シュールなギャンブラー(カリート作) 午後6時。都市の大通りは猥雑な空気を帯びはじめている。 女子高生や若いカップルたちの波に乗って、外に太鼓のゲームを設置されたゲームセンターとカラオケ屋を過ぎれば駅はどんどん遠くなって、着いた四辻の西側にはファーストフードショップ、東側の角にはお目当てのパチンコ店がある。 「やかましいなぁ。ま、それが良いところでもあるけど」 今宮は通りに置いてある新台入荷の情報を眺めて、今ウワサの新基準機を未だ打っていないことに気づく。中に入り空き台があることを祈って目的の台のシマをのぞく。通路を狭めるドル箱の山。座っているのは人間の財布どもだ。カド台には店の常連客である石倉のおっさんの、薄汚れたこげ茶の革の財布がいる。紙幣を入れる部分から毛むくじゃらの細い腕が伸びて、つまらなそうにハンドルを握っている。そいつを鼻で笑っていたときに、奥から4番目の台に座っている、景品でとったらしいプラダの財布(偽者に間違いない)の動きが止まる。金が尽きたのだろう。しばらくくたびれていたが、ふいに中身の人間が財布から這い出してくる。あらわれたのは延べられた鉄のように薄っぺらくなった若者。放心した様子でいたが、ようやく我に帰って椅子から立ち上がると、店内の気圧に順応できず吹き飛ばされて店の外にはじき出されてしまう。 今宮はその空いた席に座る。5回当たってそのあと1247ハマリか。偽者プラダも可哀相だな。とりあえず5千円投資。一山当ててやろう。ハンドルを握る手に力が入る。 ……2時間後。今宮も薄っぺらくなって店を出る。3万円も使ってしまったのだ。駅までに紙くずのように飛ばされるように帰る。給料日は10日後だ。今宮の体も元に戻るには時間がかかりそうだ。 駅から徒歩5分。うらぶれた裏路地に雀荘『カルマ』がある。新人時代から世話してやっている男が今年大ブレイクして羽振りが良いため、そいつから少し金を借りた。 ふふふ、選手に金を借りたときのおれは強いのだ。今宮は根拠のない自信を持っている。店内には太った背広姿の男と、金魚の目玉のような男と、ラクダのような口をした3人いて、ちょうどメンツが一人足らない。今宮は悠然と座って、よろしくと声をかける。麻雀は究極において自信の大きさが勝敗を左右する。最初になめられてはいけない。レートは点ピン。カラカラカラとサイコロが振られる――今宮の親で始まった。配牌は悪くない。234の三色を狙える手だ。やはり運が来ている、そう錯覚する。今宮は6順目でリーチをかけた。2・5万待ち、ハネ満の手。牌をツモる指先から電流を感じる。 「ツモ!ハネ満。6千オールでお願いしますよ」 がはは。やっぱり今日はついているぞ。嬉々として再び今宮はサイコロを回す。 ……5時間後。文無しだ。青いタバコを吸うと黄色い煙が口から出てくる。ちくしょう。迂闊だった。やつらトリオ打ちだったのだ。まさかと思ってさっきわざと卓下に牌を落としたが、案の定、品質の悪いサツマイモみたいに、背広と金魚とラクダの太ももの真ん中当たりが繋がっていたのだ。 これ以上やると命が危ない。今宮は3人4脚の男にへーこら謝って惨めな思いで帰路につく。途中何かを落としたが今宮は疲れていたので気にもとめない。家で鏡を見てみると、屈辱のために眼の周りがくぼみ、右目はがらんどうになっている。 「ああ、途中落としたのはおれの眼球だったのか」 もし誰かが見つけたら腹を立てて踏み潰すだろう。困った。そう思ったが、左目だけでは探すにも心許なくて、結局寝ることにする。悔しいが、寝れば忘れる種類のことだ。 年末の競馬場。指先から体の糸がほごれかけた中年男、または老人がいる。場違いなのは若いカップルで、その甘い果汁の匂いが老いさらばえた男たちに空腹を自覚させる。 今宮は馬場が一望できる窓際を占めて、無料の温茶をすすりながら予想する。馬連・馬単。そんなケチな利益は欲しくない。三連単で一攫千金だ。また金を借りてしまった。まあ戦利品でもやれば文句は言わないだろう。 全体的に人気が割れている。本命の8番ソヨカゼダンディーが単勝3.3倍。対抗の6番ヤマグチテイオーが3.5倍のオッズだ。3番人気は11番エースヲネラエなんてふざけた名前の馬で5.7倍。穴馬には14番パワープロセス、2番アオイミズキという馬がいる。他に注目なのは12番ウチノゴロー。名前が内野さんそのままだから買わないわけにはいかないだろう。不安材料としては、アオイミズキは休養明けだし、ソヨカゼダンディーは右回りが苦手だ。ヤマグチテイオーの1着は固定しよう。 EJ→EGJM→AEGJKMP。三連単フォーメーション馬券。今宮に抜かりはない。 ファンファーレが響きはじめた。ゲートインが始まる。観客席には一攫千金を狙う人間たちの吐き出した色とりどりの風船が現れ、それはゆっくり重苦しく空へ浮んでいく。 一斉にゲートが開く。スタートでエースヲネラエが出遅れた!数百の風船はさらに上空へ浮んでいくが、パンッ!