ゴースト〜マウンド上の幻〜 「ストラィーク!バッターアウト!」 辛辣な毒舌のような速球が外角低めに決まって、バッターがうなだれる。観衆がドッと湧いてボク――この早川あおいに拍手を送る。 これぐらい当たり前じゃない。何てったってリーグNo.1の中継ぎエース。ファン投票ダントツの1位でボクはこのオールスターのマウンドに立っているのだ。 そりゃあ可愛いからとか萌えだとか、体をくねらせるサブマリン投法がエロいからとかで投票した輩もいるだろうけど、前半戦終わって4勝4セーブの防御率2.42という堂々たる数字。しかもこのオールスター第一戦、6回途中から投げて現在7回2アウトに至るまで走者を許さない完璧な投球なのだ。 先発完投?ハッ。っていうこのスタンス。そりゃあ先発の方々は一人で投げ抜いて気づいたら血豆が破れてボールが血染め、なんてのが美学だとか思っているかも知れませんけどね(苦笑)時代はとっくに分業制なわけ。キミたちは6回7回そこらでボクにマウンド譲ってアイシングで生物兵器みたいな肩になりながらベンチでお茶でも飲んでなさい。あとはボクがパパッと締めて勝ち投手にしてあげますから、っていうこのスタンス。 次は5番打者で、ボクは初球外角のカーブでワンストライクを取る。取る。取ろうと思ったらオールスターで逆上せているのかこのオッサン、コツーンて右打ちしてやがんの。打球は速く、一二塁間を抜けて行った。こいつバカじゃないの。スラッガーの端くれならせめて引っ張ってきなさいよ。必死だな。全セ必死だな。 『6番 レフト 小波ー』 近所のジャパンの店員、こんな声出すんだよな、とか小波君をコールするウグイス嬢の嘘くさい高音を聞いて思う。 小波君はパワフルズに所属している去年から売出し中の若手スラッガー。ボクと彼は高校の地区が一緒で何度か対戦したことがある。多分あの男の辞書に『繊細』とか『聡明』なんて言葉はない。かなりの熱血君だ。そこが変に魅力的だったりする。いやん。 何でも小波君は前半戦だけで20本打っているらしい。でもボクは慌てない。今日のボクはノっている。それに彼の弱点はわかっている。内角低めの変化球だ。あはは。余裕綽綽。  ――でろでろでろでー♪ と、心中笑っていると遠くで呪いにかかったような音楽がした。野球場来てまでドラクエやっている子供でもいるのかしら。まあ関係無いわ。ボクは内角に必殺技『マリンボール』を投げた。よし!ワンストラ…カキーン。何カキーンって? ははは。まさかなーと半笑いで振りかえると、レフトスタンドにポーンと白球が突き刺さるのが見えた。頭の中が真白に曇っていくのが感じられた。いやいやホント、何カキーンって……。 『……ですが7回、後をうけた早川がリードを守りきれません。2アウトランナー1塁から小波に2ランを浴びてしまいます。後続の打者に次々とフォアボールを許し……』 ボクは宿舎の自室で、オールスターの結果を報じるスポーツ番組を見ている。部屋の明かりも着けずに、ベッドの上に体育座りで、右手に缶ビールを持って。 『いやー小波は肘をたたんでコンパクトに振りぬきましたねー。素晴らしいバッティングです。あれは打者を誉めるべきですよ』 解説者がテレビごしに慰めてくれるのだが、ボクはまた落ち込んでくる。チーンッ!と鼻を噛む。涙を拭う。で、またビールを一杯。さっきからこれの繰り返し。 だって仕方ないじゃない。オールスターの大舞台で逆上せあがって身のほど忘れて同点ホームラン打たれて、更には四球連発で降板なんて、あああ!恥ずかしすぎる。 〈調子に乗っているときこそ、その隣には死神が待っている〉 とは、さる球界の大御所の名言なのだが、今のボクにはとってもよく理解できる。 「まあまあ。あおいちゃん。わてがアドバイスしたるから気ー落とさんでええやん」 ……ただ、その大御所も比喩で言っただけで、本当に死神が憑くと思っていたわけじゃないと思う。ここはボクの部屋だけどボクの隣には今、人がいる。いや、人じゃないな。 「わてもビール飲みたいわー。あおいちゃん、お酌してんか〜」 ほら。