信念 ―成宮警部補の事件録―




 時は五月下旬。ゴールデンウィークの浮き浮きとした空気も一段落して、平穏な日常が戻ってきた頃合といったところか。
 「ご機嫌斜めですね、五十嵐さん」
 ハンドルを握る黒縁メガネの女性が隣に座る人に向かって投げかけた。助手席には“五十嵐さん”と呼ばれた、四十代くらいの男性が憮然とした表情を浮かべながら煙草を咥えていた。
 聞こえていないのか聞こえていても返事をする気が起きないのか、無精髭の生えた顎に手をついて車窓を眺めているだけで運転席の方を向こうとしない。あまり快くないことがあると言葉数が極端に少なくなるのはいつものことだと知っているので、運転手に座る女性はそれ以上言葉を重ねない。
 道の脇に生える街路樹は、若葉が青々と生い茂っていて目に入ると眩しいくらいだ。しかし、五十嵐の気持ちは一向に晴れる気配がしない。
 それきり口を噤んだまま車は閑静な住宅街の真ん中を突っ切る道路をスイスイと進んでいく。両脇には真新しい家々が立ち並んでいるが、人の気配は全く無い。
 「当然だろ、成宮」
 いきなり思い出したように五十嵐が言葉を返した。“成宮”と言われた二十代前半の若いロングの黒髪の女性は眉一つ動かさず、ただ真正面を見据えるのみで反応を見せない。
 ウィンドウを少しだけ開けると、五十嵐は咥えていた煙草を一旦外してから細い息を吐いた。白い煙が僅かな隙間から吸い込まれるように外へと流れていく様を、じっと見つめていた。その表情は相変わらず険しいままである。
 懐から取り出した携帯灰皿に煙草の吸殻を放り込むと、フロントガラスを真っ直ぐ見つめていた。目新しい景色は存在していない。何かに意識を向けているように仕向けていると成宮の眼には映った。
 車は住宅街の一角にある十字路を左折すると、その先には幾つもの高層階の建物が現われる。クリーム色の外壁をした建物が幾つかの棟を構成している、集合住宅のようであった。
 「あれですね」
 成宮が五十嵐に確認するが、依然として反応は薄い。ただ僅かに首を縦に動かしただけで、普通の人なら見逃してしただろう。不機嫌な理由は、今から向かう目的地が原因なのだから。
 集合住宅まで続いている沿線を新緑の若木が彩っているものの、分厚い雲が空を覆っているせいか何処となく暗い感じがする。クリーム色の外壁が徐々に近付くにつれて、閑静な住宅街には不釣合いな人垣が彼方を塞いでいた。
 駐車場には住民の車に混じって濃い紺色のバンが停まっていたり、あちらこちらにパトカーが停まっていたりと物々しい雰囲気を醸し出している。制服姿の警察官が規制線の前で背筋を伸ばして立っていたり、鑑識と思われる人が大きな荷物を抱えながら右へ左へ忙しなく動いていたりと平穏な日常とは程遠い光景があちらこちらに見えている。
 成宮が運転する白のセダンがバックで綺麗に駐車すると、亥の一番に五十嵐がドアを開けて降り立った。濃茶のスーツの襟を正すと、成宮を待たずに歩みだす。
 ずんずんと規制線の方へ向かって突き進む五十嵐の後を成宮が遅れながら猛追する。薄紫のスーツに身を包んだ成宮は警官だらけの異空間にあっても馴染んでいた。
 厳つい顔をして近付いてくる不審な男に気付いた警官が、五十嵐に向かって声をかける。
 「申し訳ありません。こちら関係者以外立ち入り禁止となっています」
 しかし五十嵐は怯む様子を見せるどころか規制線を掴んで中へ入ろうとするではないか。慌てて制止する警官に向けて、ようやく追いついた成宮がスーツの内ポケットから何かを取り出して警官に向けて掲げる。瞬間、警官は一転して敬礼して二人を規制線の内側へ迎え入れる。
 警官の敬礼に対して軽く敬礼を返して五十嵐は奥へと進んでいく。成宮もその背中を追う。
 そこへ馴染みの警官が近付いてきた。遠ざかる二人の背中を指しながら問いかける。
 「おい。今の人達、誰だよ?」
 地元の警察署勤務で大体の顔は何となく記憶している警官からすれば、見慣れない部外者を悠々と通す対応に疑問を抱いた。手帳を持っていたので警察関係者だとは分かるものの、全く知らない顔だった。
 訊ねられた警官が恐縮した面持ちで答える。
 「あの人達、警視庁の刑事だ」
 「ハァ?どうして警視庁の刑事がこんな地方に居るんだよ?」
 警視庁と言えば東京都を管轄する警察組織。精々が首都圏を中心に活動している人がまたどうして地方警察の案件に顔を出しているのか、理解が出来なかった。
 「知らねぇよ、そんなこと。ただ、風の噂で警視庁から凄腕の刑事が所用でこっちに来ているとは聞いていたが……」
 「凄腕の刑事?あの二人ってそんなに凄い人なの?」
 「だから俺に聞かれても知らねぇって!!」
 立て続けに聞いてきた警官に噛み付くと、納得しない表情を浮かべて退散していった。とりあえず今は自分達の与えられた任務を全うするのみ……とは言え、経験の浅い所轄の警官の役目は部外者が入らないように見張るだけの簡単なお仕事しか廻ってこないのだが。

 五十嵐と成宮の二人は、警視庁内では知らない人の居ない有名人であった。
 ノンキャリアで入庁した五十嵐は群を抜いた捜査能力と文句を言わせないだけの功績を買われて、エリート中のエリートが集う捜査一課にまで上り詰めた凄腕の刑事である。
 ただ時に組織の範疇に囚われない行動力と常人離れした事件に対する執念が災いして、五十嵐の為に新設された窓際部署の捜査八課へ左遷されることとなった。
 それでも五十嵐は持ち前の実力を如何なく発揮して、上層部が頭を抱える難事件を次々と解決に導いてその存在感を嫌が応にも見せ付けることとなる。
 常に現場の最前線に立ち率先して捜査に参加する姿勢や人を惹きつける統率力などから、現場の捜査員からの信頼は非常に高い。刑事個人としても独特の嗅覚やセンスを兼ね備え、刑事のあるべき鑑として喩えられるとか。
 ちなみに成宮から時に“警部”と呼称されるが、正式な階級は警視である。『昔から警部と言われて耳に馴染んでいるから、階級は変わっても呼び方はそのままで構わない』と五十嵐が部下に対して言っているので、それに従っている。
 一方の成宮は、代々警察庁の高官を輩出してきた家の血を引く純粋なサラブレッド。祖父は前警察庁長官、叔父は現職の国会議員、長兄は宮内庁勤務と経歴も申し分ない。
 都内の有名進学高を卒業した後に海外の難関大学へ進学。それも二年飛び級で卒業するという素晴らしい成績を引っ提げて警察の道へ足を踏み入れてきたエリートの中のエリートである。
 それがどういう訳か厄介者が集う捜査八課に配属されたのには色々と事情があったのだが、それは長くなるので割愛する。
