【BRACELET】ゴズィラ作 「先生…駄目なんです…。父さんが…来ますよ…コツコツって」  夜風にカーテンが靡く頃、一人の少年がベッドに横たわっている。定まらない視線を  保ちながら、何も存在しない白の天井を眺めていた。すると、生きているのか死んで  いるのか…死魚のような、これまた白く腐ったような眼の色で、病室の椅子に座って  いる主治医を一瞬、見つめた。とても心配そうに…息遣いも酷く荒い……。 「真二君のお父さんは来ないよ…。いや、来させないよ…一生ね」  主治医の久本は、真二を宥め続けて、一時的な不安の要素を取り除こうと、努めた。   でも、久本の手を握り締める手の力が、だんだんと強くなってきた。真二は、瞳を  ギュッと閉じて、一人震えている。……何が真二を襲っているのかは、久本には、  すぐに理解をする事が出来た。       ━━━コツ…コツ…コッ………コツコツコツコツコツコツ━━━!! 「やだっ…父さんだ。父さんの足音がする……。俺を殺しに来る足音だ…」  半身を咄嗟にベッドから起こし、耳を潰れるくらいに両手で押し潰し、挙動もより一層  激しくなっていった。声が裏返り、奇声混じりの叫びが個室内に響き渡る。       ━━━真二…!! 殺してやる…! この出来損ないがぁぁ━━━!! 「あああああぁ!!! 嫌だぁ!! やめ…止めてくれぇ!!!」 「真二君! 父さんは来ないんだぞ! もう警察に捕まったんだ!! 真二君!」  真二の目からは涙が零れ、口の端からも飲み込むことの出来ない涎が爛れて、顎を濡ら  す。久本が真二をどうにか落ち着かせようと、体を優しく擦っても、真二の幻聴は消去  が利かないでいた。ベッドの横に付いている手摺り棒を辿っていたら、とうとうベッド  から身を放ち、床に転げ落ちる。……必死に…逃げていた……。ありもしない筈の虚構  から…。逃げれば逃げるほど、その虚構への感情は深まるばかりなのに。 「嫌だ……あぁ…刺される…父さんに………やだ…よぉ…」  うつ伏せになってしまった体を、必死にバタつかせて部屋の隅へと、ゆっくり這い付く  ばって行く。その様子に驚いた久本は、慌てて立ち上がるも、その拍子に倒れたパイプ  椅子の強烈な金属音が、真二の恐怖心をさらに煽り立てた。 「真二君…私には君の父さんの姿は見えない…! 君の見ているものは、父さんでは…  無いんだよ!! いつも言ってる事じゃないかい!」  しかし、久本の強い訴えより、真二の心身にしっかりと染み付いている恐怖が、一枚も  二枚も上手である。 真二のトラウマの暴走を止めようと、床を這いつくばる体を、  久本はしっかりと抱きかかえる。抱きかかえようとした。 「うわあああ!! 父さん!! 父さん…!」  でもそれは逆効果だった。"真二の中"では父親に攻撃されているものと、勘違いしてし  まっているのである。久本に抱きつかれるのは、"父親"の行動を速めてしまう…。 「真二君…!」 「あ………あ…あ…俺が…何をしたって…いうの? 俺…何も…してない……よ」      ━━━バカ野郎がぁ…何もしてねぇだと? 何もしてないワケねぇだろうが━━━!  幻聴に応える真二と、それを無我夢中に抑えようとしている久本…。それぞれの思いが、  交差する事は決してなく、別々の境地に立たされる。それがお互いにどんなに辛い事か、  この個室にいる二人以外、誰も知る由も無い。 「駄目だ! "君の記憶"にまた殺されてしまうぞ!」  そう言って束の間、悲しくも真二は今まさに、その"自らの記憶"に殺されようとしている。  残念ながら、そこまで行くと、久本も…諦めるしかない。真二の幻聴が作り上げてしまった  見せかけの悪夢に完全に取り込まれてしまっていた。 「ああ…あああ!! あ…ぐっ…ああ!!」  