影山スカウト回顧録 作:カリート 夜間照明灯が四方から、ギラギラとした強烈な光を注いでいる。 頑張市民球場のグラウンドには猪狩カイザースのナインがめいめい低位置について打球に備えてい、その彼らを威圧するように外野席に群がりうごめくのは頑張パワフルズのファンたちである。明日の体調など考えの外に、メガホンを打ち鳴らし、がなるような胴間声でもって打席に立つ選手のヒッティングマーチをシャウトしている。 カンッ!と騒音の中でも響く打撃音がして期待の歓声――それがじょじょに小さくなり、代わりにしなびるような嘆息と、外野手への脅迫まがいの野次が飛ぶ。 一塁側指定席に座っている男は、ワンカップ酒の蓋を開けるのに苦戦しながら、そんな音声を聴いている。見なくてもわかる。打者がカイザース先発・猪狩守から大飛球を打ったが、打球は失速して外野手にキャッチされたのだろう。やっとのことで蓋が開いて、男はグラウンドを眺める。案の定、レフトが深い位置から山なりの返球をしてい、打者といえば一塁を回ったあたりからベンチの方へ引き帰していくところであった。男は自分の推測の正しさに満足して、初めて酒を含んだ。 「かーっ、美味い!」 感無量の表情で安酒から口を離すこの男に、周囲の人間は不審の眼を向ける。なにしろ秋口でまだ暑いというのに青いニット帽を深々とかぶり、その下にあるのは鋭い目付きとピンと張ったチョビヒゲ。納まりきらない後ろ髪はまとまりなく左右に広がっている。一見して、何か裏業界の人間と勘ぐられても仕方のない風体をしている。 しかしそれは誤解にすぎない。 男の名は影山秀路――知る人ぞ知る、パワフルズの名スカウトである。 「しかしまあ、今日も大入りだな」 球場全体を見渡して、嬉しそうに呟く。少なく見積もっても観衆は4万を下らない。シーズンも終盤、今日パワフルズが2位のカイザースに勝利すれば待望のマジック10が点灯するのだ。天王山である。白球の行方に一喜一憂する。外野でうごめく群衆が、赤いサンドストームのように影山には見えた。 2010年、プロ野球は国民的スポーツたる地位をとり戻しつつあった。 21世紀に入り娯楽がいっそう多様化しても、人々は野球を見捨てなかった。むしろファンは増えつづけた。それは約10年前に入団した、数多くの特性ある選手たちによるところが大きい。 今マウンドに立っている猪狩カイザースのエース猪狩守。女性プロ野球選手の先駆者にしてキャットハンズの中継ぎエース早川あおい女史、変態的変化球嗜好症阿畑やすし、猪狩守の実弟でカイザースの頭脳と称えられる進、リーグNo.1遊撃手友沢亮……皆あの世紀の移る年の前後に、プロ野球の世界に足を踏み入れたのだ。 「ただ、野球人気復活の中心は、やはりあいつということになるだろうな……」 影山は誇らしげな笑顔で酒をすする。周囲の人間はその言葉の意味がわからずますます怪しむが当の影山本人は気づいていない。影山は天を向いて酒を飲み干すと、アルコールに視界が揺らめいてくるのを感じる。しばし目を閉じて、微酔の快さを味わうことにする。と、そうしているうちに影山の心は体をそのままに立ちかえっていく。それは日本中が猪狩守に湧いていた年だ。影山は偶然にも素晴らしい大魚を釣りあて、そして同時に今でも思い出すとゾッとしない、些細な失態を演じたことから一人の選手をめぐって窮地に立たされたあの年へと―― 河川敷の土は白く乾いている。河原の枯れた雑草は風に音を立ててなびく。川水に浸された草や土石の酸えた臭いがする。9月の太陽は空気中の塵と埃を焼却しつづけ、その陽光を反射する川面がひどく眩しい。 影山は白いコンクリートで固められた川の斜面に腰を下ろして、ある高校の練習用ユニフォームを着た青年の走る姿を眼で追っている。地毛であるらしい青年の茶色い髪からすべらかな頬を伝い、容のいいあごへ汗が滴る。明らかに疲弊した表情である。しかしなお体力の限界に抗おうとする強固な意志が、青年の瞳に浮んでいた。青年の名は猪狩守といった。 「このクソ暑いのによくやることだ」 前を通りすぎようとする猪狩に、影山は聞えるように言う。猪狩はずっと影山の視線に気づいていたらしく、ムッとして近づいてくる。 「なんだキミは。どこかの新聞記者じゃないだろうな。それとも河原のホームレスか?」 倍以上年長の者をキミよばわりか、と影山は怒ったりしない。誰にでも不遜な態度をとるのが猪狩守という男である。 「私は、この地区の担当ではないがパワフルズのスカウトでね。君とは千石さんを通じて何度か話をしたことがあるのだが」 「フンッ。覚えていないな。スカウトさんとは何十人と会っているし」 無理もなかろう、影山は思う。彼は今季ドラフトの目玉である。 猪狩守。 あかつき大附属高校のエースとして2年の夏と3年の春に甲子園のマウンドに立って準優勝と優勝の牽引車となり、高次元で完成された投球と美少年的ルックスから一躍スターにもなった。3年の夏では地方大会で番狂わせが起こり春夏連覇は叶わなかったが、スカウト評価は変わらない。現在6球団が1位指名を表明しており、それ以外の球団も猪狩獲得に熱を上げている。彼は現在、日本で最も有名な17才と言える。 「まあいい。今日君に会いに来たのはスカウトとしてではないんだ。うちではもう、猪狩守は指名しないことに決めたしね」 「フッ。それは懸命な判断だ。パワフルズには死んでも行かないと考えていたよ」 猪狩の歯に衣着せぬ暴言に、影山は怒りを通りこして笑ってしまいそうになる。また、自分の決断が正しかったことに胸を撫で下ろす。 パワフルズ編成部でも、つい8月の終わりまで猪狩守を指名するか否かで連日会議が開かれ丁々発止の攻防が繰り広げられていたのであった。そして次第に会議はスカウト同士の面罵し合いになり腕相撲大会へ移行するというわけのわからぬ展開を見せ、結局賛成派が勝ってしまった。