絶好球(カリート作) 「じゃあ、パワプロする?」 と奈々子に言った瞬間、私は自己嫌悪におちいった。5.5畳の密室、一般的にいえば ひとり暮しの私の借家に男女が2人ってときに、何が哀しくてパワプロなんてしなくては いけないのだ。奈々子を見ればあっけにとられた顔で私をながめていたが、すぐさま 真顔を復活させて、困惑しながら「う、うん」と同意した。ああ、さらに自己嫌悪の私。 「ほらほら、用意して。私この部屋わかんないし」 いつもの横柄な態度を取りもどした奈々子は私のベッドの上でくつろいで、私の 知らない洋楽の曲を口ずさんでいる。斜めにすわった彼女はまったく無防備で、 シャツの襟からかたちの良い鎖骨が見えかくれする。きれいな足首がのぞく。 私といえば平常心を失って、ゆであがりそうな頭でプレステのコンセントや三色の コードをテレビに取りつけている。大学1年にもなって恥ずかしいが、私は今までの 生涯で、自分の部屋に女の子を入れた経験がなかった。 彼女は少し張ったあごを上に向けて、部屋を見渡す。 「あれ何?」 彼女は壁に貼ってある『思無邪』とかかれた色紙を指差した。 「おもいよこしまなし」 「おもいよこしまなし?」 「深い意味は俺もよくわからない。親父が受験のときにくれたんだ」 「へえ」 そこで会話はとぎれた。奈々子はまた、壁に吊ってあるアウターやお気に入りの Tシャツや、友達のくれた派手なバンダナを巻いたベーシストのポスターに見入っている。 私はそんな彼女のあらわな部分をチラチラ横目で見る。胸のふくらみ、腰の曲線、 長い髪のかかった白いうなじ……ああ、ごめんよ親父。今の私はよこしまだらけだ。   恋人同士になる一歩手前ぐらい――私たちの関係を、私はそんなふうに理解して いるのだけれど、恋する女心というのは男には対岸の焚き火みたいな不安定なもの (とはヴァージンキラー友人Sの談話)らしく、いまいちその先には踏みこめないで 今日まで来た。 奈々子と知り合ったのは4月、必修科目の教養ゼミの初回でだった。日本文学を 研究対象にしている教授は、ゼミ生15名に対して司馬遼太郎の小説を読んでこいと言って、 「まさか司馬遼太郎を知らないヤツはいないだろうな」と目だけは笑っていない笑顔で 聞いた。私は大学に入るまでブンガクというものに触れる機会がなかった。 それなのになぜ文学部に所属しているんだろうってな疑問はおいといて、私は正直に 生きるのが信条だったから、はにかみながら手を上げた。そのときに私の向かい側の席で、 同じような表情をして手を上げていたのが奈々子だった。かざした白くほそい手首が いやに印象的だった。 偶然なのか、それとも司馬遼太郎のご利益か。次のゼミの日、彼女は彼のとなりに 座った。大学も始まってまもないころだからだれもが何かにつけて人と交流しようと あせる。彼女もそんな気持ちがあったのかも知れない。年齢や出身地なんて当たり さわりのない会話をする。そうすると2人は同じ地方の出身で、大学近辺で一人暮しを しているという接点があることを知った。しかも目と鼻の先と言える距離のアパート。 自然、仲良くなった。 休みには街にくり出して2人でバカをやったり、くだらない話で半日喫茶店に のさばった。奈々子は女にはめずらしくオチのある話のできるコだった。私はどちらかと 言うと聞き手のほうだったから、そんな彼女とならうまくやっていけると思った。 奈々子は美人の部類だと思う。文学部っぽくいえば器量が良いってやつだ。 よく自慢する小顔につぶらな眼とうすい唇がおさまっている。茶に染めた髪の少し痛んだ ぐあいが私は好きだった。私はあごの張った女というのは好きじゃなかったのだけれど、 奈々子は例外で、その聞かん気そうなあごのラインは魅力的に私には映った。 ここまで言えばわかるように、私は完全に彼女に惚れこんでいた。 彼女だってまんざら私を悪く思ってはいない。そうでなければ今日のような「ゼミの 発表のために会議をしなければならん」「一度行ってみたかったのよキミの家に」とか 言って私の部屋に無理やり上がりこんだりするものか。……私はそう信じたかった。 奈々子が今日、私の部屋にいるのはそういった入学からの微妙な関係と、体面的には ゼミの発表のため、というのが理由だった。こういう場合、何か男が行動を起こすのは 普通なのだろうか。男の部屋に入った女性それすなわち体を許しても良いなんて ぶっ飛んだ発想はないけれど、ちょいとあやしいムードを作り上げて告白でもしてしまう という流れは不自然でもないように思えた。が、奈々子が応じる確証もない。 友人のヴァージンキラーSに助言を頼みたかった。