LOVE or LIKE ?




 大きくて円らな瞳、天を突くように立っているオレンジ色の髪の毛、小学生と変わらない身の丈。誰がどう見ても高校生とは思えない姿である。
 しかし彼はれっきとした高校生であり、そして高校球児である。
 彼の名前は八嶋 中(やしま あたる)。あかつき大付属高校に在籍する三年生で野球部不動の一番バッター。通称『あかつきのイダテン』。
 この話は可愛らしいイダテンにスポットを当てた物語である―――



 【 LOVE or LIKE ? 】



 あかつき大付属高校野球部専用グラウンド。野球部専用と言っても一軍専用、二軍・三軍専用と分けられているから驚きだ。
 勿論一軍専用の方が設備が良く、ナイター設備やトレーニングルーム、シャワー室まで備え付けられていて正しく至れり尽くせりである。
 設備だけではなく実力も折り紙付きだ。二年生でありながら超高校生級の実力を誇る猪狩守を始め、今年のドラフトにも一目置かれている二宮、その他各種秀でた者が揃っていて隙がない。
 九つのレギュラーポジションの内、八嶋はセンターのポジションを守っている。小柄な体格で果たして大丈夫なのか?と心配する人も多いかもしれないが、彼には他の部員には負けない武器があった。
 それは……足である。
 セカンド・ショート・センターの三つのポジションは守備範囲が広い野手が守るのが定石となっている。特にセンターはライト寄り・レフト寄りの打球も補球しなければならないので俊足の外野手が適任となる。
 『イダテン』の異名を持つ八嶋にはもってこいの守備位置である。最も、彼は左投げの選手であるために一塁か、投手か、外野手の選択肢しかないのだが。

 既に時計の針は五時を指していた。
 沈み行く太陽が生み出す夕焼けがグラウンド全体をオレンジ色に染めている中、一人二人と部室へ引き上げていく。
 一方時を追う毎に闇が忍び寄ってきても練習をやめない部員もちらほら見受けられる。
 その内の二人は内野ノックを一時間近く続けていたが、打ち手が疲れて少し休憩に入っていた。
 「なぁ、六本木。お前大丈夫か?」
 赤髪の少し怖めな男―――二宮が訊ねた。
 「うん、今日は調子が良いからね。それより練習につき合わせてゴメンね……。」
 「心配すんな。俺も最近打撃の調子が上がらないからノック打って感覚掴んでいたさ。」
 二宮は頭に巻いていたバンドを絞ると汗が溢れ出てきた。四月だからと言っても二時間ハードな練習を続けていれば体中から汗が噴き出すのも無理はない。
 同じく六本木のシャツもまた汗でべっとり体に張り付いていて練習量の多さを彷彿とさせる。
 そんな時、八嶋がダンボールを抱えてグラウンドに戻ってきた。
 「みんなー、ただいまー。」
 屈託のない笑顔。とても一時間に渡るロードワークをこなしてきた顔とは思えない。
 その笑顔は疲れている周りの部員を癒した。そのほっとした顔を見て八嶋もほっとする。良い循環である。
 「監督が差し入れで飲めってさ〜。」
 ダンボールの中には大量のペットボトル飲料が入っていた。しかも冷えているので水分に飢えているスポーツマンにとっては特に喜ばれる。
 ペットボトルのキャップを回して、口に含むと勢い良く喉へ水分が流し込まれていく。喉を通り、胃にまで到達した頃には体中から汗が再び滲み出てきた。
 しかしこれが一種の快感にも感じ取れた。
 「かーっ、うめぇ。ありがとな……って、もういねぇ。」
 確かに先程まで目の前にいた八嶋の姿はそこにはなかった。
 既にその姿は部室目掛けて一目散に走っていく後姿しか見えなかった。しかもかなり遠くに。
 「そういえば八嶋君『用事があるから先に帰るね』って言っていたよ。」
 「……アイツ、最近用事が多すぎないか?」
 二宮は一気に飲み干した空のペットボトルを片手に呟いた。
 一方六本木の方も滲み出た汗をタオルで拭きながら、砂にまみれたボールをいそいそと整頓していた。
 もう太陽は地の果てに潜り込んで、辺りは夕闇によって生み出された闇に包まれつつあった。その直後、ナイターの照明に灯が点けられ、闇は瞬く間に消え去ってしまった。


