夜のガスパール (作:平野 真澄) 第一節「男」  智子は勉強をしていた。  司法試験を受け、弁護士になろうとしていた。  彼女は、東京の大学に学び、中学、高校、大学と演劇を続けていた。特別美人というわけではなかったが、自分の容姿に満足しており、本気で女優になりたかった。  英文科を卒業したにも拘わらず、智子は、英語を話すことが全くできず、文字として捉えるだけだった。卒論の評価はCで、卒業後なんとなくある新聞社の関連法人に就職し、自分には何の才能もないなと感じていたが、勉強を始めてからは、自分には本物の法律のセンスがあると信じていた。  毎日、会社から帰っては、軽い食事を急いでとり、風呂に入り、夜更けまで参考書と六法全書とノートを前にした。それまで習慣にしていた日記をつけることもやめていた。土日には大学の図書館に通い、友人との連絡を一切断った。  或る日、会社から帰ってくると、借りているアパートの傍らに立つ誰のものとも知らない木造家屋の横に男が立っていた。智子は、またか、と思った。東京で一人暮らしを始めてから幾度となくちょっと嫌な目に逢っていた(スカートに煙草の吸殻を押して付けられたこともあった)。一方で、道徳観を持たない、そうした人物との遭遇が、智子を勉強へと駆り立ててもいた。  なるべく男の目にとまらぬよう、黒のショルダー・バッグを握りしめ、急いで通り過ぎようとした。その日の智子の恰好は、黒の細身のパンツにベージュのアンサンブルというもので、これなら大丈夫だろう、と思った。  男は、しばらく智子の後をついてきた。困ったな、と思った。思い切って走り抜こうとした時、突然、男の動きが疾風のようになり、はっとなって思わず振り返った。  男は消えていた。  唖然となり、暫くその場に立ちすくんだ。とにかく部屋に入らなければと思い、アパートの鍵をあけ、中に入った。冷蔵庫を開け、米と味噌汁がきちんとプラスチックの容器に小分けになって保存されているのを確認した。それらの中から一食分を取り出し、電子レンジにかけようとしたが、途中で思いとどまり、コーヒーを沸かし、立て続けに煙草を三本吸った。  その週末、久しく顔を出していなかった大学のサークルの部室を智子は訪れた。 「智子さん、何だか最近姿を見なかったですね。前は週に三日は通って来てたのに。来ない方が珍しかったのに。完全に逆になりましたね。」  さらりとしたショート・カットの後輩の一人が言った。彼女は一人で発声練習をしていた。 「ちょっと心境の変化があってね。やりたいことが見つかったの。」  智子は、勉強のことは両親にも黙っていた。 「最近、渡辺君と洋子さんも来ないんですよ。どうしちゃったのかな。」 「ああ、あの二人別れたみたいよ。」  彼女の顔から、さっきまでこぼれていた若さが消え、急に自分より大人びて見えた。しまったな、と思った。また口を滑らせてしまった、と智子は急激に後悔した。  直接的であれ、間接的であれ、人を傷つけると必ず同じようなことが自分の身に降りかかってくる、と智子はこれまでの短い人生の中で実感していた。同時になぜだか、この前の奇妙な男のことが頭に浮かんだ。一度口から出た言葉は取り返しがつかない。言葉の力によって、人の運命というものは少しずつずれていくものかと思った。 「男女のことはよくわからないな。最近ちょっとそういうのに興味なくて。」  取り繕うように言い残して、部室を出た。彼女はまた発声練習を始めた。たった一言の言葉が、もう自分と彼女との間に壁を作ってしまったように思えた。そして、もうあの子とは話ができないかもしれないと思った。  友人をつくるのが苦手だった。高校三年生の時から、急にそうなってしまっていた。大学に入ってからは、さらにその傾向が強くなり、学部の友達は一人もつくらず、同じように演劇を志す者としか交わらなかった。その上、なぜだか目上の人に甘えることができず、専ら後輩たちと付き合った。 第二節「木曜日」  高校生の時、智子は生まれて初めて本気の恋愛をした。  彼の名は久といった。  同じ演劇部の同級生で、久は同い年の男子とは違う何か特別なものを持っていて、女子は皆、久に一目置いていた。智子はそんな様子を何とはなしに、自分には無関係なものと遠巻きに見ていたが、次第に自分でもどうすることもできないほど、久に惹かれていった。  久と智子はともに漱石の愛読家だった。