始まりはタコヤキから






 阿畑やすし。この名前を知っている野球ファンはどれだけいるのだろうか。
 この阿畑という選手は、世に言われている“猪狩世代”の一つ上で、実は猪狩守と同じ地区の出身である。
 だが猪狩守擁するあかつき大付属とは違い、毎年緒戦で姿を消す弱小高校。そよ風高校と言われてもコアな高校野球ファンでもわからないくらい、弱いチームだった。
 その後スポーツ推薦で近代学院大学に進学。大学野球でそこそこの成績を残すと、プロ球団のスカウトの目に留まり、見事ドラフトで指名される。
 数年後、金銭トレードで極亜久やんきーずへ移籍。当初は先発の駒不足ということで獲得したはずなのに、シーズン途中から中継ぎの柱として登板するようになる。
 そして翌年にはセットアッパーとして大車輪の働きを見せ、初めてオールスターに出場。それと共に、チームの優勝に大きく貢献した。
 しかし、次の年に突然の引退宣言。短い現役生活にピリオドを打ち、球界から去っていった。
 家族は一妻一男。妻・茜は高校時代からの付き合いで、高校時代は野球部のマネージャーを務めていた。根っからの愛妻家。
 年が一つ違いで小さい頃から一緒に遊んでいるので、茜は阿畑のことを今でも昔と変わらず『やっちゃん』と呼んでいる。結婚して子どもが生まれてからは時々パパと呼ぶこともあるが、基本的に『やっちゃん』である。

 「ほな、茜、行ってくるで〜」
 「いってらっしゃい〜。しっかり稼いできてよ〜」
 彼は現在、地元に戻ってたこ焼き屋をやっている。



   [ 始まりはタコヤキから ]



 ワゴンカーを改造した移動販売車。車の上部には大きく“デラたこ”と書かれていた。
 “デラたこ”……正式名称は“デラックスたこ焼き”で、略して“デラたこ”。この地区を中心に昔からあるたこ焼き屋で、地元の人々に愛される味となっていた。
 その特長はなんと言ってもその大きさ。通常のたこ焼きの大きさよりも約1.5倍の大きさを誇っていた。大きさが大きさだけに若干お値段は高めだが、おやつから間食・夕飯のおかずにまで使える多様性があった。
 モチモチとした食感に加えてタコのプリプリとした歯応え、さらに濃厚でありながらベタベタとした後味が残らないやや甘めのソースが食欲をさらにそそった。これで一度食べた人はまた食べたくなる、という魅惑のたこ焼きであった。
 実は妻である茜が高校時代に“デラたこ”でバイトしていたことが縁で暖簾分けしてもらったのだ。移動販売型の“デラたこ”は阿畑だけなので、結構儲かっているのだとか。
 そして阿畑は今日もたこ焼きを売っていた。愛する妻と息子のために、今日も頑張って働いていた。
 「……まさか君がたこ焼き屋をしているなんて、ねぇ」
 時刻は午後2時をやや過ぎた頃。サラリーマンやOL相手にたこ焼きを売り終えて、家まで帰る途中に道草がてら腹を空かせた学生達が押し寄せてくるまでの束の間の休息といったところだろうか。
 狭苦しい車内から解放され、缶コーヒー片手にのんびりとくつろいでいる阿畑の近くに、紺色のニット帽を被った怪しいおっさんがたこ焼きを頬張っていた。
 鼻の下には立派な髭が生え、後ろ髪は大分伸びていてボサボサ。細長い目元は、どこか鋭さを感じるようで、それでいて人相を悪くしていた。
 この怪しいおっさん……ではなく、この方は頑張パワフルズの名物スカウトである影山さんだった。
 現在頑張パワフルズで活躍する矢部や東條、館西といった看板選手を発掘してきたのはこの影山スカウトで、その御眼鏡にかなった選手は球界を代表する選手になれる、という噂が流れていた。
 「まぁこれが天職なんやろなぁ。不景気不景気言われるこのご時勢、プロ野球選手やったって再就職は大変なんよ」
 プロ野球生活引退後、すぐにコーチやテレビ・ラジオの解説者になれる人は極々一部に限られている。ある程度実績を挙げていなければならないし、テレビに出るためにはネームバリューも必要となってくる。
 多くの人はそんな輝かしい世界に留まることを許されず、スポットライトの当たらない生活へと移り変わる。球団職員として雇用、打撃投手として再契約、一般企業に就職。
 「だが惜しいなぁ。君の実力ならまだ10年活躍できただろうに」
 そんな上手いこと言っても何も出ぇへんよ、と阿畑は笑ったが、影山は至極真剣であった。
 この阿畑という選手程、変化球を研究している選手は影山が見てきた中でもいなかった。しかもプロに入る以前、高校生の時からである。
 彼は不遇の境遇だったのかも知れない。
 先述したが、彼の在籍した高校は地区予選でも下から数えた方が早いくらいに弱い高校だった。それを最後の夏には当時最強と謳われたあかつき大学付属高校を相手に最後の最後まで苦しめる大接戦を演じるまで成長させた。
 何故か。阿畑が率先して独自の練習を用いてチームの総合力を底上げすると共に、自分自身を磨くということを疎かにしなかったためだった。
 中学時代の阿畑は速球を武器にする投手であった。高校に入ってからもそこそこ速い直球を持ち、阿畑自身も直球に対するこだわりを持っていた。直球を軸に組み立てる投球も体で覚えた。しかし、地区予選や練習試合で戦う内に、自分の能力の限界を肌で感じた。
 小手先の配球で相手を抑えようとしても、打撃が上手い相手だったら自分の直球だと簡単に打たれてしまう。このままではいけない、と痛感させられた。
 ではどうするか。変化球に生きることしか生き残る術はなかった。
 様々な球種を勉強して、試しに投げてみて、チームメイト相手に投げ込むこともあった。だが、どれもしっくり来ない。最初の内は抑え込めても最終的には打たれてしまうのだ。
 ただ変化球を投げるだけではなく、自分なりに工夫してみることにした。握り方を変えてみたり、指の捻りや肘の使い方を少し変化させたりしてみた。暇さえあればボールを握って、新しい変化球のことを常に考えていた。
 そんな中で阿畑が独自のやり方で辿りついた境地が“アバタボール”であった。
 普通の人から見れば普通のナックルにしか見えない(むしろナックルよりも劣化しているという話も一部ある)が、実はナックルよりも制球がある程度利く上に肘や肩への負担が大幅に軽減されるという利点がある。
 ナックルという球種は揺れながら落ちるという独特の球筋を持つことから“魔球”と呼ばれる反面、投げた本人ですらどこに行くかわからない、変化が小さいとただの棒球となってしまうので長打を打たれやすい、そして投手への負担が大きいことが挙げられる。
 この“アバタボール”はナックルが持つ欠点を克服した、究極のウイニングボールであった。
 けれど、それで満足はしていなかった。“アバタボール”自体が究極の変化球と呼ぶにはあまりにもお粗末だった。生み出したと同時に改良という試行錯誤が始まった。
 高校時代には最終的に7号まで、大学時代はさらに増えて19号、プロに入って最終的には60号まで進化を遂げた。ここまで一つの変化球を徹底的に改良を加えた選手は日本球界では誰もいないだろう。
 影山の目から見ても、これは獲得するに値する投手だと見ていた。変化球研究のため相当投げ込んでいることは予想していたが、肩や肘の柔軟さも申し分ない状態だったこともプラス材料だった。
 しかし、この次の年に控える“猪狩世代”にフロントはターゲットを絞っており、新人獲得は控える傾向にあった。このため阿畑のパワフルズ入団は幻となってしまった。
 今思えばあの時強硬してでも阿畑を獲得するべきだった。そうすれば長年続いているパワフルズ中継ぎ陣の崩壊状態が止められただろうが、その本人は今ではプロ野球を引退してたこ焼き屋を開いている。
 「……そろそろ行こうかな」
 幾らだったかなと阿畑に訊ねると500円ですと返ってきた。私の記憶違いでなければ5個入り550円だったはず。その表情を察してか阿畑は「昔のなじみということでサービスしときますわ」と明るく言ってくれた。
 たこ焼きの代金を手渡すと「毎度おおきに」という言葉と弾けんばかりの笑顔が返ってきた。暫くこの地区にいるから、暇があれば顔を出してみることに決めた。
 髭に若干ソースがついていることなど気にすることなく、将来有望な選手を求めて影山は立ち去っていった。



