春がやってきた。
このように文字で表現されても実感が湧くという人はなかなかいないだろう。捉え方は人それぞれ違うのだから。
春を告げる妖精が人々に春を知らせにきてくれるという訳ではないから、実にわかりにくいことである。もっと目で見てわかるようになれば、皆が納得するだろう。
では人々が春を肌身で実感するのはどのようなキッカケからか。想像してみて下さい。
雪が降らなくなる?布団から出るのが辛くなくなる?ぶ厚いコートを着なくても外に出れるようになる?
いやいや。それもありますけれど、もっと目に見えてわかることもありますよ。
もっと身の回りに見ることが出来るはずです。ある時は普段の視線よりも高い位置に、またある時はぐっと視線を下げて足元に、時には見るだけではなくて味わうことも出来るでしょう。
お隣さんの梅の木に花が咲いた。近所の河原の土手にツクシが生えた。食卓にフキノトウの天ぷらが上がった。
そう、季節を表すには植物が最適なのだ。植物は天候が余程巧妙でない限り騙されないので、季節の到来を的確に我々に伝えてくれる。
特に日本人は季節の移ろいを楽しむ傾向が強い。春夏秋冬とはっきり分かれていることもあるが、季節毎の楽しみ方を知っているようである。
夏のジメジメと蒸し暑い気分を一爽するために花火をして不快な気持ちを忘れさせてくれる。食欲が無くても冷たいスイカがあれば食欲も少しずつ戻ってくる。
それでは春がやってきたということで日本人的な楽しみは何なのか。答えは至極簡単。
日本人に心から愛されている(と思っている)花を愛でること。それ即ち、“花見”である。
【春の陽気に誘われて】
全国展開するドーナツチェーン店。ディスプレイの中にはより取り見取りのドーナツ達がご指名を待っている。
流石に平日の昼ということで客席はちらほらと人が座っている程度で空席が目立っている。来店した人の多くが店で食べるのではなく、テイクアウトして家で食べるみたいだ。
ガラスの外から射し込んでくる陽の光は柔らかく、その光を浴びているだけで睡魔の動きが活発になって眠りの世界へと引き込もうと躍起になるだろう。
嗚呼ここにふかふかの布団があれば真っ逆さまに眠りの世界へと誘われるだろうに……こんな日に仕事をしているなんて、なんて残酷な運命なんだ。
大して客も来ないのだから、ちょっとくらい寝ていても罰は当たらないよね。カウンター越しの若い女性がふと悪魔の囁きに耳を傾けてしまうくらい、陽気な日である。
店の外の空は水色よりもスカイブルーと表現した方が的確なくらいに、濁りのない澄んだ色の空が広がっていた。その空の中心に太陽がぷかぷかと浮かんでいるようにも見える。
ガチャリと戸が開く音がした。一瞬で悪魔は消え去って現実に集中する。音の方向を向いて、笑顔で「いらっしゃいませー」と挨拶する。
入ってきたのは背丈だけで判断すればそこら辺に居そうな小学生のようだった。
新緑をイメージするような淡い緑色の髪にクリクリッとした瞳が特徴的な男の子である。見ているこちらがほんわかとした気分になる、そういう独特の雰囲気に包まれていた。
おつかいかな、と余計なお世話を巡らせている内に男の子は店員の目の前まで来ていた。
ディスプレイをじっと見つめているその瞳は、濁りのない純粋な瞳であった。これが世間を知ることで汚れていくんだなと思うと、希少価値があると思ってしまう。
恐らく店員の大きさよりも一回り小さいと思われるその子の指は今色とりどりのドーナツに向いている。ドーナツを選んでいるその真剣な顔は女の子顔負けである。
「すみません」
女の子のような声が、店員の心をくすぐる。店員と同年代の男の子達はみんな低い声をしているから、緑色の髪の子が逆に新鮮に聞こえた。
