メロンパン(加藤林檎作)  私の名は足利仁美。パンが好きで、パン屋でアルバイトをしながら生活している。  去年、大学を卒業したあと、町の中でも小規模な部類に入る、三つ葉ベーカリーに入り、これまで生計を立ててきた。  月給はたったの10万円。アパートの家賃が6万円もするので、いい食事は到底できない。  だが私は、そのような環境に立たされても、決して今の職場をやめようとは思わなかった。    小池マキト。三つ葉ベーカリーの常連だ。  彼は、私がアルバイトを始める1年程前から、毎日のようにここのパン屋に通っているらしい。  小池さんの目当ては、メロンパン。彼は、どのようなことがあっても、メロンパンは欠かさず買う人だ。なので私はたまに、店の人には秘密で、店頭に並ぶメロンパンが売り切れる直前に、籠から1つ、メロンパンを取る。そして、売り切れ後に店に駆け込む彼に、こっそりとパンを渡す。 「ありがとう。」 彼は、そんな時必ず、笑顔で私に言ってくれるのだ。私は、その瞬間が好きなので、絶対に転職はするものかと、心に決めている。  三つ葉ベーカリーが倒産した。  突然のことだった。私がアルバイトを始めてからおよそ半年経った、10月のある日のことだ。 「これから、仁美ちゃんはどうする?」  バイト仲間の雪乃ちゃんが言う。彼女は、私より1ヶ月後に三つ葉ベーカリーに入ってきた、同い年の少女だ。 「ベーカリー全体がつぶれたわけだから、他のパン屋を探すしかないわね。」  結局、雪乃ちゃんは大手のパン屋、松田屋の採用試験を受けることにした。雪乃ちゃんはパン作りの実力があるから、他のパン屋でもしっかりやっていけるだろう。 「仁美ちゃんも、早く行くところ決めた方がいいよー。」  私は困った。  自分には、パン作り以外に出来ることがないから。  次の日、小池さんが三つ葉ベーカリを訪れた。今日は、この店の最終営業日だ。  小池さんは、倒産の貼紙を見て、唖然としていた。  「突然だね。まさか、企業全体がつぶれるなんて。」  私を、店の外で見つけた小池さんが言った。私は、今最後のメロンパンを片手に、小池さんを待っていたのだ。 「ええ、これからの行き先、早く考えないとまずいわよねぇ。」  私は、店の外では彼と、いつもタメ口で話している。 「足利さんさ、良かったら僕の会社で働いてくれないかな?社長補佐ってことで。」  足利さんが胸ポケットから取り出したのは、一枚の名刺。 「足利マキト、みかんの家社長・・・え、足利さん社長だったの?」  私は愕然とした。 「考えておくわ・・・とりあえず、これ。今日は私が焼いたの。」  私は、メロンパンの袋を彼に差し出した。 「ありがとう。じゃ、最後の一日、頑張って。」   帰宅後。私は、みかんの家について調べることにした。  検索エンジンに、「みかんの家」と入力。  検索結果の中から私は、みかんの家の公式ホームページを選んで、ページを開いた。  オレンジのチェックをバックにしたページが、パソコンの画面いっぱいに表示される。 「へーえ、みかんの家って、果物の運送サービスなんだ。」  この会社に、小池さんがいる。  そして私は彼の補佐をする。 (こういう仕事、悪くないかもしれない・・・)  翌日の午後。私はみかんの家に電話して、早速本社を訪ねることにした。  場所は、私のバイト先だった三つ葉ベーカリーのある、桜通りの端の方。  私が会社の社長室を訪ねると、「小池社長」は部屋の前をうろうろしていた。 「あ、今日はわざわざありがとう。」  彼は自分の部下にお茶を淹れるように言い、私を社長室に入らせた。 「どう?引き受けてくれるかな、社長補佐。」 「あの・・・」  私は遠慮がちに言った。 「私なんかが、こんな仕事・・・」 「気に入らない?」  小池さんは、私の言葉をさえぎった。 「いえ・・・」 「僕は、今まで仲良く君とやってるつもりだった。だから、ちょうど店がつぶれて、行き先のことを困っている君に、この役をしてほしいと思ったんだ。」  畳み掛けるように彼は言っので、私は圧倒された。 「この仕事、引き受けさせていただきます!」 「ありがとう。」  小池さんは、いつもの笑顔で言った。  