還らぬ蜘蛛を抱いて (作:MTK)  生きている意味とはなんだろう?  その頃のぼくはそんなことばかり考えていた、ような気がする。正直、五年も過ぎると、昔考えていたことなんて思い出すのはとても難しい。だけど、たぶんそんなことばかり考えていたと思う。  特に意味はなかったのだろう。ただ、退屈していただけだった。たぶん、そんなところだ。  やりたい事もなく、ただただ毎日を無駄に過ごしている。そんな普通の人間だった。  だが、今ではそんなことは考えていない。というよりもそんな無駄な思考に時間を割く暇があるのならば、もっと何か別のことをやりたいと思えるようになったからだ。  こんな風に考え方が変わったのには、別に何か特別なことがあったというわけではない。ぼくは普通の人間で特別なことなんて何も起っていない。超能力も使えないし、優れた身体能力があるわけでもないし、ましてや宇宙人の恋人がいるわけでもない。  ただちょっとだけ、不思議な人と会ったことがあるだけだ。  正直な話、ぼく以外の人にとっては実にくだらない話かもしれないが、まぁ、少しだけ付き合ってくれると嬉しい。  ……いいかな、話しても? この場を離れないということは肯定と受け取るよ。  じゃあ話そう。  あれは今から五年前、ぼくがまだ高校二年生時の話だ。  九月。  言葉的な感覚で言えば秋を感じさせる月だ。だけど実際のところ、夏休みが終わって学校に来るようになっても、日中の気温はほとんど八月と変わらない。  断言できる。九月は夏だ。  まぁ、そんな暑い時期、いまだ元気に鳴くセミの声が余計に暑く感じさせる日だった。  昼休み。  この時期の学校は本当に嫌な場所だ。  月が替わっても、自身は変わることなく照り狂う太陽の日差しのために体が汗ばむ。それが凄まじく不快で、少しでも涼しいところへとぼくは移動していた。  目標は図書室だ。学校内で生徒が自由に入室できる部屋で、唯一空調が効いている場所。  三階の渡り廊下を越えた先にある。ぼくは少しだけ早歩きで図書室へと向かっていた。  ここを曲がれば渡り廊下が見えてくる。ぼくはさらに急いで角を曲がった。  ようやく渡り廊下が見えた。あれを渡れば図書室へはすぐだ。  ところが、渡り廊下に入る前に、ふと気になったところがある。  渡り廊下の入り口のもっと奥。校舎の一番端にある教室。  なにが気になったのかは分からない。分からないんだけど……気になったのだ。  昼休みの時間はまだたっぷりある。昼食はパンを急いで食べ、そのまま一直線に図書室を目指したからだ。まだ昼休みが始まって十分も経っていない。少しでも早く図書室へ行きたいがため。  だけどまぁ、気になることを放っておくのも気分が悪い。  ぼくは少しだけその教室を覗いてみる事にした。  教室の扉に手をかける。至って普通の扉だ。どの教室にも使われている扉。  その扉の取っ手に指を引っ掛け、右方向に力を入れる。  開かないかも……とも思ったが、特に抵抗もなく扉は右へとスライドしていった。  開いた扉の先の光景は……まぁ、普通の光景だった。普段ぼくたちが使っている、生徒のための教室と同じ内装だ。黒板が前と後ろにあり、机とイスが規則正しく並べられている。  普段、きちんと掃除しているのだろう。床は埃などはなく、きれいなものだった。……開かずの教室などではないらしい。  ぼくは教室の中に足を踏み入れた。 「失礼しまーす……」  一応挨拶をする。生徒用の教室でもないこの部屋の扉が開いていたということは、誰かがいるかもしれないからだ。  その考えは正しかったようで、ぼくのした挨拶に返事が返ってきた。 「あら、珍しい……」  僕は右の奥へと目を向けた。  窓側の一番後ろの席に女子生徒が座っていた。  女子生徒だと思ったのは、先ほどの返事の声の質と、その人の髪の長さだ。髪は肩どころか本当に腰までありそうなほど長い。校則違反ではなかろうか?  そして着ている服。それがうちの高校の制服だった。  遠めでよくは分からないが、スカーフの色が黄色いので三年生だろう。つまり先輩というわけだ。 「何か用かしら?」  きれいな声だ。正直に思った。 「いえ、特に用があるわけじゃないんですけど……」  ぼくは気のきいた返事はできなかった。まぁ、もともとちょっと覗くだけのつもりだったのだから、仕方のないと言えば仕方のないことなのかもしれないが。 「ふーん……まぁ、いいわ。少し話をしない?」 「はぁ……」  間の抜けた返事を返す。