(まったく、なんであの人はこんなこと熱中できるのかしら)
大神ホッパーズのホームグラウンド。観客席。本拠地の試合にも関わらずファンの数は少ない中で、彼女はじっと座っていた。
ホッパーズの前身であるモグラーズ時代からこの球団は観客数が少ないことは野球ファンの間では常識に近いほど浸透していた。大神グループが買収してからはさらに拍車がかかってしまった。
あの人に「今日試合に出るから見に来て」とせがまれ、仕方なく球場まで足を運んでみたけれど、何が面白いのかよくわからないでいた。
この席だと打席に入るあの人の姿が遠すぎて見えない。しかもずっと出ている訳ではない。私はあの人だけを見に来たのに、なんでこうもつまらないのだろう。
攻撃よりも守備の方が魅力的。あの人の背中がいつも見えるから。嗚呼、ずっと守備でいればいいのに。
大体野球というスポーツのルールすらよくわからないのに、なんであの人は私をこの場に呼んだのかしら。
この椅子だって固くて座りにくい。もっとふかふかしたものだったら長く座っていられるのに。応援の人の声ってうるさいし。
……こんなところであの人の背中を見ているよりも、あの人と二人っきりでいる方がもっと濃密な時間を送れるのに。
「いかがされましたか?お嬢様」
ふと隣に座っている執事の牧村が話しかけてきた。
お兄様が是非と言うから連れてきたものの……これじゃ保護者と変わらないじゃない。
いつまでも子ども扱いなさらないでほしいな、と心の中で呟いた。
「なんでもありませんわ。それより牧村」
今は9回の表……あの人のチームが勝っているからこのまま行くとあの人に会える。
何回か球場に足を運んでいる内におぼろげながら野球のことがわかってきた。あの人がこの球場で試合の日は、必ず後攻。基本的に9イニングで、後攻チームが勝っていると9回裏はなし。
だから……いつもより早くあの人に会える。
少し考え込んだ後、冬子は口を開いた。
「城田に明日のお茶のお菓子は何か聞いてきてくださる?」
「かしこまりました」
最近お嬢様の嘘が簡単かつわかりやすいものが多くなってきた、と思う牧村ではあるが決して口外しない。
どことなく頬を赤らめて、あの人を待っているという気持ちから最近表情が柔らかくなった。幼い時分から仕えている牧村にとって、その成長が微笑ましく思える。
牧村はそそくさと球場を後にした。あの人の背中一点を見つめているお嬢様を残して……
〜 それぞれの想い 〜
FourRami
家に帰ると早速お嬢様から頼まれた用事を済ませるべく、城田の元に向かった(もっとも、これは牧村を帰らせるための口実であることは重々承知していることであるが)。
城田も城田でそのことを察してか、お菓子の件を話すと話題はすぐさまお嬢様の話になった。
「最近のお嬢様のお顔は、どことなく柔らかくなりましたな」
牧村と同じお嬢様評をしているのは、雪白家お抱えのシェフである城田だ。お互い長い間お嬢様のことを見てきたことだけあって、ちょっとした変化にも敏感である。
どちらかと言うと城田の方がお嬢様に対する思い入れが強い。小さい頃なんかは城田にべったりくっついていたので、牧村としては多少嫉妬していた時期もあった。
だが、今となってはいい思い出となっている。一人前のレディになってしまったお嬢様は、どこか遠い才女のように思えてしまうこともある。彼ら二人の中のお嬢様はまだ小さいあの頃のままである。
お茶をすすりながらお嬢様の話はまだまだ続く。
「最近は頻繁にあの方とお会いしておりますな。建前で付き合っているように繕っているものかと思いきや、案外本気なのかも知れませんな」
「あの方とお付き合いされているのでは?近頃では二週間に一回は屋敷にお招きして一緒にお茶を共にしておりますが」
雪白家付きのシェフだけあって、家に拘束される時間が多く、外でのお嬢様に関する情報には疎い。
だが牧村は諸々の雑事に追われていてお嬢様の詳細なことはあまり知らない。家の中のことならばむしろ城田の方が情報量は上かもしれない。
「てっきり私としては付き合っているものかと思いましたが……いやはや違いましたか」
牧村は相槌を打ちつつも軽く否定した。
「いやいや、なんと言いますか。正式にお付き合いはなされてないみたいで」
「……やけに心配しているのだな」
ふと牧村が振り向くと、そこには謎の男性が立っていた。冬子と同じ金髪。容姿端麗。顔立ちもすっきりしていて女性にモテる顔。
「ぁ、晴継様」
“晴継”というのは、この屋敷の実質的な主である。若年でありながら辣腕を振るい、幾つもの会社を切り盛りしている。当然ながら冬子の兄に当たる。
すかさず立ち上がったが、晴継は手で制した。表情も穏やかなので、使用人の不始末に対して怒っているようではないようだ。
「構わない。茶飲み話で息抜きも必要だ。……ところで牧村、城田」
突然声色が変わり、表情が険しくなった。
「あの男のこと、何かわかったか?」