入社手続きを終え、くたくたに疲れた私は家路についた。  夕日が、道に並ぶビルをオレンジに照らしていた。  次の日。  今日は日曜日なので、私は最後の休日を、有意義に過ごすことにした(みかんの家は、年中無休なのだ)。  朝は、パンを作るための材料を買いに行くことにした。  今日作るのは、翌日社長に持っていく、メロンパンとクリームパン。両方とも、私の得意なパンだ。  朝食後、スーパーへ私は出かけた。 「あ、仁美ちゃん。おはよう」  レジの中年の女性、新井さんが私に声をかけた。 「今日は少ないのね。」  そう、いつもこのスーパーで、三つ葉ベーカリーはパンの材料を揃えていたのだ。 「あ、これは自分用なんです。店は、倒産しました・・・」  新井さんは、聞いてはならないことを聞いてしまったような表情になった。 「そう。で、次はどこへ行くの?」 「みかんの家に、就職しました。」  新井さんの表情が変わった。 「よかった。頑張ってね!」  昼食は、スーパー付近にあるファーストフード店で摂ることにした。  ハンバーガーとポテトを買い、空いている席を見つけて座る。 「あのー・・・三つ葉ベーカリーでアルバイトしていらした方ですよね?」  見た目20代後半くらいの女性が、不意に私に声をかけた。 「ええ、そうですけど・・・」  どうしてそんなことを聞くのだろう・・・私が不思議に思っていると、彼女が言った。 「先日まで、店で使うバンズを、三つ葉ベーカリーから買っていました。そちらのパン、お客様にもおいしいって定評があったんですよ!」 「ど、どうも・・・」  あまりに突然だったので、私は少し引いてしまった。  でも、この店員に言われて気がついた。  世界は広い。  小規模なパン屋が、こんなに多くの組織―材料の仕入先のスーパーや、商品を利用するファーストフード店、そして何より、パンを口にする人々とつながっているのだ。  私は、食べ物を作り、それを売る仕事が、こんなに素敵なものだと、初めて知った。  そして、その事実に気づいた瞬間が、もうパン作りの仕事に従事できないときだと知り、非常にがっかりした。  だが、私は今更「パンをこれからも作りたい」などと言っていられない。  採用試験は、私が思っているより困難なものなのだ。もともと三つ葉ベーカリーは、他のチェーン店になぜか嫌われていた。なので、三つ葉ベーカリーから他のパン屋に移るのは、至難の技なのである。  これからは、みかんの家で、他人と関わっていけばいい。  今よりももっと、多くの人と会って、自分を磨いていこう。  ハンバーガーをほおばりながら、私は心に決めた。  通勤初日。私は、手作りのパンを持って、社長室へ行った。 「おはようございます!社長。」 「おはよう、足利さん」  小池さんは今日は、スーツを着込んでいた。 「早速今日から仕事だね。じゃ、まずはもう1人の補佐役の・・・あ、来た来た。小島さーん!」  ピンクのツーピースに身を包んだ茶髪の女性が、こちらに歩いて来た。 「おはようございます。社長、えーっと・・・足利さん」  彼女は年齢不詳だ。しわこそないが、決して若そうではない。 「じゃ、2人で顔合わせからね。」  小池さんは、仕事に就き始めた。  「足利さん、休憩室へ行きましょう。」 私は小島さんに、社長室の隣の、こぢんまりとした休憩室に連れて行かれた。 「初めまして、私は小島優香。」 「足利仁美です、よろしくお願い致します。」  小島さんは、社長補佐の仕事内容を、つまびらかに指導してくれた。  そして、なぜ小池さんが、新しい補佐役を1人採ったのかも、教えてくれた。  小池さんには、愛人だった女性がいた。名は臼井美代さん。臼井さんは彼の補佐役をしていて、小島さんとも仲が良かったらしい。  しかし、彼女は今からちょうど一週間ほど前、交通事故で亡き人となったのだ。  小池さんはそれで、かなり落ち込んだらしい。何せ彼らは、3ヵ月後に結婚を控えていたのだから。  だが、小池さんも三十路。そして、会社のトップの人間、社長。そうそう落ち込んでもいられない。  なので彼は、好物である、三つ葉ベーカリーのメロンパンをいつもより多く食べて、元気を出そうとしたそうだ。私は、それを聞いて無性に嬉しくなった。