 それから数日後。この日が週末ということで売り上げを稼ぐ絶好の日にも関わらず、朝から天気が悪くて客足も鈍かった。
 シトシトと降りしきる空を眺めていると気分まで憂鬱になってきた。このまま帰っても茜に叱られてしまうとか、今日もしも晴れていたらどれだけ稼げていただろうかとか、ついつい考えがネガティブな方向に向いてしまっていた。
 結局その日は夕方まで客足が途絶え途絶えのまま営業を終えようとしていた。今日の止まり木であるレンタルショップの駐車場を見渡しても、車は少なかった。
 ボーっと外の景色を眺めていたら、いきなり声をかけられた。
 「オッサン、たこ焼き1個ちょうだい」
 誰がオッサンや失礼な、ワシはまだ20代やで。こう切り返そうと客の顔を見た瞬間、今までの憂鬱が何処かに吹き飛んでしまった。
 黒い長髪にいつも眠たそうに見える細い目、そして口に銜えた葉っぱ。そして聞き覚えのある声。
 この男の名前は九十九宇宙。幼稚園から中学、大学と一緒になった仲であった。親友と言うよりかは腐れ縁と呼んだ方がしっくりくる、そんな旧友であった。
 九十九もまた野球に青春を捧げた戦友である。高校時代は同じ地区の優勝候補・あかつき大付属でレギュラーを任され、大学時代はチームメイトとして共に戦った。
 打つ方では九十九が、投げる方では阿畑が活躍した結果、2回も大学野球のリーグ戦優勝を経験することが出来た。互いにその実力は認め合うライバルだった。
 「誰がオッサンや」
 ちょっと怒った口振りで話したが、本気で怒っている訳ではない。そんなこと相手もわかっていた。意識していなくて顔が笑っていた。
 大学を卒業するまでは毎日のように会っていたが、プロの世界に飛び込んでからはこっちが休みの時は相手に都合があり、相手から誘われてもこちらが試合日だったりと縁がなかった。
 まさかこんなところで再会するなんて夢にも思っていなかった。夢にも出てこないが。
 もう売り上げが見込めないので、今日はこのまま店じまいすることにした。そして作り置きしてあるたこ焼きは再会の記念にご馳走してあげた。
 ワイは一応客やで、客にこんな冷めたたこ焼き出したらアカンやろと九十九はボヤいていたが、タダなんやから文句言うなと言ったら九十九は何も言い返さなくなった。

 ここまで歩いてきたという九十九を途中まで送っていくことにした。話は自然と大学を出てからの話題に花が咲いた。
 特に阿畑がプロに入ってからのことに関しては話題が豊富だった。プロ野球という特別な環境にいた者の話は滅多に聞けないから、話に困ることがない。
 真面目な話からバカ話、九十九が相手だから話せる話題まで色々と口から出てきた。九十九は阿畑から繰り出されるマシンガントークに飽きることはなかった。
 「いつの間に辞めていたんや、次のシーズンにお前の名前なくて驚いたで」
 突然の引退だったために周囲の人々は何かあったのだろうと敢えて触れていなかったが、九十九は何の躊躇もなく聞いてきた。だが、阿畑は特に気にする様子もなかった。
 「失礼な!ちゃんとマスコミがぎょうさんおる前で会見もしたで」
 阿畑が引退会見をした当日、キャットハンズで活躍していた早川あおいが電撃引退を発表したため、テレビのスポーツニュースや新聞紙面といったマスコミはそちらを大々的に報道していた。
 早川あおいは初の女性プロ野球選手として第一線で活躍しており、女子が野球に興味を持つなど野球の裾野を広げたという意味でも大きな功績を残していた。それに加えて早川には阿畑にはない華やかさも兼ね備えていた。
 電撃引退がかぶるという異常事態のせいで阿畑の扱いは酷いものであった。スポーツニュースではあおいの文字が躍る一方で阿畑のあの字も出ない有様。翌日のスポーツ紙は小さい記事で掲載してくれているだけ救われたが、こんな扱いになんだか悲しい気持ちになった。
 どうも最後の最後までツキが向いて来なかった。大きな怪我もなく健康な体で引退できたことは幸せなことなのかも知れないが。
 「そんなことよりもお前、今は何やっとるん?」
 「あぁ、会社員やっとったんやけど」
 やっとった?普通だと「会社員や」で止まるはずなのに何故か九十九は過去形で言葉を濁した。
 疑問に思った阿畑の顔を見て、九十九はしてやったりの顔をして話を続けた。くそ、このしたり顔が気に食わない。
 「今度から独立リーグの選手になるんや」
 はぁ!?と思わず口から漏れてしまった。
 近年の野球熱の高まりを受けて、地方では独立リーグを設置する地域が増えてきた。これまで高校・大学・社会人という3つが主なプロ野球に入る方法だったが、独立リーグという登竜門が増えたことでプロに入る可能性が広がったのだ。
 勿論その技術は草野球レベルという訳ではない。プロを目指す人や球団から戦力外になって再起をかける人が集っているのだからレベルは相当高い。社会人のように仕事よりも野球に比重を置いているので野球に集中する環境にある。
 まだ独立リーグは日本に出来たばかりなので馴染みは薄く認知度も低いが、地元に密着した球団なので出来たばかりなのに根強いファンが大勢いる。野球というスポーツを知ってもらうためにはプラスに働くので、プロ野球にも悪い話ではなかった。
 そんな中に、九十九は挑んでいくのか。驚いて開いた口が塞がらないままの阿畑を放っておいて九十九はさらに続けた。
 「なんか普通に会社員しているのも悪くはないんやけど、なんか退屈でなぁ。高校時代や大学でお前と野球やっとった頃の方がもっと生き生きしとったような気がしてならんのや。やから、この前とある球団の入団テスト受けたらこれが見事受かってん」
 確かに九十九は昔と変わっていなかった。腕からちらりと見える筋肉はプクッと膨れているし、腿も随分と引き締まっているようであった。
 たこ焼きばかり食べて少し運動不足気味な阿畑とは大違いである。茜からは「最近お腹が出てきたでぇ」と言われて少しショックだったことをふと思い出した。
 「お前生活はどうするんや!」
 「ワイはまだ一人身やし、なんとかなるやろ。それに、ワイは今野球がやりたいんや」
 昨今ブームのように発足した地方の独立リーグだが、採算が取れているという球団は残念ながら数えるくらいである。リーグ運営自体も赤字であると考えた方がいい。
 その理由は先述した知名度の低さや歴史の浅さがある。球団ファンも少ないので試合を開催しても儲けが出ない上にスポンサーもついてないので入るモノが圧倒的に少ない。
 そのため球団から支払われる給料も満足できる額とはほど遠い金額になっている。切羽詰まった球団の場合不払いなんて事態も発生してしまうくらい深刻である。選手が生活のためにアルバイトをして生計を立てる、なんて話もあるくらいだ。
 まぁ独身の九十九だったらどうにかやっていけるだろう。飄々としてるから生活に困るようなことはないだろうし、金に困らないよう工面しているはずだ。
 ……金に困ってウチに来られても困るが。こっちは結婚している上に子どもまでいるのだから、返ってくるか保障のない金の余裕など全くない。幾らあっても足りないくらいだ。
 それに、隣にいる九十九の眼は曇っていなかった。むしろ輝いていた。そんな輝いている九十九が眩しく見えるのは、自分の夢に向かって一生懸命だからだろう。
 「ぉ、ここで停めてくれ」
 九十九が指定したのは河原であった。だが、九十九の家はこんな場所ではない。幼い頃から一緒に遊んでいたから実家の位置も大体知っていたし、車の中では今でも実家住まいだと言っていた。
 何のために降りたのか、と思っていると九十九から「お前も降りや」と言ってきた。何がしたいのか把握出来ないまま車を邪魔にならない場所に停めて九十九の後をついていく。
 この河川敷は意外と広くて、ちょっと大人の草野球には手狭な簡易グラウンドを2つも設けることが出来るくらいの広さがあった。これくらい広いからということでゴルフの練習をする人が出てきて社会問題として取り上げられるようになったが。
 雨は上がったが、まだ空には分厚くどす黒いねずみ色した雲が一面覆っていた。いつまた雨が降りだすかわからない。
 空を見上げながらこれは早く帰らんとずぶ濡れになるなぁと考えていた。九十九は簡易グラウンドの隅にある用具庫へ直行して中でゴソゴソと物色している。
 鍵はどうしたんだと九十九に問い質す前に九十九はグラブとボールを持ってきて、はいこれと言って阿畑に半ば強引に手渡した。
 「なんやこれ?」
 「ボールとグラブや。見ればわかるやろ、それくらい。お前そんなこともわからなくなってしもうたんか?」
 いつもの調子で飄々と話す九十九。自分もグラブをはめてキャッチボールをする気は満々である。まぁ、こっちも久しぶりに野球に触れる機会が出来て悪い気はしない。
 相手のペースに流されるままキャッチボールを始めた。軽く投げていたが、今日はなんだか肩の調子が良いみたいだ。
 肩が出来上がるにつれて九十九との距離もだんだん離れていった。最終的には一塁ベースと三塁ベースくらいの間隔まで離れてキャッチボールをしていた。おかげで相手の声が聞き取りづらくて困った。
 大分体が温まってきたら、突然九十九はキャッチボールを一方的にやめてしまった。そして再び用具庫に戻ると今度はバットとヘルメットを持ち出してきて、そのままバッターボックスの方へと歩いていった。
 一体何が始まるのだろうかと静観していたら、九十九から声が飛んできた。
 「何をカカシみたいにボーっと突っ立っとるんや、お前の場所はそこやないやろ」
 「へ?」
 何を言いたいのか理解できないでいると、次の言葉が飛んできた。
 「勝負や、阿畑」
 九十九の眼は先程まで死んだ魚のような目から勝負師の眼に変貌していた。声も普段のちゃらんぽらんとした(?)言い方から一変している。
 いつものように冗談で言っているのかと最初は思っていたが、とてもそうだとは思えない。さっきまでアホな話で一緒に笑っていた九十九はそこにはいなかった。
 「別に怪我して辞めたんやないやろ、阿畑。そんなヤツがまともにあんな距離を勢いあるボールを投げれるとは思えへん」
 「……」
 「それに、今でも野球好きなんやろ?車の中にあったボールが証拠や」
 商売道具であるたこ焼き器や具材を保管しておくための簡易式冷蔵庫、それに売上帳や売上金の保管金庫などといった物でワゴン車の中は溢れかえっていた。助手席も一応人が座れる状態だったが、九十九が乗れるスペースを確保するために後ろに荷物を片付けなければならかった。
 だが、そんな雑然とした中でダッシュボードの中には薄汚れたボールが一球しまってあった。
 プロ野球で使われているボールではなく、もっと粗末で安価な代物である。それは高校生が練習に使うボールであった。九十九が在籍していたあかつき大学付属高校は野球部にかけるお金が多かったので練習機材も豊富でボールもそれなりに質の良い物を使っていたが、阿畑が在籍していたそよ風高校はそういう訳にはいかない。ボール一つも無駄には出来なかったはずだ。
 高校時代の苦労を忘れないように、というのが一つある。だが他にもう一つ理由があるように九十九は思った。
 まだまだ野球に対する未練が残っている証拠なのではないか。九十九の目からはそう映った。そうじゃないとこんなところに野球のボールを置いておくはずがない、と。
 今でも密かにボールを握って遊んでいるのではないか、だからボールが少し汚れているのではないか、と。
 「…… ……」
 目敏く見つけやがって、という気持ちにはなれなかった。自分の本当の気持ちを見透かされているようで怒る気にならない。