さて一件落着と思われたが、それまで緘口していた影山は意を決して一度決定した指名する方針を覆す説得を始め、それが元でパワフルズ指名を回避することになった。 「現状のパワフルズに猪狩が入団する蓋然性は低い。例え入団したとしても、パワフルズと猪狩は相容れないと思う。それは選手にとって不幸であり、ファンの悲哀であり、球界の損失だ。猪狩という、低迷するプロ野球に久々に現れた新星を翳らせてはならない。私が生え抜きのスカウトではないからといって、球団を侮辱されたなどと悪い意味には取らないでほしい。それに今は猪狩というスターで一発逆転を狙うより、2・3年後に向けて戦力の土台を固めておくべきだ」というのが影山の意見である。自球団の利益ばかりを優先して有機体としてのプロ野球自体が衰退しては意味がない。パワフルズのフロントはシビアであるが善玉である。皆影山の意見に賛同してくれたのであった。 次に影山は猪狩獲得を断念させる代わりに、自らの担当地区の、即戦力として名高い大学生右腕をピックアップした。そして影山は巧みな話術を用いて、その右腕の逆指名の仮契約を済ませることに成功した。影山は今年、優れて大きな仕事をやってのけたのである。 「それでは猪狩君。噂通り巨人以外には行かないつもりなのか?」 「むろんだ。日本でボクに相応しい球団なんて巨人しかないからね」 猪狩は一貫して巨人入りを志望している。プライドの高い猪狩だからありそうなことだという声もあるが、どうにも影山には疑問であった。 『憎たらしいほど強い巨人』――他球団の選手もファンも叶わないと認めて、羨望と敬意を持ってそう言ったのは昔のことだ。今の巨人にかつての魅力は無い、と影山は考えている。ならばカネに釣られたか?いや、猪狩家は大富豪である。猪狩は桑田真澄のファンだからか?幼い頃から立浪ファンであったがために中日入りした福留孝介の例もある。しかし猪狩の場合は具合が違う気もする。疑問は深まる。久々の休日を用いて猪狩に会いに来たのは、この疑問の答えを得ようとしたことが理由の一つでもあった。 「あまり積極的な理由ではないのだね。大リーグからも誘いが来ているのだろう?」 「君の知るところじゃないよ。それより、ボクはまだ退部届を出してはいないんだ。獲得を断念したからってスカウトが接触しているのを見られたら規則上問題になりはしないか。早く帰った方がいい」 棘のあるセリフを吐くときの猪狩は、じつに嬉しそうな顔をする。 「よく知っている。だが君の言ったとおり、私がスカウトとは誰も思わんさ。河原のホームレスが野球青年に絡んでいると思うだけだろう。はっはっは」 影山もやりかえす。我ながら幼稚だなと思いもしたが。 「……フッ。嫌味で言ったんだけどね」と、猪狩は警戒を解いた呆れ顔をする。 猪狩はずっと影山を見下しているのに疲れたのか、影山と少し間を空けてコンクリート張りの斜面に腰を下ろす。野球をやるには綺麗すぎるな、影山はその横顔を覗きながら心中呟く。 「ドラフトでは少なくとも6球団の指名があるだろう。抽選で巨人以外が交渉権を得たらどうするんだ?」 「大学に進学する。そんな情報もキミらには伝わっているのだろう?」 影山はふところのタバコを取り出しながら肯く。百円ライターで火をつける。一口目はふかすのが影山の癖である。タバコを口から離して、険しい顔で言う。 「だが4年間で何が起こるかわからんぞ」 「わかっているさ。大学在学中に肩や肘を痛めた選手なんて腐るほどいると言うんだろう。まあ、ボクには関係のない話だけどね」 秋風に髪がなびかせて、猪狩は答える。自信過剰とも思える言葉だが、影山も同感であった。このコに不幸など起こりそうにない。 「それに……ボクは思うんだ。もし野球の神様がいるとしたら、ボクに4年間も無駄足を踏ませるようなことはしないってね。だから、当たりは必ず巨人がひく」 穏やかに言う猪狩の表情は、すでに巨人が交渉権を得るのを確信しているふうである。 (このコは何という眼をするのだろう) 指名せずに逃がすには惜しい男だと、影山は改めて思う。影山は決して猪狩の実力を見くびってはいない。むしろ実力を高く買っている。会議で一度決定した方針に反対したときも、断腸の思いでいたのだ。 「ところで影山さん」 「……ん、なんだね?」 指に挟んだタバコは二吸いもしないうちに、いつのまにか根元近くまで灰になっている。慌てて影山は口に含む。 (なんだ。私の名前を知っていたのじゃないか) 猪狩も意地が悪い、と笑いながら見ると猪狩は真剣な顔で影山を直視している。影山は短くなったタバコを足で揉み消して猪狩が口を開くのを待った。 「あかつきから南西に行くとパワフル高校がある。そこに小波という、ボクと同い年の外野手がいるんだけどね」 「ほう。その小波が?」 「おそらく今日も練習しているだろうから、見に行くといい」 「ふーん。ありがたいね。君を獲得できない代わりというわけか」 影山は気のないふうに言ったが、内心ひどく驚いている。猪狩の口から同世代の選手の名前が出るとは思ってもみない。 猪狩は勝手にライバルを作られることを嫌った。有名な話がある。甲子園大会の際、何かとメディアは猪狩に釣り合う選手をライバルに仕立て上げようと試みた。満腹高校のスラッガー飯田、帝王実業高校のエース山口などがそれである。しかし猪狩は彼らとの対決について聞かれても「ライバル視している選手はいません。精一杯やるだけです」と、謙虚に答えるだけで、しかも言葉とは裏腹に激しい怒気を含んだ口調でいうのだった。 「フッ。ボクの代わりは務まらないが、必ずチームの主力になる男だよ」 そんな猪狩からこの言葉である。いわば猪狩の「お墨付き」、ライバル視するに足る実力を持った選手なのだろう。 (面白いことになるかも知れない!)影山はひそかに思う。 猪狩と別れた影山は愛車に乗って国道を西に向かっている。車中、『小波』についてのデータを得ようと球団事務所にいる後輩に電話をする。 