 翌日の昼食の時間。キャプテン・四条の元には珍しい来客が訪ねてきた。
 同じ野球部でレギュラーの九十九であった。葉っぱを口にくわえ、ひょうひょうとした表情で弁当を抱えてクラスにやってきたのである。
 九十九は扉越しに四条へ『ここは煩いから屋上で』と視線を送り、そのまま立ち去ってしまった。その後姿を追って四条は席を立って屋上へと向かった。

 「ぇ?八嶋の様子がおかしい?」
 購買で買ったパンを頬張りながら四条は驚いた表情を見せた。
 驚きの表情を見せたのは四条だけではない。同じ野球部でレギュラーであり、同級生である三本松、七井、五十嵐、昨日の二宮などである。
 「そうなんや。毎日寄り道しているらしいんやけど、これもまた中の普段のコースとは違うんや。」
 八嶋の普段の寄り道コースとは、大きく分けて二つに分けられる。
 一つは神社に寄っていくコースで、神社にはお気に入りのノラ犬がいて、その犬と遊んで帰宅するパターン。
 もう一つは商店街に寄っていくコースで、この場合はハードな練習を多くこなした場合小腹が空いて買い食いをする時のケースである。
 この二つのコースは四条のコンピュータの中にもインプットされており、もしも何かあった場合にはこの二つのコースを辿れば大概の確率で遭遇できる。
 だが四条が想定していたケースとは違うルートを最近辿っているのである。
 商店街に出るケースではあったが、お気に入りの惣菜屋やたこ焼き屋に目もくれず、彼は何故か花屋に立ち寄って花を買った後にどこかへ去っていくというのである。
 「ワイの勘やと……女やな。」
 その場にいる全員がまさか、という顔をした。
 見た目どころか精神的にも幼い部分を残している八嶋が、恋をしているという可能性は極めて低いと思われていた。
 だが彼も一人の高校生である。色恋沙汰の一つや二つあってもおかしくないはずである。
 実際バレンタインの日に彼は女性からチョコを貰い、喜んでいる姿をみんなが見ている。
 「まさかその花屋の女性に恋をしているのではないか?」
 身長百九十センチ後半はあるのではないかと思う程の三本松が九十九に問いかけた。
 確かにこの情報の中には九十九の友人である花屋の情報も含まれていることから、その線もない訳ではない。
 ベタだナ、と隣に座っている七井が呟いた。ハーフである七井は日本語のアクセントが苦手である以外は、日本での生活に慣れている。
 外見からはモデルのように華奢な体つきをしているが、実際は筋骨隆々に引き締まった体を持っている。身長も三本松に引けを取らない。
 さらに『紫外線予防』という名目の下校則を破りながらも常にサングラスをかけていて、女性からの人気も高い。
 「いや、それはないわ。」
 九十九は大手を振って否定した。
 「何故だ?」
 「そこの家、花屋なんやけど花がないんや。」
 皆九十九の少し遠い言い回しに対して理解に苦しんだ。絵に表すとすれば頭の上にクエッションマークが浮かんでいる状態である。
 「どういうことだ?花屋なのに花が無いってどういうことだ?」
 堪りかねて二宮が九十九に真相を聞いた。
 こういった回りくどい言い方をされると腹が立つ性格なのか、普段から怖い表情をしているその顔に加えてオーラからも苛立ちが見えてくるようであった。
 「要するに……男家庭なんや。父親と兄弟三人が経営しとるんや。」
 ぁー、と感嘆の声が上がる。女性が一人もいないのであれば恋が生まれる要因など一つもない。これで花屋の看板娘説は消滅した。
 さらに花屋の友人も八嶋が花を買う理由も、その後の行き先に関しても全く知らないということである。
 真相への手がかりが一つ消えた。だが、完全に消えた訳ではない。
 「……しかし、花屋で待ち伏せしてその後を追えば何かわかるかも知れない。」
 四条がはじき出した答え。これもベタと言われればベタだが、最も確実に真相へ近づける。
 都合よく今日は一軍の練習は軽めの調整メニューになっている。大体一時間程度で終わるため、寄り道する可能性は低くはない。
 決行は今日。先回りして、八嶋の秘密を暴く。彼らの目的はそれ一点のみに燃えていた。


