外観からして厳かな雰囲気が醸し出されている建物。歴史を感じさせつつも、どこか世間とかけ離れた印象。
その薄いクリーム色の肌をしたコンクリートの建物には普通の人が入る機会もなければ、入りたくもないだろう。厄介になりたくないと考えている人も多いと思う。
普段は人影も少なく、その場所に入っていく姿も疎らであるのだが、今日は全く違っていた。
とある地方の地方裁判所。本日正午開廷の裁判が全国から注目され、裁判所入口には多くの報道陣がカメラを構えて判決のときを今か今かと待っていた。
テレビカメラがまるで並木のように連なっており、その脇から年季の入ったカメラを手にした新聞記者やテレビカメラのクルーが控えている。
一方、法廷では外の騒ぎとはかけ離れた程に静かであった。
真ん中に座る被告人の顎にはうっすら髭が伸びており、着ているセーターも赤紫のだらんとした服である。
両手には手錠がはめられており、腰にはひもがつけられている。腰紐の先は被告人の傍らにいる警察官がしっかりと握っており、被告人が判決を前に逃走を図るのを防いでいる。
被告人は緊張している素振りを見せず、慣れない場所にも関わらず堂々とした態度で裁判官が入ってくるのを待っていた。暇なのか大きな欠伸をしたり、口笛を吹いたりと気儘な行動をとる。
暫くすると目の前見える大きな台の後ろにある扉から裁判官が入廷してきた。黒衣を纏った裁判官は、分厚いファイルを腕に抱えていた。
左手には検察、右手には被告の弁護人の面々が揃っているのだが、被告人にはこの裁判は無意味に等しかった。
被告人は自らが警察の手に落ちてからは、まるで誇らしげに自分が犯した罪を包み隠さず喋った。中には警察側が把握していなかった事件も含まれていたが、全ての事件について自白し、その証拠も確定していた。
裁判が始まってからも自らの行いについて否定することなく、むしろ胸を張って全てを語っていた。弁護人に対しても「自分に弁護など必要ない」と語っていたほどである。
主な罪状は殺人・強盗殺人・死体遺棄・死体損壊。殺人に至っては被告人の近親者を含む20数人が犠牲となり、日本の歴史上最悪の凶悪犯としてマスコミが報道していた。
中学を卒業する直前に両親を殺害・遺棄。成人前までに近親者を次々と殺し、成人後は職を転々としながら殺害を繰り返していった。金銭的に困り、知らない家に押し入って金品を強奪・住人を殺害というケースも複数件存在する。
そして人を殺していく内に、人を殺すことを快楽に感じ始めた。殺害の手口も方法を変えたりターゲットを変えたりとまるでゲーム感覚のように人を殺していった。
被告人曰く「人はいつか死ぬのだから、人を殺したところで結果は同じ」と警察の取調べに対して答えていた辺りからも、人を殺すことに躊躇いなどなかったことが伺える。
大麻など麻薬の類を使用していない辺りからも、常軌を逸した性格であることがわかるであろう。
裁判官が着席すると、それまでの空気がさらに張り詰めた雰囲気に包まれた。そして分厚いファイルを開くと、淡々とした口調で主文を読み始めた。
「被告人****はこれまで一個人の身勝手な理由により数多くの尊い命を奪い、自らの快楽を満たすために犯罪に手を染めた。その身勝手な振る舞いに対して自重や反省の色は毛頭なく、情状酌量の余地もない。また、その異常とも言える性格から考えると、被告の年齢が若いことを考慮しても、この先更生の可能性は限りなく低い。」
本来ならば罪名を先に言い渡すのだが、主文から先に読み始めた。その口調はまるで何かを諭すかのように、穏やかな口調で投げかけている。
そんな裁判官の言葉などお構いなしに、背中を丸めて体を揺すったり、欠伸をしたりしている。裁判官の難しく長ったらしい話に興味はないのだろう。
被告自体罪刑の見通しはついていた。死罪の他に有り得ない、だったら早く言い渡してこんな堅苦しい場所から抜け出したいと思っていた。
「その罪の重さは数十年の懲役刑をもってしても償うには足りず、自らの死で償うしか方法はない。よって被告人に死刑を言い渡す。」
検察の求刑通り、死刑判決が下された。
判決が出た瞬間、傍聴席に座っていた数人の人が静かに法廷を後にした。メディアの人なのであろう、その後に廊下をバタバタと駆けて行く音が法廷内に響き渡った。
被告人は判決の直後、大きく溜息をついた。その溜息が長かった裁判に飽きたために出たものなのか、それとも他に意味があっての溜息だったのかは誰にもわからない。
数ヵ月後、某刑務所。先述の被告人はその後控訴せずに罪が確定。死刑執行までの期間を刑務所で過ごしていた。
高い塀に囲まれた中にいた被告人にとってその空間は退屈以外の何物でもなかった。面会に訪れるような親しい人もいなければ、家族も既に自らの手で先に送ってしまった。
機械のように決められた行動が繰り返される毎日である。起きる時間から寝る時間まで全て決められており、それを行うにも決められた通りに行わなければならない。自由な時間と言えば夜の数時間とおかずを食べる順番くらいである。
そんな生活には珍しく被告人に会いに来た人がいた。裁判中に被告の弁護を担当した弁護士であった。
顔には細かい皺が刻まれ、髪にはちらほらと白いモノが見える。年季の入った黒い革の鞄と、濃茶のスーツがよく似合っている。
