恋の暴走機関車:カリート作  なんという体たらくでしょう、恥ずかしながら白状します。  夏の大会を控えたころになって、オレっち、手塚隆文、恋をいたしました。もう、日々悶々というか、いてもたってもいられない気持ちで、なにもなかったはずの特殊能力に『ムラっ気』がつくほどに、心も体調も制球も乱れるというありさま。高校野球はエースの力量が試合を大きく左右するのです。エースたる自分がこのようでは、ああとうめいて、先が思いやられます。    栗原舞といいます。彼女の名前です。お気づきでしょうか、わがパワフル高校が3年、オレっちより1年先輩の、献身的な野球部マネージャー。部における唯一のオアシス、紅一点の存在に恋する不届き・悪らつ・インモラルは承知しています。そのうえ、彼女がパワフル高校の4番打者で、幼なじみでもある小波先輩に心をよせているのも……。  いえ、むしろ、栗原さんが小波先輩に恋しているがために、オレっちは彼女に恋したのでしょうか。わかりません、いくら考えてもわかりません。ただ、彼女をマネージャーとしてではなく、はじめて女性として見た最初の事件は、今でもオレっちのまぶたの裏側らへんに、いまでも居候して離れてくれないのです。それは、じつになんでもないことです。  もうレギュラー発表もすぎた、暑い休日でした。グラウンドには前日に降った雨が乾ききらずに残って、2時間ばかりは水蒸気とともに体力とやる気が奪われ、すっかり乾いたころには、あのギラギラ笑う太陽が、ひと夏を謳歌する蝉の鳴き声といっしょくたにふり注ぎ、内野の黒い土を40度近くにまで高めて、それはそれは練習のつらい日でした。  そのあいま、焼け石に水の10分休憩のさい、いつものごとく栗原先輩は、スポーツドリンクの入った水筒を小波先輩に手渡したのです。むろん誰よりも先に。本人は知りもしないでしょうが、彼女が小波先輩にぞっこん惚れこんでいるのは部員どころか学年中が気づいているところでしたから、みんな彼女のふるまいをほほ笑みながら見守っているふうで、オレっちもまた、その時点では、似たような気持ちしか持っていませんでした。彼女の想いに気づかないのはただひとり、鈍感な小波先輩だけ。先輩は、「わ、ありがとう舞ちゃん」と、やはり、いつものごとく受けとりました。  と、栗原先輩は、水筒を手渡すさいに、わずかに指がふれあったらしく、ハッと紅をさしたようにほおを染めました。その様子がじつに可憐で、彼女の、ふれた指をしばらくながめたあとに、もじもじと水滴のついた指と指をこすり合わせるしぐさも、いっとういじらしいのでした。アホの小波といえば真顔で、どうしたの? なんて彼女に聞きます。栗原先輩は目をパチクリさせて、そのあと、顔文字ならば (*^.^*) みたいな満面の笑みをたたえて、「ふふ、なんでもないよー」と言いつつるんるん去っていくので、オレっちの心は、アメリカ爆撃戦闘機に描かれたハートよろしく、矢で打ちぬかれてしまったのでした。  そうなるともう、恋した人間はみんなわかるような、あの、熱っぽい対抗意識と、ねばねばした嫉妬心が、ふいにオレっちにもわきあがってきたのです。驚きました。オレっちもこんなふうになるのかと、一瞬のうちに、知りたくないものを知ってしまった気落ちが襲ってきました。また、17才の若者らしい青臭い理性にさいなまれ、さいなまれるうちにオレっちは小波先輩に近づき、やたらとくだを巻きはじめたのです。  「先輩、なに飲んでるんですか?」  はじめ、オレっちはあたりさわりなく聞きました。小波先輩は、俗っぽい清涼飲料水の、しかも2倍に薄めたものだと答えました。へえ、オレっちは侮るようにあいづちを打ちました。聞かなくても、オレっちは知っていたのです。小波先輩の好んで飲んでいるものを。  「そのままじゃあ甘すぎるんだよね」  先輩は得意げにいいます。ああ、オレっちは気が狂っていたのでしょう。そうでなければ、あんなひどいことを、体育会系の金科玉条――先輩に逆らうべからず――を犯してまで口にするはずがありません。そうです。うちの部は温厚な先輩がそろっているけれど、ほんらい野球をする人種は、甲子園をめざすよりもさきに、生意気な後輩をノイローゼに追いこむのに死力を尽くすものです。