真二は大きく体を反らせて、力一杯に"痛み"に耐えている。その瞬間に、久本は真二を抱き  締めていた力を緩めると、その場に力無く尻餅をつく。"自分は何て無力なのだ…" そう  奥底で呟きながら…。 「あ……あぁ…父さん……痛いよ…」    ━━━次は背中か? 手か? それとも腹かぁ? んぅ?━━━  父親の狂気の問い掛けと共に、真二は自分の体に刺し込まれる刃物が、血と絡み合う音が  聞こえてくる。実際に刺されている訳でもないのに、刺された箇所を震え続ける両手で、  塞ごうとしている。 そしてまた…       ━━━グチャ…ァァ 「あ…いっ!!? ひっ…ひっ………あ…ぅ…」  体をビクリと跳ねさせながら、それでも真二は相変わらず"逃げている"。力を振り絞って  膝立ちをし、部屋の外側の窓枠にしがみ付く。震えでまともに言う事を聞いてくれない、  手で窓の施錠を外そうとするも、とうとう父親にトドメを刺される。 「真二君……すまない…本当に…」  思わず久本は、歯を食い縛り、目を背けた。    ━━━ク……ハハハハハハハ!! そんな体になっても逃げるのか?━━━  嘲笑いの後、自らの背中にドスリと、"鈍い音"が飛び込んでくる。 「ぅぁ……ぁ……ぁ……ぁ……ぁ」  真二が弱い呻き声を上げれば、窓枠にしがみ付いていた力は完全に抜けてしまった。  自分は"父親に殺された"と脳内で勝手に思い込んでしまい、それを無意識に現実に  取り入れようとしている。膝立ちしていた体は壁を伝いながら、滑り落ちる。口が  ピクピクと痙攣を起こし、生気の萎えている瞳からは……歯止めが利かない、雫が  床の埃で薄汚れた頬を濡らす。それらは全て、彼の精神内部の悲惨さを物語っていた。 「ぁ……ぁ……ぁ…………………ぁ………」  弱いながらも、延々と続くように感じられた呻き声が止むと、真二は心なし、安楽  というものを覚えた。フッとほんの僅かながら、笑みを零し…最後に呟く。 「………これで……皆に……会えるかな……?」 と言っても、殺された他の家族に会える事はなく、真二の意識は遠く運ばれるだけ。  苦しみからの一時的な逸脱に過ぎない。 でも…それが嬉しくて……楽しみで……  自分は間違いなく、"皆に会える"と……。願いを朦朧としていく意識に託しながら、  ゆっくりと…目を閉じた…。  「きっと会えるさ……」  倒れている真二を抱き起こしながら、久本は真二が、あくまで"夢の中"で良い一時  を過ごしているのを切に思う。失ってしまったものは帰ってこないけれど、"せめて  夢の中だけでも彼に平安を…"。"失ったものに会えますように…"。 ベッドに真二  の体を戻しながら、心の中で久本は強く嘆願したのだった。 「久本先生! 久本先生! 今…真二君の個室で……」  真二が眠っているのを確認し、久本は一旦、個室から病院の廊下へと出る。そこに、  今更ながら駆けつけて来た、看護婦と鉢合わせをした。 「ん、いやいや大丈夫だ。丁度、治まって寝ている所だ…まぁ、朝まで起きないだろうね」  自分の時計は夜の11時25分を指し示している。それを確認しながら、彼女と一緒に  歩き始めた。久本の口調が落ち着いているのが分かり、看護婦は胸を撫で下ろす。 「今日……真二君のお父さんの一審判決が出たそうだね…」 「えぇ…求刑通りに、死刑判決だそうです。勿論、弁護側は控訴するそうですけど」  真二の父親は、殺人犯である。極度のアル中で、今から約9ヶ月前のある晩、酔った勢い  で真二の母親・弟・祖母を包丁でメッタ刺しにして、殺害してしまった。当時16歳だった  真二も、腕や腹や足などの部位を刺され、重傷を負った。事件から3ヵ月後、真二の傷  は全快するも、事件への"精神的ショック"が癒える事は……到底不可能だった。  