 放課後。野球部の軽めの調整メニューをこなした選手が次々と引き上げていく。
 それはレギュラー陣にとっても同じであった。
 「おう。皆集まっとるか?」
 「む、五十嵐がいないぞ。」
 「そういえバ、数学の特別補習に参加すると言っていたナ。」
 「けっ。医学大志望のヤツは大変だな。」
 二宮が皮肉っぽく吐き捨てるのを四条がなだめる。ちなみに六本木は軽めの調整メニューの後、監督に直訴しての地獄ノックを受けていた。
 「ほな、行きましょか。」
 口に葉っぱをくわえた九十九が道案内となって、待ち伏せ場所となる花屋へ向かった。

 十分程度歩いた場所に商店街の入り口を表す門があり、その門から歩くこと数分の場所にその花屋がある。
 しかし堂々と花屋の前で待っていたのでは八嶋に気付かれるため、それぞれ散開して待ち伏せていた。
 だが八嶋は一向に来る気配がない。店の人曰く「いつも夕方くらいに来る」と言っているが、まだ四時にもなっていない。来る時間が少し早かったようだ。

 そして時計の針が五時を指した。
 辺りは徐々に暗くなり始め、商店街を訪れる客層は主婦層が多くなってきた。夕飯のおかずを買いに来ていると思いきや、ばったり会った近所のおばさんとその場で話しこんでいる姿もちらほら見える。
 遊びつかれた小学生達はお腹を空かせて自宅へと全速力で向かい、それと同時に門限の恐ろしさのため慌てている素振りも見えている。
 こうしてみると夕暮れの商店街は人物ウォッチングには絶好の場ではないのだろうか。
 しかし、今はゆっくりと他人を見つめている場合ではない。
 雑踏の中に、オレンジ色をした髪の少年がやってきたのである。言うまでもないが目標の八嶋だ。
 商店街の入り口からはサングラス・カツラ・帽子の三点セットで尾行している五十嵐が、八嶋の後をぴったり尾けている。
 三本松や七井も学生服姿で八嶋に見つからないように配慮しながら尾行している。
 その一方四条は店先の物陰、二宮は小路の陰に隠れて八嶋の行動を随時監視している。
 隠れている姿の者達こそ見つけてはいなかったが、八嶋は後ろを追ってきている三人の存在に気付いていた。
 当然である。後ろをついてくる完璧とはいえない変装の男と、遠くにいる制服姿の大男二人の姿など、すぐに目に入ってしまう。
 (……なんでみんなついてくるんだろう?)
 深くは考えないでおこう。そう思って歩いていたら花屋の前に着いた。が、そんな考えを一変させる光景が目に入ってきた。
 色とりどりの季節を彩る花々が店先に並び、店内にも多種多様な花が置かれていた。仏花や神棚に供える榊なども扱っている。
 どれもこれも活き活きとしているのだが、この場には不釣合いな造花の束があった。しかも人一人が隠れられるような大きさで、中から一本造花ではない雑草の茎が見えている。
 間違いなく九十九であった。
 こうなった以上、何かあると察した八嶋は猛スピードで走り出してしまった。
 「何故や!?ワイの完全なる擬態が何故ばれたんや!」
 「誰だってわかる。行くぞ!八嶋の足だからこれ以上引き離されると辛いぞ!」
 造花の束の中から九十九がひょっこり現れた。しかし、花屋の前を行きかう買い物客ですら驚きの表情を見せていない。
 店から飛び出した八嶋の後を追って四条・二宮・三本松・七井・五十嵐が猛ダッシュで駆け抜けていく。九十九も負けじと後を追う。
 だがイダテンの異名は伊達じゃない。六人が全速力で追いかけているのに八嶋は徐々にその差を開いていく。
 チーム内でも足の速い部類に入る四条・九十九でさえ差を縮めることができないのだから、足の遅い部類に入る五十嵐・七井・三本松に関しては脱落に近い状況にあった。
 八嶋はただ足が速いだけではない。目の前にある人や障害物を減速することなく避け、さらに自分がどう行けば最短で逃げれるかを瞬時に判断する。
 そしてなにより、彼の走っている姿が美しいのである。
 まるでその小さな体に風の化身が乗り移り、グラウンドという小さな舞台の上を所狭しと舞っているように見える―――というらしい。
 実際に、今目の前を走っている八嶋の後ろ姿を見ていても美しいと感じてしまうのである。
 「……綺麗やな。」
 「あ!?何か言ったか!?」
 九十九が呟いた言葉に二宮が反応したが、九十九からの返答はない。
 三人とも全速力で八嶋の背中を追いかけているが、必死の猛追でも差が縮まることはない。
 それどころか三人のスタミナは限界に近付いており、体全体から汗が噴き出していて体内の水分のほとんどが汗へと変わっているかの如くであった。
 だが条件は八嶋にとっても同じであった。彼も無尽蔵なスタミナがあるわけでもないのでスピードもやや鈍ってきた。
 差を縮められることはないが、広げることは今の状態では無理に近かった。しかし、他の方法はあった。