「もしもし影山だが。事務所にいるよな?」 「すいませーん影山さん。今ちょっと出てまして」 こいつの口調にはいつも辟易する。愛嬌のある男だがどこか抜けている。コーチになれなかった人間がスカウトに回される安易な風潮をどうにかしてほしい、と影山は思う。 「何やってるんだ。まあいい。パワフル高校の小波という選手について知っているか」 「ああ、あの小波ですか」 「知らないから聞いている。有名な選手なのか?」 「前のスカウト会議で川崎さんがちょこっと口に出したと思いますよ。ほら、3年夏にあかつき大附属が準決勝で負けたでしょう。その相手がパワフル高校で小波は4番打者だったんです。ホームランも打ったとか」 あかつきが番狂わせで敗退した相手はパワフル高校だったのか。影山はますます小波に興味を持つ。 「ほう。高校通算では何本だ?」 「えーっと、忘れました。ははは。けど少なかったと思います。パワフル高校ってずっと2回戦あたりで消えてたから。だけど今年は2年の手塚がよく頑張りましたよねぇ」 後輩はしみじみ語る。影山はいいかげん堪忍袋の緒が切れそうであった。 「だから!知らんと言っているだろうが!具体的なデータはないのか?利き手とか」 「すいません。右投右打ぐらいしかわかりません。背丈は180弱です」 「よしわかった。まったく。ところでお前、何で外に出ているんだ。下らない理由じゃないだろうな?」 「まっさかー、失礼ですね。じつは今日ホーミング娘の新曲が発ば」 ピッと影山は通話を切った。呆れてものも言えない。情けなさに少し泣きそうになった。 国道を左に折れて浜側に進む。そよ風高校を過ぎて少し行くとパワフル高校の校門があった。黒曜石に刻まれたハイカラな校名、校名のわりに変哲もないコンクリート造りの3階立て校舎。屋上の貯水タンクがくすんだ光を放っている。 そこからさらに南へ行くとあまり広くないパワフル高校グラウンドが見えてくる。影山は近くのコンビニエンスストアに駐車して、球場でいえば3塁側アルプスに位置する歩道からフェンス越しに野球部の練習風景を眺める。グラウンド全体を視界に収めることができるし、そこのフェンスには不自然にも岩石のような物体がもたれかかっていて、物影になっているからである。 日曜日のグラウンドを、野球部はめいいっぱいに使って練習を行っている。観察していくと、意外に総合のレベルが高いことに気づく。 (ブルペンで投げ込みをしている面長の右腕、あれが手塚だろう。ノックを受けている小兵タイプのコも球際に強い守備をする。素振りをする左打者も、体の使い方が巧い) 「なるほど。あかつきに勝ったのもまぐれではないらしい。……しかし、小波はどこだ?」 まさか今日は練習に来てないのではないかという疑念が頭をよぎったとき 「小波くーん!矢部くーん」 と女性の耳に入ってきた。まず声の主を探すと、校舎2階の窓から手を振っているピンク色の髪をした女子生徒の姿が確認された。次に声の行きつく地点に眼をやる。バックネットの脇、桜の木蔭当たりだ。そこにいる背格好の似た二人の青年がストレッチをしながら笑顔で手を振り返している。現役部員に遠慮して、途中から練習に加わったというふうである。 「あれが小波……いや待て。どっちが小波なのだ?」 全くよく似た二人である。背格好、顔の輪郭や服装。しかし決定的な違いがある。片方の青年はひどく分厚いメガネをかけているのである。最近ではあまり見かけない種類のメガネなので、受けるインパクトが強い。 「しばらく様子見とするか」 直接話すのが一番手っ取り早いが、気が乗らない。二人も守備練習に加わってしまったので影山はふところからタバコを取りだし、一服しようとした。すると 「ちょっと!人が近くにいるのに勝手にタバコなんて吸わないでほしいわ!ていうかさっきから何私の体に凭れているのよまさか痴漢!?いくら私のボディが魅力的だからって我慢できなくなったじゃ済まさないわよ!」 近距離から大音量のマシンガントーク炸裂。影山は驚いて周りを見まわした。 「!」 信じられぬ。しかし全て了解しないわけにはいかなかった。物影を形成する岩石のような物体が、じつは人間であったということを。 「おっと失礼。人がいるとは気づかなかった」 「フンッ。しらじらしい。それより、さっきから小波小波ってなれなれしく呼ばないでほしいわ!」 「あれ、君も小波姓なのかい」 「今は姫野ですけど、将来的には小波カレンになるのですから間違いではありませんわねオホホホホーーーーー!」 何だこの喋る岩石は。影山は頭痛を感じた。 奇怪な容貌である。 顔に位置する部分はパンパンに膨れ上がり、メガネがはめ込まれている。その上部には妖しい赤のリボン。体は特注らしいゴスロリ風セーラーで覆われている。なにしろデカイ。カブレラなんて比じゃない。日常生活に支障はないのだろうか?と下世話なことを考えたが脱線していると思い、思考を打ち消した。 影山は、おそらくこの岩石は小波の追っかけなのだろうと推測した。良い機会だと思い質問する。 「ちょっと聞きたいのだけど、グラウンドにいるどれが小波君なんです?」 「な、なぜ知りたがるのです!さては愛しの小波様を誘拐して引き換えに私の肉体を狙っ「私はただの高校野球ファンですよ」 と、影山は相手方の一方的な妄想を遮るように言う。 「現役時代の小波君は凄い打者だったと、ある人から聞いたものでね」 岩石(おそらく性別は女)は影山を人見女のごとくじろじろ舐めるように見たあと、メガネの奥に疑惑の色を保ちつつ薄笑いを浮かべながらこう答える。 「あの、メガネをかけている変なヤツ、いえ、素敵な人が小波様ですわ」 「そうでしたか。ありがとうお嬢さん」 お嬢さん、はさすがにキザだな。まるでみのもんたじゃないかなんて思いつつ、グラウンドに目を移す。裸眼の青年がフライを捕る練習をしていた。 「メガネの方が小波ということは、彼は矢部なのだろう。 