病院は病院でも、ここは精神科病院。真二は彼此、入院して半年になる。そして、久本は  そんな彼を手助けする専属の主治医…。 ……そんな彼には…大きな大きな…夢がある。  「私は…今まで、全身全霊…彼に尽くしてきたつもりだったのに……それでも…真二君は  "お父さん"が頭から離れる事は無いんだ…。どんなに私が彼の名前を呼んでも……ただ…  ……泣き叫んでいる。 それを救うことの出来ない私は…一体…何なのだろうね…」  廊下の窓から見える闇夜に浮かぶ海原を、久本と看護婦は足を止め、眺めていた。  悩んで悩んで、荒れ狂う己とは裏腹に今夜の海も、相も変わらず憎いほど穏やかに、波を  打つ。夜更けに入ろうとする日常が…久本の体をも蝕もうとしている。 「"将来のお父さん"が何を弱気吐いてるんです? 何事も根気よくですよ!」  軽く茶化したような言い草で看護婦が言うと、久本の顔は紅潮して行く。 「な…? い、いや…まだ、決まった事ではないじゃないか…。私の妻は"受け入れ万端"  だけれど……真二君にはまだ一言も話しては無いんだぞ?」  裏返り交じりの焦ったような口調は、彼の精一杯の照れ隠し……にはなって無いようだ。 「でも喜ぶと思うな〜……。真二君、久本先生に大分優しくして貰いましたしね♪」  否定したいけど嘘じゃない。親元の無い真二君を救いたいという思い…。結婚して20年…  年は既に48歳。子宝にとうとう恵まれる事の出来なかった、そんな時……何もかも失った  真二を実の息子のように愛した事……。それらの要素が直結して、久本自身に"一つの夢"  を育ませている。 「……私は何だってやるさ。真二君の為なら…何だって…。寂しい時は慰め…一緒に笑ったり  話したり……。彼の父親が出来なかった…やらなかった事を……"私がやるんだ"!!」  遠い、遠い水平線を見据えながら、48歳ながら"遅咲きの父親"になろうとする決意を…  密かに体の横で作った握り拳に、精一杯こめる。 「それじゃあ! 思いを新たに……明日の真二君の誕生日………どうしましょ?」  久本の堅実な眼差しに、看護婦は微笑みながら、威勢良く声を加えた。結構、このように  不意を突かれるような発言をされると、"あっ! しまった"と言いながら振り向くもの。  だが、久本にはそんなセオリーは皆無である。看護婦のフリに動じず、高笑いしながら、  腕を後ろで組んでいた。 「私が真二君の誕生日を忘れる訳無いだろ。どうするもなにも……ちゃんと用意はしてある  よ……ただ…」 「ただ……?」  刹那、二人の会話以外、何の音も存在しない廊下に、力無い声が響く。…真二の個室だ。    ━━━先生……久本先生…? ……先生…!━━━  明らかに怯えていて、悲しげに震わせたその声は…言うまでも無い、真二の声であった。 「真二君……」  真っ白になっていく理性を掻き集めながら、突発的に久本は、自分を呼ぶ真二の元に、  大急ぎで駆ける。距離は大した事が無いはずなのに、それは果てしなく続くマラソン。  心配すればする程、個室までの道程が、長くなっていく…。看護婦も、突然すぎる出来事  に躊躇しながらも…本能的に久本の後を追った。 「どうしたんだ! 真二君!」  個室に駆け込んだ時には、久本の息は変に荒々しく変わっていた。でも、真二がベッドの  布団に体をちゃんと包ませているのを確認すると、口元で軽く笑んでみる。 「あぁ、良かった。先生…さっきまで居たのに……急に居なくなるんだから…」  真二も久本の姿を確認すると、薄笑いしながら天井を仰ぐ。そして、久本が先程のパイプ  椅子に凭れ掛かるのを見て、"ハァッ…"とワザとらしい仕草をしながら、溜息を吐き出す。 「何だか、見る度に先生の白髪が増えているような…」    ズルリとこれまた大袈裟に、久本は自分の体を椅子からずらしてみる。 