黒スーツに赤シャツ男のお仕事:MTK作  世の中には多くの仕事がある。  普通のサラリーマン、大工、看護士、自衛官。  職種は違えど、その仕事に誇りを持って従事することは、人が働く上でとても大切なことなのだろう。  ここに一人、自分の仕事に誇りを持った男がいた。  ただその仕事というものがちょっとだけ他とは異なって―――  夏という暑い季節。  古いエアコンがうるさい音を立てながら動いている部屋があった。  そこはオフィスである。  誰が見てもオフィスだろう。  とあるビルの二階に居を構えている。  だがそんな仕事場にたった一つだけしかないイスには、黒いスーツを着込んだメガネの男が目を瞑って、背もたれに背中を預けていた。  男のメガネには、何かケーブルのようなものがついていて、それは首筋を通ってスーツの懐にへと続いていた。  男の前にはデスクワーク用の机がある。見た目には高そうだが、男はそれに足を預けている。  眠ってはいないようだったが、とても何か仕事をしているようには見えない。  部屋の中には、応接用の黒いソファが対面に置いてある。その間には、(客にお茶でも出すための)テーブルがあった。壁には書類を保存しておくための書棚もある。  完璧なオフィスだ。  ただ一つ、その場にそぐわないものがその男だった。  そもそもその男の服装が、すでに堅気の人間のものには見えなかった。  真っ黒なスーツはまだいいが、そのシャツは真っ赤だった。中途半端に長い髪を後頭部で、これまた赤い紐で縛ってある。  こんな服装の男が、ただのオフィサーのはずはない。  時間は午後五時をすでに三十分以上過ぎている。この男の態度から察するに、仕事が無いのならばすぐにでも家に帰りそうなものだが、一向に帰る気配を見せない。誰かを待ってでもいるのだろうか?  そのとき、外からかつかつかつと、誰かが階段を上ってくる音がした。  その音に反応したのか、赤いシャツの男は目を開けて、机から足を下ろした。  男の正面にある扉が、がちゃりと音を立て開かれる。  入って着たのは、ブレザーを着た女子高生だった。 「沓水所長、お客様ですよ」 「ん、了解。蓮(れん)、アイスコーヒー淹れてくれ」  男の名は沓水統魔(くつみずとうま)。この沓水探偵事務所の所長であった。 「で、お名前は?」 「兼谷祥子(かねやしょうこ)と言います……」  午後五時三十五分。統魔は能見蓮(のうみれん)が連れてきた客、兼谷祥子を事務所にあった応接用のソファに座らせて向かい合っていた。テーブルの上には蓮が淹れたばかりのアイスコーヒーのグラスが置いてある。  そのグラスを用意した蓮は、祥子と同じソファに座っていた。 蓮と祥子が同じブレザーを着ているということは、二人は同じ学校の生徒なのだろう。 「蓮の紹介で来ているってことは、うちが『普通の探偵業をやっているわけじゃない』ことは知っているよね?」  統魔がグラスを片手に、口を開く。 「はい……」 「結構。じゃあ依頼の話を始めてくれ」  祥子は俯きながら話し始めた。 「わたしには三つ年上の、三上利行(みかみとしゆき)という名前の恋人がいました。彼とわたしの家はクリスチャンです。家も近くて……、そんなこともあって自然と付き合うようになったんです。でも、彼は二ヶ月前に……」  つらい事を思い出したのだろう。祥子の声は涙で聞こえなくなる。  統魔は静かに待った。 「……すみません、話を止めてしまって」 「いや、それで?」  あえて抑揚の無い声で統魔は答える。祥子は話を続けた。 「彼は二月前に事故で死にました。でも彼の体はきれいなもので、とても死んでいるとは思えませんでした。お医者さんの話では打ち所が悪かった、と……」 「………」  祥子の隣に座る蓮の目にも涙が浮かんでいた。  統魔はアイスコーヒーを口に運ぶ。 「死体は焼かずに墓地に埋葬することになりました。東郷町(とうごうちょう)にある教会です」 「ああ、あそこか……」  その教会のことは知っていた。  統魔が事務所の本拠を構えるこの影耶町(かげやちょう)の隣町、東郷町にあるという。  なんでもとても誠実な神父がいるとか。世の中にそんな人間がいるということを、統魔は信じていない。酷く捻くれた人間なのだ。だからこそ逆にその教会のことを覚えていた。 「それで?」  統魔が話を促す。祥子は少しの間黙っていたが、また話し始めた。 「……沓水さんは今、東郷町で連続暴行事件が起きているのを知っていますか?」 「ん、ああ。新聞に書いてあったことぐらいはね」  東郷町で起こっている連続暴行事件。  事件の始まりは一ヶ月くらい前にさかのぼる。  夜中、ダイエットのため散歩をしていた五十代の主婦三人が、何者かに襲われた事件が発端だった。幸いにもその三人の命に別状はなかったのだが、事件はそれだけでは終わらなかった。  その一週間後、新たなる犠牲者が出たのだ。それからも段々と犠牲者は増え続けたが、一週間ほど前、ついに犯人を巡回中の警察官が見つけた。だが犯人は逃走し、捕らえようとした警察官は重症を負った。