夜更かししたい夜に 作:lnan もしかすると、この客席のどこかからか明日香が見ているんじゃないだろうか。甲子園球場で試合が開催されるとき、しばしば小波はそんな願望にも近い錯覚を感じることがあった。モザイク模様のような客席に目を凝らし、ピンクノイズのような喧騒に耳を澄ますと、混然とした感覚の合間に明日香の気配が残されているように思えることがあった。 高校三年の夏に明日香は死んだ。十七歳だった。 小波らが所属する高校の甲子園出場が決まったことを病室の明日香に伝えると、明日香は青白い顔をほころばせて小波を祝福してきた。 「すごいね、小波君は」 「運がよかっただけだよ。明日香もすぐに元気になるさ」 「そうね……」 今日は体調がいいということで面会が許されたのだが、それにしてはひどく辛そうであった。専ら小波が話し手になり、明日香は言葉少なに小さくうなずくばかりであった。三十分ほど話していると、明日香は「ごめん」と断りベッドに横たわった。「大丈夫?」と尋ねると、「今日は調子がいい方よ」という心細い返答であった。 それから幾日かが過ぎ、甲子園へ向けて出発する前日に明日香のもとを訪ねると、明日香の両親も見舞いに来ていた。 「ああ、小波君……」 「どうも」 明日香は壁の方を向いて、こちらに背を向けながら眠っていた。白いシーツが弱々しく上下している。 「そういえば、小波君たちは明日出発だったかな」 「がんばりなさいね。みんな応援してるんだから」 明日香が起き出す様子もなかったために、小波は学校の授業に関するノートをわたして「またお見舞いに来ます」といって病室を出た。何も今生の別れというわけでもあるまいと、小波は努めて楽観的な気持ちになろうと思い、不安をかき消そうと病院から学校までを無理に走った。 「どうだった?」 「うん、まあ大丈夫そうだったよ」 見舞いから戻ると部員らが明日香の病状を尋ねてきたが、小波はあまり気乗りしない返事をした。触れにくい話題であるのか、部員らも深くは詮索しないようであった。 その日の練習は日が落ちる前に切り上げられた。練習中はそうでもなかったのだが、体を動かすのをやめるとやはり全員落ち着かぬ様子でそわそわしていた。 「明日から甲子園ということですが、全員怪我や病気などしないよう、気をつけましょう。それから、寝坊もしないように。特にそのあたり」 顧問の教師の冗談に一斉に笑いが起こった。解散の掛け声でばらばらと家路に向かった。商店街の通りを歩いていると、遠くから差す西日が長い影を作っていた。丁度、日がかげり、外灯がつく間際の夕暮れどきで、道行く人々すべての一日の終わりを象徴しているように見えた。 ふと、もう一度明日香の病室に行ってみようかという考えが小波の頭に浮かんだ。面会時間ぎりぎりになりそうだが、無性に明日香の姿を見ながら声を交わしておきたいという気持ちになった。急いで家に帰って着替えると、父親とのやりとりもそこそこに病院へ自転車を飛ばした。面会時間ぎりぎりに息を切らせながら飛び込んできた小波に、受付の係員は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに慣れた手つきで淡々と手続きをした。 明日香の両親は既に帰宅しているようであった。明日香は仰向けになってじっと天井を眺めながら何事か考えているようであったが、小波の存在に気づくとぱっと表情に明るみが差し、辛そうに上体を起こそうとした。 「いいよいいよ、そのままで。まだあんまりよくないんだろ」 「ごめんね。もうすぐよくなると思うんだけど」 明日香から話し出す事項も元気もないのか、ほぼ一方的に小波は学校であった出来事などを一生懸命に話した。小波自信、自分はこれほどおしゃべりだったのかと思うほど取るに足らない、ほんの些細なことまで明日香に話して聞かせた。時折くすくすと笑いながら、明日香はじっと横臥したまま耳を傾けていた。 「あっ、いつの間にか面会時間過ぎてる。そろそろ帰らなきゃ」 余りに没頭していたのか、既に時刻は九時を回ろうかとしていた。「じゃあ、また」と小波が立ち上がろうとすると、不意に布団の中から明日香の腕が伸びてきて、小波の手を握ってきた。 「ねえ、もう少しだけ。もう少しだけでいいから、まだ帰らないでくれない?」 明日香の手は冷水にでもさらしていたかのように冷たかった。突然の接触と温度に小波は思わず驚きの声を漏らしてしまったが、すぐに快諾して再び腰を下ろした。 どうしても話したいことでもあるのだろうかと、小波は黙って明日香が何か切り出すのを待っていたが、明日香は何をするでもなく、ただ小波の方へ手を差し出したまま、この部屋に来たときのようにぼんやりと天井に視線を漂わせていた。そのままとうとう消灯時間となり、小波が少し慌てながら「まずいよ、帰らないと」と告げると、明日香は見回りの看護婦が来る間だけ、ベッドの下に隠れていればと述べた。ややこしいことにならなければいいがと思いつつも、小波は明日香に促されるままにベッドの下に身を潜めた。間もなく見回りの看護婦がやってきたが、さっと通り一遍のチェックをするとすぐに次の病室へと向かった。 看護婦が立ち去ってからもしばらく小波はベッドの下にいたが、明日香の「もう大丈夫よ」という声でこそこそと這い出した。消灯後の病室は思ったよりもほの明るく、薄いカーテン越しに月明かりが透けているように見えた。