二遊間、その狭間で(カリート作) たとえばその道を訪ねるとき、国道××線なんて機能一点張りの名前を出したところで誰も 解さないが、俗名である『パワフル通り』と言えば地元の人々は微笑をうかべて説明してくれるだろう。 パワフル通りは頑張市内にある。 十数年前のパワフルズ黄金期、優勝パレードでこの通りをすぎるころになると、ファンの興奮は 最高潮に達し、ついでに選手のそれも同様にたかぶって、数万人が図らずも一同に 頑張パワフルズ球団応援歌を合唱しはじめる――いつから定着したのかは明らかでないが、 そんなわけでパワフル通りとよばれているのである。 その一角にある居酒屋で、座敷をしめて騒いでいる連中がいる。5人ばかり。 恐るおそる話の内容を聞いてみれば、なんでもパワフルズの行く末云々。 ああ、熱心なパワフルズファンなのだろうと勘ぐるのはあやまりで、何を隠そう連中は パワフルズの現場スタッフなのである。 「矢部があんなにやるとは思わなかったな!」 「僕のおかげッスかね」 守備コーチの横飛吉がふんぞり返っておおげさに言う。 「かかか。横ちゃんもよく言うねー。『奴はものにならん』とか言ってたのは誰だよ」 「知らない、知らないッス。あ、おねーちゃんビール2丁!」 「矢部も良いが小波の3番は不動だなァ!」 「しかし守備がなァ」 憮然として言ったのはタバコをくゆらせている橋森重矢監督。 「悪くはない。並ですよ。というかシゲ、君の三塁守備よりはまだ見ていられる」 にやついてそう返したのは、かたや現役選手の古葉良己一塁手。 「うるせー良己!選手が監督に向かって」 「くくッ。年は変わんねえけどな」 「わっはっは!違いない」 橋森と古葉も顔を見あわせ、真顔だった表情をくずして豪快に笑う。 「「「……がっはっは!!」」」 いかなる道でも、その第一線で活躍していた人間は不思議な空気を まとっていると言われるが、アレは嘘だなと他の客は感想をもらすだろう。 ただの初老をむかえたうすっ汚い男たち。 店の常連なのでもうサインをもとめてくる者もいない有様である。 橋森重矢、横飛吉、古葉良己。 監督とコーチと現役選手が一緒に酒を飲んでいるのは、 彼らがあの黄金期を共に過ごした戦友だからである。 他の2人は球団こそ違えど、同じ時代に同じリーグで野球をやってきた。 これもまた戦友と呼べる間柄ではないだろうか。 酒の量はとめどなく、話は脈絡もなく進んでいく。 「弱点と言われてきた投手陣も、若いのが出てきたな」 「そのとーり!来期は優勝も夢じゃない!黄金期の復活だ!」 「ふうむ。だいぶ戦力も整ってきたが、俺らの時代にはほど遠いな。 横ちゃんそう思わないか?」 「ひいき目でしょ。今も悪くない。4番の福家なんて誰かさんとは大違いッス」 「確実性のねえ4番で悪かったなァ」 「いや、シゲの4番は面白かった。当たればデカイ。業務用扇風機。宝くじスラッガー」 「誉めてんのかけなしてんのか……」 「守備に関して言やあ僕たちの方が上ッス。今のヤツらは皆ザルッスよ」 横飛吉がそんなことを言ったので 「わは。守備コーチのキミが言うセリフじゃないだろ」 と少し酔ってきたらしい、赤ら顔の古葉が言った。 「違いないよ。あのころのパワフルズは攻守に群を抜いてたからなぁ」 バッテリーコーチの男がしみじみ言う。続けて何か思い出したらしい、ああ、とつぶやき 「そう言えば十何年前だけど、売り出して来たと思いきやパッと消えたセカンドがいたよな。 2度目の優勝ぐらいの時だ」 「誰のことッスか。名前は?」 横飛は本当にわからない。そうして橋森に問いかけの表情を向けた。 が、橋森はなぜかむっつりと黙りこんで焼き鳥を喰らっていた。 何かに耐えているようにも見えた。 「ええと。