その警察官は今、集中治療室に入っている。当然のことながら犯人はまだ捕まっていない。警察の面目は丸つぶれである。 「三日前にも襲われた人がいるらしいな」 「その現場に私もいました」  祥子の発言に統魔が目を細める。 「……で?」 「襲われたのは私の友達です。犯人は……犯人は……!」  祥子は目をつぶって、唇をかみ締めていた。 「犯人は……死んだはずの彼だったんです!」  そこで堪えきれず祥子は泣き出した。 「う、うぅ……、お願いです……。彼を、彼を止めてあげてください……」  統魔は祥子が泣き止むまで待った。 「それで、報酬は?」 「はい……、私の貯金と、彼の両親からのお金を合わせて百万円あります。これで……」  祥子はカバンから封筒を取り出した。中は一万円の束だった。  統魔は冷静に数える。 「確かに。了解、この依頼引き受けよう」 「お願いします……」  祥子が立ち上がる。 「家まで送ろう」  統魔はガレージに止めてあった車で祥子を東郷町まで送ることにした。  車の中、祥子は呟いていた。 「彼、ひょっとしてわたしに会いに来たのじゃないのでしょうか……。だったら、わたし……」 「さてね……それも含めて調べておくよ」  残りの帰り道、祥子はずっと泣いていた。  祥子を家まで送り、統魔と蓮は事務所に戻ってきた。 「所長、彼女からまでもお金を取らなくてもいいじゃないですか!?」  蓮は怒っていた。  ここ数日、学校で祥子に泣きながら相談されていた蓮にとって、統魔の冷静な態度には少々腹が立っていたのだ。  もっとも統魔の夕飯を作りながらだから、あまり怒っているようには見えなかったが。 「んー? 蓮の給料から引いてもいいんだったら、別にいいけど?」 「そ、それはちょっと……」  蓮は沓水探偵事務所でバイトをしている。時給はその辺りのコンビニとそう変わらないが、する仕事といえば、客にお茶を出す事と電話番、それから統魔の晩御飯作りである。  統魔とは、とある事件で知り合った。だが、今は関係の無い話である。 「で、今回の事件はやっぱり?」 「ああ、おれの領分だな。警察じゃ犯人を捕まえられないのも無理ないな、と。今日も旨そうだな」  蓮が作ったのはクリームソースのパスタだった。具はシメジやマッシュルームなどのきのこ類に加え、鶏のささみ等もある。彩りには、アスパラやパプリカなどが添ってあって、見た目も美しい。とても旨そうだった。 「いただきます」 「はい、どうぞ」  統魔がパスタに一気に喰いかかる。 「犯人は本当に祥子の死んだはずの恋人なんですか?」  統魔はパスタをほうばりながら答えた。 「さて、どうかね? むぐっ、んぐ……。でもまぁ、一週間以内には事件は終わるよ、たぶんな。……水をくれ」 「そうですか……」  蓮は返事をしながら、冷蔵庫に入ってあった水を渡す。統魔はそれを一気に飲み干した。 「明日から調査するから、電話番、よろしく」 「わかりました」  こうして、事件の調査が始まった。 「ちょっとお話を聞かせてくれませんかね?」  次の日、統魔は調査を開始した。  調査といっても何のことはない。事件の目撃者や、襲われた本人に話を聞きに行っただけだ。  それらの情報は、すでにいろいろと調べてくれている"親切な方々"から頂いた。  そう、警察である。朝、調査を開始する前に警察のコンピューターに侵入し、データを盗んだのだ。もちろん違法行為である。だがすでに調べたデータがあるのなら、それを使うに超したことはない。『時は金なり』だ。 「なるほど……どうも」  正直、統魔はすでに犯人が何なのか分かっていた。実は昔、似たような事件を扱ったことがあるのだ。恐らく、そのときと同じだろう。 「やっぱり間違いなさそうだな。となると、あとは出現場所だな……」  地図を広げた。それはここ、東郷町の地図だった。ところどころに赤い丸で囲んだ場所があった。それは連続暴行事件の起こった場所だった。  見た感じ特に関連性はない。無作為に場所を選んでいるようにしか見えない。 「ふむ、やはり前のときと同じようだな。出現場所には特に関連性はなし、か……」  やはり関連はないようだ。統魔は地図をポケットの中にしまう。 (最後に現れたのが三日前。急いだほうがいいか……) 「あそこへ行ってみるか」  そこは教会だった。  統魔は東郷町にある教会、祥子の彼氏の眠っているはずだった墓地にやって来た。 「これか……」  統魔は墓石の前に立っていた。Tosiyuki Mikamiと刻まれてある。これが祥子の死んだ恋人の墓なのだろう。 「来るのが遅かったか。ことの起こりが一ヶ月前なら跡が残っているわけはないか……」  事件の犯人が本当に三上利行という名前の死んだはずの人物なのなら、死体は土に埋められた棺の中から這い出たはずだ。だがそんな跡は残っていない。それはどういうことか?  簡単である。誰かが埋めなおしたのだ。一ヶ月と言う時間は、埋めなおした跡を消し去るには充分な時間だ。 「もう少し、聞き込みを続けるか。