カリート作 心眼セカンド 「心太ー。もちろん野球部に入るだろ?」 放課後、カッツンがそう聞いてきたとき、正直ぼくは否定したかった。 また3年間も「あのこと」で気を煩わされるかと思うと憂鬱になる。 鳴瀬高校の入学式からすでに3週間が過ぎていた。 各部のお試し期間も今週いっぱい。 正式に入部するかそれとも帰宅部となるか、決めなければならない。 ぼくとしては7割方帰宅部の予定だったのだ。だけど小学校からの 腐れ縁のカッツンが、それを許すわけはないこともわかっていた。 「そりゃあ、もちろん。言うまでもない」 あー、言ってしまった。もう引き返せない。 「よかった。お前から野球を取ったら頭が丸いことしか残らないもんな」 カッツンはそう言って、上機嫌にぼくの頭をぺしぺし叩いた。 頭が丸いのは子供のころからで、それをカッツンは何かと笑いにする。 仲間内ではすでに一つのネタとして確立されていた。 本当は、野球をするには向かない人間だろうと自分で思う。 女みたいな顔だとよく言われる。マジで野球部員のイメージと合わない。 とくに体格がいいわけでもない。中背。肩も普通。足も中の上程度。 ポジションはもっぱらセカンド。 バッティングのほうも、素人にチョロっと毛の生えたぐらいだ。 中学校の球技大会で野球をしたとき、ぼくより打てる非野球部員が 何人もいて野球部のくせにぼくは7番を打った。ひそかにヘコんだ。 そこいくと、カッツンはぼくと真逆だ。 本名・勝山洋輔。 今、高校1年の時点で背が180センチある。そして体重78キロ。 がっちりしているというよりは、全体的に弛んだ感じだ。デブだ。 性格は負けん気が強くて根性がある。 ずっとキャッチャーをしていたからか、凄い強肩。バカ肩だ。 バッティングは柔らかく飛距離もある。しかもチャンスに強い。 ぼくとカッツンが出会ったのは小学校1年のときだ。 ぼくらは同じ少年野球のチームに入っていた。 家も近かったし変に馬が合った。以来、ずっと一緒に野球をしてきた。 カッツンはいつもチームの主軸で、かたやぼくは迷セカンド。 そんなぼくをカッツンが誘ったのは、何も寂しいからだけじゃない。 (彼はどこに行ってもすぐに溶けこんで、終いには輪の中心にいる人だ) ぼくの秘密を知っているせいだ。ぼくの悩みの種。「あのこと」―― 「よーし。じゃあ練習行こうぜ!お前あんまり来なかっただろ」 教室を出て階段を降りていく。ぼくら1年生の教室は3階にある。 「だるいなー。カッツンは初日から練習行ってるの?」 「春休みから参加してる。お前も誘ったろ」 「ああ、ってことは先輩とも仲良くなってるんだ」 「結構面白い人が多いぜ。野球のレベルは今一つだが」 それはそうだ。カッツンはこんな高校に来る選手じゃない。 中学3年の秋に、有名私学からオファーが来ていた。だけど蹴った。 理由は「遠いから」。 本当は弱小チームでどこまでやれるか試したい、なんて漫画めいた ことを考えていたからかも知れない。意外とそんなところがある。 「あ!先輩で思い出した。今日は2年の先輩らと試合をするんだ」 「げっ。休みたい……」 「いいじゃねーか。心太のアレに期待してるぜ」 「はいはい。都合よくいけばいいけどね」 そうそっけなく言ってみたが、ぼくは少し滅入った。 アレ……「あのこと」……。こういう日に限って見えるんだよなぁ。 ぼくが「あのこと」を明確に認識しはじめたのは、小学校6年のころだ。 それまでは自分は人と同じだと思っていた。ただ勘がいいだけだと。 なぞなぞをすぐに解いたように、答えがわかれば皆「あーなんだ」と 自分に呆れるような種類のことだと思って、それまで周りを眺めては 軽い優越感にひたっていられたのだ。 