今は、先輩として 作:龍  彼のバットが空振りする音を聞くのは何度目だろうか。  その音をはじめは心地よいと思っていたのだが、最近は妙にむずがゆいような気持ちに襲われる。もう何度も何度も聞かされた音であり、見せつけられた姿であるが、その情景に猪狩守は不満に似た感情を抱いていた。バットを地面に打ちつけ、悔しそうに引き下がる友沢の姿を、猪狩は静かに見守っていた。    友沢亮は猪狩カイザースに入団して以後、何度となく猪狩に勝負をしかけてきていた。すでに一軍であり猪狩カイザースのエースでもある猪狩守に新人が挑むという、通常ありえない異常事態に、チームメイトは当初大いに沸いていた。というのも友沢は猪狩に挑むより前に、先発ローテーションに入っている一人の投手をこれ以上ないというほどまで打ち砕いていたのだ。その一点を見るだけで友沢がいかに優れた打者であるかが窺える。しかし、友沢は猪狩には勝てないでいた。何度挑んでも友沢のバットは空振りをするだけであった。そのたび友沢は悔しそうに俯き引き下がっていく。  表面上、猪狩は余裕を装うしか出来なかった。格の違いを嫌というほど見せつけ、自分が一流であるが所以を思い知らせる。しかしそれは自分が作った偽の人格であるのだなということを猪狩は自覚していた。  猪狩カイザースのチームメイトはおそらく友沢と猪狩の差は歴然だ、と思っているだろう。それもそのはず。友沢に勝負を挑まれた回数はもはや片手では数え切れないほどまでに達している。そしてそのすべてが、猪狩に軍配があがっていたのだ。無駄なこと、やめておけばいいのに、といった周りの声に屈することなく友沢は猪狩に勝負を挑む。その友沢の姿を見て、猪狩は体が震えるような寒気にも似た思いを感じていた。その正体はなんなのか。恐らく、“期待”なのではないだろうかと猪狩は思う。    高校時代から“天才”とマスコミから称され、自分でもわざとそう言っていた。事実猪狩の実力は一級品である。  猪狩の出身校であるあかつき高校は、あらゆるスポーツで高校最高峰の実力を誇っていた。特に野球部などは何度も甲子園で優勝の経験があるほどの“常勝”高校である。  あかつき高校野球部は些か変わっているシステムを採用していた。というのも部に一軍・二軍・三軍とあるのだ。入れ替え試験と称した試験を年に何度か行い、持ち点を競い、ある一定の点数を基準に昇格したり降格したりする。一軍の試験内容は非常に厳しく、たとえオーダーに入っていながら試験に落ちる選手も珍しくはない。しかし猪狩は、信じられないことに三年間一軍から一度も落ちることはなかった。  左腕から繰り出される最高球速149キロの速球を軸に、彼はスライダー・カーブ・フォークといった変化球を三種も自在に操った。そのいずれも非常に変化が大きいものである。最多勝タイトルを取った経験もあり、現在は名実ともに球界のエースとして君臨しているのだ。  その猪狩に対して勝負を挑もう、という友沢もやはり凡庸な選手でないことは明らかだ。それなのに他のチームメイトはそれに気づかない。皮肉なことに、友沢の本当の実力は猪狩だけが知っていたのだ。これまで友沢と行った“勝負”は10回弱。そのすべてが、僅差であったと確信している。ともすればホームラン級の当たりにされただろう、という投球も何度かあり、猪狩は冷や汗をかいたこともある。猪狩にとって幸運なのは友沢が自分自身の素質に気づいていないことなのだろうか。そのため友沢はひたすら努力を積み重ね、また猪狩に再挑戦をする。この感覚は久しぶりだ。確か、高校時代も友沢のような男がいたっけな――そう、あいつの名前は――。  今、猪狩にとって友沢は必要な人間になりつつある。自分を全力で追いかけてくる友沢を猪狩は怖いと思う反面、自分にとってとても良い刺激になっていると認めていた。友沢が全力で追いかけてくるからこそ、自分は全力で逃げ出せる。その距離は縮まっているのか、それとも逆に開いているのか。猪狩はどちらとも言い切れなかった。それでも友沢がいるおかげで自分が成長できているということもまた疑いようのない事実なようである。皮肉なことだ。  ライバル――そんな言葉が浮かんで、猪狩は一人苦笑する。紛れもなく友沢は猪狩にとって好敵手であった。猪狩はもともと努力家の人間である。幼いころから野球に没頭し辛い練習を重ね、気づけば夕闇に包まれていたという経験はもう慣れっこなほどであった。仮に友沢がいなかったとしても、猪狩は練習を重ねまた一つ成長していくことだろう。しかし、それでもやはり友沢が猪狩の中で大きなウエイトを占めつつある。  あいつには負けたくない――あいつには――。  何故自分がここまで友沢に執着するのかわからない。もしかしたら猪狩は、高校時代の“あいつ”の影を友沢に重ねているのかもしれなかった。何度ねじ伏せようが、懲りずに挑んできた諦めの悪いあいつ。けれど――嫌いじゃなかった。自分を追ってくれるものがいるという喜びを教えてくれた彼に、今は感謝している。もちろん、そんなこと言えるわけもないのだけれど。  今、友沢が自分を追いかけてくれている。そのことを猪狩は例えようもなく嬉しく思っていた。素質もある、熱意もある。“挑戦者”としては申し分ない。猪狩は素直にそう思っている。  高校時代、自分は独り頂に立っていた。先輩すら猪狩には大きな顔を出来ないでいたのだ。それほど猪狩は尊敬の対象であり、また畏怖の対象でもあった。常勝あかつき高校でも、そうそうお目にかかれないほどの逸材。誰もがそう認めていた稀代の選手。そんな自分に、臆することなく追いかけてくる男がいた。その男がいたから、今の自分があるのかもしれない。あいつに負けたくない一心で猪狩は野球に没頭した。しかし結局彼は猪狩に勝つことなく野球から身を引いた。ドラフト会議で猪狩が巨人に一位指名されたとき、それを自分の事のように喜び、強く握手を求めた彼。あいつの笑顔が脳裏に過ぎる。やはり友沢と少し重なるな、と猪狩は思っていた。  彼にとっては勝ち負けなどどうでもよかったのかもしれない。ただ猪狩守という遠い目標を胸に邁進することが彼にとって重要だったのではないだろうか。少し寂しい気もするが、それでも構わなかった。やはり猪狩にとって彼は自分を押し上げてくれる存在であったのは確かで、それは友沢にも言えることなのだろう。    今日の勝負は危なかった。一度ファールに取られたっけ。猪狩は今日の勝負を反芻していた。ちょっとでも気を抜くと追い抜かれかねない。猪狩は今一度気を引き締める。まだ負けるわけにはいかない。友沢の成長スピードは驚くほどではないが、彼には猪狩にない熱意と野心がある。そこは認めなくてはいけないだろう。  猪狩は、友沢を“挑戦者”として迎え続けていたかった。仮に友沢が猪狩に勝ってしまえば、彼の成長は大きく損なわれることになるだろう。友沢亮はまだ若い。まだまだ成長の余地は秘められている。その妨害になりかねないことなんてしたくなかった。やはり負けるわけにはいかない。そう再確認したあと、猪狩は自分のことも思い返す。  自分もまだ二十二歳――まだまだ成長段階にある。こんなところで躓くわけにはいかないし、高校を出たてのルーキーなどに負けるつもりもさらさらない。全力で逃げ続けてやるさ。猪狩は、誰に言うでもなくそう呟いた。だから――    全力でついて来い、友沢。  ぼうっとしてたら、置いてくぞ。 【了】