 いつの間にか商店街を通り抜け、住宅街に舞台を移していた。
 区画され整備された街並みではなく、所々小路が迷路のように張り巡らされている。そういった小路は道幅が狭く、自転車やバイクの類も押して歩かなければならない程の幅しかない。
 複雑に入り組んでいる小路に八嶋が逃げ込んだ場合には逃げ切る可能性が高くなる。八嶋はこれを狙っていた。
 「四条、あかんで。中のヤツ、路地に逃げ込まれたらお終いやぞ。」
 「わかっている。……瑞穂!?」
 先程まで少し後ろを走っていた二宮がかなり後方で座り込んでいた。
 スタミナが限界に達したのか、それもしくは無理をして走っていたのか、かなり息遣いも荒く、顔色も悪い。
 「九十九、俺は二宮の手当てをしておく。後は……任せたぞ。」
 「合点!」
 四条は踵を返して二宮の元へ走る。残るは一人、九十九だけが八嶋を追う形になってしまった。

 案の定、八嶋は小路へ逃げ込んだ。
 スピードは若干衰えたがまだまだ追いつかれる速度ではない。九十九もまた疲労が足に来ており、速度も落ちている。
 だが八嶋の方が走る技術は一枚上手である。適度に速度を加減して体への負担を軽くしていると思いきや、直角になっている曲がり角をクイックターンで曲がるなど余力を残している。
 必死に喰らい付く九十九も、少しずつではあるがその差が広がり始めた。慣れない道での追いかけっこ、一人だけ残された使命、ここまで頑張ってきた意地、全てがその体に重く圧し掛かった。
 オレンジ色の髪と小さな背中を追っていたが、遂に見失ってしまった。
 「……あかん。やってもうたな。」
 体全体から湯気が上がっているかのように暑い。肌は汗で覆われ、口の中はカラカラである。
 かれこれ一時間近く走ってきたであろうか。普通の練習であれば三十分も持たずに根を上げてしまうのに、八嶋を追いかけることに夢中になっているとそれ程長いと感じられなかった。
 だが八嶋を見失ったことがゲームオーバーではない。可能性は限りなく低いが勘で八嶋を捜すのである。
 しかし捜す前にこの枝葉のように広がっている迷宮から抜け出さなくてはいけない。無我夢中で追いかけていたので今までの道のりなど覚えていない。
 とりあえず自分の勘を信じ、困ったときには人に聞いて。そうすればいつかは抜けられるだろう。
 九十九は重い足を動かし、今来た方向を戻っていった。戻れば先程の場所に戻れるだろう、と踏んだのであろう。
 春の風はまだ冷たいが、九十九の体も心も一足早く夏が来ていた。今の彼にとって春の風は夏に涼を運んでくれる涼風のように感じていた。

