九月、快晴の石川県立野球場に澄んだ金属音が響いた。
夏の甲子園大会が幕を閉じてから一ヶ月、早くも次を見据えた戦いが始まっていた。
三年生が引退して顔ぶれの変わった野球部は俗に“新人戦”と呼ばれる大会に参加するが、この大会は翌月に開催される秋の北信越大会の県予選も兼ねている。その為、春のセンバツを目指す各校は甲子園行きの切符を賭けて凌ぎを削っていた。
石川県では私立の星城・金澤学園・学友館の三校が実力・戦力共に抜きん出ており、この十年あまりは何れかの高校が夏の大会で甲子園行きの切符を手にしている。一方、過疎と少子化の進む能登地方では部員数が足りず近隣の高校と合同チームを組んだり他部からの応援を借りたりする形で出場するチームも出てきている。
さて、話を戻して石川県立野球場。現在は泉野高校と小松工業の試合が行われている。泉野高が二点リードして迎えた九回表、小松工の攻撃。二アウトから六番バッターが一二塁間を破るクリーンヒットを放った場面だ。
(キレイに打たれたな〜……)
マウンドに立つ岡野は打たれた方角をぼんやりと眺めながら思った。苛立ちも悔しさも焦りも一切感じていない。ちょっと甘く入ったストレートを痛打された事実を淡々と受け止めていた。あとアウト一つで勝てるという状況で気持ちの緩みも無い。単純なコントロールミスだった。
追い詰められた状況から土壇場でランナーが出たことで三塁側のアルプスは一気に湧き立った。このままの勢いで連打が続けば同点あるいは逆転もあると期待が膨らみ、今日一番の盛り上がりを見せていた。
するとキャッチャーの新藤が主審にタイムを要求して、マウンドへ駆け寄って来た。
「今のは仕方ない。切り替えて次でアウトを取ろう」
恐らく流れを傾けたくないと一旦間を置くのが狙いだろう。あとは九回に突入して疲れがあるか確認するのも含まれていると思う。
「打順は下位だし、次のバッターは今日ノーヒットに抑えている。さっきの失投を除けばボール自体に力はあるから心配しなくても大丈夫。いつも通り投げていこう!」
言いたい事を伝えると新藤はミットで胸をポンと一回叩くと、再び守備位置へ戻っていった。
(いつも通り、なんだけどなぁ)
遠ざかっていく背中を目で追いながら岡野は心の中で小さく呟いた。新藤が腰を下ろすのと同じタイミングで次のバッターが右打席に入ってきた。ビハインドということもあり気合の声を一つ咆えてからバットを構える。
気合入っているなー、と岡野は率直にそう思った。どちらかと言えば自分はサバサバしている方なので共感は湧かない。“冷めてる”という表現が一番正しいかも知れない。でも、勝てば嬉しいし負ければ悔しい。そういう感情は人並みにある。ただ、他人みたいに感情の振り幅が大きくないだけだ。
相手の今日の成績を振り返る。第一打席からセカンドゴロ、レフトフライ、サードへのファールフライ。新藤の言った通り、抑えられている。当たりも詰まらせたりバットの先端だったりで“打たれた”という印象は無い。この印象が意外と重要で、良いイメージを持っていると精神的にゆとりを持てたりいつも以上のパフォーマンスを発揮したりする効果がある……らしい。物知りで頭の良い新藤から聞いた言葉である。
(いつも通り、いつも通り……)
岡野は普段と同じように息を大きく吸い込んでからゆっくりと吐き出す。そして新藤から送られてきたサインに一つ頷いてから投球動作へ入る。
左足をゆっくりと上げるとじっくりタメを作り、それから上げていた左足を前へ大きく踏み出しながら右腕を横から思い切り振る―――
ムチのようにしならせた腕から放たれて白球は新藤の構えるミットへ勢いよく吸い込まれていった。
「ストライク!!」
外角低めへ投じたストレートが決まり、主審がストライクを宣告する。今のボールは自分でも気持ち良く投げられたと思った。やっぱり自信のある球がストライクになると率直に嬉しい。
大多数のピッチャーが上から振り下ろすように投げるオーバースローだが、岡野は珍しく横から投げるサイドスローの選手だった。
野球を始めた頃はみんなと同じように上から投げていたが、ある日見たアメリカ・メジャーリーグのピッチャーが格好良かったという理由で真似して横から投げるようになったのだ。百六〇キロを超えるストレートを武器に強打者を次々と三振に仕留めていく様に一目で魅了されたのを今でも鮮明に覚えている。
もっとも、岡野は憧れのピッチャーのように恵まれた長身でもなくスピードも平均以下で、豪腕を武器にバッタバッタと斬り捨てていくタイプというよりものらりくらりと打ち取る技巧派タイプという感じであるが。
それでも高校野球でサイドスローのピッチャーは滅多に居ないので、見慣れてないせいか強くない学校相手なら一巡目は簡単に抑えられた。タイミングを掴み始める二巡目以降は普通に打たれるようになるが、それでもある程度は効果がある……らしい。
次も同じコースにストレートを要求される。今度はバッターもバットを出してきたが空振り。二ストライクと追い込んだ。
三球目は打者の膝元へ落ちていくシンカー。シンカーは高校に入学してから新藤に勧められて修得したボールだが、それ程変化しないにも関わらず意外と右打者相手なら詰まらせてゴロを量産出来るので多用している。しかし、今回は外れてボール。
四球目。ならば緩急と高低差で空振りを誘うべく外角高めへストレート。しかし、釣り球に反応せずボール。これで二ボール二ストライク。
追い込んでからボールを重ねて平行カウントとなった五球目。ここでもしボールになればフルカウントとなって一塁ランナーは自動的に走ってくる。長打を打たれれば一点を失ってさらに同点のランナーが得点圏に残る。四球で歩かせても得点圏にランナーを背負うことになる上に同点のランナーも一塁に置く形になる。どちらにしても苦しい状況になることに変わりはない。出来るならここで勝負を決めてしまいたい。