変な関西弁で喋っている、バスケットボールくらいの球形に帽子のはまった白黒の物体。しかも宙に浮いている。彼の名前は「むらさわ」。何でも幽霊らしいんだ。    ゴースト 〜マウンドの幻〜                作:カリート 「よーし!こんなときははよ寝るに限る。わてが添い寝したってもええで。なはは」   バキィ!! 「まったく。ヘンなことしたら幽霊でもタダじゃおかないから!」 「ぐわぁ、愛の一撃ぃ。死んでまうわ。ってもうわて死んでるけど……」      バタッ キュー とボクの鉄拳が炸裂したむらさわは壁に頭が激突して(頭しかないからそれ以外ありえないけど)のびてしまった。はぁ、何でボクが、乗り移られないといけないのかしら。映画みたいにハンサムな俳優だったらまだ良かったのに。 むらさわ、こやつ何者か。 本人によると、プロ野球がまだ「職業野球」と呼ばれていたころ活躍していた投手らしい。だけど時代は戦争真っ只中。彼は3度戦地に赴き、最後は南方の島で死んじゃったとか。その時すんなり成仏してれば良かったものの、「神の一球」を投じてないことが心残りで、今も霊魂だけが無念を晴らそうとさ迷っているそうだ。それで素質のある選手を見つけて乗り移るためオールスターを観戦していたらしい。 「――で、なんでボクなわけ!速球派のピッチャーなら他にいたでしょ」 「いやーあおいちゃんのサブマリン投法にくらーっと来てしもて。片恋慕ってやつよ。神の一球はあとでええかなと思ったんやわ。どないしてくれんねん」 「なんの逆ギレ?」 「しかし時代も変わったもんや。女がプロ野球選手なんてなー」 「むらさわ……ボクそういうこと言われるのが一番嫌いなの。死んで見る?2回目」 「ひぃ!堪忍してー。まあしばらくよろしゅーな!わて寝る」 むらさわはふらふら不安定に宙を泳ぐように移動して、ソファーのクッションにポフッと乗っかり、瞬時に眠ってしまった。幽霊も睡眠が必要なんだなと感心。 まったくヘンなことになった。明日、加持祈祷の人でも呼んでこようかしら。なんて思ったけど寝顔が妙に可愛くて、それは許してあげようと思った。ふわぁ……ボクも寝よ。 次の日目覚めるとむらさわはボクのベットの中にもぐりこんでいた。とりあえず血祭りにあげてベランダに干しておいた。やっぱり加持祈祷の類に頼むべきだと思った。 第二戦は予想通り出番もなく、オールスター休みは過ぎていった。―― そして後半戦が始まったわけだが、むらさわのせいでボクはまったく不調に陥っていた。とり憑かれているあいだはボクも周りもむらさわを見ることが出来ない。それをいいことに、寂しいのか知らないけどマウンド上で気の散ることばかりしてくる。 事例:その1。 『さー9回ウラ、2アウトながら逆転のランナーを置いて四番の番堂。対するピッチャーは今年好調の早川です』 『ランナーは半田(ヤセ)ですからねー。一気に本塁もありえますよ』 と、まあ実況と解説がこんなことを喋っているのだろう。番堂さんとの対戦成績は前半戦終了の時点で7打数無安打2三振とボクが圧倒的に抑えている。しかし、むらさわ。 (いっひっひ、わっはっは!あかん、物っ凄いおもろいわァ) (何笑ってんのよ、むらさわ!?) (ひーひー笑い止まらへん。ていうか何でみんな普通なん?帽子ありえへんって!) むらさわが言うのは番堂さんの帽子のこと。たしかにボクも最初見たときは驚いたけど今はもう慣れた。そう思っていたのにむらさわが一人大爆笑してるから、ボクもつられて噴き出しそうになる。あの帽子はないよなぁ。くすっ。 (えー!あおいちゃんあおいちゃん2塁見てや。やんきーズって芸人ばっかりやん!) 2塁を見ると半田小鉄。いやはや、そう言えばこいつの髪型も相当面白い。こらえきれず爆笑。こうなるとまともな投球ができるわけがない。 『あーっと早川、シンカーがスッポ抜けたー』   スカーンッ! 『打ったレフト前!半田突っ込んだ、やんきーズサヨナラー!』 (ぷっ、帽子。あの髪型。もうボクあの人達と真剣勝負なんて無理……。ひーひー) 事例:その2。 