足は並。ほう、肩もスローイングも悪くない。ただ打球反応がイマイチだな」 長年のスカウト生活の習慣である。影山は愛用のワイン色した手帳にメモを取り始める。目当ての選手でなくとも光るものがあればページの端にでも名前を書いておく。影山がまず足と肩に注目したのは、それらが先天的な素質であって練習によってどうにかなる種類のものではないからである。 次にメガネの青年。 「……足が抜群に良いな。肩は普通だがコントロールがある。反応はもう一つ食い足りないがさっきの青年よりは早い。白球を追う姿には躍動感があるな。社会人レベルなら足と守備だけでやっていけるんじゃないだろうか」 正直な感想である。影山は姫野(とかいう岩石)の反応をうかがう。 「あれ?いないじゃないか」 フェンスにへばりついていた物体はすっかり消えている。左右の通りを見ても、あれだけバカでかいのに帰った痕跡もない。影山はなにか不思議な心地がする。 「奇妙な体験をしてしまったな。まあ忘れよう」 しばらくしてグラウンドは打撃練習に移行する。打撃投手を務めるのは手塚である。メガネの青年が「かっ飛ばしてやるでやんすー」と叫んで打席に入った。その声を聞いて影山の期待はますます膨らんでくる。 しかしメガネの青年が打撃を開始してまもなく、期待はすっかり萎んでしまった。 手塚の130km/hの速球に差込まれる場面も見える。バットコントロールは悪くない。コンパクトで力強さを感じさせる。しかしプロで通用するレベルではない。そのレベルに到達する見込みはほぼ無いと言っていい。影山は興ざめしてしまった。 「本当に猪狩からホームランを打ったのだろうか。事実だとしても、あの様子ではまぐれ当たりとしか思えないな……」 こうなると自分は、猪狩に騙されたのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。一つ言えることは、「小波」はそれほどの選手ではないということだ。気抜けした影山はパワフル高校を後にしようと、駐車しているコンビニに向かった。  ――カキーン! しかし突然、透くような快音が影山の背後で響く。振り返って打席に入っている選手を眺めると、裸眼の方の青年である。影山はさっきの快音が気になり引き返すことにする。 「おーい手塚!本気で投げてきてくれよー!」 青年が笑顔で挑発する。それを聞いて手塚は目の色を変えた。投球フォームに相手を捻じ伏せようとする気迫がにじみ出てくる。オーバースローから速球を放った。 青年はスタンダードな打撃フォームで、ゆったりと足を上げる。並進運動は「探り型」と呼ばれるすり足タイプ。 静かに前足を踏みこむ。 そして下半身から上半身にかけての強靭な筋肉の連動は、凄まじいスイングスピードとなって表出される。 「こ、これは!」影山は思わず声を上げる。 バットは肩と平行に、伸びてきた速球へうねるようにからんで、芯に乗せ、叩く。  ――カッ! 一瞬の炸裂音。白球は高々と舞いあがった。長い滞空時間の末、白球はレフト側に設けられたネットの最上部に当たる。青年は十分にフォロースルーをとって、「玉屋ー」などと言って笑っている。 影山は呆然。 頭の中で打球を思い返してみる。重力に解き放たれたかのような美しい弾道であった。  ――カッ!  ――カッ! 青年は打撃練習を続ける。爽快な打撃音とともに、右へ左へ大きな打球を飛ばす。リストが強いのだろう、手塚の鋭く切れる変化球を苦もなく弾き返している。 わっはっは、わっはっは!――気づけば笑っていた。驚愕と興奮で本来の思考が明瞭さを失ってきているのではないかと影山は感じる。 (だから何だというのだ!) 影山は哄笑のうちに、問いかける自分自身を一喝する。何せどの球団も目をつけていない真にスラッガーの卵を見つけ出したのだ。影山は今、スカウト冥利につきる心地である。 (こいつは高校時代の福家と比べても見劣りしないぞ!) 福家とは低迷パワフルズの4番にして唯一のスター。年間を通じて3割30本を叩き出す大打者の姿を、影山は青年に重ねる。そして笑いが止まらない。 プルルルルーと、熱に浮かされた影山を冷ますように、懐から携帯電話の無機質なコール音がする。背面ディスプレイには先の後輩の名前があった。 「もしもし影山だが」 「あ、影山さん。事務所戻りました。小波のデータもありましたけど」 「小波のことはもういい。代走としては面白いかも知らんがレベル以下の打者だ」 「さすが辛いっすねー!けど小波って足早いんですか?盗塁数もそんなですよ」 自分の眼に疑いのない影山はデータとの相違など問題にしない。正直、小波のことなどどうでもよかった。影山は「彼」のことを話したくてしかたがなかった。 「それより、パワフル高校に矢部という選手がいるだろう」 「ああ、ありますね。矢部明雄。明るいの『明』にオスの『雄』」 「素晴らしい才能だよ。私のスカウト生命を賭けて、矢部を入団させてやる」 「えー!凄い入れこみようじゃないですか!?楽しみですねー」 「詳しい話は会議で発表しようと思う。ふふふ。では切るぞ。ちゃんと仕事しろよ」 してますよー、という後輩の声が聞えたところで影山は通話を切った。いつもなら小言の一つもやるところだが、今の影山の機嫌はすこぶる良い。 スカウト生命を賭ける、この言葉を一度使ってみたかった。そんな選手に出会いたいと長年思っていた。その日がついに来たのである。無能な後輩も可愛く思えるぐらい影山は幸福の最中をたゆたっている。 打撃練習の次は実戦守備練習になった。小波と矢部は現役部員と一緒に練習せず、二人でグラウンドの外側を大きく走り始める。彼らがちょうど前を通りがかろうとしたところで、影山は幾分高圧的とさえ言える調子で声をかける。 「君達。少し時間いいかい」 二人は影山の風貌を恐れたらしく、声をひそめて相談する。 「どうする?」