 確かに九十九の推理は当たっていた。阿畑は本当に投げられなくなって野球を引退した訳ではなかった。
 電撃引退を発表する約半年前。練習中に阿畑は突如自分の体に若干の違和感を覚えた。
 いつものように投げ込みをしていたが、なんとなく自分の体がいつもと違うように感じた。どこかに痛みがある訳でもないけれど、やっぱり何かおかしかった。
 だが阿畑はそのことを周囲に伝えることはしなかった。チームは優勝争いをしている真っ最中で、とても言い出せるような雰囲気ではなかった。
 いつもよりも投げ込む球数を少なくして試合に臨んだ。試合前の調整は各々に任されているので、阿畑の異変に気付く者は誰もいなかった。そして2-1とリードして迎えた8回、阿畑はマウンドに上がった。
 普段通りブルペンで肩を温めて、マウンドでも同じく投球練習。試合前の練習にあった違和感はこの時は感じなかった。
 ここのところ連投で疲れていたのかも知れない。阿畑はそう考えた。今はむしろ目の前の試合に集中しなければならない。
 この日もアバタボール60号を中心とした組み立てで簡単に2アウトをとる。変化球主体で的を絞らせず凡打に打ち取る投球がこの日も出来ていた。
 だが、アバタボールは不規則な変化が売りの球。次の打者にはアバタボールが要所でストライクゾーンに入らないでフォアボールを与えてしまう。
 ベンチは阿畑が2アウトからの四球に対しても特に気にしている様子はなかった。やや四球が多いことは周知の事実であり、ランナーを背負っても抑えてくれるという信頼がベンチにはあった。
 次の打者は長打はないがバットコントロールが良い選手だった。足はそんなに早くない上に右打ちなので内野安打の心配もないが、2ストライクに追い込まれるとファウルで粘って簡単に倒れない。おまけに選球眼もいいので際どいボールに手を出してくれない。
 初球には内角ギリギリいっぱいに入るシュートで、次の球はど真ん中に勢いのある直球に面食らって手が出せず2ストライク。追い込んだが、気が抜けない。
 2球続けてアバタボールをストライクギリギリのところに投げたが上手くカットされてカウント変わらず。バットを短く持っていることから一球でも多く稼ごうという魂胆か。
 それならどっちが先に根を上げるかの根競べやな。意を決して、阿畑が大きく振りかぶって足を踏み出した瞬間―――
 ・・・ピリッ・・・
 先程の違和感が右腕に起こった。痛い訳でもないけれど、何かが右腕に乗り移っているような、この感覚。
 腕を振り切ったつもりだったが、白球は自分が思っていたような場所に向かって飛んでいかない。変化をしないボールはふわりとバットに吸い付くように進んでいく。
 絶好球とばかりにバッターはその白球を振り抜くと、清清しいくらいに気持ちいい音を出して打球が跳んでいく。
 嗚呼アカン、これはヤバイわぁ。脳裏に同点のランナーがホームインする光景がフラッシュバックされる。すごすごとベンチに戻る時に浴びせられるファンからの野次と罵声。
 しかし阿畑が次に耳にしたのは時には球場全体で湧き上がった感嘆と大歓声だった。
 思いっきり引っ張った打球にサードの番堂が必死のダイビングキャッチ。強烈なライナーは番堂のグラブに見事収まり、3アウト。球場はこのファインプレーに歓喜の声を上げたのだ。
 このファインプレーで見事失点0で切り抜けて一気にチームのムードは高まったが、阿畑一人だけは憂鬱な表情を浮かべていた。
 いつあの違和感が起きるのか、もしもこの違和感が今後ずっと続いたらどうしようか、これでチームに迷惑をかけてしまうのではないか。不安が尽きない上にこの先のことを考えると怖くて仕方がない。
 この後もビクビクといつ起こるかわからない違和感に怯えながら毎日を過ごした。唯一の救いは新魔球開発で、この時ばかりは腕に取り付かれるような違和感が起きなかった。
 そしてチームは見事リーグ優勝を果たし、阿畑も新魔球が無事完成。一時はどうなるかと思っていた違和感もシーズンが終わると同時に憑き物が取れたかのように発生しなくなった。
 密かにチーム関係者や家族、それに茜には知られないように極秘に検査を受けたが、不思議なことに異常は出なかった。何箇所か場所を変えて同じように検査をしたが、結果は同じであった。
 だが翌年のキャンプから野球の始まりと共に違和感が復活した。それもシーズンが近づくにつれて発生する確率が高くなり、開幕してからは必ず1試合に1回は右腕が取り付かれるようになってしまった。棒球になるのを恐れて、去年開発した新魔球のお披露目は出来なかった。
 そのまま憑き物から逃げるように阿畑は電撃引退を決意。生涯の伴侶である茜に全てを打ち明けて相談すると「やっちゃんのやりたいようにすればえぇやん」と言ってくれたことが背中を押してくれた。
 だが、野球に未練は残っていた。不本意な形で引退に追い込まれたことにまだ決着がついていなかった。その気持ちの表れが、常に見える場所にボールが置いてあることだった。


 マウンドに上がって肩をグルグルと廻した。あのピリッとしたアレはない。肘も調子が良い。ボールもしっかり握れている。
 左打席には既に九十九が入っている。ブルンブルンとコンパクトにバットを振っていることから、トレーニングを欠かしていないことが伺える。
 それに対してこちらは久しぶりにキャッチボールをしただけで、準備不足は否めない。ボールに触っていても投げていた訳ではないからだ。元プロ野球選手とは言っても、どこまで通用するかは未知数である。
 だけど、売られた喧嘩は買わないと男が廃る。ここまでお膳立てされた以上、逃げることは許されない。
 九十九も準備が終わったみたいで、こちらの準備をただ静かにバッターボックスで待っている。
 「あぁ、言い忘れとった。ルール確認や」
 久しく忘れていたボールの感触を掌に馴染ませるように握っていると、九十九から提案があった。
 「わかりやすく一打席勝負でえぇやろ?勿論3ストライクで三振、4ボールで四球。あとは……際どい判定は全てストライクでえぇわ」
 「えぇんか?それやとそっちが不利やない?」
普通なら審判が公正公平なジャッジによってストライク・ボールを判定するが、文字通りタイマンなので審判は存在しない。当然際どいコースの判定は揉め事の原因になる。
 その原因を取り除くためにストライクかボールか区別がつきにくいコースはストライクとする、と九十九が提案してきた。だが、これは打者にとっては極めて不利な条件であった。
 いくらブランクがあるとは言っても流石にこの申し出は受け取りにくかった。阿畑は改めて問い返した。
 九十九は自信たっぷりな笑みを口元に浮かべ、「えぇよ」とはっきり自分に不利な条件を呑んだ。
 その根拠が何処にあるのか知らないが、不敵に笑う九十九が不気味に見えた。
 そして肝心の勝敗の条件の確認は、阿畑が“九十九から三振を取る”か“凡打・フライに打ち取る”、九十九は“ヒット性の当たりを打つ”に決まった。判定が難しい打球は全てアウトにするとここでも九十九が大幅に譲歩した。
 阿畑は静かに瞳を閉じて集中した。この感覚はいつ以来だろうか。
 スーッと息を吐いて、ゆっくりと瞼を上げる。ただ一点のみを見つめて集中している九十九の姿が目に飛び込んできた。
 気持ちが落ち着いてきた頃に大きく腕を振りかぶる。それに呼応して九十九も脇を締めて阿畑が投げるのを迎え撃つ。
 注目の第一球。
 ぎこちなさを一切感じられない阿畑の右腕から放たれた白球は、やや緩やかなスピードでホームベースに向かっていく。九十九は右足を地面にコツコツさせてタイミングを図っているようだった。
 そして白球はホームベースの手前でふらふらとブレ始める。揺れながら落ちてくるボールに対応しようとするが、その時点で九十九の体の軸はブレてしまっていた。
 体の軸がしっかり据えられていないと全身のパワーがバットに上手く伝わらない。そしてボールの変化を目で追おうとしているのでバットを何処に振ればいいのか判断しかねている。
 こうなると当てに行っているのか完璧に捉えようとしているのか定かではない中途半端なスイングとなってしまう。当然バットにボールは当たらない。1ストライク。
 「これがアバタボールか。前よりも精度が上がっとるやんけ」
 自分の後ろに転がっていったボールを拾って阿畑に投げる。キャッチャーがいないからボールを受け止めてくれる人もいないし、そのボールをピッチャーの元に返してあげる役目の人もいない。
 「当然やん。ワイかて大学時代のままやったらプロで通用せんわ」
 「そうやな〜。けど、ワイかて大学時代のままやと思っていたら大間違いやで」
 グッとバットを握りなおす九十九。ヘルメットからちらりと覗いたその眼は真剣そのものであった。
 ボールも阿畑のグラブに返ってきたので第2球。
 今度もまた阿畑は先程と同じように投球動作に入る。セットポジションになって一旦間を置いてから、右足に重心を乗せて腕をしならせて一気に投げる。放たれたボールは1球目とよく似た軌道を辿っている。
 それに対して九十九はバットをやや小刻みにクルクルと廻している。さっきまでとは違うタイミングの取り方だ。
 ここでも阿畑が投げたのはアバタボールであった。ボールは不規則に変化しながらホームベースへと進んでいく。
 だが、九十九は前の球とは明らかに違っていた。1球目はボールが来るのを待ちきれずに体全体が前に出てしまい軸がブレていたが、今回はしっかりと軸足が地面についていた。踏み込みも強いし、なによりバットに迷いがなかった。
 肘をコンパクトに畳んでボールとの距離を調整し、しっかりと振り抜いた。アウトコース低めに沈んでいく“アバタボール”を完璧に捉えた。カーンと聞いている人がスカッとするような、小気味良い音を放った。
 バッターボックスの九十九は表情を変えず、マウンド上の阿畑は度肝を抜かれたような顔をして弾き返された白球の行方を追った。
 その行方を見守る二人に、言葉も行動もいらなかった。
 打球は左翼線のやや右にグングン伸びていき、フェンス手前で着地した。打球はファウルにならず、失速することもなかった。フェンスに当たったボールは、誰もいないグラウンドに転がった。
 綺麗な流し打ちであった。

