アルカトラズ (作:カリート) Part.1  芝生に腰を下ろしたオレのそばに鳩が数羽。  ほろっほーほろっほーとつぶやいて歩く。  5月の晴れやかな空は高く蒼くあざやかで、雲はしずかに流れる。  なんて暢気な日和なんだろう。  と、どこかでガキンッと物騒な音がして、羽根の手入れをしたり、芝の中の虫をついばんだりしていた鳩の群れに石が落ちてきた。鳩たちは追いたてられる弱者の背を見せて空に逃げる。かわいそうに! きっと天下無双のワルであるこの座子川様を狙ったのだろう。オレのことはいいのだ。こんなのどかな時間をぶち壊した蛮行のほうが許せない。オレは怒りに震えて――  「なにやってるでやんすか!!」  どこの方言なのかよくわからない一喝を受けたのは不当にもオレだった。  Part.2  鳩たちを一家離散させた石――ボールを追って矢部が走り抜け、そのスパイクが土と芝生を掘り起こしていくのを見ながら、オレはオレがなぜこの場にいて内野の方から「ふッざけんじゃねーよあのチャラ男」とか罵倒されるギザかったりぃ状況になってしまったのかを考えている。  高校3年になりたてのある日、オレは学校の屋上で、昼メシ前のごった返しに乗じてちょうだいした食堂のパンをほお張っていた。フランスだかどこかの国旗のマークがついたパン。あれはウマい。不良とは学校の屋上を棲み家とし、緑のフェンス越しに果てしない大空を眺めては叶わない夢を見るものだ。  昇降口の裏の壁にもたれていたら遠くで黄色い声が聴こえてきた。壁を背にして覗いてみると、同じ組の女子数人が『週刊パワスポ』という雑誌を開いてはしゃいでいる。何でもうちの野球部が春の大会でイイとこまで行きやがったので、女たちはパワフル高校野球部員と付き合えば自分が女子アナにでもなったか、もしくは女子アナになる資格があるかのようにガールズトークに華を咲かせていた。  1コ下の東条くんがカワイイ、投げているときの松田くんのまっすぐな瞳にドキッとする、そんな女学生らしい恋愛に保護欲とあこがれの混在した想いを、おたがいに冷やかしながら盛り上がる。どういうことだろうと俺は訝った。女子高生なんてもっと自己中心的だと思っていた。付き合う対象には自分の虚栄心を満たすイケメンか、さもなくば自分を愉快にしてくれるための多様な遊びをよく知っていてテンションが高く憂いの欠片もない男を選ぶものだと思っていた(ちなみにオレはどちらの条件も揃えている)。 オレはそれまでモテないのがふしぎで仕方がなかったが、答えが思いもよらず出てしまった。  野球だ! オレに足りなかったのは野球なのだ!  オレはあまりにアウトローすぎた。普通の女子の手が届かない高嶺の花でありすぎた。オレは謝りたい気持ちでいっぱいだった。この世のすべての女よ、すまなかった。オレはワルの美学を完璧に実践しすぎたあまりに、お前たちにとって触れられない荊の冠のごとくになってしまっていたのだろう。  だが、安心してくれ。美学のためにすべての女を不幸にするのはさすがのオレも忍びない。オレを諦めきれない女たちと付き合うことになるすべての男にも悪いってもんよ。野球だなんて、不良になれなかった良い子ちゃんがストレス解消にやる、オレの住む世界からすれば揺り籠のように安全なスポーツだ。ちょっと恥ずかしいくらいだ。しかし、人はわが身を堕して誰かのために生きねばならないときがある。  そのときは今。  野球部にしたところで、天下のオレ様が加入するとなれば願ったり叶ったり、救世主の降臨として泣いて喜ぶことだろう、高校3年のひと時だけ健全に過ごしたってのも良い思い出になるかも知れない、そう考えてオレは同級生で野球部の熱血漫才コンビ小波&矢部に入部の意を伝えてあげたのだった。奴らはふいの奇跡、慈悲深い神の啓示を眼にしたために、歓喜をうまく表現できずに顔を引きつらせていた。  Part.3  そうして救世主たるオレは今日、パワフル中央体育館の球場にい、他校との練習試合に出場してレフトという守備位置についていたのだったが、心地よい5月の陽気につい日光浴に興じてしまい、マウンド上1年の小枝豆太郎が投げたカーブはレフトへ弾き返され、それをオレはまるで他人事のように眺めていたところカバーに入った矢部にお叱りを受けつつあわやフェンスに到達しつつあるボールを追っている。  ボールを追ってオレより先を走る矢部。恐ろしく足が速い。オレも俊足(逃げ脚では決してない)には自信があったが、矢部の走りは全身が走るためにギアを切り替えたように動いているような走り方で、オレは追いつけずに足がもつれて芝生に顔を埋めた。 矢部がフェンス手前で捕球する。ランナーはすでに2塁を回らんとしている。みっつ、みっつーと遊撃手の声。こけたオレを一瞥もせず、矢部はステップで勢いをつけて「やんすッ!」、3塁へボールをスローイング。  寒気がした。  