次に投じたのは―――直前のストレートと対照的にふわりと宙に舞った後に右打者から逃げながら落ちていく軌道のスローカーブ。遅いボールに打者もタイミングを合わせて当てに行くも、バットの先に引っ掛けてしまった。力なく前へ撥ねた打球はマウンドの岡野の正面に飛び、これを落ち着いて捕球すると一塁へ送球。ファーストが岡野から送られてきたボールをしっかり受け取ると、塁審の右手が上がった。
三アウトで試合終了。二対〇で泉野高が勝利した。
これで泉野高は北信越大会石川県予選の準決勝へ駒を進めることとなった。今年度北信越大会は石川県で開催されるので出場枠は通常より一つ増えて三つ、次勝てば確実に地区予選へ出場することが出来る。
準決勝は次の土曜日に行われ、もし仮に負けても翌日に行われる三位決定戦に出ることになるので二連戦は確定となった。
ナインが勝利の歓喜に湧く中、岡野は全く別のことを考えていた。
(……あー、早く帰りたい)
九回を投げ終えて疲れた岡野は気だるそうに空を見つめながら、淡々とクールダウンに入った。
月曜日。九イニングを完投した疲れがまだ残る岡野は気だるげな表情を浮かべて教室に入った。
すると教室内に男女入り混じって人だかりが出来ている場所があった。
「ねぇ新藤君!昨日の試合も勝ったんだって!?」
「そうだよ」
女子生徒の問いかけに柔らかな微笑みで返す新藤。若手俳優の面影も感じられる爽やかなルックスは女子受けも上々、台詞のないモブキャラみたいな顔の岡野とは天地の差である。
「次の試合っていつ?」
「今度の土曜。もし良かったら応援しに来てくれると嬉しいな」
「行く行くー!」
キャーキャーと騒ぐクラスメイトとは対照的に、黙々と教科書やノートを用意すると岡野は机に突っ伏して眠ってしまった。
泉野高は金沢市南部の郊外にある公立高校で、県内屈指の偏差値を誇る進学校である。戦後暫くしてから開設された歴史ある学校で、卒業生には国会議員や俳優などが居る。また理数系に特化したコースがあるのも特徴の一つに挙げられる。
スポーツ分野ではサッカー部がそれなりに強いことで知られ、野球部に関しては一回戦を勝てれば上出来というレベルであった。当然ながらグラウンドはサッカー部・陸上部と共用、しかも比率的にはサッカー部の占有率が多めという状況だ。
あまり期待されていない野球部が秋の大会で躍進を遂げたのは、弱小校を次々と強豪にまで押し上げた実績ある指導者に代わった訳でもなく優秀な成績を残した野球部員を大量にスポーツ推薦で入学させた訳でもない。
強いて理由を挙げるとするなら、有望な選手が一人入ってきたこと。その人物とは、先日の試合でもマスクを被っていた新藤。
新藤はリトルリーグの頃から地区で知られた有名人だった。バッティングでは鋭い当たりを連発、足もそれなりに速く、肩も強いし守りも上手。非の打ち所がない選手で本職じゃないショートを守らされることもあった。
走攻守に隙のない、正しくスーパースター。それが新藤という選手だった。
中学へ進学しても強豪校で一年生からスタメンに抜擢、最後の年には全国大会に出場してベストナインに選ばれた。
一方の岡野は……好きだから野球を続けているという、至って普通な球児だった。上級生が抜けた後にようやくベンチ入りを果たして、エースが崩れた後に登板の機会を得る。そんな選手だった。
同じ地区ということで新藤の在籍するチームと何回か対戦したが、勝負にならなかった。天才と凡人の差は早い段階で自覚していたので、結果については淡々と受け止めていた。
学業面でそれなりの成績を残していた岡野は難関と言われる泉野高へ。無事に合格を掴み取り、高校でも野球を続けようと入部したが……まさか泉野高で新藤と対面するとは思わなかった。てっきり野球の強い私立の星城・金沢学園・学友館のどこかに行くだろうと考えていたし、実際他県の強豪から勧誘の話が幾つもあったと新藤本人が明かしてくれた。
「どうして強豪校へ行かなかったの?」
入部して間もない頃、誰かが質問すると新藤はあっさりと答えてくれた。
「親から『青春期の貴重な三年間を野球漬けの生活をするのは間違ってる』と猛反対されたから」
幼少期からプロ野球選手になるのを夢見て、日夜練習に励んできた。幸いなことに他の人よりも少しだけ才能に恵まれ、努力を怠らなければもしかすると手に届くかも知れない―――と意識し始めてからはさらに頑張ろうと精進した。
しかし、両親は“夢を追い続けること”については応援してくれたが、一方で現実的に考えるよう新藤を諭した。
『憧れのプロ野球選手になれるのは何十万に一人の確率だ。もし仮に夢が叶えば良いかも知れないが、叶わない人の割合が圧倒的に多い。野球しか能の無い人が社会で通用すると思うか?』
それから新藤は何度も両親と話し合いに臨んだが、翻意させることは出来なかった。スポーツ推薦の誘いを全て断り、進学校として有名な泉野高への受験を決断した。
だが、新藤はプロ野球選手になる夢を諦めていなかった。
学業に支障を及ぼさない程度でなら野球を続けても良いという約束を結び、野球部へ入った。強豪校に遠く及ばない練習環境の中でも効率と独自性で研鑽を積んだ。抜きん出た才能は入部当初から如何なく発揮され、一年の夏から不動のレギュラーとしてチームを牽引、三年生が引退すると当然の流れでキャプテンに就任した。
監督は野球経験ゼロの素人、しかも数年おきに人事異動に伴う入れ替わりがあるので、練習方針から試合中のサインまで全てキャプテンに丸投げという状況が常態化していた。その環境を逆手に取り、新藤は自分色に染めようと考えた。