輝かしい実績こそないが、弁護士として豊富なキャリアと実直な性格と真摯に依頼人と向き合う心から依頼人の多くから親しまれてきた。
先述した通り、被告人は弁護を必要としていなかった。数多くの人を殺めてきた被告人にとって警察に捕まった以上、自分の楽しみを奪われたこの世に未練などなかった。
十中八九死刑になることは裁判をやらなくてもわかっている。万が一無期懲役になっても被害者遺族の味方である検察側が黙ってはいないだろう。
そんな無駄な時間があるのなら裁判など行わずに即刻判決を下されても良かった。その方が無駄な時間がなくて済むだろうから。
しかし国は被告人の権利として弁護人をつけることにした。選ばれたのがこの弁護士だった。
最初の方は大変であった。必死に弁護資料をかき集めようと弁護士は努力したが、被告人が口に出すことと言えば「そんなことしても無駄だ」ということにしかなかった。
そして被告人を弁護する弁護士に対する世間の風当たりは厳しかった。『なぜあんな奴の弁護なんかするのか』『自分の立場を弁護する気のない奴に付き合う時間だけ無駄だ』と散々に言われた。
だが弁護士は諦めなかった。わずかな検察側の過ちを突き、被告人の罪が軽くなるような材料を裁判官にアピールするなど一生懸命自分にできることを全うした。
結果は……罪を軽くすることも出来なかった。それだけが弁護士唯一の心残りである。
刑務官に連れられて面会室に入ると、ガラス一枚隔てた場所に着席した弁護士がそこにあった。
被告人は手錠を外され、刑務官は後ろの机に座ってノートを開き、ペンを手に取る。会話まで全て記録されるこの場に自由など存在しない。
「せんせぇ、あんたも物好きだね。」
開口一番に出た言葉が皮肉っぽい言葉であったが、これはこれで被告人なりの歓迎の言葉なのかもしれない。
息災でしたか?との弁護士の問いに「高い塀の中なんで風邪の菌も入ってこないみたいですよ」と独特の言い回しで答えた。
海賊が着ているような囚人服とは違い、作業を多く行っているため淡い緑色をしたつなぎのようなものを身に纏っている被告人の姿は、意外と似合っているようにも感じた。
「死刑執行までどのように過ごすお気持ちなのですか?」
「死刑執行は明日だ。」
息を呑む気持ちとはこのことを言うのだろうか。えっ、という驚きの言葉が出なかった。
実に淡白で、なんの躊躇いもなくさらりとした表情で被告人は言った。
「一週間ほど前だったか……ここにいると月日の感覚が無くなってしまって覚えていないが。なんか法務大臣がサインしたから死刑執行が決まったんだとよ。」
死刑の判決が出ても即座に実行されない。被告人も人であることに変わりはないので死刑までの猶予期間が存在し、そして死刑執行には法務大臣のサインが必要になる。
法務大臣は必ず死刑執行のサインを行うわけではなく、死刑に対して否定的な考えを持っている人ならば死刑執行は免れる。実際小泉政権の場合には法務大臣が死刑執行に対して否定的な考えを持っていたので、小泉政権下で死刑執行された人はゼロであった。
例え罪が確定しても再審請求によって何回でも裁判を受けなおすことが可能である。これは冤罪によって死刑を言い渡された人が、無罪を証明するために与えられた唯一の機会なのである。これによって死刑判決から逆転無罪を勝ち取り、大手を振って社会に復帰したケースも存在する。
「せんせぇ、俺はなぁ、警察に捕まった時点で全ては終わりだったんだよ。捕まったらそのまま死刑確定、つまらない生活を送ってあの世に旅立つんだってくらいはわかっていたさ。だから捕まらないように努力はしたさ。」
逮捕される1年前からは各地を転々としながら人殺しを続ける殺人行脚を行っていた。人家に押し入って住人を殺し、目ぼしい金品を強奪して逃走、また次の土地に移るという辺りは常人の思考では到底行き着かないであろう。
その殺人行脚のせいで被害は全国に及んだ。もしも国外逃亡されたら被害は各国に広がっただろう。しかし幸か不幸か被害は国内に留まった。
殺人行脚の被害者は二桁を数え、時には一ヶ月に複数件存在する場面もあった。無防備な状態で街中を歩いている被告人を警察官が逮捕しなければ被害は総勢三桁になっていただろう。
「それはそれで楽しかったさ。全国旅しながら人を殺す悦びを感じれるのだからさ。ま、平凡な生活を好んでいるせんせぇにはわからないかもしれねぇけれどよ。」
まるで自分の半生を振り返るかのような語りが一方的に続いた。まだ驚きで声が出ない弁護士は、ただ聞いているだけだった。
「俺には弔ってくれる人なんかいないし、心配してくれる人もいない。なんせ俺は『殺人鬼』だの『人の皮を被った鬼』だと言われてきたからな。だからせんせぇは本当に物好きな人だ。」
何故か被告人は裁判中から弁護士のことを“せんせぇ”と呼んでいた。先生と呼ばれる職業は人から尊敬される職業が多いが、弁護士もその一つである。代表的な例で言えば学校の先生である。
“先生”と呼ばれるのは尊厳的な意味や権威的な意味が含まれており、特別な職業である証なのかも知れない。最近の教師はその意味合いが薄れてしまい、飾りだけで“先生”と呼ばれているのかも知れないが。
