星に願いを:カリート作  1.  よりにもよって何でこんな真夜中に、天敵ともいうべき人間と顔を突き合わさなくてはいけないのだろう。三条院麗菜はとてつもなくなげいた。  麗菜は借りたままで観ずにいた映画のDVDが、返却期日なのを夜になって気づいて、これは一大事、とレンタルビデオ屋へいちもくさんに駆けこんだ。  そんな、一日分くらいなら延滞料を取られてもいいじゃない、と人は言うのだろうけれど、彼女の家はいわゆるお金持ちなので、つまらない出費を犯罪のように憎む心がまえは幼少期より形づくられていたのだった。  観てないんだから返金してほしい気分ですわ、と口には出さないが麗菜は思った。受験勉強のあいま、気分転換のために借りたのに、まったくよけいなエネルギーを使って二重に損したといきどおった。あまりにムカムカしたので、コンビニで温かいレモンティーを買い、駅前の三角公園のベンチで息をついた。  11月も中旬、秋も深まって、吐息はかすかに白くただよう。  そうしてレモンティーの温みを心地良く感じていた麗菜は、気分もいくらか元に戻ってさあ帰ろうとしたのだが、腰をあげようとしたときに、声をかけられた。顔を見ていないのにもかかわらず、とっさに「マズイ」と思ったのは、長年つみ重なった腹立たしい気持ちによるものなのだろう。  「あれー麗菜じゃん。めずらしいね、もしかしてナンパ待ちとか?」  「ち、ちがいますわ失敬な!」  「アンタってほんとにジョーク通じないね」  しまった、またいつもと同じだ、橘みずきのペースにはまっている、と麗菜は自分がイヤになってきた。  みずきはファーのついた白のジャケットに手を突っこんだ格好でへらへら笑っている。下はジーンズとスニーカー、それからお気に入りの月のネックレスを胸にさげており、手に持ったバッグはブランド物ではないが洒落ていて、全体とよく調和していた。  駅から反対側から来たところを見ると、どうやら塾帰りのようだ。  はじめに言ったとおり、麗菜にとって橘みずきという存在は天敵なのだった。彼女たちはともに高校3年生で、中学時代からことあるごとに衝突していた。衝突、というのが少し激しすぎるなら、いがみ合っていたというのか、ともかく気が合わない。  髪をロングに保ち、利発な印象の眼鏡がよく似合う麗菜は外見にそぐって、いかにもお嬢さまといった性格なのだけれど、それに対してみずきは開けっぴろげな幼さを残していて、その活発さといえば爽快なくらい傍若無人だった。麗菜はクラスでも超然とした位置にいて、みずきはクラスの輪の中心にしぜんと君臨するといったふう。くわえてこのタイプのちがうふたりは人一倍に我が強いので、ひんぱんに揉めてなかなか収集がつかなかったものだ。  だから、その夜、みずきが麗菜に「ねえ、ちょっと付き合ってよ」と言ったのはとてもめずらしいことだった。  「なッ! こんな真夜中に」  「いいじゃん。アンタもひまなんでしょ」  「どこに行くつもり?」  「んーウチの学校」  「ふう、なんだ学校か……って学校!?」  これだ。これだから橘みずきはおそろしい。麗菜はいまさらながらに頭をたれた。   2.  お金持ちの家の娘である麗菜にとって、常識はもっとも大事にされるべきものである。なぜなら彼女の家をお金持ちたらしめ、麗菜をお嬢さまたらしめるのは常識の力なのだから。  しかし橘みずきといえば、いともたやすく常識から外れてしまう。それが麗菜には信じられないところで、みずきに噛みつくのは、もとを辿ればすべてその突拍子のなさ、型破りな発想への反応なのだ。  これでみずきがまずしい家の出ならば麗菜も合点がいって気も安らかなのだけれど、事実はそうではなかった。みずきの祖父は名高いタチバナ財閥の会長さんで、麗菜の通っている高校はまさしくそのタチバナ財閥が経営している聖タチバナ学園、ただのお金持ちである麗菜の家とは地位も名誉も個人資産額もはるかに上だった。  振りかえっておそれる物がなにもない人間は、まずしさの底を舐め尽くす人間のあの背水の陣めいた野蛮さ猛々しさと似たようなしたたかさを持つようになる。