 捜査に対して一切の妥協を許さない熱血漢の五十嵐と、どんな物事も冷静かつ端的に処理するクールビューティーの成宮の凸凹コンビは相反する間柄であるが意外と上手く機能していた。

 先程の規制線は野次馬やマスコミが内側に入り込まないように張られていたが、その内側にも規制線が張られていた。出入りを監視する警官に対して五十嵐は一言「警視庁の五十嵐と成宮です」と告げた。五十嵐、成宮と口の中で呟いた警官は予め話を聞いていたらしく、規制線の内側へと入れてくれた。
 その先をさらに進むと、一枚の大きなブルーシートが張られた一画に辿り着いた。その周囲では紺色の制服に身を包んだ鑑識の職員や地元警察の刑事と思われるスーツ姿の警官が各々の仕事に没頭していた。張り詰めた緊張感が周辺を覆っており、自然と背筋が伸びる。
 五十嵐はブルーシートの傍らに立っている男の方に向かって歩いていった。胸ポケットに付けられたプレートには『鑑識主任』の文字が刻まれており、白髪が混じる皺の深い風貌からはベテラン独特の雰囲気が滲み出ていた。
 「ご苦労様です。警視庁の五十嵐と申します。こちらは部下の成宮警部補です」
 「鑑識主任の亀岡です」
 手短に自己紹介を済ませると亀岡は側に居た鑑識の職員に目線で促した。職員はブルーシートを捲ると、そこには赤レンガが敷き詰められた歩道の上に夥しい血痕が残されていた。遺体は既に搬出されていたものの、あまりの生々しさに思わず息を呑む成宮を尻目に、表情一つ変えず五十嵐は地面に刻まれた血痕を見つめている。
 二人は静かに瞼を閉じて合掌して被害者の冥福を祈る。合わせた手を解いても成宮の視線はブルーシートの下を直視することは出来なかった。対して五十嵐は血痕の飛散した状況や現場の状態を自分の眼に焼き付けるように直視し続けていた。
 やがてブルーシートが元の状態に戻されると、成宮は消え入りそうな声で「すみません」と五十嵐に謝った。それには何も応えず、再び手を合わせてからその場を後にした。
 次に向かったのは、現場から最も近い位置にある集合住宅の一棟の屋上。ここでも何人かの捜査員が忙しなく動いている様子が確認出来る。
 亀岡に連れ添われる形で屋上に上がってきた二人を見かけて、この場を仕切る若い男性の捜査員が近付いてきた。予め来ることを伝えられていたのだろう、挨拶も抜きに説明を始めた。
 「普段この場所はカギがかけられているのですが、このように」
 捜査員の手が屋上に出る金属製の扉に付けられている屋内側のドアノブの内側に伸びる。真ん中に取り付けられた突起を親指で何度か押すと、扉の側面に取り付けられている金具から四角い金属の棒が出たり入ったりを繰り返す。
 「……と、このようにカギは内側から誰でも解除することは可能です。従って、いつでも誰でも屋上に入ることが出来ます」
 「防犯カメラは―――」
 五十嵐が呟きながら扉の周辺や軒先をざっと見回すが、それらしき物体は見当たらない。外部から屋内に侵入することが出来ないだけで、集合住宅にさえ足を踏み入れることが出来れば自由に屋上まで到達出来る、という訳だ。
 亀岡から白い手袋を手渡され、五十嵐が受け取ると早速それを装着する。成宮の方は若干生気を失っていて集中に欠けている状態だったが、五十嵐に脇腹へ軽く肘を当てられてようやく意識を戻して慌てて差し出された白い手袋を嵌める。
 それから成宮は内ポケットから手帳を取り出すと、今まで聞き逃した点を捜査員に訊ね直して手帳に書き込んでいった。その間も五十嵐は辺りをじっと見渡して、何か変わった点が無いか観察を続けていた。
 黒く塗装されたドアの表面を指で撫でるが、滑らかな感触ばかりで時々付着したゴミに触れるくらい。塗料も年月の経過に伴って劣化は見える。重厚な扉を動かすとギイィと聞く人によっては耳を塞ぎたくなる不快な高音を立ててゆっくりと動く。
 屋内から一歩外に足を踏み出して空を見上げると、一面どんよりとした灰色の厚い雲で青空も太陽も隠していた。所々黒かったりする箇所もあるが、この分だと当面の間は天気が保ちそうだ。
 鉄筋コンクリートで建造された集合住宅の床は当然のことながらアスファルトで覆われていた。無機質で無骨な地面から植物が芽生える気配は一切見られない。
 目線を少しだけ上げると、高層階から周囲の様子が見渡せる。先程まで通ってきた新興住宅街の中心に近い位置に建てられ、宅地の周囲は田園風景が広がっている。ゴールデンウィークの長期休暇を利用したのか概ねの田圃では田植えを終えて、若々しい緑色に囲まれている。
 決して特別なことは見られない、何の変哲もない集合住宅の屋上から見える光景。それを見届けると、五十嵐は奥に向かって歩き出した。成宮と亀岡もそれに続く。
 コツコツと革靴が規則的なリズムを刻みながら一歩一歩と歩みを進めていく。やがて行く手を遮るように赤茶けた鉄製の柵を前にして足を止めた。
 白手袋に包まれた五十嵐の手が柵へと伸びていく。自分の胸よりやや低い高さの柵、掴んでみると掌で軽く握れるくらいの太さ。自分の上背が決して大きい部類ではないにしても、概ね一メートル二十センチくらいはあるに違いない。子ども、具体的に挙げれば小学生低学年であっても登ろうと思えば登れるくらいの高さである。
 グッと力を込めて欄干を握ると、足を上げて柵を越えようと試みる。「落ちないで下さいね」と背中から成宮が縁起でもないことを口にしたが、生憎ながら自殺願望は持ち合わせてないので慎重に慎重を期して柵の向こう側へと着地する。
 柵の向こう側は大体七十センチから八十センチくらいの床が設けられていた。端には幅が五センチ、高さ十センチ前後の段差があるだけ。段差の先は―――誰にも踏むことも触れることも適わない空間が広がる。地続きになってない先に足を踏み出せば、結果は説明不要。
 首を伸ばして眼下を伺い見れば直下に広がっているのは先程まで見ていたブルーシート。その周囲には相変わらず捜査員が散らばり仕事に精を出している。
 確認すべき点を全て終えて再び柵の内側に戻ると、亀岡が捜査員から何かを受け取ってこちらへ向かって歩み寄ってきていた。ズボンの裾を払っていると、亀岡の方から声をかけてきた。
 「こちらが現場に残されていた遺留物になります」
 一般的なコピー用紙サイズの大きさの透明なビニール袋の中には一足のスニーカーが入っていた。サイズからして子どもが履く物と推察される。だが……五十嵐はその靴を一目見ただけで怪訝そうな表情を浮かべた。