被害者に何か関連があるはずだ」  統魔は教会を後にするのだった。  調査開始から三日後。  統魔は教会近くの公園にいた。現場には蓮と祥子もいる。  統魔の手には、日本刀があった。 「あの……それ本物ですか?」  祥子が遠慮がちに言う。 「ああ、必要になるからね」 「刀が……ですか?」 「まあね。……ところで、蓮。なんでおまえもいるんだ?」  細めた目で、睨みつけながら言った。どうやら統魔にとって、蓮は招かざる客人だったらしい。 「だって気になるじゃないですか!」  そんな統魔に噛み付く蓮。 「怪我なんぞしても治療費は出さんぞ」 「ケチ!」  そんな蓮を無視して、統魔は祥子に今回の依頼の調査報告をする。 「まず、最初に。三上利行という人間はやはりすでに死んでいる」  その統魔の言葉に、祥子は一瞬ビクッと体を振るわせた。  それを見て蓮が統魔を睨むが、統魔は気にせず話を続ける。 「したがって今回の犯人は、三上さんではない。ところが外見は三上さんの姿をしている。それは―――」  一呼吸ためて、メガネを左手の中指で押し上げながら言った。 「犯人を呼んでから説明しよう」  いつのまにか統魔の手にはバケツが握られていた。 「犯人を呼べるの!?」  統魔の衝撃的な発言に反応したのは、祥子ではなく蓮だった。  実に好奇心が旺盛な娘である。 「ああ、今から呼んでやる。おまえは黙って見ていろ」  自分の酷い扱いに、蓮は頬を膨らませるが、やっぱり統魔は無視して事を進める。 「そのバケツをどう使うんですか?」  祥子が統魔に問う。 「こうやって、さ」  統魔はバケツを地面に置いた。  次に懐から何かを取り出す。 「なんですか、それ?」 「ドラマとかで見たことない? 輸血用のパック」  統魔は手に持った輸血用のパックを一気に破る。そして、溢れる血液をバケツの中に注ぎこんだ。  辺りに鉄臭い匂いが充満する。 「実は今回の事件の被害者には一つ、共通点があってね?」 「そうなの?」 「ああ、実は全員が何らかの怪我をしていたんだ」 「そういえば……」  祥子が何かに気づいたようだ。 「襲われたわたしの友達も、あの日の体育の時間に転んで、足に怪我をしていました」 「だろうね」  そう、実はその通りだった。  被害者は犯人に襲われる前に、すでに大小の怪我を負っていたのだ。 「犯人が襲う人間は、かならず怪我をしていた。そこから導き出される答えは一つ。犯人は特定の人物を襲っているわけじゃない。君が彼と出会ったのはただの偶然だよ。運がいいのか、悪いのかは置いておいてね……」  統魔の言葉に祥子は俯いた。統魔は話を続ける。 「じゃあ、なぜ犯人は怪我した人だけを襲っていたのか? それも単純」  その時、あたりの空気に変化が起きる。 「血の匂いに誘われたのさ」  何が変わったのかと聞かれても、なんと答えていいのかはわからない。ただ言えることは、今統魔たちがいる公園は、先ほどまでの公園と同じ外見をした、まったく別の場所だと言うことだけだった。 「な、なにこれ……?」  辺りの変化に祥子が気づき、呟く。  蓮は知っていた、この現象を。今も過去の嫌な記憶と共に覚えているこの雰囲気。  それでも決して目は逸らさない。自分で選択したのだ。全ての事実を見届けると。  だからこそ、蓮は統魔と共にいるのだ。 「辺りを異界化させたか……。来るぞ」  統魔のセリフと同時に、凄まじい音と共に公園にあった滑り台の上に何か[が]降ってきた。  辺りに土煙が巻き起こる。 「今回の犯人、それは―――『ワイト』だ」  土煙が晴れたとき、壊れた滑り台の上にソレはいた。  男だった。  顔には生気はなく、本当にこの顔色で体が動かせるのかさえ疑問に思う。 「利行!」  祥子が声を上げ、男のもとへ行こうとするのを統魔が押さえる。 「言っただろ、あれは利行さんなんかじゃない」  しかし祥子は統魔の言葉を受け入れようとしない。  無理もないかもしれない。自分の恋人が、……死んだはずの恋人が動いているのなら駆け寄りたくもなるだろう。  目に涙をため、祥子が叫ぶ。 「利行は帰ってきてくれたんですよ! わたしに会いに!!」 「違うよ、祥子」  その時、蓮が言った。その目に哀しみの色を浮かべて。 「わたしにも経験があるの……。でもね、死んだ人は決して……、帰ってくるなんて事はない……」 「じゃあ……じゃあ、彼は誰なんですか!」 「利行さんの死体を勝手に使っているのさ」  三上利行、いや『ワイト』が咆哮を上げた。 「二人とも下がっていろ!」  統魔は日本刀を鞘から引き抜く。直後、『ワイト』が統魔たちに向かって跳躍する。  その動きは人間のソレとはまったく違う。 「ちっ!」  一瞬にして『ワイト』は統魔を射程内に捉える。  その凄まじい豪腕は、統魔を狙い振り下ろされた。統魔はそれを横に避け、『ワイト』と距離を置いた。 「あんたを縛るその死者への未練、おれが断ち切ってやるよ。それが―――」  統魔は懐から一冊の本を取り出した。いや、それは正確には本ではなかった。  