小学校6年の初夏だ。 いつも通り4時に少年野球の練習が終わって、ぼくとカッツンは 近くの駄菓子屋で買ったアイスを食べながら公園でしゃべっていた。 それはぼくらの日課だった。 食事どきの7時まで、とくに話がなくてもそうしていた。 主な話はプロ野球、次は気になる女子の話。ほかには漫画やゲーム。 自分たちの野球については、あまり深く話すことはなかった。 「やっぱりイチローは神だな」 「ぼくは宮本のほうが神だと思うな」 その日はプロ野球で誰が「神」か、という論争をしていた。 ぼくは一神教にこだわる必要はないと思ったけど、カッツンの 「神は1人という設定だ。そのほうが世界の宗教対立を実感できる」 という意味不明な意見によって、カッツンはイチロー、ぼくは宮本を 擁して意見を出しあった。それがいつのまにかぼくの話になった。 「最近は投手のレベルが落ちてるじゃないか」 「それでも210安打の記録はすげーよ。 宮本なんて野球史からみれば平凡だって!」 「そんなことないよ。あの球ぎわの強さは神だね」 「ふーん。だけど、オレはお前の守備のほうが異常だと思う」 ぼくはこのころまでは守備の達人として通っていた。 球ぎわに強いわけでもない。足も普通。位置どりなんて考えたこともない。 すべて「あのこと」のせいだ。いや「あのこと」のおかげ、だろうか。 それをその日、ぼくはカッツンに話してみた。いたって普通に。何気なく。 「みんなそう言うんだよな。コツさえつかめれば簡単だよ」 「そんなもんか?どんなコツだよ」 「んー、ピッチャーが投げるあたりで、打球がどこに飛ぶかわかるんだ」 「はっ?」 カッツンは目を丸くして20秒ぐらい凍ったあと、爆笑した。 「お前がそんな不思議ちゃん的発言をするとは思わなかった」 「……ホントだって!ぼくの言ってること、すぐにわかるようになるよ」 カッツンは不審な顔をしてぼくを見つめた。 そして独りで色々と思い返した感じの表情をしたあと、口を開いた。 「じゃあ、いつもわかるのか。打球の方向が」 「いつも、ってわけじゃないさ。集中してたりするとたまに見えるんだ」 「見える?」 「パッて映像が浮ぶんだ。自分の守備範囲内に打球が飛ぶときは」 「ピッチャーが投げるあたりで、か?」 「うん。リリースするらへんで。 プロ野球選手で守備の上手い人は、みんな見えてるんでしょ?」 そう。宮本だって立浪だって、そんなふうに見えてるんだと思っていた。 「…………」 カッツンはおし黙ってしまった。 考えごとをするときカッツンは通常と違い、ひどく無口になる。 おい、とカッツンはぼくに言った。怖いくらい真面目な声だった。 「そのこと、オレのほかには誰にも話すなよ」 「何でだよ。秘密にするほどたいした技術じゃないでしょ」 ぼくは少しうろたえた。するとカッツンは怒ったふうに言った。 「技術もなにも、普通はそんなふうに見えるはずないんだよ! 心太。最後に聞いとくが、ウソじゃねぇんだよな?マジなんだよな?」 「う、うん。だってそう見えるんだもん」 ぼくは驚いた。ぼく以上にカッツンは驚いていたようだったけど。 カッツンは驚愕が過ぎたあと、興奮した感じでぼくに話しかけた。 「お前すげぇわ。邪眼だな。マジで」 最初そう言ったのは、そのころ『幽遊白書』がはやっていたからだろう。 「やだよ。化け物っぽいじゃないか」 「じゃあ『心眼』だ。心太の眼だし。うん、やっぱセンスあるわ、オレ」 「でた!自画自賛」 「わっはっは。このこと、オレたちだけの秘密だぜ、心太」 「うん!わかった」 「お、もう6時50分だ。