ちょっと緊張しているのか先程よりも表情が固かった。それはそれで見ている方からは可愛いのだが。
これと、と最初に指を指したのはゴールデン・チョコレート・ドーナツ。生地にチョコレートを練り込んだドーナツに黄色の粒チョコレートを塗した一品である。
抜群の人気とは言わないが、長い間ファンから愛されている商品で、売れ行きも悪い方ではない。
口に頬張るとポロポロと黄色の粒チョコが零れ落ちていくが、一口噛み締めるとドーナツのチョコ生地と粒チョコがマッチして独特のハーモニーを奏でる。
店員が慣れた手つきで素早くドーナツをトングでつかんでトレイに乗せたら、男の子は続いて一番下の段にあるアップルパイを指差していた。
ドーナツ屋なのにアップルパイとは意外な組み合わせかも知れないが、このチェーン店は以前に中華の飲茶(ヤムチャ)も提供していることと比べるとそんなに違和感を感じない。
世界で最も有名なハンバーガーショップや街角のパン屋でもアップルパイを扱っているが、このドーナツ屋のアップルパイが一番美味しい。全国展開するチェーン店の中ではダントツだと思う。
こんがりキツネ色の衣を身に纏ったアップルパイは、トングで挟んだだけでもサクサクという軽快な音が聞こえてきそうだ。
そして外側を覆っている薄い壁の先にはトロトロになっていながらリンゴの果実がしっかりと残っているアップルジャムが隠れている。砂糖を使いすぎない程良い甘さで食べる者を虜にする秘密兵器だろう。
「以上でよろしいですか〜?」
いつもの声より1オクターブ高い声が出ている時は気分が良い証拠。多分今の私はとってもいい笑顔をしていることだろう。
目の前の男の子は恥ずかしそうにコクリと頷いた。その所作が全て可愛らしい。
「お会計258円になります」
会計を済ませている間にテキパキとドーナツ達を袋に詰めていく。男の子はポケットの中から青色の財布を取り出して小銭を摘んでいる。
詰め終わる頃にはお金がきっちりトレイの上に並べられていた。
紙袋を手渡すと男の子は私ににっこりと微笑みながら会釈をしてきてくれた。これこれ、こういう紳士的な対応が出来る人って凄く素敵なんだよね。
微笑み返すと今度は照れくさそうな表情を浮かべ、そのまま扉の方に向かって歩き出した。
「ありがとうございました〜」
心の底から『ありがとうございました』と言えた。
また来てくれないかな。小さな背中が見えなくなるまで目だけで見送った。
朗らかな陽気に誘われて、先程買った袋を片手に提げて河川敷までぶらりと出た。
川の流れに沿って桜の木が植えられていて、満開になると花見客で埋め尽くされる程の盛況を見せる。
しかしながら多くの蕾は堅く閉じ篭っているままではあるが、春を思わせる暖気に誘われてポツポツと薄い桃色が顔を出しているものもある。冬の空気がまだ若干その辺を漂っているのもご愛嬌だ。
気の向くまま歩いて河原の手頃な大きさの石があったのでそれに腰掛ける。身を屈めて手を伸ばせば川の水に手が触れられそう。
……本当に静かだ。車のエンジン音や人の営みが奏でる音などは微かに耳に入るだけで日常の喧騒とは一線を画している。
サラサラと流れていく水の音、空を渡る小鳥の鳴き声、草が風に揺れる音。普段はかき消されてしまう、自然の音しか聞こえてこない。キラキラと川面を反射する光も心を穏やかにさせてくれる。
静寂の時を破ったのは不覚にも自分だった。くぅ、とおなかが鳴り、小腹が空いたと声を上げている。景色に見惚れる余り忘れていた空腹が現実に引き戻すなんて、自分の体も風流など気にしてくれない。
膝に乗せたままの紙袋の封を開ける。お姉さんが包んでくれたドーナツとパイが紙袋の底にこじんまりと行儀よく座っていた。