 決して特別な靴ではない。靴を扱う店に行けば幾つか色のバリエーションが取り揃えられていそうなデザインだし、恐らく全国では何万という単位の子どもが今も使っているに違いない。いかにも大量生産され、一般の市場で流通されている、普通のスニーカーだ。
 それにも関わらず、五十嵐は顔を曇らせる。亀岡も若い捜査員も同じ考えが浮かんでいるらしいが、成宮だけまだピンと来ていない様子らしく、小首を捻りながら袋の中の靴を見つめていた。
 「他には」と五十嵐が訊ねるが捜査員からは「ありませんでした」とはっきり答えた。この屋上に残されていたのは今の靴だけ、ということになる。その回答も想定の範囲内だったらしく「そうか」と呟くのみであった。
 手渡された証拠を若い捜査員へ丁重に返すと一礼してその場から立ち去っていった。あの靴は鑑識の方で改めて細かく調べられることになるだろう。
 状況から考えて、自らの意思で踏み出していけない一歩を踏み出したことに間違いない。“自殺”だ。
 これだけの騒ぎであることと事件発生から相当時間が経過していることから、そろそろ身元が判明しても良い頃合である。とりあえず屋上で確かめたいことは全て終えたので地上階まで降りることにした。
 階段を下りながら五十嵐は成宮に「何をそんなに難しい顔をしているんだ」と声をかけたが、反応はない。顎に手を当ててやや俯き加減になるのは一生懸命考え込んでいる、成宮の癖だ。真剣に何かを見つけようとする姿勢はとても良いことであり、それ以上は言葉をかけずに黙々と階段を下っていく。
 感情を表に出さないから誤解されているが、成宮は人並み以上に捜査に対して情熱を持って臨んでいる。自分に足りない部分があれば躊躇せず聞いてくるし、多少キツイ言葉を浴びせても凹むことはない。だからこそ育て甲斐があるのだ。
 「あの靴、どこか違和感を抱かなかったか?」
 一番下まで降りたところで五十嵐は成宮に問いかけた。
 “あの靴”と言われて思い浮かぶのは、先程屋上に遺留品として残されていた物を指している。三人は何か気付いて自分一人だけ気付かなかった何かを懸命に見つけようと努力はしたのだが……
 「何かありましたでしょうか?」
 自分の力不足だ。他の人が分かって私だけ分からないのは単純に自分の経験が足りてないからだ。この際プライドなんか気にしていられない。仕事に対して人一倍プライドを持って臨んでいるからこそ、上司に対して率直に教えを求める。もしこれが他人なら恥をかく所だが直属の上司ならノーカンだ。
 そんな性格は五十嵐も充分に承知していた。成宮のプライドを傷つけないよう優しく言葉をかける。
 「普通に使っていてあんなに汚れたり傷で気付いたことは無いか?」
 汚れ。傷。言葉の中に含まれたキーワードを頼りに、瞼の内側に先程の靴の全体像を思い浮かべてみる。外見、内側、底、形状、材質、色。『どんな物であろうと様々な角度から舐める程に観察しろ、そして自分の脳裏に再現出来るくらいに叩き込め』と五十嵐の下で捜査に携わるようになってから一番最初に受けた訓戒だ。言われた通りに遺留物は隅々まで見るように心がけ、そのお陰でちょっとした異変に気付けるようになった。
 もう一度だけ残された靴を思い浮かべて観察する。今でも鮮明に覚えている靴の外観から、傷や汚れに絞って見つめ直す。
 「……確かに、靴の至る所に痛みや汚れは多数ありました」
 恐らく合成樹脂で作られたと思われる靴の外観には大小様々な傷が見られたし、端的に言えばボロボロな靴だった。靴底の溝にも小石だったり砂利だったりが挟まっていたし、染みや泥も付着していた。
 この年代の子どもであれば靴がこれだけ傷むのも自然のことだと思っていた。大人に比べると子どもは物の扱いが雑なのはよく聞く話だし、沢山遊べばそれだけ転んだり傷ついたりする機会も多いことだろう。最近の子どもは屋外で活発に遊ぶことが少なくなったというデータもあることから、これだけボロボロになるまで使い込んだのはそれだけ外で遊んだ証拠なのかな?と捉えていた。
 私見を正直に明かすと、五十嵐は「上出来だ」とまず褒めた。よく遺留物を観察し、再現した上でさらに気付かなかった点を炙り出した点を評価したのだろう。その上で「まだ甘い」と突き放してから続ける。
 「確かに対象となる年代の子どもの常識から鑑みれば、特段問題が無いように映るかも知れない。しかし、傷のつき方や変形といった点に着目してみたらどう見る?」
 傷のつき方……そこまで憶測が及ばなかった。成宮は己の未熟さに唇を噛む。
 さらに五十嵐は言葉を重ねる。
 「通常ならば地面に接する機会が多く磨り減るということも踏まえて一番損傷が激しくなるのは靴底。次いで靴底に近い箇所か若しくは側面。しかし―――あの靴の底は外観に比べて明らかに使用された形跡が残っていない。言い換えれば、使用機会に対して他の箇所の傷であったり汚れが異常に目立つ」
 サッとしか見ていなかったが遺留品をしっかり記憶していたのだろう、弁舌に一切の迷いも躊躇も見られない。歩み出しながらさらに続ける。
 「靴を履いていても物に擦れることで付く傷が大半。裂ける傷なんか尖った石に掠った時にしか付かない。それにも関わらず、明らかに人為的に裂いたような傷が幾つも見られた。恐らく鋭利な刃物を使って切り裂いたのだろう。靴紐も変色するくらいに泥水が浸透していたが、水溜りに嵌った程度であれだけ染み込むなんて有り得ない。あれも作為的に泥水に漬け込まれた証。それに合成樹脂の表面に薄くマジックか何かの色が滲んでいたのも、その箇所を強く消そうと試みた痕跡であると考えて良い。それに何より、靴全体が不可解なくらいに歪んでいるのが気になる。市販されている靴は工場で規格の範囲内で統一されて製造され、使われる人の足に合わせて変形していく。だが、通常使用していたら有り得ない方向に歪んでいる。左右並べても正対称になるはずなのに、歪みの影響で正対称では無かった」
 一見しただけで鑑識並の観察眼で様々な違和感を見つけ出すのは刑事として長年培った経験か独特の嗅覚か。どちらにしても凄いことだと舌を巻く。
 ただ、話を進めていくに従って徐々に五十嵐の歩幅が広がってきた。目尻も険しくなっているようにも映る。語気も熱を帯びてやや荒くなりつつある。
 身長的には成宮の方が頭一つ大きく脚も長いので特別問題は無いのだが、この三つは五十嵐がイラついている時の典型的な癖だった。
 これだけのことを見抜けなかった部下に対して苛立っている訳ではない。それならば直接『見方が甘い』とか『視野が狭い』と具体的に指摘してくれる。怒っている対象は、恐らく―――