『8回オモテ、キャットハンズのリードは2点ですが1アウト一三塁のピンチ!ここで世渡監督は中継ぎエースの早川を投入です!今ボールが渡されましたー』 『いやー後半戦不調といっても頼みの綱はやはり早川ですからねー』 という大事な場面なのにリリーフカーに乗っているときからむらさわはわけわかんない歌を涙流して歌っている。  ♪妻も子もうからも捨てて〜いでまししかの兵ものの〜  ♪しるしばかりの〜おん骨はかえりたまひぬ〜 (ちょっとむらさわ!その暗い歌はなんなのよ!ぶっ殺すよ!) (はあ、今の若い子にはこの詩の悲しさがわからんかー。情けない) (試合に集中できないでしょうが!) (おや。あおいちゃん。審判が早くせーやみたいな顔で睨んでるで) (うっさいわね、わかってるよ。打てるもんなら打ってみなさい。うりゃ!)   パカーン! 『おーっと初球を打ったァ!これは大きい。入るか、入るか、入ったー! 左中間ど真ん中!逆転スリーランホームラーン!!』 『完全な失投ですね』 (あららー大花火やな。玉屋ー) (……むらさわ、帰ったら覚えておきなさい) 事例:その3 『8回2−2の同点、2死満塁です!早川抑えられるかー?』 『後半戦絶不調ですね。交代したほうがいいんじゃないでしょうか』 (この場面、絶対点はやらないんだから。サインは外角ストレートね) 投球動作に入るボク。 (あおいちゃーん。あの小波って、アナウンサーと付き合ってるらしいでー) (えー!ウソー!!) 『おーと早川ボークッ!3点目が入って逆転だァ!』 (いやー言うてみただけやねんけどね。動揺しすぎやであおいちゃん) (もうイヤ……しくしく) こんな感じで投げているうち、ボクには5敗がつき防御率は3点台に跳ね上がり、監督の信頼を失い代わりに気の短い観客の野次と罵声が与えられるようになった。 まあボクは後輩の橘みずきと並んでキャットハンズの(実力はともかく客寄せパンダとしての人気の)看板選手だから、チームが奇跡的にもシーズン終盤にまだAクラス争いをしている現状であっても、二軍落ちなんてことはフロントが許さないらしい。 だけどボクとしてはしばらく二軍に落としてもらって調整したいと思っていた。 なんせ周りのボクを見る目が冷たいことこの上ない。やっぱり前半戦の活躍はまぐれが続いただけだな、女風情に野球が出来るか、ちょっと可愛いからってつけ上がるんじゃねーよタコ!とか女性が野球すること自体を快く思っていない選手たちは口には出さないけどそう思っているらしい。 姉さんに似てるんですよね、なんて言ってボクを慕っていたみずきも最近中継ぎエースの座をボクから奪おうと躍起になってこっちが喋りかけても敵視と侮蔑を包み隠したぎこちない返答をするばかり、ボクは心底泣きそうなのだった。 「もー勘弁ならない!御払いしに行ってやる」 全ての原因はこの白黒お化けのせいだ。こいつが消えるかもしくはただ黙っていてくれたなら、今からでも2点台復活は間違いないのだ。確定的未来と言ってもいい。 「えー。おもんなーい。それより活動写真でも見に行こうや♪」 「問答無用!っていうか映画といいなさいこの大正生まれ」 というわけでボクは、試合前の練習には遅れないよう11時に寮を出て近くの神社に向かった。 正直、ボクは焦っていた。今チームはボクの不調に反して勝率5分弱に安定して、今年から導入されたプレーオフ制度によってやんきーズや日ハムと最後のAクラスの座を巡り盛りあがっているところなのに、一人だけ輪の外にいるのは堪らない。 神社にはものの数十分で到着した。神社の周りは森が残っていて、青々とした木々が密かに秋を告げる衰弱の色を帯びて鬱蒼と繁っている。そんな景色を、場違いな朱色をした鳥居が神社の敷地としてまとめているふうだった。 「すいませーん。誰かいませんか?」 ボクは堂に問いかけた。すると巫女であるらしい、色白で彼岸的な顔立ちをした女の子が奥の方から長い裾を引きずりながらしずしずと歩み出てきた。 「こんにちは。貴方もワープしに来たのですか?」 「……は?」 一言目からなんとぶっ飛んだことをおっしゃるのだろうか。 