外観は完璧に本だろう。しかし開いてみると、それが本でないことは一目瞭然となる。  開かれたそれから現れたのは、パソコンなどに使われるキーボードだった。そしてそれは統魔のかけているメガネとケーブルで繋がっていた。 「デビルサマナー(悪魔召喚師)の仕事だ」  統魔は刀を地面に刺した。  左手で本型COMPを持ち、素早く右手でキーボードを叩く。慣れているのだろう、その操作はかなり早い。  統魔がキーボードを叩くたびに、公園の地面に光り輝く魔方陣が描かれてい{っ}た。 「疾(と)く来たれ。汝、死者の運び手。不死なる戦士の先導者よ。妖魔ヴァルキリー!」  方陣が完成し、統魔の呼び声と共に陣の中心から人が現れた。いや、実際のところそれは人ではない。似て非なる者なのだ。  赤い鎧を纏い、両手に剣を持った女性。その名は『死した者の運び手』を意味する。  そして、ヴァルキリーが口を開いた。 「呼んだー、統魔君?」  ……ひどく明るく、そして軽そうな口調だったが。  まぁ、それでも彼女は神話に登場する戦士なのだ。……たぶん。 「今から戦闘になる。おまえはその二人を体を張って守れ」  統魔は慣れているらしく、普通に命令を出す。 「はーい、よろしくね」 「よろしくね、ヴァルキリーちゃん」 「よ、よろしく……」  以前にも彼女に会った事のある蓮は普通に、初対面の祥子は少し怯えながら言った。 「さて、アレを押さえ込むのは、おれ一人じゃ少々つらいな……」  再び統魔がキーボードを叩き、地面に魔方陣が描かれる。 「疾(と)く来たれ。汝、車輪の女神。時と運命を司りし者よ。女神アリアンロッド!」  描かれた方陣から現れたのは、金の髪に、白銀の鎧を纏った女性だった。その手には体格に似つかわしくない大剣が握られている。 「沓水様、お呼びですか?」  ……こちらはまともな性格のようだった。 「戦闘だ。敵を押さえ込む、付いて来い」 「わかりました」  そして、戦闘が始まった。  『ワイト』が叫び声を上げながら、統魔たちに向かって駆け出した。 「男の体には傷をつけるな。本体のみを集中して攻撃しろ」 「本体?」  アリアンロッドが聞き返すが、『ワイト』はもう目の前まで迫っていた。 「来るぞ!」  『ワイト』が右腕を振るう。そんな大振りの一撃を簡単に貰う統魔たちではなかったが、その威力は凄まじい。当たれば大怪我では済みそうにない。 「血を充分に啜って、力を蓄えたか……」  『ワイト』の右腕を避けた統魔に、今度は左腕が襲い掛かる。  統魔はそれを前に出ながら避け、『ワイト』の懐に入った。そこは『ワイト』には攻撃できない死角……のはずだった。だが、『ワイト』の体から金色のオーラのようなものが伸び、それが統魔に襲い掛かる! 「ちっ!」  横に転がりながら避けるが、金のオーラは統魔の肩を掠めた。見た目には黒いスーツで分からないが、肩から血が滲み出す。 「沓水様!」  アリアンロッドが統魔に駆け寄った。 「大丈夫ですか?」 「ああ、掠っただけだ。それよりも見たな?」  『ワイト』の体から出た金色のオーラのことだ。 「はい」 「あれが奴の本体だ。なんとかボディと切り離さないとな」 「男の体を壊せばいいのでは?」  アリアンロッドが聞く。だが統魔は首を横に振った。 「だめだ。あの体が生きていたころの恋人がそこにいるんだ。ただでさえ追い詰められているのに、そんなことをしたらあの子が発狂しかねん」 「……難儀な性格をしてらっしゃいますね」  アリアンロッドは呆れたような声でため息をついた。 「わかりました。私が囮になりましょう。沓水様は、アレの本体が現れたところでボディと本体を斬り離してください」 「……すまんな」  統魔が謝る。だが――― 「いいえ、仲魔になったときから分かっていたことです」  アリアンロッドは笑っていた。それは女神に相応しく、とても美しい笑みだった。 「じゃあ、行くとするかね」 「はい」  一方、戦いとは離れた場所にいる祥子と蓮とヴァルキリー。  祥子は蓮に聞いてみた。 「ねぇ、蓮。沓水さんって何者なの……?」  少し重苦しげに蓮は答える。 「……この世にはね、本当に悪魔ってのがいるの。小さなコンピューターを介してその悪魔を使役し、悪魔と戦う人たちのことをデビルサマナーっていうんだって。さっき所長が本を出したよね? あれってハンディコンピューターなんだ」 「デビルサマナー……」 「あたしもさ、ちょっと前に事件に巻き込まれたの」  蓮が話し出した。 「友達はみんな死んで、あたしだけが生き残った。運がよかったんだよね。偶然所長と出会ったの。その場所の怪異を退治に来た、ね」  蓮は俯きながら話した。その声にはいまだ残る苦しみが感じられる。 「考えたんだ、みんな死んであたしだけが生き残ったことに意味があるのかって……。でもわかんなかった。いくら考えてもね。だから思ったの、あたしは悪魔なんてものが本当にこの世にいることを知ってしまった。ならばどうせならそのすべてを見てやる、ってね。そうすればそのうち答えも見えてくるかもしれないでしょ?」  