みずきはそうした育ちの良い野蛮人のひとりなのだけれど、そのことがまだ麗菜にはわからなかった。  「たまには夜の学校もいいでしょ。ねッ?」  わからないといえば今日のみずきのふるまいもだ。いつもはこんな頼み方をみずきはしない。いつのまにか麗菜がその思いのままに進むよう、おどしたりすかしたりするものだ。今日はわずかに余裕のなさから来る不用意さがあった。  麗菜はやり返す絶好の機会だとばかりに言った。  「あら、非行のお誘い。まっぴらごめんですわ」  「むむ」  「まあ、あなたが、どうしてもって言うのなら行ってあげないこともないのですけど」  おほほ、と麗菜はみずきの出方を楽しみながら高く笑った。自分でもすこしいじわるだなあと思ったけれど、日ごろのみずきに比べればマシだと思ってもいた。  みずきは、あまりにがら空きの部分を見せてしまったことを恥じて、顔を赤くした。しかしすぐに冷静さを取りもどした。 「そうだよねー、麗菜ちゃんはまじめだもんね。まじめにかこつけて何もできない子、じゃなくてほんとうにまじめだもんねーそりゃそうだよねー」 みずきはからかうように優しくいった。こんどは麗菜がカッとした。が、何とか耐えた。  「……ふふ、なんとでもおっしゃって」  麗菜はレモンティーを公園のゴミ箱に放った。  「それでは失礼させていただきますわ。お相手してあげられなくてごめんなさいね」  くるーり、麗菜は黒のトレンチコートをはためかせてみずきの背を向ける。勝った、ギャフンと言わせてやったわ、ざまあ見ろヌハハと今にも笑い出したくなるほどの高揚感で、麗菜はちょっとむせた。  みずきはきっと眼をひん剥いて怒り狂っているのだろう、と麗菜は予想していた。罵声のひとつや二つ飛んでくるものと思っていた。しかしちがった。みずきのセリフはしんとするほど静かだった。  「いいの」  麗菜が驚愕して振りかえると、そこには微笑しながら眼の笑っていないみずきの立ち姿。  「もう一回聞くよ。ほんとにいいの?」  顔が蒼ざめるのがわかった。いいはずがない。麗菜の脳裡に、自分だけでなく、橘みずきをおとめようとしてやり返されたすべての者の手酷い末路が、連続したスナップ写真となってあらわれ、行きすぎた。  学長の孫娘であるみずきならば内申書の書き換えくらい造作もないことだ。もしくはもっと個人的で凄惨な仕返しが待っているかもしれない。そこまで思いいたれば返事は決まっている。  「す、すこしくらいなら、かまいませんことよ」  「よろしい」  みずきは大儀そうにうなずく。しまった、またいつもと同じだ、と麗菜はまたまた自分がイヤになってきた。   3.  それで、学校で何をするつもり? しぶしぶついていく道すがらに聞けば  「今日ね、流星群が見えるらしいの」  と、みずきは答えるのだった。このあたりは人工的な光でいっぱいでしょ、星もきれいに見えないし、夜遅くまで入れるような建物はないしあるにしたってバカなカップルでいっぱいだからうんざり、その点、学校の中庭あるじゃん? あそこは少し高台で街の灯りも届かないから流星群もよく見えるはず、まあアンタも私に感謝することになるよきっと、と、最後によけいな一言を付け加えるのを忘れず、みずきは手提げバッグをぐるぐるまわしながら言った。  麗菜も、たしか流星群のニュースを新聞で読んだように思ってなるほどと思ったが、みずきはそんなにロマンチックな情緒の持ち主だったかしら、と釈然としない気持ちのまま、いつも見なれている集合住宅のわき、ぬかりなく舗装された道をずるずる歩いて、あの聖タチバナ学園前の、アール・ヌーヴォー風なつまりわけのわからない近代的なデザインのバス停をすぎ、タチバナ学園の、赤橙の夜に照るレンガ塀のそばの道を伝っていった。  ついに校門まで来てしまった。風のない夜で、しかし晩秋の寒さはコートとフレアスカートといういでたちの麗菜にはつらい。手に吐息をふきかけつつ肩をちぢこませている麗菜を尻目に、みずきはとても快活だった。  「よーし。