その頃、智子の読んでいた本は、夏目漱石、川端康成と村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーで、久は智子がそれまで聞いたことのない、カミュやプルーストといった作家の名前を知っていた。  智子は思い切って久に電話した。 「今度、カミュの『異邦人』を貸してくれる?」  久と智子は演劇部の練習のない木曜日に、図書室で待ち合わせ、一緒に下校するようになった。智子は、久と一緒にいると、体の奥までしびれるような感覚に襲われ、自分でも戸惑った。久は下校中、道に生えている草木の葉が智子に触れるようなことがあると、あぶないよ、と智子を道の真中へ導いてくれた。智子はそんな時、久のシャツの袖にそっと摑まったりした。  主に話していたのは、最近読んだ本や、進路のこと、社会に対する若者らしい意見といったものだった。その頃の智子は、思春期特有の少し捻くれたところがあり、文学に対する視点もちょっとずれていた。 「私は理数科なのだけど、数学と物理が全然できなくて。考え方としては分るのだけどね、問題を解く発想力がゼロなの。だから、せっかく理系の勉強をしているのだけど、大学は国語と英語と小論文だけで受験できるところを志望しているの。」 「僕は、全科目を網羅して東京大学に行きたいんだ。」 「私は、生物は割と得意なのだけど、遺伝子とかの授業を聞いていると、何だか人は自分の優れた遺伝子を子孫に残すためだけに生まれてくるんじゃないかと、たまに思ってしまうの。」 「僕は、人が生まれてくるのはそのためだけじゃないと思うな。」 「私は、漱石の中では『三四郎』と『門』が一番好きなの。」 「僕は『こころ』が一番好きだな。」 「久君のお父さんは何をしている人なの?」 「僕の両親は長く別居していて、つい最近正式に離婚したんだ。」  一年ほど経った。その間、智子は女の子らしくバレンタイン・ディには老舗の菓子屋のチョコレートを久に贈ったりした。  高校も三年の夏休みとなり、智子はクラス・メイトからある噂を耳にした。同じ演劇部で、三年間同じクラスであった香奈と久がどうやら付き合っているらしい、というものだった。三年生になると、受験が迫っているというにも拘わらず、なぜか男女の付き合いを始める同級生が多く見られるようになった。  智子は、その噂をクラス・メイトの結衣から聞いた時、最初は、だからなんだというのだ、と思った。自分と久との関係には特別なものがあると信じていた。智子は香奈と会話をすることができなくなった。  そのうち、香奈は学校に指輪をしてくるようになった。智子は混乱し、英単語が頭に入ってこなくなった。  或る日、久から話があると声をかけられた。雪が降っていて、寒かった。智子はうっかりブレザーを羽織ってくるのを忘れ、グレイのXネックのセーターだけという姿で、待ち合わせの階段の踊り場に急いだ。久も同じ恰好だった。その場所は、避難用に使われる屋外の階段で、さらさらとした細かな雪が、直に二人に降りそそいだ。久は言った。 「僕は、香奈が好きなんだ。今まで好きになった人の中で一番好きなんだ。」  智子は、思わず久に抱きついた。そうせずにはいられなかった。どうしても、久を離したくなかった。そして、思いがけずも、久も同じくらい強く智子を抱きしめ返してくれた。二人はずっと繋がっている、と智子は信じようとした。しかし、それはできなかった。  それから、智子は受験勉強に打ち込んだ。塾や予備校には一切行かなかった。高校は推薦で入学していたため、大学は自分の力で合格したかった。  久と香奈は時折、二人揃って学校を休むことがあった。  智子は大学に合格し、香奈は長野の大学に進学し、久は浪人した。 第三節「箸」  智子が新入社員となり、間もなく、取引先の営業であるという男性が智子の会社を訪れ、名刺を渡された。  「近藤 真」と、名刺には書かれていた。  智子が生まれて初めて見る働く男の人だった。グレイのスーツを着て、ちょっと趣味の悪いネクタイをしていた。まだ三十代半ばだというのに、髪は白髪だらけだった。型どおりの挨拶をし、席に着いた。  その日から智子は、毎日上司と近藤さんとを取り次ぐ電話を取り、近藤さんが会社を訪れる際にはいつもお茶を出した。  近藤さんが、固い顔で会社にやって来た。  智子は七月にある試験を受ける予定になっていたが、近藤さんはその受験申請をうっかり忘れていた。