たしかに今、「ワープしに来た」と聞えたような。さも当たり前に。神社=ワープする場所なのかボクの思考はこんがらがってきた。いや、ボクも聞き間違いかもしれない。本当は「ワークしに来た」で、ボクをアルバイト希望者と見なしたとか。この女の子はミスターのごときなんちゃって英語の使い手なのかも知れない。 それはさて置いて、面倒くさいから彼女の言葉を一応理解したふりをしてボクは答えた。 「そうじゃなくて御払いをしてもらいに来たんですが」 「ほう、どうなさったのですか」 「死神というか悪霊というか、変なモノにとり憑かれたんです。追っ払ってください」 「ちょっと待って下さいね。あらら、死神だなんて失礼なことを」 「…………」 「乗り移られているのは善い霊ですよ。あはは、楽しい人のようですね。それにカーブが4以上あればレベルMAXにしてくれます。悪いことなんて何もしませんよ」 何と奇妙奇天烈にとち狂ったことをのたまっているのかしら彼女は。妄想と現実の区別がつかない人種なのか、それとも単に気ち(検閲により削除)なのか。 時間はムダにしたくない、ボクはさっさと神社をあとにした。 「あの子はようわかっとるね。さあ、あおいちゃん活動見に行こー」 あんな閑散とした神社に一人で住んでいればあんな風にもなるだろうな、とか考えて再び神社を眺めると、彼女がこちらを向いて爽やかに笑っているのが見えた。その笑顔はボクに異様な恐怖を呼び起こして(綺麗な笑顔の裏では「賽銭ぐらい払えよボケ。呪い殺しちゃうわよクケケケケ」とか思っている気がしてならない)練習時間までだいぶ時間があったけれど、ボクはむらさわの言葉なんぞ当然無視して大急ぎで寮へと戻った。 その日から数日、彼女が夢に出てきては電波なセリフを発し、おかげで寝不足になったボクは不調に磨きがかかってきた。  ――カーン! 『あーと早川、今日も打たれましたー!』 つまり防御率2点台復活は夢のまた夢になってきた。もうどうにでもして下さい。 「おい早川。新しい変化球でも覚えないか?」 投手コーチにそう言われたのは試合前のブルペンでの投球練習中だった。シーズン終盤になってそんなことを言われるボクは果たして一軍選手なのだろうかと今更に自信喪失。 いえいえコーチ、ボクは疫病神に憑依されているのです、関西弁の。すべてはそいつのせいなのですと言えればどれほど楽だろうと思うけれど、言ったが最後、野球選手なのに骨とか筋系統の病院じゃなくて精神の方の病院を紹介されそうで恐ろしく、口を噤んでいるより仕方がない。 「はい。考えてみます」 「よかった。カットボールでも持っていれば投球の幅が広がるもんだぞ」 「そうですね。シンカーとカーブより速い球があったら便利ですし」 「うんうん。時間をとらせちまったな。じゃあ投げ込みを続けてくれ」 と、いつになく素直なボクに気をよくしたコーチはくるりと背を向け、後ろで指を組んだまま移動しようとした。しかしそこで何を思ったのかむらさわ、ボクの体から抜け出して投手コーチの後頭部を短い腕(?)で殴打したのだ。 「痛ッ!なんだ早川、俺に文句があるのかァ!」 恐ろしい形相でボクに振り向く投手コーチの後ろには、見えないように回り込んだむらさわが浮遊している。どうやらコーチはボクが殴ったと思いこんでいるらしい。 「え!?違いますボクじゃないです」 「お前以外に誰がいるって言うんだ!往生際が悪いぞ!」 往生際ということは、ボクはこれからコーチに往生させられるのだろうか、なんて天然めかして考えていると、ポカッ、なぜか目を怒らしたむらさわが再びこの殺し屋コーチを殴打した。 「ダメコーチ!何が投球の幅が広がる、やねん。いい加減なことばっかりぬかすな!」 「なっ、何だーこいつは!」 むらさわを見たコーチは悲鳴をあげ、それを聞きつけた周りの人間が練習を止めてこちらを注目し、ざわざわ騒ぎ出した。マズイ。そう思ったボクは俊敏にダッシュ、タッチダウンを狙うアメフト選手のようにむらさわをガッチリ抱えてブルペンから脱出し、目で追われているのを感じたので、とっさに女子トイレに走りこんだ。 