辻老人の悔恨(カリート様作) 日付が変わるちょうどの時に、辻浩介は救命救急センターに運び込まれた。 もともと悪かった内臓の発作のためだった。即座に開腹手術が行われたが、 辻老人の様態はきわめて悪く、術後、その日の夜を越すか否かが「峠」で あるということだった。 齢60を過ぎた辻浩介だったから両親はすでになく、 妻もまた数年前に鬼籍に入っていた。 ふたりの息子はそれぞれ出向により地方の会社に勤めている。 駆けつけるには時間が足りなかった。 発作で倒れてからずっと、辻老人は空虚が歪んでいくような景色を見つづけている。 空虚には色がない。白でもなく黒でもないものがドロドロに溶けて渦を巻く。 それが手術の終ったころ、ある断片的な記憶を形作って彼を苦しめはじめたのだった。 きれぎれの映像と音声が現れた。 ドーム球場。夜間照明灯に照らされるもやと紫煙、重苦しい空。 止めどなくグラウンドに流れこむ悪罵。 接戦の試合に通有する、擦り削りあうような空気。 最高に高まる集中力。 スタンドの喧騒、それらとは果てしなく遠い、選手たちの専一な勝利への執念。 マウンドに男が上がる。緊張に飲みこまれないために、口を真一文字に結んで 呼吸を整える。追いこんで最後の1球が投じられる。ストレート。 辻の、自らの叫びが体を振動する。球場がどよめく。 マウンドの男はグローブを叩きつける。殺しても飽き足りないというような顔。 次に男が近づいてくる。 ……鮮明さを欠いた、整合性もない記憶たち。それでも辻を苦しめるには十分だった。 辻はすべてを理解していた。悔恨が彼を襲う。額に脂汗が浮く。 「やはり違ったのか、やはり」辻は絶望的な心で問いかけた。 「誰か教えてくれ」彼は頭の中でつぶやく 「誰か」答えはない。…… 薄目が開く。辻浩介は目覚めた。 白熱灯の強いながら範囲の狭い光が彼と彼の寝ている病院のベッドを照らす。 どうやら個室らしい。光の当たらない暗い天井が見える。 脇に質素なスタンドと、その上に花の活けられていない花瓶があるのが横目でわかる。 付けられている酸素マスクの冷たい湿り気が気持ち悪かった。 辻の年寄りらしい、しみの出来た細い右腕から管が伸びて、点滴の袋につながる。 「ふう」 辻はひとつため息をついた。彼は先の夢とも呪いの結果ともわからぬ映像を きっかけに、思い出したくなかった、ある試合のできごとを回顧した。 辻浩介は2年前に引退するまでの30年間、プロ野球の世界で審判をしていた。 選手としては芽が出なかったが、野球の詳しさと愛着に関しては誰にも負ける気が しなかった。だからゲームをやる上で大事な協力者である審判の職に就いた。 元来、無愛想な男で選手たちからは良い心象を持たれていなかった。 頑ななまでに判定を揺るがさない彼の態度はときに横暴だと批判された。 しかし結局引退するまで一度も判定を覆すことはなかった。 ある時期からそれが彼の矜持になっていたのも要因だった。 そんな彼がまだ駆け出しの頃のことだ。その年、ペナントレースは プロ野球史上まれにみる混戦が繰り広げられ、そのまま10月までもつれ込み、 優勝の行方は1位チームと2位チームの直接対決で決まるという ドラマチックな展開をみせた。辻浩介はその試合で球審を任された。 あの日の記憶は曖昧だった。大試合で球審をする興奮で熱に浮かされていたのか、 あまりの重圧に頭が空白になっていたためか、判然としないところが多かった。 ただ投手戦で同点のまま進行する試合展開や、二度の疑わしいジャッジのことは 覚えていた。それはあとになって新聞や雑誌で見たもののようにも思われた。 その二度のジャッジとはこうだった。 二回、ビジターのチームがレフトポール際にファールを放った。 線審は(この頃はまだ線審が配置されていた)ファールだと言ったが、 打者は角度と手応えから、そんなはずはない、ポールを巻いたはずだと抗議した。 次に、ホームチームが攻撃中、一死一塁でセカンドに打球が転がった。 二塁手が遊撃手に送球、そのあと一塁に転送されダブルプレーが完成。 そう思われた。しかし塁審は、遊撃手が捕球したときにはすでに足が ベースから離れていたとして併殺を認めなかった。スタンドから歓声があがった。 慣例上、多少足が離れていてもアウトにすることが普通のため、 これにはビジターチームも黙っていなかった。監督が出て塁審に詰め寄った。 しかし足が離れていることは事実なので、監督も強くは抗議しなかった。 今度怪しい判定があったらただじゃおかねえぞ、選手たちはそう思っていたに違いない。 