いえ、ウソです、やはり気が狂っているようです。  「先輩ってビンボー性なんですね」  「なッ」  「というかリアルにビンボーですよね」  「ななッ」  ピキーンというぐあいに、先輩は絶句して、雪祭りに展示される氷の彫刻になってしまいました。真夏なのに。すると、親友である矢部先輩がオレっちにむかって「手塚! それは失礼でやんす。たしかに小波君の家は狭いでやんすが〈猫のひたい〉ってほどじゃないしかなり老朽化が進んでるでやんすがクラシックと言えないこともないでやんすしお父さんは平日でも暇そうにしてるでやんすがたぶん無職じゃなくて大工さんとかそのへんでやんすしグローブもバットもぼろぼろでやんすがおそらくそれは買いかえれないのじゃなくて長年使っているから打ったり捕ったりしやすいんでやんすー!!」とフォローなのかよくわからないセリフを並べたてます。それを聞いてか、氷の彫刻になってしまった小波先輩の瞳からは、冷たい涙がるると流れてとまらないのでした。傷ついているようでした。オレっちの家庭は、猪狩コンツェルンほどじゃありませんが平均以上は稼いでいて、小波先輩に対抗できる要素といえばその程度だったから、わざと貧乏ネタを持ちだしたのです。いま思いかえしてもひどいこと言ったなあと、みぶるいするほどです。ただ、そのときのオレっちは「してやったり」のあくどい笑みを口の端にうかべていたのでしょうが。  そんなふうに、レギュラー発表から大会がはじまる前日まで、オレっちは小波先輩の精神が割れて砕けて裂けて散るのを最終目標に、あらゆる誹謗中傷&罵詈雑言を乱発したのですが、先輩はそのときは凹んだとしても、まるで農家のにわとりのように、三つ歩けば忘却のかなたへ毒舌をフェードアウトさせることができる幸せな人間なので、しだいにオレっちのほうが疲れてげんなりきてしまいました。  やがて大会が近づいてき、前日にまでさし迫ってきました。小波と矢部の両先輩は最後の大会にむけて闘志を燃やし、グラウンドはさながらキャンプファイアで、完全にふたり浮いていると思いきや、ほかの部員も影響されて燃え出しました。オレっちの親友、二中の盗塁王だった円谷一義も、1年次に自分のミスで負けた経験のせいか、小さな火の玉となってベースランニングを飽くことなくつづけていました。パワフル高校の名はダテじゃないね。とか思っていると、休憩のときに、栗原先輩がオレっちの横にすわって、「手塚くん、調子どう?」と、心なしか上気した感じで優しくきいてくれたのです。オレっちは空に舞いあがる幸福でいっぱいでしたが、それはあした先発する後輩にたいする単純な応援のことばだときづいたので、まるでペンギンのように、地面に墜落してしまいました。  「あの」  オレっちはどきどき胸をならせて、ひとつ質問しました。  「栗原先輩ってどんな選手が好きなんですか?」  意中の女性(ひと)の、理想の選手になれば、もしかすれば、オレっちにも可能性があるだろうかと考えたのです。すると彼女は、カルシウムが燃えているのかだいだい色のオーラを放ちつづける小波先輩をちらっとむいて口を開けかけたので、いや違うそんなこと聞きたいんじゃないって、と、オレっちはとっさにことばをかぶせました。  「こな「投手限定! ……で、お願いします」  「う、うん」  栗原先輩はオレっちの変なテンションにとまどったらしいですが、しばらく考え、ぽつっと言いました。  「ヨコハマにいたササキ」  お察しください。これを聞いたときのオレっちの心情を。あちらは豪速球と、レベル7ですとーんと落ちるフォークを持った、絶対な抑え投手なのに、オレっちといえば、そこそこの直球とそこそこのカーブ・スライダーで、のらりくらりの先発投手です。ダメです。接点がありません。投手のタイプがちがいすぎて、もう、あべしッと叫んで破裂したい気分でございました。ルックスにしたってそうです。大魔神とあだ名される、巨躯でゴツゴツした顔だちのササキと、強いていえばなで肩で、魔神というよりいっそ菩薩みたいな、ボンボン丸出しのつるりとした面長のオレっちでは、ああ、どうしたってダメなのです。  