「はあはあ……」 女子トイレはほぼボクとみずきしか使わないから誰かが入ってくる心配はまずない。息を整えてから、ボクはむらさわを咎めた。 「アンタなに考えてんのよ!」 「ああ、あおいちゃんって意外とムネあったんやね」 「質問に答えなさい」 「怒らんといてーな。わては腹が立ったんや。ちょっと行き詰まったからって新球覚えようとするんは2流の考え方やで。あんなコーチのアドバイスなんて今後聞いたらアカン。わてはあおいちゃんのためを思ってなぁ」 反省するどころか開き直ってコーチの悪口を言うむらさわに、ボクは殺意が芽生えそうだった。なにがボクのためよ。アンタがいなけりゃコーチに新しい変化球を覚えないかなんて言われないし、オッサン客のセクハラまがいの野次や罵声を浴びることもないし、みずきに侮りの視線を注がれることもないんだ! 怒りのためにボクの握りこぶしはぷるぷる震えていた。 「やっぱり一流の投手は自分の得意球をひたすらに磨くもんや。そしてピンチの時は迷わずその球を投げるんが秘訣やであおいちゃん。それに打たれたあとも動揺せず――」 「黙らっしゃいむらさわ!偉そうに。元はと言えば全部アンタが悪いのよ!」 ついにボクは耐えきれず、投球に関する古臭い持論を得意げに語っているむらさわに対して、今までの鬱憤をヒステリックにそのままぶつけた。 「えっ、何言うてるん?」 「とぼけるのもいい加減にしなさい!アンタのせいで集中できなくて負けた試合がどれだけあると思ってるのよ。この死にぞこない。死神!疫病神ー!!」 「がーーん!ショックやー。わてのこと、そんな風に思ってたんかいな」 「フンッ。事実そうじゃないの!早くボクの前から消えなさい!イヤって言うのなら力ずくにでも……」 「あわわわわ。わかった、あおいちゃん。わて消えるわ」 そう寂しそうにむらさわが言ったときボクの胸はチクリと痛んだ。だけど憐憫より怒りのほうが強く、ボクは無言のままむらさわをにらみ続けた。しばらくしてむらさわもボクが本気であることを察知して、もう泣きそうな顔になった。と、むらさわは泣き顔を見られたくないらしくボクに背を向けた。 「あおいちゃん。それは誤解や。 けど今はそんなこと言っても信じてくれんやろな」 「…………」 「ほんの一ヶ月ぐらいやったけど、楽しかったで。じゃあサヨナラ!」 むらさわはトイレの窓から飛び出して空を泳ぎ、どんどん小さくなって消えた。すると乗り移られてからずっとあった不思議な感覚も無くなった。むらさわは完全にボクの中からいなくなってしまったのだ。 「清々した」 用意しておいた言葉に口にした。しかし本当は反対に、寂しさと胸がからっぽになった空虚感があった。それがボクには不快だった。これは一時的な気持ちだ、人間すぐに慣れるはずだと自分に言い聞かせて、ボクは女子トイレを出た。 「わっ。先輩」 出たところでばったり会ったのは橘みずき。いいところに来た。ついにとり憑いていた疫病神は去った。アンタの台頭はお終いよ。ふふふ。ボクはにっこり笑顔を作る。 「みずき。もうボク、絶不調は抜け出したの。中継ぎエースの座は渡さないんだから」 「ああ、ずっとアレが重かったんですか?」 「いやそういう話じゃなくて」 ……おかしい。何かがおかしい。むしろ言うなれば何もかもがおかしい。 むらさわが消え去ったというのにまったく復調の兆しがない。監督も何を考えているのかそんなボクを7回3点リードの場面で投入して、結果やんきーズの下位打線相手に打ちこまれて一点取られてなおも1アウト、ランナーが一二塁。この試合に負ければわがキャットハンズのAクラス入りが危うくなることをわかっているのだろうか。 ダメだ!弱気になるなボク。点差はまだ余裕があるし、前半戦のようにデータ通り相手の弱点をついていけば抑えることができるはずだ。打席には打順が巡って一番の左打者。彼は外角に落ちるボールに弱い、それに慎重な性格だ。まずはカーブを投げよう。  カンッ! 「へっ?」 そのカーブをものの見事に流された。まるで狙いすましたように。打球は左中間を真っ二つに切り裂いて、外野フェンスへワンバウンドで到達。