 何かを失った訳ではない。何も賭けていない、単純な勝負だった。
 しかし、この二人には得た者と失った者に分かれていた。
 九十九は打球が完全に止まったのを確認すると、「ふん」と呟いただけで用具庫へと背中を向けた。その表情はどこか物足りない様子に見えた。
 ヘルメットと使ったバットを用具庫へ適当に投げ入れると、マウンドに佇んでいる阿畑に一瞥しただけでそのままグラウンドから去っていった。
 阿畑は九十九が帰ってから暫くはその場を動くことが出来なかった。白いボールが一球だけある、やや草が生えているレフト方向を一点に見つめていた。
 ポツポツと落ちてきた幾つかの雨粒は、やがて数え切れない筋となって大地に降り注いだ。辺りが白く霞むくらいに激しい雨に打たれた阿畑は、一人涙しているのかも知れない。
 しかしその涙は空から降り注ぐ雨のものなのか、瞳から溢れ出したものなのか区別がつかなかった。雨粒も涙も混ざってしまえば誰にもわからないのだから。



 夜遅く、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。もう一回ピンポーンと同じ音がマンションの部屋に響いた。茜はそれがやっちゃんの帰宅の合図だとわかった。
 このアパートに引っ越したのは数年前、まだ阿畑が現役生活を送っていた頃の話である。
 阿畑家待望の第一子・きよしを授かり、これまで住んでいたアパートでは3人で暮らすには手狭になると考えて引っ越すことを決意したのだ。
 茜が地元で物件を探していたら、近隣の物件よりも家賃が安くて間取りも広い部屋を見つけてきてくれた。建ってから少し時間が経過しているので多少汚れていたりするが、今いる部屋は仮住まいと割り切っていた。その内お金が貯まったら一軒家に引っ越す計画を立てていた。
 時間が遅い時間に帰る時は2回チャイムを鳴らすのがルールだった。既にきよしも父が帰ってくるか待っている内に寝てしまった。
 茜もやっちゃんが夕方から激しくなってきた雨に濡れていないか心配していた。朝から不安定な空模様だったから売り上げはそんなに期待していなかったが、何の連絡もないのが不安だった。
 無事にチャイムの合図が鳴ったので無事に帰ってきたことにホッとして、玄関に向かった。
 チェーンを外して、鍵を開けて、とびっきりの笑顔に明るい声で「おかえり」迎えた―――のだが、目の前に現れたずぶ濡れになって俯いているやっちゃんの姿だった。
 一体何があったのかわからないが、濡れたままだと風邪を引いてしまう。茜は急いでタオルを数枚持ってきてやっちゃんに手渡した。
 いつもなら何かあっても必ず笑顔で振舞ってくれるやっちゃんなのに、何故今日はこんなに暗いのだろうか。それに(時々煩わしく感じることもあるけれど)多弁なやっちゃんが一言も喋らない。
 茜がやっちゃんの手を引くようにリビングに連れて行くと、崩れ落ちるようにソファに座り込んだ。

 「どないしたん?」
 すっかり沈み込んでしまっている様子のやっちゃんに問いかけるが、返事はない。
 その様子からこりゃ相当売上げがなかったんだなと最初は思ったが、よくよく考えてみるとそういう時は帰って来て一番に「すまん!今日は稼げなんだ!」と私を拝むように手を合わせてくるはずだ。
 だったら別の理由……でも何があったんだろう。
 やっちゃんこと阿畑は目の前に立っている茜をチラリと見て、何か思うことがあるようであった。
 「茜……」と消え入りそうな声を出した。聞き漏らすことなく茜が間髪入れずに返事をすると、力ない声で「座ってくれんか」と言った。茜は黙って阿畑の隣に座る。
 「実はな、今日、野球やってん」
 野球。茜は久しくその単語をやっちゃんの口から聞いていないことに今更ながら気が付いた。
 やっちゃんが突然野球選手を引退するという話を聞いた時は正直驚いた。まだまだ引退するような年齢じゃないし、これからガンガン稼いでもらわないと困ると冗談半分で話をしていた。
 だがその話をしていた時のやっちゃんがあまりにも怯えた目をしていたから、こちらから聞きたいことも聞けなかったし、こちらが思っていることを何も言い出せなかった。
 だから何で野球をやめたいのかということも聞いていなかった。周囲からそのことについて聞かれても「そっとしておいて」とだけ言うに留めていた。野球の話題もなるべく触れないように心がけてきた。
 「怖かってん」
 その真相が、今本人の口から、ポツリポツリと雨漏りで落ちてくる水滴のように少しずつ語り始めた。
 「ワイ、怖かったんや。いつ自分の体が壊れるのか、この腕がある日突然爆発するんやないか、って。思い始めたら怖くて、怖くて、とても野球に集中できるような状態じゃなかってん。仕舞には夜寝ている時に自分の体が壊れる夢まで見てしまうようになったんや。こうなったらもうやめるしかない、って思ったんや」
 「……」
 「でもな、やっぱワイって野球が好っきやねん。とてもとても好きやねん。どんだけ怖くても、あんなに楽しくて、面白くて、ワクワクして、夢中になれることなんか他にあらへん」
 いつの間にか涙が頬を伝っていた。喋る声も震えている。こんな恥ずかしい姿を見られたくないのに、体は言うことを聞いてくれない。
 その様子にやっちゃんの手をそっと握り締めながら、茜は静かにやっちゃんの話に耳を傾けていた。その姿はまるで懺悔を聞いている聖母のようであった。
 「ワイ、どうしたらえぇんやろうな……わからんゎ」
 「……」
 鼻水がグズグズと溢れ出てきた。乾いたタオルで何回も顔を拭ったはずなのにまた顔が濡れてきた。惨めな格好やな、と自分で思った。
 たこ焼き屋をやり始めた頃にも苦労して何度か茜に愚痴をこぼしてきた。その時はアルコール片手に半分冗談交じりに話していたので、茜も笑って聞いていた。
 そして最後には笑顔で「そんなしょうもないことで悩んどらんと稼いで来い!」と一喝されてお開きになる。言いたい事をたっぷりぶつけてストレス解消、翌日からの仕事にも前向きに取り組んでいけた。
 心の中で茜に聞いて貰いたかったのかも知れない。自分の心の中の葛藤を。少しでも苦しみから逃れたかったのかも知れない。
 周囲にも漏らしたことのない秘密を、堪えきれずに感情に任せるまま吐き出した。唯一心安らぐ相手に。
 「……何をしょうもないことで悩んどるんや」
 隣に座っている茜が今まで耳にしたことのないような低い声でボソッと呟いたことに顔を上げると、すかさず茜の右拳が阿畑の頬に飛んできた。思いがけない展開に(ギャグでもなんでもなく)阿畑は床に吹っ飛ばされた。
 次に顔を上げた時には眉がつり上がって般若の面をした茜の姿があった。
 「人が心配して聞いていたら、何をネチネチと女々しいことを言っているんだい。聞いていて損したわ」
 心の底から怒っているご様子であった。こんな茜を見たこともない。こんな般若が潜んでいるなんて全く思わなかった。
 鬼気迫る光景に「スミマセン」と無意識に言ってしまうくらいに恐縮してしまった。いつもの関係から完全に形勢逆転している。今にも胸倉を掴んでくるような雰囲気であった。
 この般若モードの茜は、さらに語気を強めた。
 「アンタ、野球好きなんやろ?」
 「ハイ」
 「だったらトコトンやればえぇやん」
 「ぇ?」
 虚を突かれて茫然とする阿畑に茜はさらに続けた。
 「アンタが野球好きなんやったらトコトンやればえぇやん。トコトンやって、やりたいことがなくなったらまた新しいことを考えればいいんと違う?今のままやったら中途半端すぎて悔い残るで」
 「でもたこ焼き屋は……」
 「そんなんえぇって、私がやる。元々たこ焼き屋やろうって誘ったんウチの方やし、きよしも保育園に行っているから問題ないし」
 「だって……」
 「『でも』も『だって』もない!」
 反論の糸口も見出せない。と言うか、反論出来る立場にはないようであった。まるで叱りつけられている子どものように思えてきた。
 しかし女性とは子どもを持つと強くなると聞くが、ここまで強くなるなんて想像も出来なかった。元々気が強いことは小さい頃からの付き合いでわかっていたけれど、ここまでとはわからなかった。
 最後に「わかったか!」と聞かれてただボーっとしていると、今度は「返事は!」と強く迫られて「ハイ」と思わず言ってしまった。多分反射的に背筋をピンと伸ばしていたけれど、少し頼りない返事だったかも知れない。
 その返事を聞いて、茜は般若から普通の顔に戻った。
 そして再び心配そうな表情を浮かべ、阿畑の体をギュッと静かに抱き寄せた。
 「……無理したらアカンで。ダメやったらまたたこ焼き屋やればえぇんやし、ね?」
 「……あぁ」
 少し頑張りすぎていたのかも知れない。茜の腕の中に甘えることにした。
 雨は知らない内に上がっていた。二人だけの夜に、邪魔をするような者はなかった。