それを肯定の返事とその先輩は受け取ったのだろう。自分の前の席のイスを引いた。ぼくに座れと言いたいらしい。 (まぁ、いいか。別に急いでるわけじゃないし……)  ぼくは心の中でそんな言い訳じみたことを考えた。  教室の扉を閉め、ぼくは先輩に近づく。 「さ、座って」  先輩の席の一つ前の席の前まで来ると、先輩が言った。  それに逆らう理由もなく、ぼくは言われるままにそのイスに腰を下ろした。  そこでようやく先輩の顔を見た。  きれいな人だ。率直な感想がそれだった。  本当に均整のとれた顔立ちをしていると思う。少しつり気味の目、高い鼻。  肌は健康的に白く、唇は薄く紅を引いているかのように赤い。ひょっとして本当に化粧をしているんじゃないだろうか? そう思ってしまうほどあった。 「こんなところに何の用があって来たの?」 「あ、いや……。べ、別に用があったわけじゃなくて……」  しどろもどろに言葉を並べるぼく。  恥ずかしい話だが……先輩の顔に見とれていたためであった。  なんとか冷静を装いながら、先ほどまでの経緯を説明した。  先輩は「へぇ……」と時折頷きながら、微笑を浮かべてぼくの話を聞いていた。  その微笑がまたきれいで、たまらなかった。凄く似合っている。ひょっとすると、この人の基本の表情はこの微笑なのかもしれない。  すべて話し終えて、ようやくぼくの言葉が止まる。 「そうね……。確かに暑いものね」  そう先輩は言った。 「そういえば先輩はこの教室でなにをしてるんですか?」  ぼくは聞いてみた。  考えてみれば変な話だ。誰もいない教室に一人だけ座る女子生徒。しかも美人。あまり有り得るシチュエーションではない。 「それは簡単よ」  やはり微笑を浮かべながら、先輩は答えてくれた。 「あなたと同じ理由よ」  ぼくと同じ。ということは先輩も暑さから逃げている、ということかな? 「この教室、涼しいでしょ?」  そう言われてみれば……確かに。 「なんでなんですか?」 「ここは校舎の影になっていて日が当たりにくいし、しかも高い位置にあるから風がよく吹くの。窓を開けていれば夏だってことが忘れられるくらいには涼しいわよ」 「確かにそうですね」  窓から吹き込む風のおかげか室内はかなり涼しい。気づけば、ぼくの体の汗はひいていた。 「図書室のように人工的に涼しくしている場所は苦手なの、わたし」  なるほど。そんな人もいるだろう。 「誰もいないし、ちょっとした憩いの場よ」 「そうですね……」  それからぼくは先輩と話しこんだ。  本当は図書室に行くつもりだったけど、そのこと自体の元々の目的は避暑なんだから、それは別にこの教室にいても果たせるわけで……。  それに先輩と話すのは楽しかった。それこそが実際の理由かもしれなかった。  キーンコーンカーンコーン! 「あ、予鈴だ」  結局、予鈴が鳴るまでの約三十分。先輩と話していた。 「やべ、次は移動教室だった!」  五時間目は化学だ。化学室で授業があるので行かなければならない。 「それじゃあ、先輩、ぼく行きます」 「ええ」  相変わらず先輩は微笑を浮かべていた。  ぼくは急いで立ち上がり、教室の出入り口まで行き、そこで止まる。 「……あの」  そして先輩の方へと向き、言った。 「また明日、来てもいいですか?」  それは正直、ぼくにとって告白にも近い問いかけだった。たぶんこの時のぼくの顔は、赤く染まっていただろう。 「……いいわよ。私の教室でもないし」  先輩は微笑みながら言った。 「そ、それじゃあ、また!」  ぼくは赤い顔を隠すように、教室から走って出て行った。  その日からぼくは昼休みが楽しみになった。  四時間目が終わると、急いで先輩のいる教室へと向かった。  昼食は持っていって食べる。少しでも早くあの教室に行きたいから。  不思議なことに、先輩はぼくがどんなに急いで来ても先に教室に来ていて、いつもの席、窓側の一番後ろの席に座っていた。  あまりに勝てないので、ぼくは一度、先輩に聞いてみた。 「ひょっとして先輩、ずっとこの教室にいるんじゃないですか?」  少し冗談めいた言い方だったと思う。  だけど先輩は、 「さぁ……どうかしらね?」  と、いつものように微笑を浮かべるだけで答えてはくれなかった。  そしてもう一つ、先輩には特徴があった。  あまり日常的な会話をしないのだ。  昨日の晩やっていたテレビの話をしても「そう……」と言うだけで話に乗ってこない。興味がないのかテレビを見ていないのか。