外野手がクッションボールに手間取っているあいだに走者一掃のタイムリーツーベースが確定した。打者は2塁ベース上でズボンに付いた土を払ってボクを見る。それが蔑視であることは間違いなかった。 監督がベンチから出て審判にピッチャー交代を告げ、ボクは呆然としたままマウンドを降りた。そしてリリーフカーに乗ってやってきたのは橘みずきだ。 軽やかに降りたみずきはぐしゃぐしゃになったマウンドの土を固める。慣れたものだとベンチから眺めていると、みずきがたしかにボクの方を向いた。その小さくて生意気な顔に、わずかな同情と溢れんばかりの優越感が表われていた。ボクは眩暈がした。 あまりのショックに這うようにして寮の自室へ帰ってきた途端、ボクはベッドに横になった。ボクのあとを請けたみずきは7回を見事に無失点で切りぬけ、延長の末、チームは粘り勝ちをしたのだ。完全に中継ぎエースは交代してしまった。 「う……ううッ……ぐすん」 嗚咽がもれる。今日の試合でやっと認めざるをえなくなった。むらさわに責任を押し付けてきたけど、結局、後半戦の不調はボクの力の無さだったのだ!前半戦はボクを舐めてかかっていた相手打者もようやく研究し出して、すぐに対応してきたのだろう。 ――誤解や。けど今はそんなこと言っても信じてくれんやろな。 むらさわの言葉が蘇ってくる。ゴメン。ボクもうすうす感づいていた。だけど認めたくなかったから、子供のようにむらさわに当たり散らして真実から目を背けて不安をごまかしていた。それでもむらさわは寛大で、ボクを慰めてくれたり笑わしてくれたり、夜遅くまで一緒にビールを飲んで騒いでくれた。 「ああ、それなのに!」 ボクはなんて嫌なヤツなんだろう。ずっと強く生きよう、そして人に優しくなろうと自分に言い聞かせていたけどホントは自己中心的な性格ブスじゃないか。最低だ……。 ボクは考える。じつはこうして自分を責めることでもう一人の自分に許してもらい、少しでも救われようとしているのではないか。もしそうならば救いようのないバカだ。 今日はもう眠れそうになかった。ボクはむらさわがいつも寝床にしていたクッションを抱えて、ときどき涙がこぼれそうになるのを感じながら、独りで何本もビールを飲み干した。そしてそれは美味しくなかった。 チュンチュンとスズメが鳴く時刻はとうに過ぎて、太陽が中天から傾き始めて1日が憂いを帯びてくるころ、ボクは起きた。床にへばりつくような格好で寝ていたようだ。 「うげぇ……。頭痛い……」 時計を見るとすでに3時だったが、焦って寮を飛び出す気力もない。それに勤労意欲が湧かない。昨日勝利を危うくしたボクを、監督が今日も起用するとは思えなかったし。 とりあえず空き缶やツマミを片づけてから……って、無いじゃない。昨夜飲んだはずの缶ビールもツマミの柿ピーやさきイカもきれいに処理されていた。 「鍵もかけてるし。おかしいなぁ」 泥酔のうちに自分で処理したのかも知れない。さして気にとめずボクはシャワーを浴びて二日酔いの頭痛とだるい気分を振りきり自転車に乗ってスタジアムに向かった。 今日はやんきーズとの最終戦。春の椿事の勢いを奇跡的にそのまま維持してキャットハンズは現在4位にいるが、今日負ければ残り試合のあるやんきーズに順位をひっくり返される恐れがある。(注釈:この話中のプレーオフ制度は1位から4位までで争われるという設定)正念場とは今日の試合のことを指すのだろう。 しかし、それがボクに何の関わりがあるのか。試合はボクを取り残して進行するに決まっている。勝つにしろ負けるにしろ、知ったことじゃないさ。相手打者に研究され出してすぐに打ちこまれるボクのような投手は、結局プロの器じゃなかったのだ。 あーあ、もういいや。プロ野球選手なんて辞めよう。お父さんとは和解できたし、女性プロ野球選手の先駆者としてボクは十分苦労した。その後継者として橘みずきがいる。ボクの野球選手としての存在理由はなくなった。引退してもタレントにでもなれば生活には困らないだろうし、まだ若いんだ、違う道を歩むこともできる。……  ププー!