 数週間後。九十九は独立リーグでプレイしていた。
 出来立てホヤホヤなチームだけあって、戦力も資金力も豊富とは到底言えなかった。給料も会社員時代から比べると半分以下にまで激減したが、お金にに代えがたい物がここにはあった。
 ここには夢があった。希望があった。それを追い求める環境もある。それだけで九十九は十分だった。
 それに加えて九十九には一つの自信があった。それは、あの日元プロ野球選手である阿畑に勝ったことだ。
 それまで漠然と心の中を包んでいた新生活に対する不安や迷いといったモヤモヤが、あの日からすっぱりと消えてしまったのである。出会いが偶然だったとは言え、このことが九十九の独立リーグ入りに背中を押したことは間違いない。
 そのお陰か、試合でも活躍するようになって、チラホラと見かけるスカウトの目に留まるようになってきた。スタンドでしきりに観察しているスカウトの目が九十九に向いているような気がしたからだ。
 実際にチームにも九十九のことについて問い合わせがあると聞いている。あかつき大付属時代にも、近代学院大学時代にもなかったことである。
 今、夢に向かって充実した日々を過ごせていることに違いはなかった。
 そんなある日のことだった。
 九十九に一通の手紙が届いたのである。
 封筒にはデカデカと大きく『果たし状』と書かれていた。誰の目から見てもこれは果たし状なんだろうが、誰かのイタズラなんじゃないかと思えなくもない。
 そして間違いなく宛名は自分だった。だが差出人の名前は封筒のどこにも書かれてなかった。誰が出したのかはすぐにわかるのだが。
 筆跡が九十九の知っている人のものにソックリだからだ。こんな個性的な筆の使い方をしてるヤツなんて一人しかいないやろ、と。
 一応封筒を透かしてみると、手紙が一枚入っているようだった。透かしてみるだけでも書いてある文字が見えそうだったが、流石に見えるはずがなかった。封筒の頭を無造作にビリビリと破いて中の手紙を拝見する。
 そこにはただ日時と場所しか書かれていなかった。場所は先日の河川敷グラウンドで、日時は2日後の17時。コイツ、まさか郵便で送ってコッチに着くまでの時間考えていなかったのではないかと思った。
 幸い2日後は休養日なので行けないこともないが、果たして行って何になるのだろうか。今聞きたくても話してくれないような気がした。だってコイツはこういう男だから。
 (なぁ、阿畑……)