帰ろうか」 この日に、ぼくの能力はカッツンによって命名された。  『心眼』 カッツンはこのことを誰にも話さなかった。 彼は子供のころから大人びた人だった。 ぼくが変なふうに見られるのを心配して、口止めしてくれたのだ。 そうしてぼくらは中学校に上がった。もちろん野球部に入部。 ぼくは、いよいよ自分の能力の異常さに悩んでいた。 特殊な能力をそなえていることで、自分が異邦人であるように感じた。 また、なぞなぞの答えをあらかじめ知っていたような、フェアじゃない 印象を自分に持ちはじめていた。 『心眼』は日常生活では発動しない。 野球以外のスポーツ、たとえばサッカーをしても『見える』ことはなかった。 野球だけだ。それも試合中。一試合につき2・3回に限られているけど。 中学校でぼくはそれに頼らないようにした。 なるべく自分の力で打球を処理しようと努めた。 だけど心眼は手加減なしだ。ありえない打球をぼくに取らせようとする。 たとえば、ふいに相手の試みたバントが小フライになったとき。 ピッチャーもキャッチャーもファーストも虚をつかれているときに、 ぼくは猛ダッシュで前進、すべりこんでファインプレー。 やった!と思って周りを見るとみんなは喜ぶどころか、あ然……。 あの瞬間のみんなの眼が、ぼくはたまらなく嫌だった。 だから次は『心眼』に抗うことにした。映像が見えても動こうとしない。 だけど、そうすると通常の守備のときまで変な気分が残ってしまう。 結果、イージーミスをしたり、打球反応が普通のときより鈍くなる。 そのせいでぼくは中学時代、昔とは違って、迷セカンドと呼ばれていた。  スパーン 「コラッ!人の話聞いてんのか!?」 ふいにカッツンに後頭部を叩かれて、ぼくは現在に戻った。 「えっ、何?聞いてなかった。あはは」 「仕方ねえな。実はな、あの『村田』がこの高校に来てるんだよ」 「え、ホント!?てっきり私学にスカウトされたかと思ってた」 「お前と村田で鉄壁の二遊間だな。今年はすごいかも知れん。オレもいるし」 「……最後の一言はよけいだよな(ボソッ)」 「何か言ったか7号ボール」 うるせー百貫デブ、とぼくは毒づいた。もちろん心の中で。 ちなみに7号ボールというのは、頭が丸いことにかけてカッツンが 考えたぼくのあだ名の一つ。よく悪口の言い合いをするときに使われる。 ぼくとしては6号ボールぐらいだと思うんだけどそれはさておき。 村田というのは加島中でショートをやっていた男だ。 広い守備範囲、天才的なグラブさばき、そして特に有名なのは足の早さ。 村田には『鬼足』という異名があった。 ぼくらの市ではカッツンよりもその名が知られていたほどだ。 「あと、陵西中で外野手やってたヤツと友達になったが、コイツもすごい」 「へえ」 ぼくは人見知りをするたちだから、カッツンのこういう社交的なところを 見せつけられると、どうにも気後れを感じてしまう。われながら情けない。 「紹介してやるよ。とりあえず部室に急ごうぜ」 そういってカッツンはグラウンドを部室に向かって横切っていった。 「ノックお願いしまーす!」 と、言いたくもないことを元気よく叫んだ。何だこの精神分裂。 ぼくはこれまでろくに練習に来なかったから、品定めということだろう。 監督のノックをぼくはそつなく処理してやった。 カッツンと一緒に、硬球での練習を中3のころにしていた成果が出た。 「よーし!もういいぞ。名前はなんだったっけ?」 「有沢心太です!」 「心太か。野球部入れよ。というか強制的に入部だな。がはは」 監督は腹の出た優しげな顔つきの人だった。中年の魅力がある。 