「な〜にを言ってるんだね! ……こう…なんていうのかな……実にダンディーじゃないか!  いぶし銀だろ…?」  根も葉もない、よく分からない冗談。それでも真二は大声で笑った。それは何物も混ざっ  てはないであろう、無垢な笑顔だった…。しかし…表情は直ぐに切り替わり、打って変わ  って、真二はショボンとしおらしくなっていく。 「先生…ゴメンなさい。……俺、どうしても、"父さん"が頭から離れないんだ……。その…  纏わりついてるというか…。だから……怖くなって……恐ろしくなっちゃって…………。  だから…!! ……あっ」  久本は真二の言葉を遮るかのように、母親譲りの栗色の髪の毛に、ソッと手を置く。  フワリとした不思議な感触が掌に直に伝わる。少し、目を潤ませながらも…やっぱり  真二に優しく微笑みながら……うん、と頷いた。真二はというと、やはり吃驚したの  だろう、見開いた眼で、久本を捉えている。 「…大丈夫……大丈夫……。私が…こうして傍に居るから……。安心して、ゆっくり眠れば  いいんだよ?」 「………はい……」  きっと…その時、真二は今まで感じなかったものを…しみじみと噛み締めるように味わっ  たのだ。久本の掌の温もりが…今までのものとは違う、等身大の温かさのように感じら  れた。 自分の不安を忘れさせてくれる……包み込むような……久本の掌。  真二にはもう、何も恐れる事はない。不安を掻き立てる必要もない。もう一回だけ……  久本にニッコリ微笑めば、自分の全てが優しさのベールに守られて……安心して、"夢"を  見る事が出来るような気がした。 髪の毛に触れる掌が、ほんの少し、くすぐったかっ  たけれど…真二は変わらず久本に笑いかけながら、ゆっくりと…………瞳の上の目蓋を  閉じる。 「…………眠りましたか?」  徐に看護婦が、室内に忍び足で入ってきた。寝ている真二の姿を確認すると、"よかった"  の一言を呟きながら、久本の傍らに立った。 「良かったよ……安心してくれたようで……」 「これでもう、立派なお父さんですね!? いつでも大歓迎ですね!?」 「……おい…おい…」  ガックリと頭を抱えながらうな垂れる久本をヨソに、看護婦は思い出したかのように、手を  ポンと合わせている。 「あ、そうそう…先生。さっき言いかけた用件は、何でしたか?」  うな垂れていた頭を持ち上げながら、今度はちゃんと真面目な様子を見せる久本。  "そうだった"と思いつきながら、とりあえず一呼吸を置いてから喋り出す。 「ケーキ……。プレゼントはもう用意してあるんだが……。良いケーキ屋が見つからないん  だよね」 「あぁ! それでしたら、私の高校の同級生で一応、ケーキ屋で働いてる人が居るんですよ!   腕も中々のものですから、その人に頼んでもいいですかね?」  突然の朗報に久本は、心躍る。 「本当かい! 何だか妙に都合が良すぎる気もするが……任せて貰うよ。…って、もう夜の  11時30分を過ぎてるんだけどね」  一抹の不安を覚える久本だが、看護婦は制服の胸ポケットから、電源が切ってある携帯電話  を取り出すと、ニンマリと顔を綻ばす。 「勿論! "叩 き 起 こ す" までですよ! それじゃ外に行って、電話かけてきます」  "イソイソ" "チマチマ"とした事は、彼女は好まない。思い立ったらすぐ行動に転じるの  である。鼻歌交じりの陽気な調子で、真二の個室から一目散に飛び出て行った。  行動力に圧倒されていた久本は、廊下に向けていた視線を真二に戻し、寝顔を見る。  彼は、明日が自分の17歳の誕生日だということをを憶えているのだろうか? …きっと、  それは遠い遠い昔に捨て去られてしまった、記憶。 