それともその両方なのか。  じゃあ、ぼくと先輩がどんな話をしているのかと言うと、妙に哲学的な話ばかりだったりする。  ぼくがどんなにおもしろい(とぼくは思っている)話をしても相槌を返すだけの先輩が、こと小難しい話をすると別人のように饒舌になった。  どんな話をしていたかと言うと、こんな話である。 「先輩、『死』ってなんなんですかね?」  その問いは、最近物騒な事件が多く、朝、テレビでコメンテーターが『命』について話していたから聞いてみただけだった。でも先輩は予想外にこの話については饒舌になった。 「そうね……まぁ、普通に考えれば『終わり』の事ね」 「でも、仏教だとかは『死』は『新たなる始まり』とか言いますよ」 「詳しい事は知らないけど、真実なのかどうかも分からない事を、他人が言っていたからという理由で信じる事は危険じゃないかしら?」 「それはまぁそうかもしれないですけど……」 「少なくとも『死』は万物に訪れる絶対の真実。『死』から逃れられる生命はない。だとしたら、『死』から免れようとすること自体が自然に反する事なのかもしれないわね」 「はぁ……」 「私には『死』自体には何の恐怖もないわ」 「そうなんですか?」 「ええ。本当に恐ろしいのは、『私』という存在が生を受けたこの世界で、『私』が何も為せずして死んでいく事……。なんて恐ろしい事なのかしらね……」  とまぁ、こんな感じだった。  先輩と出会って二ヶ月が過ぎようとしていた。  さすがに十一月にもなれば、暑い夏は過ぎたようだ。もうセミの声は聞こえない。  季節は秋だった。学校に植えてある木々も緑色ではなく、だんだんと赤くなっている最中だ。  あれから毎日、ぼくは飽きもせず先輩のいる教室に足を運んでいた。  もう暑さを避ける必要はないんだけど、今では先輩に会うのが目的になっていたから関係なかった。  その日はいつもと違い、遅くなった。  昼休みだと言うのに、担任の教師に呼び出されたのだ。  何のことはなく、次の授業の準備を手伝わされただけなんだったけど、おかげで残りの昼休みは五分だけとなってしまっていた。  それでもぼくは先輩のいる三階の奥の教室へと来た。  先輩に少しでも会いたかったからだ。 「こんにちはー!」  ぼくは能天気に教室に入った。  だが、いつもと同じなのは場所だけだった。  違ったのは時間と、そして先輩が机にうつ伏せになって寝ていたことだ。  いつもならばぼくの方へ向き、「あら、いらっしゃい」と言ってくれるのに……。  ぼくは先輩の傍に近寄った。 「先輩、どうしたんですか?」  ぼくが声をかけて、ようやく先輩は顔を上げた。 「……あら、いけない。……眠っていたみたいね……」  そう言った先輩の顔はとても疲れているように見えた。いつもは健康的な白さの先輩の肌が、少し青ざめている様だった。 「風邪でも引いたんですか?」 「……いえ、ちょっと一仕事したら疲れちゃってね……」 「はぁ、体育かなんかですか?」 「ふふ、そんなところよ……」  いつものように微笑んでくれたけど、あまり力のない笑いだった。  昼休みも残り少ない。  ぼくは急いで何か話題を探そうとしたが、そのときは珍しく先輩から話をし始めた。 「……あなたは前に『生きる意味』を私に聞いてきたわよね?」 「え? ……まぁ、聞きましたね……」  それは特に考えて出た言葉じゃなかったと思う。  普段日ごろから思っていた疑問が、つい口に出ただけだった。 「新しい命が生まれてくる、実はそれ自体には何の意味もないことじゃないかしら?」 「はぁ……」  ぼくには先輩の言っている意味がよくわからなかった。だから相槌を返すだけだった。 「命と言うものは、生まれた後、何かをすることに意味があると、私は思うの」 「………」 「為すべきことを為す。言葉で言うのは簡単だけどね……」 「……先輩にはあるんですか? その『為すべきこと』っていうのは?」 「ええ、あったわ……」  それは過去形だった。ということは先輩は『何かを為した』のだろうか?  ぼくは聞いてみた。 「……過去形、なんですか?」  すると先輩はやはり力ない微笑を浮かべて言った。 「そう、わたしはもう『為した』の」  先輩の真意は分からない。 「満足よ。わたしの生には意味があった。もう思い残すことはないわ……」  そう言い、先輩はイスに座ったまま目を瞑った。 「……まるで明日には消える。そんな言い方ですね……」 「ふふふ……そうかもね……」  先輩は目を開け、そしてようやくいつもの微笑を浮かべた。