 暫く歩き回った後、どうにか迷宮から逃れることができた。辺りは陽も落ちて暗闇に包まれていた。
 先程まで肌を覆うように噴き出していた汗も、時間の経過によってすっかり蒸発していた。
 しかし未だに長袖のシャツをまくって腕を夜風に晒している。暖かくなったとは言っても夜はまだ冬の風が残っているのにも関わらず。
 これから帰ろうかと思った矢先、向こうから見慣れた姿の学生が歩いてきた。
 六本木である。今日は病院に行くために練習を休んでいる。
 「おぅ、優希。心臓の調子はどうや?」
 六本木は心臓を患っている。激しい運動は心臓に負担がかかるため、六本木は体のことを常に気にしながら練習を行っている。
 このことは監督や親しい友人にしか話していない。九十九もその内の一人である。
 「うん、心臓もハートもばっちりさ。大丈夫。」
 左胸に手を当ててそう話す表情もいつもより明るい。今日の検査で良い結果が聞けたみたいだ。
 「そっか、そら良かったわ。ところで中知らんけ?」
 「八嶋君?彼なら今日も病院に来ていたけれど。」
 あっけない結末であった。
 あれだけ一生懸命になって八嶋の背中を追っかけ、結果見失って今こうしてここにいるのに、意外な場所で八嶋の行方を知ることができた。
 今日はもう遅いので病院に行くのは明日にすることにした。今から病院に行っても八嶋はいないであろうし、なにより自分の体力の底が見えていた。


 翌日。土曜日で授業もないので午前中から野球部の練習があった。
 軽めの調整メニューを行っていたはずなのに八嶋・六本木を除く三年レギュラー陣の体のキレは芳しくなかった。
 当然である。練習後にいつも以上に走りこんでいたので下半身が重いため全体的に動きが鈍いのだ。
 そんなことを全く知らない監督は激しく檄を飛ばし、右に左に打球を飛ばして選手を徹底的にしごき続ける。
 一方八嶋・六本木は軽やかな動きで監督から縦横無尽に飛んでくる球を捕球する。
 この日は激しいノックと簡単な打撃練習・走塁練習で終わり、三時前になってようやく解散となった。
 練習終了後、八嶋はいつも通りそそくさと帰り支度を済ませ、昨日の教訓を活かして尾行されないよう配慮しながら何処かへと去っていった。
 しかし九十九は既に六本木から八嶋の行き先を知っているため尾行する素振りを見せず、八嶋の姿が消えた頃に別ルートで目的の病院へと向かった。