あの男というのは先程まで話題に上がっていたあの方のことに違いない。
以前晴継が設定したお見合いを冬子が欠席した際、冬子が『私は今このお方と付き合っているのですわ』と啖呵を切られ、結局お見合いの話が流れてしまった経緯がある。
今までそのような浮ついた話を一度も聞いたことがなかったので、その場しのぎの一言だと誰しもが思っていた。
しかし、あれから数ヶ月経過した今でも付き合いは続いており、いつの間にか本当に付き合いっているのではないかという話にまで発展している。
晴継にしてみれば自分が進めていた話を流されて顔に泥を塗られる思いをさせられ、さらには氏素性も知らない輩なんかと付き合って欲しくないという兄心が強く働いている。そういった点では“あの男”と呼んでいる手前、好意的に見てはないのだろう。
もちろん妹の将来を考えれば……好きな男性の元で幸せになって欲しい。それだけは変わらないのだが。
そんな晴継の思いとは裏腹に、牧村は首を横に振った。
「ここ数日、あのお方の近辺を調べてみましたが、これといった情報は出てきませんでした……凡人なのか、はたまた何かを隠しているのかわかりかねまする。」
晴継の命令あらば即座に動く。これが牧村の裏の顔。まるで現代に生きる忍びのような存在である。
確かにあのお方の情報があまりにも少ないことには牧村自身も違和感を感じていた。色々な所に探りを入れたが、あのお方の経緯があまりにも見えてこないのである。
今年ドラフト外でホッパーズに入団。だが、どこかの学校やチームで野球をしていたという形跡は見当たらない。ドラフト外で入団する選手が今の世の中少ないからとは言っても存在することに変わりはないが、素人が一朝一夕でプロに入れる世界でもない。
それでありながら身体能力が異常に高いことも疑わしい。噂ではホッパーズのコーチで合気道の有段持ちでもある根室コーチをも唸らせたと聞いている。
さらには根室コーチとお嬢様は元々師弟関係。晴継と初めて遭遇したあの日も、根室コーチと共に来たとされる。
しかも入団経緯どころか出身地も出身学校もわからないらしい。球団関係者にお金を掴ませて情報を聞き出そうとしても、逃げるだけで口を割らない。
これが牧村が数日間の間に調べ上げた結果であった。当然ながら牧村本人にとっても不本意な結果になってしまったが。
「……わかった」
牧村からの提出書類を一通り眺めると、厳しい表情でその場を後にした。
そして晴継はおもむろに携帯電話を取り出し、アドレス帳からとある番号にかけた。
1コール、2コール……3コールに入る前に相手が電話に出た。
「もしもし、君に頼みたい仕事があるのだが……」
数日後。冬子は噂のあの人と会っていた。
今日はあの人のチームは試合がない。だから二人っきりで出かけることが出来る。相手から自分のスケジュールを教えてくれることもあったが、最近では自分でホッパーズの日程を確認するようになった。
……今ではあの人からの電話が愛しく思える。
ちょっと前までは“形だけ”の付き合い。お見合いの時に抜け出したことをお兄様から追求され、半ば言い訳のようにあの人と一緒にいたと言ってしまった。確かに少しの間あの人と一緒にいたけれど、そんな関係じゃなかった。
でも、あの人と“形だけ”で会っていく中、自分の中にちょっとした変化が生まれた。小さいようで大きな変化。
特別な好意を持っていない“形だけ”の付き合いから、“深い”付き合いへ。
もっとあの人と一緒にいたい、もっとあの人のことを知りたい、もっとあの人と一緒の時間を共有したい、あの人と―――
恋人に思い焦がれる女性ってこんな感じなのかしら。勝手に心がときめいてしまう。
今ではもうあの人なしでは生きていけない。そうかもしれない。もう、何もわからない。
ただあの人が好き……。これだけは決して揺らぐことも変わることもない真実。
この甘い時間が永遠に続けばいい。彼女は今幸せに包まれていた。
その日の夜。
冬子を家の近くまで送った《あの人》は、いつものようにホッパーズの選手寮に帰ろうとした。
すると、突然暗闇の中から誰かに呼び止められた。
「……だね。」
《あの人》は一瞬ドキッとしたらしく肩をビクッとさせた。暗闇から突然自分の名前を呼ばれたら誰でも驚くが。
振り返ると、そこには晴継の姿があった。闇夜の影から姿を現したと表現した方が正しいか。
互いに面識はある。あのお見合いキャンセルの件を晴継が冬子に問い質した時に、《あの人》はその場に居合わせた。そして、堂々と『お付き合いしている』と啖呵を切られた。
今思い出しても苦々しい。冬子、いや妹のためを思ってこその縁談だったのに、こんなどこの馬の骨だかわからない輩のせいで台無しになってしまった。
どれだけ妹のことを思っているか、俺の気持ちが貴様なんかにわかるか。
心の底から湧き出てくる感情を表に出さず、落ち着いた口調で「驚かせてすまないね」と謝る。
―――急にどうしたんですか?