1人の人間が、自分たちの作ったパンで元気を取り戻そうとしていたから。 「そして、タイムリーって言ったら何だけど、そんなある日三つ葉ベーカリーがつぶれたの。で、彼はせめて、店員だったあなただけでも自分の傍らに置こうとしたの。」  そうだったのか・・・私は、だからみかんの家に入社するよう、しかも社長のもとで働くよう、勧められたのか―私は思った。 「ありがとうございます、小島さん。いろいろ教えてくださって・・・」 「いいえ。さあ、これから2人で、社長を支えていきましょう!」  早速仕事が始まった。  まずは、各課への伝言。これは、毎朝補佐のうちの1人が社内の各課へ、放送でメッセージを送る、非常に重要な仕事だ。  小池さんは、その間他の会社との打ち合わせを行う。今日は、私は客の接待に当たった。 「初めまして、宮谷蓉子です。」  女性の社長(推定50歳前後)の、宮谷さんが頭を下げる。彼女は、物腰が柔らかい人だと、私は思った。  彼女はとても素敵な方だ。私が今まで会ってきた女性の中で、彼女はずば抜けて輝いて見える。 「宮谷さんは、みかんの家とつながりの深い、宮谷園の社長さんだ。宮谷園は、海外から果実を輸入する、ビッグスケールな企業なんだよ。」  小池さんが説明する。 「今月末、フィンランドに取材に行くんだ。ブルーベリーについて、調べようと思って。」 「そう。だから、足利さんご一緒しない?」  宮谷さんがおっしゃった。  こういう場合、自分よりも長い間小池さんのもとで働く、小島さんが同行するべきではないだろうか・・・・・・だが、私は思い出した。  今、小池さんは闇の中にいる。  だから、今は私が、彼のそばにいなくてはならないのだ。 「喜んで、お供いたします!」  その後、仕事は順調に進んだ。  宅配サービス受付部屋から受け継いだ領収書の整理を、私は小島さんと、黙々と勧めていった。 「足利さん、あなた会計とかに向いてるかもね。」  仕事を始めた1時間ほど後、小島さんが顔を上げて言った。 「そうですか?」  私は仕事を一旦止めて、お茶を淹れることにした。 「ええ。何て言うか、しっかりしていて・・・昔より私も仕事がはかどるようになったわ、ありがとう」  彼女は私からマグカップを受け取り、ありがとう、と礼を言う。彼女の笑顔は、心なしか小池さんと似ている。 「い、いや・・・私は、特に何も意識してないんですけど・・・」  紅茶の水面に、私の顔が映る。  フィンランドへの取材という予定が、私の表情を明るくする。  外国に行くのは高校2年の修学旅行以来だ。  私の心は弾んだ。 「ところで足利さん。北欧に、小池社長と宮谷社長と一緒に行くことになったんですってね。」  自分の心を読まれたようで、私はどきりとした。 「社長をよろしくね。あの人、子供っぽいところがあるから。」  小池さんが・・・?私はその話に興味を持った。 「そこが彼の大きな特徴で、会社の女の子には、とても人気が高いのよ。守ってあげたいタイプ、ってやつかしら?」  3年も昔からみかんの家に勤めていた小島さんは、社内の事情にとても詳しい(ちなみに小池さんは、亡くなったお父様の後継ぎとして、25歳という若さで、社長という役割をもらったらしい)。  もはや母親と姉しか心の支えがいない小池さんを、私は助けたいの、と小島さんは言った。  私は、毎日会社帰りに、旅の荷物を揃えるため、デパートに通うことにした。  1人暮らしの私の家には、生活用品がきちんとそろっていないのだ。  「じゃ、今日はここまででいいよ。」  夕方、少し疲労の色を浮かべた表情の小池さんが言った。今日は私の北欧行きが決まった三日後だ。  時計の針は、既に6時10分を差している。  外はもう黄昏時だった。 「はあ、疲れたー。」  私はパイプ椅子にもたれかかる。  デスクワークに慣れるには、まだまだ時間がかかりそうだ。 「ご苦労様、足利さん」  小島さんが、私の肩をぽんと叩いた。 「お疲れ様です。じゃ、私先に失礼します」  疲れた。肩がこったし、目がしばしばする。  しかし、今日も買い物に行かなくては。  私は、鞄を片手に会社を去った。  町内の某デパートの2階で、私はジャージを探していた。 