しかし、部屋の雰囲気はがらりと変わり、今まで蛍光灯の下でちらちらと騒いでいた音が一斉に消えたように、衣擦れすらはばかれるような静寂で辺りは満たされた。 始めこそ落ち着かなかったが、やがて暗闇にも目が慣れ出したので明日香の調子をうかがってみたが、依然として何をするでもなく静かにしている。思わず小波が話しかけようとしたとき、明日香は案外しっかりとした口調で話し出した。 「ねえ、小波君。小波君の夢って、野球選手になることでしょ」 確かに普段から何かにつけてそういうことを言ってきていたが、思いもよらぬタイミングで改めて尋ねられたために、小波は「え、ああ、うん」と、少しうろたえるように答えた。 「わたしはね、絵本作家になろうかなって。入院中は本を読むことばかりしてたんだけど、恩返し、ってわけじゃないけど、わたしも何かやってみたくて」 すぐに病室の闇に消えてしまいそうな、ところどころか細く、ゆっくりとした喋りではあったが、それがかえって慎重に重大な告白をしているように感じられた。 「明日香ならなれるよ。おれと違って頭いいから」 「ホントに? でも、ちゃんとなれるかしら……」 「なれるさ。きっとなれる。書き上げたらおれにも見せてくれよな」 「ありがとう。きっと、一番に小波君に見せるわ」 それだけ話すと、明日香はひどく疲れたふうな息を漏らした。再び周囲は真っ暗な沈黙に覆われた。大勢の人がすぐ近くで過ごしているはずだというのに、ただ、ひっそりと小波と明日香の周りにだけ時間が過ぎていっているようであった。 「小波君、ありがとうね。また、お見舞いに来てね」 どれほどの時間そうしていたのかまるで判然としなかったが、おもむろに明日香が口を開いた。 「ああ。甲子園が終わったらすぐに来るよ」 「わたしは見に行けないけど、がんばって」 「明日香の分までがんばってくるよ」 名残惜しい気持ちではあったが、明日は早朝に集合であるし、主将が後れたとあっては皆に面目がない。「じゃあ」といって小波が立ち上がると、今度は明日香は手を握ってこなかったが、代わりにささやくように「ねえ」とつぶやいた。どうしたのかと小波が聞き返したが、明日香の声は小さく、はっきりとは聞こえない。何かためらうような口調である。そのうち、明日香は口元に手をやり、小波に手招きを始めた。小波がいぶかしみながらも声を聞き取ろうと顔を寄せると、明日香はもう一度だけ小さく「ねえ……」とつぶやき、小波の頬から首へと手を差し出した。それに促されるように顔を向けると、すぐ目の前に明日香の顔があった。明日香の瞳は水面の月のように潤んでいた。二人は唇を合わせ、互いの体温を交換した。 「がんばって」 「うん」 余計なことを話すことが何かたまらなく無粋であるように思え、簡単に別れの言葉を交わすと、小波は忍ぶように病室を出た。 大会が始まると小波はそちらに全身全霊を傾けることとなり、もちろん明日香の病状を気にかけることもあったが、今までも何度か入院することはあり、その度になんとか無事に退院してきていたために、今度もそうなるものであると決めつけていた。毎日ではないが、病院の公衆電話から小波の携帯電話が連絡が来ることもあった。 「入院してる人に野球が好きなおじさんがいてね、わたしの高校が出てるっていったらすっごくうらやましそうな感じだったのよ」 電話で明日香は自分の体調については全く言及しなかった。そのため、小波はやはり明日香の調子も日に日によくなっていっているのであろうと判断していた。 「明日の試合、明日香ちゃんのためにがんばるぐらい言えよ」 「バカ、そんなこと言えるわけないだろ」 明日香との電話の後、決まってチームメイトは小波を冷やかし、小波もまんざらでもなさそうにやに下がった顔でやり返す。今の大会が終われば三年生である自分たちは野球部を引退することになり、そうなれば、今までの練習練習の毎日とは違って時間に余裕はできる。そのころには明日香だって元気になって退院していることだろう。寝床で小波は一週間後とか一ヵ月後とかに二人でしたいことや、しているであろうことを空想していた。 小波たちのチームは前評判を大きく覆し決勝まで駒を進めていた。判官びいきというやつか、周囲は無名校の想像以上の奮闘ぶりを口々にたたえていた。 「一日でも長く甲子園にいられることを目標にしていたが、ここまで来たんだったらもう勝っても負けても、帰りの新幹線の予約も宿泊費も一緒のことだ。それならもういっそのこと勝って帰ろう」 迎えた決勝戦、小波らは序盤から毎回ランナーを出すなど苦しい展開であったが、かろうじて二点に抑えてきた。一方、味方の援護に恵まれ小波らは九回までに四点を上げ、かくして勝負は最終回裏の小波たちの守備の場面となった。 ところが、ここに来て小波に疲労か油断でも出たのか、最初の打者に死球を出すと、二番手にもフルカウントから粘られて結局四球。さんざんバント処理に付き合わされたことで苛立ち、球が荒れてしまったのか、次の打者に初球をパカンとやられて一点を返され、なお場面は無死二三塁。グラウンドで守備に当たっている選手らは誰もが嫌な空気を感じ始めていた。果たしてこのわずか一点のリードを守り切れるのか誰もが自信を失いかけていた。小波たちにはまともな控え投手はいないため、延長戦になれば圧倒的に不利である。いや、そもそも延長戦ですら怪しい流れに思えてならない。小波はベンチを仰いでみたがやはり何も指示は出ていない。