晴継さんと語りかけてくる《あの人》に、間髪入れずに本題に入る。
「君は、なにか隠していることはないか?」
―――さて、なんのことでしょうか
まるで定例句のような言葉が返ってくる。表情には微塵の変化もない。この男とぼけるつもりか。
「野球以外に何かしているだろ?」
晴継の優しい口調がそれとは真逆の意味が含まれていることを意味する。
だがこの男はまだとぼけようとしている。見ての通りホッパーズに所属するプロ野球選手ですけれど、と返答がくる。
こっちは貴様の尻尾握っているんだぞと吐き捨てたいがぐっと堪える。
「……CCRの組織員でも、か」
この晴継の言葉で一気に表情が変わった。
CCR。その存在は政府の中でも限られた存在にしか知られてないとされる秘密機関の略称である。
その成り立ちに関して詳細なことはわかっていないが、近年テロの脅威に晒されている中で、国民の間にも不安や危険が指摘されたことから発足したとされる。
最近では街中に潜んでいるテロリストを殲滅するために銃器を使った大規模な掃討作戦も行われていると聞く。当然ながら殉職ということも考えられる。
ただの野球選手ならば妹を任せても良いのだが……妹を悲しませる可能性が高いと黙ってはいられない。
妹にとって大切な《あの人》は『CCR』の3文字で黙り込んでしまった。
これ程効果的なカードを手に入れたのも、とある情報屋のお陰である。数日前に電話をかけた相手こそが、情報屋である。
偶然にもこの男と関係があった情報屋だからこそ、ここまで確かな情報を入手することができた。本来ならばもっと時間がかかっただろうから、儲けモノである。
……但し、その情報には高い代償も払ったが。何故か情報を出し渋っていたのが気になるが、今はそれどころではない。
こんな薄っぺらな男のどこがいいんだ。ますます晴継の中にある憎悪が増幅される。
「出来るならば、妹を悲しませたくはない……危険なことに巻き込みたくない。君にもわかるだろ?」
気付かない内に言葉の端々に棘が出てきた。妹を思う気持ちと、妹を奪われたくない気持ちが複雑に絡み合っていることが、この言葉の中には含まれている。
だが、肝心のあの男は依然として黙り込んだまま。
自分の素性を知られて、冬子との関係についての選択に思い悩んでいるんだろう。そんな簡単に結論を出せるのならば、この男は魔性の悪魔として心の底から憎むだろう。
“野球選手”としての顔、“CCR組織員”としての顔、どちらが表でも裏でもない。この点は評価できる。だが、今回の場合だけは別だ。
いかにこの男が優秀であろうと、いかにこの男が妹に相応しくても、絶対に妹を悲しませない、危険に遭わせないと言い切れない。
それは今この男の心の中でも同じ葛藤で苦しんでいるんだろう。自分の中に隠れている本心を取るか、相手を本当に思ってこその偽りを取るか。どちらを取るかはこの男が決めること。
……だが、自分としては。
重い沈黙を振り払うかのように、晴継は胸の内ポケットに右腕を滑らせた。
機敏な動作で胸の内ポケットから取り出したのは、一丁のピストル。オモチャではない、本物のピストル。
そして静かに照準をこの男に定めた。引き金を引けば、この男の額を貫く。
仕事柄、命を狙われることもある。自分の手を汚さなければならないこともある。自分の身を護るために使わざるを得ない時もある。
正直なことを言えば、こんな手など使いたくはない。暴力という歪んだ力で脅してでも人の心を捻じ曲げれる程、この問題は簡単に決着するような重さではない。
理性ではそんなことはわかりきっている。今自分が出しているモノは、意地でも出すべきモノではない。わかっている。
だが、頭で抑えようとしても、止められなかった。右腕の暴走を止められなかった左拳は強く握られたまま解かれる気配はない。
返答次第では、また理性を失った右腕が動くかもしれない。そうなったら……悲しむのは妹だ。
緊迫した空気。無言で対峙する二人。静かなことが逆に不気味にすら思える。
するとこの男は突然くるりと晴継に背を向けた。
この行動に理解できないのは晴継である。まだ銃を収めた訳でもないし、いつ背後から撃たれるかわからない。
しかも相手はCCRの組織員。常に銃を所持しているだろうし、その腕前も悪くはないだろう。撃ち合いになった場合どちらが生き残るかも検討がつかない。
自らの命をも顧みないこの男の行動に、晴継はわかりかねてつい話しかけてしまった。
「……何故抜かない?」
君ならば抜けるだろう、とは続けなかった。半合法的に銃の所持を認められているこの男に対して、こちらは不当所持。銃刀法違反で警察に突き出されても文句は言えない。
この男、いや《あの人》は振り返って笑顔でこう返した。
―――俺が晴継さんを撃ったら、冬子さんを悲しませることになりますので
そう言うと、無防備な背中を晴継に見せながら歩いていった。晴継はその後ろ姿をただ黙って見送るしかなかった。
構えられている銃を引くことは出来なかった。あの男の姿が見えなくなってふっと肩の力が抜けた気がした。
(負けた)とふと思った。そして、なんとなくだが妹がこの男を選んだ理由がわかったように思えた。
1週間ほど過ぎただろうか。外出先から雪白家に帰ってきた冬子は、人が変わったかのように落ち込んで帰ってきた。
それは牧村の目からも、城田の目からも、誰の目から見ても今日あの人に会うことはわかっていた。
いつものように出かける前から明るく、誰にでも笑顔を振りまいていた。前日などはよく寝付けなかったらしいという話まで聞いていた。
それほどあの人というのは冬子にとって特別な存在であった。
……だが、出かける前とあまりに違う様子で帰ってきた。
使用人が声をかけても返事をしない。俯いた表情。目元に薄っすらと浮かぶ涙。くしゃくしゃな髪。
そして人目を避けるように自分の部屋に引きこもってしまった。
いつもならば笑顔で返事をして、今日の出来事を楽しそうに語ってくれるはずなのだが……一体何があったのか。
だが、冬子のあまりの落ち込みように誰も聞けずにいた。
(……私の馬鹿)
部屋に入るとそのままの勢いで布団の中に潜り込んでしまった。
まさかこんなに早く幸せが崩れるなんて思ってもいなかった。
こんなことになるのなら、言わなければ良かった。
浮かんでくるのは、後悔の念ばかり。今思い出しても涙が出る。
・
・
・
『貴方が好き』
思い切って自分のありのままの気持ちをあの人に伝えた。“形だけ”ではなく、“本当”の意味でのお付き合いに踏み出すために。
だってあの人のことが頭から離れない……あの人のことを想うだけで心がキュンとしてしまう。
あの人だって、“形だけ”でこんなに会いにきてくれるはずがない。あんな素敵な笑顔は決して“形だけ”ではないはず。
そう思っていた。あの人の答えを聞くまでは。
―――ごめん、君の思うような返事は返せない
思ってもいなかった言葉。
「ぇ、なんで……?」自分の動揺が声にまで伝わって、そのまま言葉になる。
暫く間を置いて“あの人”は答えてくれた。
―――お見合いの話を伸ばすための口実で付き合っていたから
嗚呼……馬鹿みたい。
今まであれほど私に対して見せてきた微笑は、私を恋愛対象として見てくれていなかったから?