 六本木の案内で訪れたその病院は災害時の地区拠点病院に指定されている程の大きい病院であった。
 正面入り口の棟は高度経済成長期に建てられたため老朽化が進んでいるが、最近建設された棟では最新鋭の医療機器が整備され、綺麗な印象が伺える。
 九十九が案内されたのもその棟で、一般入院患者が入院する階の最も奥の部屋へと向かった。
 部屋に近付く度に、病院特有の重苦しい雰囲気が緩和されていくような気持ちになった。一番奥の部屋から笑い声が漏れてくるのである。
 メンバーはその笑い声の片方の人物を知っていた。言うまでもなく八嶋であった。
 そっと部屋の中を覗いてみると、窓際の椅子に座る八嶋とベットの上で座っている女性が楽しそうに話している姿が目に飛び込んできた。
 ベットの傍にある棚の上の花瓶には沢山の花が飾られており、八嶋の手にも今見頃を迎えている桜の枝がある。
 「彼女はね、原因不明の難病にかかっているんだ。彼女があとどれだけ生きられるか担当医ですら検討もついてないらしいよ……。」
 辺りに重たい空気が流れる。
 自分達は今こうして五体満足で野球に打ち込んでいるのに、今ベットの上にいる彼女は運動どころかいつまで生きられるかわからない状態にある。
 いつ訪れるかわからない死の恐怖、というものが今の彼女の顔には全く出ていない。むしろ生きていることを楽しんでいる活き活きとした顔だった。
 「家が近くにあって小さい頃から親しかった八嶋君が彼女の病気を知ったのは数年前。その頃はまだ彼女も歩けて病院内を一緒に散歩していたのだけれど、今ではベットの上に座るのがやっと……。」
 彼女は季節の移ろいを感じるのはとても好きだった。だが今では歩くこともままならず、季節の移ろいを窓を通してしか感じられなくなってしまった。
 季節を肌で感じるのと、目で見るだけでは全然違う。風一つだけでも四季によって変わってくる。
 春の風は厳しい冬の終わりを告げ、草木の緑を呼び覚ます風。
 夏の風は夏の太陽と共に草木の成長を促し、勢いのあるものの背中を後押しする風。
 秋の風は北の涼しさを大地や草木に知らせ、来るべき冬に備えさせる風。
 冬の風は生きるものに試練を与え、大自然の恐ろしさを感じさせる風。
 どの風がどの季節の風かは、全て肌で感じなければわからない。花の匂い、草木の感触、特定の季節にしか採れない味―――どれも同じである。
 「八嶋君は彼女のためにいつも季節を感じられる物を持ってきて、無機質な空間に季節の風を吹き込むんだ。それだけじゃなくて彼女を明るくさせようと気遣ったり……。」
 八嶋が持ってくる外の情報や下らない話で彼女は笑い、その笑顔を見て八嶋も笑う。しかし、いつも見ている笑顔と少し違っていた。
 互いに心の底から笑い、何も含まれていない笑顔で返しているのである。この笑顔の前には恐怖も痛みも飛んでいってしまうだろう。
 それに対して自分達は病室の一歩手前の壁にもたれかかって病室から漏れてくる笑い声を聞いているだけである。
 入ろうにも入れない、今ここで自分が入ったら水を差すのではないか、そんな雰囲気に包まれていた。
 帰ろうか、と思い九十九は足を踏み出そうとした時であった。八嶋が病室から駆け出てきたのである。
 八嶋としては昨日必死に逃げ回って振り切れたはずなのに何故みんながいるのかが不思議であった。
 「あれー?なんで宇宙(そら)と優希(ゆうき)はここにいるの?」
 まさか六本木の案内で来たなんて知るはずもない。
 「ん、あぁ。ちょっと用事があったんや。のぉ?」
 九十九が六本木に投げかけると黙って首を縦に振ってうなずく。ふーんと八嶋も納得した表情をした。
 「ところで中……あの娘のこと、好きなん?」
 少々躊躇いながらもストレートに核心部分について訊ねた。
 二人の様子を遠くから見ていても関係も悪くはないし、八嶋も毎日のように通いつめていることから気がないわけでもなさそうだ。
 材料はある。最も知りたい部分は八嶋の腹の内に答えがある。
 「うん!好きだよ!」
 なんの躊躇いもなく即答した。それも屈託のない笑顔で。
 これで九十九の中で答えは出た。自分達が想像しているような関係ではなく、ただ単純に“好き”なのだと。
 そっか、と九十九は呟いてその場を後にした。六本木もその後を追うようにその場を去った。
 その場に取り残された八嶋は二人の後ろ姿を見送った後、缶ジュースを買いに自販機の方向へと走っていった。

