夏空:カリート作 オーブントースターが鳴って取っ手を引くと食パンが二枚あった。 焼かれたうちの一枚は私、もう一枚は死んだ兄の分なのだろう。 お母さんが二枚焼いてしまったのは無意識のうちの失敗ではないと思う。 きっと間違いたかったのだ。そうしたまちがいは願望のあらわれで、 現実のほうこそがまちがっているのだ、というお母さんの虚しい抗いのような気がした。 お母さんは洗濯物を干している。私はひとりで朝食をとる。 夏休みの部活は日によって午前午後に分かれる。今日は午前からだ。 8時には家を出なければならないので、私は歯を磨きながらテレビの星占いを見ると 1位は天秤座で、私の星座はどっちつかずの順位だった。 私は玄関でよろめきながら靴を履き、「いってきまーす」と二階に告げた。 お母さんからの「いってらっしゃい」はなかった。 この頃はずっとなので予期していたけどやっぱり寂しい。 星占いだっていっそ最下位でいいのに、と思った。 お母さんは兄の部屋にいるだろう。 目覚まし代わりに設定していたMDコンポが作動して、お気に入りだった 外国のポップソングが響き、それをお母さんはボーッして聴いているのが目に浮かぶ。 音楽というよりただ騒々しいわめき声じゃない、と以前は文句を言っていたのに。 「おはようユキちゃん」 「あ、おはようございます」 曲がり角で大橋のおばちゃんに挨拶をされた。 私はとっさに返事をしたけど、無視すればよかったと後悔した。 ――ご長男が亡くなって一周忌もしないのに、平気な顔して暮らしているなんて お母さんについて、あの人が前に近所の奥さんとお喋りしているのを 耳にしたことがあった。何故あんなことが言えるのだろう。 同じ子どもを持つ母親なら、お母さんがどれだけ深く傷ついているかくらい わからないものかしら……。私はまた不機嫌にギスギスしていく自分を感じた。 きっと、お母さんは兄の枕を撫でている。 あの音楽を聴きながら、しなくていい想像をしているのだ。  兄のオートバイが梅雨のために濡れたマンホールで滑った瞬間。  追突した車の忌わしいヘッドライト。  高く鳴り響いたクラクションの音を。 私でも、ゾッと震える心地がする。 お母さんは、あの音楽を聴くのをやめない。兄の事故からずっと。 最初は音楽がひとりでに動くたびに、兄が生きているように錯覚されたのだろうと思う。 眠たげにうなる兄のしぐさや起こされて不平そうな顔がよみがえって来る。 だけど、今は少しちがった目的があるような気がする。 ようやく兄の死を受け入れる余裕が出来てくると、いつしか兄の不在に 慣れはじめているのを自覚し、もうそれは思い出すというより忘れないために 聴いている――私には何かそう思えた。 何度、あの音楽を止めようと思ったか。 簡単なことだ。 いちいちリモコンで設定をオフにしなくても、コンセントを一度抜けば止まる。 CDを取り出すだけでもいい。 それでも私に止められないのは、お母さんが心配だという気持ちもあるし、 結局のところ私自身も、兄の名残りを、面影を魂の欠片のようなものをあの音楽から 感じ取りたいからかも知れない。 「台風でもくればいいのに」 停電が起きて、あの目覚ましタイマーを止めてくれればいいのに。 けれどそんな私の期待を裏切るように、夏空には雲ひとつなく、哀しいまでに晴れていた。