ただの私の勘違い?
いいえ、そんなはずでは……。
幾つもの思いや思い出がクルクルと頭の中を駆け巡る。
こんな結末になるのなら、前に踏み出さなければ良かった。自分の気持ちを言わなければ良かった。
もしも言ってなかったら、あの人といつまでも時間を共有できていたのに。あの人といつでも会うことができたのに。
でももう全て終わった話。時間は二度と戻らないし、あの人との関係も……。
嗚呼、私ってホントに馬鹿ね。
今日起こった出来事が脳裏を瞬く間に過ぎり、枕に頭を埋めると、拭ったはずの涙がまた瞳から零れてきた。
ぁ、また涙が。いやね一人前のレディが。悲しいときでも笑っていないと……笑わないと。
感情のリミットは既に限界を迎えていた。頭が理性をもって込み上げてくる感情をコントロールしようにも溢れてくる涙が止まらない。
辛いときは耐える。悲しい時には楽しいことを思い浮かべてやり過ごす。
でも……今の自分を埋めている楽しかった思い出はすべてあの人から頂いたもの。
無理に抑えようとすれば逆効果だった。大粒の涙は頬を伝い、一筋の光となって零れ落ちてゆく。止まるどころかますます感情的になってしまう。
……今は、一人でいたい。こんな惨めな姿を誰の目にも晒したくない。あの人のことでいっぱいいっぱいだから。
・
・
・
翌日、冬子は大学の授業のため朝早くから出かけた。
昨晩のショックをも隠すクールな冬子は、あの人に出会う以前の表情である。あれだけ泣いていたのに痕跡すら残さない徹底ぶりだ。
そして城田が丹精込めて作ってくれた朝食を食べ、いつものように出かけていった。何事もなかったかのように……。
一方の晴継。妹とあの男との仲を引き裂いた張本人。昨晩起きた出来事について何も知らない。
今日は非番らしく、家でのんびりくつろいでいた。冬子が家を出るのも珍しく見送っている。
それは昼食を終えてくつろいでいた時だった。自邸の呼び鈴が鳴った。
牧村が応対に出ると、牧村はその人物が来ることを知っていたらしく、奥の書斎に通した。
晴継はその来訪を予知していたらしく、書斎の中央にある趣のある椅子に座ってその人物を待っていた。
ドアが開くと、案内してきた牧村の後ろには金髪で長身の女性が立っていた。
牧村は来客に会釈をしてその場を静かに辞した。ドアが静かに閉まると、晴継はその来訪者に声をかける。
「やぁ、先日はどうも」
落ち着いた笑顔を晴継は見せるが、相手の表情は強張ったままである。
「……彼の情報、続きがあるけれど聞く?」
なんともつれない物言いである。だが晴継は意に介さないらしく、特に表情に変化はない。
にっこり笑ったまま黙って頷いた。
「別れたよ、貴方の妹さんと彼」
端的に事実だけを述べる。余計なことを挟まないでストレートに。
そして彼女はこのことで怒っているのか。なんとなく彼女の言いたいことは推測できる。
だが晴継は本当に何も知らないような装いで無難な返事をした。もっとも、妹が別れたことは彼女の口から聞いて初めて知ったことだが。
これだけで用事は済んだかに見えた。が。
「……彼に何吹き込んだの?」
「さぁ?何のことだか」
「とぼけないで」
次第に鋭くなっていく口調。それに従って追求もエスカレートする。
まさかここまで仕事に私情が入るような人物だとは思わなかった。晴継は改めて女性の奥深さとやらを感じるが、今目の前にいる女性はそんな関係ではない。対等なパートナーとでも言えば良いのか。
彼女の名前はリン、情報屋である。先日あの男の情報について提供してくれた人物だ。
仕事の腕は一流で、度々世話になっている。当然ながら此方側からもそれ相応の情報を提供する場合もある。
だが、このプロの塊というようなリンですらも何故あの男の肩を持つのか。不思議でならない。
あんな男なんか彼女の足元にも及ばない。色気で踊らされて、必要がなくなればポイ、のような存在ではないか。
そうこう考えていると、彼女は鋭い眼光で晴継を睨みながら話し出した。
「彼の弱みをちらつかせて、妹さんと別れるように仕向けるなんて貴方らしくない。何?貴方妹さんを他人に取られたくないの?それとも男のジェラシー(嫉妬)?」
晴継の表情がピクリと動く。先程まで笑っていた顔が徐々に険しくなっていく。
赤の他人に何がわかるか。冬子のことを思って何が悪い。冬子は最も大切な妹だぞ。
冬子の命のためならば命だって捨てる。金も、地位も、この家も、何もかも捨ててやる。お前なんかにその覚悟はあるか?あんな男にその覚悟はあるのか?