智子は、まあいいか、という感じであったが、近藤さんの顔は険しく、珍しく、来客用の椅子の横に黒の手持ち鞄を乱暴に置いた。  智子はいつものようにお茶を淹れ、音を立てないようにテーブルの上に置いた。  近藤さんは、上司と短い打ち合わせをし、いつもより早く会社を出た。  智子は九月に試験を受けた。近藤さんから電話があった、 「試験受かりましたよ。」 と。  智子の勤める会社は、東日本から北海道にかけての新聞販売所の出資によって設立した非営利法人で、主に販売所で働く配達員の共済制度を取り扱っていた。智子は、ここで、団体定期の生命保険と、バイクの盗難保険を任されていた。  盗難保険の更改の時期が迫っていた。智子はパンフレットを丁寧に見直していた。上司が言った。 「近藤さん、更改行き詰ってるみたいよ。データが足りないって。」  智子は、急いで二種類のデータを作り、上司に渡した。上司はそれをメールで近藤さんに送った。近藤さんからすぐに電話がかかってきた。 「データありがとうございました。」  近藤さんの声は、固かった。 「ところで、データの件ですが。AとBとで数字が合わないのですが、これはどうなっているのですか?」  少しぎくりとなり、智子は言った。 「すみません、少しずれちゃったんだと思います。確認します。」  智子の最後の言葉を聞き終わらないうちに、近藤さんは言った。 「いいえ、その必要はありません。こちらで対応します。いいです。」  受話器を置いて、智子はしばらくぼおっとした。  智子は、パンフレットのある文言に修正を加え、それをまえのものとは完全に違うものに書き換えていた。その文言では不十分であったからだ。上司は智子の修正したパンフレットをFAXで近藤さんに送った。  幾日か経ち、近藤さんから、新しいパンフレットがFAXで送られてきた。難しい保険用語が並べ立てられていた。 「近藤さん、ちょっとやりすぎじゃないの。」 と、上司が言った。智子は、 「頭のいい人ってよくわかりませんね。これは誰が読むものだと考えているのでしょうか。」 と、何気なく言った。  さらに数日後、近藤さんは、近藤さんの上司とともに会社を訪れた。パンフレットはそのままだった。そして、新たに覚書が添付されていた。覚書には、智子が修正した文言がそっくり記載されていた。  智子はまた、音を立てないようにテーブルの上にお茶を並べた。  或る朝会社に行くと、社内は朝から騒然としていた。 「近藤さん、九州に転勤だって。あの人東大出でしょ、脳みそだけでも置いていってほしいわ。」  智子は、何食わぬ顔で、いつもと同じようにパソコンの電源のスイッチを押した。  近藤さんは、最近、それまでの黒の革の手持ち鞄をやめ、グレイのナイロンのショルダー・バッグに変えていた。  近藤さんが栄転となる日、簡単な送別会が開かれた。  小さな料理屋で、お酒は抜きだった。野菜の前妻と、湯葉の刺身と、魚のてんぷらと、すまし汁と、サクランボが出た。  近藤さんは、おしぼりで顔を拭いた。  「高野さんとは、ケーキの食べ放題に行きましょうと約束していたのに、とうとう行けませんでしたね。午後休を取るわけにもいきませんしね。」  近藤さんは、同じ課の智子の男の先輩と大きな声で話をしていた。智子は黙って食べていた。と、突然、近藤さんは静かに話し出した。 「うちの嫁さんも勤めていましてね。」  智子は、何でもないように米を口に運んだ。 「引越しの時には、休みを取ってもらって…」  智子の箸はそこで止まった。自分でも思いがけなかった。  食事の最後のサクランボを口にした時、智子は近藤さんの前でサクランボの種を飲み込んだ。  近藤さんは、別れ際に何度も大きく手を振った。智子も何度も振り返り、最後には時間に遅れるといって走り出した上司の後を追って走った。  数日が経ち、近藤さんから電話があった。 「近藤です。ご無沙汰しております。一週間ぶりですね。元気ですか。」 「はい。」 「元気ですか。」 「はい。」 「頑張っていますか。」 「はい。」 「頑張って下さい。」 「はい。」 「頑張って下さい。」 「はい。」  智子は何と言っていいか分からず、はいとだけ答えた。そして、 「持田さんですよね。少々お待ち下さい。」 と、電話を取り次ごうとした。近藤さんはしばらく沈黙した。 「そうです。替わって頂けますか。」  智子は、近藤さん宛ててに短い葉書を書いた。 