どっちから食べようかな。好物が二つ並んでいて、つい迷ってしまう。口の中では涎が知らない間に出てきて移り気な自分を急かしてくる。少しは考えさせて欲しいな、選ぶのも楽しみなんだから。
ちょっと悩んだ末に選んだのはパイ。あまり強く持つと形が崩れてパイ独特の食感が大幅に減ってしまう。掴み加減は慎重に。そっと紙ナプキンを僅かに外して、口に運ぶ。
サクリ。幾重に重なるパイの層を噛んだ瞬間に聞こえてくる幸せの音。続けて煮込んでトロトロになったリンゴ味のジャムが舌に強い甘みを知らせる。
一回、二回と口を動かす。シャリ、とこれまでと違った音は四角を保ったリンゴの実。食感にアクセントを加えると共に、形を変え姿を消したリンゴを強く脳に印象づけてくれる。
ポロポロと服の上にパイの欠片が零れるが今はそんな些細なこと気にしない。口中に広がる甘味と食感を楽しむだけで手一杯。息をつく暇も惜しむくらいに夢中だった。
最後に一口でパクリ。あぁもう終わったのかと過ぎ去った余韻を味わいつつ、紙袋に手を伸ばす。
今度は形が潰れる心配はあまりしなくてもいい。ただ手に持った感触から推察される以上に脆いので油断は禁物だが。
それよりも気をつけるべきは、輪っかの外側に付いている黄色の粒。
ドーナツに絡めただけなので衝撃に対して非常に弱い。持ち上げたこの段階で堪えきれず紙袋の中へコロコロと軽い音を立てて真っ逆さまに落ちていく。
出来るだけ落とさないように気をつけながら口へ運ぶ。そして一口、噛み締める。
口に入れるとホロホロとした食感が一番に来て、その次にチョコの香りが口の中に広がる。そしてゆっくりと口を動かせば、周りの粒が弾けて強い甘みが自己主張をする。
あぁ、幸せ。声にならない声が思わず洩れる。
晴れ渡る青空の下、好きな物を口いっぱいに頬張る。なんて幸せで贅沢な時間なんだ。
いつの間にか顔が綻ぶ。感情が最も表れやすい場所は表情だが、人間は表情を意図して変えることも出来る。でも、今は別に隠す必要もないので感情の赴くままに任せて幸せを満喫する。
(そういえば店員さん、僕のこと年下に見ていただろうな)
ふと先程のお姉さんのことが頭に浮かぶ。人の良さそうな笑みを浮かべた、好感の持てる若い女性。いつも行っている時と違う人だったのでちょっと戸惑ったけれど、接してみたらそうでもなくてホッとした。
でもね。見た目からは想像出来ないかも知れないけれど、本当はお姉さんよりもずっとずっと年上なんだよ。
僕の容姿は十にも満たない小さな体ではあるけれど、本当はこの町に宿っている神様なんだ。
神様だからって言っても別に偉いわけじゃない。ただ町のことを見守っているだけ。時々こうして姿を現して、みんながどんな暮らしをしているのか直接見ているんだ。
やっぱり町に住んでいる人が笑っていないと、僕自身も幸せだと感じられない。今こうして生きていられるのも、町に暮らす人達のおかげだから。
今日は春の陽気に誘われて、久しぶりに町に出てみた。美味しい物を寄り道ついでに買って食べる。ささやかな幸せを感じるこの瞬間が、僕自身は一番好き。
そうこう考えている間に、ドーナツも食べ終えてしまった。ご馳走様。
さて、次はあそこへ行こう。あのパン屋さんのクリームパンは絶品だからね。今度は桜の木の下で食べてみたいな。
すっと立ち上がると土手の方へと歩き出した。爽やかな風を身に纏い、穏やかな春の日差しに包まれて小さな神様は今日もどこかへ歩いていった。
春の陽気に誘われて外をゆっくり散策するのも、たまには如何でしょうか。
いつもは気付かない何かに会えるかも知れませんよ?
END
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