思い出す事もままならなくなって  しまった、真二の傷ついた記憶の片鱗が固まっている。  それでも……久本は味わって欲しかった。どんなに父子共々、仲が悪くても…年に一度の  "Happy Birth Day"は宝物なのだ。誕生日の朝、真二は今まで、食卓で酒浸りの父親しか  見ていなかった。勿論、その酒は…家族の生活費そのもの。……プレゼントなんて……  貰った事は無い。…物心が付いた頃には、顔の赤い父親がいたのであった……。 「"真二"……。 君は私を受け入れてくれるだろうか……父親として…君の……柱として」  ━あと数時間で17を迎える少年の顔を、何処か遥か彼方の存在のように察しながら、私は、  それでもかと、真二の手を大事に握り締めている。もしかしたら、自分の本心をぶちまけ  たら、それこそ牽制されてしまうかもしれない。……でも、明日……ハッキリと言おう。  だから…責めて…君の疲れきった心を傍において、楽にさせてあげたい。今夜だけ……。  もう……これが最後になってしまうかもしれないのだから━━… 「あぁ……ひょっとして、ひょっとすると…私は本物の馬鹿者なのかもな」  ふと…個室の窓に耳を傾けたら、海から聴こえる潮騒が……美しいセセラギだった……。      ━━━とても……とても……白く霞んでいて…不思議な夢だった━━━……  場所は俺の家、俺の部屋、俺のベッド。目を開けて、見上げれば陽光に天井が煌びやかに  映えている。信じられないくらい、閑静な朝だ。いつもなら……いつものことなら、父さん  の酔った叫び声と食器が割れる音が……俺の脳髄と精神を狂わす。…でも、それが無いん  だ。紺色で、黒い線の縦じまが入った着慣れたパジャマのまま、俺は何かを疑うかのよう  に下のリビングに通じる階段を降りて行く。  近づくにつれて、NHK・「おはよう日本」のニュースの声量が大きくなっていく。  "今日も、全国的に秋晴れが広がるでしょう!"って…。俺は思わず、階段をリズミカルに  降りて行った! 何だか、生まれて初めてだと思う…。朝がこんなにまで気持ち良いなん  て…。 階段を完全に降り切れば、リビングはすぐ目の前だ……。   そう……それはすぐ目の…… 「おはよう、真二……。昨夜はよく眠れたかい?」    そこにはいつもの父さんは居ない。 でも、刹那…俺は胸からこみ上げて来るのを、  抑える事は出来なかった。カラフルなテーブルクロスが整えられている、テーブルに…  その人は……確かに座っている。 「久本…先生…?」     まどろむ目を擦りながら驚く、俺の全てが浄化されるような……温かさ。  屈託の無い純粋な瞳は、確実に俺に対しての微笑みだった。あっけらかんとしている  俺は、体が無性にビクつき、テーブルに近づけないでいる。 でも突っ立っている俺に、  久本先生はもう一度目を細める。 「どうしたんだい? …何も遠慮する事はないんだよ! こっちに来なさい…」  その呼びかけに俺の足は恐る恐るだが、久本先生に寄る。テーブルの向かい側に、俺が  そっと腰を下ろすと、久本先生は徐に立ち上がり、キッチンへ。すぐ戻って来たと思った  ら、俺の眼前に……二つの皿が置かれた。二枚のバター・トーストの入った皿が一枚。  目玉焼き、ウィンナー、ポテトサラダが盛られた皿が一枚。久本先生の場所にも、同じよ  うに盛り付けられている皿が二枚ある。 「それじゃ……食べようか……」  二人手を合わせ、"いただきます"。俺はトーストに齧り付くが、久本先生は…自分の食事  に手をつける事無く、俺の食べっぷりを覗っている。ちょっと…恥ずかしいな……。   「ねぇ…久本先生は食べないの?」  俺の問い掛けに…久本先生は、"ワハハハハ"と、お得意の高笑いを連発している。 「先生…? 