 「子ども用の靴は見た目や機能性だけでなく耐久性に優れていることも求められている。それにも関わらずあれだけボロボロになっているということは……悪意を持って傷つけられ汚された立派な証拠だ」
 ふと横に並んで歩いていた五十嵐の顔を窺うと、これまで見たことのないくらいに怖い顔つきをしていた。
 幾度も怒鳴られ、叱られ、時には罵倒に近い言葉を浴びせられたこともあった。思わず涙が目に浮かんだ経験もある。それでも、五十嵐のことを怖いとも恐ろしいとも思ったことは一度たりとも無かった。こんなに怒っている姿を目にしたのは初めてだ。
 思わず足が竦んでその場に立ち尽くしてしまうと、五十嵐は隣に居るはずの影が消えたことに気付いて足を止めた。
 「失礼しました」
 慌てて取り繕うように足を踏み出して駆け寄る。相変わらず曇り空で、まるで今の自分の気持ちを代弁しているようでもあった。
 「あの靴から推察されるのは……今回自殺した被害者が、相当酷いイジメに遭っていた可能性が極めて高いことだ。誰にも打ち明けられず、苦しみに耐えた末に自らの手で命を絶つ選択をさせてしまった。まだ無限の未来が開けている幼く、尊い命を……」
 じっと前を見据えて発せられる言葉の一つ一つに、五十嵐の感情が込められていた。現場に至るまで一貫して不機嫌な顔をしていたのも、今回の事件を防げなかった悔しさや救えるはずの命を見逃されたことに対する怒りが表情に出ていたのだろう。
 『子どもが集合住宅の屋上から飛び降りた』その一報が入ってきた所を、偶然居合わせた五十嵐はその場で臨場することを即決した。居ても立ってもいられず現場に乗り込んだものの、被害者を救えなかった無念さや不甲斐なさを思い知らされるだけであった。
 不意に五十嵐が足を止めて、煙草を箱から一本取り出してライターで火をつけた。大きく息を吸い込むと、空の方を向いて体に溜め込んだ空気を宙に向かって思い切り吐き出した。口から白い煙がモクモクと立ち昇っていく。
 「ちくしょう……煙が目に沁みるっ……」
 その瞳から大粒の涙が、ポロリと零れ落ちた。堪えていた想いが堰を切って溢れ出し、次々と涙が頬を伝っていく。赤の他人であっても、幼い命が失われた衝撃と悲しさは心に大きく響く。この人はそれだけ感情豊かで、他人想いで優しい人なのだ。
 静かに、押し殺すように泣いている上司の姿に成宮は何も言葉をかけることが出来なかった。紫煙がユラユラと揺らめいで空に消えていく様が、何故か印象に強く残った。

 二人は手分けして集合住宅の住人達に聞き込みを行うと共に、現場に居合わせた警察関係者の証言を元に、被害者に関する情報を集約することに奔走した。

 * * *

 被害者は高城歩(十歳)。この場所から約一キロメートル程のK小学校に通う小学生。父・高城学(三十七歳)、母・高城幸恵(三十五歳)と三人で暮らす。五年前に竣工したばかりの集合住宅の四階に入居してきた。
 父・学は市内の一般企業に勤めるサラリーマン、母・幸恵は専業主婦で週に数回近くのスーパーでパート勤務に出ている。家族関係は良好、との話が多数聞かれた。
 近所の住人の証言によると、とても礼儀正しい子どもで、同じ階に住む住人だけでなく他の階や別棟に住んでいる人に対しても元気に挨拶する姿を多くの人が目撃していた。集合住宅の側にある公園で活発に遊ぶ姿も多数目撃されており、小さな子の面倒を積極的に見るなど明るく振舞う光景も見られたとか。
 事件当日の午前九時から十時くらい(証言者が時計を確認して正確な時間を把握していないため、詳細な時間に関しては不明)に、内階段を小学生と思われる子どもが上の階に向かって一人で上っていくのを目撃。屋内であった為に暗くてよく分からなかったが、その表情は暗くてどことなく目が虚ろな印象があった、とのこと。証言者は『小学生年代の子どもがこんな時間帯に集合住宅に居るのは珍しいから覚えていた』と話す。
 午前十時二十四分(証言者の一人がテレビのワイドショーを見ていて、左上に表示されている時計で詳細な時間を確認して覚えていたため)。外でドスンと何かが落下した音が聞こえたので急いで音のした方を確認したら、地面に血だらけで倒れている子どもの姿を発見。急いで救急に連絡をして二分後には現場に救急隊員が到着したものの、その場で死亡が確認された。
 屋上へ繋がる扉のドアノブ、現場に遺留物として残された靴の近辺に設置された金属製の柵、両方から被害者児童の指紋を検出。状況および住人の証言を総合的に勘案しても自発的に命を絶った可能性が極めて高い、と思われる。

 * * *

 「―――以上になります」
 「そうか……」
 成宮が集めてきた情報を開示して伝え終えると、手にしていた手帳をパタンと閉じた。耳を傾けていた五十嵐は成宮から伝えられる情報と自分の集めた情報を擦り合わせ、内容に大きな違いが無いことにホッとした。
 余所者である自分達が現地の捜査本部に立ち入る訳にも行かず、仕方なく乗ってきたセダンにて二人だけの捜査会議を開いている訳で。
 助手席のドアを開け放ってシートに腰かけていた五十嵐が取り出した煙草に火を点けて一服する。その様を成宮は直立不動の姿勢を保ったまま傍観していた。その立ち姿も凛としていて、薄化粧ではあるが大多数が美人と答える美貌を備えていた。本人は特に気にしていないし、綺麗さや美しさで部下を贔屓する気は毛頭も無かったが。
 それとなく上司の行動傾向を分析しているが、未だに喫煙のタイミングだけは掴めてない。そもそも先程みたいな特別な例を除けば吸いたくなった時に吸うのが大半だが、その内の一部には考え事をしたい時も含まれているのではないか、という推論が最近浮上した。喫煙によって思考が促進されるかどうかは不明であるが、科学で解明されていなくても効果があるのなら別に構わないと考えている。
 別に喫煙に関してとやかく言うつもりはない。但し自分は吸いたいと思ったことも無いし、今後試したいと思う気も一切無かった。健康を損ねる恐れのあるものにお金を払って嗜好する考えが自分には合ってない、と思っていたからだ。
 五十嵐が紫煙を揺らめかす間は静寂が辺りを包んだ。無駄口を叩かない成宮から話しかけることは少ないし、五十嵐は一人寡黙に何かを考え込んでいた。先端から徐々に燃え尽きて灰色に変わり、白い煙は空へと立ち上って自然と消えていった。
 フーッと最後の煙を大きく吐き出すと、吸殻を手にしていた携帯灰皿へと落とした。そのタイミングを待って成宮は運転席側に回りこんでシートに座る。