弁護を依頼され、最初に被告に面会した時にも同じように「せんせぇ」と被告は言った。最初の時こそ汚い言葉遣いに内心腹が立ったが、慣れてしまえばなかなか良い青年だと感じた。
「捕まったら俺がやってきたこと全てを告白しようと決めていたし、告白してやったら警察の奴ら、本気で驚いていたさ。あん時の顔は本当に笑えたな〜。」
被告人は自らが行った全ての件を包み隠さず話し、それを裁判という場で否定しようとしなかったし、罪を全て受け入れようとしていた。弁護人としてこれ程やりにくいことはない。
弁護人は少しでも罪を軽くすることが責務であり、そのためには検察の穴を突いて裁判官にアピールしなければならない。だが被告人本人にはその意思がなかった。
後から聞いた話によれば弁護人も必要ないの一辺倒だったのを国からの派遣という名目で自分が弁護についたらしい。正に暖簾に腕押し、骨折り損である。
被告人の話を聞いている内に刑務官が「そろそろ時間です」という声がした。
被告人は全てを吐き出したかのように満足した表情で両腕を刑務官に差し出し、手錠をはめた。
カチャリと両腕にはめる金属音が弁護士にとって一番嫌な瞬間である。生理的に受け付けないということもあれば、その光景がなんとも痛々しいからであった。
被告人が立ち上がって面会室から出て行く去り際、突然弁護人の方を向いた。
「せんせぇ、今まで色々とありがとよ。」
話している時の笑顔とは違う笑みが浮かんでいた。自分の快楽について語っている被告人の顔ではなく、一人の人間として感謝している顔がそこにはあった。気のせいか声色も少し和らいでいたようにも感じた。
被告人はそのまま振り返ることなく面会室から出て行き、鉄格子のはめられた鉄の扉が無常にも閉まった。弁護士はあの時の被告人の笑顔を忘れることはなかった……。
翌日、被告人が言っていた通り死刑が執行された。享年28。雲ひとつない爽やかな青空が狭い空を覆っていたが、風だけは忙しく吹き抜けていった。
亡骸は後日弁護士が引き取り、刑務所近くの寺に頼んで無縁仏を立てて弔ったとされる。世間から“鬼”と呼ばれ、蔑まれた被告人は誰にも知られることなくこの世を去った―――。
【咎人、闇に堕つ】
被告人、つまり彼の意識はまだあった。
目覚めるとそこは真っ暗で、音のない空間だった。視界の先1mと見えない闇の中では、ここがどこなのかがはっきりとわからない。
どうやら彼は寝そべっている状態であることを把握したのか、手を上にかざして上に物がないかを確認する。そして確認が済むと、頭に気をつけながら恐る恐る立ち上がった。
二つの足でしっかり地面を踏んで立ち上がると、彼は自らの体が五体満足についていることにようやく気がついた。五指もあれば二足もある。至極当然と言えば当然なのだが。
彼の指先が胸の辺りからすーっと下腹部に向かって体をなぞっていき、大腿部の辺りで指を体から離した。自分の体がしっかりついているか確認をし、そして衣服を纏っていることも確認した。
真っ黒に染められた視界では色を判別することは難しいが、服の材質は恐らく刑務所の中に着ていたつなぎだろう。
彼は確かに狭い部屋の中で死んだ。自分のケジメくらい自分でつけたかったが、そればかりは許されない。
法に則って死刑という罪が執行されたのである。懲役刑では償いきれないくらいの重い罪を背負い、社会に復帰したとしても再犯の可能性が極めて高い場合にのみ命を引き換えにして罪を償うのである。
余談だが、死刑制度には死刑囚の人権の問題や死刑囚の死によって終わる償いに対して疑問を感じる人が多く存在している。そのため多くの国では死刑制度を廃止して莫大な年数の懲役を科すことを採用している。
(※日本の無期懲役刑でも数十年後には仮出所できるという問題点もあるが、この場では触れないでおこう。)
しかし彼はまだ生きていた。両足はしっかり地についているし、体が透けている訳でもない。三角頭巾も頭に巻いてない。
訳もわからないが、どうやら自分という存在はまだ存在しているみたいであった。
彼はその場所がどこかもわからないまま、歩き出そうとした。遠くから革靴独特のコツコツと鳴らして歩いてくる音が此方に向かって近付いてきた。
足音の方向に目を向けてみると、微かな光が見えた。正しく暗中模索している状態には光明の灯りであった。
ぼんやりとした灯りの方向に向かって彼はいつの間にか走り出していた。暗闇の中で一人孤独で耐えるほどの精神力を彼は持ち合わせていなかったのだ。
点のように小さかった灯りも足音の方向に向かって近付けば近付くほど灯りは大きくなっていった。息が上がるのもお構いなしに全速力で走っていた。
そして灯りの範囲が数mになろうかという時になり、その足音の正体が徐々に浮かび始めた。
履いている靴は音の予想通り革靴に間違いなさそうだ。服装はタキシードで上着の下には白いシャツ。珠のように透き通った白い肌に、しなやかな細い指。整った顔立ちに短い銀髪、そしてルビーのように澄んだ紅の瞳。
光源は恐らく手にしていた古めかしいランプであろう。反対側の手にはその細い五指では収まりきらないほどの厚い本を抱えている。
―――綺麗だなぁ。しかしなんだ、この胸のわだかまりは?