しかし、それでも弱々しくはあった。 「……今日の先輩、変ですよ」 「……そうね」  そのとき、予鈴が鳴った。昼休みは終わり、次の授業の準備をしなさい、と鳴った。  でも、ぼくは先輩を見ていた。  次は移動教室で、教科書や筆記用具を持って移動しないといけないのに。 「……行かないと遅刻するわよ?」  その声はやっぱり弱々しい。  ますます行けなかった。 「先輩こそ、教室に戻らないんですか?」  考えてみれば、先輩は一度もぼくよりも先にこの教室を出たことはなかった。  いや、それどころかこの教室以外で先輩の姿を見たことすらない……。 「やっぱり疲れたみたい……。少し休憩してから行くわ……」 「……本当ですね?」 「ええ」 「………」  結局、ぼくは先輩の言葉を信じることにした。  時間がないので、走って教室の出入り口に向かう。  教室を出る直前に、もう一度先輩の方へ向き、言った。 「あんまり気分が悪かったら保健室に行ったほうがいいですよ?」 「……ふふ、わかったわ」  そう言って、先輩は微笑んだ。 「先輩、それじゃ!」  ぼくは急いで教室を後にした。  そのとき先輩は確かに『さようなら』と言った気がする。走って教室を出て行ったので、記憶は定かではない。  でも、それが先輩と最後の別れとなったことだけは事実だった。  次の日の昼休み、ぼくは先輩のいるはずの教室に向かった。  その日は普通に、いつもの時間に教室に着いた。 「どもー!」  明るく教室に入る。  しかし、いつもそこにいたはずの先輩の姿はなかった。 「あれ、先輩?」  教室に人影はない。  誰もいない教室。しかし鍵は開いていた。 「先輩?」  教室中を探しても、先輩の姿はどこにもなかった。 ロッカーの中、教壇の下、カーテンの影。教室内で人が姿を隠せそうなところは隈なく探したが、結局先輩は見つからなかった。 (トイレにでも行ってるのかな?)  そう思ったぼくは、いつもの席で先輩を待つことにした。 しかし、予鈴が鳴るまで待っても先輩は戻って来なかった。 次の日も、その次の日も、先輩はあの教室に来なかった。扉の鍵は開けっ放しになっている。鍵自体は消えた先輩が持っているのか、見つからなかった。  ひょっとすると昨日、先輩は病気だったのではなかろうか? それが悪化して学校を休んでいるのではなかろうか?  そう考えたぼくは、自分で言うのも何なのだが、ぼくにしては珍しく行動的な選択をした。三年生の他の人に『先輩』の事を聞いてみたのだった。あれだけきれいな先輩のことだ。しかも、かなり目立つ長い黒髪の持ち主。クラスが違っても知っている人はいるだろう。  だが―――誰に聞いても先輩のことは分からなかった。教えてくれないんじゃない。誰一人として先輩のことを知らないのだ。  うちの学校はそこまで大きな学校ではない。しょせん田舎にある普通の公立高校だ。生徒数は一学年、せいぜい二百人程度。それなのに……誰も先輩の事なんて知らないと言う。ひょっとして美人の同級生を後輩に渡すまいと学年ぐるみで先輩の事を隠してるんじゃないだろうか? そんな馬鹿な考えが頭をよぎるほどに、先輩の事は何も分からなかった。  そこでぼくは三年生ではなく、先生に聞くことにした。三年生を受け持つ教師なら何か知っているに違いない。三年生がいくら先輩の事を隠しても、先生たちなら教えてくれるはずだ。  はずなのに……やはり先生たちも「知らない」と言う。生徒に物を教える教師さえ、ぼくに先輩の事を隠すのだろうか? それともぼくの頭がおかしくなっているのだろうか?  先生がぼくに聞いた。 「なんて名前なんだ? その生徒は」  よく考えてみれば、ぼくは先輩の名前を知らない。たぶん先輩も僕の名前は知らないんじゃないだろうか? ぼくは先輩の事は『先輩』と呼んでいたし、先輩もぼくの事は『あなた』と呼んでいた。  二ヶ月近くも昼休みの間、一緒にいたのに、ぼくは先輩の名前すら知らなかったのだ。  先輩が消えて四日目の昼休み。ぼくはまたあの教室へとやって来た。しかし、扉を開いても、やはり先輩の姿はなかった。  ぼくはいつもの席に着く。先輩のいない、寂しい一番後ろから一つ前の席。  その時、気づいた。先輩の座っていたイスの上に一匹の蜘蛛がいた。いや、正確に言うと『蜘蛛だったものがあった』だ。動かない。八本の足を縮こまらせて死んでいる。金と黒の斑模様のきれいな蜘蛛だった。ジョロウグモだ。  ぼくはそのジョロウグモをしばらくの間見ていた。