「ねえ、手塚くん」  落ちこんでいるオレっちに、栗原先輩は言いました。  「明日、ぜったい勝とう。オーッ」  力こぶしをつくって、ひとり意気ごんだ彼女の姿は、そそられるものがありました。そのあと照れて「なーんてね」と恥ずかしそうに笑うさまも、キューティでした。ハニーでした。そのとき決めたのです。オレっちは、ハニーのために、この夏の大会はササキになってやろうと。手始めにフォークを習得しようと試みました。大会前日のことでした。  (佐々木……ささき……ササキ……Sasaki)  市民球場のマウンドで、何度その名前を唱えたことでしょう。が、いくら唱えても豪速球は放れませんし、習得を試みたフォークは失敗に終わって、チェンジオブペースの効果すらなく痛打されました。顔をさわってみても、ほお骨すら出る気配がありませんでした。  「おい手塚! なんでスライダーとか投げないんだよ!」  「というかフォームが乱れてるぞ。注意して」  「先頭打者に四球はマズイでやんす。失点のきざしでやんすー!」  マウンドに集まった内野の選手(小波先輩もそのひとりです)がオレっちに言います。真後ろにいるはずの、センター矢部先輩が、知ったふうに告げてきます。けっ、うそだ、迷信だ、気分の問題だ、じつはそんなことないって新聞にも週間ベースボールにも載ってたぞ、と、オレっちは聞く耳持たず、マウンドにたち尽くしました。  もうめろめろで、何を考えるのもおっくうでした。ただ、バス停前高校、相手の高校です、その校名が、回を追うごとに自責点を増すオレっちに、まるでわけのわからない、エッシャーのだまし絵のごとく襲いかかり、意識を裏返しては元通り、裏返しては――をくり返させます。なんせ『バス停前高校』ですよ? 『学園前のバス停』はよくありますが、バス停のほうが先にできて、よって校名になるなんて、パラドクスというか鶏卵の問題といおうか、キャッチ=22的状況と呼ぼうか、変にあたまの中でこんがらがりました。と、  ――カキーンッ!!  ありきたりな快音が聞こえて、オレっちの自責点は5にまで増えました。矢部先輩が、ああやっぱり! といらだちながらクッションボールを処理していました。試合は5対2と3点負けており、しかも、9回表なのでした。致命的な失点です。  絶望的でした。汗が黒い幕のように意識におおいかぶさってくるように感じました。どうしたって投手はこんなにしんどい思いをしなければならないのでしょう? 現代野球において一番の被害者は投手です。しんどい、孤独、責任重大。そのわりにもてない。ははは、オレっちなんで投手なんてしているのかと、集中力が切れて、オレっちはロジンバックをもてあそんだまま、ベンチをチラ見すると、ハニーが両手を組みあわせて祈っていました。  (わあ……)  見とれてしまった。そして、むごい、そう思いました。ハニーの(いえ、ふざけるのは止します)、栗原先輩の祈る姿は、真摯で、清楚で、いっさいの付加価値をはねのけ、ただマネージャーとして、専一に勝利を願っていました。オレっちは泣きそうになりました。オレっちが普段どおりにおさえればササキとは遠くなり、逆にササキになろうとすれば、『二中の快速急行』は、さほど速くないくせに、騒音と黒煙で周りに迷惑をあたえる『暴走機関車』と化し、栗原先輩の願いを壊すことになる。どうしようもないではありませんか。そして試合は3点ビハインド。4点目はとどめの一撃となるでしょう。オレっちは、むごい恋のジレンマにあたまをかかえました。誰か、と内心でつぶやいたとき、サードの小波先輩が言いました。  「自信のある球で勝負すればいいんだ。手塚!」  先輩はほがらかに言って、オレっちに笑顔をむけました。先輩はぜんぜん諦めていませんでした。この窮地に、後輩の背中を押してやる余裕さえあったのです。眼はこれ以上ないというぐらい輝き、わくわくしたふうに体を動かしています。「ぜったい負けないぞー!」とひとりごとをいう小波先輩の顔には、単純に野球を楽しむ心しか見うけられませんでした。  負けたと思いました。  オレっちは、栗原先輩が小波先輩に心をよせる理由が、そのとき、はっきりしたのでした。