「ご昇進、心よりお慶び申し上げます。  世間知らずな私は、失礼なことも多かったかと思います。  どうぞお体を大切にして、頑張ってください。」  差出人は会社の住所とした。智子はそれを、新宿の或る郵便局の前に設置されたポストに投函した。  近藤さんからの返事はなかった。  図書館の帰り道で、自転車を押す進さんに偶然会った。本当に偶然なので、口もきけないほどだった。  進さんとは、大学に入学してから知り合い、やはり同じ演劇部だった。一年半ほど交際した後、智子の方から別れを切り出していた。  進さんは、久とは違っていたが、同じくらいの読書家で、ガルシア・マルケスなどを好んで読んでいた。体の芯から、明るく、朗らかで、やさしかった。 「今、司法試験の勉強をしているところなの。就職してから一人暮らしも始めたの。」 「そうか。飯でも食いに行かないか。」  智子は迷った末、行かないと答えた。  或る午後、智子のもとに一本の電話がかかってきた。生命保険の被保険者が瀕死状態となり、字を書くこともできず、話をするのもやっとという状態で、自分には身寄りがなく、今まで世話になった販売所の所長に保険金の受取人を変更してもらいたいとの依頼であった。  智子は、すぐに保険会社に連絡を取り、対応を待ったが、保険会社からの連絡はなく、弁護士はなんとこ正式な遺言書を取り付けた。保険会社の約款には、予め保険金受取人変更の旨の文言があった。  その配達員はすぐに亡くなり、戸籍と遺言書のコピーを持って、販売所の所長が会社に訪れた。戸籍は入り組んでおり、腹違いの兄弟が何人もいた。  会社は、顧問弁護士と相談の上、保険会社の側につくと判断した。  智子は、会社を辞めようと決心した。  会社を辞める意思が固まってから、智子はコンタクト・レンズもピアスも化粧もやめた。不思議なことに、化粧品を使うのをやめてから、それまで悩みの種だった額の湿疹は消え、、肌はすべすべとしていた。  土曜日だった。智子は、鏡を見て髪を整え、ジーンズを履き、図書館へ向かう準備をした。 第四節「手紙」 「まず結論から言うと、私は統合失調症という病気になりました(病気というより障害です、病気は治りますが、障害は一生治らないのです)。そして、今すぐ洋一君に会いたいです。  まだ混乱しているので、上手く文章が書けるかどうかわかりませんが、順を追って書きます。  私は某新聞社の関連法人に入社しました。ここは、東日本から北海道にかけての当該新聞販売所の共済制度を取り扱う非営利法人で、ここで私は、某損害保険会社の代理店業務を行う部署に配属になりました。  社会人になってから分かったのですが、私には文章を読んで考える書類相手の仕事が向いており、仕事の傍ら司法書士の勉強を始めました。勉強を始めてすぐに、自分には法律のセンスがあると感じました(私は徹底した左脳人間で、記憶力と理屈で物を考えるのです)。高校では理数科だったのですが(でも、数学は落ちこぼれでした)、高校で数学をやり、大学で文学をやり、法律の仕事に就くという流れは、自分でも天職のように感じていていて、本気で司法書士の資格を取り、法律事務所に就職し、弁護士を目指そうとしていたのです。  その後、会社を辞め、資格試験に向けて追い込みをかけようとしていた矢先に発病しました。  統合失調症というのは、ストレスや鬱などとは異なり、脳の活動自体に異常が生じて起こる精神障害で、私の場合、症状として強い幻聴と幻覚があらわれました(妄想というのはありません、何かの考えにとりつかれているというわけではないからです)。また、奇妙な電話やメールがかかってきたりもしました(これは私にも訳がわかりません)。治療としては、投薬によって、脳の働きを正常に保つという方法しかないようです(薬は一生飲み続けなければなりません)。  最初は、病気とは思っていないので、訳が分からず、引越しをしたり、家族とけんかになったりしたりと大変でした。最後に以前の職場に相談に行ったところ、ヒステリー状態となり、救急車で運ばれ、医療保護入院(任意の入院とは違って、法的な拘束力のある入院です)となりました。  退院後、一年近く通院し、症状があらわれず安定していたので、もう何ともないとの自己判断から、医師に転院すると偽り、通院・投薬をやめました。  その後、前職の経験を生かし、今度は派遣社員として某保険会社に勤めました。