嫉妬が醜いとでも言うのか。否定はしない。ああ、確かにあんな男に俺の大切な妹をくれてやるものか。いついかなる時に死ぬかわからんヤツなんかに。
そんなヤツに妹はやれない。幸せになれるなんて考えられない。奪うつもりならそれ相応の報復をしてやる。
いつの間にか憤怒の表情に変貌していた。鋭い相手の視線にキッと睨み返す。
そして懐に手を突っ込むと、掴めるだけ掴んだ万札を力任せに机の上に思い切り叩きつけた。
「……今回の報酬だ」
これを受け取ってとっとと帰れ、という無言の圧力である。
机の上に散乱したしわくちゃな万札を彼女は黙って整理して受け取った。
凍りついた空気を残したまま彼女は何も語らないまま書斎の扉を開けた。これ以上言い合いになると喧嘩になって収拾がつかなくなる。
だが、彼女は晴継の欠点を今回の件ではっきりと印象付けた。
自分の妹のことになると冷静な思考が出来なくなる。そして、あまりに妹のことを思うあまり妹の思いにまで考えが及んでないこと。
伊達に私は女じゃないのよ、と心の中で呟く。恋心を抱いた女性なんか一目見ればわかるし、そんな女性を応援したい気持ちもある。
この一件、まだ観察の余地があるわね。彼女の楽しみが一つ増えたと内心思いながら雪白家を後にした。
・
・
・
忘れよう。あの人との思い出を。あの人と一緒に過ごした時間を。あの人のことを。
そうよ、あの人だって今頃私のことなんか忘れているわ。きっと……。
それまでのことが無かったかの如く、何か吹っ切れたように表面上見せているが、内面ではまだあの人との関係について燻っていた。
実際には燻るなんて生易しいものではない。またいつ燃え上がるかわからない、確かな意思を持った火種。
しかもフられたことを引きずっている訳ではない。あの人のことを想うだけであの人への想いがさらに増す。
これが恋の病というものかしら。
……もう会わないはずなのに。笑顔でさよならを言えたのに。確かに終わったはずなのに。
あの人のことが……愛しい。愛しさが心に募っていく。
どうしたらいいのかしら……。
そして時間だけが空しく過ぎてゆく……。
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まるで魂が抜けた抜け殻。お嬢様を見た時にふと思った。
居間にあるソファに腰掛けて窓から遠い空を眺めるお嬢様。あんな弱弱しい姿を城田は今まで見たことが無かった。
普段はクールに振舞っているお嬢様だが、本当は快活で、笑顔を絶やさない子だった。その美貌も去ることながら内面的な強さも兼ね備える、理想的な女性。
幼少の頃からお嬢様を見てきた城田にとって、お嬢様はまるで自分の娘や孫のようであった。月日の経過と共にお嬢様が成長していくのが手に取るようにわかる。お嬢様のご意向が最優先なんて日常茶飯事。
だが悲しいかな、自分がお嬢様を喜ばせることができるのは料理だけ。
裏の仕事に関しては牧村の方が上手(ほぼ互角の実力だが、常日頃晴継の命で動いている点で劣っている)な上に、お嬢様にはそんなドロドロしたことに巻き込むようなことはしたくない。
家にいることが多くなってしまったが、その分牧村よりお嬢様のことは理解している。小さな変化にも気付く程敏感になれた。
それ故に気がついたお嬢様の変化。牧村や晴継様は気付いていないようであった。
何があったのか。大学で何かあったのか、いや違う。まさか……あの方と何かあったのか!?
直感的にピンと来たのはやはりあの方との関係。芯の強いお嬢様が少しのショックで動じるはずがない。
そうと決まると思い立ったが吉日という。城田はいそいそと何かを準備し始めた。
あと少しでお茶の時間。急がねば。
「お嬢様、お茶の時間ですぞ」
ニコニコと居間に入ってきた城田に冬子は視線を合わすが、何処となく気落ちしている様子で軽く会釈するに留めた。
どうやらお茶をしたい気分ではないみたいだ。お嬢様の目を見れば何を考えているか察することが出来るのは長年の経験からか。
だが幼少期のように、城田の顔を見るなり「イヤ!」とは言わない。嗚呼あの時のことを思い出すと今でも苦労しましたな……いかにお嬢様にお茶の時間を楽しんでもらおうかと苦心した日々のことを。
キャスターの上にはいつものようにティーセットとポット、それにお茶のお菓子がある大皿。だが今日はカップが二つ乗っている。
ソファの前にあるテーブルの上に大皿を置き、ポットからカップにお茶を注ぐ。お嬢様の好きなミルクたっぷりのミルクティー。
どうぞと言って城田が冬子の前にカップを置くと「ありがとう」と小さく声がかかった。
カップを口元に持って行き、ミルクティーを啜る。口の中でじっくりと味わい、静かに喉へと送る。そしてふぅと溜息。
(……あの人と一緒に飲みたかったな)
ここでも冬子の頭にはあの人のことが離れない。嗚呼またあの人のことを……
ふと意識を避けるために目の前にある大皿の上に乗っているお菓子を手に取り、口元に運ぶ。
クッキーかしらと噛んだ感触から察し、舌の上で転がすとさらに驚きが待っていた。
この味……もしかして。
「やはりお気づきになりましたか」
タイミングよく城田が声をかけてきた。
いつの間にか冬子の反対側に椅子を持ってきて冬子が飲んでいるミルクティーを共に飲んで、後味に残るミルクティーの甘さに酔いしれていた。
「……小さい時でしたかな。お嬢様は毎日のようにお茶の時間になると嫌がるようにお部屋を後にされておりました」