 「遺体の確認はご家族の方が直接されましたが、その後は心理的影響も考慮して詳細な話はまだ聞いていないそうです」
 成宮が手帳の一ページを破いて五十嵐に手渡す。『五一二号 高城』とだけ記されていた。
 五十嵐が左袖をずらして腕につけた時計を確認する。時間は五時に迫ろうとしていた。一秒を正確に刻む針を眺めながら一考する。話を聞くなら、やはり時間を置かない方が良い。袖を戻して頬を両手で叩いて気合を入れる。
 「行くぞ」
 何処へ、とは問い返さない。行き先は一つしかない。二人は同じタイミングでドアを開けた。
 ふと周囲を見渡せば、あれだけ沢山あった警察車両も片手で収まる程度しか見当たらない。実況見分を大方終えて撤収したのだろう。風の音だけが静かに響く現場を、再び五十嵐は歩み始めた。

 エレベーターの扉が静かに開くと、微かに香ばしい匂いが漂ってきた。外に目を向ければ、あれだけ分厚く太陽の光を遮っていた雲もいつの間にか切れ間が幾つか出来て、沈みかけた太陽の光で茜色に染まっていた。
 廊下を歩いていると何処からかメロディが風に乗って聞こえてきた。この曲は何だったか。一瞬考えてすぐに浮かんだ。童謡の『七つの子』だ。
 “からす なぜ鳴くの からすは山に 可愛い七つの子が あるからよ”
 スピーカーから流れる音は物悲しさを感じるが、これを合図にみんな「帰らないと」って気分になっていた。染み付いた習慣というか習性というか。
 今は夏至もまだ先で周囲は明るいが、今時の子どももこのメロディを聞いて家路を急ぐのだろうか。大体の家では“五時までに家へ帰る”のが暗黙の了解だったから、この音楽が流れたら慌てて帰ったっけ。
 郷愁に黄昏た気分に浸ったのも一瞬だけ。五時になればどの家庭でも夕飯の支度に取り掛かっているはずだ。その内に子どもや仕事を終えた大人が家に帰ってきて、一気に賑やかになる。それが世間一般における夕方の光景であろう。
 しかし―――五一二号室の前は水を打ったような静けさに包まれて、家庭の温もりとはかけ離れていた。その異様に冷たく重苦しい雰囲気が一歩踏み出すのを躊躇させるが、グッと腹に力を込めてインターホンのボタンに手を伸ばす。
 恐る恐る伸ばした人差し指でボタンを押すと、室内からピンポーンという音が漏れ聞こえてきた。一拍の間を置いた後にインターホン越しに『はい』と返事が返ってきた。女の人の声……恐らく母親だろう。
 「恐れ入ります、警察の者です。幾つかお訊ねしたい点がありましたので参りました。お時間、大丈夫でしょうか?」
 成宮がインターホンに向かってゆっくりと、はっきりとした口調で話しかける。突然の出来事に心の整理がついていないので断られても仕方ないと覚悟していたが、インターホンの向こうからは『少々お待ち下さい』とだけ言い残して切れた。
 それから足音がパタパタと近付いてきて、サンダルに履き替えて鍵とチェーンを外す音が扉の向こうから聞こえてきて、ゆっくりと扉が開けられた。
 現われた女性は少し憔悴した表情をしていた。目元は若干腫れて、隈も見えた。
 「大変な中、ありがとうございます。私、五十嵐と申します」
 「成宮です」
 改めて自己紹介をすると、女性は「高城学の妻、幸恵です」と答えてくれた。ただ、その声は掠れて風が吹けばかき消されそうなくらいに脆いものであった。
 促されて部屋の中に通される。玄関先では家族の靴が整理整頓され、乱雑な印象は一切抱かなかった。廊下から先に見えるリビングに至るまでも一見しただけで丁寧に掃除され整理整頓が行き届いているのが伝わってきた。
 用意されたスリッパに足を通してリビングに入っても、そのイメージは崩れなかった。小まめに掃除しているのだろう、埃や塵が見られない。革張りのソファ、ガラスのダイニングテーブル、大画面のテレビ、壁紙が白ということで家具も白系統で統一され、まるでモデルハウスに来たような錯覚さえ覚えた。
 「どうぞ、お掛け下さい」
 幸恵から座るように促されたので、五十嵐と成宮はお辞儀してからソファへと腰を下ろす。キッチンに向かった幸恵は飲み物を用意しているらしく、落ち着いた様子で動き回る。
 「こんな物しかありませんが」と詫びながら湯呑みに注がれた緑茶を二人の前へ差し出す。気を遣わせてしまった、と内心反省しながら五十嵐が口をつける。
 ……口に含んだ瞬間、咄嗟的に噴き出しそうになった。それは隣に座る成宮も同様だったらしく瞳を大きく見開いて咽るのを必死に押し殺していた。
 「何かありましたか?」
 不審な挙動に幸恵が小首を傾げながらこちらに訊ねてきたので「ちょっと気管に入りまして」と苦し紛れな弁解を述べる。その言葉を聞いて幾分安堵したらしく、立ち上がってキッチンの方へと向かっていく。
 まさか、ここまで不味いお茶を飲んだのは人生で初めてだ。通常のお茶の範疇からあまりにかけ離れていて、脳が反射的に防衛反応を示したくらいだ。見た目は普通なのにどうしてここまで乖離した味になったのか逆に不思議だ。
 世の中には何事も万事上手くこなせても一点だけ致命的にダメなことを抱える人も居ると耳にする。全てを完璧にこなす人よりどこか欠点のある人の方がお茶目で可愛いと受け止められるのだから、このくらいも美点だ。必死にそういう方向に考えを持っていった。
 「この度は真に……」
 仕切り直して五十嵐がお悔やみの言葉を述べて頭を下げる。成宮もそれに倣って従う。
 「いえ……」
 幸恵の方も言葉を返すが、それきり口を噤んで俯いたまま動かない。やはりまだ現実を受け止めきれてない様子である。
 「歩さんのことをお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
 落ち着いた話し方で成宮が問いかける。乳幼児を除いて老若男女問わず誰であろうと“さん”と呼ぶのが成宮のスタイルであった。昨今の教育現場では男女差別を助長するとかで“さん”付けを奨励しているとか、ニュースを読み上げるテレビのアナウンサーみたいだな、と最初は思ったが聞き慣れると自然な感じで耳に馴染んだ。
 それに対して幸恵は弱々しい言葉ではあったが、ゆっくり淡々と語り始めた。
 「あの子は……とにかく優しい子でした。相手の立場に立って物事を考えられて、自分より小さい子や困っている人が居たら真っ先に駆け寄っていって、手を差し伸べていました。私がパートに行く日にはみんなの食事を作ってくれたり、学校が休みの日には積極的に家事を手伝ってくれたり……。去年は私の誕生日をお祝いするために手編みの携帯ストラップを作ってくれたり……。本当に、本当に……良く出来た素晴らしい子でした」