さして野球に詳しいわけでもないというのに、三年間にもわたって野球部員の顧問として小波らに付き合ってきたお人よしの国語教師は、今にも泡を吹きそうな顔で必死にお祈りをしている あれほど練習を積んだというのに──。小波の脳裏に打たれる瞬間がよぎった。悔しい思いと、こんなものだろうというなげやりな気分とが交錯した。これまで何千、何万と繰返してきた動作にふっと不安がよぎった。泣きたいようでもあり、怒りたいような気もした。客席の声援が、小波の哀れな姿を励まそうとしているようでもあり、無様な姿を期待しているようにも思えた。気持ちの整理がつかない。たまらず小波は最後のタイムを宣告して、チームメイトをマウンドに呼び寄せた。小波の様子を察していたのか、すぐに皆が駆け寄った。 「歩かせて満塁策を取ろう。この際、一点やろうと二点やろうと同じことだと思う。いや、正直なところ、おれにはもう自信がない。何をしても打たれるところばかり見えてしまう」 いつになく弱気な姿勢を見せる小波に、しかし、内情は察するに余りあるのか、誰も強い口調で叱咤激励できずにいた。 「じゃあ、外野も前進させよう。犠牲フライもやらない方がいい」 遊撃手の水原は努めて冷静なふうに声を出したが、小波はあいまいにうなずくばかりでいる。 「そんな弱腰でどうする。おれはこの試合に負けても、ある面ではそれも仕方のないことだと覚悟している。しかし、負けるにしたって負けっぷりってもんがあるだろ。丈夫は玉砕するも瓦全を愧ず、ってやつだ。どうせ切られるんだったら、半殺しにされるよりもぶっすりいっちまった方が楽じゃねぇか」 三塁手の村上はいつになく多弁になり、慣れぬ調子でなんとか小波を激励しようとした。強面の内側では、やはり彼なりの緊張や葛藤があるに違いない。 「なんだよその、玉砕するもなんとかって?」 平山は普段と変わらぬ様子で、さして必要でもなさそうな質問をつぶやいた。案外、いつものように振る舞おうとすることで、平静さを呼び寄せようという彼なりの処世術なのかもしれない。 「うむ、おれもよくは意味を知らんが、家の床の間に吊るしてある掛け軸に書かれている言葉で、親父によく音読させられやつなのだ。まあともかく、どんな結果になろうとおれたち全員で選んだ結果として悔いなく受け止めよう」 平山が発した間の抜けたような質問で心なしか肩の力が抜けたのか、村上が檄を飛ばすと、皆死に様を決意するかのような悲壮ともいえる面持ちで静かに小さくうなずいた。 ともかく、満塁策を取り、後は死力を尽くすしかないといったところで意思を固めて散ろうとしたところで、言葉を選ぶようにおもむろに水原が口を開いた。 「いや、ちょっといいかな。少し前から言うべきかどうか迷ってたんだけど……、やっぱり一人で黙っておくべきではないと思って……」 水原は一瞬相手の選手らに注意を向けるような目配せをしてから、口元にグラブを当ててひそひそ声になった。 「妙なんだ、あまりに変化球のタイミングを合わせられてる気がする」 「相手の打撃のことか? いい選手がそろってるんだろ」 「いや、相手チームのレベルが高いことはもちろんだけど、前の試合の様子を見る限りじゃ、そこまで変化球にいい反応をしてきた感じじゃない。むしろ、パワーで持っていく印象があった。ところが、この試合では、どうしたわけか小波君の変化球に対して、まるでよく慣れ親しんだ球筋であるかのようにうまく合わせてきている」 唐突な水原の意見に対して、その意図をつかみかねる様子で困惑した顔が並べられた。 「それで、前のイニングあたりではたと気づいたのだけど、相手投手の変化球の投げ方と、小波君の変化球の投げ方がかなり似通っているんじゃないかな。もちろん、ビデオに撮ってじっくり比較したわけじゃないし、単なる思い違いかもしれない。でも、もし相手投手と小波君とが同じような投げ方で、同じような変化球を投げるのだとすれば、相手チームにとっては普段の練習で慣れ親しんだ球のようなものだから打ちやすい、ってことになるんじゃないだろうか」 皆納得しがたい気持ちのようではあったが、水原が思いつめた末に述べたことであるから、それ相応の妥当性はあるようにも思えた。ボールを変化球の握りで何度もこねくり回しながら、小波は全く不意に物の怪の化けの皮がはがれたところに出くわしてしまったような心境になってきた。 「水原が言うからには、そうなのかもしれん。しかし、そんなことがあるのか」 「過去に同じ指導を受けたことがあるとか、相手に直接指導されたことがあるとか……」 水原がちらと小波へ視線を送ったが、この場で冷静に確たる心当たりを思い出すことができない小波は不安げな表情で小さく首をかしげるだけであった。 「これはかなりの賭けになるとは思うのだけど、小波君、ここから変化球の投げ方を変えてみるなんてことはできないか? 上りムードとはいえ、相手だって切羽詰った気持ちでいるのは間違いない。もしかすれば、焦って今までと同じように打とうとした相手を打ち取れるかもしれない」 声の主の水原自体、この提案にかなり懐疑的であるような感じだった。しかし、一方では今の試合の急流に真っ向から挑むことも同じぐらい危険であるようにも思えた。 「あるのか、ほかの投げ方なんて?」 誰かが話すのを待つような雰囲気になることを避けるようにして、平山が軽い調子で小波に尋ねた。 「まあ、昔の投げ方とか……。