さあ、さきに門よじのぼって」  「あなたが行きなさいよ」  「いいから早く」  問答無用だった。麗菜はイラッとしながらも従った。  ふしぎとみずきの物言いは、強引でありながらその強引さに人を安住させる心地よさを持っているのを麗菜は知っている。それが人徳なのかはともかく、学長の孫娘であるだけで一年生から生徒会長に就任しても、あとで誰も異を唱えなくなったのは、みずきのふしぎな魅力によるものにちがいない。そんなことを、物々しい校門を息も絶えだえによじ登りながら思ったのだった。  「はあ、はあ。ほら、次はあなたよ」  地面に飛びおりて麗菜はふりかえる。すると背後から声がした。  「どっちに向かって言ってんの?」  「はうわッ!」  叫ぶ麗菜にみずきにんまり。  「夜警かと思ったじゃない! あなたどうやって」  「わざわざ校門のぼらないでも、奥にいったら低い欄干があったの、気づいて」  いーっしっしと笑う。こういうところはホントに我慢ならないと麗菜は思うのだけども。  4.  玄関ホールの手前より右、桜が橋のように頭上をかける坂道を行くと、校舎の側壁をぬけて、講堂とその地下に全校生徒用のマルチメディアルームのある建物につく。  そのまたわきに入ると、ひどく頭でっかちな、三角屋根の食堂のテラスがある。目的地の中庭はテラスの横にもうけられていて、いつもは生徒たちが場所を牽制しあいながら、その広い長方形の外っ側でキャッチボールやバトミントンに興じる、たわいないお喋りに花を咲かせる、または食後のデザートとしてプリンやアイスをベンチでほおばるのだった。  それが今は人の影もなく、まだやわらかい秋風が吹いて、かすかに芝がそよぐだけ。  「うん。思ったとおりのパノラマだね」  みずきは満足そうだった。警備員に見つからないか、ずっと気ぜわしくおろおろしていた麗菜も、そのことばには同意せざるをえない。  しんとして夜露に濡れる芝生の向こう、中庭から見晴らせる街は眠りにつこうとして、そこここで灯りが滅していく。そんなまばらな街の灯から目をはなせば、雲ひとつない夜空に、たしかな位置をしめて秋の星くずがまたたいていた。月にも人工の光にも邪魔されない星たちはくっきりとしており、それはショーケースに並べられた宝石を、思いやりのある盗賊が夜空に託そうとふり撒いたような輝きをはなっていた。  「きれい」  麗菜はつぶやいた。何だか、きれいと言わなければ景色との均衡が保てなくなるようで、必要にかられた気持ちから麗菜はつぶやいた。  「ほーらね」  みずきは言ったが、恩着せがましくは感じなかった。  それからみずきは芝生の真ん中に歩いていき、腰を落ち着けて星空を眺めた。麗菜はおごそかな景色の中に入りこんでいくみずきの姿が、あまりに一人ぼっちに見える。そんなふうに見えることにびっくりして、変な危うさを感じて、麗菜はみずきのあとを追った。  「もうそろそろなはず」  みずきはひざを抱えて空を見ている。スカートが濡れるのがいやだったので、麗菜はみずきのそばで立ったままでいた。  星が巡っていく。みずきの待ち遠しそうな顔。いったい何だって、こんな表情をするのだろう。いつだってひどく現実的な橘みずきらしくない、麗菜は倒錯した印象を持った。  「ここに来るまでに降ったのかも知れませんわよ」  「麗菜がそう言うんなら、まだなんだろうね」  「あなた……」  「まーいいじゃん。せっぱ詰まらなくても勉強、大丈夫っしょ」  めずらしく褒められたので、ちょっぴり嬉しくなった自分を麗菜は恥じた。みずきにしたって同じくらい頭がいい。この前の模試でも官僚大学にB判定だったと聞いた。  「あなたは」  しかしB判定の結果が出ても、みずきは誇らしげにするでもなく、しようがなく志望の大学として書いたのだとでもいうふうに、ろくな関心を示さなかった。そもそも勉強の話題をすすんでしない彼女だから、どういった進路を描いているのか、麗菜には計りがたい。  「私は明日だからねー」  みずきは空を仰いだまま返した。  「あした」  「そう明日」  「推薦入試?」  「は、いちおう受けるよ。イレブン工科大。