 そっと取り出した携帯電話に付けられたストラップが静かに揺れる。ピンクやオレンジ、鮮やかなグリーンに温もりのあるクリーム色。様々な毛糸で編み込まれた丸っこいストラップは、一目見ただけで作り手の気持ちが込められているのが伝わってくる。
 ふと思い出したように立ち上がった幸恵は隣の部屋に入ると、腕の中に何かを抱えて戻ってきた。そっと大切に置かれたのは何冊もの分厚いアルバムであった。ビニールで守られているが、表紙が色褪せている分だけ時の流れを感じさせてくれる。
 夫の手慰め程度でお見苦しい所もありますが、と断りを入れる幸恵に五十嵐は何も答えず黙って首を横に振った。その冊数の分だけ、我が子との想い出が詰まっているのだ。
 「拝見致します」
 そう告げると五十嵐は丁重に、そっとアルバムの表紙を捲る。
 最初のページには一枚だけ写真が飾られていた。産着に包まれて目を瞑って横になる赤子と、ベッドで横になる母親がその一枚に収められている。人形のように小さく真っ赤な掌に指を絡めながら微笑む母親。そこに添えられた言葉は、『二人の宝物』。日付も書かれ、五日目に撮影されたものとも併記されていた。
 その一枚を眺めているだけで心がポカポカと温まる想いだが、これは始まりに過ぎない。掌で包むように次のページを開く。
 『退院』。病院の玄関前と思われる場所で父親と母親、病院の看護師と思われる人に抱かれた赤子の三人が写っている。
 『ようこそ我が家へ』。ベビーベッドに横たわる姿。まだ慣れてないのか目の焦点は上をじっと見つめる赤子。
 『ハイハイできたね!!』。カメラに向かって這い這いで歩む姿が床に近い視点から撮影された一枚。
 順を追ってアルバムに挟まる写真を眺めていくと、日々成長していく姿が時系列となってしっかりと刻まれていた。
 両手を前に突き出して二つの足で立ち上がっている乳児の姿に添えられた言葉には、『君の小さな一歩は、これから支えていく大きな一歩』。書かれた人の愛情が読んでいる人にも伝わる、温かみのある一言。
 家族で旅行に行ったと思われる一枚には、カメラに向かってピースサインで応える幼児の姿。そこには照れ臭いのかはにかんだ笑顔が浮かんでいる。
 保育園の前でスーツ姿の母親の手を握って、緊張した面持ちでカメラの方を向いている制服姿の幼児。恐らく保育園デビュー記念の一枚なのだろう。『みんなと仲良くネ!』と励ましのコメント。
 よく見れば全ての写真に必ず手書きのコメントが付けられている。印刷された文字にない書き手の想いが、刻まれた文字からじんわりと滲んでいる。
 不意にガチャリ、と玄関から物音が聞こえた。アルバムから目線を上げると、玄関で背中を向けて立っている男性の後ろ姿があった。グレーのスーツの表面に浮かんでいる皺が、何故か男性が異様に疲れているのを表しているように映った。
 振り向くと表情がとても暗い。目が窪み、頬の肉が削げている。瞳も濁っていて、やや焦点が合ってない。
 五十嵐と成宮は男性がリビングに入ってくる前に立ち上がり、一礼した。見慣れない客に男性も軽く頭を下げるが、生気が失われていた表情のせいか角度が浅い。
 それから簡潔に自己紹介をすると男性は「歩の父で、学と申します」と短く応えるに留めた。ショックの大きさからか、今日だけで十も二十も齢を重ねたような印象を受けた。
 学はスーツ姿のまま、ソファの傍に腰を落として正座する。幸恵も寄り添うような形で隣に座る。“夫婦仲が良い”という評判は本当のようで、二人で並んで座っているだけでもそれが窺い知れる。
 挨拶を済ませると、再びアルバムの続きを見ていく。写真の一枚一枚を眺めながら、夫婦はその時のことを昨日のことのように思い出しているらしく、言葉も発することなくただじっと見つめていた。
 時計の針がチクタクと時を刻む音が部屋に響く。時折アルバムのページを捲る音以外は、静寂に包まれていた。それがまた逆に重苦しい雰囲気を醸し出しているのだが、打開する手立ては今の所見つからない。
 誰一人として一言も発しないまま時間だけが過ぎていき、どれだけ時が過ぎたか分からなくなった頃にようやく一人の男が口を開いた。
 「本当に、明るくて元気なお子さんですね」
 アルバムの最後のページを開いて五十嵐が一言呟く。それが率直な印象であった。
 日付はゴールデンウィーク明けて最初の土曜日。写真は運動会で白の帽子を被った子がスタートラインで真剣な眼差しで前を見据える姿を写していた。
 次はゴールテープを切った直後の写真。その表情からは全力で“走り切った”感が滲み出ていた。そして最後の一枚は『1』の数字が書かれた旗を持ちながら満面の笑みでピースサインを見せる姿。
 アルバム捲りながら色々と込み上げるものがあったらしく、幸恵はエプロンの裾で口元を押さえていた。その目元には涙が浮かんでいる。学もまた黙って膝の上に握られた拳をじっと見つめ、内から込み上げる感情を必死に堪えていた。
 「えぇ……本当に、自慢の……」
 喉の奥から絞り出すように応えたのは幸恵であった。もう限界だったらしく、その瞳から涙が溢れる。隣から聞こえる嗚咽に学の拳は小刻みに震えていた。
 五十嵐はアルバムを大切に閉じ、出されたお茶に口を付ける。巌のような表情を浮かべているが、その胸の内には様々な感情が渦巻いているのだろうな、と成宮は推察した。
 「お子さんの部屋を拝見してもよろしいでしょうか?」
 一呼吸置いて五十嵐が努めて明るい声で切り出すと、学が無言で頷いた。了解を得たので五十嵐と成宮を学が歩さんの部屋へ案内する。
 扉を開けると、学習机やベッド、本棚が整然と配置されていた。この年代の子どもは整理整頓が苦手な子も多い中、とても綺麗に片付けられていた。
 「お子さんの部屋に入る機会は?」
 「いえ……私は滅多に。平日は会社に居る時間が多くて、帰ってきても私はリビングに大半居ましたので。その分だけ休日は子どもと触れ合う時間を作ろうと心がけていましたが、子どもの部屋に立ち入ることはあまりありませんでした」
 俯き加減に、それでも五十嵐の顔を見ようと努力する学の声はどこか力なく、ボソボソと聞きとり辛く感じた。話しながら自分がどれだけ子どものことを知らなかったか気付いた様子であった。
 家族の了解を得て、部屋の中を調べることにした。二人は白手袋を装着すると、部屋の中の棚やクローゼットの中を捜索する。後々鑑識が部屋を調べることも考えて、現状を維持するように配慮しながら慎重に作業を進める。