最近やってないからわからないけど……」 「昔の?」 「いやその、今の投げ方は一年のときにほかの人に教えてもらった投げ方なんだ。そっちの方が球に速さが乗りやすいって」 「あるにはある、のか。大博打になるな、一か八かの……」 集まった面子は、再び思考の沈黙に陥った。いや、ひょっとすると正攻法と奇策のどちらが最善だろうかと建設的な検討などできず、ただ、責任のあまりの巨大さにおののき、立ちすくんでいるだけだったのかもしれない。 「それじゃあ、試しにやってみようぜ」 すると、またしても平山は事もなげに策の推進を提言した。あまりの気軽さに、皆は驚くやら呆れるやら称えるやら、平山自身ですら自らがいかなる心理なのかうまく説明できないようでいたが、しかしともかく、誰もが何か身が軽くなったように感じられた。 「次の打者を敬遠するとき、その昔の投げ方ってやつを試してみて、いけそうならやってみよう」 「よし、わかった」 小波は頭の周囲に漂う瘴気でも切り払うかのように、毅然とした声を張った。改めて皆が意思を同期させるかのようにうなずき、そしてめいめい死地へと赴いた。 果たして自分にできるのだろうか。相変わらず小波は恐怖と不安を抱いていたが、集合をかける前よりは随分と楽な気持ちなっていた。この策で負けても自分のせいではないなという卑劣な意思が全くなかったわけではないが、もっとも大きな理由は皆で負けるのだということであり、あいつらと一緒におられるのであれば地獄巡りですらやっていけそうな気になってきた。 味方の捕手が腰を上げると、相手チームの打者は自らの選択の余地なく安全に塁に進めることで、わずかに気が緩んでいるようであった。この様子であれば、よもや変化球の練習をしていることなど気づきそうにはない。疲労の末、一球投げることですらいかにも大儀であるふうを装いながら、小波は慎重に球を握った感触を思い出そうとしていた。暴投に注意しつつ慎重に投げた一球目は、小波の心境を反映するかのようにふわふわと山なりに放られた。記憶をたどりながら更に二球、三球と投げると、腕の振りやボールの感触といった感覚を体の方がつぶさに思い出してきた。最後の一球、横に外しながらも打者を意識したような球筋で投げてみると、ほぼねらいどおりの球筋になったように感じられた。一塁へと向かう相手選手に注意を向けるふうにして、小波がさっとチームメイトに目配せをすると、ほんのわずか目が合っただけにもかかわらず、皆小波の意図を読み取ったようであった。 無死満塁。相手チームの打者が硬い表情でバッターボックスに入る。一球目、慎重に外してみると相手はフルスイングで打ちにきた。相手の打者はここまで三打席三安打とはいえ、点を欲張る場面とも思えず、例えば銃弾で蜂の巣にされながらも近づいて来る痛みを感じない兵士だとか、そういう非人間的な存在に対する不気味さを感じた。しかし、そう思わせておいてスクイズの可能性もあると判断し、今度は高めに外して出方をうかがうことにした。すると、相手は無理な体勢でバランスを崩しながらも、強引に当ててきた。バットとボールがぶつかる骨を砕くような音にひやりとしたが、ボールは逸れて辛くもファールとなった。小波は深呼吸のように安堵のため息を漏らし、額の汗を袖でぬぐった。辛い。三球目に変化球のサインが出された。守備するものたちにも緊張が走ったことが後ろから感じられた。迷いや緊張で力んだのか、投げ出されたボールはワンバウンドして捕手の体で止められ、打ちはやる相手もさすがにこれは見送った。死球や後逸でも終わるところであるから、再び小波は肝を冷やした。 カウントは、ツーストライク、ワンボール。再度、変化球のサインが出された。ベンチでは、監督が相変わらず堅く手を結んで何かに必死に祈りをささげているようであったが、もはや正視できないのか、震えてうつむいていた。祈りたいのは小波とて同じであるが、一体何にどうお願いしたものか皆目見当もつかない。また、意味があるようにも思えない。とにかく、今は相手を打ち取らねばなるまいと、投げることだけを考えようと努力しながら投球動作に入った。相手の打者は変化球にヤマを張っていたようであったが、ヤマがドンぴしゃり的中したことで功を焦ったのか、はたまた、小波たちの策が的中したのか、ボールはバットの芯でとらえられず、打球は平凡な内野フライとなった。 入院患者らが集まる談話室では、甲子園決勝の様子がテレビで映されていた。皆固唾を飲んで見守っている。野球好きでいつも勝手に解説を始めることで知られる男性患者も、口を閉ざして画面を凝視している。明日香は談話室に姿を現さないでいた。明日香のベッドの上では、携帯ラジオにつながれたイヤホンから、試合の様子を伝えるアナウンサーの声が誰に聞かせるでもなく小さく漏れ続けていた。 走者動かず一死満塁。アウトを一つ取ったとはいえ、依然として窮地であることは確かである。なんと難儀なことか。行き先もなく荒野を延々と歩かされているような気持ちであった。真上から無慈悲に降り注ぎ、辺りに充填する光線が、地獄の業火を連想させた。これほど苦しい思いをして、その先に悔しさや悲しみといった負の感情が待っているのであれば、一体自分は何のために野球をやっているのだろうかという疑問が小波の脳裏をかすめた。無邪気に声を出すフェンスの向こう側のような、大過なく平穏に過ごすという道とてあったのではないだろうかなどと考えた。いつの間にか捕手からサインが出ていた。