が、そうすると一生やつに頭が 上がらないし、ヘタレ根性無しのそしりを免れそうにないので思いとどまった。Sは そういう男だ。ほんとうに友達なのだろうかとときどき思う。 奈々子が私の部屋にいるというのはなんだか私を落ち着かなくさせた。嬉しいという より、誰かの落し物を意図せず拾ってしまったときの罪悪感と焦りがあった。 どういうわけだろう。私はほんとうに奈々子を好きなのだろうか。自分の想いまで 疑わしくなってきた。思考がこんがらがったままで、私は彼女とゼミの発表の勉強をした。 とうぜんのように勉強の内容は頭に入っていなかった。 「ちょっと休もう。頭ぼうっとしてきた」 そうしてゼミでの発表内容も一段落ついたので、何か興味をそそるものを探す眼で 奈々子は私の部屋を見まわした。彼女は種種雑多なCDに混じっていた 『実況パワフルプロ野球』という有名な野球ゲームを手に取った。 「あー。これ私も持ってる。だいぶ古くない?」 「3年ぐらい前に買ったやつだよそれ。てゆうか、女の子もパワプロするの?」 「いや。弟が持っててね、たまに付き合ってやってたんだけど、ほら、私って 負けず嫌いじゃない? たかがゲームでもくやしくってさ。だから相当やり込んだなー。 今でもけっこう強いと思うんだけど」 奈々子らしい、と私は笑った。ふふふ、奈々子は笑いながら私のベッドにのぼり、 横たわりながら大きく伸びをした。私のベッドに奈々子が寝ているという状況は むしょうに私を刺激した。つづいて彼女は「ねえ。暇だなあ……」と言った。 それが私にはいつもの元気な声ではなくて、か細く、扇情的に聞こえた(それは多分に 私の勝手な妄想なのだけれど)。やばい。理性が崩れてしまいそうだった。 あとから考えれば惜しいシュチュエーションなのに、そのとき、あとに何の考えもなく 言ったのが先のセリフだったのだ。 「じゃあ、パワプロする?」 「負けたときキミがいいわけできないように同じチームを使おう」 奈々子は提案した。実力の差をチームの戦力差のせいにはさせないというわけだ。 私だってあきる前まで相当やりこんだから自信はあった。提案に賛同した。 じっさい奈々子はとてつもなく強い、というほどではなかった。しかし私は不運な エラーと彼女のえげつないボール球勝負のピッチングにまんまとハマってしまった。 「あっはっは。ストライクで勝負すると思ったの!? 甘い甘い!」 「バントと見せかけてバスター!」 「やったー。タイムリーツーベースッ!三点差ー」 奈々子は楽しそうにパワプロをする。打つたびにコントローラーをうねうねと動かし、 足をバタバタさせてゲームをする彼女の姿はこれまた魅力的だった。彼女も楽しそうだし 私の提案もあながち失敗ではなかったようだと安心した。 8回オモテが終わって4対1。たかがゲームであっても男が好きな女との勝負事に 負けるなんてあってはならないと私は思っている。2アウトながらランナーが一三塁に なった。私は外角に落ちるフォークをぐっとこらえた。満塁。一打同点のチャンス。 次の打者は8番、よく言えば下位打線の4番打者の捕手だった。 「よおし。絶対打ってやる」 「このまま逃げきるんだから。……あ!」 投手の頭上に「!」が出た。失投だ! しかし変化球を選択しての失投だったらしい。 ど真ん中に来たスローボールを私は空振りしてしまった。 「うわーッ。せっかくの大チャンスが」 私は心底くやしがった。次に、きっと彼女は得意げに、あくどくそれでいてかわいい 笑顔をしているだろうと期待して、私は彼女の顔をのぞいた。彼女は呆れ顔だった。 こんな表情ははじめてだ。 「ホント。大チャンスなのになんでみすみす逃すかなあ、キミは」 少し怒った口調だった。私は謝りそうになった。が、何について謝るのか自分でも よくわからなかったのでやめておいた。彼女は私のバッターをセカンドゴロに切って とった。そしてこう言った。 「ねえ。キミは私がパワプロしたがってると思ったの?」 「あ、いや」 「私帰るね。じゃあ、次のゼミで」 彼女は困ったような哀しいような顔をしていた。まったく意味がわからなかった。 さっきまであれほど楽しそうに笑っていたのに。私はどうしたらよかったんだ?  思わず泣きそうになった。いや、うつむいたら水滴がこぼれたので、たぶん私は 泣いていたのだろう。女心は対岸の焚き火か……たしかにそうかも知れない、とか 思いつつ私は無意識のうちにヴァージンキラーSに助けを求める電話をかけていた。 「もしもし。おい。おい! 女心はホントに意味がわからん」 「いきなりなんだよ」 鼻をぐじぐじティッシュでかみながら私は今の状況を説明した。