でも本命は明日」  「よくわからないのだけど」  「アンタ……仮にも野球部のマネージャーじゃないの?」  うわあ呆れたと言って、さもあたりまえのことのように、橘みずきは教える。  ――明日はドラフト会議の日!   5.  言われてみれば私はマネージャーだったな、と麗菜は気づいた。  いまさらに麗菜が思い出すのもしかたのないことで、何も率先してマネージャーを引きうけたわけではなく、橘みずきの思惑のもと、騙されてなったようなものだったから。責めを負ういわれはない。麗菜のしごとは休憩中にタオルを配るのみだった。  麗菜がマネージャーになったのは高校2年の春からで、それは橘みずきのほか生徒会の構成メンバーだった三人が途中入部したのと同時だった。  当初、みずきはタチバナ財閥の後継者という立場から、学長である祖父の黒い目もあって入部できずにいた。みずきにはお姉ちゃんがいて、橘聖名子といい、いまは学校に教育実習生として働いているのだけど、彼女は祖父のパターナリズムに耐えられず家を出てしまった、そのため祖父の期待は次女のみずきに集中していたのだ。  事情が事情なので、みずきは正面切って祖父とぶつかるわけにもいかない。そこで策を講じた。ひとりの素質ある部員に目をつけて、彼を(名ばかりの)フィアンセとした。彼は祖父のお眼鏡にかなう器の大きい人物であって、将来はプロ野球の超一流選手になる、私はそれを見届けたい今からそばにいて学びたいのだ、というように、自分が野球をやるためにもっともらしい口実を作りあげ、祖父に入部を認めさせた。  認めたとはいえ、みずきのわざとがましい話をおいそれと信じるほどみずきの祖父は耄碌しておらず、ひきかえに厳しい条件を突きつけた。フィアンセの彼が高卒でプロになれなかったら自分の決めたいいなずけと結婚しろという内容だった。結果的にみずきは、この明らかに分の悪い条件をのんだ。  つまり明日のドラフト会議で「彼」が指名されなければ、みずきの自己決定権はなくなる。みずきの祖父の期待にこたえ、意向に沿って生きることになるのだった。  ちなみにウワサの彼といえば、思いきりがいいというには確実性のない打撃と、本能的というよりむしろやけっぱちなフィールディング、アグレッシブと評するにはあまりに無謀すぎる走りをする選手だったから、素人の麗菜から見ても望みはうすいと思われた。    6.  いまさら足掻いてもせんないことだ。だからこそ今夜こうしてみずきは、子どもにも似た変な熱っぽさをおびて、小さく丸くなって流星群を待っているのだろう。  「あーあ。まだかなァ」  月のネックレスを握りしめたままひとりごちるみずきが、麗菜の目にはとてもか弱く映った。みずきの事情を知っているとはいえ、積年の恨みつらみはぬぐいがたく、麗菜は千載一遇のチャンスとばかりに、みずきをなじりにかかった。  「なんて虫のいい話なのかしら」  とげをふんだんに含んだ口調で麗菜は言う。  「はっ」  みずきは麗菜をきつい表情で見上げた。  われながら、えげつないことを言ってしまいそうだと思った麗菜は、しかし、今までみずきから受けたからかいやイタズラを振り返って、これくらいは言われても当然なのだと非難の気持ちをゆるめなかった。  それに、みずきの考えに憤っていたのもほんとうだ。  ただのお金持ちの娘である麗菜にとって、みずきの希望はわがまま勝手で、名門の出という現実からの甘ったれた逃避だとしか思えなかった。多少のやっかみがあったのを自覚していないにしても。  「だってそうでしょ。あなたの置かれた立場はかわいそうかもしれないけれど、これまでその立場のおかげで良い思いだってしてきた。服や高価なお菓子を買うお金に不自由せず、財閥の麗嬢だって虚栄心は満たされて、プレッシャーがあるにしたって勉強に励むことのできる恵まれた環境だった、そういうこと、全部、ちがうって言いきれるの?」  「な、なによ。いきなりガミガミうるさいなー」  「どうなの」  「……そ、それは」  「ほら」ことばに詰まったみずきを見下して、麗菜は得意げ。