 果たし状を受け取ってから2日後。英語で書くと2days later.特に意味もないけれど。
 九十九は貴重な休日を潰して地元に帰ってきた。野球道具は一応バットだけ持ってきたが、これだけ持って公共交通機関使うのも周囲の視線が痛くて痛くて仕方がない。
 あんな果たし状を貰って勝負しに帰るなんてどんだけ暇やねん、と自分にツッコミを入れたくなった。労力のかける方向が違うやろ、と。
 決戦として指定された河川敷グラウンドを覗いてみると、マウンドに一人周囲とは浮いている男が立っていた。
 背番号01と書かれた極悪久やんきーずのユニフォームを身に纏い、威風堂々と立ち尽くしているこの男。というか背中にABATAって書いてあるから丸わかりやんけ。あのアホは何をやっているんだ。
 九十九がグラウンドに足を踏み入れると阿畑は「遅い!」と一喝した。遅いも何も30分程早く到着したのだが、ここは場の雰囲気を察して黙っておく。むしろ相手の方が時間に遅れても文句は言えない立場のはずだが。
 「なんやの?こんなところ呼び出して」
 「勝負や!」
 胸を張って、はっきりと宣言した。宣言するも何も果たし状が届いた段階からなんとなくやることはわかっていたが。
 一方の阿畑は昔着ていたユニフォームに袖を通していることからこの戦いにかける本気度が伺い知れる。
 茜に活を入れられてからはスポーツジムに通って鈍っていた体を引き締め、鏡の前で投球フォームをチェックして変な癖がついていないか入念に研究した。勿論投げ込みもネットを相棒にして行っている。
 体を絞った成果がすぐに出てきた。トレーニング初期では130km/hにも届かなかった球速が、140km/hを時々超えるくらいにまで戻ってきた。変化球の精度も、制球も、キレも、現役時代に大分近づいた。
 『変化球を生かすには直球が欠かせない』が阿畑が思っている理論である。どんなに良い変化球を持っていても、直球がなければ簡単に攻略されてしまう。緩い球ばかり投げていては慣れるのが早いし、変化球自体も本来の実力を発揮できない。
 それだけに球速が戻ってきたことは大きな成果であった。やはり本格的にリスタートを切るためには時間を使って調整する必要があった。
 流石に体を引き締めた後には今まで履いていたズボンのベルトの穴が2つも後ろに下がったことから、腹が出ていたのだなと痛感させられた。こんな体で勝負を受けた自分が負けたのは当然だと思った。
 「もしお前が勝ったら、ウチの特製“デラたこ”を1年間無料で食べ放題にしたる!」
 九十九は口笛をヒュゥと鳴らした。
 関西人の血が流れている(?)九十九にとって、この“デラたこ”は高校時代から食べ慣れてきた故郷の味と言える。それが1年間無料で食べ放題と言われて悪い気はしない。
 一方負ければ採算が到底取れないことは想像がついた。大きさの割に値段が安いので粗利益が薄いため、儲けが少ないことは想像ができる。それなのに1年間食べ放題なんかされたら大赤字間違いなしである。
 「で、こっちが負けたらどないするん?」
 今日九十九が持ってきたのはバットを1本入れた肩掛けのバッグと、数千円しか入っていない財布、それにここまで来る途中にそこら辺で拾った口に銜えている葉っぱくらいである。
 阿畑は大きく手を横に振った。
 「いらん、いらん。何もいらんって」
 大したものを持っていない者から巻き上げる気などさらさらなかった。ただ、阿畑は取り返すだけの戦いである。
 何を奪われたのか。前回の対戦では何も取っていないが、阿畑には失ってはいけないものを奪われてしまった。
 九十九ははたと気付いて「そんなんやったら」と言って引き下がった。確かに九十九は阿畑から得たものがあったし、それを易々と返還する気も全くなかった。
 返してほしければ力づくで奪い返してみな。背中でそう語って九十九は早々にバッターボックスへと入った。
 太陽は西へ西へと進むにつれて地平線に近づいている。まだまだ明るいが、その内辺りは茜色に染まるだろう。
 河川敷に人の影はまばらである。犬の散歩をしている小学生、ジョギングをしていると思われる女性、ふらふらと歩いている若者。誰もグラウンドなんかに目が向かない。
 「で、今回はどないするん?」
 訊ねてきたのはルールのことであった。前回は際どい判定は全て阿畑寄りの判定というハンディを背負いながら九十九は見事に勝った。
 しかし阿畑はここでさらなる提案を持ちかける。
 「お前がストライクやと思ったボールだけストライク、あとは全部ボール。フェアグラウンドにボールが落ちたらコッチの負けでえぇわ」
 かなり大胆な提案だ。ストライクゾーンに入っていたとしても九十九が当たらないと判断すればボールになってしまう。如何にして打者に打たせないように騙すかという点で勝負している投手からしてみれば大変な問題である。
 それに加えてボールをグラウンドに着けないという条件も付け加えている。阿畑が勝つためには相当厳しいハンディとなっている。
 これに対して九十九は異論を挟まなかった。相手から提案されたことだから特に気に入らないという訳でもないし、相手もこれだけ自分の首を絞めていても勝てるという見込みがあるから言ってきたのだろう。
 ルールがやや変わった以外は、ほぼ同じコンディション。場所も人数も変わっていない。大きく変わったのは阿畑の格好くらいか。
 バッターボックスとマウンドで対峙する阿畑と九十九。もう二人に言葉は要らない。
 注目の初球。
 (さて、どんな手で来るのかな)と打席で相手の思考を読もうとする九十九。野球というスポーツはその性質上投手が球を投げなければ始まらないので自然と打者が受身になりがちである。
 ただ待つのではなく、投げてくる間に相手がどのような狙いなのかを読む力と相手に流されることなく自分の意思を貫き通す力が打者には求められる。ただ来た球を打つだけでは成功しない。
 ……来た球を反射的に打つ打者もいることは確かだが。それぞれプレースタイルは違うので一概には言えないが、九十九は天性の打撃センスを持っている訳ではないので、読みと開き直りで勝負していかなければいけなかった。
 前の時はアバタボールのごり押しだったのでタイミングさえ掴めればある程度攻略するのは簡単だと思っていたが、果たして今回はそんなに易々と勝たせてくれそうにはない。
 阿畑はゆっくりと振りかぶり、しっかりタメを入れた後に自らの右腕をしならせて白球を放った。
 腕の振りは前と同じ。やや気の抜けたような速さで緩い放物線を描いている軌道。恐らくこれは―――“アバタボール”。
 踏み込みの右足をそっと上げて、ボールがブレるのを待つ。あとは変化したところを迷いなく叩く。変化し始めたら大体落ちる方向がわかるので、ここはコンパクトかつ柔軟な打撃で仕留める。
 ブレるのを、ブレるのをじっと待つ。待つ。待つ……ブレない?
 気が付いたら勝手にバットが出ていた。辛うじてバットに当てただけでボールは後ろに飛んでいった。飛んだというより跳ねたという方が適切かも知れない。
 コースはど真ん中で力が全然入っていない緩いボール。打者にしてみれば一番打ちやすい条件である。これを皆甘い球だとか絶好球と呼ぶが、九十九はこの球を打てなかった。
 「どないしたん?チャンスボールやったはずやで」
 阿畑がしてやったりの顔で九十九を見た。それに対して阿畑の満面の笑みに苦々しそうな九十九は黙り込んでいる。
 何故打てなかったのか。それはアバタボールを意識する余りにボールを見定めようとギリギリまで待っていたため、この打ちやすいボールに手が出なかったのである。
 逆に言えば簡単に捉えられるボールだけに阿畑としてみればリスクは非常に大きかった。相手の意表を突く奇策となるか単にたこ焼き1年間無料を献上するだけの愚策になるかの大博打であったのだ。
 だが、奇策は二度は通用しない。アバタボールだけが頭にあるとは想定されないからだ。それに、挑発的な配球だったとしても間合いを取ればケロリと忘れてしまうのが九十九であった。
 1ストライクからの第2球。
 初球には面食らったが、別に苛立っている訳でもないし焦っている訳でもない。気持ちはあくまでフラットである。
 ここで一度阿畑の持ち球について考えてみた。大学時代は一緒のチームだったので、何回か練習ついでに対戦したことがある。
 あの時は確か落差の大きいアバタボールを主に投げていたが、時々右打者の内角に食い込んでくるシュートを投げていたはずだ。プロに入ってもこの二つを主体にしていたから、今も変わってないだろう。
 ……ということは、今度は裏をかいてシュートか、はたまた裏の裏を突いてアバタボールか。だが、この二つには決定的な違いがあった。球速の差である。
 ややゆったりとしたスピードのアバタボールに対してストレートから派生されたシュートはスピードは速め。なので、速いボールだったらストレートかシュート、遅いボールだとアバタボールだと踏める。
 いつ見極めるか。ボールが放たれてからの僅かな間で感じれれば、勝機はこちらにある。残念ながら阿畑はどの球を投げる時でも同じフォームなので球種をフォームで見分けることは出来ない。
 阿畑が振りかぶり、左足をゆっくりと上げて、そのまま力強く大地を踏み締めて大きく腕を振る。ボールは阿畑の手元から離れた。
 初速からやや遅くて、しかもふわりと浮ついたような球筋―――恐らく“アバタボール”!
 グリップを握る力が自然と強くなる。種が明かされた手品に惑わされる者はいない。あとは惑わされないようにしっかりボールに当てるだけ。
 万が一スローボールだった場合には踏み込みを早くして対応。その時はミートすることよりも思いっきり振り抜いてホームランを狙う。
 そして変化が始まった。揺れてはいないが、それまでの軌道からやや逸れて九十九の内角低めへ落ちていく。アバタボールだと確信した。あとはしっかりと……
 振り抜いた。体の軸もブレなく、綺麗なフォームでスイングした。
 だが、バットに当たらなかった。掠りもしなかった。ボールは無常にも後ろにテンテンと転がっていく。
 何故だ。アバタボールにしては落差が小さいのに手前で急激にストンと落ちた。バットは空を切った。カーブかスライダーだと思うが、球速から推測すれば恐らくカーブ。
 だがあんな変化をするボールは初めて見た。高校時代はこれより凄いカーブを投げる投手なんかウヨウヨいたが、こんなキレがありながら緩いカーブを投げる者はいなかった。
 「意外と使えるやん、“タコヤキボール”」
 “タコヤキボール”!なんとネーミングセンスのない名前なんだ。そう思ってしまった。
 マウンドの阿畑はなにやらこの球に手応えを感じているようであった。右手の指先をじっと見つめている。
 だがこのタコヤキボール、実はアバタボールよりも前に開発されたオリジナルボール第1号であった。
 阿畑がそよ風高校の野球部に入って半年、それまでのストレートを主体にした組み立てでは通用しないことを夏の大会で痛感させられたのだ。部員が少なかったので地方予選のマウンドに立つ機会があり、中学時代に通用していた直球が相手打線に滅多打ちを喰らったのだ。
 直球が打たれる。もしかして変化球がヘナチョコやから打たれたのかも。思い立ったら即実行。早速変化球の研究を始めると共に、試しに握り方や投げ方を変えてみる自己アレンジをやってみた。
 その結果生まれたのがタコヤキボールであった。カーブの持ち味である緩急と、スライダーのキレを融合させた、阿畑にしか投げられないオリジナルボールの誕生であった。
 遅いボールでありながら鋭いキレを兼ね備えたタコヤキボールは、勢いのある直球と組み合わせることで効果は絶大。そう考えた。
 しかし、結果は無残であった。意気揚々と望んだ秋季大会では直球よりもタコヤキボールに的を絞られ、屈辱の大敗を喫したのだ。
 これを機に阿畑は変化球一辺倒の投手として生まれ変わり、アバタボールの開発に成功。それと共にタコヤキボールはお蔵入りとなった。
 ちなみにネーミングの由来は『たこ焼きも野球も好きだから』だそうだ。なんとも安直としか言いようがない。
 またしても意表を突かれ、カウントは2ストライク。九十九が追い込まれた。
 3球目。再び内角に鋭く食い込んでいくシュートを見逃し。ストライクゾーンに入らず2ストライク1ボール。まだ阿畑優位。
 次の球は外角高めのストレートをカット。打球は勢い良く左へ切れていく。カウントは変わらず2ストライク1ボール。遠くまで飛んでいったボールを取りに行くのも面倒なので新しい球を出して阿畑に投げる。
 ここで阿畑は後ろポケットにしまっておいたロージンパックを取り出して、指にロージンをつける。マウンドの周辺が少し白く煙った。
 九十九も打席から外れてスイングの再確認を行う。ブルン、ブルンと数回思いっきりバットを振ってバッターボックスに戻る。
 第5球。阿畑が一回大きく息を吐いてセットポジションに入る。
 放たれたボールはゆっくりと、そしてやや不規則な回転をしながら九十九の方へと向かってくる。
 ―――“アバタボール”!
 今度こそ間違いなかった。ホームベースの少し手前から徐々にブレだした球は九十九のバットを嫌うようにするすると外角へ逃げていく。
 際どいボール。多分ストライクかボールか判定が難しいコースに落とす気だ。ギリギリまで粘っていたらボールを捉えることが出来なくなる。
 そして九十九は悠々とボールを見逃した。
 「……ボールやな」
 九十九がボソリと呟いた。その目は、非常に厳しい目をしていた。阿畑は表情を変えることなくその結果を受け入れた。
 これは正確なジャッジではない。あくまでも個人的な見解であり、九十九の中でも入っているような気がしないでもなかった。
 だが、最初の取り決めで『九十九がストライクと思ったボールだけストライク』と二人で合意した。阿畑はこのジャッジに対して文句が言えない。意地悪なようだが、これも勝負の世界であった。
 (いつまでアバタボール投げとるんや。これは最早魔球じゃないんやで?)
 口に出掛かったが、そこはグッと堪えた。
 実際に九十九はこの二回の対戦でアバタボールを完全に見切った。タイミングも掴んだし、見極めも出来るようになった。
 あとはタコヤキボールとの区別のつけ方だが、ブレーキのかかったタコヤキボールもギリギリでカットしてファールにすることも九十九のバットコントロールなら可能だ。
 カウントは2ストライク2ボールであと一回ストライクから外れてもいいが、厳しいコースは九十九のジャッジでストライクに出来ない。この状況を阿畑はどう打破するか。
 そして第6球。
 再び阿畑はふわっとした緩いボールを投げてきた。
 九十九はまたかと思いつつ、変化の行方を見守る。ボールは少しずつ揺れながら、九十九から遠ざかるように外角へと逃げていく。
 逃げていくのを捉えようと九十九はバットを出した。流し打ちは昔から得意で、最近では難しい球でもフェアゾーンに乗せることが出来るようになった。
 このボールも外角から外へ逃げていくボールであったが、バットを出した以上掠らせてファールにすることは出来る自信があった。
 だが、思った以上にボールは揺れて、変化が大きかった。キレも先程のアバタボールとは違って格段に上がっている。
 腕を伸ばしてバットの先に当てることは出来たが、ふらふらと打球が上がってしまった。ボールは三塁ベースから左に離れた場所に打ちあがった。
 あぁ、これはファールやな。打球をじっと見守っていると、視界にふと横切る影があった。
 阿畑である。
 ポップフライとなった打球を捕球しようとしているのだ。普段なら三塁手が打球の下に入って捕球するのだが、今は二人以外に誰もグラウンドにはいない。
 マウンドから駆け下りると全速力で打球の落下地点に向かって全力で走った。胸が詰まるくらいに走っているが、まだ落下地点に入れていない。
 ふわふわと上がった打球は重力に逆らうことを止めて落下し始めた。ボールがぐんぐん地面に近づく中で阿畑もスピードを殺すことなく全速力でボールを追いかける。
 ボールと地面との距離が1mを切り、阿畑は思い切ってボールに向かってダイビングした。左腕を目一杯伸ばして、少しでも落下地点に近づけるように試みる。
 砂埃を上げ、阿畑は頭から突っ込んだ。濛々と砂煙が立ち込める。
 ボールは、地面に転がっていなかった。
 少し砂に塗れて茶色がかっていたボールは、阿畑のグラブの中にしっかりと納まっていた。
 この瞬間勝者と敗者が決定した。勝者は砂と泥に塗れたユニフォームなんか気にすることなく、起き上がると右拳をグッと握ってガッツポーズをし、それでも昂る感情を抑えきれないのか大きくジャンプした。
 「あーぁ、負けてもうたわ」
 先に口を開いたのは九十九であった。相変わらずあっけらかんとしている。ドロドロな格好になった阿畑を見て悪態をついているが、笑っているようでどこか暗い。
 敗者もまた真剣に戦った。ラフな格好で遊び半分だった気持ちが、いつの間にか袖を捲くって、足元は砂で汚れていた。
 ワイもまだまだ力不足やな、と自虐的な台詞が口から滑ってしまった。イメージ出来ていたはずなのに、瞳を閉じれば軌道が映像となって再生されるのに。九十九のバットはそのボールを完璧に捉えられなかった。
 昔から、こうだった。
 スポーツも勉強も(ルックスも)、全て九十九の方が上であった。阿畑は腐れ縁の友達でありながら常にチャレンジャーであった。
 だけれども、何故かそうは思えないことがあった。目に見える結果は九十九の勝利だが、目に見えない所では阿畑の勝利。それが何かは言えないが、決定的に負けを痛感させられることがあった。
 今回は見事に阿畑に負けてしまったが、負けたにしては心の底から湧き上がって来る自分への苛立ちや悔しさといったモノが全くない、爽やかさすら感じる負けであった。
 「イメージも完璧やったのにアバタボールを打てなんだ。ワイもまだまだ力不足やなぁ」
 瞼を閉じればアバタボールの軌道が映像となって再現されるくらいに、イメージも出来ていた。それを打ち崩す自分のイメージも完璧だった。しかし、最後の最後で力及ばなかった。
 九十九が頭を掻いて阿畑に背中を向けると、阿畑の声が耳に入った。
 「最後のボールは“アバタボール”やない」
 “アバタボール”ではない、だと?確かにあの一球はそれまでの“アバタボール”とは一線を画していた。
 球のスピードはやや劣っていたが、ボールのキレ・変化・揺れは格段に上がっていた。結果的には無理に打とうとしたために体が泳がされてバランスを崩して打ち取られた、と思っていた。
 阿畑の話では違っていた。九十九は先日の戦い同様素晴らしいスイングをしていた。どう変化するかわからない球に柔軟なバッティングで対応していたらしい。
 だが、それはあくまでアバタボールに対して、の話である。今阿畑は、この球はアバタボールではないと言っていた。
 「これはな、去年の日本シリーズ前に極秘に完成させた新魔球や、その名も……“アカネボール”や!」