試合はそのまま終盤に移った。 そして8回。 ホームチームが2アウトながら満塁のチャンスを得た。 先発の投手が降板して、将来を有望視されていたひとりの若手投手に マウンドは託された。名前は松浦といった。彼のことは現在でも しばしば話題になる。――悲劇の本格派右腕。それはこの試合によるものだった。 松浦は、ボールが先行したが、威力あるストレートと外角ぎりぎりを 鋭くかすめるスライダーでフルカウントに負いこんだ。 そしてラストボールを放った。辻はこの一球をよく覚えていない。 何しろ球場中が息づまる興奮と獣のような狂気の応援で包まれて、 辻の意識は遠く奪い去されてしまっていた。めまいに似た残像を見た。 そのころには白球はミットに納まっていた。際どいコースだった。 球審である彼は何の根拠もなく「ボール」と判定した。 不安がのど元にこみ上げた。瞬間、あっけに取られた声が球場中に広がり、 次に意地の悪い歓声が湧いた。 押し出し。 決勝点になる一点がホームチームに追加された。 判定に松浦とそのチーム全員が激怒した。松浦はマウンドにグラブを叩きつけ、 辻に迫った。辻は怯えた。人間はこれほど醜悪に顔を歪められるものなのか。 ふいに逃げ出したくなった。と、ヘッドコーチの男が彼に体ごとぶつかってきた。 「お前、カネでももらってんのか!」「この下手糞が」「勘弁ならねえ」 本塁に雪崩れこむ選手たちのそんな台詞が辻を貫いていく。 松浦が近づいてきて、辻の胸倉を掴んだ。 「今のはストライクだ。正真正銘のストライクだろ!?」 悲壮な声色で辻に問いただす。辻はのどが凍りついて何も言えない。 松浦は味方の誰かに引き剥がされた。目に涙が溢れていた。 辻は動揺を隠して、ヘッドコーチに退場を命じ、試合の再開を促した。 松浦はマウンドに上がり次の打者を抑えてベンチに戻った。 さらなる事件はそこで起きた。鬱憤晴れぬ松浦はベンチの壁を利き腕で これでもかとばかりに殴りつけた。止めるのも聞かず、彼は薬指が折れるほど 壁を殴ったのだ。 試合は結局ホームチームが勝ち、優勝を果たした。 ビジターチームは最後まで不満顔をして引き揚げた。 松浦は指を骨折し、その後完治しても球威は復活せず、泣かず飛ばずの うちに戦力外通告を言い渡された。あの試合、あの一球が彼の選手生命を縮めた。 辻の誤審が選手としての彼を殺したのだ。誰もそうは言わなかったが、 辻は自分でそう思っていた。どんなに忘れようとしても、 あの日のできごとは腫瘍のように彼の頭に居座りつづけているのだった。 (松浦を追いこんだのは俺だ。俺の誤審だ。あれだけじゃない。 俺は怪しい判定をいくらでもしてきた。あとになって考えれば誤審なんて 星の数ほどある。なんと罪深いこと) (俺は公正にジャッジを下すよう努めてきた。しかし本当に正しいなんて 言いきれるわけがない。あの試合に関していえば、完全な誤審だったようにも思える。 いや、きっと誤審だった。新聞でもスポーツニュースでも、あれは ストライクだったという意見が多かった。俺のせいで松浦という将来ある 若者が埋もれてしまったのだ) (俺がいまこうして、干乾びた体を病院のベッドに張りつかせて、 ひとりの見舞いもなく死にかけているのも何かの罰に違いない。 俺は横暴だった。独善的に過ぎた) 麻酔で無感覚な腹の当たりがうずいた。呼吸が苦しい。衰弱した辻老人には あえぐことすら叶わなかった。彼は悔いていた。意識が薄らぐ。 漠とした状態で彼は訴えた。 (誤審を訂正させてくれ。あの試合をやり直させてくれ。 俺の失態で歴史が変わった。ひとりの投手が消えていった。 俺は死んでも死にきれない。誰か願いを聞いてくれ……) そのときだった。辻の脳裡に直接、〈声〉が入りこんだのだった。 ――望みをかなえてあげましょう」 脳に直接響く。それは男でも女でもない声調で、彼に聞き返す。 ――本当に自分のやったことが間違いだと思うのですね?」 辻の意識は空虚に飲みこまれかけて、もうそれが何者なのか怪しむ 余裕すらなかった。辻は素直に、震える声で「はい。間違いありません」と答えた。 その〈声〉は「よろしい」と言った。それを聞き終えて辻浩介の意識は途切れた。 再び目を開けた辻浩介は、両足にたしかな重力を感じた。 視界が鮮明になると、満員の外野スタンドを見て驚きの声を漏らした。 聴覚が、触覚が、嗅覚が突如働いて彼をどぎまぎさせた。感覚した結果、 辻の立っている時間と空間は誤審を犯したあの日であることに間違いないと思われた。 