小波はやけくそ気味にボールを投げた。金属バット特有の派手な音を立てたが、ボールは内野席に飛び込んでファールとなった。続いて二球目、三球目、やや制球が乱れて、カウントはワンストライク、ツーボールとなった。四球目、ゴロに打ち取りたいのか変化球のサインが出された。小波は慎重に昔のやり方でボールを握った。そのとき、不意に昔の記憶、野球が絡むいくつもの記憶が泡沫のように現れた。 それはよく晴れた休日の午後の、小さいころの父親とのキャッチボールだった。 「よく見とけ。いいか、ほら。な、曲がっただろ」 「すごいや、お父さん」 それは未明の晩秋に見た夢の中の、弟とのキャッチボールだった。 「どうだ、曲がっただろ」 「えー、曲がってないよ」 それはいつかの放課後の、明日香に自分は将来投手になりたいと言ってみせたときだった。 「どうだった、明日香。曲がっただろ、な、な?」 「小波君ならきっとなれるわよ」 「明日香もなれるさ」 「わたしは──」 小波はハッと我に返った。四方からは合奏曲が盛大に鳴り響き、頭上からは太陽が真っ直ぐに照りつけていた。実際にはほんの短い時間だったのだろうが、しばらくのことぼんやりとしていたように感じられた。いや、そんなことよりも、たった今、小波は明日香の声を聞いたような、気配を感じたような気がした。たとえ応援に来ていたとしても、明日香の声がここまで届くはずがない。しかし、確かに明日香が柔らかな微笑みを浮かべてすぐ傍で見ていたと思えてならなかった。明日香も見ているのだろうか。きっと病院でテレビか何かで見てくれているのに違いない。ランナーを見るついでに、意味もなくちらと観客席に視線をやる。あるいは、元気な姿で近くで見ているのかもしれない。小波は投球モーションに入った。明日香はこれからも見てくれるのだろうか。きっと見てくれるに違いない──。するりと放たれたボールは、サインどおり、小波の意図と寸分違わぬ球筋となった。相手打者はタイミングが合わなかったようなスイングを繰り出し、打球はつまってぼてぼての投手ゴロとなった。落ち着け、なんてことのないゴロだ。ボールは冷静に処理され、本塁から一塁へ巡りダブルプレー、そしてゲームセットを迎えた。 力強く両腕を揚げて破顔する小波を中心に、我先にと競うようにして一斉にチームメイトらが駆け寄った。何事の不純な思惑も憂いも含まぬ素朴で原始的な喜びの姿であり、夏の陽光に色濃く映し出された青春の偶像ともいうべき光景であった。一方、相手打者はアウトとなりながらも一塁を必死の形相で駆け抜けると、足がもつれるように盛大に地面に突っ伏した。しばらくグラウンドに顔を伏せて立ち上がれぬ様子であったが、仲間に抱え上げられると口を一文字に強張らせ、懸命に泣き顔をこらえようとした。怒りながら泣いているものもいれば、無表情でずるずると涙と洟を流しているものもいた。両チームとも審判にうながされると、整列し、互いに一礼を交わした。高い青空の中をどこまでも知れ渡らせるように終結を知らせるサイレンが鳴り響いた。 「よかった、みんな……」 皆とベンチへ引き揚げようとしたとき、不意に小波は明日香の声を聞いた。ささやくような声であったが、にもかかわらず辺りを覆う大音量に紛れることなく、はっきりと明日香の声を聞き取った。例え観客席にいたとしても、ここまで明日香の声が届くとは到底信じられない。不思議に思い小波がきょろきょろすると、チームメイトは怪訝な顔をした。 「どうかしたのか」 「いや、なんでもない」 恋人の声が聞こえたなど大層な惚気であるように思え、小波は適当にごまかした。気のせいに決まっている。望外の喜びに感情が混乱し、錯覚を招いたのかもしれない。しかし、なぜかしら胸騒ぎがする。小波の表情にかすかにかげりが差したが、周囲のものは誰も気づかない。明日香は見てくれていたのだろうか。そして、これからも自分のことを見ていてくれるのだろうか──。 帰りの新幹線で明日香の死が伝えられた。第一報を受けた顧問の教師はひどく動転していた。教師は今までの人生において近しい人物の死に直面した経験はなかったらしく、どのように振る舞えばいいのか定まらぬ様子であった。部員らに事を伝えると、生徒らに姿を晒すことができないのか、陽炎のような足取りで座席を離れるとデッキへと消えていった。 無論のこと、小波ら部員らも打ちのめされる衝撃を受けた。信じがたく、かつ、信じたくないことではあるが、顧問の教師がおいそれとこのようなたちの悪い冗談を口にするはずもあるまい。部員らは、明日香の近況をもっともよく知るはずである小波にあれこれと尋ねたいふうであったが、当の小波は、声をかけることはおろか、近くに寄ることですらはばかれるような様相を呈していた。小波は、携帯電話を取り出すと、おろおろと当てもなくボタンを触り、それから、しばらく頭を抱えて何事かしきりに底なし沼の底から漏れるような声でつぶやき、最終的に両手で顔を覆って動かなくなった。 目を閉じた暗闇の中で小波は無間の問いに陥っていた。明日香が死んだなどとても信じられない。なぜなのだろうか。なぜ死んだのだろうか。今でなければならなかったのだろうか。明日香でなければならなかったのだろうか。どうして明日香は死んだのだろうか。なんのために死んだのだろうか。どうして今日まで生きていたのだろうか。もう明日香と話すことはできないのだろうか。