私と真二は立派な親子じゃないか!!」       思わず……手に添えていたトーストを…クロスの上に…落とした……  心臓が飛び出るくらい、ショックを受けた反面……俺の居場所がやっと見つかったと…  安堵感を得た。俺はやっと…やっと……"ごく普通の日常"を…手に入れることが出来た。  理由なんて要らない。だって、久本先生が…俺の父さんになってくれた…。テーブルクロ  スの向こう側、確かに俺の父さんが居た。 俺の全てを認めてくれて…優しくて、気さく  で…いつも……笑っている……大事な父さんなんだ。       夢ダトワカッテイテモ……夢ダケデハ、オワッテホシクナイヨ…… 「真二、何で…泣いてるんだい!? 悲しい事でもあったのか?」  洗面なんてしてもないのに、俺の顔はグシャグシャになっている。 あと数時間もすれば  俺は病院のベッドの上で横たわっている。 この一時に過ぎないフィクションが、どんな  に悲しくて、辛い世界なのかは…俺が一番良く理解している。 …笑ってしまう……。  実際に…久本先生が、俺の父さんになる訳でもないのに…。 俺は…一瞬だけでも、現実  に戻りたくないと訴える心の叫びが、嫌味に聴こえて非常に憎かった。   それでも…… 「"父さん"……。ううん、何でも無いんだよ! 父さん! さ、早く食べよう?」        俺は初めて…笑いながら…"父さん"と呼ぶ事が出来た……  「はは……! うん、それじゃあ、食べような!」  今度はお互いの食べている姿を、見合いながら…。 口に物を含んだ姿を見合いながら、  "父さん"と俺は、プッと含み笑いをする。何気ない日常。変哲の無い日常。  …そんな日常が……始まろうとしている。        "そうだ! 父さん、俺……バイトがしたいんだ!"     "う〜ん…そうだなぁ……家の家事手伝い、時給300円ってのはどうだ?"               "何だよ、それ……?"             "ワッハッハッハッハッハ!!"                                      ・                   ・                   ・ 「あっ…………」  差し伸べた右手には塵一つ、手応えは無かった。ポトリと涙の粒が、枕元に落ちた音で、  ふいに目覚める。やっぱり其処は、真っ白い個室の真っ白いベッドの上。分かってはいた  けれど、逃げ出した小鳥を捕まえ損じた気分に駆られる。…でも、今回の夢は特別。  真二は…勝手に自分の脳が、久本を父親に見立ててしまった事を照れ臭そうに、赤面を  する。 白く霞んだ日常は…言うまでも無い壮麗だったのだ。  頭がグラグラ。変な脱力感が、折角の良い夢で気分最高な気持ちを、阻害する。手で目を  覆い、勢い良く離すと食事用の小さな台がベッドを跨いでいるのに気付く。 「そうか…もう、朝御飯の時間なのか…」    弱く、小さく、名残惜しそうに残念がっていても仕方が無い。とりあえず、自分の心に  存在する辺境の地に、寂しさを押し込みながら…まだ朝一で、元気の無い体を押し上げる。  きっと台の上には、栄養バランス抜群の無表情な病院食が待っている。 「ん……?」  ……世界が変わっていた。 食事用の台の上には、蒼いリボンが添えられている白くて  大きな箱が、一つ…ズシンと乗っかっている。いつもの光景は、台の上には無かった。 「誕生日、おめでとう。…真二君…君は今日、17歳になったんだ!」  綺麗に整えられている白髪頭のその人は、いつものように…個室の椅子に座っていた。  真二は状況が分からず、口を半開きにして、久本の嬉しそうな表情にすっかり囚われて  いるのであった。………。    俺の誕生日…? そっか、誕生日か……。