自慢の兄ちゃん(カリート作)    「みんな! 今日はおうちの人の話をしましょうねー」  先生が無理におどけた調子でそう言うと、パワフル幼稚園の無邪気な子どもたちは「はーい!」と声をそろえて返しました。 園児たちを名前の順で4人づつに分けて、お互いの家庭の話をさせるという目的でした。マットの敷かれた教室に数グループができました。    クラスの中でも活発で人気のある女の子で、6才にしてはちょっぴりませた長澤悠ちゃんは背筋を伸ばして、ぽけーっと座っているグループの子に勢いよく自慢話をしはじめました。  「うちのお父さんはー社長さんなの。だからいっぱいお金もってるんだ」  「お母さんは料理が上手で、いつもおいしいごはんをつくってくれるの」  「おうちのまえにはクルマがいっぱいおいてあるんだー」  「お父さんとおかいものに行くといつもおもちゃかってくれるんだよー」  悠ちゃんの自慢に同じグループのふたりは「うわーいいなー」「ユウちゃんすごーい」と抑揚のない声を上げました。 話の内容にというよりは、悠ちゃんの自信たっぷりな話しぶりに対しての反応だったからです。 そのうちのひとり、塚本くんはちょっと遅れてまた「いいなー!」と言いました。彼女は得意げにふふっと笑いました。 が、何の反応もしなかったグループの残るひとりの子に目を向けると、たちまち真顔にもどってしまいました。  「翔太くんきいてたの!?」  「なんだよう」  友沢翔太は顔をあげずに短くそう言いました。翔太は話に参加せず、あぐらをかいて座り、園児には大きすぎる野球グローブをいじっています。  「ねえ」 悠ちゃんがしつこく声をかけると、翔太は背を向けてしまいました。  「こらー翔太くん。参加しないとダメでしょう?」  先生が中腰で翔太をさとします。翔太は「うん……」と小さな返事をして、グループの輪にもどりました。この若い女教師は翔太の沈んだ表情に気がつきませんでした。  悠ちゃんは翔太の正面に座って顔をのぞきこむようにし、話を繰りかえしました。 さっきよりもっと詳しく。両親のこと、大きな3階建ての家のこと。子どもには馴染みのない外国製の車や、店頭に陳列されているような最新のおもちゃの話です。  グループのほかのふたりはあいづちを打ったり悠ちゃんに質問をしたりしました。 が、彼女は答えず、翔太に向けてだけ話しつづけます。とうの翔太はうつむいて革のグローブの匂いをかいでいました。 その姿は、どうしても聞いてやらないといった態度を消極的に表しているようでした。  「すごいでしょあたしは。翔太くん、うらやましいでしょ?」  「…………」  翔太は自分の髪の毛をぐしゃぐしゃと触るだけで、何も言いません。  「こんどあそびにきなよ。ガンダーロボだってなんだってパパが買ってくれるわ」  「ぼくもいきたいー」  「塚本くんはだーめ!」  「えー」  「ねえったら。グローブなんておもしろくないんだから」  「あッ。 なにするんだ」  悠ちゃんは翔太の手からグローブを奪いました。翔太ははじめて顔を上げました。 その二重の大きいきれいな目はうるんでいました。花びらのように小さなくちびるをかんで、悠ちゃんをにらんでいます。無言で悠ちゃんの手からグローブをとり返しました。 じつのところ翔太はクラスの中で一番力持ちでしたから。  とり返したグローブは、けっして新品ではありません。むしろボロボロに傷んでいます。 革はざらざらとした感触がして、汗特有のすえた匂いが混ざっていました。 グローブの先には土がこびりついて、グローブの紐はところどころすり切れたり細くなっていました。  翔太の家は、ちょうど悠ちゃんのように、裕福な家庭ではありません。 父親はおらず、母親は今も病気で入退院を繰りかえしています。 量はあるけれど舌を満足させてはくれない出来合の料理。  借家の家賃は驚くほど安いものでしたが、わずかな金銭は最低限度の生活のために使われて、内部を充実させるほど余りはしないのでした。 運転する者がいないので車は当然ない。翔太と、その年子の姉は子どもらしい玩具なんて何ひとつ持っていませんでした。  そんな彼にとってグローブは宝物でした。