「ふう……」 ノックを終えて、内野の黒い土したグラウンドの脇にある桜の木蔭で ぼくが一休みをしていると、知らない男を伴なってカッツンがよって来た。 「心太。コイツがさっき言ってたヤツだ」 カッツンが連れてきたのは細面で目付きの悪い、カッツンほどじゃないが 背が高くて肩幅のがっちりした1年生だった。名前は井野というらしい。 「あ、どうも。ぼくは有沢心太」 「ノック見てたよ。結構上手いな。迷セカンドじゃなかったんだ」 「迷」にアクセントを置いて井野は言い、意地悪く笑った。 ぼくはムッとした。ただこの状況でケンカするのも良くないな。 カッツンが『心眼』のカモフラージュに教えたのだろう。 ただ、初対面の相手にその弱みを提示するなんて性悪としか思えない。 「ノックは上手いんだよ。試合になると調子が狂うんだ」 と、ぼくはあたりさわりのないことを言った。 『心眼』を誰にも気づかれずに野球ができればそれで良いんだ。 だけど、隠そうと必死になりすぎてナメられるのは許せない気もした。 「心太はそうなんだよな。ホントもったいねえ」 カッツンがわざとらしくそんなことを言う。 「今日は学年対抗で試合があるんだ。たのむぜ有沢」 ぼくが不機嫌になったのを察したのか、井野はそう言って笑いかけた。 「セカンドに(打球が)飛ばないように祈っといて」 ニヤッと表情をゆがめてぼくは言った。 おいおい、と井田もくすッと笑った。 笑うと目の端あたりにシワができて、意外に愛嬌のある顔になる。 第一印象は悪かったけど、仲良くなれるかもしれないと思った。 「おい、そろそろ始まるみたいだぜ、試合」 ぼくらから遠くにいる監督の周りに、部員が集まっていた。 ぼくらは焦ってその集団に加わるため走った。やっぱカッツンは鈍足だなぁ。 時間の関係で試合は6回までらしい。 ぼくは監督に見込まれたのか、スタメン・セカンドだった。 控えのまま試合が終わってくれればよかったのに……。 「おい、頑張ろうな!」 1回オモテの守備につくと、ふいに横から声をかけられた。 「お、おう」 ショートを守る1年生だった。ボウズ頭に大きく張ったおでこ。 背はぼくより数センチ低かったが、全体的にガッチリしている。 開いた口からは、ひどく間隔のある大きな2本の前歯がのぞく。 「ぼくは心太って言うんだ。キミはなんていう名前?」 彼のこと、見たことのある顔だと思ったが、思い出せなかった。 「オレ?村田。よろしくなー」 プレイボールの宣告がかかりそうだったので、村田は守備位置に戻った。 驚いた。コイツがあの『村田』なのか。 練習試合で何度か見たことがあったけど、もっと大きな男だと感じていた。 今見た彼は、160センチにも満たない小柄な体格だった。 (もしかして村田は村田でも、まったくの別人なんじゃないかな?) そんなことを考えていたら、「プレイボール!」という声が聞えた。 ピッチャーが投げる。ぼくはつま先に重心をおいて打球にそなえた。  キンッ! 上級生のプライドか、初球から打って出た。 打球は三遊間の深いところに転がる。完全にヒットだろう。  パァン! そう思った矢先、革とボールの接触する音。先輩たちがざわめく。 ショート・村田が片ひざをついて逆シングルで捕球していた。 そして振り向きざま、瞬時に送球。すごく良い肩だ。 ファーストが捕球した時点で、打者はベースの2・3歩前だった。 「うおー!さすが村田。やるなー」 「これぐらい当たり前」 カッツンの賛辞に、村田は余裕のピースサインで応えた。 やっぱりアイツは本物の村田らしかった。 セカンドの守備位置からも、彼のオーラみたいなものが見える気がする。 次の打球も村田が処理した。