礼目当てであんな大立ち回りを演じるほど器は小さくなかったし、衝動に駆り立てられただけなのだから。
―――ここは格好よく男の背中を見せつけてやる。―――そんな気持ちで後ろを振り向いた時、再び衝撃が九十九の心に食い込んだ。
振り向いた先にいたのは二宮でもなく助けた二宮の彼女でもなく、“お兄ちゃん”と呼んでいた存在であった。
一ノ瀬塔哉。あかつき大学付属高校出身で昨年ドラフト1位指名でプロ入りした先輩で二宮の幼馴染である。
正に非の打ち所のない先輩だった。一軍の選手は勿論の事ながら三軍の新入生にまで声をかけ、練習に付き合ったりするなど後輩を思いやる気持ちは非常に強い。
そればかりではない。変幻自在な変化球とビシッと決まるコントロールを武器にする軟投派投手でチームを甲子園に導いたが、打撃に関しても野手顔負けの実力を兼ね備えていた。
そんな一ノ瀬を尊敬する部員は数多く、二宮・九十九もその一人であった。
「宇宙、妹が世話になったな。ありがとう。」
爽やかな笑顔で礼を述べる一ノ瀬に思わず背筋に緊張が走る。
「礼には及びませんよ。ワイが勝手に喧嘩を売っただけですんで、そんなに気にしないで下さい。」
緊張が入り混じる笑顔とは裏腹に、脳内で即興で組み立てたシナリオは完全に崩れ去っていた。
彼女は現在チームメイトと交際中。例え略奪愛を成功させたとしても彼女の兄は尊敬する先輩。このシナリオを実行するにはあまりにも重過ぎた。
既に先程買ったアイスも食べ終わり、ナンパすることに意味もないことがわかった以上はこの場にいる必要がなくなった。
「あ、すんませんがワイこれから練習がてらひとっ走りしてきますわ。そんじゃ失礼します。」
「そうか。精が出るな。頑張れよ。」
「……待て。」
突如呼び止めたのは二宮であった。多少照れているらしく、顔は赤らんでいる。
「……ありがとな。今度なんか奢ってやる。」
そして精一杯の感謝の言葉を搾り出した。言葉こそ悪いが、これが彼なりの精一杯な謝辞であった。
それに対して九十九はいつものような笑顔を見せた。
「そうやな……焼きそばパン2つでえぇや。ほな。」
一ノ瀬にペコリと一礼すると、そのまま背中を向けて駆け出していった。
普通に歩いても良かったがなんとなく走りたかった。いつものように軽やかな足取りで風を感じながら九十九はその場を後にした。
暫く走ったところにある河原にたどり着くと、彼は道端にあった雑草を摘み取って口に銜えた。トレードマークの葉っぱの復活であった。
何かしら口に銜えていないと落ち着かなくなる変な体質だが、銜えるのは何でも良い。団子の串でも、アイス棒でも構わない。
そして大きく深呼吸して、川沿いに流れていく風を大きく吸い込んだ後に顔をピシッと叩いた。
「……よっしゃ。吹っ切れたわ。」
今までモヤモヤとした気持ちが一気にスッキリした気分で、実に気持ちよかった。
つい数時間前までの顔とは全く違っていた。颯爽と、そして涼やかで満足そうな顔である。
それまで心に居座っていた雲が晴れたような気がした。迷いも悩みも何もない。あるのは今流れているような爽やかな風だけである。
(やっぱり体を動かすとスッキリするわ。ワイに迷いも悩みも必要ない。必要なんわ気持ちの切り替えや。)
九十九は携帯電話を取り出すと誰かに電話をかけた。
(アイツと遊ぼ。ちょいとした失恋も、甲子園で負けた悔しさもアイツと遊んだらこの風のように持ち去ってくれるやろ。)
呼び出し音が何回かなり、相手から関西訛りの言葉が聞こえると九十九はいつものように話し始めた。
「おぅ、お久。今度遊びにいかんけ? ……おぅ。ほなまたな〜」
会話が終わるとすぐさま携帯を閉じて元あった場所に仕舞うと、その場で大きく背伸びをした。
そして青い空の下を静かに歩いていった。その後ろ姿は九十九自身が目指していた“男の背中”であった―――
了
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