たしか『山』がつくんだ。山村、山岡……なんか違うな」 「セカンドはってたのは藤倉だろ」 他球団出身の投手コーチが言う。 「藤倉さんじゃない。ホント半年ぐらい活躍して、藤倉さんからポジションを 奪うかと思いきや、その後ずっと二軍生活でな。不思議だなと思ってたんだよ」 「監督の女でも盗ったんじゃねえのか!?」 「ワハハ、ありえるありえる!手先の器用な選手だったから女もたまんねえってか!」 バァン!! 突然、机を叩く音がして、机上のツマミがゆれた。枝豆の皮がアマガエルのように飛ぶ。 店中がシンと静まる。 机を叩いたのは無表情の古葉だった。一呼吸して古葉はすくっと立ち上がった。 「すいません。どうも酔ってしまったようだ。外の風に当たってきます」 表情はいつもどおりの微笑に戻っている。それでも今まで机をかこんでいた メンバーは驚き固まったままだ。温厚な古葉が怒るなんて信じられない、というふうに。 座敷を降りて靴をはく古葉。その顔は誰にも見えない。ただ、 「セカンドの名前は『中山』ですよ」 と、それだけ言うと彼はのれんをくぐり外へ出てしまった。 「そうか。中山……。古葉さんの弟分みたいな感じだったッスもんね」 古葉の出て行ったのを見届けて横飛がつぶやいた。うつむいて、静かに酒をくむ。 「しかしだ。まったく、あいつも怒ることはねえのによ!」 橋森は大声で言った。 そのいらだちはなにも古葉にだけ向けられているわけではないのだ。 中山の話をしだした男たちに、中山を覚えていなかった横飛に、感傷を引きずる古葉に、 しなびてしまった宴会の雰囲気に。 「おい!そりゃ僕のッスよ」 「うっうっ……はーッ。ごちそうさん」 いろんな不機嫌がごちゃまぜになって、橋森は横飛のくんだ酒を奪って一気に飲みほした。 店を出ると手前につまれたビール瓶入れのすえた匂いが古葉の鼻を刺した。 店と隣の中華料理屋との間のすすけた道に、黒猫が吸われるように入りこんで行く。 さてどちらに歩き出そうかと考える。 月の光に誘われるように古葉は駅側の道に進みだした。 と、店から橋森の大声が聞こえた。 (そうだ。シゲの言うとおりかもしれないな) 古葉は声に押されるように駅側に足を進める。 (せっかくの酒の席を台無しにしてしまった) 皆に申し訳なく思った。怒りにまかせた行動を恥じた。 しかしそれでも、古葉にとって中山の話は酒の肴に語られるようなものではなかった。 また、気安く他人に話しうる、すぎさった苦い経験でもなかったのである。 『古葉さんからポジションを奪う気持ちでがんばります』 十余年も前のこと。 入団会見でこういうセリフを口にした男がいたのを、今日どれだけの パワフルズファンが知っているだろうか。ドラフト5巡目の大学出の遊撃手。 名を中山哲平と言った。 小柄な体躯で、顔は優しげな印象を持たせる選手であった。 そのころ古葉と言えば3年連続3割を打ち「来年の首位打者は古葉に違いない」と 評論家たちに期待されはじめた時期で、新人のセリフを鼻で笑うぐらいの余裕はあった。 が、キャンプで中山のプレーを見たとき、古葉から苦笑は消え、焦りが生じた。 それと同時に中山をこれから共に戦っていく仲間として誰よりも早く認めたのも古葉であった。 水際立った守備。 それが中山最大のセールスポイントであった。 天才的というより長年に渡る努力によって得られた球際の強さポジショニングの巧さは、 下半身の安定感と強肩を活かした古葉の守備に伯仲するものとして評価された。 しかしながら中山、打撃がお粗末すぎた。 2流の投手相手に内野安打とテキサスヒットが精いっぱい。 エース級になるとボールにバットがかすりもしない。 首位打者候補の古葉に比較すれば、入団会見のときのセリフは冗談でしかなかった。 