ププーッ! 上の空で自転車をこいでいたボクがダンプカーの接近に気づいたのは、もはや手遅れという時点だった。ダンプカーはクラクションを鳴らしながら猛烈なスピードでこちらに突進してくる。 「――――!」 口を開いたが、声にならない。目と鼻の先にあやしい光沢のある銀のバンパーが寄ってきて、それが酷く鮮明に頭に残った。ボクは観念して目を閉じた。ふいにお母さんとお父さんの顔が浮びあがった。 (お母さん。意外に早く会うことになりそうだけどゴメンなさい。お父さん。あんまり話せなかったね。先立つ不幸を許してください。しばらく賽の河原で石積んできます) 次に唐突な死の理不尽さに腹を立てた。 (ちくしょう。何でボクなの?神様も人選を間違ってるんじゃない。美人薄命とはよく言ったものだわ。しかも交通事故って。ボクは上杉和也か。ああ、小波君お葬式で泣いてくれるかな……あれ?) いつまでたっても思考は消え失せず、ダンプカーとの衝突も訪れなかった。もしやすでに自分は死んでしまっていて、霊魂の状態でいるのだろうか。おそるおそる目を開ければ、ボクは道路を渡りきったところで自転車とともに倒れていた。体のどこにも傷はなくて不思議に思っていると、いきなり懐かしい関西弁が聞えてきた。 「あおいちゃーん。ボーッとしてたらあかんで」 「その声はむらさわ!?助けてくれたんだ?」 「わてが助けへんかったらあの世行きやったがな。ホンマにもう」 「ありがとう。それと、ゴ、ゴメンね」ボクは再び会うことがあれば真っ先に言おうと思っていた言葉を口にしたが、後半は涙声になって、自分しか何を言っているのかはかり難い始末だった。「全部キミに責任押し付けたりして……」 「あーあ。泣かんでもええやん。大したことやない」 それでもむらさわは理解してくれたようで、優しくボクを慰めた。 こうやって会話しているあいだ、なぜかむらさわは顔を見せないことをボクは疑問に思ってその理由を聞こうとしたが、それより早くむらさわが話し出した。 「しかしまあ、あおいちゃんが無事で良かった。 じゃあ短いけどお別れや。もう会えへんと思うねん」 「えっ。なんで!?」 「『力』を使いすぎた。もう乗り移る力も残ってないわ。ほら、幽霊も人間と一緒で無理したら疲れるんよ。ついにわても成仏するときが来たんかな」 たしかにむらさわの声は疲労にかすんで、しかも遠のいていく感じだった。 「そんな……」 「そういうことやから、今日の試合、わての冥土の土産にええピッチング見せてな」 「ボクの力じゃ無理だよ。それにピンチでも監督はボクを使わないだろうし」 「なに弱気になってるねん!わてが前に言うたやろ。自分の最も信じる球を、一球一球渾身の力を持って投げるだけや。そうすれば抑えれる。監督も最後にはあおいちゃんを使う。わてが保障するから――」 むらさわの声は風船が空に舞いあがっていくように、しだいに遠くなっていった。 「ああ!むらさわ、むらさわー!」 ――楽しみにしてるで。じゃあ、今生の別れやな。わてもう死んでるけど。なはは。 最後はもう、よくは聞き取れなかった。ボクは悲しくて呆然とした。人が死ねば悲しいことはわかっていたけど、幽霊が成仏するときも同じくらい悲しいとは思ってもみなかった。……むらさわ。もうぼくは泣かないんだから。「神の一球」は無理だけど、ボクなりの最高の投球を披露してあげる。 ボクは涙をぬぐって自転車を起こし、スタジアムに向かって力強くペダルを漕ぎ出した。 「あおい。出番だ!頼むから抑えてくれよ」 と、ブルペンにいるボクはベンチからの電話をもらった。試合は3対1でキャットハンズがリードしていたが、8回に入って橘みずきが大乱調、連打を浴びて3対2。プレーオフ進出をかけた最終戦の異様なプレッシャーに、絶好調と言えど耐えきれなかったのだろう、ブルペンに設置されているテレビから見ても彼女の顔は蒼白だった。 1アウト満塁。打者は4番・番堂、5番・半田(デブ)。リリーフカーに乗って出てくるボクに、味方であるはずのお客様は早くも非難や罵倒の声をあげ、次にはうって変わって悲痛な様相でボクにすがるセリフを並べていた。 