年の離れた兄のお下がり。 現在大学生であるその兄が高校時代、一年生ながら甲子園で優勝投手になったころ使っていたという立派な投手用グローブで、甲の部分には名前が青い糸で刺繍されています。  『友沢亮』と。  兄は翔太にとって父親代わりであり、あこがれであり、唯一できる自慢の種でした。  「へん! ぼくの兄ちゃんなんか日本一すごいんだぞ」  翔太はじっと悠ちゃんを見つめたまま、強く、意地の悪い口調で言いました。 翔太くんは負けず嫌いだけど優しい子なのに、今日はいったいどうしたのだろう?  教師は疑問に思いました。しかし「子どもだから虫の居所が悪かっただけね」とか、単純に考えました。  「ぼくの兄ちゃんはね、野球のせんしゅなんだ。兄ちゃんはやんきーすのバンドーとかぱわふるずのフクカなんかとか、……もう、どんなプロのせんしゅよりうまいしかっこいいんだ。  みんな兄ちゃんのサインをほしがってるんだ」  「うそッ!」  悠ちゃんは不安そうに叫びました。  「う、うそじゃないよ。足も速ーいの。だから車なんていらないんだ。  あんなの足がおそい人のためのモノなんだ、きっと」  「…………」  「ねえ、イカリマモルよりかっこいい?」  悠ちゃんは口をとがらして翔太の話を聞いています。と、お父さんが大の野球好きである塚本くんが口をはさみました。翔太はいきおいよくうなづきました。  「イカリマモル? イカリマモルなんか兄ちゃんといっしょにしちゃダメ。兄ちゃんは……あーそうだ! 兄ちゃんは160キロが投げられるんだ。日本人でたったひとりなんだ」  「ほんとう?」  「ほんとう。兄ちゃんはコウシエンでゆうしょうして日本一のぴっちゃーになったから、今はもうなげない。(いまは日本一のばったーなんだよ)。 だけどぼくが赤ちゃんのときに145キロ出せてたんだって。だったら160キロぐらいかんたんに出せるはずだー」  「すげー。ぼく翔太くんの兄ちゃんに会いたい!」  塚本くんはアオ鼻をたらしながらいいました。「はいティッシュ」と翔太が渡しました。 彼は鼻をかんで、また「すげー」と言いました。翔太ははじめて得意げに微笑みました。  「そんなのすごくない」  すっくと悠ちゃんが立ち上がりました。不機嫌そうに眉をよせています。  「野球がじょうずだからなに? お父さんのほうがすごいんだから」  見下ろされるのが不快だったので、翔太も立ちあがってから反論します。  「そんなことないよーだ! プロやきゅうでかつやくしてる人のほうが、社長なんかよりもっとお金持ちだし、ぜんぶの社長よりすくないと思う。兄ちゃんはもっとしたらプロで『サンカンオウ』になるんだぜ」  「サンカンオウって何?」  塚本くんの質問に翔太はぎょっとしました。うーんと唸っています。目線をあげて 「サンカンオウ……サンカンオウ」とつぶやきながら、必死に考えこんでいるようすでした。  間をあけてから、ぎこちなく答えました。  「あのね! ……日本で、イチバンすごいせんしゅが、王さまになるんだ。兄ちゃんは王さまになるんだ!(きっと)。社長より王さまのほうがすごいんだぞー。べー」  翔太は悠ちゃんに向かって舌を出しました。彼女はかんしゃくを起こしました。  「うそうそうそうそ! 翔太くんの話はみんなうそ!」  「へへーん。うそじゃないよ」  真っ赤な悠ちゃんとは対照的に翔太は涼しい顔でした。勝ち誇っていました。 と、翔太を見上げる視線があります。塚本くんでした。  彼は受け売りの知識ですが野球のことをしっています。  「ねえねえなんで翔太の兄ちゃんはプロやきうのせんしゅじゃないの?」  「どういうこと塚本くん?」  「あのねユウちゃん。こうこうを出たらすごい人たちはプロやきうにはいるの。『すかうと』って変な人たちがえらばれたひとにプロやきうへのキップをくれるんだってー」  と、塚本くんの口にした言葉で形勢は逆転しました。  「やっぱりウソ!」  悠ちゃんはしてやったりの表情。翔太を指差して大声で言いました。ほかのグループも、ふたりのやりとりにいつのまにか注目していました。  