にせもの(Mr作) 「私の恋人はね、偽物なんだ」  大原さんは、そう言うと席を立ち、勘定を持っていった。 「ここまでの分は私が奢るよ。それじゃ、おやすみ」  レジで金を払うと、大原さんは手を振り、店を出ていった。俺は唖然としたまま、カウンター席から店の出口を見続けていた。 「お客さん、大丈夫ですか?」  カウンター越しに店の主人が声をかけてくれた。俺はそれで我に返り、ああと息をつく。ジョッキの中のビールを一息に飲み干そうとしたが、見るともうほとんど残っていなかった。 「もう一杯お願い」  と主人にジョッキを差し出す。  無言で受け取った主人は、曖昧な微笑みを浮かべながらジョッキにビールを注ぐ。コハク色の上に、白い泡。  俺は渡されたジョッキを傾け、一気に喉に流し込んだ。 「大原さん、奥さん亡くしてからしばらく元気なかったんだけどね」 「はい?」  主人が不意に話しかけてきた。 「最近は元気になって、いい本も書くようになって、人気も出てきたんだけど、たまにあんな事を言うんだ」  この店は昔から大原さんが常連になっている店、という事で俺も紹介してもらった。主人とも仲がいいのだろう。 「恋人が偽物って…どういう事何なんだろうね」  主人は寂しそうな顔をしていた。とても、心配している顔だ。 「勘定お願いします」  俺は席を立ち、主人に言う。 「いいよ。ビール一杯だけだし、ツケとくからまた来て下さい」 「…分かりました。ありがとうございます」  そして俺は店を出た。入れ替わりに入ってきた客に、主人がいらっしゃいと声をかけたのが聞こえた。  その日、俺は大原さんの家に招かれていた。少し早めに俺は大原さんの家に着いた。早いくらいがいいだろうと俺が家に近寄った時、女性が家から出てきた。三十歳前後だろうか。中々の美人だ。  彼女が、大原さんの「偽物の恋人」なのだろうか…?  そんな俺の視線に気付いたのか、彼女は俺に怪訝な顔を見せた。 「あの…何ですか?」 「あ、いや、大原さんを伺うつもりで…いますか?」  ああ。と言った納得の表情を見せると彼女は短く「いますよ」と答え、去って行こうとする。  俺は大原さんの言っていた事が気になり、つい、彼女を引き止めてしまった。 「あなたは、誰なんですか?」  彼女は振り返りもせずに答える。 「おカネをもらって、あのヒトのコイビトをしてるのよ」と。  そのまま去っていく彼女の後ろ姿を、俺は見送った。  そういう事なのか、と俺は呟いた。  通されたリビングでは、既に机の上に夕食が用意されていた。 「なんか、ホントありがとうございます」  俺は頭を下げ礼を言う。大原さんの手作りだろうか? そう聞いてみると大原さんは声を立てて笑った。 「料理は全く出来ないんだよ。だから、人に頼んで作ってもらったんだ」  家に入る時に擦れ違った人か。と聞くと、大原さんは少し驚いた顔をして、しかしすぐに納得した様子で頷く。 「擦れ違ったんだね」 「はい」  しばし流れる沈黙。  俺は、つい口を滑らせた。 「偽物の恋人…」 「ん?」 「あ、いえ。さっき会った時に、おカネをもらって、コイビトをしてるんだ。と言ってたんです。前に…大原さんがそんな事を言ってたから、気になって…」 「そうか…」  大原さんは、静かにうつむき、しばらくしてから顔を上げた。 「ご飯を食べようか。せっかくのご馳走を食べないのはもったいないからね」  はい。と俺は返事をし、箸を取った。  食べている間は当たり障りの無い話ばかりだった。  ご飯を食べ終わり、しばらく俺は部屋に一人になった。部屋を見回していると、写真立てに飾られた一枚の写真が目についた。  大原さんが先程の女性と写っている写真だった。  二人とも、満面の笑顔を浮かべている。しかし、事実を知ってしまった今、俺にはその笑顔を素直に受け止める事は出来なかった。  ツクリワライ。 「お待たせ…ん?」  帰ってきた大原さんは、俺が見ている写真に気付く。 「その写真が、気になるのかい?」  そう言うと、大原さんは写真立てを手に取り、その写真の後ろからもう一枚の写真を取り出した。  差し出された写真。  