練習設備も取り巻く環境も部員の質も強豪校に遠く及ばない中、弱小校なりの戦い方をすべきと新藤は考えた。
まず最初に着手したのは、守備力の徹底的な底上げ。
「得点を取れなくても、失点しなければ永久に負けることはない」
それが新藤の自論だった。エラーや四死球を極力減らして、自滅を避ける。とにかく失点を防いでいれば、いつか必ず勝機は巡ってくる。僅かなチャンスを信じて待つ、それが泉野高が生き残る術だと結論づけた。
練習メニューも以前と比べて大幅に変更が行われた。まずウォーミングアップの後、ノックや実践守備。猛練習でヘトヘトに疲れてから走塁練習、そして最後にバッティング練習。また、雨天でグラウンドが使えない場合は階段を利用した走り込みや空き教室を活用してバランスボールなど、下半身と体幹を鍛えるメニューを重視した。
さらに、全部員の能力や適性に応じて大胆なコンバートを実施。肩は弱いが足の速い外野手をセカンドへ、球速は出るがコントロールに難のあるピッチャーを外野手へ、肩は強いが守りの粗いショートをピッチャーに……といった具合だ。
その煽りを受ける形で二番手・中継ぎ要因だった岡野にエースナンバーが転がり込んできた。ピッチャーの中で一番制球が安定していたのと九回を投げ切れるスタミナが決め手らしい。
ただ、自分より実力が上の選手が入れば確実にエースナンバーは剥奪されると岡野は自覚していた。そしてまた、岡野自身も苦しい思いをしてまでエースの座を死守したいとは露とも考えていなかった。
一回戦を勝ち抜けるかどうか怪しい泡沫候補の一つだった泉野高が今大会で大きく躍進を遂げた要因に挙げられるのは、やはり堅守だ。
下半身を重点的に鍛えた下地もあり、守備能力は格段に向上された。特に内野陣は県内の強豪校と比べても遜色ないレベルにまで成長した。ボコボコに荒れた土のグラウンドでイレギュラーな打球に順応出来るようになれば、丁寧に整備されているグラウンドの上だとお手の物だ。
徹底的に特訓された結果、今大会のエラー数は僅かに一つ、出場校の中で最少だ。失点数もダントツで抑えている。結果、少ない得点でも失点数で上回って勝ちに繋がっている。
それに加えて、新藤という扇の要の存在が大きい。
僅かなクセを見抜く洞察力、膨大なデータを漏らさず蓄積する記憶力、ほんの少しの変調から危険を察知する嗅覚、どんな場面でも冷静かつ瞬時に判断を下す決断力、そして小学生の頃から全国レベルの大会へ出場して培ってきた経験。
反射神経も抜群でボールを後ろに逸らしたり弾いたりしないし、肩も強く二塁までの送球タイムも全国平均を大きく下回る上に内野手のグラブへ精確に投げられる。
卓越した野球センスに慢心せず、飽くなき向上心を常に持って努力を重ねた結果、その実力はさらに磨きがかかっていた。
そして新藤は自分の才能に驕ることなく、フランクな態度で接してくれた。自分の考えを押し付けたり強要したりせず、常にチームメイトの意見や意思を尊重してくれた。そして、求められればアドバイスや技術論を懇切丁寧に教えてくれた。
試合中もミスや失敗に対して叱責したり咎めたりすることはしなかった。
『今のは打った相手が上手だった。ボール自体は大丈夫』
『誰だってエラーはするさ。ミスは続けないことが大切だから切り替えていこう』
……といった感じである。
その代わりに怠けたり手を抜いたりした場合は烈火の如く怒った。一度だけ練習中にサボった選手に注意したのを目撃したのみで、以降は怒っている姿を見ていない。
新藤はどちらかと言えば褒めたり言い回しを変えたりしてチームメイトを巧みにリードしているから、チーム全体が上手く回ると思う。勿論、自分も含めて。
『別にミットへピッタリ投げ込もうと思わなくて良いから。コースに大体来ていれば大丈夫』
『速くて荒れるくらいなら遅くても制球の方を重視して。でも、こっちが求めたらコントロール気にせず本気で投げて』
どちらかと言えばやる気が表に出ない岡野の性格もばっちり把握しており、ゆるい感じに求めてくる。口煩く言われるとやる気を損なうが、程々なら「やってみるか」と前向きに頑張ろうとするのだ。
そんな感じで、チームメイトは新藤の掌で思うまま踊っているからこそ成績に上手く結び付いているのかも知れない。
土曜日。遂に、準決勝の日を迎えた。
白い雲が青空を幾つか悠々と泳いでおり、崩れる気配は見えない。天候の心配は必要ないみたいだ。
準決勝の相手は航空学園能登。関東に本校を構える航空関連に特化した学校の姉妹校で、その特性上全国各地から生徒が集まってくる。県外出身者も多く在籍しており、スポーツ分野でも年々頭角を現しつつある。既に高校ラグビーでは県内随一、高校野球でも十年程前に夏の大会で甲子園へ初出場を果たしている。
航空能登のベンチ入りメンバーを見てみると、いずれも真っ黒に日焼けして屈強な肉体の部員が揃っている。身長も体型も凹凸な泉野高とは大違いだ。
相手の注目選手はサードの福山。百九〇センチを超える長身と並外れたパワーで今大会も既に三本のホームランを放っている。彼の前にランナーを出さないことが重要だと試合前のミーティングで確認した。
一回表。先攻は泉野高。
航空能登の先発である百四〇キロ中盤のストレートと落差の大きいフォークが武器の本格派右腕の前に三者三振に抑えられる。攻撃の糸口さえ掴めなかったが、これも想定の範囲内。貧打の泉野高が初回から猛攻を仕掛けた方が逆に恐ろしく感じる。
攻守交替のタイミングで岡野はゆっくりとした歩調でマウンドへ向かう。
『点を取られなければ負けることは無い』