「めちゃくちゃ怪しいでやんす」「悪い人じゃなさそうだよ」「そうやって油断させる作戦でやんす」「勘ぐりすぎだって」「捕まったら肉体労働者として一生を終えるでやんすよ!」「どこかの大学の関係者かも知れないじゃないか」「オイラには奴隷商人にしか見えないでやんすー!!」「声デカイよ……」 と、こんな内容。二人は元来声量があるようで影山の耳にも明瞭に聞えている。 「怪しい者じゃない。私はパワフルズのスカウトだよ」 彼らとの間にはフェンスが隔たっているので、影山は名刺を渡すかわり、見えるように前へ掲げる。二人はあまりの驚愕に顔を見合わせる。 「「うおー!すげー!」」 「矢部君と小波君だね。練習を見させてもらった。君は素晴らしい打撃をするな。うねり打法というのか、あんなスイングの出来るコは高校球界じゃ少ないだろう」 「あ、ありがとうございます!」 「君も良い足をしている。ベースランニングは何秒だね?」 「オイラ13秒台で走れるでやんす!」 「ほう……(本当に足だけで通用するかもな。パワフルズは機動力に乏しい。このメガネの青年も覚えておいて損はあるまい)」 しかし、指名するとなると話は別である。二人は非常に仲が良いようであるが、ポジションの重なる選手を同じ高校からまとめて指名するなんてことは影山の経験では一度もない。あくまで頭の片隅に留めておく、程度である。 「ところで、どこかの球団から指名の打診があったりはしなかったかい?」 「いえ、一度もないですね」 「手塚目当てに来るスカウトはたまにいるでやんすけど」 「……そうか、わかった。練習の邪魔をしてすまなかったね。私はこれで失礼する。二人とも自分のセールスポイントを伸ばしてやっていくと良い。では頑張ってくれ」 「あ、どうも。ありがとうございましたー」 二人は影山に背を向けて、ランニングを再開した。そのときふいに、彼らの掌が見えた。皮膚が破けて血が滲んでい、そのまま固まった汚い掌。それは野球をするものにとって凄絶であり神聖な掌である。夏の大会が終わってからも、彼らが素振りを欠かさなかったことが覗える。そして、影山は彼らのバカ真面目な性質ものぞいた気がする。 「さて、私も帰ることにするか」 車へ引き返す前にもう一度グラウンドに眼を向けると、二人はランニングから長距離ダッシュへ練習を変えている。スカウトに話しかけられたことがよほど嬉しかった様子で、「よっしゃー!」などと雄たけびを上げながら何周も走っている。それを見て影山は思う。あいつらは本当にパワフルズに合っているなあ、と。 9月末、影山がパワフル高校を訪ねてから初めてのスカウト会議が開かれた。球団事務所の会議室を占めて、長机がコの字型に並べられている。出席しているのは編成部長と各々スカウト。1位指名選手は決定しているので、あとは下位指名の大まかな方向性を示すだけ。今日の会議はすんなり進むはずのものである。しかし、編成部長が形式的な挨拶をしたあと、いきなり影山が推す『矢部明雄』の話題になった。あの無能な後輩が「影山さん、『矢部』というコの獲得にスカウト生命を賭ける、だって!とてつもなく凄い選手に違いないぞ!」といった内容のことを方々に喋りまくったからである。 「影山さん。初めに聞いておきますが、パワフル高校はあなたの担当地区ではないですよね?」 と、慇懃な口調の川崎スカウト。しかし面の皮一枚めくれば憤懣が煮えたぎっている。なぜならパワフル高校は彼の担当地区だからである。影山が『矢部』を絶賛することによって、その選手を見逃した川崎は立つ瀬がなくなっている。ちなみに、今日採用されている担当地区制と合議制は、そう言ったスカウト間の責任問題をなくすためでもある。 「左様。君が担当に決まっている。散歩ついでに通りがかったパワフル高校を見ていたら、打撃練習で物凄いバッティングをするコがいるので驚いたよ。それが矢部だ。本気の手塚相手に大きな打球を何本も打っていた。変化球の対応も目を見張るものがある」 「バカな!たしかにパワフル高校なんて今年に入ってからしかチェックしなかったが、矢部なんて全く記憶にないぞ!」 「それは嘘だ。あれを見逃すなんて、川崎スカウトは盲になっていたに違いない」 ピシィ!と、空気が凍る音がする。川崎は顔を真っ赤にして、その眼はすでに獣のように理性の光を失いかけている。会議は一触即発の状態で、下手に発言できないから皆黙って二人の論争を緊張して眺めている。 川崎は巨躯である。現役時代は主に代打と乱闘で活躍した選手で、力勝負になれば影山など一たまりも無い。また、猪狩論争の際の腕相撲大会で優勝したのは川崎であった。苦労して勝ち取った指名賛成の方針を、あとから影山にひっくり返された遺恨を川崎は忘れていない。 しかし影山も負けじと睨みかえしている。影山は川崎を好いていない。スカウトとして川崎は二流だと影山は見ている。当のパワフルズ編成部は気づいていないが、ここ数年、彼の担当地区からパワフルズ以外のチームに入団し、大活躍している選手が腐るほどいることを影山は聞き知っている。川崎はその地区以外を担当するスカウトでも名前の聞いたことのあるような、有名どころの選手しかピックアップできていない。スカウトの仕事を甘く見ているこの同僚を影山は心底軽蔑していた。 「あと、同じ高校に『小波』という選手がいる。前の会議で彼の名前は出たらしいが、素晴らしい足をしている。最初から代走として雇うのなら面白い選手だと思う」 「なにー!」 川崎は額の血管を浮き上がらせ、荒い息を吐き、今にもぶち切れそうで危うい。しかし、何かに気づいたらしい。小波?矢部?小波?……牛のように二つの名前を反芻したあと突然合点がいったようで、がっはっはー!と笑い出す。 「(ついに血管が切れたのか?)川崎君。何がそんなに面白いのかね?」 部長が労わりの心をもって川崎に問う。 「いやいやー影山さんともあろう人が変な勘違いをしているのに気づきましてねー。影山さん、小波はどんな外見をしていましたか?」 