少し、ほんの少しだが蓮は笑いながら言った。完全ではないが、それでも少しは前を向いて歩こうとしている者の笑顔だった。  それこそが人の強さなのかもしれない。 「蓮……」 「大丈夫、祥子も乗り越えられるよ。なんたって所長はそのために戦ってるんだからね」 「……うん!」 「二人とも、下がって! 敵がこっちに来る」  そのとき、『ワイト』が統魔とアリアンロッドに致命的なダメージを与えられないことに業を煮やして、弱そうな二人がいる方へと方向を変える。 「ちぃ、行ったぞ! ヴァルキリー!」  咆哮しながら『ワイト』が二人に向かって突撃してくる。  ヴァルキリーは前へと出て、二人の壁となった。 「させないよ!」  『ワイト』が渾身の力でヴァルキリーを殴りつけた。ヴァルキリーはそれを避けようともしない。  当然のごとく、それはヴァルキリーにまともに直撃した! 「ヴァルキリーちゃん!」  蓮が悲痛な声を上げる。しかし―――  吹き飛んだのはヴァルキリーではなく、『ワイト』だった。  かなりの衝撃があったことがわかる。それほど『ワイト』は遠くへと弾き飛ばされていた。 「無駄です。あの娘には物理攻撃など効きません」  倒れた『ワイト』の背後にアリアンロッドは立っていた。それに気づいた『ワイト』は、急いで立ち上がりアリアンロッドに攻撃を仕掛ける。  だがそんな見え見えの攻撃が命中するはずがなかった。  アリアンロッドは『ワイト』の大振りのパンチを前に出ながら避け、懐に入る。先ほどの統魔と同じパターンだった。  『ワイト』の体から金色のオーラが現れる。 「はぁ!」  それを狙って、いつの間にか『ワイト』の背後に回っていた統魔が、金色のオーラ目掛けて刀を一閃させた。横に払われた刀は、見事に『ワイト』の本体とボディを斬り離す! 「今だ、アリアンロッド!」  統魔に言われるまでもなく、アリアンロッドは行動していた。 「虹の奔流よ、彼(か)の者を包み込め!」  アリアンロッドの、マントを含む全身から虹色の光が溢れ出す。それは『ワイト』の本体である金色のオーラにへと向かっていき、そして包み込んだ。  辺りが一瞬、光に包まれる。そして―――  光が消えたとき、『ワイト』の本体である金色のオーラも同じく消えていた。  己を動かすモノがいなくなって、先ほどまで凶暴に暴れていた三上利行の体は、ゆっくりと倒れる。すでにそれは暴れまわる凶暴な存在ではなく、人としての生を終えて、ただ安らかな眠りにつく若い男性だった。  ……終わったのだ。 「ふぅ……やれやれ。ご苦労だったな、アリアンロッド、ヴァルキリー」  統魔は深くため息をついて、仲魔二人に労い言葉をかける。  傷ついた肩と、転げまわったときに擦り剥いた箇所が痛んだが、それも今は気にはならなかった。 「利行……利行ぃ……!」  祥子がもう動くことはない死体に抱きついて泣きじゃくる。それを見ながら統魔は、やはり何も言わず、じっと祥子が泣き止むまでただ立って待っていた。  しばらくの間、その公園内には祥子の鳴き声だけが響き渡っていた。  事件の終わりから五日後。ようやく少しは気持ちの整理がついた祥子は、再び統魔の探偵事務所を訪ねていた。  初めて来た時と同じように、机には蓮の淹れたアイスコーヒーがある。  祥子はそのアイスコーヒーを口に運び、その苦味と共に利行のことを少し思い出し、涙を流すのを堪えた。それでも涙が滲んだが、それを振り払うかのように精一杯の笑顔で統魔に言った。 「沓水さん、今回はありがとうございました」 「いや……その後どうなった?」  統魔もアイスコーヒーを口にする。 「はい、利行のことは彼の両親と話して、また東郷町の教会に埋葬してもらいました。新しい神父様とも少しお話したんですけど、前の神父様と同じようにとても優しそうな人で安心しました。これなら利行もゆっくりと眠れるなって……」  利行のことを口に出し、祥子はまた涙がでた。まだ完全には振り切ってはいないのだ。無理もない。心の痛みを癒すことができるの時間だけだということだろう。  大切なものを失い、それでも懸命に生きようとする人間の意志がそこに感じられた。 「そうか……」  統魔は少し笑顔を見せた。実に珍しいことに。 「そうそう、これなんだけど……」  その時、思い出したように統魔は懐から何かを取り出す。  封筒のようだった。しかもかなり分厚い。  統魔はそれを祥子に手渡す。 「? なんですか?」 「プレゼント」  祥子が聞いても、統魔はそれだけしか答えなかった。  不思議に思いながらも、祥子は封筒を開け、中身を確認した。  中に入っていた物は――― 「これって……!?」  封筒の中から出てきた物、それはお金だった。  福沢諭吉の絵が描かれたお札がその数、およそ百枚。 「これはわたしたちがお渡した依頼料ですよね?」 「ああ、彼のご両親には君から返しておいてくれないか?」  と統魔は言う。しかしこれに祥子が反論する。 「そんな、戴けません! 今回のことは本当に沓水さんには感謝してるんです。