「えぇ、覚えているわ」
あの時のことを思い出すと無性に恥ずかしい。
お茶の時間が退屈でたまらなかった。何のためにしているのかよくわからないし、なによりつまらなかった。だからお茶の時間が嫌いだった。
いつも誰かに捕まって椅子に無理矢理座らされたため、余計に嫌になった。仕舞いには城田の顔を見る度に逃げ出すようになった。
だが、そんなに嫌っていた城田によってその意識ががらりと変わった。
城田が焼いたクッキーが、とても美味しくて、それからは毎日のように冬子が好きなお菓子がお茶の時間に並ぶようになった。
それからお茶の時間というのが楽しく感じた。お菓子を食べながら、お茶を楽しむという新感覚を発見したのもそれから少ししてからである。
……今並んでいるお菓子も、あの時に食べたクッキーである。
城田はニコニコしながら冬子に話しかけた。
「お嬢様、何があったかこの城田はわかりませんが、もっと胸を張って下さい……凛々しいお姿のお嬢様でいれば幸運も舞い降りて来るでしょう。」
城田が暗にあの方とのことについて話していることは冬子にもわかった。
そんな城田の小さな優しさが身に染みた。心の中にあるモヤモヤが少し晴れた気がする。
「えぇ、わかったわ。ありがとう、城田」
ニコリと微笑んだ冬子の顔は天使のように見えた。
先程と比べるとお嬢様のお顔が明るくなられた。少しでもお嬢様のお悩みを晴らすことに貢献できて良かったと思う城田であった。
冬子が再びカップを口元に運ぶと、外に車が止まったような気配がした。
またお兄様かしら。そう思案を巡らせている内に、玄関のドアが開いた音が聞こえた。
「お帰りなさいませ晴継様」
出迎えたのは執事の牧村である。
「冬子は?」
晴継の短い言葉に牧村が「居間におります」と即答する。牧村の言葉が聞こえた直後に居間のドアが開いた。
あの人と別れてから晴継と冬子は会話をしていない。兄にはあの人と別れたことを話していないし、晴継が独自の諜報網で別れたことを知っていることも知らない。
冬子は兄の姿を見るとぺこりと一礼した。城田はその場を辞して席を外す。
久しぶりに見た妹の姿を見て、どことなく昔の妹に戻ったように感じた。この点、城田と晴継の間に若干の差がある。
そのことで気を良くした晴継は、いつものようにニコッと笑った。
「冬子、お見合いのことなんだが……」
既にあの男と別れていることはリンからの情報で確認済。あの時は何故かあの男のことについて噛み付かれたが、腕は確かだから確証は高い。
前回こそあの男の邪魔が入った(それ以前に冬子自身の意思でお見合いから逃げ出したことは知らない)せいで水に流れてしまったが、今回は断る理由がない。今回こそと思う晴継の意思は強い。
だが冬子の反応は鈍い。
「またですか……」
誰の目から見てもわかる程、渋い表情をする。どう見てもあまり快く思っていないようである。
当然といえば当然か。自分の知らない内に晴継が勝手にお見合いの話を進めて、冬子の意思が全く入っていない。大体冬子自体このお見合いの話に乗り気ではない。
良い縁談だと晴継は言うが、本人が乗り気でなければ全て上手く話が進まない。それに相手にも失礼である。
「私は今あの方とお付き合いをしています。そんな中途半端な気持ちでお受けすると相手に失礼なのでは……?」
冬子としては兄に自分があの人と別れたことは知られてないと思っている。お見合いから逃げるために付き合っているように見せている。
「おかしいな、そんなはずは……」
確かにリンは別れたと言っていた。あのリンが不確かな情報を持ってくるはずがない。
その思案を巡らせる内に晴継の口から言葉がこぼれてしまった。
だが言葉がこぼれてしまったことが晴継にとって重大なミスであることに気がついていない。
ふと兄の口からこぼれた『おかしい』『そんなはずでは』の二言が妙に気になった。思わせぶりであるとしか言いようがない。
何故兄の口からそんな言葉が出てくるのか。兄は私とあの人と別れたことは知らないはず。城田も牧村も知ってないはず。
(まさか……!)冬子の頭の中で一つの結論が出る。
「お兄様……!あの方に何か言ったの!?」
ここでようやく自分の失言に気がついた。
「さぁ?何のことかわからないな」と笑って逃げようとするが、妹から睨まれていることから全てを悟ってしまったことがわかった。
まさかお兄様が絡んでいるとは。冬子としては信じられない気持ちでいっぱいだった。
お兄様のせいで無理矢理引き裂かれた。しかも自分の意思とは無関係に。自分の気に入らない相手なら裏から手を廻して無理矢理にでも別れさせる。
「最低だわ……」感情がそのまま言葉になって出てくる。兄に対する心からの失望がその言葉に集約されていた。
冬子にとって自慢の兄であった。世の中の男性と比較しても、兄には勝てない魅力がそこにはあった。
普段はクールに振舞っているが、私のことを誰よりも強く熱く想っている方。そんなところに魅かれ、そして尊敬していた。理想的な殿方。そう、今まで思っていた。
だが、今それは瓦解の如く崩落した。目の前にいる兄が、理想の兄でなくなった瞬間である。
「そう言うな。俺は冬子のことを思ってだな……」
言い訳のように聞こえる兄の言葉。
もう……聞きたくない。理想の兄じゃない兄に心から失望したし、そんな兄の声なんて聞きたくもない。
「適当なことなんて言わないでください!」