同じ写真だった。  いや、正確には違う。背景が微妙にずれているし、何より、カラーではなくセピア色だ。どことなく古くさい。  しかし、少なくとも女性は、同一人物に見える。 「妻だよ。五年前に死んだ妻の、若い頃だ」  大原さんの奥さん…? しかし、この女性は見間違うことなく先程の女性だ。 「そっくりだろう?」  ええ。と素直に答える。見れば見る程、見間違えそうだ。  それで、か。大原さんと女性の関係は、その事実によって成り立っているのか。 「妻と同じ服を着せて、同じ所で写真を撮るんだ。そうするとね、彼女は笑うんだよ」  大原さんは力なくうつむいた。 「妻と同じ笑顔を見せてくれるんだ」  返す言葉が無かった。  写真に写る二人の笑顔の奥に、喜びや楽しさといった感情を見る事は出来なかった。  それは、大原さんの家に招かれた数日後の夜。俺は家への帰り道の途中だった。  ふと目を凝らすと、電信柱の陰に人影が見えた。誰かを待ち伏せしてる様子だ。しかし気付いてるならわざわざ出てくるのを待たなくてもいいだろう。 「そこに隠れてる奴。誰だ?」 「…」  ゆっくり、そいつは姿を見せる。大原さんの『恋人』だ。 「気付かれてたのね」 「常に気を抜けない仕事をしてるもんでね」  彼女の眼光は鋭い。俺に不審感を覚えているのだろう。 「何の用だ? キョウコさん」  彼女の名前を呼んだ。しかしそれにはほとんど動揺しない。想定の範囲内? 「名前まで知ってるの…。あなた一体何者?」 「さあねえ…そういうキョウコさん、あなたは何者だ?」 「あなたは教えてくれないのに、私には教えろって言うの?」  まだ余裕がある様子だ。  俺は余裕のある微笑を見せてやる。彼女はようやく少し怯んだ。 「な、何…?」 「キョウコ…鏡の子と書いて鏡子」  彼女は目を見開く。 「あなたはカネをもらってコイビトをしてると言っていた。だが、違うな。あなたの目的は他にある」 「探偵気分のつもり…?」  声が震えている気がする。図星という事だ。 「遠からずも近からず、かな」 「なら、何なの? 私は一体何者だと?」  彼女はその言葉で余裕を取り戻したように見える。まだ分からないのか。 「カガミビト。鏡の中に住み、外に住むオリジナルの姿を映し、彼らには自分の姿が無く、常に嘘である存在。オリジナルの死ぬ間際の願いを聞く時に限り、オリジナルの姿で外に出る。つまりあなたは大原さんの奥さんの願いを聞いたんだろう。違うか?」  俺がまくしたてていくる内に、彼女の顔は序々に青ざめていき、色を失っていった。 「何故…何故それを…!」  彼女は声を張り上げる。 「あなたは…一体何者なの!」 「自分が一体何者かなんて、分かる奴がいるもんか」  俺は本音をぼやいた。結局、大抵の人間や存在はそんなもんだ。 「回収者?」  俺の言葉を無視し、彼女は俺の役目を口にした。要するに世に出たカガミビトを鏡の中に戻すのが俺の仕事。  それに気付いた彼女は、呪訴の様に言葉を紡ぐ。 「…あのヒトに私が何の感情を持っていると言うの…私はオリジナルの願いを叶えてるだけ…」  彼女は俺を睨みつけると、クルリと背を向け早足でその場を離れる。その背に俺は想う。  存在が偽物だからって…嘘をつかずともよいのに…。  俺はカガミビトを哀れんだ。 「大原さん、話があります」  珍しく今日は俺の方から大原さんを誘っていた。 「キョウコの事かい?」  大原さんは勘が鋭い。俺は頷いた。 「あなたに話す必要があるんです。それが俺の役目だから…」 「話してくれ」  大原さんは覚悟を決めたのか、短く言い切った。 「カガミビトという存在がいます。鏡の中に住み、人間や他のものの姿を自由自在に映しますが、自分たちの姿はありません」 「…」  大原さんは黙って、ジッと耳を傾けている。俺は続ける。 「カガミビト達は、オリジナル…つまり、その姿を映す人間の願いを聞く事があります。ただしそれは、オリジナルが死ぬ間際の時に限られます」  一息つく。大原さんは変わらない格好で話を聞いている。こんな突拍子もない話を、よく真剣に聞いてくれる。 