『ウチの打線は所詮弱小校と同じレベル。大量点なんて夢のまた夢。だから相手がミスするまでひたすら粘る』
『無名の弱小校相手にゼロ行進を続けていたら、必ず相手は焦る。そこを逃さず突く』
考え方としては、中日ドラゴンズの黄金時代を築いた落合監督に近い。当時の中日も中軸以外で長打が望める状態ではなかったし、最終年に至ってはリーグ最少の得点数だった。それでも投手力と堅守で勝ちを積み重ね、リーグ優勝・日本一に導いた。
サッカーで例えるならば、ひたすら自陣で守ってカウンターを狙う戦術と言って良いだろう。弱いなら弱いなりの戦い方で挑むしか、勝ち目は無い。
岡野はマウンドに上がると一つ深呼吸をした。秘かに続けているルーティーンだが、見た目は至って普通である。
(俺が見栄えのいいことしても桑田や前田健太みたいに似合わないからな)
地味で平凡な外見の人間が儀式的な作法をしても様にはならない。自覚しているのでやらないことにしている。
そうこうしている内に航空能登の先頭打者が打席に入ってきた。いよいよ、岡野の試合が始まろうとしていた。
打席に立つ前からギラギラとした目でこちらを見ている。やる気に満ち溢れた熱血タイプといった感じか。
初球。岡野が投じたのはど真ん中へ渾身のストレート。意表を突かれた相手は慌ててバットを振るも空を切った。すると凄い剣幕で睨みつけてきたが、岡野は困惑した。投げろと指示を出したのは新藤だ、と思わず言ってやりたくなった。
この開幕全力ど真ん中ストレートは時々やる奇襲戦法だが、投じるこちらは内心ヒヤヒヤしている。それでもバッターは“いきなり失投は来ない”と頭から信じきっているので意外と効果がある。
頭に血が上るとこちらの思うツボ。次にストライクゾーンから逃げていくスローカーブを投げるとムキになったバッターは喰らい付くように打ってきた。強引に当てても一塁線を切れるファールになるか、フェアゾーンに転がってもボテボテのゴロになる。今回もファースト正面への詰まったゴロになり、落ち着いて捌いてまず一つアウトを取れた。
ピッチャーの心理からすれば最初のアウトが取れるとホッとする。試合前の緊張や不安で固くなった気持ちが程よく解れるからだ。
二人目は三ボールと不利なカウントから投じたシンカーを引っ張られたが痛烈なショートライナー、三人目は初球のストレートを打ち損じて平凡なライトフライに仕留めて初回を無事に終えた。一つ目のアウト、一つ目のチェンジ。この二つを経てようやくエンジンが暖まる感覚だ。
安堵の溜め息を一つ洩らしてマウンドを下りる。感覚的には調子が良いように思う。
(今日も勝てればいいなぁ)
そんなことをぼんやり考えながら小走りでベンチへと引き揚げていった。
二回裏。この回の先頭は今大会絶好調の福山。
(……意外と体細いんだな)
ホームランを量産するスラッガーと聞けば鍛えられた筋肉でがっちりとした体格のイメージがあったが、打席に立つ福山はどちらかと言えば華奢な体つきをしていた。恐らくユニフォームの下には飛距離を生む筋肉がしっかり付いていると思われるが、とてもそうは見えない。いずれにしても、警戒するに越したことはない。
初球。新藤は内角高めへ外れるストレートを要求してきた。ランナーが居ないので長打を警戒しての配球だと推察した。
ロージンをしっかり馴染ませてから、岡野は要求された通りにボールゾーンを狙ってボールを投じたが―――
(―――あっ!?)
ボールが指から離れた瞬間にヤバイと直感した。微妙なズレが生じてストライクゾーン寄りになってしまったのだ。甘く入ったインハイなんてホームランバッターにとって絶好球である。福山も迷わずフルスイングする。
真芯で捉えた打球は高々と舞い上がり大きな放物線を描いて―――レフトポールを僅かに切れる特大のファールとなった。白球は悠々と場外へ消えていった。
(危ねぇ……助かった……)
打たれた瞬間は流石に胆を冷やした。抜けたボールと分かると即座に反応した福山も凄いと思う。肘を畳んでコンパクトに振り抜いたがほんの少しだけタイミングが早かったおかげで命拾いした。打球の行方を注視していた観衆のどよめきがまだスタジアムに余韻となって漂っている。
毎試合何回か失投はあるが、まさか今のタイミングで出るとは予想もしていなかった。危うく福山に今大会四本目のホームランを献上するところだった。
落ち着け。まだ心臓がバクバクしている自分に言い聞かせる。ここで動揺したら次は間違いなく持っていかれる。だから今が踏ん張りどころだ。
一旦プレートを外してから深呼吸を一つする。勝負に対してこだわりは薄いが、やっぱり負けたくない。気持ちを一度リセットしてから再び対峙する。
相手の表情や仕草を観察するのが岡野の癖で、今回も福山の反応を確かめたが特段変化は見られなかった。露骨に感情を表に出す選手も多いが、どう感じているのだろうか。
次に新藤が要求してきたのは内角低めへのスローカーブ。これも先程と同じように外れてもいいと思って投げたが、こちらは主審がストライクと判定。コースに入っていたか微妙なボールだったが、今度も福山は不満そうな態度を見せなかった。
色々あったが結果的に二ストライクと追い込んだ形となった。このままの勢いで押し切るか、それとも一球挟んで様子を見るか。
三球目。珍しく気合を白球に込めて全力投球したのは―――初球と同じ内角高めへのストレート。福山も呼応するようにフルスイングしたが……無情にもバットは空を切った。
新藤のミットにボールが収まるのを見届けると岡野は思わず右手でグラブを叩いた。喜びが表に出るくらい、嬉しかった。