するとSは 「お前アホかヘタレ根性なしだな女に恥かかせてどうすんだとりあえず彼女を追え 俺に電話する前に追え何かに理由つけて謝れついでに告白してしまえというかお前まだ 告白してなかったのかよアホお前と奈々子はイクとこまでイってるのかと思って ひそかに嫉妬してたのになんだその不甲斐なさはそうだ奈々子の前に俺にも謝れアホ」と、 『グッドモーニング・ベトナム』のロビン・ウィリアムスばりの止めどないトークを 電話口からかましてきた。あまりしつこくなりそうなので、「わ、わかった。ありがとう」 とだけ言い私は通話を切った。 ともかく私はヴァージンキラーSの罵倒によって事態の重大さを知った。 呆れ顔とともに発せられた彼女のセリフが思い出された。 ――大チャンスなのになんでみすみす逃すかなあ まったくそのとおりだ。彼女も期待していたのだ。いまさらでも私は彼女を追いかけて 謝り告白の一つもすべきだろう。しかし私はなお不安だった。もし彼女が私に愛想を つかしていて酷いセリフを並べようものなら立ちなおれそうになかったから。と、動揺で 泳いでいた私の目線に彼女のケータイが飛びこんできた。忘れていったのだろうか。 何か私には、私が追いかける理由を彼女自身が作ってくれたようにも思えた。 私は彼女のケータイをつかんですぐさま家を出ようとした。が、そこでテレビの 雑音が気になった。パワプロもテレビも消していない。私はテレビの前に戻ってそれを 見た。4対1のまま止まった試合がある。もやもやした不安がまた沸いてくるのを感じた。 奈々子は十中八九、家路を歩いているだろう。急ぐ必要もないと思い、私は座りこんで コントローラーを握った。奈々子が使っていたほうをコンピュータ操作にした。 私は逆転してやろうと考えたのだ。 それは何の意味もないことだったけれど、パワプロで逆転勝利できれば告白も成功する、 と勝手に決めこんでいた。人はときどき自信を持つために、根拠のない事がらを無理やり 関連づけようとする。ジンクス、願懸けといったたぐいのものだ。このときの私は パワプロがまさにそれだった。 9回オモテは無失点で切りぬけた。最後の攻撃。1アウトからヒットを放ち、盗塁を 成功させた。しかし次の打者はボテボテのセカンドゴロを打ってしまった。私は 「コンピューターのレベルを下げようか」とか「ロックオンにしようか」などと思った。 しかしそれをするのはとんでもない罪悪のように思えて、結局しないでおいた。 2アウト三塁。あと1人コールが聞こえるのが気にさわる。そんなところまでパワプロは よく出来ていると思った。 代打に出した選手はパワーがあった。甘く入ったカーブを早いタイミングで強振すると 三塁線を深ぶかと破るツーベースになった。4対2。逆転まであと3点だ。 「絶対勝ってやるからなあ」 コントローラーをにぎる手が汗ばむ。私は必死の思いでパワプロをしていた。 その姿は端から見ればよほど間抜けだったろう。私は、最後の打席に立たされた野球選手 さながらに投手の動静をにらみつけていた。 「ボール! フォアボール!」  ツースリーからのストレートが高めに浮いた。審判がコールした。それぞれ進塁する ランナーを見る私の心臓はこれ以上ないくらい高鳴っていたのだ。ツーアウト一二塁。 バッターは4番でパワーAの外国人選手だ。ここで勝負を決めなければ男じゃない。   ストレートを見逃してストライク、外角への変化球はボール。カウント1−1。高めに 浮いた球を私は強振した。パワプロにはめずらしいバックネットへのファール。 そして第4球。内角へのストレートだ! コーンッとリアルな音を響かせて三塁線に ゴロが走った。「ファール」塁審が手を横に広げた。私は胸をなで下ろして、手の汗を ふきふきコントローラーを握った。あと一人コールはあと一球コールに変わっている。 終わってたまるものか。俺の奈々子への愛は生半可なものじゃないんだ! と、私が 興奮からそんな意味不明の叫びをあげたとき、ちょうど良いタイミングでカーブが投じ られた。ミートカーソルの移動には寸分の狂いもなく、私はボタンを押した。 カーンッ! 臨場感のあるたしかな快音。ざわめき。興奮する実況の声。外野手はテクテクと 必死に背走するが……打球は球場のグラフィックの外に吸いこまれていった。 「よし」  ホームランの音楽がして打者がダイヤモンドを回る。その映像に向かって私は 恋愛成就の祈りをした。絶対的に効果のあるように思えた。人がいたって関係ない。 奈々子に会ったならすぐさま好きだって言ってやる。怖がらずに想いをつたえよう。 そうすれば――。私は心に決めた。 打者はホームを踏み実況が勝利をつげたのと同時、根拠のない、それでいて確固たる 自信を胸いっぱいにした私は、奈々子のケータイを握りしめて家を飛び出したのだった。 (了)