 病院から出た九十九はポケットから携帯を取り出し、誰かにメールを送った。それも一人にではなく、何人にも同じ内容のメールを送ったのである。
 一通り送り終わった頃、六本木が九十九の元に駆けつけてきた。
 それを待っていたとばかりの表情で九十九が六本木に話しかけた。
 「優希、ちょうど良かった。悪いんやけど、今から―――を取ってきてほしいんや。」
 そのモノを聞いた時、六本木は一瞬戸惑いの表情を見せた。
 「良いけど……一体何に使うの?」
 「ふっふっふ。我に秘策あり、や!それは後々になって教えたる。」
 その表情を伺うに何か仕掛けるのであろう、と長い付き合いからの経験で読み取った。

 一時間後。先程の病院の屋上には三本松と七井の姿があった。待ち構えていたのは九十九ただ一人だけである。
 二人の肩には大きな布の袋が担がれ、その中身ははちきれんばかりに詰まっている。
 「おぅ、九十九。お主に頼まれた例のモノを持ってきたぞ。これで足りるのか?」
 「おぉ、これだけあると充分や。おおきに、お二人さん。」
 「それは良いガ、何に使うのか知りたいネ。一体何を企んでいル?」
 袋の中身を確認している九十九に対して七井が訊ねる。
 『あるモノを一時間の間に出来るだけ多く袋に詰めて病院の屋上に持ってきてくれ』というメールを受け取ったものの、何に使うのか全く見当が付かなかった。
 そのモノとは、普通の人ならば全く興味を抱かないモノであり、ゴミ同然のモノである。それを九十九は多く掻き集めろ、と言うのである。
 実際九十九の足元にもあるモノが詰まっていると思われる袋が置かれてある。
 「種明かしすると、こうや―――……」

 同じ時刻、西日が窓から差し込んでくる先程の病室には八嶋の姿がまだあった。
 彼女も少し疲れたのかベットの背もたれにもたれかかり、八嶋の話す姿をにこやかに見つめている。
 と、そこへ再び来訪者が訪れた。
 六本木であった。
 八嶋も六本木の姿を見ると椅子を差し出すが、六本木は手を振って断る。
 「お久しぶり。お加減はどうだい?」
 どうやら六本木と彼女の関係は浅くはないようであった。
 彼女は黙って微笑むだけである。今こそ病状が安定しているが、回復しているという感覚はないようだ。
 それを表情で察して六本木はそこから先は深く聞かない。
 「ところで、さっきもいたのに何でまた来たの?忘れ物?」
 八嶋が訊ねると六本木は首を横に振った。
 「先程は手ぶらで来たから、二人にお見舞いの品を持ってきたんだ。」
 窓から外を眺めてごらん、と言うと二人は窓の方向を向いた。
 そこにあるのは半日空に昇っていた太陽が沈み行く光景があった。確かに綺麗ではあるが、いつも見ている夕陽と変わり映えはない。
 すると、上から何か小さいモノがひらひらと舞い降りてきたのだ。それも一枚だけでなく、次から次へと雪のように降ってくるのである。
 八嶋はそのモノが何なのか気になり、窓を開けた上で身を乗り出してその舞い降りてくるモノを掴んでみた。
 その掴んだ手を開いてみると、そこには一枚の桜の花びらがあった。
 この棟は八階建てで病室は四階にあり、最低でも四階の建物以上の高さの桜の木がなくては花びらが落ちてくるはずがない。高さ数十メートルの桜の木などあるはずもないし、病院の近くには桜の木もない。
 では、何故桜の花びらが落ちてくるのであろうか?
 その種は屋上にあった。
 九十九と三本松、七井の三人がそれぞれ持ってきた大きな袋の中身は桜の花びらがぎっしり詰められており、それを手掴みでばら撒いているのである。
 「最初あのメールを見た時は驚いたネ。『桜の花びらをありったけ袋に詰めて病院の屋上に持ってきてくれ』とはこのコトだったのカ。」
 「だが、粋な演出だな。夕陽と桜吹雪とは滅多に見えないぞ。」
 三本松・七井が感心したような口ぶりで九十九に語りかける。
 「たまにはえぇやろ、こういった凝った演出も。中(あたる)に贈る最高の餞(はなむけ)や!」
 屋上から桜吹雪を降らせているが、病室では幻想的な風景を目にしていた。
 「綺麗ね……」
 「そうだねー。」
 それ以上二人からは言葉が出てこない。この美しさの前では言葉はいらなかった。
 沈み行く夕陽の光によって桜の花びらがキラキラと煌き、まるで季節外れの雪が降ってきているようであった。
 触れても冷たくない雪は八嶋と彼女がいる病室にだけ神秘的な光景をもたらしたのではない。他の病室でも同じように普段見れない桜吹雪を堪能していた。
 病院にいる人だけではなかった。周囲に住んでいる近隣住民もまた幻想的な光景に酔いしれ、目を釘付けにされた。
 この光景を目にしている人々全ての心にこの景色が目に焼きつき、忘れることはないであろう―――
 「ところで九十九、一つ気になったのだが聞いて良いか。」
 「ん、なんや。なんでも聞いてぇな。」
 「下はどうするんだ?」
 「私も聞きたかったネ。ファンタスティックなことやったけれど、下はかなり汚れているネ。」
 「……。」
 これまで花咲きじいさんの化身になったが如く桜の花びらを撒いていたが、撒いた後のことまで考えてはいなかった。
 地上はピンク色一色に染められており、もしも風が吹いていたのであれば他の民家へ飛んでいってしまった可能性すらある。
 見ているのであれば「綺麗だな」と思えるであろうが地上にいる人にとってはたまったものではない。
 こうなってしまうと人々の心ばかりか半永久的に記録として残る事態になりかねない。
 そのため大急ぎで地面に散らばっている桜の花びらを回収し、ゴミを片付けて塵一つ残すことなく撤収した。もちろん病院関係者への謝罪も済ませて。