2アウト目は三振。ぼくは守備機会無し。 1回ウラの攻撃、先頭打者は井野だった。 ずんずんと歩いて左打席に入り、土をつかんで手の内で揉んだ。 ピッチャーがふりかぶる。井野は打つ体勢。良い雰囲気がある。  ズバーンッ! ミットにおさまる音。ストライクだ。井野は一球目見逃し。 ていうか、めちゃめちゃ速いじゃないかあのピッチャーの先輩。 ……弱小校じゃなかったのか? 井野は無表情で打席に立っている。 そうしているうちカウント2−1にまで追いこまれた。  キーンッ! 次の球を井野はミートした。カーブをすくいあげたのだ。 良い角度で上がっていく。だけど打球は失速してセンターに捕球された。 帰ってきた井野は「チクショーッ」と、半ば大げさに悔しがった。 ぼくは思わぬハイレベルな試合に、ちょっと胃が悪くなった。 村田の守備、先輩投手の速球、井野のミート力、そしてカッツン。 ああ、適当に練習して3年間野球できりゃそれでいいのに。 「熱い未来」の予感がした。こっちとしては願い下げなのだが。 そんなふうにして、試合は緊迫したまま5回オモテまで進んでいた。 1−0でぼくら1年生がかろうじて勝っている。 カッツンが2打席目に2塁打を放って、その後ホームを踏んだのだ。 8番打者のぼくはというと、三振ひとつ。あんな球打てるわけがない。 守備機会はこれまで数回あったが、どれも無難にやり過ごした。 「このまま守りきろうぜ!」 村田が間抜けな笑顔を見せてぼくに言った。 「おう!そうだね」 ぼくもひそかに同じ気持ちだった。やはり試合は勝たなければ。 久しぶりにやる気を出して、打球に備えた。 ピッチャーが投げた。錆びたバックフェンスに当たるファール。 そのときぼくはイヤな気持ちになった。アレが起こりそうだ。 ピッチャーがふりかぶった。そしてすり足で右足を前に出す。 (ああ、ダメだ!) ピッチャーの腕が胸より前に出る。そのとき、ぼくには『見えた』。 ――ぼくの正面より右、2バウンドした猛ゴロが飛んでくる そしてピッチャーはリリースした。真ん中低めへの速球。 ぼくは狼狽した。自然に捕球しよう。キンッ!と金属音。ああ。 『心眼』に頼らずに守備動作に入ろうとしたが、難しかった。 猛ゴロがぼくのグラブの先をかすめていった。 きっとぼくは寝ぼけたような動きをしていただろう。 外野に転々として、井野が捕る。……やってしまった。 先輩たちから失笑が起こった。とくに難しい打球でもなかったから。 1年はみんな怒った顔をしている。カッツンだけが心配そうな顔。 「ドンマイッ!今度は気をつけろよ」 それと、横にいる村田はあいかわらず笑顔だった。 だけどその笑顔の裏に表れた失望を、ぼくは敏感に感じとっていた。 (こういう顔をされるのが一番堪らないんだ!) 「わかってるよ!」 情けなく逆ギレして、バッテリーの方を向いた。村田も定位置に戻る。 ノーアウト1塁にしてしまったのはマズイな。 だけどその後、カッツンの巧みなインサイドワークもあって、無失点だった。 「おい心太。さっきアレが出たろ」 守備からひき返して、カッツンが小声でぼくに聞いた。 「うん。腹立つな、自分に」 「このままで終わるのもイヤだろ。 6回にチャンスがあれば、どんな打球でも捕っちまえ」 「…………」 ぼくは目立つことはしたくなかった。 守備機会が来ないのが、ぼくにとってベストだった。 「お前がナメられんのはオレも我慢ならねえんだ。お、心太の打席だぞ」 「えっ、うん」 焦って打席に入り、瞬殺。また三振だ。打てないって、あんな球。 くたびれて帰ってくるときにぼくは見た。体が縮こまりそうだった。 