「そして、オリジナルの願いを叶える時に、彼らは鏡の外に出ます。それは、オリジナルが亡くなった後です」  俺はため息を吐き、終わりです。と呟いた。  大原さんは天を仰ぎ、目をつむる。聞いた事を整理している様だった。 「それでは、キョウコは妻の死ぬ間際の願いを叶えたと…いや、叶えているという事か?」 「はい」  大原さんは頭を戻し、目を開け、俺を真っ向から見つめた。 「あなたは一体何者なんです?」  俺は彼女に答えたのと同じ答えを大原さんに答える。 「自分が何者かを知ってる存在は、ほんの一握りです。違いますか?」 「だが、あなたには何か役目があるはず。その役目は一体?」  核心を突く問いに俺は正直に答えた。 「外に出たカガミビトを鏡の中に戻す事です」  と、そこに人が訪れる。それは、大原さんの「偽物の恋人」、鏡子だった。  彼女は俺の事を見ると、明らかに動揺した。 「何故、ここにいるの?」 「回収しに来ました。鏡子さん」  彼女は息を呑み、身を翻そうとする。しかし、俺が一言呟くと彼女の目の前には等身大の鏡が現れ、彼女の行く手を阻んだ。  鏡の中に彼女の姿はない。  鏡は外に出たカガミビトを映さない。 「あなたを回収します」  俺がそう言い切ると、彼女を鏡が飲み込んでいく。  大原さんは、彼女に言葉を伝えた。 「ありがとう」  彼女は振り向き、大原さんに囁いた。 「あなたの奥さんの願いを聞いただけ…」  そう強がった彼女の目に、光るものが見えたのは一瞬。 そして、彼女の姿は。  鏡の中に消えていった。  いつしか大原は一人になっていた。  全ては短い夢だったのだと、大原は自らに呟いた…。 『大原婦人』  あなたと別れる時はそう遠くない様です。きっと、それはすぐに訪れます。あなたが必死で私の病状を隠してくれはいても、本人には分かるものなのです。私自身はもう覚悟も出来ています。  ただ、あなたが心配です。  私がいなくなって、あなたが元気を無くすのではないか。と。  それで私は鏡に願いました。  私の姿を映して、あなたに近付いてくれるように。と。  それと、一つ難しいお願いをしました。  私の若い時の姿でお願い。と。  私も女です。いつまでもあなたの前では美しくいたいのです。  それでは、さようなら。 『カガミビト』  女の願いを叶える事にした。昔でこそ、外に興味があったし、人を悲しませる辛さを知らなかったからよく願いを叶えたが、最近では滅多に無い事だ。  しかし、稀にどうしても願いを叶えなくてはならない気がする時があるのだ。  それは恋に似たものかもしれない。  いや。恋そのものなのかもしれない。  そして私はまた人を悲しませた。  あのヒトは、もう立ち直れただろうか。  こうして人を心配するとは。  やはりこれは恋なのだろう。  恋する度に相手を傷付ける事になるなんて、私たちはなんて悲しいのだろう。  嗚呼。 『大原氏』  妻はいなくなった。  偽物もいなくなった。  私はまた一人になった。  偽物よ。私はお前が妻の姿をしていたから愛したのではない。お前がお前だから…。  いや。幾ら言っても全て偽善になる。  だから私は憎しみに答えを得よう。あの男に対する憎しみで。そうすれば他の誰かを憎む必要がない。  もしかしたら、あの男は憎まれる事こそが本当の役目なのかもしれない。  鏡への願いによって崩れたバランスを直す為。  だとしたら、最も悲しいのは彼なのかもしれない…。  いや、私は彼を憎んでいるのだ。同情など決してすまい。 『回収人』  全く気が滅入る役目だ。  人を悲しませる事が存在意義だなんて。  その上、人が大事なものを憎まない為に俺の事を憎むなんて、なんて嫌な役回りだろう。  俺という存在がなくても、世界は回ると思う。  俺という存在がない方が、世界は上手く回ると思う。  だけど。  人が願う時に、その代償として誰かが憎む事になる時。俺がいれば他の誰かを憎まず、ただ俺だけを憎めばいいのなら。  俺は憎しみを受け止め続けよう。  それが、俺の役目ならば、それも仕方あるまい。  人の細やかな願いと幸せと引き替えに、憎まれましょう。 fin