事実その年、古葉は多くの評論家の期待を裏切ることなく3割3分7厘で首位打者を獲得している。 中山は翌年にセカンドへコンバートされることになった。 秋季キャンプでもっとも熱心に、意識を持って練習に取りくんでいたのが コンバートされた中山であったことを古葉は知っていた。 遊撃とはまったく逆の動きをしなければならない二塁守備。 一瞬の状況判断やカバーの遅れが命とりになる二塁守備。 それを体に覚えさせるために、中山はもろもろの状況を想定しながら日が暮れるまで 黙々とノックを受けていた。 古葉は驚嘆した。 ついにぶっ倒れてしまう前まで、中山の守備は屈強な意志というワイヤーによって 美しい動作を保っていたのだ。それが何日も何日も続いた。 古葉はしだいに二遊間を組むならば中山においてほかにないと思うようになった。 「おい中山!私の打撃練習に付き合ってくれないか」 「古葉さんのですか!?は、はい。喜んで!」 初めて古葉が誘うと中山は半分泣きそうな笑顔で返事をした。 当時レギュラーセカンドには藤倉がいたが、彼は欠点のないだけが取り柄の選手だと 古葉の目には映っていた。セカンドの座は中山に譲られるべきだ。 自分と中山と中堅手の横飛――3人で形成するトライアングルは他球団の追随を ゆるさぬ堅固なものになる。そう考えた古葉は進んで中山に打撃の手ほどきをした。 まずヘッドが遠回りする悪いクセを修正させ、バットを重いものに持ちかえさせた。 「振りこめば振りこむほどフォームがなじんでくるものです」 そんな古葉の言葉を中山は実践した。毎夜の素振りを彼は欠かさなかった。 破れた手袋から血がにじみ出てバットを染めている。 そのバットで古葉と共にマシン打撃をする中山の打撃力はじょじょに上達を見せてきていた。 中山は楽しそうに野球をする男だった。千本ノックを強いられても、素振りでまた血豆が 破れても野球ができること自体に感謝するような顔つきでいた。 中山は必ず大成する、10年間セカンドは安泰だ。古葉はそう確信してやまなかった。 ……あの試合、あのプレーさえなければ。 中山が入団して2年目のシーズン。パワフルズは2年ぶりの優勝にひた走っていた。 エース神下は前半戦だけで10勝をあげ、 橋森はホームランバッターとしてもっとも脂の乗った時期にあり、 古葉といえば年間を通じて3割を下回ることが一度もなかった。 横飛吉もようやく中堅のポジションをモノにして、持ち前のハッスルプレーをやりだしていた。 この年がパワフルズ黄金期の頂点であったろう。 そんな中で中山も断続的にではあるが試合に起用され始めた。 守備固めがもっぱらの役割であったが、その洗練されたフィールディングで幾度か チームの危機を救い、玄人のファンをうならせた。 同僚の古葉もたとえば三遊間への深いゴロの際、全力で一塁のベースカバーに 走るといった目立たぬプレーを怠らない中山のことを褒めたたえた。 昨年のオフに大学時代から交際していた女性と結婚し、野球選手としても飛躍、 公私ともに充実した一年となるべき年だった。 シーズンも終盤にさしかかり、球場には早くも優勝気分のファンたちが連日押し寄せていた。 パワフルズは2位に4.5ゲーム差で首位にたっていた。 マジックが一ケタに、一つひとつ減っていく、その頃には中山は高い守備センスと 小柄に似ずパンチのある打撃と確かなバント技術を買われて7番二塁に定着しようとしていた。 古葉との特訓の成果がすぐに表れたのである。 ファンの中には来季のセカンドレギュラーは中山ではないかと思う者も出はじめた。 その日、風の性質が変わったと思った。 秋が来たな、デーゲームのグラウンド上で、二塁手の定位置よりややこちら側に立った 中山にそう話しかけたのを、古葉はいやに判然と覚えている。 