サインを目にした時は内心面喰った。失投とは言え場外まで運ばれた記憶はまだ生々しく残っている。正直「ここで無理に勝負しなくてもいいのでは?」と思わなくもなかった。だけど、その一方で「抑えてやる」と燃えている自分も居た。
負けたままで終わりたくない、どうせなら三振に仕留めたい。滅多にない欲に突き動かされた。
球速は百三十四キロとお世辞にも速いと言えないが、気合が入っていた分だけ球威が冴えた。ここ一番に賭ける気持ちの差で覆しがたい実力差を逆転したことが、今回の結果に結び付いた。
空振り三振に終わりベンチへ戻る福山の背中を眺めながら、岡野は昂って熱くなった心を落ち着かせようと必死になった。
試合は互いに点を奪えない緊迫した投手戦となった。直球とフォークのコンビネーションで三振の山を築いていく泉野高は想定の範囲内だが、抜きん出た実力とは言い難い技巧派ピッチャーである岡野の前に航空能登が凡打の山を重ねるのは意外な展開だった。緩急を駆使してゴロを打たせる投球に徹したのが功を奏した。
六回裏終了時点で航空能登から奪ったアウトの内訳は内野ゴロ五個、外野フライ四個、内野フライ二個、三振も二回裏に福山から奪ったものも含めて二個。それに対して出したランナーはヒットが五本、ツーベースが一本、それに四球が二個。
決してランナーが出ていない訳でも、得点圏にランナーが進んでいない訳でもない。ここ一番で泉野高の堅守に阻まれ、あと一本が果てしなく遠いのだ。
実際に併殺二つ、盗塁失敗一つとランナーを出しても次の塁へ進塁させることを防ぐことで、事前に失点に繋がる芽を摘んでいたのだ。
五回には四球とヒットで一アウト一二塁とするも次のバッターをショートへの併殺で何とか切り抜けた。
さらに六回裏は一塁にランナーを置いた状況で四番の福山にレフトへツーベースを打たれて二アウトながら二三塁の大ピンチとなったが、次のバッターをセカンドゴロに抑えて何とか凌ぎきった。
七回表。それまで好投していた航空能登のピッチャーが突如崩れた。先頭の一番打者に四球で歩かせると続く二番打者の打席でキャッチャーが低めのフォークを後逸、ランナーは二塁へ。泉野高は今日初めて得点圏にランナーが進んだ。
二番三番を連続三振にして二アウトとしたが、四番の新藤が二ストライクから四球ファールで粘った末に、センターの前へポトリと落ちるポテンヒットを放った。これで遂に均衡が破れた。
さらに続く打者を四球で歩かせて一二塁となって次のバッターが放ったショート正面の当たりをトンネル、打球が左中間を転がる間に一塁ランナーも生還してリードを三点に広げた。
五回六回と得点圏にランナーを背負う苦しい状況になったが、味方の援護が入ってから岡野は立ち直りの兆しを見せた。航空能登は中盤から早いカウントから積極的に仕掛けてきたが、新藤は早い段階でその傾向を見抜くと敢えて打たせるよう仕向けて岡野の球数を抑える作戦に出た。これが功を奏して岡野は省エネ投球で七回八回を危なげなく三者凡退で締めた。
そして迎えた九回。泉野高の攻撃はあっさりと二アウトとなり、次のバッターも三球三振であっさり終了した。最後のバッターが三振になったのを見届けると、岡野はスポーツドリンクを一口飲んでからマウンドへ向かう。
下馬評では“県外出身者を多数擁する航空能登が圧倒的有利、泉野高は精神的支柱の新藤頼みで非常に厳しい”という見方が大勢を占めていた。それが蓋を開けてみれば三点リードで泉野高が優勢に立っている。
あとアウト三つで試合が決まる。ここまで八イニングを無失点に抑えてきた岡野であったが、まだ実感が湧かない。
一塁側に陣取る航空能登の応援団から送られる声援が、九回になってより熱を帯びた。打順は三番から、自然と三点差を引っくり返して大逆転勝利……というドラマを望んでいるのだろう。
岡野はどうして切羽詰った表情をしているのか理解が出来なかった。夏の大会みたいに今日負ければ全て終わりという訳ではなく、今日がダメでも明日の三位決定戦で勝てれば北信越大会に出場出来るのだ。勝てる確率が高い今日の試合で決めておきたい心境は分かるけど、今日負ければ全てが終わると悲観するのも違うように思う。
イニング前の投球練習を終えると、新藤がマウンドへ歩み寄ってきた。
「疲れはないか?」
「大丈夫、平気」
立ち上がりはこちらの調子を窺うようにじっくり待つ姿勢だったが、二巡目からは追い込まれる前から積極的にバットを振ってきたので、いつもより球数を少なく抑えられた。そのおかげで疲れも幾分感じない。
「……一応聞いておくけど、緊張したりしてないか?」
「いや?別に」
すると新藤は一拍間を置いてから口を開いた。
「自分では意識してないかも知れないが、重大な局面をあまり経験していない人間は無意識の内に体が固くなったり気持ちが萎縮したりする事が多い。勝利目前にミスを連発して逆転負け……というケースはそれだ。“球場に魔物が棲む”と言われるが、魔物は自分の心の中に居る。それだけ、頭に入れておいて欲しい」
思わせぶりな忠告を伝えると、新藤は元の位置に戻っていった。心配性だなとその時は軽く考えていて気にも留めなかった。
だが、直後に新藤がわざわざ言っていたことを痛感させられた。
一ボールからの二球目。低めへ投じたストレートを弾き返したがショートの真正面へ飛ぶ。しかし、痛烈な打球をショートがグラブから零れてしまい、急いで拾ってから一塁へ送球するが間に合わず内野安打となった。ノーアウトで先頭打者が出塁したことで航空能登の応援席からは今日一番の声援が湧き上がる。
エラーしたショートが岡野に向けて申し訳なさそうに片手で詫びた。気にするなと岡野はグラブを上げて応じる。
ただ、厄介な場面でランナーを出してしまった。次のバッターは四番の福山。