彼は過去に舞い戻ったのだ。 辻は全身に冷気が吹きかかるような硬直の感覚を持った。何が起こったんだ。 俺はさっきまで病院にいたのじゃないのか。彼は混乱した。 はっとしてチョークで書かれた掲示板を見やると、8回無死となっている。 運命のあのときが近づいている。彼はじょじょに事態を飲みこんだ。 (これは夢なのか。あの〈声〉の仕業なのか) 右顧左眄する。すると選手たちが細い眼でこちらをうかがってくる。 辻は何とか取り澄まして試合を進行させた。 (いや、そんなことはどうでもいい。俺は今度こそ正しい判定を下そう。 松浦のラストボールを、ストライク、そう言うんだ) そう自分に言い聞かせてみても何か半信半疑なところがあった。 しかし、8回の攻撃はまさにあの日と同じく進んだ。ヒット2本のあとの四球。 守備側のベンチが急に慌ただしくなる。辻の疑いは経過とともに一つずつ むしられていく。マウンドに投手コーチが歩いていくときには、辻はもう すべてを信じきっていた。 (これは夢なんかじゃない。俺は過去にいる。願いが叶ったんだ) 辻は胸の高ぶりを抑えつつ、マウンドの様子をうかがう。 先発投手がコーチにボールを渡す。リリーフカーがやってくるのと同時、 ウグイス嬢が交代を知らせた。 『ピッチャー××に代わりまして、松浦。背番号34』 観客のブーイングを浴びながら、松浦はマウンドに上がる。 罪悪感から辻はわびたい気持ちになった。まだ起こっていないことで わびるというのは変な心持ちだったが、実際そうだった。 辻は思いなおして胸のうちでつぶやく。   (俺は誤審を覆すためにここにいるのだ。謝る謝らないなどと考えるのは おかしなことだ。松浦の一球を「ストライク」と言う。ただそれだけだ。 そのためには意識を明瞭にしておかなければならぬ。さあ、判定に命を賭けよう)  ふと松浦の顔をながめた。辻はそぐわない印象を持った。マウンド上の 松浦はへらへら笑いながら投球練習をしている。辻の記憶ではもっと精悍で 凛々しい顔立ちのはずだった。しかし背番号やフォームから松浦であることは 疑いようがなかった。  試合が再開された。松浦は「あの日」と同じようにボール先行がしたが フルカウントまでたどり着いた。辻は精神を集中させて判定を行った。 しかし、ここでも何か違った。 (松浦はもっと力のある球を投げる男じゃなかったのか?  切れ味鋭いスライダーを放る投手では? 今マウンドに立っているのは根拠のない自信を持つただの平凡な 選手にすぎない。あれは本当に松浦なのか。いや、勘ぐるのはよせ!  次の一球、俺は「ストライク」と叫べばそれで後悔は晴れる。俺よ。辻浩介よ。 お前はそのことで20年も苦しんできたのだろう。 だから、何も考えず叫べばいいのだ。わかったか……) 辻が頭ごなしに自分を説き伏せたそのとき、マウンドの松浦はセットポジションで ラストボールを放った。観客が一瞬鎮まった。右打者の外角へと伸びるストレート。 辻は凝然とそれを見た。高さは申し分無い。 鈍い回転のかかった白球がベース上を……通らない。 松浦のストレートはゾーンに入っていなかった!  彼は驚きに目を見開いた。俺はこのボールをはっきり見たことがある、そう感じた。 瞬間、彼の脳裡にビデオテープが高速で巻き戻されるように、すべての記憶が甦った。 「あの日」の記憶の断片は繋がった。のどが鳴る。 体の芯から来るふるえを伴いながら、彼は毅然とした物腰で判定を下した。 「ボール!!」と。 息を吸いこむふうにして辻浩介は目覚めた。そこはもう何処かわからなかった。 光の向こう側のような視界。水中に浮き沈みするような感覚。 うららかな春の日差しにいるような幸せの匂いがあった。辻はそこをたゆたっている。 と、あの〈声〉が呼ぶ。 ――あなたの願いは叶いましたか?」 「いや。結局もとのままだ。でも、俺はもっと大切なことをわかった気がするよ」 ――というのは」 「俺はこれまで、あの日の試合、自分が呆然としたまま審判をやっていたと思っていた。 しかし違ったんだ。俺はしっかりとこの目で見、確固たる心で判断をした。 ストレートはシュート回転してベース上をボール半分ずれた。 「あの日」の俺もそれを知っていた。だからボールと判定したんだ」 ――それをずっと忘れていたのですか?」 「ああ。優勝決定戦という空気のために、周囲は尋常じゃなかった。 ビジターチームは強引に抗議するし、解説者なども俺の判定を疑問視した。 