中山は空を仰いでから白い歯を見せて「そうですねー」と言った。 彼の屈託のない笑顔が古葉は好きだった。 試合はインサイドゲームだった。 古葉と橋森がアベックホームランを放ち、横飛はダイヤモンドを駆けめぐり、 中山も四球と中前安打で出塁した。6回が終了した時点で7対1。 ベンチには楽勝ムードが漂っていた。 古葉も家に帰ってから妻とその胎内にいる初めての子どもに向かって 勝利の報告をする自分を頭に思い浮かべていた。 すると中山が「今、奥さんのことを考えてたんじゃないですか」とニカニカして言ったので 「まさか。試合はまだ終わっていませんよ」と内心ぎょっとしつつ、そう返した。 まったくその通りだ。試合はまだ終わってはいなかったのだ。 7回の先頭打者は成績もパッとしない外国人選手だった。おそらくオフに解雇されるだろう。 それでもパワフルズの先発投手山崎のストレートをつまりながらセンター前に運んだ。 7回無死一塁。古葉と中山はゲッツー態勢をしいた。 中山は一球ごとにグラブを叩き、投手の背中に声をかけていた。 カウントが2−1になって、古葉は山崎が決め球のシュートを 投げることを想定し三遊間へ体一つ分よって打球に備えた。 はたして打球は三遊間の深いところへのゴロだった。 古葉は移動してキャッチし、ノンステップで2塁へ送球した。 やや外野寄りだったがボールは中山に捕球され、中山は体の向きを変えて一塁転送――その時だ。 走者を避けて投げた中山の下半身に、丸太のような外国人選手の足がからんだのは。 ゲッツー崩しは功を奏さず白球はまっすぐの回転でファーストミットにおさまった。 が、その心地よい音は古葉には聞こえなかった。 かわりにゴツッという不吉な音がして、中山はよこざまに倒れこんだ。 その倒れ方はあまりにも悪かった。まず頭、そして肩。 古葉は肩を押さえてもだえている中山に駆けよった。 側頭部に内野の黒い土がつき、その下に赤くなった、貝の肉のような耳が見えていた。 「ぐがあ」 とうのガイジンはうめき声をあげている中山に関心も示さずベンチに引きあげようとした。 古葉は怒った。 その正面にまわりこんで、両手で胸板を殴るように圧した。 中山ほどの選手がゲッツー崩しに来るランナーの動きに気づいていなかったはずはないのだ。 だから彼は内野よりにステップして投げた。 それなのにガイジンは左足を突き出して阻み、さらには足にからまった中山を 前のめりに落とすように蹴り上げた。古葉にはそう見えた。 あまりに悪質で、ゲッツー崩しとして許される範疇を逸脱していた。 殴られたガイジンは古葉につめよったが、古葉は続けざまにガイジンの胸を強く圧した。 古葉の現役生活の中でワンプレーにあれほど腹を立てたことはついぞなかった。 とうとう我慢しきれずにガイジンは古葉につかみかかろうとした。 「おい、ボールを貸せ!!」 古葉は一塁手にそう言った。一塁手は慌てて投げよこした。 普段の穏やかな口調ではない。 右手にボールを握りしめて古葉はガイジンが挑んでくるのを待っていた。 その姿にガイジンもひるむ。古葉は、ガイジンが何か反抗すれば本気で殴り倒す気でいた。 ガイジンはあとずさって「狂っている……」そんな意味の英語を吐いた。 狂っているのはお前だ、古葉はベンチに帰るガイジンをずっとにらみ続けた。 しばらくして中山は立ちあがった。 スタンドからの声援の中、交代のためベンチに引きかえしていく彼の顔には いつも絶やすことのなかった笑みが消えていて、それを見た古葉は漠とした不安を感じていた。 試合はスコアだけを見れば何事もなかったかのようだった。 8回にダメ押しの2点が追加され、山崎は完投勝利を飾った。 