もう明日香は自分のことを見てくれはしないのだろうか。明日香を見ることすらできないのだろうか。どうして明日香は──。 地元の駅に着いたときには日は暮れ始めており、天上から地平へと曲がるようにグラデーションする群青の空には宵の明星が不気味ともいえる輝きを見せていた。小波はわき目も振らずに自宅へと帰り、なりふり構わぬといった体で父に車を出してもらった。既に話は伝わっていたのか、小波の父は黙って車を出した。親子は車内で何も言葉を交わさないでいた。気が動転していた小波は行き先を伝えていなかったが、小波の父は明日香の自宅へと車を向けていた。道路の対向車線は、遅い仕事帰りの人々を乗せた車で少し渋滞していた。小波たちの車線は、朝方、通勤の時間帯には込むことが常であった。対向車線の車はヘッドライトを灯しながら、のろのろと車を進ませていた。対向車線に流れる平穏な光の行列が、小波らを乗せた車を忌み、よそよそしく目をそらしているように思えた。 「ああ、小波君……」 応対に現れた明日香の母は目をはらしており、泣き疲れて憔悴し切った様子であった。明日香が眠っている部屋には、親戚らしき人々や、制服姿の生徒らが息を潜め、気配を隠すようにして部屋の端々にたたずんでいた。部屋の隅に置かれたテーブルには茶菓子と軽食が置かれていたが、ほとんど誰も手をつけていないようであった。木製の棺は木目も鮮やかな見栄えであり、あるいは純粋な人工物としてのよそよそしさでもあり、はるか昔より連綿として続いている死にそぐわぬ印象を受けた。棺の傍らには明日香の父が耐えるようにじっとうつむいて正座していた。何か言葉を発した途端に感情が崩れてしまうのか、さっと目礼をするとすぐに目を伏せた。 棺の中に横たわっているのは紛れもなく明日香だった。化粧のためか、小波の記憶にある病室で見た姿よりも血色が良さそうに見えた。今にも目を開けて、ゆっくりと上体を起こし、少し恥ずかしそうに微笑みかけてきそうな死顔だった。しかし、もはや二度と訪れ得ぬことなのだ。吐息は伝わらず、胸は起伏せず、明日香の何もかもが動かないでいた。棺に共に収まっている保冷材や花々と同じように冷たくなり、その中に埋もれて、同化してしまっているようであった。 小波は自分の瞳が潤み始めたことを気づくと、歯を食いしばり、拳を握り締めて涙をこらえようとした。我が子に先立たれた明日香の両親の手前、ぼろぼろと涙をこぼすことが僭越であるように思えた。あるいは、明日香が不憫であると思うことがおこがましいことであるようにも思えたし、明日香に死なれた自分が悲しいのではないかというひねくれた考えに意地を張らねばならぬようにも思えた。また、感情をあらわにすることで、自分と明日香だけが秘密裏に共有していた思い出のたぐいを暴露してしまい、第三者の面前で陳腐化されてしまうのではないかと恐れた。 棺から離れると、小波はしばらくの間独りで部屋の隅でじっとしていたが、どうしても涙をこらえることができず、外に出て物陰に入ると、声を殺すよう努めながら止め処なく落涙した。取り留めのない光景が代わる代わる明滅する。小波は何度も何度も明日香の名前を呼びながら嗚咽を漏らした。溶けかかった鉛が体中をゆっくりと流れ回り、いましめとなって締めつけているような苦痛を感じた。明日香がくしゃみをしたことだとか、靴を履こうとしているところだとか、ほんの些細な断片が浮かんでは涙があふれた。風の凪いだ蒸す夜だったために、小波は汗まみれになり、やぶ蚊に何度も刺されたが、それすら悲しい気持ちにさせた。小波がどれほど呼びかけようと、暗い深淵への問掛けのように、明日香からは何も返ってくることはなかった。 気づくと小波は車の後部座席に寝かされていた。物陰でいつのまにか眠りに落ちていたらしく、様子を見に来た小波の父が抱えてきたようであった。小波の父は運転席のシートを少し倒していたが、目は覚めているようであった。小波は何か言おうとしたが、喉にものが詰まったように言葉を出せなかった。小波の父もまた無言のままでいた。車から降りた瞬間にわずかに肌寒く感じたが、すぐに火照るような暑さを感じた。泣きすぎたためか連日の疲労の蓄積か、憂鬱な頭痛と倦怠感が半乾きの石膏のように体にへばりついていた。東の空は白く滲み始めており、漫然と眺めていると間もなく眩むような白光が地平に隈なく差し伸びた。明日香が残した肉体をさらいに来たような、無慈悲で粛然とした光に見えた。 夏休み期間ということもあって、明日香の葬儀にはクラスの生徒は全員参加していた。女子生徒の中には泣きじゃくるものもいたが、明日香と接点がほとんどなかったと思しき生徒は、神妙な面持ちを浮かべながら淡々と葬儀に参加しているようであった。担任の教師が弔辞を読み上げようとしたが、泣き声と重なりほとんど聞き取ることができなかった。小波ら野球部員は自然と一箇所に集まっていたが、誰も口を開かないでいた。焼香を上げるときに、小波は明日香の顔を見つめた。明日香は昨夜と同じまま、何もなく目を閉じていた。小波は全身を強張らせ、必死に理性を働かせて感情を抑えた。日が高くなり、部屋の温度が上がると、集まった人々は憚りながらも汗をぬぐったり、軽く衣服をはためかせるなどした。明日香はただ独り狭い棺の中に横たわっていた。開けっ放しの窓から時折吹く弱い風、線香の匂い、樟脳の匂い、蝉の鳴き声、生々しい時間と場所の記憶を、明日香と共有することは二度と能わぬのだ。