それなのにこんなものを受け取れるはずがありません! 少なくともわたしの貯金の分は沓水さんが貰ってください!」 「いや、実は今回の件は他に収入があったんだよ。それだけで充分な額だったんでね、そっちのほうは必要ないのさ」 「でも……!」  祥子は頑として譲ろうとしなかった。  困った統魔は大きくため息を吐き出した後、言った。 「わかった、こうしよう。ひとまず君の分は受け取ろう。それで、もうすぐ夏休みだ。蓮とどこか旅行でも行っておいで。その旅費はおれが出すよ」 「沓水さん……」 「人間そんな簡単に吹っ切れるものじゃないからね。気分転換は絶対に必要だよ」  統魔は笑みを浮かべながら言った。元がそんなに悪くはないだけに、人を説得するにはかなりの効果はありそうだった。 「……わかりました。本当にいろいろとありがとうございます!」  祥子はソファから立ち上がり礼を言う。 「ああ」  祥子が事務所の出入り口にまで近づき、ドアノブに手をかけようとして、そしてふと思い出したように振り向いて言った。 「あの……あのときのお二人にもお礼を言っておいてください」  その言葉に統魔は意外な顔をして、それから言葉を返した。 「……わかったよ、伝えておこう」 「本当にありごとうございました」  そう言い残して、祥子は事務所を出て行った。  残ったのは統魔と蓮のみ。 「所長、意外といいところありますね! 私、見直しました」  結構失礼なことをストレートに言う娘である。 「やれやれ……」  統魔は苦笑しながらアイスコーヒーを口に運ぶ。 「も・ち・ろ・ん、わたしの分の旅費も出してくれるんですよね?」  猫なで声を上げながら蓮が聞く。 「構わんよ、今回はおれが奢ろう」 「さすが所長! 太っ腹!!」  その場で踊りだす蓮。  統魔にとって本当に不可解なのは悪魔までもなんでもなく、この娘さんかもしれなかった。 「しかし急に教会の神父さんが変わるなんて変ですよね?」 「なんでも前の神父は蒸発したらしいぞ」  統魔の意外な返答に、蓮は目を丸くする。 「そうなんですか?」 「ああ、おれも彼の埋葬の手続きで新しい神父に会ったんだがな、そんなことを聞いた」  そして統魔は一気にアイスコーヒーを飲み干した。口の中に苦味と甘みが同時に広がる。 「へー……いったい何処に言っちゃったんですかね? 評判のいい神父さんだったらしいですけど……」 「本当にな……。いったい何処に言ったのやら」  統魔は意味深にそう言ったが、旅行で気分が上がっている蓮は気づきもしなかった。 「それじゃあ、わたしも旅行に必要なものを買ってきますね!」 「おう、行って来い」  鼻歌交じりにスキップしながら、蓮は事務所を出て行った。  一人残った統魔はソファから立ち上がり、デスクの後ろにある窓から街を見てみる。  エアコンの効いたこの部屋でも、太陽の光に直接当たると暑かった。  コンクリートジャングルのこの街では、夏の風物詩であるセミの声すら聞こえない。  人は誰も生きている。いや、人だけではなく動物も植物も虫も、悪魔だって生きているのだ。懸命に、生きる意味を探しながら。  事故に遭うこともあるだろう。  病気にかかることもある。  ひょっとして他人に殺されるかもしれない。  それらは偶然に降りかかる。  それでも人は人の力でそれらを振り払うことができるのだ。  だが悪魔は別だ。ただの人間では偶然巻き込まれたのだとしても、それを人の力で切り抜けることは難しい。  だからこそ統魔たち、デビルサマナーが存在するのだ。  しかし勘違いしてはいけない。デビルサマナーは人の味方ではなく、人と悪魔の中立の対場にあるのだ。ある時は人を庇い、またあるときは悪魔のために戦う。  それがデビルサマナーの使命なのだ。  だからこそ、統魔はこの仕事に誇りを持っていた。 「世の中、本当によくできてらぁな……」  などと分かったような、分からないような独り言を呟いて、統魔は窓の景色をずっと見つめていた。  どこまでも真っ青な空が、一つの陰鬱な事件を忘れさせてくれようとしてくれているかのようだった。  その後、旅行用の買い物から帰ってきた蓮の荷物を見た統魔は、化粧品やら携帯用の音楽プレイヤー等、合計十万以上の出費をだすこととなった。  蓮は「だって全部、所長持ちでしょ?」と笑いながら言った。  仕方なく統魔は全額負担したが、とりあえず蓮の頭を全力で、拳を握り締めて殴った。  沓水探偵事務所に、蓮の叫び声が響いたのは言うまでもない。  ああ、諸行無常の響きあり、か……。  それは事件の解決したその日の夜のこと。祥子が再び探偵事務所を訪れる四日前の話。  時間はすでに午後十一時を回っている。  そんな夜遅くに、黒いスーツに赤いシャツの男が下を俯きながら暗い廊下を歩いていた。統魔だ。  『ワイト』の攻撃によって裂けたはずの肩は、見た目[的]にはなんともない。予備のスーツなのだろうか?  長い廊下だ。  だが統魔の足音はまったくしない。まるで幽霊のごとく、静かに歩いていた。  