いつもは平々凡々ですが、野球をしている小波先輩はとてつもなく魅力的なのです。オレっちは、はい、わかりましたと返して、カーブとスライダーで打者を料理しました。  「ドンマイ手塚くん」  栗原先輩がとなりに座り、タオルを渡して、そう言ってくれました。が、オレっちはまともに顔を見せることができませんでした。9回で3点ビハインド、ひっくり返せないこともないですが、敗色濃厚なことにかわりはありません。オレっちは、タオルをあたまにかけたままベンチでうな垂れました。  「心配しなくていい。きっと小波くんが逆転サヨナラしてくれるから」  そんな、栗原先輩の、妙に自信ありげな声だけが、タオルごしの耳に届きました。無理だ、そう思っても、怖くて口には出せません。前の回のラストバッターがオレっちでしたから、いまは先頭打者の円谷が打席に入っているはず。  と思った矢先、キンと音がしてキャーッとベンチが沸き、ボールボールボールボールと聞こえてギャーッ! と騒がしくなり、コンッと勢いを殺した接触音でぐぇああーー!! と興奮が最高潮。オレっちは、グラウンドを見たくてしかたがありませんでしたが、いまオレっちが見てしまったら、良い状況が一変してしまいそうで、うつむきつづけました。  「栗原先輩。……いま、どんな状況なんですか」  「えっ? 円谷くんがセンター返しして、つぎに四球が出て、  3番の矢部くんがセーフティバントで……満塁になってるよ」  「!」  びっくりしました。超予想どおりでしたが、あまりに劇画的すぎます。  「小波くん、お願い……」  また、栗原先輩の切実な祈りが聞こえました。オレっちはジェラシー真っ只中でしたが、同時に、小波先輩、頼むから打ってくださいと、アンビバレンツな心情で、目を見開きながら、タオルのかぶさった狭い世界で祈りました。あっ、栗原先輩が声をあげます。オレっちも顔をあげてグラウンドを眺めると、瞬く間もなく、爽快な炸裂音が球場に反響して、白球は大花火のようにたかだかと、夏の空に舞いあがったのです。    サ ヨ ナ ラ  パワフル高校ベンチに、その単語が浮かびあがりました。とたん、アマゾンの密林みたく、獣じみた歓声と咆哮が、耳をつんざきます。小波先輩はバットを木の葉のようにクルクル回して手からはなし、ガッツポーズをベンチに見せながら、バス停前高校のナインがひざからくずれ落ちる中、ダイヤモンドをゆっくりとまわるのでした。男のオレっちから見ても、小波先輩はハンパなく格好よかった。  「きゃー! やった、やったー!!」  ふわっと、柔らかい感触をとなりに感じて、なんだと思ったら、よろこびを爆発させた栗原舞が、オレっちのからだをぎゅっと抱きしめ、ほおずりをするぐらいに密着し、ぴょんぴょんとからだを揺さぶっていたのです。女の子に通有する、あの、なやましいメロウな匂いが鼻をくすぐりました。むごい、むごすぎると思いつつ、  (わあ、しあわせだなあ)  幸福を感じることの不幸をもわかっておりましたが、やはり、幸福だったのです。永遠につづいてくれとオレっちは願いました。しかし、それもつかのま、ダイアモンドを一周した小波先輩が、ホームベースを踏んだのが地雷のスイッチで、メンバー全員が一体となってグラウンドへとなだれこみ、栗原先輩もいうにおよばず、とてつもない怪力で、おそらく無意識のうちにオレっちを突き飛ばし「小波くん最高ー。大好きー!」と甘ったるいセリフをどさくさにまぎれて発しながら、ベース上の輪にくわわったのでした。  「…………」  オレっちは突き飛ばされた状態のまま、つまり、ベンチにキスした状態で放心するのでした。ファーストキスは青いベンチ――この声が枯れるくらいに君に好きといえばよかった、なんて、歌える身分でもありません。泣きました。だっくだく泣きました。勝利の歓喜に包まれたチームとはうらはらに、片思いがみじめに終わろうとするのを感じながら、オレっちはまた、泣きじゃくったのでありました。そして脱力無心で、ああ春は遠いなとつぶやいてハッとし、そりゃあそうだ、いまは夏なんだから、と、わけのわからない悟りをひらいたのです。   おしまい