仕事の内容は、生命保険の代理店登録の書類申請というもので、実に私に合っていて、ほぼ充実した日々を送っていたのですが、半年ほどして再発し、前回よりひどい症状があらわれました。この症状が出ると、母と弟の言動が別人のように見え、一緒に暮らすことができず、一人暮らしをせざるをえないのです(精神病患者は、症状がひどい場合、一時的に個室に鍵をかけて隔離したりするのですが、それと同じで、他者と関わりを持つことができなくなるのです)。  一人になって少し落ち着きましたが、やはり症状は治まらず、またヒステリーを起こし、今度はアパートの大家さんが保健所に通報し、前回同様医療保護入院となりました(一回の入院に三ヶ月ほどかかるのです)。  退院後、家庭の事情や、都心で暮らすのはもうちょっと無理だなとの思いから、新潟の父の家に引き取ってもらうことにしました。そして、今に至ります。  父は航海士をしていたのですが、五十五にして仕事を辞め(船員というのは、普通の会社員に比べて早く年金が下りるそうなのです)、ずっと家にいます。今は、父と二人暮らしです。父とは考え方が正反対なので、毎日のようにぶつかりそうになり、苦労しています。  去年まで所得があったため、住民税、国民健康保険の保険料が今の私にとってはちょっと高額で、お金がなくて困っています。国民年金の免除申請をし、さらに障害者年金の受給申請をしようとしているところです。  最後に真剣に聞いて下さい、  生涯ずっと私のそばにいてくれますか。  私は、これまでの短い人生の中でも、人より多くの辛いことや苦しいことを経験してきたつもりでいますが、今回の件については、ちょっと途方に暮れています。  とにかく声が聞きたいので電話を下さい(どうして、こんな時にチリなんかに行っているの?)。  というより、私の方から電話をするので番号を教えなさい(形態は解約しちゃったし、番号のメモもなくなちゃったのです)。  返事を待っています。」  手紙を書き終え、智子は煙草に火をつけた。涙が止まらなかった。  智子は、自分の病因が何であるかはっきりわかっていた。  そして、今は洋一のことを心から愛していた。  彼の帰りを待っていた。 第五節「洋一」 洋一は、智子の一つ後輩だった。  演劇部の打ち上げの後だった。智子は、洋一に言った。 「どうするの。二次会は行かないの。」 「俺はいいよ。智子さん行ってきなよ。」  そう言うと、洋一は智子の頭にぽんと手を置いた。智子は大学生になってから、急激にほっそりとしなやかな体つきになり、耳にはアクアマリンのピアスをはめていた。 「いい。じゃあ私も帰る。」  智子と洋一は変える方向が一緒だった。高田馬場から二人で山手線に乗った。 「なんか、急にラーメンが食べたい。」  智子はその日は、あまりお酒を飲んでいなかった。なぜだか、急に空腹を感じた。  池袋で降り、学生でも入りやすそうなラーメン屋を探し、中に入った。一番安い醤油ラーメンを注文した。 「僕が奢りますよ。」 と、洋一は言って、代金を払ってくれた。  或る夜、智子は洋一と二人で並んで歩いていた。電車がなくなっていた。洋一と歩いていると心地よかった。しかし、そこにはある種の緊張感がないわけでもなかった。 「星見えないかな。」  洋一は言った。  洋一は、智子とは違って、天文学を志していた。よく智子の前で、智子には理解のできない難解な学術書を読んでいた。智子は、貸してと言って洋一から本を取り上げた。難しい数式が並んでいた。智子は、高校で数学V・Cまでやっていたが、洋一にはそのことは黙っていた。分らないと言って、洋一に本を戻した。 「見えないよ、当たり前。でも、あれなんだろ。」  わずかばかりの光が、遠く南の空に光っていた。智子はカーヴァーの『隔たり』という作品を思い出した。カーヴァーは、星を見上げながら自身の夫婦関係について考えていた。どうしてこんなに気持ちが離れてしまったのだろうかと。  智子の家が近くなり、洋一に、じゃあ頑張ってねと声をかけて別れた。  暫くすると、洋一には紀美子という彼女ができた。  紀美子は、智子の通う大学の近くにある女子大に学んでおり、見るからに大切に育てられたといった感じの女の子だった。二人はお似合いだった。  智子は最初その話を耳にした時、胸にちょっとわだかまりのようなものを感じたが、それはすぐに心の内に消えてしまった。  智子が勉強を始めてから暫くして、演劇部の集まりがあった。