まったく動かない。  指でほんの少しだけ触ってみた。でも、やっぱりジョロウグモは動こうとはしなかった。  『死』とは絶対的な真実。終わり。それは先輩が言っていた言葉だった。  ジョロウグモは秋に卵を産み、死んでしまうと前に図鑑で読んだことがある。こいつはおそらく、卵を産んで死んだんだろう。 (本当に恐ろしいのは、『私』という存在が生を受けたこの世界で、『私』が何も為せずして死んでいく事ね……)  先輩の言葉が頭に蘇る。  こいつは『為した』んだろう。だから死んだのだ。  ぼくはそのジョロウグモを手に平に乗せ、一階の渡り廊下を出て、学校の庭に出た。あの教室の下にある庭だ。  その庭の土を少しだけ掘り起こし、ジョロウグモを埋めてやった。  理由などない。ただ、そうしたかったからしただけだった。  やがて昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。ぼくは埋めたジョロウグモを一度だけ見て、そして教室に向かった。  それでぼくと先輩の話は終わり。  どうかな? ちょっとだけ不思議な話だっただろ?  結局、あの日以来、ぼくは先輩と会えていない。それは五年経った今でも、だ。それでも当時のぼくはあの教室へ行く事は止めなかった。ぼく以外には誰もいない静かな教室で先輩が来るのをずっと待っていた。しかし、ただボーっとして待っているのもいるのも無駄なので、ぼくはあの教室で一人で勉強をするようになっていた。  『為すべき事』がいまだわからない以上、とりあえず選択肢だけでも多くしておいたほうがいいと思ったからだ。おかげで一応、一流以上の大学に受かり、そして数日前にその大学を卒業した。しかし、卒業した今でもぼくの『為すべき事』は見つかっていない。  高校を卒業してから四年、大学卒業式のすぐ後、友人たちに誘われた集まりも断って、今日ぼくは母校である高校へ来た。  四年前と何も変わらない校舎。懐かしかった。四年という歳月は、懐かしいという感情を湧かせるのには充分な時間だったようだ。  時間は午後五時。用務員さんに話して、あの教室の前へとやって来た。扉へと手をかけ、開けようとしたが開かなかった。当然の事だが、やはり鍵はかかっているみたいだ。  ぼくは預かった鍵を使い、扉を開いた。  懐かしい教室。先輩とのたった二ヶ月の思い出が詰まった場所。  それでも、やはり先輩はいなかった。当たり前かもしれないが、少しは期待していたのだ。  いつもぼくが座っていた席へと行く。掃除は毎日しているようで、埃などはなかった。それもあの頃と変わっていない。  少しの間だけ、ぼくはぼくの指定席だったイスに座ってみた。座り心地もあの時と変わっていなかった。  立ち上がって、先輩の座っていたイスを見てみた。だが、あの時の様に、ジョロウグモがいたりする事はなかった。  しばらくの間、ぼくはイスに座っていたが、気がつくと辺りがかなり暗くなっていた。時計を見ると、すでに午後七時を回っている。ずいぶんと長い時間、感傷に浸っていたらしい。  ぼくは立ち上がり、教室の出入り口に向かう。扉の前で一度だけ振り返り、あの二つの席に誰もいない事を確認して、教室を出た。 最後に扉の窓から教室の中を見て、扉に鍵をかけた。 帰ろう……。  暗い気持ちで、薄暗い廊下を一人で歩く。その中でふと思った。 (……そういえば、確かジョロウグモって五月ぐらいに卵から孵化するんだったよな……)  ぼくはもう一度教室のほうを見た。 (……二ヶ月ぐらい経って、もう一度来てみるかな……)  淡い期待だとは分かっている。それでも、ぼくは「さようなら」は言いたくなかった。  あの日、先輩は最後に「さようなら……」と言っていた気がする。正直、あの時は走って教室から出たので完全に聞いたわけじゃない。だからあの「さようなら……」は、ぼくが頭の中で作り出した嘘の記憶かもしれないけど、それでも、ぼくは言わない。死んでも言ってやるものか。それだけは絶対に譲れない。  『為すべき事』はいまだに見つからないけど、それでもとりあえずは先輩に別れの言葉を言わないという事だけをぼくは心の中で決めていた。  そんなことを考えながら、ぼくは一人で暗い廊下を歩き、もう二度と会えぬであろう、きれいだった先輩の顔を思い出した。                                                                          終わり