「取材だから、あんまり派手なのは避けたほうがいいわよね・・・」  すると私は、背後に冷たい視線を感じた。 (誰・・・?)  私が振り返った時、そこには誰もいなかった。  一体、今のは誰だったのだろう。  私の心の中に、1人の女性が映った。  みかんの家、宅配サービス新人部長。  確か、名は園田雪。  私が今日会社を立ち去る時、私のことをじろじろ眺めていた、厚化粧の女性だ。  三十路くらいだと思しき彼女の瞳には、怒りの色がにじんでいた。 (気にしない、気にしない。)  私は自分に言い聞かせ、レジへ向かった。  その後も、私は幾度も視線を感じた。  私は気が気でなくて、落ち着いて買い物できなかった。  アパートに帰った私は、電話に留守電が入っているのに気がついた。 「2004年、午後、6時20分。1件、再生イタシマス」  機械のピーッ、という音の次に流れてきたのは、女性の甲高い声だった。 「今晩は、みかんの家宅配サービスの園田雪です。明日、都合がつくようでしたら昼休み、食堂にいらしてください。では、失礼致します。」  私の頭から、血の気が引いた。  どうやら私は、かなり周囲から恨まれているらしい。 (落ち着け・・・)  とりあえず私は、気分転換に出前をとることにした。  ファックスの脇にある、枚挙に暇がないほどの仕出し屋のメニューを引き出した私は、そのうちの1つの店、「そば・うどん亭」からそばを頼むことにした。  「ざるそば、1つ。はい、電話番号は・・・・・・はい、はい、お願いしまーす」  注文を終えた私は、受話器を元の場所に戻す。 「ふう・・・」  私はため息をつく。  きっと、会社では自分に関する悪い噂がたっているのだろうと思うと、私は気が気でなかった。  そばが届くまで、まだまだ時間がある。  私は暇つぶしに、パソコンをすることにした。 (久しぶりに、雪乃ちゃんにメール送ろう!)  メールボックスを選択、送受信、っと。 「あ、メール。」  雪乃ちゃんと三つ葉ベーカリーのもと店長から、メールが来ていた。 『仁美ちゃん、お元気ですか?私は今、松田屋で新しい友達と楽しく仕事してます。仁美ちゃんは、就職どうですか?では、またね。』  私は安心した。雪乃ちゃんは、環境が変わってもうまく仕事をこなしているらしい。 (雪乃ちゃんいい子だから、人気者なんだろうなー・・・)  私は無性に、彼女がうらやましくなった。 「さてさて、店長は・・・」  私は続いて、店長のメールも開いた。 『足利さん、元気ですか?私は、他店舗の店長数人と新たにパン屋を立ち上げることにしました。足利さんは、どのような生活を送っていますか?そのうちまた メールください。では、さようなら』  店長も元気に過ごしているようだ。  私は、一瞬魔が差したようだ。  仲間がたくさんいて、自分の好きな道を進んでいる幸せな彼女たちに、私は嫉妬心を抱いた。  雪乃ちゃんだって、慣れない事だってあるだろうし、店長たちだって企業を立ち上げるわけだから、それなりの苦労はあると思う。  だが、彼女たちは自分の決めた道を、活き活きと進んでいる。  それに比べ、私は・・・私は思った。  偶然振ってきた仕事をただ引き受けて働き始めて、しかも周りに恨まれて。  自分は、いつになったら本当に楽しい人生を取り戻すことが出来るのだろう―私は、頭を抱えてしまった。  とりあえず、仕出し屋が来たので私はパソコンの電源を切った。    「おいしーい!」  そばを私は、むさぼるようにすすっていく。  久しぶりに、おいしいものを食べた気分だ。 「あ、何かもっと食べたい・・・」  私はかなりお腹が空いているらしい。  そばに続いて、私は家にあったあんぱんを頬張った。 「明日に向けて、体力を蓄えないと!」  明日、園田雪に何を言われるか分からない。  場合によっては、暴力を振るわれるかもしれないのだから。  翌日。 「おはようございます・・・」 「あ、足利さん、おはよう。元気ないのね」  小島さんは、今朝は私より早く出勤していた。 「大丈夫?」  彼女は、私のことを気遣ってくれた。 「今日は、私がお客様の接待するから、足利さんは伝言やって。」  