今まで見てきた中でもトップ10に入るほど美しい人ではあるのに、その顔を見るだけで若干背筋が凍る思いになる。
人に会えたという安心感が彼の心を満たしていたが、なんともいえない恐怖心が僅かながら片隅にあった。
彼との距離が数mの範囲に入り、光の範囲内に入ったことに気がつくと、それまで動かしていた足を止めてランプを地面に置いた。
その人は空いた手で乱れた髪の毛をささっと直すと、彼と初めて視線を合わせた。
「初めまして、僕の名前はラク。この空間を統括する者です。」
唐突な自己紹介に少々戸惑いながらも彼もまた自己紹介をした。当然自らが死刑囚であることも、常人には理解できないような快楽主義者であることを隠して。
見た目はどこにでもいる優男なのだが、腹の底には殺人鬼という本性を隠している。顎にうっすらある無精髭を剃れば、学生に見えないこともない。
相手の名前を教えてくれたお礼に彼はラクに自分の名前を明かそうとすると、突然ラクは手に持っていた本を開いた。
「君の名前は言わなくても良いよ。僕にはわかっている。」
彼の視点からでは本の内容を伺うことは出来ない。何が書かれているのかが気になってしょうがない。
だがラクが読み上げていく内容は彼自身の情報に間違いなかった。
彼の名前から始まり、自分が28歳で死んだこと、数年前まで二桁にも上る人数を殺してきたこと、自分の特異な快楽についてのこと、家族構成や自分史をすらすらと述べ上げていくのである。
洗いざらいの自分がラクによって晒されていくのである。
これには流石の彼も不気味に思った。一回も会ったことのない人物が、自分の全てを知っているという時ほど不気味に感じるものはない。
「……どうでしょう?間違っていましたか?」
一方的に彼のことについて語り終えると、確認するかのように彼を見た。
彼は驚きと不気味さで何も言い返せなかった。なんと返せば良いのかもわからないし、言葉が頭の中でごちゃごちゃとしていて何も言えない。
「いいや。全部事実さ。」
冷静さを装うとするが、声はいつもよりも小さく、顔の動揺は若干出ている。
左手をポケットに入れ、体を少し傾けて斜に構えているが、左手は嫌な汗で滲んでいた。
―――なんだ、こいつ。なんでこんなに知ってるんだ。
覗き込んでいけば眼球の奥まで見透かせそうなくらい綺麗に澄んだ紅色の瞳が、彼を常に捉えている。その瞳が彼の心の奥の奥まで見ているような気がすると気色悪く思えてくる。
ラクはずっと表情を変えない。少し微笑んでいるようにも見えるのだが、それ以外に感情は表に出していない。何を考えているのかが彼には全くわからない。
「なんで君のことを全て知っているのかって?何故でしょうね?」
彼は不覚にも心臓が飛び出そうな程驚いてしまった。正確には動いていないはずなんだが。
やはり心の中まであの澄んだ瞳が見透かしているのか、と半ば本気で思い始めた。彼自身の中で整理をつけようとしても、つけようがないのである。
色々と考えただけでも君が悪くなってきた。このラクという人物が心底何者なのかがわからない。
さて、とラクは呟くと、それまで広げていた本に栞を差し込んで閉じた。
パタンと赤ワインより少し薄めの色をしたハードカバーが音を立てて本を閉じられた途端、その場の空気が一瞬にして変わった。正確にはラクの雰囲気が激変したのである。
それまでは全ての人を受け入れるかのように親しみやすい雰囲気を醸し出していたのだが、今では威圧的で威厳のある雰囲気でなかなか近寄れないように感じる。
オーラ一つでこうも変わるのかと彼が思っていると、よくよく見たら瞳の色も変化していた。
先程まではルビーのような宝石の如き綺麗な紅色だったのだが、まるで血を連想させるかのような真っ赤な色に変わってしまっていた。
背中から発したぞわぞわとした感覚は体の末端へ向けて広がっていく。肌からは冷や汗が止め処なく溢れてくる。喉が途轍もなく渇いてきた。
「君には幾つか聞いてみたいことがある……僕には理解できない部分があるからね。」
大人しい口調ではあるが、高圧的なオーラは依然として変わっていない。
一体何を聞かれるのか彼には気がかりであった。ラクはこちら側の考えていることを読めるし、こんな状態で嘘を言ったら何をされるかわかったもんじゃない。
「昔のことだけど君は『人はいつか死ぬのだから、人を殺したところで結果は同じ』と語ったみたいだね。どうしてそういう風に答えたのかな?」
彼の心臓は張り裂けんばかりにばくばくと脈打っている感覚にあった。息も詰まるみたいで、言葉を出せそうにもない。
大きく深呼吸をすると少し楽になったように感じた。彼は息を整えながら、ラクの問いに関する答えを探していた。
自分の信念を答えるだけだが、先程から息をするだけでも苦しくて何も考えられない。答えを整理しようと思ってもなかなか出来ないので、もう思うがままに答えるしかなかった。