松浦はあの試合のせいで選手生命を自ら絶った。マスコミは松浦を悲劇の 右腕として美化し、実力以上に持ち上げた。それらが重なって、俺は自分の 判定に自信を失っていったんだ。あれはきっとストライクだったのだ、とな。 そしていつか記憶の海にあの試合のことを沈めた」 ――……なるほど」 「しかし真実は俺にあった。俺は問題のラストボールの瞬間、もっとも近くにいた 人間の一人だ。そして公正な立場にあった唯一の者だ。俺は誰に何を言われようと、 それが確固たる心で判断したのなら自信ですら揺るがすべきじゃなかった。 俺は審判なのだから!」 〈声〉は何も言わなかった。が、辻には〈声〉が微笑んでいる様子が 何となく想像された。辻はこれまでのジャッジを思い返した。 「後悔や反省なんて簡単にやってはいけないんだ。俺は疑わしいジャッジを 何度もしてきた。しかし弛緩したまま判定したり、どっちでもいいと投げやりに 選んだりしたことは一度もなかった。何かしら根拠があった。 それは後悔や反省の論拠よりずっと確かだ。だから一度下した判定は改めて 覆すことはしなかった。 俺は正しくはなかったかもしれない。だが、俺は間違っていなかったはずだ」 ――あなたは先ほどまで自分を責め抜いていましたが、今はまったく違うようですね」 「そうだ。他人は俺を評価するどころか毛嫌いし、不信の目で見、軽蔑したが、 俺はまったく信念に基づいて仕事をやった。ずっとそうやって生きてきた。 そう思えば何と激しい生き方だったろうか。俺は自分に平伏する気持ちだよ」 ――ふふふ」 〈声〉は母親のように笑った。辻も愉快になった。感謝したい気持ちが湧いて出た。 「……何よりそれがわかったのもアンタのおかげだ。いったいアンタ何者なんだ?」 ――呼び方は色々ありますけどね」 「ん?」 ――死神と言えばわかりやすいでしょう。臨終の前に私は人々の前に現れるのです」 「…………」 辻はどきりとした。それは悪いふうではなかった。もしやと思ってはいたが あまりに非現実的なので信じなかったことを、さらりと言われたので驚いたのだ。 辻は〈声〉の言葉を飲みこむと腹の底から笑った。 「死神も悪い奴じゃないんだな。最後に心の鬱積を晴らしてくれるなんて」 ――死神法が変わったのです。8条1項、死神は臨終の場に立ち会わなければならない。 2項、死神は各国で定められた臨終の合図を人間に知らせなければならない、とね」 「その臨終の合図とは何なのだ?」 ――西洋では薔薇を送るし、日本でも前は他人との握手だったのですけど。 味気ないということで法改正がありました。 今は死神に向かって「ありがとう」と言うのが合図です。 「ありがとう? そうか、そりゃいい。わっはっは。こりゃあ滑稽だぜ」 ――ふふ。今度の法改正は各国でも評判が良いんです」 「だろうな。 なあ、死神さん。ありがとう。本当にありがとう」 ――どういたしまして。では、そろそろ逝きますか。時間が迫ってきました」 「わかった。アンタのおかげで俺も思い残すことはないよ。さあ、連れていってくれ」 ――……いざ、黄泉の国へ」 そういうと〈声〉は一つの光になって残像の筋をつくり、辻浩介の魂を導いた。―― 病室では心電図が水平になり、耳にわずらわしい電子音が抑揚なく鳴っている。 心臓マッサージを行ったせいで額に汗をかいた医者は、時計で時刻を確認して 厳かに言う。 「3時25分。辻浩介さん、ご臨終です」 医者もナースも、看取る肉親のいない老人を哀れんで顔を歪めた。 しかし眼をねむる辻の表情には微笑さえあった。 辻浩介の葬式には球界から、おそらく辻本人としては予想外に多くの人々が参列した。 人々は心底辻の逝去を悼んだ。その証拠に、彼らの弔辞をいくつか抜粋しようと思う。 ○ ある現役選手 『辻審判のジャッジにはいつも舌を巻く思いでした。 他の審判ならこっちに有利になるような判定ミスを期待できるが、 辻審判じゃお手上げだと、よく仲間と話したものです』 ○ 監督経験者の解説者。 『辻さんとは判定をめぐってよくイザコザを起こしたが、審判員の中で もっとも信頼に足る人物といえば辻さんを置いて他にいなかった。 彼は野球選手にとって最高の仲間だったよ。本当に惜しい人を亡くした』 ○ リーグ審判部長 『毅然とした態度。厳正なジャッジ。辻浩介はのちに審判部長になるはずだった。 また同時に若い審判の手本となるべき男だったと私は思う。傑物だった。 ――彼こそ名審判だ』                              (了)