それから三分ほど歩いただろうか。  統魔の前に光が見えた。  扉から光が漏れ出[し]ている。  統魔はその扉を開き、その部屋の中に一歩踏み込んだ。  中はステンドグラスに彩られた大きなものだった。部屋の端には数々の彫刻で飾られた柱がある。  奥には、十字架が飾られてあった。  礼拝堂だ。  統魔は三上利行が埋葬されていた、東郷町の教会に来ていた。  視線を前に向ける。  十字架に跪いて、祈りを上げている男が見えた。  男は統魔には気づいていない。  統魔はさらに部屋に踏み入った。。  手を離したため、扉が大きな音を立てて閉まる。  男はその時、初めて統魔の存在に気づいた。 「誰かね、こんな時間に?」 「夜分遅くに失礼……坂峰神父ですね?」 「そうだが……君はいったい?」  六十前ぐらいの初老の男、坂峰神父は怪訝な顔つきをしながら聞いた。  無理もない。真夜中の礼拝堂に、こんな黒スーツに赤シャツの男が現れたのなら、誰だって怪しむだろう。 「どうも、私は沓水と申します。この東郷町の隣にある影耶町で探偵をやってます」 「探偵?」 「はい、実は東郷町で起きている連続暴行事件について調べていたんですよ」 「ああ、あの……」  坂峰神父も事件のことは知っていたようだ。 「哀しいことですね。早く犯人が捕まってくれるといいんですけれど……」 「それはご心配なく。今から三時間ほど前に、事件は解決しました」  それを聞いて、坂峰神父はほっとした顔をした。 「そうですか、それは安心ですね。主に感謝を……」  胸の前で十字の印を切る。  そう言ってから坂峰神父は気づいた。 「はて、それで私に何の用ですかな?」  統魔は表情を変えずに淡々と話す。 「はい、実は今回の犯人なんですがね……死体にとり憑くという珍しい悪魔だったんですよ」 「はい?」  坂峰神父は統魔の言ったことが理解できていないようだった。 「あの、沓水さんでしたかね? 悪魔というのはいったい―――」  しかし統魔は坂峰神父の声を聞いているのかいないのか、一人話を続けた。 「『ワイト』といいましてね。金色に光るオーラが本体で、とり憑いた死体を破壊しても倒せないんですよ」 「あの、沓水さん?」 「こいつはね、結構日本では珍しい悪魔でしてね、なにしろこの国は火葬ですから。とり憑く死体が無いと『ワイト』もどうしようもないんですよ」 「………」  神父という仕事柄、坂峰は人の話を聞くことに慣れていた。黙って統魔の話に耳を傾ける。 「では世界ではどうなのか? 実は先進国ほどこいつの出現率は低いんですよ。なにしろこいつは、祝福された遺体にはとり憑けないようになってますからね」 「……なるほど、そうですか。それでそのことが私と何の関係があるのですか?」 「日本では珍しい悪魔が現れた。その出自、気になりませんか?」  そして、統魔は坂峰神父を正面で見据え、左手の中指でメガネを押し上げながら言った。 「あなたに祝福されたはずの方の遺体でしたよ、坂峰神父」 「……! な、なにを馬鹿な……!」  坂峰神父は明らかに動揺していた。それを見越して、統魔は畳み掛ける。 「二ヶ月ほど前に埋葬された三上利行さんという方です。ご存知ない? そんなことはありませんよね? なにせ、棺おけを突き破って土の中から這い出してきた跡を、あなたがきれいに隠したんですから」 「……!」  坂峰神父は何も言わなくなった。どうやら図星だったらしい。 「神父様に祝福されたはずの死体に『ワイト』がとり憑いた。これはどういうことですかね?」 「……君の言っていることは、私にはさっぱり意味がわからないね。では、夜ももう遅いのでね、失礼……」  坂峰は急いでその場を後にしようとする。そんな坂峰に統魔が言い放つ。 「坂峰神父、あなたずいぶんと荒稼ぎしているそうですね? 祝福にかかる費用の着服もその一環ですか?」  その統魔の言葉に坂峰はピタッと体を止めて、そして統魔のほうへと振り返った。 「……何が望みだ?」  それは先ほどまでの優しい声色ではなかった。どす黒い欲望の権化がそこいた。地元でも有名な優しい神父など、やはり偽りの姿だったのだ。  そんな坂峰の変貌振りを見て、統魔は驚くどころか逆にニヤリと小さな笑みを浮かべていた。 「なに、そんなに難しい物ではありませんよ。あなたが今すぐに用意できる金額。そうですね……五百万くらいでいいですよ」 「五、五百万だと!?」  さすがに坂峰神父が声を荒げた。 「いくらなんでも五百万は高すぎる!」 「そうですかね? あなたならすぐにでも用意できるんじゃありませんか? 裏でイロイロとやっているみたいですし……」 「……!?」  イロイロの部分に含みを感じさせる言い方だった。実際、それを聞いて坂峰神父は動きを止めた。 「……いつまでに用意すればいい?」  統魔はまたもやニヤリと小さく笑う。 「言いましたよ、今すぐに、と」 「……わかった、少し待っていろ。取りに行ってくる」  そう言って礼拝堂を出ようとする坂峰神父を統魔は止めた。 「いえいえ、そんな面倒なことをしなくても結構ですよ。