「死なない人間なんて一人もいないし、生きていることが苦しくて死にたがっている人もいる。人間生きていれば苦しいことだらけだし、先に逝けば楽だろうし。こっちはこっちで人を殺したくてたまらなかったし、これで相思相愛って訳だ。」
そこから彼は一番最初の犯行から最後の犯行まで語り始めた。
人を殺す時のドキドキ感、警察から逃れるためのスリル、衝動的に人を狩りたくなる興奮、そして死に行く者の表情―――。
それを自らの勲章のように誇らしげに語った。そうしていればラクに対する恐怖を忘れさせてくれるからである。
彼が語っている時、ラクはただ黙って彼を見つめて傾聴していた。
ただ、普通の人なら彼の話を聞いていると何らかのアクションを起こすのだが、ラクは驚きや恐怖を浮かべるどころか身動ぎ一つしないところが不気味であった。
いつしかラクは、どこにあったか知らないが椅子に腰掛けて彼の方を向いて彼の話をじっくりと聞くようにしていた。
そして一通り彼の主張を聞き終えると、少し間を置いて口を開いた。
「成る程……それが君の考えか。」
すっと静かに瞼を閉じると、椅子の背もたれにもたれて何か考えるようなポーズをとった。
腿の上に両手を組み、両足は少し前に投げ出し、顎を若干上げて天を仰いでいるその姿は、まるで聖人が瞑想しているかのようであった。
そして閉じていた瞼を開くと、ラクは一つ息を吐いて彼の顔を見て語りかけた。
「しかし君の考えには重大な過ちが幾つか隠されている。」
ラクは背もたれに手をかけて立ち上がると、彼の方向へ一歩ずつゆっくりと歩き出した。
「一つは君が殺した人にもその人なりに生きていたのに、君という人との出会いによって生きる道を閉ざされてしまったこと。」
コツリという軽い革靴の音に彼は体が震える程に驚いた。ラクが近付いてくるのである。
「二つに君は苦しみから逃げ、悦に走ったこと。苦しみを乗り越えてこそ人間は成長するのに君はそれすらも放棄した。」
ふと自らの掌をのぞくと、水滴となった汗が幾つも見えていた。着ているシャツもぐっしょり濡れていて実に着心地が悪い。
何の確信もないのだが気分が悪い。嫌な汗が体中から噴き出していて、心が恐怖に怯えていた。
人の直感というのは馬鹿には出来ない。些細なことから命に関わることまでにおいて直感が大きくウェイトを占めることがあるらしいが、科学的な根拠はない。
しかし感覚という要素が人間の形成・生活に大きく関わっている事実には代わりはない。その重要な器官が彼に警鐘を鳴らしていた。『これはヤバイ』と。
瞬き一つしないラクの何の不純物を含んでいない瞳が、ずっと彼を捉えていた。ラクに見つめられれば見つめられるほど自分の気持ちが苦しくなっていく。
「三つ目に……ただ快楽に溺れ、人としてあるまじき姿に堕ちた貴方は、最早救いようがない。」
それまで線のように細かった目が、突然ぱっちりと開いた。それと共に、それまで感じていたラクのオーラが一気に増したように感じた。
ラクから放出されたオーラは彼の心を大きく揺さぶり、さらに不安と恐怖を増大させた。自分の近くにあるランプも突然ガチガチとガラス部分が鳴り始めたのだ。
そして突如としてランプが何の前触れもなく破裂してしまった。ガチャンという大きな音を立ててガラスが割れ、炎がメラメラとあがった。
彼はその衝撃に心臓が止まりそうなほどに驚いた。当然といえば当然である。ランプに触れずしてランプのガラスを割るなどマジックか超能力か考えられない。
それまでランプの中にあった炎は、限られた空間から解放されたためか大きく燃え上がった。天を焦がす勢いにある炎の力によって灯りが照らし出している場所が増えたが、それに伴い彼は灼けるような熱さを肌で感じなければならなかった。
灼けるような暑さで体中からさらに汗が搾り出されてくるが、その汗も肌に現れれば暑さにより水という形を捨てて水蒸気となり、大気中へと逃げていく。
恒温動物であるヒトは、自分の体温が一定温度以上にならないように調節する機能が備わっている。汗もその一つで、暑い環境にあるとヒトの体温はぐんぐん上昇するため、汗を出して汗が蒸発する気化熱によって体温を下げているのである。
ちなみに風邪を引いた場合に熱が出るのは、体内にある細菌やウィルスを退治するために体が意図的に行っているのである。そのため熱が出たからと言って解熱剤を飲ませるのは風邪を長引かせることにつながる可能性がある。
彼の中にある水分が汗に変わろうとしても尚暑さが解消されない。炙られるということがどのようなことなのかが今ならわかる気がする。
暑さのせいか汗をかきすぎたせいか、彼の視界がぼやけてきた。頭もボーっとしてきた。
極限の精神状態にあることも影響したか、彼の体力の底が見えかかっていた。足元もおぼつかない状態なのか、徐々に上半身がゆらゆらと揺れてきた。