 時は遡ること数年前。日本シリーズを前にして最後の調整を行っていた時のことである。
 シーズン終盤からアバタボールが打たれる機会が多くなってきた。右腕全体の違和感もあったが、それ以上に他球団が阿畑のことを本格的に研究してきたことが一番の要因であった。
 日本シリーズ開幕まで数週間のブランクがある。この期間を有効活用しようと新たな変化球の開発に乗り出した。
 だが、事はそんな簡単に進まない。違和感で満足に投げられなかったり、投げられなかった分を次の日に倍の練習をこなしたりとスケジュールも上手くいかなかったし、どれもこれも阿畑の武器として使うには役不足だった。
 日本シリーズが近づくにつれて焦りが増していった。(このままではいかん)という一心で、ひたすら朝から晩まで投げ込みを行う日々を続けた。
 これに心配したのが茜であった。帰ってくると疲労困憊でシャワーを浴びて軽く夕食を済ませるとすぐに床につくという日が何日も続き、顔色も日を追う毎に悪くなっていく一方であった。これで心配しないはずがない。
 最終的には家で待っているのではなく、練習場にまで足を運んで練習する阿畑の様子を見るようになった。
 「やっちゃん……もうそこら辺にしておいたら?」
 「まだや、これやと打たれる……」
 最早練習に取り憑かれていた。茜の目からはそう映った。
 もうすっかり辺りは暗くなって、周りには誰もいない。ライトアップされた球場に二人だけ取り残されていることに少し虚しさを感じざるを得ない。
 (アレを言うしかないのか……本当はもっと落ち着いて言いたかったけれど、やっちゃんのことを考えたら……)
 「もう……二人だけの体じゃないんだから……」
 自分で言っていて恥ずかしくなった。耳が異様に熱い。
 この茜の言葉に阿畑も驚愕の表情を浮かべていた。練習一辺倒でやや濁りかけていた瞳が一気に晴れた。
 その言葉が意味するモノは言わずもがな、オメデタであった。もっとストレートに言えば懐妊である。
 今までのように無茶は出来ない。茜と二人なら、けれど、家族が増えるということはもっと頑張れる。
 阿畑の中に閃きを感じた。この幸せと喜びから生まれた感覚を失いたくはなかった。
 「……わかった。けど、これで最後にさせてくれ」
 じっと茜の瞳を見つめてお願いした。茜は黙って頷いてくれた。
 大切な人が見ている前だから出来る。これから生まれてくる命にも、この雄姿を見せてあげたい。疲れきった体に鞭打って、ガムシャラに練習に打ち込んだ。
 そして、見事新しい魔球を開発することが出来た。これは茜がいなければ生まれることのなかったであろう、素晴らしい球であった。
 大切な存在の名前をとって“アカネボール”と阿畑は名付けた。茜は愛する阿畑の笑顔を見て安堵の表情と共に照れ笑いを浮かべた。

 日本シリーズでは新魔球アカネボールによって絶対的リリーフエースとして君臨した。だが、翌年は鳴りを潜めていた違和感が再び暴れ始め、その球を披露せずに引退し、今日に至る。
 アカネボールは封印していた球であった。従来のアバタボールよりも負担がかかるからあまり多くの球数を投げられないのだ。質は劣るが長いシーズンのことを考えるとアバタボールの方が武器として使えたのだ。
 その封印を解いたのは、先日茜に喝を入れられた時。「どうせやるなら全力でやりなさい」と言われ、それまで自分の都合を優先させたがために結果がついてこなかったことに気付いたのである。
 小手先で抑えられる人など誰もいない。常にベストのパフォーマンスをしなければ決して勝つことは出来ない。そのことを思い出させてくれたのだ。
 だから、わざと最初にアバタボールを見せ球にして、続けてアカネボールを投げた。先にアバタボールを投げておくことで、よりアバタボールの軌道をその目に焼き付かせる意図があった。
 ストライクギリギリのコースに入ったのは偶然だった。なのでボールの判定は気にしていなかった。
 しかし予想外だったのは九十九の適応力である。アカネボールならば空振りを狙えると予想したが、九十九は辛うじてバットに当てることが出来た。タイミングはほぼバッチリだったので当たり所によってはヒットにされていただろう。
 ポップフライになって「捕れる」と思ったからこそ懸命に走ってダイビングキャッチをしたのだ。贅肉は落ちたがここ最近全力で走っていなかったので間に合うか心配したが、グラブに収めることが出来てホッとしている。
 九十九から大切なモノを取り返した。自分のプライド、自分の自信、自分への信頼感。これだけあれば……
 「……ちょい待ち。アカネボールのアカネって……」
 「あぁ、お前も知っとる茜や、結婚してん」
 「な、なんだってー!!」
 九十九は阿畑が茜と結婚していたことに物凄く驚いた。
 「水臭いなぁ、なんで言ってくれなんだんや。というかなんでや!なんでお前なんてたこ焼きみたいな顔のヤツが茜とけっこ……」
 まだ結婚という事実を受け入れ難いらしく、結婚の二文字を口にしたくないようであった。阿畑は間髪入れずに「誰がたこ焼き顔やねん」とツッコミを入れるところ、関西人の血は脈々と受け継がれているみたいだ。
 それもそのはず、九十九は昔から茜のことが好きだったのである。何回かアタックしたが、笑顔で流されて結論は先延ばし先延ばしにされていた。なので九十九にもまだチャンスがあると思っていたのであろう。
 しかし、既に意中の茜は阿畑とくっついてしまった。認めたくなくても、認めたくなくてもそうなってしまったのだ。
 阿畑が「言うとらなんだっけ?」と九十九に聞いたが「聞いとらん!」とはっきり返された。そういえば大学時代から付き合っていたけれど特別畏まって話すような話でもなかったから言いそびれていたのかも知れない。
 鬼気迫る勢いで九十九は阿畑に迫るが、茜の話題になった途端に今までキリリッとしていた目元は下がり、頬は緩みきっていた。オノロケ全開である。
 さらに驚愕の事実は続く。
 「結婚どころか“きよし”っちゅう息子もおるんやで〜ワイによく似て可愛いんやで〜」
 息子!しかもたこ焼き顔の!それが茜から生まれたなんて……
 この日一番のショックな事実だった。正直勝負とかそんなの関係ない。九十九は完璧に打ち負かされたような気持ちに突き落とされた。
 後日、独立リーグに戻って数日の間ノーヒットが続き、プレイも精細を欠いていたらしい。余程この時の阿畑からもたらされた話にショックを隠しきれなかったようだ。