この礼拝堂にいろいろと隠してることは分かってるんです。それに出て行って通報でもされると困りますし、ねぇ?」  その顔は全て理解していることを表していた。  坂峰神父は諦めて、礼拝堂の奥にあった彫刻を少しだけ触った。すると、彫刻に物が入れられるような穴が現れた。その中に手を入れ、取り出したとき坂峰神父の手の中には、数々の指輪や宝石類が握られていた。  それを統魔に渡し、言う。 「信者の供物だ。それを捌けば五百万は軽くするはずだ」  統魔はそれを一つずつ、片目を閉じて慎重に鑑定する。 「……なるほど、確かに」  それを胸のポケットにしまい込んだ。 「さて、それではそろそろ退散しますか」 「……クズが」  坂峰神父は吐き捨てるように言う。しかし統魔は動じない。 「おやおや、あなたには言われたくありませんね」 「………」  統魔は坂峰神父に背を向けた。 「それでは。もう二度と会うこともないでしょうから」 「そう願うよ」  統魔はゆっくりと扉へ向かって歩いていく。  坂峰はその様子を見ていた。 (この若造が……! この私を脅したことを必ず後悔させてやる! まずはあの連中に依頼して―――)  そんなことを考えていると、坂峰は礼拝堂の左奥、光の届かない暗闇の中から、動物の呼吸音が聞こえてくることに気づいた。 (なんだ?)  気になった坂峰は、目を凝らしてソレを見てみた。  ソレはゆっくりと坂峰へと歩いてき来る。  まず犬の頭が見えた。一つ、二つ、三つ。  一体何匹の犬がいるのだろうか?  だが、それは違った。そこにいたのは犬などではなかった。なぜなら、合計六つの首が、一つの体についていたのだ。足は十二本。怪物だった。 「ひ、ひぃー!」  坂峰はその場にへたり込む。  恐ろしさのあまり腰が抜けて動けなくなったようだ。  扉の前で立ち止まった統魔が、振り向いて言った。 「そいつの名前はスキュラといいましてね、ギリシャ神話に登場する海の魔獣ですよ。もちろん、人喰いのね」  だが坂峰には統魔の言葉を聞いている余裕はない。  一歩、また一歩とゆっくりとだが、スキュラは坂峰に近づいていたからだ。 「は、話が違うぞ! 金を渡せば見逃してくれるんじゃなかったのか!?」  坂峰は声を荒げて叫んだ。しかし統魔は冷たく言い放つ。 「やだなぁ、それは三上さんの件ですよ。これは別件です。色々と調べてみたんですけどね、あなた、神父の立場を利用して女性の信者に良からぬことをしているらしいじゃないですか?」 「……わ、わかった! 全て認めて警察にも自首する! だから助けてくれ!!」  しかし統魔は笑いながら言った。 「駄目ですよ。そんなことしたら、被害者は余計に苦しむことになるじゃないですか。罪を悔やむんだったら、おとなしく彼女に食べられてやってください」 「か、彼女!?」  ようやく、スキュラの全貌が見えた。  六つの犬の首と、十二本の犬の足。それが下半身で、上半身は美しい女性の姿だった。  その美しい女性は、その顔に似合った美しい声で言った。 「統魔さん、この方、食べてもいいんですか?」 「ああ、ただし証拠を残すな。完璧に食い尽くせ」 「はーい」  恐ろしい会話を平然とする統魔。坂峰はあがらうこともできず、ただただ叫ぶばかりだった。 「た、助けてくれ! 金はいくらでも払う! 頼む!!」  それを聞いた統魔は一言、メガネの奥の目を細めて言った。 「断る。おれが従うものはおれの正義のみ。それに反する貴様を生かしておくことはできんね」  ゆっくりとスキュラの犬の頭が坂峰へと近づいていく。 「助けて! 助けてくれー!」 「あなたも神父なら、死ぬ前にお祈りでも上げたらどうですか? 主よ、今御許に参ります……ってね。いや、行けないか。ははは」  そう言うと、統魔は扉を開けて廊下へ出る。 「それでは坂峰神父、さようなら。あ、大丈夫、心配しないでください。あなたと繋がっていたヤクザも近いうちにそちらへお送りしますよ」  統魔はにこやかに言った。 「スキュラ、終わったらさっさと帰って来いよ。寄り道でもしたらお仕置きするぞ」 「わかってますって。では、いただきまーす!」  礼拝堂の扉がゆっくりと閉まっていく。  統魔の目に映っていたものは、スキュラの犬の頭が口をあけて、坂峰に近づいていき―――そこで扉は完全に閉まった。  直後――― 「ぎゃー!!」  坂峰の悲鳴が聞こえた。  それを聞いて、統魔は薄暗く長い廊下を歩き出す。  しばらくの間、坂峰の悲鳴が響いていたが、すぐに聞こえなくなった。後は何かが物を食べる咀嚼音が聞こえるのみ。 「天使に悪魔、神に魔王。世の中いろいろといるが、本当に怖いものは人の心ということか。……おれや、あんたを含めてな、坂峰神父」  薄く笑いながら、統魔は惨劇の教会を後にした。  真夜中の空は、闇色のカーテンに包まれた世界。何が起ころうとも誰にも何もわからない。  つまりはそれだけの話だったということだ。  再び教会を振り返ることはなく、統魔は自分の車に乗り込んで家路に就くのだった。