彼は虚ろな意識の中で下半身に力を入れて踏ん張ろうとするのだが、上半身が大きく横に傾いた時には踏ん張りが利かずに膝が屈してしまった。
目の前にはメラメラと燃え上がる炎があり、ラクの姿は炎に隠れて見えない。肌からは汗が雫となって地面へと流れ落ちていく。
―――立たなければ。
彼の頭は全身に対して指令を下す。動きは遅いが、立つ動作が徐々に進んでいく。
膝を立て、その膝に手を置いて支えとする。体を前かがみにしてゆっくりと立ち上がった。だがいつもなら何気ない動作も、まるで出産直後の羊のように体を震わせてでないと行えないまでに疲弊していた。
ふと目線を上げると、炎越しにラクの姿が見えた。
だが、そのラクの姿は先程までのラクとは全く違う別人のようにも見えた。
あれだけ無表情だったラクの顔に、僅かながら笑みが浮かんでいるように見えたのである。まるで悶え苦しんでいる彼の様子を楽しんでいるかのように。
彼の錯覚だったのかも知れない。だが確かに口辺が若干上がっていて笑っているように思えた。
「どうしましたか?顔色が悪いですよ?」
ラクが優しく語りかけてきたが、彼はもうラクに対して恐怖しか感じなくなっていた。
“何か裏があるのではないか”“そうして闇につき堕とそうとしているのではないか”そう思えてきてならない。
今まで彼を支えてきた緊張の糸がその瞬間にプツンと切れてしまった。
彼はラクを背にして、無我夢中で走り出した。それまで疲れていたことも気にすることなく、全速力で疾駆していった。
遂に理性が崩壊し、本能が上回った。その結果、恐怖と不安で胸がいっぱいの彼には、ラクという存在から逃げるという方法しかなかった。
ここが何処だかわからない、逃げる当てもない。だが恐怖から逃れる術は自分の足で逃げる以外に手段がない。
せめてラクから見えない所に―――彼は息が上がるのも忘れ、何も考えずに自らの足で駆けた。
我武者羅に走り続け、気がつくと明かりがはるか遠くに見える距離まで走っていた。後ろから追いかけてきているようにも見えないので、このまま走っていれば振り切れるだろうと確信した。
そして微かに見えていた光が見えなくなった瞬間、彼の片方の足が突然止まった。いや、勝手に止められたと言った方が正しいか。続けてもう片方の足も動かせなくなった。
何か足が沈んでいるような感覚がある。沼か何かにはまったのだろうか。
彼は必死に足を抜こうと試みたが、足は抜けない。どんなに力を入れようとも沈んでいく足が抜けるような感覚は全くない。
さらにおかしなことがある。沈んでいく足の感覚が消えていくのだ。
地から下にある感覚が全くなく、常に地に接している感覚しか存在しない。既に足首から下は闇に呑まれ、感覚がない。
彼はこれまで体感したことのない不気味さに焦り、手を地面について体を持ち上げようとするが、掌もまた抗うことが出来ずに静かに沈んでいく。
―――なんだ、これ。底なし沼か。いや……もっとタチの悪いもんかもしれん。
気付いた時には既に遅かった。両手首両足首から先が呑み込まれてしまい、足掻くことすら難しくなってきた。
背後からコツコツと何かが近付いてくる音が聞こえてきた。ラクだろうか。
藁にも縋る思いの状態に表れた光明の光である。だが、元々はラクに怯えて走り出したことから事に至ったのだが。
「助かった……すまないが引き上げてくれないか?どういう訳か知らないが、抜けられないんだ。」
既に両膝が呑み込まれていて身動きが取れない。自由が利く上半身をひねり、ラクの姿を見つめる。
だがラクの表情はピクリとも変わらなかった。
「これまで自分が殺めてきた人たちが苦しむ様を見ても何も感じなかったのに、いざ自分の立場になるとわが身が惜しいのですか。」
ラクは軽く目を瞑って大きく息を吐き出す。彼の醜態を見て嘆いているのだろうか、それとも彼を見下しているのか。
「成熟した人というのは理性で行動している。未成熟な場合には己が欲望のままに過ごしているが、もし全ての人が己が欲望を追求しているのであれば確実に争いが絶えない世界になってしまうだろう。それ故に皆人は欲望を抑制するため理性に基づいて行動をしている。」
(なんでもいいから助けてくれ)というのが彼の率直に思っていることである。だがラクはそんな彼に瞳を見せることなく話を続ける。
「欲望が人間に必要ないとは言わない。人の文化は先人のちょっとした閃きと数え切れない程の努力によって培われた産物だが、それを成し遂げるためには人の向上欲がなければ出来なかったであろう。欲望というのは人間にとって必要不可欠なモノに違いはないのだろうな。」
淡々と語っている間にも彼の体はどんどんと沈んでいく。ラクは助けるような素振りも見せないどころか彼の姿すら見ないのである。