洋一も来ていた。  智子は、洋一の前で煙草を吸った。洋一は黙っていた。  部屋に帰ると、智子は洋一にメールをした。 「私、弁護士になりたいの。天職だと思うんだ。」  すぐに洋一から返事が返ってきた。  智子はその返事を読まずに削除した。 第六節「夜のガスパール」  智子は、ラヴェルの『夜のガスパール』の中の第一曲目「水の精」を何度も聴いた。  二度の入院の後、一ヶ月間、叔母の家に預けられていた。智子の父は、インドネシアの友人のもとに遊びに行ってしまっていた。  叔母は智子に、高価な浴衣を買ってくれたり、二十八歳の誕生日にと、これまた高価なダイヤモンドのペンダントを贈ってくれたりした。  叔母の家にはピアノがあり、智子は何とはなしにツェルニー百番を最初のページから丁寧に弾き始めた。そして、ピアノの先生にでもなろうか、と思った。  病気になってから、智子はドビュッシーよりもラヴェルを好むようになっていた。ラヴェルは理性をもって、音楽を構築していた。『夜のガスパール』は難曲といわれており、一オクターヴがやっとという智子の手では弾きこなすことはできないように思われた。  ラヴェルは『夜のガスパール』作曲後、友人に宛ててこう書き残している、 「この曲は、悪魔の力によって作り上げた曲である。」 と。  智子は、ツェルニー四十番、五十番、新ラヴェル名曲選といった譜面を買い集めた。お金はなかった。すべて煙草代となって消えつつあった。  叔母は、ピアノを貸してあげましょう、と言ってくれたが、二ヶ月間それきり彼女からの連絡はなかった。仕方なく智子は、『夜のガスパール』の「水の精」を何度も繰り返し聴いた。「水の精」の中には、一節、智子の心を激しく揺さぶる旋律があり、その一節のためだけにこの曲を何度も聴いた。  洋一と連絡を取るため、智子は大学に連絡をした。厳しい個人情報保護法によって、彼の連絡先を得ることはできなかった。智子は会ったこともない後輩にメールを送った。幹事の上野君は事情をすぐに理解し、洋一が日本に帰ってきたら、必ず連絡すると返事を送ってきた。  智子は、あてもなく毎日を送った。朝起きては、洗濯をし、衣類を乾燥機にかけ、昼は何も食べず、夕方になると父と自分の二人分の簡単な夕食を作った。煙草をやめることはできなかった。なるべく、父とは口をきかないようにした。  そのうちに、ちょっとは働かなければ、と思い近所のクリーニング店にアルバイトの口を見つけた。週三日、四時間を限度に、という労働条件を提示した、再発は怖かった。そして、きちんと服薬し、週一回必ず通院した。  医師は、時間がかかりますね、と静かに言った。  智子は、洋一のことを考えた。  洋一には紀美子がいた。洋一は美紀子と付き合うようになってから、少しずつ大人になっていったように見えた。そして、大学院に合格していた。  智子は、自分には何も残されていないように思えた。  時折、上野君に日記のようなメールを送ったが、彼からの返事はなかった。  或る夜、智子は夢を見た。このところ、変な夢ばかり見ていた。或る人に向かってこう言っていた。 「今すぐ東京に行かなければならないのです。会いたい人がいるのです。そして、お金がないのです。三万円ほど貸して下さい。」  その人物は、それはできないという趣旨の言葉を言い、その言葉はそのうちに意味の分らない呟きとなり、智子は目が覚めた。耳元にその人の呟きの息が残っていた。  夢の続きで、早く洋一に連絡を取らなければとどきどきしたが、もう上野君に連絡済みで、彼からの連絡を待つだけなのだと気がついた。  一ヶ月ほどすると、クリーニング店の仕事にも慣れてきた。  或る日、先輩で五十をとうに過ぎている山内さんと話をしていた。智子は病気のことを隠さなかった。彼女は会話の途中で、こう切り出した。 「私は二回離婚していてね。子どもだけを生きがいにして生きてきたんだけどさ。でも、子どもは三人とも立派に育ってくれて、一人は東京で医者をしてるし、一人は京都で建築士をしてるし、もう一人は今家にいるけど、裁判所書記官を目指しているの。」  そうですか、と智子は穏やかに言った。  その日、家に帰るとお見合い斡旋会社のダイレクト・メールが郵便受けに届いていた。智子は、少し悩んだ後、それを屑かごに捨てた。そして、味噌汁を作るために鍋に湯を沸かし、煙草を一本吸い、洋一のことを考えた。 終