「こうこうのときで、その、プロのキップをもらえなかったのに、王さまになんか なれるわけないじゃん。そんなすごくないのよ。ふふん。翔太のうそつきー、うそつきー」  悠ちゃんは教室みんなに聞こえるように言いました。自分が人気のあることを幼いながらに知っていて、ほかのグループに味方を見出だそうとしたのでした。 成果はすぐにあらわれました。彼女の腰きんちゃくである渡辺奈々さんが、こう言ったのでした。  「奈々ちゃんしってるー。友沢くんのお兄ちゃんって肩がいたいいたいなんだって。昔うちのびょういんによく来てたの。 だからぴっちゃーじゃなくなったんだって、お母さんが奈々ちゃんに教えてくれたもん」  渡辺さんの家は祖父の代から接骨院を経営しているのでした。悠ちゃんはそれを聞いて飛び跳ねました。 「160キロなんてウソじゃない!」  さっそく本人を責めたてました。翔太はうつむいて「ほんとうだよ。ほんとうなんだよ」と繰り返すばかりでした。  クラスのみんなは無言でしたが、悠ちゃんの味方になりつつありました。 ただ事情の飲み込めていない数名(塚本くん含む)や、教室の出口の前に座って、園児たちを放任してミステリーの本を読んでいる若い教師は別にして。  「それにあたしイカリマモルはしってるけど、友沢くんのお兄ちゃんなんて知らない!だからイカリマモルよりすごいなんてウソにきまってるじゃん!」  悠ちゃんはとどめのセリフを口にしました。そのセリフは論理的にはまったく穴だらけでしたが、彼女の自信満々とした態度にほかのみんなはだまされました。  「わっ。ホントだ! 翔太はうそつきだー」  「うそついたらーいけないんだー。ドロボウの子分にならなくちゃいけないんだぞー」  「友沢くんってドロボウなんだ。こわーい」  口々にそんな声があがりました。翔太はぺたんと座りこんで何も言わなくなりました。 もとのようにグローブをいじりました。論争に勝ったことで悠ちゃんは満足げでした。 小さく丸まった眼下の翔太に、まるで王女のようにごう然とした物言いをしました。  「ねえ。あたしのほうがすごいっていったでしょ。今度うちによんであげよか?」  「……さいな……」  「えッ。翔太くん、なんて?」  「うるさい! ユウちゃんなんて大キライだ!!」    翔太はうずくまりながら怒鳴りました。  その声に「キャッ」とひくくおびえて、悠ちゃんの表情は固まりました。 そうして突然、テスト用紙のようにくしゃくしゃに顔を歪めて泣き出してしまいました。  泣き声は艶めかしい猫のそれのように、教室に響きました。  泣き声でやっと教師は本の世界から蘇りました。あの「変にそぐわない気持ち」を感覚していましたが、長澤悠が泣いているのを見ると、絶望的な気持ちになりました。 急いであやしにかかりました。なぜって、悠ちゃんの親は口うるさくて、泣いたとなれば面倒なことになるんじゃないかと思ったからです。  「ほら。どうしたのーユウちゃん?」  「えっく、えっう……翔太く……ひ、ひっく」  教師は翔太のほうを見ました。最初と同じようにグローブをいじる姿がありました。 教師のかたよった目にはそれが、ふてくされたワルガキの態度と映りました。  教師は事情を渡辺さんに聞きました。  「友沢くんがユウちゃんにウソばかりつくんだ。で、ユウちゃんのこと大キライだって言ったの。そしたら、ユウちゃん泣いちゃった」  「なるほどねえ」  翔太に近づいて若い教師は厳しい口調で頭ごなしに怒りました。  「翔太くん! ウソついちゃだめでしょ。なんで女の子を泣かしたりするの?」  「せんせえ、だって……」  「だっても何も、ウソはついちゃいけないことのよ。翔太くん! いい。わかった!?」  「ぐすッ。ウソじゃない……ほんとうなんだ……」  翔太の蚊の泣くような小さな弁解は、先生の耳に届きませんでした。 彼女は翔太にかまわずユウちゃんを、手をかえ品をかえて泣き止むように仕向けていました。    男の子らしい羞恥心から、顔をふせて涙を隠しながら翔太が泣いているのを教師は知りません。    若い浅はかな教師は、この未発達な心のどちらがより傷ついたのか、わかろうともしなかったのです。   (了)