これから何が起こり、何をするのか。小波にはわからなかった。 皆が焼香を済ませると、棺を取り囲むように弔問に訪れた人々が集まった。蓋をして、周囲の人々が棺を持ち上げると、唐突に明日香の父が声を張り上げて棺へと泣きすがった。明日香の父は、最初、「ごめんな、ごめんな」と繰返していたが、妻や親戚たちになだめられると、「また後でな。それまで気をつけるんだぞ、気をつけるんだぞ」と、娘に語りかけ、一つうめき声を上げると立ち上がり、棺を火葬場へと向かう車へと運んでいった。 火葬場まで来た生徒は、明日香と特に親しかった少数の女子生徒と、野球部員ばかりであった。既に明日香の遺体は窯に運び込まれた後のようであった。小波たちはロビーのソファーに集まって腰掛けていた。備えつけの大型テレビでは、ローカル局の番組が流されていた。デパートで行われる催し物、地域の小学生が参加した地方の行事、農作物の発育の度合い、見ているときには確かに頭に入るのだが、ほんの少し時間が経てば忘れるような内容が次々に脈絡なく並べられていたが、それらの様子が、小波にはひどく無意味なものに思え、憎悪や嫌悪を覚えているようにも思えた。 誰も一言も口を利かなかった。無為に待ち、煩悶を持て余すことが苦痛でもあったが、一方では、このまま明日香との明確な今生の別れを確認せずに済ませることを期待しているような気もした。担任の教師がロビーに間もなく焼き終わるという旨を告げに来ると、生徒らは静かな足取りで明日香の元へと向かい始めた。 「小波君……。あなたは行かないの?」 「いえ、行きますよ。ただちょっと」 周囲の生徒が向かう中、一人ソファーに腰掛け続けている小波に、担任の教師は遠慮がちに尋ねてきたが、深く追求することなく小波の元から離れた。 小波にはどうしても決められなかった。自分の胸に刻みこみ、時間と共に磨き上げた美しい明日香の姿、仕草、声、明日香のすべてに、明日香の変わり果てた姿を加えることが果たしてできるのだろうか、幸せなことなのだろうかと逡巡していた。現実の成れの果てに直面することが恐ろしかった。小波は迷いながらものろのろと窯の方へと足を向けたが、人々を遠巻きに壁にもたれかかって表情を失ったような顔で傍観していた。 「どうしたんだ、こんなところに突っ立って」 声をかけてきたのは小波の父であった。自らの考えが果たして正しいことであるのか自信がなく、また、父親という存在に、内奥に位置する心情について精神的露出を行うことに大きな抵抗があったため、小波は「いや、別に……」などと、はっきりせぬ様子で口ごもった。小波の父は、隣にやってきて小波と同じように壁にもたれかかると、小波と同じ方向を向きながら語りかけてきた。 「父さんも、母さんが死んだときに、な。でも、母さんだって最後に会いたいんじゃないかと思って、しっかりと見て、触れて、お別れしといたんだ」 小波の父は一つ大きくため息を吐いた。小波は父親の方を面と向くことができずにいた。 「行かなければ、絶対に後悔することになる。明日香ちゃんは何よりお前をずっと待ってるんだ」 父の言葉に、小波は意を決したように明日香の元へと駆け出した。前に集まっていた人々を押し分け、無我夢中で明日香の傍へと向かい、そして変わり果てた明日香の亡骸に対面した。かつて知った面影はどこにもなく、ばらばらに砕けた骨が白い灰にただうずまっていた。いくつもの欠片が散らばり、比較的大きな骨ですら苦痛に屈し、あるいはまた解放され、とこしえの安寧を得たかのように、ひそと横たわっていた。 明日香の終の姿を目の当たりにして、小波は胸を撃ち抜かれたような衝撃を受けたが、同時に途方もないいとおしさも感じ。明日香はもうどこにだっていないのだが、確かにこうして不滅の姿となってあり続けているのだと考えようとした。皆の手前、懸命に堪えていたが、堰を切ったように小波のまなこから涙があふれた。小波の涙が呼び水となったのか、周囲の人々も感情が決壊したかのように涙を落とし、それらのしずくが皆の元を去ろうとする明日香への遣らずの雨のように白い灰に降り注いだ。小波は泣きじゃくりながら、心の中で明日香に別れの言葉を伝えようとしたが、どうしても言葉を思いつくことができずにいた。 明日香との別れからしばらく経った日の夕方、小波の自宅に明日香の母が訪ねて来た。 「小波君、明日香に貸してくれてたノート。よくお見舞いに来てくれて、ありがとうね。あの子もきっと感謝してると思うわ。本当に、ありがとう」 明日香の母は恐縮したふうに何度も頭を下げ、次第に涙声になって小波に数冊のノートを手渡すと、人目を避けるように去って行った。 色落ちした表紙の具合は確かに見覚えのある小波のノートであった。小波はなんとはなしにぱらぱらとページをめくっていった。もうずっと昔に見聞きしたような授業の内容が書かれ、配布された資料などがところどころに挟んであった。更にページをめくっていくと、まだ未記入のページの少し後ろに見覚えのないやや小ぶりの折り曲げた紙が挟まっていた。不思議に思いながら紙を開いて見ると、明らかに小波の筆跡ではない、丁寧で控えめな文字がしたためられていた。 『小波君、いつもノートありがとう。 元気になったら一緒に勉強しようね』 どんな気持ちで明日香は毎日ノートを見ていたのだろうか──。そう思いながら、小波は残りのノートにもざっと目を通していると、一冊だけほかよりも妙に新しいものが混ざっているのに気づいた。