今日、この日が…俺の誕生日なんだね…。 「朝からケーキは、ちょっと辛いかな?」 「えっ!?」  リボンが紐解かれ、箱の中身が正体を露呈する。そして開かれば、それは大きな…大きな  苺のショートケーキ。スポンジの生地に苺が挟まり、全体が"白いパール"で被せられる。  上には円を描くように、配置された大粒の苺の行進が連なっている。無個性な部屋に咲い  た一つのファンタジーは、俺に非現実的な匂いを香らせる。 「先生……。いつもと違って、随分…豪勢な冗談だね」  俺の言葉に、先生は身を乗り出すと、俺の頭を軽く叩いた。 「ワハハハハ! きっと頬をつねってもこれは夢ではないぞ! …ホラッ!」  今度は俺の頬を、先生はつねる。……成るほど、こりゃ痛い。夢と思いたくても、はっき  りとした現実だった。俺は急に、ワクワクしてきて……ちょこっと、ケーキのクリームを  指に付けて、そのまま口に運ぶ。 「………うわぁ……甘い!」  ケーキなんて…味はもうとっくに忘れていた。さっぱりした甘味が口一杯に広がって、  俺の芯の底からは、突風が巻き起こる。  「…フォークと皿なら台の上にあるから、好きなだけ食べればいいさ」 「ありがとう…先生! …俺さ……誕生日なんて…"知らなかったんだ"…」  彼は苦笑いしながら、柔らかいスポンジにフォークを入れ込み、適量を取る。彼の笑顔は  まるで、暗い過去が埋もれているようである。"忘れていたのではない"…。"知らなかった  のだ"…。まるで黒板消しか何かで、雑に消されてしまった…悲しい真二君の襤褸の果て。  知ることは許されなかった。知る必要のあるものを、彼には知る権利はなかった。  私は初めて気付いた、真二君の抱く悲しさに…打ちひしがれている…。  そして、彼は……笑いながら…泣きながら……ケーキを口に運ぶ。"おいしい…おいしい"  と眼で笑いながらも、彼から溢れる涙は……もう止まる事はないのだろうか…。 「なぁ……先生? おいしいから…おいしいから……一緒にさ……食べて…欲しいな…」  コトリとフォークを皿の上に置いて、それごと私に差し出す。彼が向ける、泣き笑顔が  どれだけ、私を追い詰めていくのか…。はち切れる思いで、私は咄嗟に傍に寄る。  片手に小さな紙袋を引っ提げて、私は…思い切って真二君のベッドの傍に寄る…。 「ケーキは…後で、一緒に食べような! あと、君の誕生日を祝って…もう一つ…」  紙袋から丁寧に小さな黒い箱を取り出すと、それを真二君に渡す。 「先生…これ? 俺に?」 「あぁ! そうだよ、君にプレゼントさ…。私からの気持ちだ」  俺はそう言われて渡された、四角い箱をマジマジと見つめる。箱を見つめていた視線を、  上げれば先生がコクリと頷く。それに俺は、下唇を噛み締めながら…箱の上蓋を開けた。  さらに薄い包装紙を剥がせば、俺の口からは…もう何も出て来ない。 「…シャルーナ…! シャルーナのブレスレット……!!」  雑誌だけに閉ざされていた物が、今…俺の手中に閉ざされた。高級アクセサリーブランド  ・シャルーナの最新シルバーブレスレット…。鷲の刻印が所々に彫られている、そのディ  ティールは俺の憧れでもあった。 「私が以前、個室を訪れたら、君がさ…雑誌でそのブレスレットの写真の載ってるページを  飽きるんじゃないかってくらい…眺めてたから…。 …嵌めてみてくれないか?」  興奮覚め止む事の無い感情を後押しするような、先生の言葉。その言葉に甘んじて、ブレ  スレットを右腕に装着する。照れ臭さ半分、嬉しさ半分、ハーフ&ハーフの胸の鼓動が  一気に大きくなった。 「ありがとうございます……。でも…やっぱ自分には…」  "何だ、似合ってるじゃないか…! やっぱり買って正解だったよ! ハハハハハハ" 「似合ってる…?」  