 時は流れて数ヶ月。季節は移り変わって周囲の景色は一変していた。
 頑張パワフルズのスカウト・影山はこの地区に強肩の選手がいると聞いてやってきた。ウィークポイントである捕手を補強するために調査に来たのだが……頭を抱える事態に陥った。
 (……どうしようかな)
 実際にその選手を見てみた。確かに肩は良い。投手なら140km/hは出ているだろう。だが編成部に上げるかどうか悩んでいた。
 ポジションは二塁手。二塁手は肩の強さよりも守備範囲や守備の技術を求められるポジションであるため、折角の強肩も飼い殺しである。
 華奢な体つきなのにあれだけの強い肩を持っているというバランスの良さもプラスだが、捕手にするにはやや体の線が細いように思う。
 果たしてプロに入ってやっていけるだろうか。多分難しいのではないか。影山の目からはそう映った。
 幸いパワフルズは捕手の他に強肩の外野手もやや不足していたので、外野に転向すればもしかしたらスーパーサブになれるかも知れない。あとは上の判断に任せることにした。
 情報が不足していたとは言え、期待していた結果を得られなかったことに意気消沈した影山は、ふと小腹が空いていることに気が付いた。
 (そういえば阿畑君のたこ焼き屋があったな……また行ってみるかな)
 駅前を歩いていたら、“デラたこ”と大きく書かれた移動販売車に遭遇した。阿畑君の店だ。
 近づいていくと明るい声で「いらっしゃい!」と声をかけられた。だが、その声の主はどうも男の人の声ではなかった。
 ふと顔を上げると店にいたのは女性であった。元気そうな顔をしている。背中に抱いているのは、赤ちゃんだろうか。
 「あれ?ここは阿畑君の店では……?」
 思わず疑問が口から出てしまった。店の女性は先程よりもちょっと声を落として返事を返してくれた。
 「えぇ、そうですよ。お宅どちら様で?」
 顔色が曇っている。目が『怪しい人が来た』という風に言っているように見える。
 まぁ疑われるのも悪くない。こちらからプロ野球のスカウトだと告げなければただの怪しいおっさんにしか見えない。風貌が悪いことに本人は気にしていないが、周囲からは警戒されてしまう。
 今回も自分がプロ野球のスカウトをしていて、阿畑とは親交があると話をすると、相手の女性もわかってくれたようだった。
 「なんや〜、そうやったんや。てっきりあの人が変な人から借金してウチまで取り立てに来たのかと思ったわ」
 本人に悪気はないのかも知れないが、心の中で影山は傷ついた。いくら怪しい人相だからと言っても、借金取りに見えるのかと。
 「それで……阿畑君は今どちらに?」
 「さぁ?最近野球を再開したんですけど、この前『アメリカで成功したる!』って急に言ってそのまま出て行って帰ってこないんです」
 アメリカ!影山は一瞬我が耳を疑った。
 前に来た時は燃え尽きた顔をしていた阿畑に、一体どこからそんな情熱が生まれたのだろうか。何があったのかは女性も知らないらしい。
 「それはそれは大変ですね」
 「そうなんですよ。あの人ったら子どもっぽいところがまだ抜けなくて。……でも、そういうところが好きなんですけれど」
 女性の頬が朱に染まった。信じているのだろう、阿畑のことを。そして心の底から愛しているのだろう。
 財布の中から500円玉と50円玉を出そうとすると、「お代は結構です」と制された。そういう訳にもいかないと押し問答になったが、結局こちらが折れることになった。
 店を後にする時、背中から「主人のこと、よろしくお願いします」という声がかかった。私には実際に選手を獲得する権限などないし、今どこにいるのかわからない亭主の面倒を見る筋合いもない。
 それなのに、女性は頭を下げた。将来お世話になるかもしれないことを考えて。影山は軽く会釈をしてその場から立ち去った。

 その帰り、駅の売店でスポーツ新聞を数紙購入した。スカウトという職業柄、有望な選手の情報を獲得するアンテナを常に立てておく必要があった。
 スポーツ新聞には地方の高校野球予選や大学・社会人野球の情報など情報が少ない分野の情報が掲載されているので、毎日常にチェックしている。
 いつものようにスポーツ新聞のスポーツ欄を眺めていると、隅の方に気になる記事があった。
 とても小さい記事で、一列の半分程度しかない。タイトルは、「米独立リーグに新星現る」。記事の前文か以下の通りである。
 『米独立リーグで一人の日本人選手が注目を集めている。年齢30手前と思われるその男は自らを「浪速の魔術師」と称して独立リーグ球団に入団した。その長所は多彩な変化球にある。
 その男はシュート、フォーク、チェンジアップ、ブレーキがかかってキレがあるカーブ“タコヤキボール”、そしてナックルよりもキレ・変化量・制球力がある“アカネボール”を駆使して、相手に的を絞らせず活躍を続けている。
 英語はほとんど話せないが、周囲とのコミュニケーションは十分に取れている。ロッカールームに道具を持ち込んで日本のファストフード“たこ焼き”を作ってチームメイトに振舞っているのだとか。
 現在幾つかのメジャー球団が獲得に乗り出しているという情報もあり、今後の活躍に期待がかかる』
 アメリカでしっかりやっているようだな。新聞越しに阿畑にそう伝えたかった。
 影山は向きを変えて来た道を戻り始めた。あの女性にこの事実を伝えてあげたい。そういう衝動に駆られた。



 あの男の始まりはたこ焼きからだった。その挑戦は当分終わりを告げることはなさそうだ。



   fin...


 最初に、変な関西弁になっているかも知れませんが、そこは見逃してください。
 ちょっと息抜き程度に考えていたらここまで長くなってしまいました。長読お疲れ様でした。

 最初は『野球を辞めた阿畑が普通にたこ焼き屋をやっていると、借金の返済を迫られて息子のきよしが人質に取られる→取り返そうとしたら野球勝負を挑まれる→勝って無事に取り戻す』みたいなストーリーがふっと思い浮かんだのですが、いくらなんでも有り得ないということでボツに。その後火星オクトパスなんかを絡ませようかなどと画策しましたが、「阿畑なら九十九がいいじゃん」ということで九十九に。さらに構想は進んで「どうせなら独立リーグ入りを目指してみてはどうか」なんて発想が思い浮かんでからはストーリーがどんどんと思い浮かんでくる始末。さらには実際に打ち込むとこれがまた進む進む。最初は前作『あの人の背中をおいかけて』と同じくらいの長さの作品を目論んでいたのですが、いつの間にかこんなに長くなってしまいました。
 最近、阿畑は出番がありません。11で電撃引退して大学野球のコーチに就任、12で雇われコーチとして出てきてからはその後ずっと出番なし。個人的には息子きよしや茜の話なんかは広げられると思っているので、是非とも阿畑再登板を望みたいところであります。毎回コロコロ変わる脇役よりかはずっと存在感あると思いますし、使い勝手もいいかと。
 (あと個人的な望みとしては、『友沢弟が目標の兄の後を追うように投手として、阿畑きよしが父とは正反対の打者として、同じ地区の別々の高校に入学して、二人が壮絶な対決を繰り広げる』……という王道的シチュエーションが思い浮かんだのでありますが、何方かチャレンジしてみる方はおいでませんでしょうか?
 ……というか次のパワプロこれでいいじゃん。主人公・矢部・友沢弟・阿畑きよしにあとは個性が出ていて設定もはっきりしたキャラ数名で第5世代サクセスを構成すれば絶対面白いと思いますが。)
 閑話休題。大分話が横道に逸れてしまいました。結局何故引退したのか謎なままなんですよね。あおいはちゃんと11で明かされているのに。それだったら引退後、再起をかけてアメリカに渡米。こんなストーリーがあっても良いかと思いますがいかがでしょうか。

 最後になりましたが、この作品を書くに当たってはっぴいだんす様のパワプロキャラクターズを参考にしました。この場を借りて感謝致します。ありがとうございました。

 (2010.06.27. up.)

BACK TOP NEXT

Designed by TENKIYA