それは1年連中の侮り・蔑みの表情。 どいつもこう思っている。「有沢ってのは役に立たない」と。…… 「……カッツン。ぼくも我慢ならなくなったよ」 カッツンの横に腰を下ろして、目線は合わせずにぼくは言った。 野球で見下されるのはたまらなかった。もう遠慮してやらないからな。 「一度ぐらい見せてやりな。お、よーし!最後の回だ」 ぼくの次の打者も三振して、6回オモテの守備にぼくらは向かった。 一二塁間と二遊間、アリの子一匹通してやらないつもりだ。 カッツンは外角低め一辺倒のリード。 セカンドに打球が飛ぶように仕向けているようだった。  パンッ! 外角のスライダーに打者が三振。クルクル回って引き下がる。 「ワンナウト、ワンナウトー!」 村田は一本指を立て、野太い声で外野手に知らせた。 カッツンが目でぼくに合図する。絶対セカンド方向に打たせる、と。 次は2番打者だ。ピッチャーの球威からして流してきそうではある。 ぼくはグラブを叩いて打球にそなえた。 投球は1−2。いわゆるバッティングカウントだ。 カッツンがサインを出す。ピッチャーがうなずく。ふりかぶった。 ふいに、視界ははっきりしているのに、別の映像が頭をかすめる。 ……来た! ――2塁ベースにはね返った打球が、セカンド定位置前に転がっている 外角に要求した速球が中に入った。  キィン! ピッチャー返しのゴロだ。 それが2塁ベースに当たって、勢いを失いぼくの目の前に来た。 あらかじめわかっていたぼくは定位置にいたまま。 ボールを拾ってすばやく1塁へ送球。2アウトになった。 先輩連中のかたまりから「うわーッ!」とか「はー?」みたいな 不運を嘆く重低音が耳に入ってきて、ぼくは少し笑ってしまった。 「セカンドー!ボサッとすんなよ」 ショートからも、半笑いでこんなセリフが飛んでくる。 たしかに端から見れば反応していないだけと思われるだろうな。 村田はそのあと「でも良かったな。ラッキーじゃん」と言った。 (何か、逆効果だなぁ。これじゃまさしく迷セカンドじゃないか) 「悪い悪い。おーし、あと一人だ!」 気持ちとは裏腹に、村田にテンションを合わせてそう言った。 しかし、幸か不幸かすぐには終わらなかった。 野球は2アウトからとはよく言ったもので、次の打者が四球で出塁、 ワイルドピッチで2塁に進んだ。一打同点、得点圏のランナーだ。 緊迫した展開に、ぼくは体が熱くなるのを感じた。 2ボールから打者は粘る。さすが4番だ。スイングに迫力がある。  ガキーン! うわっ、と叫びそうになった。 左打者がひっぱった打球は高々と上がり、ライトのファールゾーン。 外野に張られたフェンスに当たって落ちてきた。 ちょうどそこで練習していた陸上部がボールを拾っていた。 それを見届けて、ぼくはひとつ深呼吸をした。 次に帽子をとって、ひたいに滲んできた汗をぬぐった。 さっきから、ピッチャーが投げるたび視覚とは別の感官からくる映像が、 サブリミナルのような感じでぼくの頭にちらついていた。 カッツンは何が何でもぼくに捕らせたいらしい。内角ばっかりだ。 ぼくもそれに応えるため、全神経をその感官に集中させた。 村田がピッチャーに何か叫んでいる。だけどぼくの耳には入らない。 サインにピッチャーが深くうなずく。 そのあたりからすでに映像が、霧のように白みながらも浮んでくる。 ピッチャーが足を上げた。そして大きく前に踏みだす。 ――! 鮮明なヴィジョンが流れこむ。ぼくは斜め後方に走った。 今ピッチャーが投げた。キィン!と響く。にわかに先輩たちが沸く。 だめだ、間に合わないかも。 足がもつれそうになりながら、走る。ライナーが近づく。 