彼の顔には自らの体が為す術もなく沈んでいく恐怖と焦りが見え隠れし始める。実際抜け出そうと残った部分で頑張ってみるが、なんら変わらない。
「だが、欲望が他人の人生を潰してまで膨張するとは常軌を逸する。」
「そんな堅い話は聞き飽きたから、助けてくれんか?」
ラクの言葉を遮るように彼は声を発した。その表情からは苛立ちも伺える。
彼の言葉を聞くと、それまで瞼で隠れていた瞳が再び露になった。暗闇にぼんやりと浮かぶ赤の瞳は鮮血のように思えて何回見ても不気味に感じる。
既に彼の体は半分ほど呑み込まれてしまっている。焦る気持ちもわからなくもない。
だがラクはその場から微動だにしない。助ける気持ちなど微塵もないかのように。
「まだ君の立場がわかっていないようだね。」
革靴を鳴らして体を彼の方向に向けると、ラクは再び語り始めた。
「君には自らの快楽のために犠牲になった者達への罪の償いをしなければならない。それは先に逝った者だけでなく、残された者の分もだ。」
「償いって……なんだ?」
彼は既に胸から上の部分しか地上にはない。正しく身動きが取れない状態になってしまった。
ラクは彼と視線の高さを合わせようとすることはなく、まるで見下しているかのように話を続ける。
「そこまで僕にはわからない。だがわかっていることと言えば……君に積もり積もった罪の苦しさかな。」
殺された者の苦しみ・痛み、残された者が彼に思っている怨念・恨み・憎しみ。ありとあらゆる罪念がその先に待ち受けているという。
どんな形で彼に降りかかってくるかはわからない。しかしながらその苦しさを想像するだけでも血の気が引いていく思いになる。
彼も例に漏れず同じであった。自分の感覚がなくなっていくことに加えて待ち構える苦痛のことを考えるだけでも不安が増幅する。
増幅した不安は、彼の思考回路にまで影響を及ぼした。もう間近に迫った恐怖に、表情が歪み、冷静にいられなくなった。
どうにかしても抜け出さなければ。なにか逃れられる方法はないのか。聞かずとも顔を見れば何を思っているのかが手に取るようにわかる。
だが彼の力ではどうしようもなかった。肩から下は既になく、移動することなど不可能である。目線を下げると、普段は何も感じない地面がやけに近くに感じる位置にあることがさらに不安を駆り立てる。
もう残された時間も僅かだった。モタモタしていれば自分という存在が消えてなくなってしまう。
「た、助けてくれー!!」
自分の中にあった何かがプツンと切れると同時に、悲鳴にも似た声で叫んだ。
彼自身“死”という概念に関して感じることなどなかった。
自分が死ぬことは『警察に捕まった時点でゲームオーバー』とある種のゲーム感覚にあった彼には死ぬことに対して恐怖や不安など感じなかった。
人間が死ぬことを恐れない時には自分の立場を受容し、肯定する必要がある。彼はそれが出来ていたから死ぬことを恐れなかったのかも知れない。
だが状況は変わった。これまで感じていなかった死ぬことによって感じる死んだ先の恐怖・これから受ける、待ち受ける苦痛・自らが殺めた者の憎悪をこの身一つで背負わなければならない辛さ等多くの負の概念が彼の心にふつふつと湧き上がってきたのである。
その身が既に現世にはないことなど忘れて“死”の恐怖がラクの力によって呼び覚まされてしまった。逃れられるのなら逃れられないが、その身は拘束されている。
しかし空虚な空間に彼の声が無常に響くが、そこにいるのは彼とラクだけである。他の誰かが助けに来るはずがない。
「なぁ、あんたならなんとかなるだろ?なんとかしてくれ。俺はまだ死にたくないんだ。償いでもなんでもやるから、頼むから俺を救ってくれ!一生のお願いだ!」
遂に首の部分が地面に呑まれ始めた。
体が動くのならば土下座は元よりラクの細い足に縋(すが)りついてでも頼み込むだろう。動けない今は動かせる口を使って懇願するしか道はない。
一刻の猶予も残されていない。モタモタすれば自分の全てが呑み込まれてしまう。ありとあらゆる言葉をラクに語りかけるが、耳を傾けることはなく表情を崩さない。
彼の一縷の望みを託した言葉からは懸命さがヒシヒシと伝わってくる。なんせ息をつくことすら忘れて矢継ぎ早に話しているのだがら、非常に早口になっている。
しかし彼の気持ちが伝わったか伝わらなかったかは定かではないが、ラクはその場から動こうとはしなかった。
「往生際が悪い。」
先程にも増してラクの口調が厳しく、冷たい。これは言葉が短いだけの影響ではない。
「貴様一人の快楽を満たすために何人の人が生贄となり、それによってどれだけの悲しみが生まれたかわかっているのか。」
ラクは一呼吸を置いて、弾劾を続ける。
「そして自らが苦しみの道に入ろうとすると、今度は如何なる手を使ってでも逃れようとする。その考えは真に自己中心的であり、悪害以外に言いようがない。醜くて反吐が出る。」