今度は投げるために体のギアが切り替わり、矢部は自分の体とは別の兵器のようになった腕に引っ張られるように、ふわり、体が宙に浮く。怖かったのはそれだけじゃない。矢部は人生幸朗みたいなメガネをしてガンダーロボほかあらゆるアニメが好きなオタク野郎だ。そんな矢部のメガネの奥に一瞬流れた享楽的な殺気、それとともに放たれた返球のまがまがしさ……。  矢部の送球は3塁ストライクの好返球でランナーはタッチアウト。攻守交替となった。  「座子川君」  ダグアウトに戻る途中。  「あ、あんだよ」  「寝てちゃダメでやんすよ」  「うるせー てめえマジナメかぁ!?」  「逆ギレしても形勢逆転はないでやんす」  「うう……」  「まーいいでやんす。  やっぱり補殺はサイコーでやんす!!」  と、矢部は足をじたばたさせ、ダグアウトに戻ると「見たでやんすか! オイラのレーザービームを。以後、オイラの好返球はガンダービームと呼ぶがいいでやんす!」といい、全員にガンダーの意味がわからないとつっこまれながらも称賛のハイタッチを交わしていた。  Part.4  矢部の目の色に見た狂的な何かを持っていないのは、そろそろ野球部を辞めそうな一年生ぐらいで、みんな通有するものだ。例えばマウンドに立った相手校のエース。試合序盤で3点ビハインド。集中力が切れている分、負けん気が露骨に顔に出ている。座った眼、噛みすぎてべろべろになった舌くちびるの皮、速い球を投げようという意識ばかりが先行してばらばらになったフォーム。崩れたフォームからの投球はさらに疲労を増してゆく。  野球はスポーツで、スポーツは遊戯であるはずで、遊戯は「いち抜ーけた」と言えば止められるべきなのに、相手校のエースはどうしてこんな死に物狂いの形相をしながら殺気に似た感情を隠しもしない、そしてむしろいよいよもって面白くなってきたと言わんばかりにオレに向かってセーフティバントのサインを出す監督や、「ピッチャーへばってるー」「座子川 左投右打ってふざけてんのかー」「いやあれは大まじめ」「えー」「ええー」とか、敵味方かまわず野次り倒すチームメイトを見ていると、野球が良い子ちゃんの安全なスポーツだなんて言ったやつを恨みたくなる。こいつらこそ真の極悪人じゃねえか。社会公認の不良少年だ。もっともらしい顔してるぶんタチが悪い。そういや小中学校時代、このオレをして逆らえなかった猛田工務店のせがれは野球の名門帝王実業で野球をしてるって話だが、さもありなんと思うぜ。  2番、レフト、座子川――オレは何度もバントの体勢をする。ほんとうはバントなんか出来たためしがない。  救世主たるオレは入部したその日に硬球の固さとバットの重さにボルテージは最低潮に沈んだ。すぐにでもオサラバしたい気分だった。守備では砂を撒き散らすゴロは地を這う獰猛な爬虫類のようで怖え。バッティングにしても、練習のときすらエース松田進一の球はクソ速くてかすることも出来なかった。オメーみたいな半端モンにオレのまっすぐが打たれてたまるか、松田が吐き捨てるように言いやがったのには温厚なオレもイラッとしたが、その日は喧嘩ご法度だったからオレ様も許してやった。  ともかく、救世主であるオレも嫌気が差してきたころ、オレにバントによる揺さぶりをやってみたらどうだ、とおこがましくもアドバイスして来たのはキャプテンでもある小波だった。あいつはキャプテンらしく、オレの俊足を一番早く見抜いた。  『座子川。セーフティバントやってみろよ』  『なんでオレが』  『足速いじゃないか。もし直線勝負なら、矢部君と互角じゃない』  『へっ、さすがキャプテンだぜ。オレ様の才能を見抜くとは』  『へへへ まあねー。  食堂から出てくる座子川とすれ違うとき、早いなあと思ってたから』  そのとき小波の眼がキラリーンと光った気がした。  (コイツ知っている!)  思ったオレは、不用意に退部することもできなくなり現在に至っているのだが、その間、投手を疲れさせるためだけのセーフティバントと、プレッシャーをかけるためだけの大きなリードの取り方の練習だけは飽きるぐらい何度もやった。どっちもブラフだ。目的自体がせせこましい。  相手校エースが足を上げた。カウント1−3。もう勘弁してやれよ、と思うくらいに気力だけで投げているのがわかる。なのにオレはサインに忠実にセーフティバントのしぐさをしてはバットを引く。ボールがリリースされた、ちょ、おいボールがどんどんでかくなって――遠くで「わっ」と溢れたような悲鳴が聞こえ――、オレは思いっきり体を捩じって顔面すれすれの暴投をよけた。  Part.5  「惜しかったな」  ユニフォームについた砂をはたきながら一塁に着いたオレ。冷静に話しかけてきたのは2年の東条小次郎。今日は数人の1年部員の実力査定も兼ねた試合のため、不動の4番である東条も非番で一塁ランナーコーチをしている。