第一打席は運良く三振に仕留めたけど第二打席ではライト前ヒット、第三打席では左中間に落ちるツーベースを打たれている。第一打席の初球ではあわやホームランの大飛球を打たれたこともあり、あまり良い印象を抱いていない。
勝負は避けたいがランナーも溜めたくない。一点でも失えばそれまで攻めあぐねていた悪い流れを払拭した航空能登の強力打線が畳み掛けてくるのは確実、そのまま勢いに呑まれて逆転負け―――も十分に考えられる。ここは是が非でも抑えなければいけない。
一度瞼を閉じて静かに呼吸を整える。打たれたイメージを出来る限り払拭させ、自分の中で気持ちの整理がつくと目を開けた。
第二打席では外角低めのストレートを巧みに流し打ちされ、第三打席では内角低めへ沈むシンカーを強引に引っ張られた。広角に打てる技術を持ち、特定のコースを苦としていない。長打狙いの大振り一辺倒でなく状況に応じてコンパクトなスイングもしてくる。
はっきり言えば隙の無い相手だ。第一打席の空振り三振も初球のハプニングを利用して空振りを誘った結果であり、その後はどのボールにも空振りせず捉えられている。
初球。アウトコースのボールゾーンからストライクゾーンへ切り込むシンカー。福山は見逃して一ストライク。
大リーグのヤンキースや広島カープで活躍した黒田博樹投手は左打者の内側からストライクゾーンへ変化するツーシームやシンカーでストライクを奪う“フロント・ドア”という技術を用いていた。今回はその逆で、外側のアウトコースからストライクへ変化する“バック・ドア”であった。当然ながらストライクゾーンに入ってくるボールなので狙われれば痛打される可能性は高く、狙ったコースへ正確に投げられるコントロールも要求される。
新藤の指導の下、この“バック・ドア”を修得すべく岡野は練習を重ね、今では三割の確率で成功するまで向上した。決して成功確率は高くないボールを選択したのも、この状況でも動じない岡野の度胸を新藤が買ったからだろう。
まずストライクを一つ取れたことで心理的に余裕が生まれた。二球目は外角低めの隅を狙うも僅かに外れて一ボール一ストライク。三球目は福山の膝元へ沈み込むシンカーを福山がバットに当てるも三塁線を切れてファールになる。
カウントは一ボール二ストライク。これで追い込んだ。
ここで凡打を誘うべく新藤はスローカーブを要求したが、岡野は首を振った。今度は引っ掛けさせるべくストレートを要求したが、これもまた首を振る。
新藤は主審に一旦タイムを求め、マウンドへ駆け寄ってきた。
「どうしたんだ?珍しいな」
一応『首を振る』サインもあるが、基本的に岡野は新藤のサインに首を振って拒否することは無かった。投球の組み立てや打者との駆け引きを面倒くさいと感じる岡野は女房役の新藤に全て丸投げしている状態だった。
ピッチングはピッチャーとキャッチャーの共同作業と思っていたので、岡野が納得しなかったり不満があったりすれば拒んでも構わないと言っていたが、どうしてまたこの場面で出たのか新藤には理解出来なかった。
すると岡野はとんでもないことを口にした。
「……もう一回、三振を奪いたい」
身の丈に合わない我が儘だとは自分でも重々承知していた。それでも、第一打席で空振り三振を奪った時に感じた喜びや興奮を忘れられなかった。そして、自分の意思を伝えれば必ず応えてくれると信じていた。
呆然とした顔をしたのはほんの一瞬だけで、小さく息を吐いてから新藤は告げた。
「……分かった。ただし、一球だけだぞ。ダメだったら運が無かったと諦めてくれ」
たった数十秒の間に岡野の要望に応えるプランを導き出したらしい。やはり出来る男は違う。我が儘に付き合ってくれる女房役へ感謝の意を込めて僅かに頭を下げた。
それから新藤は一言二言カモフラージュで適当に雑談を交わすと、守備位置へ戻っていく。新藤が腰を下ろすと主審が再開を宣告した。
(―――えっ!?)
新藤から送られてきたサインに思わず面喰ったが、それも自分の無茶な要望の為だと呑み込む。構えられたミットへ目掛けて思い切り腕を振る。
勢いのあるストレートが胸元付近に投じられて、福山は咄嗟に避けようと大きく体を仰け反らせた。これには場内もざわつく。
新藤は『一球だけ』と指定してきた。つまり、このボールは勝負球への布石。だからこそ全力で投げたのだ。
二ボールにストライクの平行カウントとなり、五球目。勝負球として選択したのは―――スローカーブ!!
ベースの手前から徐々に変化を始め、打者から逃げるように落ちていく。対して福山は軸足となる右足に全体重を乗せてしっかりとタメを作り、緩やかに曲がるボールをスタンドへ運ぶべく万全の態勢で待つ。そして、満を持して左足を踏み込み体を捻りながら自分の持てる全力をバットに乗せてスイングする。
白球は……渾身のフルスイングされたバットの下をするりと通り抜け、新藤の構えたミットの中に収まった。福山は勢い余って体を一回転させて地面に尻餅をついてしまった。
空振りした瞬間、岡野は思わず拳を握って小さくガッツポーズが出た。第一打席では運良く三振に仕留めたが続く二打席で打たれていて、どうしても負けたままで終わりたくない気持ちが強かった。自分が今投げられる最高のボールで勝負出来て、本当に心の底から嬉しかった。
決して三振を狙うタイプではないけれど、それでも欲しいと思った時に望み通り三振が取れるとやっぱり野球、ピッチャーをやってきて良かったと思う。
高揚した気持ちが治まらないまま次のバッターが左打席に入ってきた。落ち着こうと深呼吸するがなかなか鎮まらず、ふわふわとした感覚がまだ体内に残っている。