ぼくは必死に左手を伸ばして、地面を蹴った。一瞬、体が宙に舞った。  パァン! ズサーッと擦れる音を立ててぼくはボールに飛びついた。 たしかにボールの感触がしたはずだ。 立ちあがってグラブの中を見る。しっかりと白球がおさまっていた。 (やった!ゲームセットだ!) してやったりの表情で、ぼくは体についた黒い土を払いながら周囲を見た。 ……えっ、何?この沈黙。 先輩たちも他のナインも呆気にとられたような顔をして、固まっていた。 ふと、ぼくは自分のいる位置を見た。一塁のはるか後方。 右翼線のフェアかファールかというところで、ぼくは好捕したのだ。 マズイ。普通ありえない。ちょっと頑張りすぎたようだ。 みんなまだ固まっている。 マスクを上げたカッツンだけが、ぼくを見てニヤニヤ笑っていた。 何かフォローしてよ、カッツン……。 そう心で懇願したときに、やっとカッツンが言った。 「おいセカンド!めちゃな守備すんなよー」 その声を拍子に、みんな解凍されて、ぎこちない笑いが起こった。 わはは、わはは……?笑いながらみんな、ぼくを見て首をかしげている。 (あああ、またやってしまったぁ!) 試合も終わり、引き返すときに村田が肩を寄せてきて 「お前、たいしたギャンブラーだな」 と本当に感心したふうに、ぼくに言った。ぼくはただ困惑の作り笑い。 やっぱり野球部には入らないでおこう。 哲学でも学んで『心眼』のことを解明しよう。そうしよう。嘘。 でも野球はやめよう。カッツンに何言われるかわからないけど。 入部しない決意を固めて、今日の全ての練習を終えた。もう6時だ。 春先の冷たい風が汗ばんだ体に吹きつけてきて、早く着替えたいと思った。 それなのに監督が最後のあいさつのあとにぼくだけを呼び、残した。 (もしかしたら、試合のせいであのことがバレたんじゃないか) (それとも単にムチャなプレーに鉄拳制裁か?) (まさか貞操狙われてるとか!?) みんな疲れた疲れたーと部室へ入っていくのに、独りバックネット裏に 呼ばれて今日初めて会った監督とマンツーマンなのはどういうわけだろう。 種々雑多なとりあえずエグい未来の想像が頭を駆け巡る。 ぼくは内心ヒヤヒヤしながら、監督が口を開くのを待った。 「心太、お前――」 「(ドキッ)はいッ!何でしょう!?」 「お前、ラッキーボーイだから絶対入部しろよ。はい入部届」 朗らかに笑って監督は一枚の紙を差し出した。 勝手なことに、記入の必要な欄は監督の手によってほとんど書かれていた。 あとはぼくが「有沢心太」と名前を書くのと拇印を押すだけ。 「もちろん野球部に入るだろ?」 「そりゃ、もちろん。言うまでもありませんよ」 どこかで聞いた問答だな。そんなことを考えながら、入部届を書き終えた。 ぼくは押しの強い人間に弱いのだ。川の流れのように身をまかせてしまう。 「よし!これでお前は正式な野球部員だ。わっはっは」 入部届に目を通し、監督は豪快に笑った。 よっぽど気に入られてしまったようだ。ぼくも乾いた笑いを上げた。 もういいや。この人の下で野球やるのも悪くないかも。 ニブそうだから『心眼』のこと、気づきそうにないしね。 こうしてぼくの高校野球部生活が始まった。 有沢心太。人呼んで迷セカンド、ギャンブラー、7号ボール。 カッツン曰く「心眼セカンド」。 この変な力で、甲子園に出場できるぐらい頑張ってみるのも一興だろう。 ただ、そのせいで疑惑の眼を向けられたり、マスコミに騒がれたり、 変な研究機関に狙われて拉致されたりだけは、本当に本当に勘弁なのだった。                                   (了)