不思議に思いながらも中を開くと、最初の数ページには、デフォルメされたベッドや花、人間などが、思いつくままにといった、取り留めのない調子でやや濃い目の鉛筆によって描かれていた。それから数ページは空白になっていたが、その次には絵ではなく文字が記されていた。線で囲まれた文章、線で打ち消された文章、傍線を引かれた文章、塗りつぶされた文章、矢印でつながれた文章、書き直された文章、打ち捨てられた文章、すぐにはそこから一貫した内容をうまく把握できないが、一心不乱に、夢中で作業が行われたような気配が感じられた。 文章が記されたページは唐突に数ページの空白で終わっていたが、なお先を確認していくと、題字のように書かれた文字と、眠っているらしい人間のイラストが記されていた。それから十数ページにわたって、先ほど見た簡潔にデフォルメされたイラストと、それに添えられた短い文章とが記されていた。どうやら明日香が作成した物語のようであった。 『夜更かししたい夜に』というタイトルの、絵本のように作られた短い話だった。内容は、男の子か女の子かはっきりしない外見で描かれた子供が、少し遅い時間から始まるテレビ番組を見るために起きていようと、あの手この手で奮闘するといったものであった。子供は時々親に起こしてもらったり、お茶を飲んだりしながらなんとか番組を見ようとするのだが、結局最後には眠ってしまい、両親に寝床まで運ばれるというところで物語は終わっていた。小波はノートにこもっていた明日香のぬくもりを感じようと、表紙に頬を当てながら身を絞られるように涙を流した。 五年が過ぎた。明日香が死んでから、明日香の両親は故郷へと戻っていた。明日香も今はそこに眠っている。もともと、明日香の病気の都合で小波たちの高校の近くの土地に移り住んでいたそうである。明日香の命日、小波を乗せた鈍行列車の車窓からは、まばゆい水田にすらりとした緑色がよく映えていた。一本だけ通った細い農道を自転車がゆっくりと走っているのが見えた。乗客はたちまち数え上げられるほどで、皆一体いかなる用事があるのか検討もつかない。 降りた駅には自動改札などなく、「きっぷ」と油性マジックで書かれた煎餅などが入っていたような金属の缶が出口に吊るしてあった。時刻表はほとんど空欄になっていた。「○○線を経由して××までお越しの際は運賃△△円」と手書きの但し書きが貼ってあったが小波には不明であった。駅舎を出てすぐのところにタクシー乗り場が設置されていたがタクシーは待機しておらず、看板に記された連絡先に電話を掛けてみると呼び出し音からなかなか繋がらず、ようやく出たと思ったら開口一番、「すみません、今昼飯なんで、三十分ほど待ってもらえませんか」と伝えられた。 タクシーがやってきたのはそれから四十五分過ぎてからであった。小波の父よりもゆうに一周りは上と見える運転手は「ごめんねぇ、途中でほかのお客さんを拾っちゃったもんで」と、あまり悪びれるふうでもなく言い訳した。行き先が墓地だと告げると、「最近はみんな忙しくなったのかねぇ。あれでしょ、お盆に合わせて休みを取らせてくれないんでしょ。時代の流れってやつかねぇ」などと、何やら早合点されたが、間違いを正そうとすることがひどく億劫に思え、小波は適当に相づちを打ちながら話を合わせておいた。 「はい、着きました」 いつの間にかうとうとしていたところを不意に起こされた。料金は小波が当初想像していた額の倍ほどであった。 「帰りはね、一応、こっちにずうっと下って行ったら二時間に一本ぐらいだけどバスがあることはあるよ。お客さん若いし、まあなんとかなる距離だとは思うけど、念のためうちの電話番号も教えとくから。また、こっから駅までだったら迎車はサービスしてもいいよ」 小波に言い含めるようにそう伝えると、運転手は急くように車を出して去って行った。エンジン音が遠ざかると辺りは怖いほど静かになった。頭上の太陽からきんきんとした白色の高い音が聞こえるようにすら思えた。 車道から墓地までは、わだちのついた未舗装の小径が真っ直ぐに百メートルほど続いていた。ほんのわずかに秋の陰を感じさせるからりと晴れた日だった。時々頬を吹きなでる風が空の鮮烈な寂しさを感じさせる青から作られるようであった。道は田畑で挟まれ、更にそれを遠巻きに山々が囲んでいた。動くものは見当たらず、見晴らしのいい道は歩みを進めてもほとんど変化がなく、ただぼんやりとした取り留めのないことを考えさせた。高校時代を過ごしたかつての級友たちとは離れ離れとなり、顔を合わせて話す機会もほとんどなくなっていた。皆どこで何をしており、何をしていくのだろうか。茫漠とした行き先を前に、高々十余年の記憶がなんとも心もとなく、ひどく気が滅入った。砂利を踏む音、息を吐く音、手荷物がぶつかる小さな音が小波から発せられても、それらはすぐに静寂に溶け込み景色はいつまでも超然としていた。 近くを川が流れているのか、顔に貼りついた日差しをぬぐうように涼しい風がそよいでくる。墓地への入り口の三歩ほどの坂を上る。平日の夏の午時ということもあってか、ほかの人間の気配はないようであった。しばし明日香の家の墓を探した後、墓前へとたどり着いた。周りを簡単に掃除した。湯飲みにジュースを注ぎ、線香をあげる。荷物を取り出しながら、小波は楽しかったことを頭に浮かべていようとした。 墓地から人の気配がなくなると、一斉に蝉が鳴き出した。 了