ただ古葉は、必死に一塁ベースカバーに走る中山の姿がないことを異常に さびしく感じている自分を認めて驚いた。 中山が大事に至らぬことを祈った。 心のずっと奥のほうで、けっして中山が元どおりにプレーできないことを 知っていたからこそ余計に、古葉は絶望的な心情で祈り続けたのであった。 ハッとして西の空に目をやった。 一塁スタンドの上部。地元の大学や専門学校、スポーツショップやペンキ会社の広告の奥にある空。 夕日が世界を緋色に染めていた!そら恐ろしいほど美しく、愁いある秋の夕暮れだった。 (あああ。これが祈りの答えなのか!) 古葉は打ちひしがれて、帰宅したときお腹の大きくなってきた妻に対して、 笑顔を見せることができなかった。 妻は、今日は敗戦だったのだと独り合点したらしく古葉にあれこれ聞くようなことはしなかった。 診断の結果、中山は肩の脱臼だった。それを聞いてチームメイトや首脳陣は安堵した。 一週間の安静が必要ということだった。 古葉は橋森とともに中山の病室をたずねた。日本シリーズに間にあえばいいな、 もうすぐオフだから焦らず治療に専念しろよ。そんなことを言った。 中山は存外明るい様子でハイ!ありがとうございます、と言った。 帰り道、橋森は豪快に笑い「あいつは大丈夫そうだな」と自分のことのように喜んだ。 その5試合後、パワフルズは優勝を決めた。 歓喜はまるで春のように、暖かくなごやかで、ファンの声は咲き乱れて 渦まき空へと舞いあがるようだった。 優勝の達成感は何度味わってもいいものだ、ひとりごちる古葉の頭の中に中山が浮かんだ。 病院で喜んでいるだろう中山。あいつと一緒にこの気分を味わいたかった、と。 日本シリーズはパワフルズが先に3勝し、4戦目に延長のすえ惜敗しはしたが、 5戦目で古葉・橋森ら自慢の猛打が爆発。パワフルズはついに悲願の日本一に輝いた。 貧乏球団として蔑まされてきた頑張パワフルズの日本一に列島がわいた。 ファンのみならず、日本一をかけて争った相手方のファンも「パワフルズ日本一ばんざーい!」と 叫んだのだった。 しかし、中山は日本一達成になんら関与しなかった。 故障上がりであること、はじめての大舞台であることを理由に、監督はベテランの 藤倉をスタメンセカンドに起用した。この采配は成功とも失敗とも言えなかった。 可もなく不可もないプレー。 打撃と守備を総合して考えれば、頑として中山を起用しようとしない 監督に古葉が疑問を持ったのは当然のことだった。 せめて守備固めに使ってやってもいいじゃないかとファンですら愚痴をもらした。 それでも中山はベンチ内で元気に野次を飛ばしていた。 シーズンが終了しても次に所属球団との契約更改という戦いが待っている。 そこでも中山について古葉を訝らせることがあった。 古葉自身は自己査定と遜色ない金額を球団から提示されたので、30分もかからずに契約を済ませた。 一方の中山は、驚いたことに現状維持だった。 もともと安い契約金である、倍増してもおかしくはない。 古葉は憤って中山にゴネるよういい聞かせた――中山自身はその提示に対して 半ば諦めたような様子だったから。 それでも結果、120万円の増額で中山はサインすることになった。 フロントの目は節穴だと、古葉は呆れてつぶやいた。また、球団の異常な吝嗇を理解できなかった。 翌年2月。 中山の肩は完治し調整も順調だった。守備練習でも中山の動きは群を抜いていた。 古葉以外のチームメイトも開幕スタメンセカンドの座は中山に違いないと予想していた。 ああ!誰も中山の異変に、108あるボールの縫い目のひとつに表れた「ほころび」に 気づいてはいなかったのだ! いや、監督やコーチはそれに気づいていたのかも知れない。 