晴継の声を遮るように、冬子の荒げた声が室内に響いた。
「私のことは私自身で決めます!お兄様に!お兄様なんかに心配していただかなくて結構です!」
言い終わるなり駆け出す冬子。それを止めようとする晴継の腕が冬子に伸びる。辛うじて晴継の腕が冬子の腕を捕らえる。
間髪入れずに掴まれた冬子が晴継の頬を平手打ち。パァンと乾いた音。
叩かれた本人は目を丸くし、その場に呆然と立ち尽くす。緩んだ手を振り解いて冬子は部屋を飛び出していく。
冬子に叩かれた頬がヒリヒリと痛むが、その痛みを凌駕する驚きにただ為す術もなく唖然と立っているだけだった。今は何も考えられない。
まさかあの妹が……ここまで反抗するとは。叩かれた今でも信じられないくらいである。
側に控えていた牧村が黙って濡れ布巾を差し出すが、手に物もつかない様子で手に取ろうともしない。
そして城田は何も見聞きしていなかったかのように台所で夕食の準備に勤しんでいた。
「牧村」
上の空の表情で晴継がすぐ近くにいる牧村を呼ぶ。だがいつものような力強さはなく、か細くて今にも立ち消えそうな声だったが。
牧村もそれが本当に意味があって呼ばれたのかどうかについてわかりかねた。遠くから眺めている城田も抜け殻が冬子お嬢様から晴継様に変わっただけだという印象しか持ってない。
返答に困った牧村はいつものように執事らしく「はっ」と応えた。
だがその後の晴継の言葉が続かない。今の心境を言葉に表せないだけなのか、はたまたただ呼んだだけなのか。
固まった空気はなかなか緩むことはなく、ただ時間だけが刻々と過ぎていった……。
冬子はまた部屋に篭ってしまった。
兄の裏の顔に驚いたことが半分、そして兄によってあの人に辛い選択をさせてしまったことに対する罪悪感が半分。
あの人が兄に脅されたことってなんだろう。あの人がそんなに簡単に脅しに屈するような人ではないことはわかっているけれど……そんなことなんかどうでもいい。
それよりも、あの時「もう会わないでおきましょう」って笑顔で言ってしまった自分を後悔していた。
あんなことを言わなければ……私があんなことを言わなければ今でも会えたかも知れないのに。いつでも会うことが出来れば、今すぐにでもあの人の所に行って謝りたいのに。
自分から言い出してしまった以上、今更「またお会いできませんか」とは言えない。その言葉が言えたらどれだけ楽なのだろうか……。
終わってしまったことを後悔したくないって思っているけれど、どうしても後悔せずにいられない。私ってやっぱり弱いわ。
いくら強く振舞っても、傷つくのは結局自分。強がっているから痛みも傷もどんどん増えていく。
兄を恨めば自分の負担も軽くなるけれど、結局は自分が決めたこと。あの人に会えなくなったのも、別れる結論を出したのも、自分。
ようやく止まった涙も、また知らない内に出てきてしまった。……やっぱり私って、弱いのね。
一夜明けて。家から逃げ出すように飛び出した冬子は大学にいた。
成績優秀・容姿端麗。非の打ち所のない冬子は大学でも人気者であった。よくあるパターンのようであるが、それは言わないでほしい。
よくデートに誘われたりするが、全て断っている。特別な好意もない相手と遊びに行くなんてとんでもないことだと思っているからもあるが、兄という理想的な男性が近くにいたために周囲の男性がやけに幼い様に見えたこともあった。
だが、今となっては兄もまた理想的な男性ではなくなった。私の前で振舞っているお兄様と、裏からあの人との関係を終わらせるように仕向けた兄とではギャップが大きすぎた。
昨日は頭の整理がつかなかったけれど、今になれば兄のやったことがわからなくもない。一線を画していることに関しては当然大問題であるが、自分を思ってこその暴挙だと思うと責めるに責められない。
あの方との関係だけでも手一杯なのに、何故兄は私を苦しめるのか……こんな悩みなんか話せる友人がいないのが辛い所。
そんなことばかり考えて大学での一日が終わりに近付いてきた午後のことであった。
あの方が何の前触れもなく大学を訪れ、冬子の目の前に現れたのである。
いつものように野球のユニフォーム姿。恥ずかしいから少しは気の利いた格好が出来ないのと以前あの方に話したが、これが落ち着くと言って聞いてくれなかった。
変な格好と言えば変な格好だけど……あれが制服のようなものだと言われた以上返事に困ってしまった。
そんな姿なのでどこにいても当然目立つ。ホッパーズのユニフォームを着ている方と言ったらあの方としか思えないくらいにあの方は冬子の中に入っていた。
最初見た時には戸惑いを隠せなかった。あの時確かに私はもう会わないようにしようと言ったはずなのに……一体何故?
ふと無意識の内にあの方と関わらないように顔を逸らすが、相手は此方のことに気付いてしまったようだ。一直線に私の元に駆け寄ってくる。
―――冬子さん!
人目も気にせず、大声で私の名前を呼んだ。気付かないフリをしているのにあの方はもう私のことがわかっているのね。
無駄な抵抗はせずに、声に応じて顔をあの方の方向に向けた。
あの方の目元には大きなクマが出来ていた。少しやつれた感じもする。気のせいかしら。
でも、何故あの方は大学なんかに来たのかしら。ぁ、もしかしたら大学に用事が……
冬子の頭の中で思いを色々と巡らせていると、あの方の声が聞こえた。
―――冬子さんに大事な話があるんだ!