それまで物静かだったラクが熱く語りだしたことに彼は驚きと戸惑いを禁じえない。
だがそうしている間にも残り少ない彼の体は呑み込まれて行く。地表に残されたのは最早顔しかない。
「貴様を失望した点は二つ。一つにこれまで言ってきた他者に対する感情を微塵にも思っていなかったこと、そしてもう一点。自分の中で限界を決め、限界に到達すると全てを諦めてしまう貴様の情けない性根には心底失望した。」
彼の口は地面の下に沈んでしまい、話に応えることも出来ない。
「他者への謝罪もなければ感謝もない輩に救う道など皆無。貴様に救いの道などない。」
口に続いて鼻もいよいよ地面に呑み込まれようとしていた。残る感覚は視覚と聴覚だけである。
「闇に堕ちろ、咎人。永遠に続く無限の闇に呑まれてしまえ。」
それまで狐のように細かったラクの眼(まなこ)が大きく開いた。それと同時に始めて表情がラクの顔に出てきた。
全ての者を怖がらせる威圧感を放つ鬼神。 眼だけ見れば怒っているのだが、口辺が僅かに笑っていた。
彼は途方もない不安と恐怖に襲われ、全身の肌が逆立つ気分であった。体は何も残っていないのに、意識だけはしっかりとある。それが彼にとっては不幸だったのかも知れない。
それを最後に、彼の意識は途切れた―――
そして再びラク一人の世界になった。最後に彼に見せた表情はどこへやら、いつものラクの表情に戻っていた。
彼がどこに行ったのかは全く知らない。地面の下に何があるのか、そこでは何が行われるのかは彼の知る所にはないのである。
一歩先の地面から彼は呑みこまれていった。彼の存在を示す物は髪の毛一本もなく、その世界から消え去っていた。
ラクはあれから暫しの間その場に佇んでいたが、どれだけの時間かが経過すると片膝をつけて地面にしゃがみ込んでしまった。
地面を右手でさすさすと優しく撫でていると、突然ラクの腕が地面に潜り込んでいく。やがてラクは右肩が地面についてしまうくらいにまで屈み、地面を弄っている様子である。
そして何もわからない状態で右手に何かを掴むと、右手で何かを掴んだまま一気に右腕を引き上げた。
引き抜かれて露になった右の掌は固く閉ざされていた。その拳を大切そうに左手で包み込むが、右手全体を覆い被せるはずもないので半面を包むに留まっていた。
握られた右の五指とそれを包み込む左手によってラクが何を掴んでいるのかがよくわからない。余程大切なモノなのだろうか。
ラクは両手をそのままにして歩き出した。向かった先は彼の話を静かに聞き、自らの考えをまとめる時に座っていた椅子の元であった。
椅子から少し離れた場所には黒い塊がある。これは間違いなく破裂したランプの残骸だったものなのだが、ガラスも持ち手の金属も全て灼き尽くしてしまったのか皆同じ消し炭のように見える。
見る影もなくなったランプの残骸が足元にあるとは気付かないまま、残骸を革靴で踏み潰して椅子の方向へと歩いていった。
ゆっくりと椅子に腰掛けると、ラクは右の拳を少し緩めて僅かに開いた隙間を覗き込んだ。
すると、ラクの手の中から小さな光の粒が球状となって宙へと浮かんでいく。それも一つだけでない。
ラクは手の包みを解き放つと、光の粒は一斉に天へ向かってゆらゆらと昇っていった。
「彼の中にも微かながら良心があったのだな。」
光が存在しない漆黒の中を、ぼんやりとした白い光を身に纏って天に昇っていく光の群れを眺めて微かに呟いた。
圧倒的な闇に支配されていても、自分達が発している光が例え弱々しくしても、闇に潰されることなく光は天へと向かって舞い昇っていく。ラクはそれを見守るような目で見つめていた。
光の群れは暫くすると高い所にまで到達して、地面から見れば一つの小さな点となっていた。まるで星のようである。
だがいつまでも見ていることはない。椅子の足に置いてあった本を手に取ると、ラクは椅子から立ち上がった。
それからラクは歩き出し、果てしなく続く闇の中へと姿を消していった。
ラク。またの名を“エンマ”と呼ぶ。誰がつけたか知らないが、ラクは“エンマ”と呼ばれていた。
普段は本とお茶を楽しむ穏やかな人柄なのだが、時に残忍冷徹な顔が表出することがある。それ故に人はラクのことを“エンマ”と呼ぶ。
だが、ラク本人はその名を普段から用いようとはしない。その名が気に入っていないのか、それともラクという響きが好きなのか。
他人の過去を全て把握していたとしても、自分の過去は教えたがらない。口数が少ないこともあるのだろうが、ラク自身がよくわかっていないのかも知れない。
わからないことは多い。ただ一つわかっていることと言えば、何も感じない闇の中に存在していることだけだろうか。
最も筆者も確信は持てない。何故ならば、まだラクのいる世界に行ったことがないのだから―――
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