少しばかりでも不完全なボールは惜しみなく捨てられるように、中山は打ち捨てられたのだ。 3月。たんぽぽカイザースとのオープン戦に中山は先発出場した。 実戦では久しぶりに古葉と中山は二遊間を組んだ。 身近に見る中山の足運び、グラブさばき、スナップスローの美しさに古葉は改めて惚れぼれとした。 ケガの影響は感じられなかった。 あの日自分を取り巻いた感覚は杞憂だったのだろうか、悲観的に過ぎたのだろうか、 古葉はそう思い直して、心の中で中山に自分を恥じた。同時に嬉しくて心の晴れる気持ちがした。 その時、三遊間へ打球が転がった。 無死一塁の場面。サードは捕球してそのままの勢いで二塁へ送球した。 5−4−3のダプルプレーが成立するのを古葉は毛ほども疑ってはいなかった。 しかし中山はボールをつかみ損ねたのか塁上でオタオタして、 そのあいだに打者は一塁ベースを踏みすぎた。中山にあるまじき凡ミスだった。 「らしくないですねえ。右手で悪さでもしたのですか?」 古葉がこんな冗談を言っても中山は薄く笑うばかりで心ここにあらずのふうだった。 同じようなことが次の回にも起きた。今度は中山も投げはした。 しかし送球はそれてダブルプレーは不成立。 「中山……」叱咤しようと近づいたとき、古葉は中山の右腕が震えているのを見た。 顔には冷や汗が吹き出ていた。叱咤の言葉はのど元で凍りついて中絶した。 中山は震える声で古葉の名を呼び、そちらを向いた。 幼児が不可思議におびえる、そんな表情だった。 古葉は何の反応もできず、中山は交代を告げられてベンチに引っ込んだ。 「いくら練習してもダメなんです。5−4−3とか6−4−3の状況になると 右腕が笑い出して送球が上手くいかなくなる。 ゲッツー崩しで倒れたことなんて学生時代にもそりゃ何度かありましたけど。 どうもあの試合から、これまで練習してきたセカンドの動きや感覚が、なんていうか、 トランプの城が壊れるみたいに、一挙に消え去ってしまったような……」 宿舎に戻ってから中山はそう古葉に話した。口調は終始冷静で、やはり沈んだ感じだった。 古葉にはアドバイスのしようがなかった。 たしかにプロに入ってからの急造セカンドである。 しかしあの凄絶な練習のすえに習得したことがらが ある日を境に中山の身体から消え去ったというのは信じられなかった。 「それは、簡単な文字が出てこないような、ド忘れがずっと続いている感じなのですか?」 古葉が問いかけると、中山は「ああ、それにも似ていますね」と困惑と苦笑いの 混同したような顔をつくった。 何ももの言わぬ古葉に中山は迷惑をかけたと動揺したのか 「こういうときはガムシャラに練習するしか解決法はないですよね」 と白い歯を見せて、力なく笑った。 古葉には解決法がないわけではなかった。 古葉の代わりに遊撃のポジションに入ればいい。 長年守ってきた遊撃ならば支障はないだろうし、内野のキーマンである二塁より頭を使わない。 スネを蹴り上げられたり、時には危険な交錯プレーに見舞われない分、遥かに安全であると言える。 しかし決して古葉は遊撃のポジションを自ら明け渡そうなどとは考えなかった。 プロは馴れあいの世界ではない、草野球とはわけが違うのだ。 すべては実力が左右する世界である。 三塁には人気のある橋森、一塁にもアベレージを残して一発の打てる外国人と、 老いてなお勝負強い打撃をする男がいる。 中山が遊撃に入るとなれば古葉はどちらか一方への転向を余儀なくされ、必然的に レギュラーをはずれる人間が現れる。 そのデメリットを差しひいてでも起用する価値が中山という選手にあるだろうか。 おそらく監督はそう思ってはいない。 古葉は中山に憐れみを感じはした。が、助け舟をだすことなど出来ない。 