 九十九達が懸命に掃除していた頃、六本木は一足先に病院を出て帰宅路についていた。
 病室から見た幻想的な風景を反芻しながら歩いていると、ふと一つの疑問が頭の中に思い浮かんだ。
 (日本語の“好き”には英語の“LOVE”と“LIKE”の二つの意味があるんだよね……八嶋君は一体どっちの“好き”だったんだろう。)
 愛情を抱いている“LOVE”と、好意的な感情を抱いている“LIKE”。日本語に訳せば二つの単語は“好き”となるが、意味は全く変わってくる。
 あの時九十九は『好きなん?』と訊ねたため八嶋は『好き』と答えた。どちらと解釈のつかない“好き”である。
 (まぁいいや、僕には関係ない……それに、曖昧で終わらせることも時には大切なことだし。)
 後ろから背中を押されるくらいに強い風が吹き、その風に舞って桜の花びらが飛んできた。六本木が手を差し出して掴んでみると、その掌の中に花びらが包まれていた。
 風の方角から言って恐らく先程までいた病院から風に乗ってきたのであろう。
 彼は一度解いた掌を再び握り締め、そのまま家のある方向へと歩き出していった。
 風は追い風である。この風はもしかするとイダテンの今の心境なのかもしれない―――




 前々に挫折していた作品を少しアレンジした作品です。実は最近の作品では珍しく一ヶ月かかってない作品です。(一ヶ月かかるのも少し問題ですが。)

 実は導入部分が一番苦労しました。前に書いていた時も導入部分が固まらなかったために全削除しました。それと苦労したのは題名部分で、候補に『風に舞うイダテン』『風を呼ぶイダテン』やら八嶋っぽい題名が欲しかったのですが、印象が良かった現題名にしました。
 八嶋の描写は非常に難しかったです。「できるだけ可愛らしく」を目標としたのですが、どうなっているかは微妙です。それと彼女の描写がきちんと出来ているかが心配です。

 個人的に六本木・八嶋・九十九の三人は非常に使いやすいです。この三人を上手く使えば物語に幅が出てきますし、なにより私自身がこの三人が好きだからなんですけれど(笑)あ、好きっていうのは“好意的な感情を抱く”という意味ですよ?

 納得したと言えば納得した作品。これ以上の作品が書けるよう精進していきます。

 (2006.09.14. up.)

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