 学習机の上には鉛筆が数本並べられているが、教科書やノートの類は殆ど見つからない。本棚の中も空きばかりで雑誌や絵本が数冊あるだけ。クローゼットの衣装ケースは自分で畳んだと思われる服が幾つか丁寧に重ねられている。財布は一番上の引き出しに収められ、その脇には貰ったと思われるお年玉袋の束や銀行の通帳がまとめて保管されていた。
 五十嵐が目配せすると、成宮が部屋から一旦出て行った。男二人だけ残された状況で五十嵐が学に質問する。
 「不躾な質問になりますが、何点かお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 いきなり質問されてビクッと肩を震わせて反応したが、直後に落ち着いた様子で「どうぞ」と促す。
 「お小遣いは月に幾らくらい渡していましたか?」
 「そうですね、月に二千円という約束をしていました。学校で必要な物が欲しい場合はその都度お金を渡しておりました。服や本は買ってあげたりあげなかったり……その時々でしたね」
 「最近お子さんに変わった様子はありませんでしたか?」
 「いえ、特にそういったことは感じませんでしたね。先程も言いましたが、平日はどうしても接する時間が短いもので印象に残るようなことは……」
 こちらの問いかけに対して落ち着いた口調で答える学。その受け答えから分かるのは、仕事で忙しくても子どもと一緒に居る時間を作ろうと努力しているのが言葉の端々から伝わってくる。
 さらに二つ三つ質問を繰り返していると、成宮が部屋に戻ってきた。小声でやり取りを交わすと、五十嵐は再び学と向き合った。
 「少し確認したいことがありますので、お子さんの持ち物を拝見してもよろしいでしょうか?元の位置に必ず戻しますし、決して怪しいことをする訳ではありませんのでご安心を」
 改めて確認を求められて学は五十嵐の申し出を了解した。あまり芳しくない風向きに、若干顔が強張った。五十嵐は学にリビングで待つように促して、作業に戻る。
 まず始めに手をつけたのは、引き出しにあった財布やお年玉袋、預金通帳の類。
 二つ折りのチャックで閉まるタイプの財布で、開くと内側に小銭入れのスペースがチャックで仕切られていた。お札が入るスペースに金銭は入っておらず、レシートが数枚入っているだけ。小銭入れの方を開けて確認すると、十円玉が一枚と五円玉が一枚に一円玉が二枚。
 お年玉袋の中身は全て空っぽ。預金通帳の残高を調べると、去年の秋から小まめに下ろされているのが確認され、残高は数百円しか残されていない。最後の日付は、運動会のあった翌日に千円下ろされていた。
 レシートを調べると、書店で漫画を数冊購入した記録が残されていたが、その漫画本は本棚や部屋のどこにも無かった。それどころか不思議なことに漫画本はこの部屋の何処にも見当たらない。古本屋に売りに行くには保護者の同意書が必要な年齢だし、買ったばかりの本を売るとは到底考えられない。レシートだけ貰うなんて酔狂な真似をするとは思えない。
 次に調べたのは、教科書やノートの類が何処にあるか。
 両親に確認したところ、勉強や宿題をやっている姿は毎日のように確認されている。それにも関わらず、表立った場所には見つからない。何かある、と刑事の勘が囁く。
 ランドセルの中に教科書が数冊、クローゼットの中の衣装ケースの一番下に隠すように他の教科書やノートの類が隠すように保管されているのを発見した。明らかに普通じゃない。そして一冊の教科書を開くと、その理由が徐々に明るみとなり始めた。
 一ページ目から明らかに他人の筆跡と思われる字で落書きされていた。パラパラとページを送っていっても状況は変わらず、『ウザい』『死ね』『キモい』『バカ』『汚い』等々罵倒のオンパレードが延々と続いている。ノートもまた似たような感じで、丁寧な文字の上から荒々しく他人が汚していた。
 衣装ケースの中の服も検めてみると、こちらも惨状が窺い知れた。ビリビリに引き裂かれた下着、ドロドロの絵の具をぶち撒けられた上着、幾つもの足跡が重なるように刻まれた白のズボン。
 「……まさか、ここまで深刻だったとは」
 次から次へと出てくる真実の大きさに、二人もここまで酷いとは思っていなかったらしく言葉を失った。並べられた証拠を前に呆然と立ち尽くすしかなく、両親にどう説明しようか考えても答えはなかなか見つからなかった。
 そこにピンポーンと呼び鈴が鳴る。いつまでも部屋から出て来ない二人の様子が気にかかるらしく不安そうな表情を浮かべてリビングで待つ両親は、突然の訪問者にどうすべきか迷っていた。そこへ五十嵐が応対に出るべく、玄関へ向かう。
 扉を開けると、濃紺のスーツを着た若い男の人が立っていた。
 「高城さんでしょうか?」
 「いえ、違います」
 五十嵐の返しに若い男は表札と部屋番号を見て、自分が間違ってないことを確認する。困惑の表情を崩さないまま問いかける。
 「……えーと、ところで貴方様はどちら様でしょうか?」
 「私は警察の者で五十嵐と言います。とは言っても所属は警視庁なので応援という形で捜査を行っていますが」
 五十嵐が素性を明かすと、若い男はそれまで怪訝な目で見ていたのが嘘のように姿勢を正して敬礼する。
 「こ、これは存ぜぬこととは言え失礼しました!!地元警察で刑事をしている高杉と言います!!」
 どうやら余所者が捜査に関与しているのは地元警察の者にも伝わっているらしく、五十嵐は内心で安堵した。部外者がずかずかと入ってきて、自分達の管轄の事件を我が物顔で捜査に関与することを毛嫌いする人も少なからず居るからだ。
 「話はまた後で。とりあえず中へ入ってくれないか」
 そう言うと五十嵐はサッと中へ戻っていった。状況を呑み込めず立ち尽くす高杉は、とりあえず五十嵐の言った通り部屋の中へお邪魔する。そのまま五十嵐の背中を追うように子ども部屋へ足を踏み入れて……血の気を失った。そこに並べられた証拠の数々が、予想を遥かに超えた事態を如実に物語っていた。
 今回の案件、もしかしたらとんでもない状況なのかも知れない。何が何だか理解が追いついていないながら、それだけはヒシヒシと伝わってきた。

 成宮は明るみになった証拠物品の数々をデジカメで撮影した後に、元あった通りに片付けて刑事三人はリビングへ向かった。
 そこで改めて地元警察の刑事である高杉が自己紹介をしたが……部屋で何があったかすぐに説明するのは憚られた。事態の深刻さにどう話せば良いか考えがまとまってなかったのもあるし、気が重いのも大きかった。
 黙り込んだ三人を不安そうに見つめる幸恵、険しい表情で結果を待つ学。その二人の姿を目の当たりにして、ようやく覚悟が固まった。