何かしら、大事な話って。冬子の興味はそこにあり、既に何故あの方が大学に来たのかという疑問は消え去っていた。
あの方の目を見ると、真剣な眼差しであった。いつもお会いしていた時のようなふざけているのか素なのかよくわからない表情とは全然違う。
そこから先の話は冬子には理解しがたい事実が、あの方の口から語られた。
自分は生粋の野球選手ではないこと、CCRという裏の仕事が本職であること、そのCCRとはどのような組織なのか、そして何故自分が野球選手をしているか……
あの方の口から語られることは率直に信じられない事柄ばかりであった。まるで御伽噺か壮大なフィクションを聞いているかのような錯覚に陥りそうになった。
しかし、その話が錯覚ではないことはあの方の目を見ればわかった。あんな目をして一生懸命話をする人が、嘘をついているとは思えない。
ふとした疑問があると即座にあの方に聞くと、わかりやすく説明してくれた。特にCCRの話に関してはあまりにも現実離れしているので話を理解するまで時間がかかった。
でも何故今になってこんな話を……?この疑問に関しては話に水を差すことになるのでやめておく。
一通りあの方の経緯を聞いた後、冬子はこれまであの方が話してきた内容を要約した。
「……つまり、貴方は本当の野球選手じゃなくて、裏の仕事が本業。そして、その裏の仕事はとても過酷で危険、ってこと?」
あの方は黙って頷いた。
今この話を聞くまで本当の野球選手だと思っていたくらいである。実際に野球を見に行っても周りの人とほとんど変わらないように感じたが、余程野球というスポーツが体に染み込んでいるのだろう。
そういえば前にあの方と合気道の組み手をした時、先生と見間違う程の動きをしたことを思い出した。身体能力や適応能力には長けているのかしら。
また考えていると、あの方が再び話し始めた。
―――……一度は諦めようと思ったんだけど、やっぱりダメだった
(それは私も……)
あれから何度も思ったけれど、ダメだった。何度そんな諦めの悪い自分を責めたことか。
でも、同じだったのね。諦められない苦悩は。
さらにあの方は話を続ける。
―――冬子さんが好きです、もう遅いかも知れないけれど、それが俺の気持ち
(ずるいわ……こんなタイミングで)
ずるい人。まるで言い逃げのように、しかも恥ずかしげもなくはっきりと。
こんな言い方されたら……誰だって何もかも許してあげてしまうじゃない。
だったら私だって少しくらい意地悪なことでも言ってあげようかしら。
「えぇ、遅いですわ……」
この冬子の言葉は重かったのか、ガクッと肩が落ちたのが見て分かった。
恐らく自分の行った行為を悔いているのだろう。やっぱり私と一緒ね。あの方も私を憎むことをしないで、自分を責める人。それだけ私のことを想ってくれる人……
だからこそ好きになったのかも知れない。昔の兄を見ているようで。
「本当に……待って、待って、待ちすぎて、貴方のことがもっともっと好きになってしまいましたわ」
ぇ?とあの方が驚いた顔で此方を見る。その顔に満面の笑みで返す。
これくらいのイタズラくらい、あの方のことを想っていたことを考えると罪償いということで許してくれるはず。
「今から後悔しても遅いわよ……今度別れようなんて言ったらもっと後悔するわよ?」
先程まで人生のどん底にいるような沈んだ顔をしていたあの方も、いつの間にか満面の笑みを浮かべていた。もうお互いに暗い顔はしていない。
するとあの方は黙って私を抱きしめた。……もう、やっぱりずるい人。
こんなことされたら……今の私は抗うことが出来ないじゃない。
この様子を遠くの草むらから黙って眺めている男が一人。言わずもがな、晴継である。
「あの野郎……よくも冬子にあんな破廉恥なことを!こうなったら俺自らが鉄槌を……」
ガンと高い音が聞こえ、その直後に地面に倒れこむ晴継。
その後ろには城田。何故か大きくて分厚いフライパンが手に握られているが、ここでは気にしないでおこう。
城田は恍けた口調で飄々と独り言のように何かを喋りだした。
「おやおや晴継様。こんな所で寝ておりますと風邪を引きますぞ。屋敷に戻りましょう」
振り返るとそこには牧村がいた。
何故か今日に限って車を丹念に磨いている。天気は快晴、それに牧村は車など滅多に磨かないのに今日に限っては丁寧に行っていた。
城田はそこに牧村がいることを知らないような口ぶりで、牧村に話しかけた。
「おぉ、牧村。そこにいたか。晴継様が寝込まれて起きないのだ、屋敷までお送りしていただけないか」
牧村も事の経緯に関しては見ていたはずである。だが、何も見ていない聞いていないを通すようで、城田が握っているフライパンには触れようともしない。
「わかったぞ。では城田、晴継様の足を持ってくれ」
ほいきたとばかりに城田は晴継の両足を抱え、牧村は晴継の両腕を抱えて車までお連れした。
そして、車の後部座席に晴継を寝かせると、そのまま車を発進させた。車の運転は牧村が行い、助手席には城田が座る。
「ところで城田、今日の夕飯のメニューはなんですかな」
「そうですな、今日はお嬢様のお好きな料理を。それも手の込んだものを……」
帰ってからはどうお嬢様を喜ばせようかということしか、今はこの二人は考えてないらしい。
それぞれ想いの形や強さは違えど、必ず誰かを守り、愛し、人を大きくすることには変わりはない……
(了)
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