「ん?背丈は矢部と同じぐらいで180弱だろう。瓶底メガネというのか、かなりぶ厚いメガネをかけていたよ」 「くくくっ。やっぱりなあ。こりゃあ傑作だ」 「どういうことだい?」 川崎は答えず、資料棚の中から封筒を探し当てて、影山の前に投げる。その顔は醜悪に歪んでいる。影山はどうにも嫌な予感がする。 「小波の資料です。俺もダテにスカウトをしているわけじゃない。小波のことは何度か見たがメガネなんぞかけちゃいません。たしか彼の親友にグリグリメガネのコがいたのを思い出しました。それが矢部なんでしょうよ。つまりね、影山スカウト。逆ですよ逆」 影山は封筒を開けて資料を見る。小波の名の横に貼ってある顔写真は、あの裸眼の方の青年に間違いなかった。 「……あれ……?」 と、影山が間抜けた声を洩らした瞬間、ドッと会議室に笑いが起こった。日ごろ冷静な影山にはそぐわないミスが面白かったのだろう。影山の哄笑につられて爆笑は長々と続いた。その間、影山は羞恥よりも納得した心地であった。 (そう言われれば名前を確認していなかったな。あの時はあまりに浮かれてすぎていた。あの青年が小波ならば、猪狩のライバル視も頷けるというものだ。しかし) 次に影山には怒りを感じた。鬼の首を取ったかのような顔で自分を見下ろしている川崎に対して。 「ああ、たしかに逆だな。私が驚いたのは小波の打撃だ。どこで勘違いをしたかはわからないが、いたずらに混乱させてしまって申し訳ない。だが」 影山は川崎を凝視して言葉を続ける。 「川崎さんは何故小波を推さなかったのだ?まさか通用しないと思ったわけでもあるまい」 「そ、それは。……がっはっは!あまりに良い選手だからもう少し後になってから公表しようと思っていたのだ。敵を騙すにはまず味方からというではないか。小波の能力については以前から見ぬいていたよ。影山さんよりも前に、ね。わーっはっは!」 オーッと周りのスカウトも編成部長も感嘆する。影山は驚き呆れる。 嘘をつけ!お前は一応小波をチェックしはしたが、持ち前の曇った鑑識眼でプロでは通用しないと判断したに決まっている。しかし私が小波に(そのときは『矢部』だと思っていたが)スカウト生命を賭けるとまで言ったので尻馬に乗り、それどころか自分が先に見出しただと!?この能無し、肉達磨。厚顔無恥もここまで来ると大したものだな!影山の胸のうちには百千の罵倒の言葉がふつふつと滾り、荒れ狂っている。 「まあまあ。小波というコは、十分指名対象にしたいと思う。影山君と川崎君の推挙ということでよろしいな」 編成部長が上手くまとめたつもりなのか得意げな笑みをこぼす。 「それで、影山君。件の矢部についてはどうするのかね」 急に話題を変えられて影山は返事に窮する。すっかり忘れていた。 「本物の矢部、ですね。ははは。俺が記憶していないくらいだからロクなもんじゃないでしょう。それにプロ野球は人気稼業だ。グリグリメガネじゃファンがつかないよ」 影山へ当てつける川崎。 影山も驚くほど同意見である。足は捨てがたいが無理をして獲るほどの選手じゃない。現状のパワフルズは外野手に困っているわけでもない。それにあのメガネは、人に因れば不快感を呼び起させる。影山は矢部については強く推すつもりはない。 ただ、影山の頭にちらつく、矢部の血に汚れた掌、天性のバネに基づく躍動感ある守備、ベースランニング13秒台という言葉。それらが脳内で変に錯綜する。影山は頭を抱えて悩んだ。 スカウト生命を賭ける――ふいにこの言葉を思い出された。間違って矢部に使ってしまったが、影山にはそれが単なるミスによって使われたようには思えない。自分にとって矢部は、やはりスカウト生命を賭けるに値する選手なのだという考えが生まれてくる。 「君も矢部に関しては熱心でもないようだし、指名リストからは除外していいね?」 早く終わらせたいのか、編成部長が濁った眼差しで影山に問う。 「……いえ。矢部は指名すべきです」 やっと言葉を紡ぎ出した影山は、何の感情も読み取れ得ない表情で語り始める。 「彼の脚力は魅力です。野武士のごときスラッガーが固まっていたパワフルズは今や遠い思いでにすぎません。機動力野球を組み合わせなければならない時期に来ています。矢部はベースランニングを13秒台で走り終えると言います。獲らない手はない」 「影山ァ!まだ言うか。小波の件は許してやるが、矢部まで強引に推すなんて俺に恨みでもあるのか。性悪だぞ!」 我慢ならんというふうに川崎が白目をむいて怒り狂う。しかし影山はそっぽをむいたまま話を続ける。 「全ての責任は私が取ります。矢部が一軍で活躍せずに解雇されるようなことがあればスカウトを辞めてやってもいい。矢部は将来、パワフルズに欠かせない選手になる」 会議室は狼狽と呆れた笑い声に騒然とする。川崎は一人愉快そうしている。影山さん、早ければ3年もしないうちにあぶれることになりますよ、どこからかそんな声もする。 「よしわかった。後日監督や代表が出席される会議で議題にしよう。では解散」 礼をして、皆ぞろぞろと席を立つ。川崎は部屋を出るまで影山を睨んで、不機嫌な様子で出ていった。ハッと我に帰った影山は、そのまま机に手を絡ませて座っている。 「影山さん!あんなこと言っちゃって大丈夫なんですかー?」 後ろから心配そうに聞いてきたのは愛嬌のある無能な後輩。 「……大丈夫だろう。あと3年ばかりは」 「は?」 「何故あれほど頑なに矢部を推したのか自分でも理解できん。どうにも変な気分だ」 「じゃあ……」 「機動力野球がどうとか言ったが、特にそんな心算があったわけではないのだ。一時の気の迷いで出任せを言っただけだ」 「ええーーーーー!」 後輩は泣きそうな顔。しかしながら影山には、劇的な不安や後悔は押し寄せてこなかった。ただ意識がはっきりしない変に心地よい状態でいる。影山はタバコを一本取り出し、会議室は禁煙であるのもかまわず深く深く煙を吸いこんだ。