「そんなあなたが今になって、野球をつづけたい、プロ野球選手になりたいなんて大それた夢見てるんじゃなくてよ」  「……るさい」  みずきは怒りをおさえるように言ったのを、麗菜は聞かずに、ますます調子づいて「ほんとうのこと」を露わにしていく。  「夢が叶ったにしたって、あなたのおじいさまがどんなに悲しむかしら。さらにいえば、お姉さんはいよいよ立つ瀬がなくなる、お前が最初にそむいたからだって、ずっと責められるのじゃな」  「うるさいうるさい!」  麗菜の言葉じりをかき消すように、うつむいたまま、みずきが叫んだ。立ちあがって、バッグを振りまわして麗菜をべこぼこ叩いた。  「こんのおお性悪女! アンタなんかといっしょに来るんじゃなかった! 帰れかえれ!」  バッグから逃れながら麗菜はけたけた笑った。今度こそ勝った、そう思ったのだ。  「ふん。いい気味ですわ、まったくあなたと言った、ら」  しかしみずきはそれ以上追いかけて来なかった。拍子抜けして見やると、みずきは肩を震わして立っていた。暗闇で顔ははっきりわからないが、みずきは明らかに泣いている。  「わかってるよ、それくらい、わかってる。けど……」  7.  麗菜は狼狽した。ああ、ちがう、私はこんなのを望んでいたわけじゃない。  みずきがそのまま座りこんですすり泣いているのを見ると、はげしい罪悪感が冷たく胸に広がっていく。野球にとらえられた経験のない麗菜には、みずきの野球にたいする心のこもりがわからなかった。  しかしこれだけはわかっていた、――言ってはいけなかった、他人が言ってはいけないことを私は言ってしまったのだ、それはほんとうに心を傷つけることだ、とは。  麗菜は後悔の念でいっぱいだった。仕返しにしたって、みずきは心底から人を傷つけるようなことは言わなかった、少なくともそんなつもりはなかった。誰もが深いところで理解していた。みずきはどんなカタチであっても人に触れよう、近づいて大きな声を交わそうという気持ちでいることを理解していた。  中庭の芝生と、かすかな街の灯と、厳粛な星空のあいだ。  みずきが沈んでいってしまう。遠い、みずきが遠い、麗菜はそう感じた。  ほんとうは気づいていたのだ、どれだけみずきがつらいか。なのに、自分はつまらない恨み、同時に楽しい想い出でもあるもの――をいいわけに気づかないふりをした、そのうえ、水の底に沈んでいるみずきのかなしみを、浅はかな私は水面を乱すようにして逆なでたのだ。  麗菜はみずきのそばに、ひざをくずして座った。夜露にぬれるのも気にせずに。  「ごめん」  と、謝った。  「帰れって言ってんでしょ」  声は力なくかすれている。ちらりと麗菜のほうを向いたみずきの瞳は、目がしらに涙をためて猫のよう。  「わかってないくせに。なにがわるいなんてさ」  「いいえ、ほんとうに」  ごめんなさい――。  もう、麗菜も鼻声になっていた。  「あっ」と、かぼそい声をあげ、みずきは瞳をふせた。それからまた少し泣いた。  麗菜は申しわけなくもいじらしくなって、みずきの頭を優しくなでる。うるさそうにみずきは首をふるったけれど、しばらくすると拒むこともしなくなって、麗菜を受けいれた。  忘れられたような夜空のもと。天球に踊っていた星々のいくつかは帰ろうとしている。帰れない麗菜は、しょげるみずきの頭に目をやりながら何というでもなく祈った。それよりほかに何ができたのだろう。  ――どうか、この子をとりまくすべてが、よりよく結びついて、この子に幸せをもたらしてくれますように。  麗菜は強くつよく、あとでみずからが驚くほど純粋に、おだやかに、わずかなてらいもなく、この天敵のために願いつづけた。   8.  そうして三条院麗菜は知らずにいた。次の日が来たってぜんぜん知らないままでいたのだ。  あのとき。みずきの可愛いつむじを撫でてながめているあいだ、神様はふたりを御手に包まれ、その絢爛たるベルベットの衣裳に、そっとひとしずくの涙をこぼされた。  そしてそれは、まばゆい光のすじを引く流れ星となって、ひとつの願いを乗せていった、ということを。