パンッ!と弾けるものも出はじめる。 第4コーナーを回って最後の直線。周囲は騒々しくなる。パワプロー!と叫ぶ声が聞える。おそらくパワープロセスの略なのだろう。今宮も同じようにテイオーの名を呼ぶ。 残り300メートル付近でヤマグチテイオーはその名に相応しく異常なノビを見せる。ダンゴ状態の外から一気に振りきる。一着は疑いようがない。2着はどうだ?内側を走っていたソヨカゼダンディーはスタミナが尽きてアラアラになっている。すでに3馬身をつけているテイオーの後にいるのはパワープロセスだ。 「がんばれーパワプロ!」 パワープロセスはこのまま逃げるだろう。すでに欲望の風船は多くが割れて薄い肉片のように地面にへたばっている。ラスト100メートルは混戦状況だ。おお!2番と12番。ウチノゴローとアオイミズキだ!行け、いけ。イケー!今宮は狂喜乱舞する。しかし同時に、日の光をさえぎる巨大な鳥類が現れるのを感じる。胴震いを引き起こすような気味の悪い鳴声。見上げたところに浮遊するのは怪鳥ルクだ。巨大な金色の翼。軽自動車ほどもあるくちばし。ヤツはこの最後のときに、いつも風船をついばみにやってくる。縦横無尽に空を翔けるルクの姿は恐ろしくも美しい。そして膨張した今宮の黒い風船も割られる。ああ。そんなに美味いかルクよ。そりゃあ4万円の欲望だからな。歓声と怒声がして、ゴール板の前を数頭の馬が駆け抜ける――。 観客席のいたるところで馬券が舞い散る。結果、3着に入ったのはウチノゴローでもアオイミズキでもない、4番のビューティーカレンだ。万馬券の夢はまたもお預けを食らってしまった。ルクは充分満足したようで、東の空へ飛び去っていく。おそらく飼い主のもとに帰るのだ。ルクを手のひらで可愛がるほどの、大富豪の巨人の元へと……。 今月は散々だったな。しかし選手のマッサージをするだけで少なくない金を稼げるのだから育成コーチの仕事は割りが良い。今日も適当に働こうかと思っていると、球団代表と監督に呼ばれ、今宮は普段あまり入ることのない監督室の黒いソファーに腰をかける。どうも居づらくて、今宮はユニフォームのボタンの穴をいつのまにか弄っている。 「今宮君。来季からキミはただのトレーナーに降格だ」 「えっ!?ワシがですか」 「ああ。例の合併のせいでな、オリックスには有能な育成コーチがいる」 「なんですって!ワシも選手の育成に関しては負けないつもりなんですがね」 「たしかに。だが近鉄は立場が弱い。強いことも言えないし……」 「そんなぁ」 「あと、キミは選手から金をせびってはギャンブルに使うだろう。それがあちらさんにも伝わっていてな。どうにも不利なんだよ」 「だからって一トレーナーなんてやっとられんですよ!」 「ほう。じゃあクビでいいかい」 「どうぞご勝手に!ワシは引きませんぜ」 「そうかい。じゃあ我々は失礼するよ。話が早くてよかった」 「……え?」 バタン! 2人は外に出て監督室の扉が閉まった。 (なぜおれを引き止めない。チームへの貢献度では誰にも負けないはずだ) 今宮にはそういう自負がある。おれはチームにとってその程度の人間だったのか。優勝したとき、監督はあれほどおれを持ち上げたではないか。全てウソだったのか。アンタは解説でもなんでも道はあるが、おれはどうすればいい?……ちくしょうめ! 怒りが冷めてみると、酷い胸の空虚感がする。呆然としたまま座り尽くして腹が減ったのだろうと思い、食堂で何か摂ろうと立ちあがったときに気づく。右腕が不自然だな、と。なんだ、ボタンの穴から指が離れないぞ。それどころか内へ吸いこむような感触がする。今宮は抵抗をやめてみる。右腕はするすると独りでに入りこんでボタンの穴を通り、灰になっていく。次に右肩、左肩と左腕、右足左足……。四股が無くなったあと、今度は腹が、胸が、頭部が飲みこまれていく。不思議と恐怖はない。 〈ああ、こんな簡単に楽になれるなんて知らなかったな。ただ、おれはすべてを了承しちゃいない。了承してたまるものか!〉 今宮はそう叫んだはずだったが、声は声を形成せず白昼の闇に吸われる。そうして今宮は消滅した。 監督が私用を終えて監督室に帰ってきたとき、そこには誰もいなかった。デスクにも棚の影にも今宮の姿は見えない。ただ黒いソファーの上に、白い灰と近鉄のユニフォームのボタンが落ちている。監督は落胆とも安心ともつかぬ表情を見せ、ボタン拾ってポケットに入れる。かつて今宮であった白い灰はテーブルの上の灰皿に集めて、窓の外へタンポポの綿毛のように吹き払らわれる。何ということだ。――今宮は消滅したが、そのある恐ろしい悲哀と不満、ギャンブル欲は主体を変えて永遠に生き続ける。 白い灰はいつしかほんとうにタンポポの綿毛となり、風に乗って球場に進入し、選手たちを憤らせついには無気力にする。残った綿毛は東からの風に運ばれて大阪府を脱する。おそらく神戸の山の方に向かっていくのだろう。そこに奇形の花が芽吹くのは時間の問題だ。 (了)