―― 影山スカウト回顧録(二) 作:カリート 誰かの手が左肩に置かれて、影山は現在に帰ってきた。試合はすでに8回オモテまで進行しており、1対1の投手戦となっている。カイザースは猪狩、パワフルズも表ローテーションの一人である館西だから予想されていたことではあったが。 「お疲れですね影山さん。酒買ってきたんですけど一つ要ります?好物でしょ」 にこやかに話かける30代前半の男は元プロ野球選手、猪狩と同期であり、影山が入団交渉に当たったあの大学生右腕である。期待通り素晴らしい才能であったが、2年目に故障してその後鳴かず飛ばずのうちに引退した。今は頑張市内で小さなバーを経営してい、パワフルズのかつての同僚も飲みに来たりしてなかなか盛況らしい。彼と影山は頑張市民球場でよく遭遇する。 「や、ありがとう。いやはや、長い夢を見ていたよ」 男は、空いていた隣の席に座る。 「どんな夢を見ていたんですか?変に唸っている人がいるなぁと思ったら影山さんでしたから」 「君が先発の試合」 「あはは。影山さんも人が悪いですね」 「ふふっ、たしかに。まあ言ってみれば、君が入団する年の夢だな」 「お!館西やるなぁ。このイニングも三者凡退だ」 グラウンドでは館西が打者を三振に切ってとり攻守交代が行なわれている。 「館西も少しスピードが出なくなったな。代わりにスタミナはついてきたが」 「昔は完投できるピッチャーじゃなかったですもんね」 「うむ」 「ああ、それで、入団する年のことって何かあったんですか?」 「9月末のスカウト会議でもめたことがあったのだ。小波と――」 8回ウラの攻撃で選手の名前がコールされると凄まじい声援が起こって、影山の言葉は掻き消される。 「おお、噂をすればってヤツですか。しかし、怖いくらいの声援ですね!ランナー無しからこれほど期待される選手なんてそういませんよ」 「ファンに愛されているからなぁ。 私が言うのもなんだが、ここまで化けるとは思わなかったよ」 コールされた選手は、打席の手前で威勢よくブンブンとバットを振りまわす。 パワフルズ不動の3番、小波である。 彼は入団2年目の終盤戦から頭角をあらわし、3年目の開幕戦でその年カイザースに移籍した猪狩守から劇的なサヨナラホームランを放ってポジションを手にした。以来パワフルズの打の主軸として活躍。ニックネームは「二代目熱血フルスイング」、近頃では「Mr.パワフルズ」と呼ばれるまでになっている。 そしてまた、彼はチームの躍進にのみ貢献したわけではない。 「小波が出てきたあたりから、プロ野球は変わりましたよね。闘争心がこちら側にも伝わるようになった」 「そうだな。数十年前のプロ野球選手といえば『高性能な野球ロボット』なんて揶揄されていたものだが。あの小波っていう野球バカにみんな感化されたのだろう」 「あはは。本当にプロ野球は面白くなりましたよ」 熱血で喜怒哀楽を前面に出す小波の存在は、それまで冷めて事務的であったプロ野球にエンターテインメントの風を巻き起こした。影山の言ったとおり感化を受けた各選手は(それがゼニの取れる選手になる近道だからでもあるが)一挙一動にパフォーマンスを意識しプレーした。それら選手は初め、傲然とふんぞり返った評論家たちに俗っぽいと批判されもしたが、やがて人々は野球本来の素晴らしさをも感じることになった。小波という一人の選手によってプロ野球は復活したと考える人間は少なくない。 そして、そんな小波と、闘志を内に秘めて颯爽と投げる日本球界のエース・猪狩守のライバル対決は、現代プロ野球至高の華である。 「さあ、この打席は今日一番の見物だぞ!」 そう言ったきり影山も男も黙って、18.44m間の静かなる死闘に目を注ぐ。 打席に立った小波と猪狩は暫しにらみ合う。「猪狩にだけは抑えられたくない」と、意識しているのを隠そうとしない小波。「小波に打たれるのが一番悔しい」と密かに語ったという猪狩。 影山は知っている。この二人は、高校時代から互いに認め合うライバル同士だったのだ。 この対決のときだけは、なぜか観客もバカ騒ぎを止めて固唾を呑むのが慣行になっている。 一球目。 猪狩がサインに頷いて右足を引く。高校時代そのままの美しいフォームから、外角いっぱいのカーブ。小波はフルスイングを持って応える。三振でも観客は期待にざわめく。 二球目。 内角へノビのある速球。小波は微動だにせず見送る。「ボール!」。 三球目。 再び内角へ速球。小波は思いっきり体を開いて対応。砂を噛む猛ゴロが三塁線のわずかに左へ飛ぶ。「ファール!」と、審判が両手を左右に広げる。 四球目。 外角低めからボールになるフォーク。小波はバットのヘッドをぴくっと動かすだけで、耐える。 一球たびに観客の吐く苦しげな息が重なり球場に反響する。影山も乾いてくる唇を時々酒で濡らすが、視線をグラウンドから離しはしない。 そして五球目。 猪狩はゆったりと足を上げ、重心を沈め右足を前に踏み出す。筋肉のねじれが解放されて、大気を巻き込むように上半身、肘が旋回する。猪狩はボールをリリースする。速球。小波は目を見開き、内角高めに伸びてくる速球を本能的に、渾身の力で弾き返す。 ――カンッ! あの日、パワフル高校のグラウンドで影山が見たバッティングそのままに小波は振りぬく。白球が高々と夜空に一点。センターが必死に背走する。長い滞空時間の末に落ちた地点は――バックスクリーン。瞬間、風船の破裂したような歓喜が球場全体に広がる。 「うおー!凄い!やっぱり小波は役者ですよ、ホント」 「うむ。大したヤツだよ。決して失投じゃない、力強いストレートだったのに」 小波は天真爛漫な笑顔をしてダイヤモンドを一周する。観客からの小波コールは彼がベンチにたどりついた後も続いた。猪狩はうつむいたまま、その表情はわからない。しかし、おそらくは澄んだ瞳で勝負の余韻に浸っているだろうと影山には思える。 