ダムに沈む家、沈まない田舎:inan作 今年のお盆は妻の実家を訪ねてみるかと提案すると、はいともいいえともつかない生返事が返ってきた。 「おれの家は正月に行ったことだし、親父もお袋もそのあたりは理解がいい」 「でも、お盆でしょう。気を使うわよ」 妻の両親と決して仲が悪いと思っているわけではないのだが、さりとて話すこともなく、電話口で年に数回の社交辞令を交わす程度である。最近では義父と義母の下の名前と顔が時々おぼつかないことがあり、さすがにこれではまずいと思い立っての行動だった。 彼女はあまり気が進まないふうでいたが、おれが想像する不安材料を勝手に並べては、あれやこれやと解決策をしつこく熱弁しているうちに、最終的には「本当にいいのね?」と念を押しながら承諾した。 妻の実家の場所やそこまでの道のりはあまり自信がなかったのだが、それでも日が高くなるころには妻が運転する車が妙な道を走っていることに気づいた。 「本当にこの道であってるのか?」 カーナビの画面はずいぶんと大雑把な地図を表示している。 「わたしの本当の実家の場所はこっちなのよ」 おぼろげな記憶での妻の実家は比較的新しげな、似たような造作の家屋が並んだ集合住宅の中の一軒だったはずだが、妻の年齢から推測すれば、幼少期はもっとほかの家に住んでいたとしても不思議ではない。 「子供のときは違うところに住んでたのか」 「ええ。すっごい山奥の、すっごい田舎だったの。どこを向いても、田んぼと畑しかない ようなところだったわ」 懐かしむような口調でつぶやきながら、妻は車を唐突に舗装されていない小さなわき道へとひょいと入れた。砂利と生い茂る草が車体にぶつかる音がひっきりなしに聞こえる。 「もしかして、あの集合住宅はそのあたりの人が全員越してきたのか」 「そういえばちゃんと話したことってなかったわね。わたしの田舎はダムの建設でなくなったのよ。今じゃ水の底ね」 そんなことがあったのかと、同情すべきか興味を向けるべきかと悩んでいると、突如として車は開けた場所に出た。強い日差しに目を細めると、静かに広がる水面にきらきらと光線が反射していた。 「ここがそのダムよ」 車が出てきたところは少しダムを見下ろすような高台であり、カードレールもフェンスもないため、ややもするとそのまま落っこちてしまうような場所であった。どうも正規のルートでダムの施設に訪れたとは考えられない。 「ダムっていったって、ちゃんとした道があるだろ」 「でも、この位置にはあそこからじゃないと来られないのよ」 ダムを見学して思い出にひたるばかりと思っていたのだが、釈然とせぬ様子のおれをよそに、妻はそろりそろりと斜面を下りていった。そのまま着いていくと、ダムの水面間近、手を伸ばせば水に触れるような場所に来た。 「そんなに近づくと危ないぞ。だいたい何をするつもりなんだ」 おれの問いなどどこ吹く風で、妻は呑気な様子できょろきょろしている。 「あなた目がよかったわよね。ダムに何か浮かんでるのが見えるかしら」 そういわれて水面を凝視すると、藻屑だとか木屑だとかいった無秩序なゴミにまぎれて、プラスチックか何かでできたような球がところどころに浮かんでいる。ゴミにしては量が多すぎるし、何よりその表面には人の名字らしき文字がしたためられている。 「あのボールみたいなやつか」 「そうそう。その中に、わたしの旧姓が書かれたボールがあるでしょう?」 ボールは結構広い範囲に浮かんでいたのだが、そういう場所を選んだのか、妻のいうようなボールはなんとか見える位置にあった。 「あった。壁際に二個浮かんでるやつからちょっと左の場所にあるな」 「ああ、あれなの。前来たときと配置が変わってて気づかなかったわ。ということは、木江さんはいなくなったのね。そういえば、年賀状が来なかったわ」 請われるでもなく後藤なる名字が書かれたボールを探しいると、向こうの方から白と赤でペインティングされたゴムボートがやって来るのが見えた。ダム関係の作業員か何かだろうかと観察していると、何かを投げ込んでいるらしく、大小さまざまな水没音が周囲の巨大なコンクリートに反響した。 こちらに気づいたのか、ほどなくしてボートはこちらとの距離を縮めると、よく日に焼けた初老の男性が妻に話しかけてきた。 「おや、久しぶり。墓参りかい。へえ、旦那さんも一緒かね」 「お疲れ様です。相変わらずですか」 男はおれの方を一瞬だけちらりと見ると、何か含むような笑いを口元に浮かべた。 「変わらんね、みんな。ああ、木江さんが半年前ぐらい前に亡くなったか」 水面と周囲を遠くまで眺めると、男は少しだけ気落ちしたような表情になった。それから、ボートに積んであった袋からアルミ製らしき葉書ぐらいの大きさの板を数枚取り出して妻に渡してきた。 「こりゃあ、お宅のところのだな。この方が間違いがないもんな」 男は再び作業に戻った。妻に渡したのと同じようなアルミ板をぽいぽい無造作に放り投げている。アルミ板には妻の父の名前と思しき文字が彫られていた。もう片面には「料金明細」とか何かそんな文字が彫られているのが見えた。 「それは葉書か何かのたぐいか」 「そうよ。それはそうと、あなた泳げるわよね?」 「まさか、実家っていうのはダムの下に沈んだ」 「まさかも何も、現にこうして住所も残ってるじゃない」 妻は少しなじるようにしてアルミ板を見せつけてきた。確かに、郵便番号も住所も名前もしっかりと書かれている。 「ちょ、ちょっと待ってくれ。そうとわかっていれば、水着の用意でもしてたのに」 「これからお墓参りもするのよ。どこの世界に水着姿でご先祖様に会う人がいるっていうのよ」 おれはうなりながら困窮したように腰を下ろした。更に、はいつくばるような姿勢で水面すれすれまで顔を近づけたが、中の様子は一向にわからない。進退窮まりうーむうーむとうなっていると、ざぶんと顔に水がかかった。不意の事態に顔を上げると、妻は着の身着のままで水につかっている。足がついている様子はないので、上手に立ち泳ぎでもしているのだろうか。 「ほら、あなたも早く」 相変わらず肯定も否定もできぬままうーむうーむとうなっていると、業を煮やしたのか、妻はおれの腕を突かんで水中へと引きずり込んできた。予想以上に強い力に屈して、おれは不恰好な姿勢で頭から突っ込まされた。 咄嗟に息を吸おうと開いた口に水が入り込み、慌てて水を吐き出そうとすると鼻から息が漏れた。そして、漏れた空気の変わりに鼻から水が入ってきた。不快と危険を同時に感じて必死でおれは水を吐こうとしたのだが、もはや肺には一息たりとも空気はないようであり、むしろ、そうしてもがけばもがくほど体内への浸水はひどくなっていくように感じられた。 もちろん水面から顔を出せればそれに越したことはないのだが、妻がおれの腕をしっかりとつかんでいては動きもままならず、しかも、我が愛する妻は恐るべきことに底へ、底へと進み続けていた。 おれはもう死ぬんじゃないかと思い始めた。溺死とはこんなにも苦しいものだったのかと感じ、そんなことを考えることですら耐えがたい苦しみを与えているように思えた。インクが眼球に満たされていくかのように視界が黒くなっていき、やがてはそれが体中を満たしていくに違いないと確信すると、おれはようやくやすらぎを期待できた。