なにより古葉の年俸のうちおよそ3割は遊撃守備での貢献を計算にふくめたものだから。 『プロ野球に憐れみの介入する余地はない』 昔、まだプロ入りしたてのころに先輩の野手から言われたセリフを古葉は反芻した。 プロフェッショナルと憐れみは相反する。真実そのとおりだと思った。 それでも苦悩した。心が痛んだ。―― とうとう中山の奇病は治らなかった。 ガムシャラに練習して得たものは肘軟骨の遊離、胃潰瘍、その他いたるところの細かな故障。 一度は外野手転向を示唆されたこともあった。しかし中山はかたくなに拒んだという。 唯一の長所である内野守備をとったら自分には何も残らないと知っていたのか。 それもあっただろうが、拒んだのには何か他の理由もあるように古葉には思えたのだった。 そうして26才の秋、中山は自由契約になった。 つまりはクビである。 プロでもトップクラスの守備力を持つ中山に他球団も触手を伸ばしたが、 不審に思って調べると行き着くところはやはり奇病であった。 手の平をかえして彼らも中山から離れた。 倫理感あるスカウトが社会人野球のある企業への就職を斡旋したが、ちょうど運悪く その社会人野球チームは解散してしまった。 大の野球好きだった中山。 プロの世界に足を踏みいれてなお野球への情熱を持ちつづけた男を古葉は他に知らない。 たぐいまれな運動神経、努力という才能によって培った確かな守備力。 闘争心、向上心、ここ一番の集中力、その気質。 すべてにおいて一流選手になりうる力を持った男だった。 そんな彼がひとつの「事件」によって野球をやめざるをえなくなった。 中山にどれほどの苦しみがあったろう。 それは誰にも想像のつかないほど深いものであったはずだ。 その後、中山は友人を頼りにさして大きくはない運送会社に就職した。 そして引退から5年目の冬、凍結のために起こった高速道路での玉突き事故に巻きこまれて死んだ。 中山の通夜に、パワフルズ関係者は数えるほどしか弔問に来なかった。 代わりに義理は果たしたぞと言わんばかりの大きなスタンド弔花が 『頑張パワフルズ』名義で送られていた。 古葉と橋森、中山が現役当時に守備コーチをしていた野上良祐の3人が夜を徹して最後の別れを行なった。 棺の窓から見えた中山の顔は、つい半月前にプライベートで会った古葉にすらひどく老けて見えた。 久々に集ったらしい親族たちが場もわきまえずに騒ぎ、哀しみを喪服に包み隠した 中山の細君がその中でてきぱきと動いていた。 その光景に危うく堪忍袋の緒を引きちぎろうとする橋森を、古葉はやっとのことで抑えていた。 もしも橋森が怒っていないとしたら、自分が怒りで我慢できそうにないだろうなと古葉は思った。 借りた役場のすみで、古葉たちは酒を飲んだ。それはまったく美味くなかった。橋森はガブ飲みした。 「あの試合で頭を打ったのが悪かったのかな、俺が監督に言ったんだ。中山の守備が不安定になったって。 そうだ。最初は不安定だと感じるだけだったんだ。あんなおかしな病気というか後遺症が起きるなんて」 野上元コーチがうつむいていった。 「そのせいで日本シリーズにも出られなかったのか」 「たしかに仕方がないことではありますね」 古葉も苦々しく感じたが、口では賛意した。 守備に重大な欠陥のある選手を出場させるなんてことはプロでは考えられない。 中山がベンチ入りしたこと自体、球団の情愛があったのだろうと古葉は思った。 「現状維持の契約もそれがあってだったのですね」 「そうだ」 「年俸ってのはその年どれだけ頑張ったかじゃない。来季の活躍を金額に換算したモンだからな」 球団も慈善事業で経営されているわけではない。査定はもっともだ。 