主審以外の審判はみんなパワフル高校の部員だった。  「言い方おかしいだろ」  「悪いな。主観が入った」  さらっと毒舌。  「ギザうざって−やつだ。死ね」  「いや、貴様にしてはよくよけたと思う」  「おい」  「どうした」  「……わざとだったのかな」  「ブラッシュボール」  「そう」  「わからないな」  「否定しろよ」  否定しろよ。めちゃくちゃ危なかったんだぞ。あんなん当たってたら顔面変形しちまう。  「ただ、ボールは顔面・頭部・ヘルメットに当たらず、さらに審判が危険球をジャッジしなかった。つまり故意ではないということだ」  そりゃそうだ。論理的に一貫している。だけどオレが聞きたいのはそんな無罪判決の主旨みたいなもんじゃない。ブラッシュボールなんて頭から撥ねつける高校生らしい爽やかな怒りだ。  東条は未熟そうな審判員に目を細めつつ、続けてこうささやいた。  「座子川」  「呼び捨てかよッ」  「内野ゴロだったら、ゲッツー崩しをしろ」  「……」  「練習試合で一度やったほうがいい。スパイクの刃だけ向けないように注意してな」  「オメーそれでもスポーツマンかっての」  「俺がスポーツマンだよ」  東条は悪びれもせずに言い放った。オレはまた、矢部の送球のときと同じ寒気がした。 Part.6  大きなリードを気にして投手は執拗に牽制球を投げてくる。相手の癖はさっき矢部に教えてもらった。牽制球のとき、知らずしらず口の端が動くらしい。オレは投手のくちびるだけを見ながら離塁帰塁を繰り返す。超変態チック。  相手校の投手の壊れてしまいそうな危うげな表情は、格闘ゲームの瀕死状態体力のバー真っ赤ってな感じだ。なるほどこれはお互いが了解済みのゲームなんだ。相手の気力体力を削っても責められない。でも、ゲームにしたところでお互い失うものが多すぎる。  何を失う?   さあ、何かはわからねえ。だけどそれは、お互いに得る何かと同価値のものだ、きっと。  オレは錯覚に囚われはじめる。今オレがいるのはパワフル中央体育館の球場ではなく野球をするために用意された離れ小島なのだ、という錯覚。どこかの国にある四方を水平線で囲まれた罪人の島のようなイメージ。そしてこいつら高校球児にとって、球場がその罪人の孤島だろうと、何の差し支えがあるだろう?  電光掲示板の時計は、一日のうちの現時点を刻むというほんらい役割をまるで為していない。10時からはじまった試合をもって時計は時計である存在をかろうじて主張し、開始から現時点までの時間をその肥え太った体で指し示している。限定的な時間の中で、こいつらは相手が疑似的にくたばることだけを目的として全精力を傾けるんだ。いったいそこに何があるのかも知らない、知ろうともしないで。  Part.7  打席にはキャプテンの小波が入っている。練習試合だろうと1年生の実力査定だろうと負けたくなーいと小波が言った結果、1番センター矢部、3番ライト小波は公式戦そのままだ。闘志むき出しに投手を睨みつける小波。小波の瞳にも、寒気を覚えさせるあの殺気が宿っている。  それは世界でもっとも楽しそうで優しい殺気。  矢部も東条も同じく持っているもの。  7度の牽制のあと、投手は意を決したように投げた。小波は豪快に振ってボテボテのサードゴロ。なあーー!! 小波の悔しそうな呻きが左耳に入ってくるのを感じながら2塁に猛然と走っているオレには小波のまなざしの色が焼き付いて、それと二重写しに猛田慶次が顕れる。暴れん坊で腕っ節が強くて、勝負ごとはどんなにつまらないことでも絶対勝つまで諦めない猛田は、オレにとって恐怖の対象であると同時にあこがれの存在だった。  (何がよくて何がいいことなのかなんて見当がつかねえ、その点で俺もお前も同じバカだ。だけど、俺がお前と違うのは度胸だ。面白そうならとりあえず何でも食ってみるところだぜ)  サードからの送球をセカンドが受けてアウトになったオレは、まさに一塁へ投げんとするセカンド目がけて走っていく。今度は猛田慶次の顔がそのセカンドに重なる。そのとき、セカンドの顔は殺気立ち、同時にどんなに優しかったろう。まるで休日、「ようよう!」、ばったり気のおけない親友に会えたような顔でオレを見た気がした。  オレは嬉しさと気恥ずかしさに、そいつに向かってスピードを落とさずスライディングを決め込み、セカンドのそいつはスライディングをものともせずオレの顔面すれすれに送球をした。オレは顔をのけ反らせて倒れる刹那、晴れやかで退屈な空と、列を組んで渡る鳩の群れを見た。  ――もうこの島へは戻ってこないんだろな。  そんなことをぼんやり考え、オレは内野の黒い土に突っ伏してユニフォームを汚した。                               (了)  * * * * * <投票者のコメント> 『秀逸すぎる。不良少年が確かに感じた、一瞬の青春。必読である!』