マウンド上に選手が集まっているのが見える。キャッチャーの田崎さんが俯いている前で監督がボールを弄びながらボクを待っていた。リリーフカーを降りて輪に加わる。 「監督。よくもこんな心臓の張り裂けそうな場面にボクを起用しましたね」 「俺も博打だとは思ったよ。だけどキャットハンズが勝ちぬいてこれたのは、前半戦のお前の活躍があってこそだ。だから最後もお前に託そうと思った。それに」 「?」 「じつはな。昨日の夜寝てたら変な声が聞えたんだ。関西弁の。『明日の試合、ピンチの場面にあおいちゃんを使え』って。そして今日、この展開だ。あれはもしかしたら神様の啓示だったんじゃないかと考えたわけよ」 その話を聞いて、ボクは噴き出しそうになった。あのバカ、粋なことしてくれちゃって。 「神様なんかじゃないですよ。それ」 「あ?じゃあ何だ」 「うーん。ボクの命の恩人かな」 「なんだそりゃ。まあいい。しっかりやってくれ」  バン! 「キャア!」 監督が突然ボクのお尻を叩いたので悲鳴をあげてしまった。 「監督セクハラですよ!パワハラですよ!」 「いいじゃねえか。ここでお前が打たれたら間違いなく俺はクビなんだからよー」 そう言って監督はベンチに戻った。俺も下手打ったかな、でも悔いはない。そんな表情をしていた。……大丈夫ですよ監督。絶対期待に答えてあげます。 「田崎さん」 「おう、どうした」 「サインはいいです。全球マリンボールで行きますから」 「はあ!?何言ってんだお前」 「約束なんです。お願いします」 田崎さんも無粋に「誰と?」なんて聞き返しはしなかった。その代わりに、打たれたら捕手の責任と言えどこればっかりは面倒見きれねえぞと言い残して守備位置に戻った。 数球の投球練習のあと、試合は再開した。千万の人々を内包した球場が、あたかもひとつの生物のようにうごめき騒然としていた。メガホンの響きは大海嘯のように押し寄せ選手たちを浸し、マウンドに立つ投手に意識の混濁を惹き起こさせるのだ。みずきがこの雰囲気に飲みこまれたのも肯ける。 ただボクには効かない。今日一日だけは、ボクの意識はマウンドの上空で幻のように消えかけようとしているたった一人の男に向けられる。彼はきっと天国に行っても野球をやるだろう。そして「神の一球」を探求し続けるはずだ。彼に幸せあるように祈ろう。 (さあ、むらさわ。しっかり見届けなさい!) ボクは振りかぶる。打者を見据えてマウンドの黒い土を踏みしめる。ボールは中指と薬指のあいだに挟んで、下手投げから渾身の腕の振りをもって抜くように投げる。それと同時、夜間照明灯の光を反射してきらめいた雫たちが、果たして汗なのか知らぬ間に溢れた涙なのか、ボク自身にもわからなかった。バットが空を切る音が聞えた。―― 『……8回、みずきが一死満塁のピンチを招きますが、そのピンチを早川が全球シンカーで4番5番を連続三振に切ってとり、キャットハンズはそのまま勝ちを……』 私は寮の自室で、キャットハンズ最終戦の結果を報じるスポーツ番組を見ている。部屋の明かりも着けずに、ベッドの上に体育座りで、左手に缶ジュースを持って。 やっぱり凄いなぁ先輩。中継ぎエースは私よ!なんて自負していたけど、結局は先輩にカバーしてもらってんじゃないのよ橘みずき。あーあ。我ながら情けない。 〈三振ポイントのすぐそばには死神がいる〉 というのは有名な格言らしい。まさしく今日の私の投球がそうだ。華麗に三振で終わらせようと三振ばっかり狙ってコントロールが狂って連打連打連打。意味ないじゃない。 「かーッ。あおいちゃんよくやった!さすがわてが見こんだ女や!」 ……だけど死神に乗り移られるなんて思わなかった。その上驚くべきはこの死神、イメージと違ってガラの悪い関西弁だし、顔もしゃれこうべかと思いきや意外とマヌケなんだ。 「で、アンタ何者?」 私はこのマヌケな死神に横目で問いかけた。 「わて?姓はむらさわ、名はえいいち。みずきちゃんのサイドスローにビビビッと来たんや。まあ、しばらくよろしゅーな!なはは」 「…………」  おわり