こちらの表情で察したのか新藤は初球外角高めへ外すストレートを要求してきた。ここは一球外して気持ちを立て直そうとする配慮なのだろう。岡野も同感で、一旦頷いてから投球モーションに入る。
(落ち着いて、落ち着いて……)
心の内で自分へ言い聞かせるように何度も何度も繰り返す。だが、結果的には裏目に出た。
意識し過ぎるあまり体に余計な力が加わり、コントロールに支障が出てしまった。外すつもりが僅かにストライク寄りにずれ、バッターも好球必打の構えだったらしく迷わずスイングしてきた。
甘めに入ったストレートを芯で捉えると、快音が球場に響いた。低い弾道ながら痛烈な打球が三遊間方向へ突き進んでいく。これは確実に抜けたと岡野は直感した。
しかし―――
定位置より若干三塁寄りに守っていたショートが反応、瞬時に横っ飛びしただけでなく懸命に腕を伸ばしてグラブを打球へ近づける。
誰もが抜けると思った打球は……決死のダイビングヘッドを披露したショートのグラブに吸い込まれた。ユニフォームを泥だらけにしてグラブを掲げると、場内から割れんばかりの歓声が上がった。
まるで獲物に飛び掛るチーターのような迷いのない俊敏な跳躍、打球を見た瞬間から踏み出した初動の一歩、これまで地道に積み重ねてきた努力、そして先程のミスを挽回しようと奮起する気持ち。これ等全てが揃ったからこそ生まれたビックプレーだった。
ヒットだと確信してスタートを切っていた一塁ランナーが慌てて一塁へ踵を返す。ショートのファインプレーにより二アウト。
岡野はファインプレーをしたショートへ称賛と感謝の気持ちを込めて拍手を送る。するとやや照れながら「気を抜くなよ」と口だけ動かして言った。
押せ押せムードに水を差されて追い詰められた航空能登の応援席から送られる熱烈な声援を背中に受けて、六番バッターが打席へゆっくりと入ってくる。その瞳には“絶対に繋いでやる”という闘争心の炎で滾っていた。
あとアウト一つで勝利を掴む場面であるが、楽観は禁物だ。先日の準々決勝でも二アウトからヒットを打たれているし、直前の打者でも味方のファインプレーに助けられたがヒット性の当たりを打たれている。プロ野球の世界でも九回二アウト二ストライクからキャッチャーが後逸して逆転負けを喫したケースがある。最後のアウトを取るまで気を緩めてはいけない。
静かに息を吸い込み、ゆっくりと細く長く吐き出す。心臓の鼓動を感じながら、二回三回と繰り返す。
いつものルーティーンを終えたらバッターと対峙する。三点リードしてるから二点までなら失点しても大丈夫。あと一つアウトを取るだけだ。ポジティブに捉えて自分が精神的優位にあることを意識させる。
初球。意表を突いて真ん中低めへ落ちるスローカーブ。コントロールミスかと錯覚したバッターがスイングしてしまい、一ストライク。
二球目。今度は外角へ逃げるスローカーブで打ち気を誘う。堪えて一ボール一ストライク。
三球目。外角低めへストレート。スイングするがスタンド裏へ飛んでいくファール。一ボール二ストライク。
遂に、追い込んだ。背筋がゾクッとなったので一旦間合いを入れたくて一つ一塁へ牽制を挟む。
四球目。内角低めへ沈むシンカーで詰まらせようとしたが巧みにカットされてファール。カウント変わらず、一ボール二ストライク。
五球目。対角の外角高めへストレートを投げるが、これも必死に喰らい付いてファール。同じくカウント変わらず、一ボール二ストライク。
“最後のバッターになってたまるか”バッターの強い執念が懸命の粘りに結び付いている。誰だって負けるのは嫌なんだ。例え追い詰められても僅かな可能性に賭けて勝負を投げ出さない。勿論、こちらから勝ちを譲る気持ちはさらさら無いが。
意地のぶつかり合いで体内に溜まった張り詰めた空気を一度吐き出してから、岡野は右腕を縦にグルリと一回転する。一度気持ちをリセットした上で、打者に再び臨む姿勢を作る。
六球目。打者の懐から曲がるスローカーブに窮屈な体勢でスイング、ボールの下を叩いてしまった。打球は前へ飛んだもののフラフラと弱々しく舞い上がる。
ピッチャーフライ。即座に判断すると、岡野はマウンドから二歩前へ出て落下点に入る。
風はほとんど吹いていない。落ちてくる白球の行方から目を離さずに待てばいいのだ。ドキドキと胸が高鳴るのを直に感じながらグラブを構える。
刻一刻と白球の輪郭が大きくなる。揺れることなく真っ直ぐ落ちてきたボールは、岡野が構えるグラブへ音も無く着地した。
勝った―――
自らの手で勝利を掴んだ瞬間、それまで緊張で凝り固まっていた全身の筋肉が解れるのが分かった。春のセンバツ出場を争う北信越大会への切符を勝ち取った喜びよりも、息詰まる接戦がやっと終わった安堵の方が大きかった。
敗戦のショックにうなだれたり唇を噛んだりする航空能登のナインがベンチから一斉に出てホームベースを挟んだ反対側に整列する。泉野高の選手も並ぶが、こちらは対照的に皆一様に弾けんばかりの笑顔を浮かべている。
「互いに、礼!」
「「ありがとうございました!!」」
主審の声を合図に両軍揃って挨拶する。かなり気合の入った声を出すのは“礼に始まり礼に終わる”の国だからかなと、ふと思った。他の国だったらどうなんだろうか。
反対側に立つ航空能登の選手の中には悔しさから瞳に涙を浮かべている者が居た。当然と言えば当然か。星城や学友館みたいな格上の学校に負けるなら納得も出来るが、ウチは万年一回戦を勝ち抜けるか怪しい格下の公立校。侮ってないが心のどこかで“勝てる相手、勝って当然”と考えていたに違いない。その分だけショックも大きいのだろう。
明らかな態度に出すのを失礼とは思わないが、そんな気持ちだと翌日の試合に響くのではないかと逆に心配になった。
(……明日の相手はどっちかな?)