似合ってないですよ、と言おうとした俺が何だか情けない。自分がどれほど、自信を失って  いたかを知っていたから。そう言おうとした自分の心情の狭間に出来た溝が、笑っていた。  そんな嘲笑いを吹き飛ばすように、先生はさらに大きな笑い声で俺を励ましてくれた。  俺を救ってくれるのは、いつも久本先生なんだ。だから…俺には…先生が必要だと思う。  あの"夢"のように…先生と離れるのがイヤだという歪んだ理性を持ち続ける俺が、どうし  ようもなかった。 でも、このブレスレットのように…綺麗になりたいから…輝けるよう  になりたいから……今は…先生に甘えても良いよね? 歪んだ理性では無いと信じたい。  俺を"この憧れのブレスレット"のようにしてくれるのは……久本先生しかいない…。 「先生…ありがとう……。って、普通にコレ…高かったでしょ?」 「なぁ〜に! 君が嬉しがっている顔を見たら、"元"が取れたような気がするよ」  腕に嵌められたブレスレットを弄っていたら…先生に…"俺の夢"を全部話せるような気が  した。俺は…笑っている先生の掌を…自分から握り締める。自分から…というのは、初め  てだから、先生も唖然としていて、驚いているみたいだ。…それでも話そうと思う! 「ちょっと…寝ている間に……嬉しい夢を見たんだ!」 「ほぉ…どんな夢だったんだい?」  一息吐いて、喋り出す。 「俺の家のベッドで目が覚めて…それで、下からニュースが聞こえてきたから、降りていった  んだ! そしたら…リビングに……久本先生が居たよ…」 「へっ? 私が…? 君の家のリビングに?」  先生の驚きは、さらに水増しされた。きっと、この後も…。 「それで…先生は言ったんだ…"私と君は立派な親子じゃないか"ってね…。 嬉しかった。  夢だけど…先生が…父さんになってくれたんだ!! で、一緒に朝御飯を食べたよ……。  恥ずかしかったけど……こんな…嬉しい事は…ないさ…。俺の"父さん"だったから……」  言えた……。言えたと思ったら、今度は嗚咽交じりの端たない泣き声しか、俺の喉からは  出なかった。"きっと叶わない夢"を、吐き出せたらと思ったら…切なさしか残らなかったよ。 「そうか…そうだったのか…。私は…君のお父さんだったのか……。……ヨカッタ…」  時として、神様は悪戯好きに変貌する。私がどうしても、言いたかった事…そのタイミング  が見当たらない中…真二君にも、夢を……与えてくれた。いや…それは…あくまでも、真二  君が抱き締めている気持ちそのものだと信じたい。私を望んでいてくれているのだと、そう  抱き締めていることを願いたい…。       しかし彼は私に素敵な夢を語ってくれた。  今の私なら、そのお礼にと言わんばかりに、ハッキリと言えそうだ。"私の夢"も、今の真二  君…真二になら、通じる筈だ。泣いている彼の背中を擦りながら……そして、私は笑いなが  ら……そう遠くない、手を伸ばせば届く夢を……真二に捧げよう。 「よし! 私が君の涙もチョチョ切れる、とっておきの話をしようじゃないか!」  真二の折り曲がった背中を優しく撫でていたら、真二が久本を見ながら、首を傾げた。 「とっておきの話……?」  "うん、そうだよ"と……久本は、真二の肩に手を添えながら、"夢"を語る。 「実はだな……。もう少し落ち着いたらな、君を━━━━━━━━━━……」       夢ダトオモッテイタケド、夢ダケデハオワラナカッタヨ……  個室のカーテンの隙間からは……真二の夢の中に出て来たような、全ての悲しみを拭い去る  純粋な光が…二人を温もりで一杯にさせていった。  真二のブレスレットも光を受けて、すぐそこまで迫っている夢を…展望している…。                                    fin.