快復の見こみの有無もあっただろうが、中山を2年間置いていた球団は 寛容なほうだったろうとプロ野球選手としての古葉は思った。 そんな話をしているとき、淑やかで凛とした色白の女性――中山の細君が古葉らに歩みよって挨拶をした。 古葉に見せたいものがあるといった。 中山の手記だった。 解雇されてからも野球への未練が断ち切れぬ、野球にかかわる何かが出来れば……。 しかし生活のためには働かなくてはならない。 日々ふくらむ空虚感、経済的な面で細君に辛い思いをさせていることへの憂慮。 現役時代の懐古、とくに古葉の名がひんぱんに表れていた。すべて感謝・尊敬の念であった。 『古葉さんとまた二遊間を組めたらとよく考える』そうも書かれていた。 もう古葉は耐えることができなかった! 「奥さん。どうもありがとう」 震える声で言い、手記を返した。 細君も古葉にたいして、生前中山が古葉の話をしていたことを語った。 古葉に認められて喜んでいたこと。選手としてだけでなく人間的にも信頼できる人だと言っていたこと。 「一度も彼の口からあなたへの文句を聞いたことがありません。本当にありがとうございます」 細君はそういって頭を下げた。古葉は溢れてくる哀惜に苦しくなった。 (中山はそういう奴だ。呆れるほどポジティブで、明るく優しくて、みんな捨て去ってしまう純なる 物をずっと持ちつづけている男だった。律儀でまっすぐな男だった――「善い男」だったのだ!) 細君は頭をあげてまた騒ぎたてている親戚達の席に戻った。 末席に5才ぐらいの女の子がいた。中山の娘だった。 眠いのか退屈なのか、手を前に組みあわせてボーッとしていた。父親の面影があった。 古葉は棺の前に座って目をつむったままの中山といろいろな世間話をした。 まだ若い細君と幼い子供を残したことをとがめた。パワフルズの現状を知らせた。 もう黄金期は過ぎ、橋森は一塁に回って、古葉も遊撃から三塁へコンバートされたことなど。 「私だってお前と二遊間が組めたらといつも考えていたよ。今のパワフルズの二遊間は 救いようのないぐらいヘタクソですからね。いや、誰であっても私たちには敵うまいが」 古葉は微笑んだ。しかし何を言っても中山は白い歯を見せてはくれなかった。 突然、足がしびれたらしく中山の小さい娘が泣き出した。 今まで騒いでいた親戚たちがしずまる。 細君はすぐに駆けよってあやそうとするが、娘の泣き声は通夜の哀しみを 吸収したように逆に大きくなった。 ついに張りつめていた糸が切れて、細君も同じく泣き出した。 親戚たちは興ざめしたふうで、細君を囲んで「貴方がしっかりしないとダメでしょう」 「哀しいのはみんな一緒だ」などと一見なだめるように責めたてた。 そんな残忍な親戚たちをついに橋森が怒鳴った。 何を言っているのかわからなかったが、その一喝に役場全体が黙りこんだ。 古葉は幼い中山の娘を抱いて小さな背中をポンポンと叩いてあやしてやった。 ――自分は彼女らを助けよう。プロフェッショナルに不要だという、真実の憐れみをもって 中山の細君と今抱いている小さきものを影で支えてやろう。 もしも彼女らが憐れみの感情を信じなくて、妙なことに絶対に何も与えてやれないとしても、 それでも自分は与えるぞ! ――そして自分は中山から遊撃のポジションを奪わせなかった要因である、 バッティングの力が枯れ果てるまで現役でいなければならない。 それが運良く野球選手として生きている人間すべてへの罰なのだから。 有終の美を飾り、余力を残して引退することなど許されてはいないのだ……。 古葉は小さな肩ごしにパワフルズが送ったスタンド弔花の、その奥深くにある 「とてつもなく大きな何か」を凝然と見据えながら、 耳元に響いてくる大きく哀切な泣き声を聞きながら、二つのことを決意していた。  (了)