猪狩は球界のエースたる真面目を見せ、小波の後を三人で切って取る。試合は9回に移った。 「さて。パワフルズは逃げ切れるかな?」 影山は酒をすすって試合を見守る。 このまま館西がすいすい完投勝利をおさめるかと思われたが、さすがの天王山、カイザースはスタミナが限界に達しようとしている館西に牙を向く。ツーアウトながら一三塁で同点のピンチ。長打が出れば逆転の可能性もある。声高に「あと一人コール」をするファンたちも気を張っているのが感じられる。 7番打者に代打が送られる。確実性はないが一発のある若手選手。館西は肩で息をしながらカウント2−2まで追いこむ。コールは「あと一人」から「あと一球に」変わり、館西は最後の気力を振り絞ってラストボールを投じる。 ――カンッ! カーブが高めに浮いて、芯で捉えられた白球は左中間へ飛んでいく。あああ、と寒気のするような絶望の叫びが上がり、思わず影山も隣の男も席を立つ。センターの小波とレフトが懸命に打球を追う。レフトは足の早い選手である。分厚いメガネを光らせて、ぐんぐん打球の落下地点へと加速していく。レフトの守備に入っているのは、あの矢部明雄である。 他のスカウト、そして影山本人すらプロでは通用しないと考えていた矢部明雄。 彼自身も1年目のキャンプでレベルの違いを実感した。打撃投手のストレートに力負けし、守備ではお粗末な凡ミスを繰り返し、自慢の足でようやく並のレベルと言われた。しかし矢部は挫けなかった。負けん気の強さと一本気な性格は、苦悩する前に彼を練習へと向かわせた。日夜、親友小波と一緒に「常軌を逸した」練習量を積み重ね、入団4年目にはベテラン選手の故障によって念願の一軍昇格、その試合で2盗塁を決めて強烈なアピール。以後そのベテラン選手のトレードもありレフトのポジションに定着した。 その矢部。快足を飛ばして背走する。打球は左中間の深いところ、外野フェンスの5メートル前に落ちかかる。 「よーし、矢部ー!ダイビングキャッチだ!」 影山は珍しく大声で叫ぶ。周りも切実な声で矢部ー!と大声で吠える。 影山の声と同時に矢部の体が宙に浮く。それが白球と重なる。そうして矢部はゴロゴロと転倒して、外野フェンスにがあん!と激突、球場が静まりかえる。ランナーはすでに二人ホームに帰って、打球が捕球されたかどうか、本塁付近に突っ立って矢部の方を向いている。 「…………」 小波が矢部に駆け寄る。矢部はつっぷしたままでいる、どうやら気絶しているらしい。小波は矢部のグラブを見、矢部の左腕ごとそれを高く掲げる。そこには白球が納まっている。審判がそれを確認して叫ぶ――「アウトー!ゲームセット!!」 「「「「「ウオーーー!」」」」」 と、観客の声にならない歓声が轟く。メガホンを強打するメガホンの音。ジェット風船が夜空を泳ぐ。そして小波ー!矢部ー!と、両者の名前が入り乱れてコールされる。 矢部には不思議な人気があった。打率は毎年3割に届かず、本塁打は10本前後。守備職人と言えるほど守備が巧いわけでもなく、盗塁数も毎年平均して15個程度である。しかしファンは小波と同じくらいに矢部を愛した。小波と同様に野球バカで、けっして手を抜かず真剣にプレーする矢部の姿をファンは褒め称えた。そんな矢部を見て影山は思う。選手が野球を愛するほど、ファンは選手を愛するのではないだろうか……。 「よくやった矢部!さすが私の見こんだ男だ!がっはっは」 「ご機嫌ですねー。そりゃあ矢部が活躍して一番嬉しいのは、小波を除けば影山さんですからね」 「ふふっ。そうかもな(プロ入りしてからあいつに「すいませんでやんす。ベースランニング13秒台ってのはウソでやんす。良くても14秒1でやんす」と言われた時には目の前が真っ暗になったものだが)」 矢部はやっと起きあがる。目の前の小波と目が合って、どちらからともなく熱いハイタッチを交わし、「やったー!」「よっしゃーでやんすー!」と咆哮する。そんな二人の様子にまた観客が湧く。 「何かデコボコだけど良いコンビですよね。あの二人」 男は羨ましそうな笑顔で言う。 「ああ。いつか小波が言っていたな。矢部がいなければ今の自分はないだろうって」 「どういうことです?」 「練習をサボりがちになれば注意してくれる、打撃フォームがおかしくなるとすぐに指摘してくれる。小波には猪狩というライバルの前に、チーム内に矢部という親友であり、かつ同じポジションのライバルがいたってことだよ」 「おーなるほど」 影山はすっかり冷えてしまったワンカップ酒を含む。 (そうだ、矢部がいなければ小波も3割30本打つ大打者にはなっていなかったかも知れない。今ごろ解雇されている可能性だってある。そうなればプロ野球人気は復活していなかったろう。 あの日、パワフル高校で出会った岩石。あれは野球を愛したもうた神が遣わした聖獣であったのかも知れない。そしてスカウト会議で私を襲った意識の混濁と情報の錯綜、全ては神の御業であったのだろうか) グラウンドではヒーローインタビューが行なわれている。決勝ホームランを放った小波、完投勝利を飾った館西、スーパーキャッチの矢部がお立ち台に立っている。 『小波さん。今の気持ちはどうですか』 スーツ姿のインタビュアーが聞く。小波は一言。 『いやー本当に野球って素晴らしいですよね!』 球場にドッと、好意的な笑いと歓声が起こる。影山もくすっと笑う。そしてさっきの考えを抹消する。神の御業などではない。全ては選手たち、小波や矢部や猪狩兄弟や早川あおいなど今活躍する選手、そして隣に座る男のように、名を残せずに去った全ての元プロ野球、また私たちのような編成、球団の裏方、そして数多くのプロ野球ファンたち。全て野球を愛する人々の力によって野球は蘇生したのだ――影山はそう納得して、酒を飲み干し、天を仰ぐ。快い秋風の吹く夜空には、幾千の星が輝き瞬いている。―― どれだけ時代が遷り変わろうとも、野球は人々を熱狂させ、魅了しつづけている。