各課への伝言は、今日は量が少ない。  それに、これは楽な仕事だから、小島さんはこの仕事を私に任せたのかもしれない。 「あ・・・ありがとうございます」  私は、小島さんが自分に向けた笑顔に元気付けられた。  とりあえず、お昼までは園田さんのことを忘れて、しっかり働こう。  私は、1人ガッツポーズをとった。   時間とは、早く経ってほしいときほど、進むのが遅く感じられる。  つまり、それとは裏腹に、時間は進んでほしくないときほど、早く感じられるものなのだ。  昼休みは、すぐにやってきた。  私は、社内の大食堂へと向かう。  片手には、一応弁当を下げて。  「あら、来てくださったんですのね」  園田さんは、私を見てくすりと笑った。 「特に、用事ありませんでしたから。」  もちろんこれは嘘。私は、物事が中途半端になるのが嫌いだった。 「単刀直入に言いますわ。」  私は心の準備をした。  園田さんは、こちらにつかつかと歩み寄ってきた。 彼女の縦ロールが、激しく揺れる。 「これ以上、社長に近づかないで下さらない?」  来た。唐突な、彼女の第1発目。 「あなたには、関係ないことでしょう」  私は負けじと言い返す。 「あなたがいると、彼はどんどん弱くなってしまいます。確かに、臼井美代さんが亡くなって、社長は落ち込んでいらっしゃるはずです。だからって、突然あなたが現れて、そこまで彼を甘やかすのはおかしいのではなくて?」  まくし立てる彼女。 「だから、それは彼が決めたことですし、それに私は社長を甘やかしている自覚はありません。」  必死で戦う私。 「何なんですの、あなた。入社していきなり社長補佐だなんて。」 「不満があるのなら、社長に直接訴えてください。あくまでも、これは彼の判断で決まることなんですから。」  園田さんは、とうとう耐え切れなくなったようだ。  彼女の手が、私の頬に伸びた。  パシーン。  平手打ちを食らった私は、倒れて食堂の壁に体をぶつけた。 「失礼致します。」 (負けた・・・)  私はよろよろと立ち上がった。  小池さんは、このことを知っているのだろうか。  彼は、何が何でも私を北欧に連れて行くつもりなのか。    そして何より。  彼は、どれだけ今私に依存しているのだろうか。  小池さんと、しっかり話したい。  私は夜、彼を呼び出すことにした。  「社長。今日の退社後、お付き合いいただけますか?」  私は、昼休みの後社長室で他社への礼状を書いている小池さんのもとへ行った。 「あ、いいよ。どこにしようか」  私は、この状況で初めて気がついた。  どこだったら、他人の好奇や嫉妬の目が届かないだろうか。 「じゃあ、今日は閉門時刻になった後、ここで話そうか。」  彼は微笑んで言った。  きっと、会社の女の子たちはこの笑顔に弱いのだろう―私は何となくだが、そう感じた。  そして、彼は今、私が他人の視線を浴びないよう、気を遣ってくれている。私は、それが嬉しかった。 「はい!ありがとうございます。」  退社時刻。  小島さんが帰ったのを見計らって、小池さんは私を部屋に招き入れた。  私は早速話を切り出す。 「えっと、社長。私、社長と本当にフィンランドへ行っても・・・」  すると彼は、私の肩を叩いていった。 「うん。確かに、入社後間もない君が、急に取材旅行なんて、周りは不満を抱くかもしれないし、疑問の心だってあるかもしれない。」  私は、小池さんがきちんと社内の事情を把握しているのだと思い、感心してしまった。 「でも、僕はどうしても美代のことが忘れられない。だから、つい君に依存してしまったんだ。」 「・・・はい。」  私は、言葉の内容を咀嚼していく。 「僕は、自分のことを弱い人間だと自覚しているつもりだ。だから、僕が自立するまで、もう少しの間、足利さん。君に、頼ってもいいかな。」  彼は頭を下げた。  小池マキトという1人の人間は、自分の支えとして私を自分の傍らに置いた。  だから私は、この会社で、彼のために働き、存在するべきなのだろう。  周りの噂を気にして、この組織を去るなどということは、到底今の自分に出来そうもなかった。 「もちろんです。」 「ありがとう。」    彼の笑顔を、満月の光が照らしていた。