この後の試合で向こうのブロックの準決勝が行われる。ここまで順当に勝ち上がった学友館か、準々決勝で延長戦の末に金澤学園との激闘を制した星城か。巷では“事実上の決勝”と言われているので、どちらが勝っても厳しい試合になるのは変わりない。
一応新藤からは『明日の先発は無い』と伝えられている。ただ、明日先発するのは夏に内野からピッチャーへコンバートした一年生で九回を投げきるスタミナはまだ無いので、恐らく明日も短いイニングでリリーフ登板があると考えていい。
(まぁ、とりあえず、疲れた)
全身を包み込むような気だるさを感じながら、今夜はよく眠れるなとぼんやり思った。
試合後に行われる報道関係者へのインタビューはキャプテンの新藤が全て答えるが、今日は珍しく岡野も記者から声をかけられた。
「岡野君、ちょっとだけいいかな?」
左腕に腕章を着け、首から取材許可証の入ったネームプレートをぶら下げている。年は二十代後半か三十代前半、大きな円いレンズが特徴的な眼鏡をかけており長い髪を一つに束ねている女性だ。
「はい、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
別に断る理由は無いので応じると、女性はニコリと人の好い笑顔を浮かべた。手にしていた手帳を開くと、反対側の手でボールペンを握る。
「アタシ、石川新聞社の星野と言います。早速ですけど質問に入らせていただきます……二試合連続で完封されましたが、今日のピッチングについてはご自身でどう感じましたか?」
「そうですねー……調子も普通で、いつもと同じように投げました。結果はたまたまです」
岡野から発せられる一語一句を洩らすまいと必死にペンを走らせる。記者も大変だなと思った。
「本日の勝利で北信越大会への出場権を獲得しました。今の率直な気持ちを聞かせて下さい」
「試合に勝てたのは素直に嬉しいです。ただ、明日も試合があるので、それに向けて集中したいです」
「今大会ここまで岡野君の好投が光っています。それが泉野高の快進撃を支える原動力になっていると思いますが、何か秘訣とかありますか?」
「いやー、自分は新藤のサイン通りに投げているだけですので、特別何かあるというわけではないですね」
「では最後に……次勝てば悲願の初優勝となりますが、意気込みを一言」
「普段通り、いつもと同じように投げるだけ。それだけです」
一瞬だけ困ったように表情を曇らせたが、すぐにそれを打ち消すように笑顔を見せた。
「……分かりました。本日はお疲れのところ、ご協力ありがとうございました」
ペコリとお辞儀すると星野は去っていった。歩きながらペン先で頭を掻いていたので、恐らく記事に載ることは無いだろう。
自分が逆の立場だったとしても今の受け答えで頭を抱えていたに違いない。高校球児の理想的な回答からかけ離れており、多くの読者の関心を惹けるとは思えないからだ。嘘や虚勢を言っても仕方がないのでありのままを答えたが、悪いことをしたと胸が痛んだ。
実際、翌日の朝刊に岡野のインタビューは掲載されていなかった。県庁所在地でもあり全国的に知名度のある観光都市でもある金沢は一見すると都会のイメージがあるものの、実体は田舎と変わりがない。噂もあっという間に広まるが、岡野が町中を歩いていて声をかけられたり学校で話題になることは一切無かった。
次の日、反対側のブロックを勝ち上がった星城との決勝戦。初回から星城の強力打線が火を噴いて三点を失ったのを皮切りに失点を重ね、序盤を終えて五点を追いかける苦しい展開となった。
岡野も七回から登板したが、相手の勢いに呑まれるように先頭打者へ投じたスローカーブをスタンドへ運ばれて早々に失点。次の回も連打を浴びてさらに一点を失った。いくら守備を鍛えていても外野の頭を越えては対処のしようがない。調子自体は悪くなかったが、先発の悪い流れを引きずってしまった形となった。
終盤に泉野高も反撃したが、試合は七対二で完敗。岡野も二イニングを投げて二失点と散々の内容である。
(……まぁ、仕方ないな)
今までが出来すぎだっただけで、これが本当の実力だろう。打撃マシンも配備され、専用の室内練習場も練習グラウンドも有している私立の学校に岡野が入学していたら、どう考えても試合に出られない打撃投手レベルだ。凹むどころかよく二点で抑えられたとさえ思った。自分が今日先発していたとしても、結果は変わらなかったに違いない。
負けたものの、来月に開催される北信越大会への出場は確定している。今度は北信越五県の予選を勝ち抜いた精鋭がぶつかり合い、センバツの出場枠二つを争うことになる。これまでとは比べ物にならないくらい厳しい戦いが待ち受けている。
(甲子園、か)
甲子園、それは全国の高校球児が憧れる野球の聖地。岡野も当然その夢舞台に立ってみたいと思う。けど―――
(厳しいかなー……)
絶対に無理とは思わない。今大会も新藤一人の力が大きかったが連勝を重ね、準優勝に輝いた。けれど、次に戦う相手は一回戦から各地区の予選を勝ち抜いた強豪校。奇跡でも起きない限り、トーナメントを勝ち進むのは難しい。一つでも勝てれば上出来だ。
「もしかしたら」と考える程に自惚れてはいない。客観的に現実を捉えていた。
あれこれ考えている内に、ふと疑問が湧いた。
(……甲子園に出ると内申点にプラスされるのかな?)
望んで出られるものではないけれど、もし事実であるならそれはそれで嬉しい。推薦を貰える程度の学力は無いので、内申点の底上げは受験する上で大きな武器となる。
まだ本格的に受験のことを考えていないものの、進路担当の教師が「今の時期から勝負は始まっている」と盛んに言っているのが思い浮かんだ。
(だったら頑張ろう)
我ながら現金な奴だと思う。でも、漠然とした目標より具体的な目標の方がモチベーションは上がる。
やれるだけの努力はしてみようかな?と前向きに考えてみることにした。
九月末。いつもと同じようにウォーミングアップから守備練習を終えると、岡野はブルペンへ直行した。ブルペンと言ってもプロが使うような立派な代物ではなく、部室脇の僅かなスペースに土を盛って設えた簡素な仕上がりだが。
『来月に行われる北信越大会へ向けて投げ込みが必要』と新藤から伝えられ、さらなるレベルアップを図るべく練習に励むこととなった。ブルペンに到着すると新藤は既にレガースを装着しており、いつでも受けられる準備を整えていた。
「肩慣らしするか?」
「うーん、大丈夫」
体はいい感じに温まっている。軽くグルグルと腕を回してからマウンドに立つ。
「スローカーブ」
宣言してから投球動作に入る。肩に余計な力を入れず、ゆったりとした気持ちで腕を振る。
ボールは一度ふわりと浮いた後、ゆるゆると変化しながら落ちていく。気の抜けた球は大きな放物線を描いて新藤の構えるミットの中へ吸い込まれていった。
(……うん、やっぱりこの球が自分に合っている)
今のは自分でも良い感触だった。
肩肘張らず、回転と重力に逆らわず、ゆっくりと曲がっていく。正しく自分の性格を体現していると言っていい。
ストレートがミットに収まった時のバシッと乾いた音も好きだけど、スローカーブがミットに収まる時の気の抜けた音も好き。
「もう一球」
再び投球動作に入る。投じたのは、勿論スローカーブ。スローカーブのように、今日も気張らずマイペースにやっていく。
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