 「状況は……我々が想定していたよりも深刻なものでした」
 前もって厳しい結果を告げた上で、先程撮影したデジカメの画像を見せながら説明に入る。
 次々と見せられる画像の数々に、両親は言葉を失った。自分達の我が子がこんな惨い扱いを受けているとは想像もしていなかった。
 今にも崩れ落ちそうな表情で目の焦点が合わないまま説明を聞いている幸恵、話す一言が棘となって心に刺さるのを黙って受け入れる学。どちらも見ていて痛々しく、他人事でありながら辛かった。
 「本日写真に収めましたお子さんの持ち物に関しましては、後日改めて警察の鑑識から調査したい旨の依頼が来ると思います。その点だけ予めご了承下さい」
 高杉の言葉に学が消え入りそうな声で「分かりました」と短く答えた。衝撃で全てが頭に入ったか分からないが、理解しなくても良いとさえ思った。
 叶うならば時間を戻して欲しい。しかし無情にも止まることなく刻一刻と時は流れていく。人の心を簡単に押し潰すくらいに重たい空気の中で、我が子を失った両親の悲しみはどれ程のものか。
 刑事として現場に立つ以上はこういうケースに遭遇することは少なくない。でも、衝撃を受けて立ち止まる暇は与えられてない。被害者の痛みや悲しみを背負って、事件解決に向けて邁進していく以外に救いの道は無いのだ。

 タクシーで現場まで来たという高杉を含めた刑事三人は成宮が運転する車に同乗して集合住宅を後にした。凄惨な現場は元あった形に復元され、昼間の異様な雰囲気も夜になってようやく一段落したように映った。片隅に花束やお菓子、ジュースの缶が供えられていること以外は。
 「先程は失礼しました。つい捜査となると無愛想になってしまう性分でして……」
 助手席に座った五十嵐が振り返って後部座席に座る高杉に詫びの言葉をかける。初対面で諸々の事情を説明するのを省いてしまったことも含め、高圧的な態度だったと後から振り返って反省した。その姿勢が表情にもはっきり浮かび上がり、心底申し訳なさそうな顔をしていた。
 それに対して高杉は慌てたように手を懸命に振る。
 「いえいえ、とんでもないです。俺も本当はもっと早くご両親にお話を伺った方が良いと思っていたのですが、色々と時間がかかってしまいまして。東京からお越し頂いた上にこんな小さな事件にまで協力してくれるなんてありがたいばかりです……」
 高杉の返答に一瞬だけ五十嵐の眉がピクリと反応する。隣で運転する成宮もその変化を横目ながら察知していた。短いとは言え五十嵐と接してきた経験上、どの言葉が引っかかったのかは見当がついた。
 「……高杉さんに一つお訊ねしたい」
 努めて柔らかい表情で語りかけた五十嵐の言葉に、高杉は真正面から聞く姿勢を保つ。
 「事件の大きい・小さいの判断について、どう考えていますか?」
 問いかける五十嵐の瞳はじっと相手の眼を捉えていた。空気が先程から少しずつ変わりつつあるのを感じた高杉は一度自分の中で言いたいことを慎重に考えて、言葉を選びながら答えた。
 「やっぱり話題になるような事件は大きいと思います。例えば大物政治家の汚職や、芸能人の薬物、それに連続殺人など……」
 高杉からの答えに「成る程」と納得したように頷く。しかし、表情に変化は見られない。
 「確かに関心度の高い案件は新聞やテレビなどのメディアが取り上げやすい。そうなると外部の期待も相まって捜査員の士気も上がるし意欲も高まる。だがな、高杉君。オレはそう思わない」
 一息ついた刹那に高杉の顔をちらりと流し見る。真剣な表情で固まったまま、自分の方を凝視して動かない。今日初めて顔を合わせた間柄でありながら、一つでも吸収したいという気持ちを全面に押し出して隠そうとしない。良い、実に良い。その貪欲さが特に気に入った。
 次の瞬間、五十嵐の脳裏に(この男、使える)と判断した。これからどういう展開になるか分からないが、協力者として足りえるだけの素質がある、と認めた証だ。
 その間も成宮は一切口を挟まず、ハンドルを握って運転に集中していた。時折街灯の明かりが窓から差し込まれるが、それも一瞬ですぐに車内は暗い闇に覆われる。
 「殺人犯が一人殺そうが千人殺そうが、遺された家族の悲しみは共通して等しい。殺人だけじゃない。傷害、虐待、詐欺、強姦その他諸々。刑法に載っている犯罪は数多あるが、ほぼ全てにおいて加害者が存在して被害者が居る。その対象は人に限らず、会社や行政、もしかしたら国ってこともあるかも知れない。まぁ会社の経営に影響を与えた場合には二次的被害という受け止めになるが……」
 主要な幹線道路に出ると、沿線沿いに飲食店が目に入る機会が明らかに増えてきた。話の頃合を図って成宮が「ファミレスでよろしいでしょうか?」と言葉をかけると、五十嵐も無言で頷いた。
 手っ取り早く一番近いファミレスに車を停めると、一旦議論を中断して店内へ向かう。平日の夕方ピークタイムを過ぎた店内はガランと静まり返っていて、三人は一番奥のテーブル席を選んで腰かける。
 メニューをさっと眺めると店員さんを呼んで注文する。五十嵐はビーフカレー(大盛)、成宮はパスタとサラダのセット、高杉はLサイズのピザ。それぞれパッと食べられる品ばかり選んだのは食事に時間をかけていられない刑事の習性かも知れない。
 頼んだ品が来るまではお互いを知るために和やかな雑談に終始し、注文したメニューが届けられると一転して寡黙になって自分の品に集中する。全員が食べ終わるのと同時に、先程までの話が再開された。
 「例えば、大規模なテロ事件と引ったくり事件が同日に重なって発生したとする。どちらも同じ管内で、前者は死傷者が多数、後者は被害者が転んだ拍子に軽傷を負って二万円の入った財布を奪われた。当然のことながら大規模なテロ事件となると捜査員も大増員して事件の全容を解き明かさなければならない。使命感を抱く警察官ならば燃える展開だろう。そんな人が、もし前者でなく後者に割り当てられたとしよう。その場合、この人はどう感じるだろうか?」
 話を振られたが高杉は考え込んでしまい、反応が無い。返事を待たず五十嵐は話を続ける。
 「『なんで俺はこんな小さな事件を』と思うだろう。叶うならば与えられた事件より燃える大きな事件の方を、と。その気持ちを自分の中で納得させるなり隠すなりしても、小さな不満は必ず行動となって表面に出てくる。すると、あまり良くない結果に繋がりかねない」
 一旦話を切った五十嵐はお冷に口を付け、唇を湿らせる。
 「事件が起きないことこそ一番良いことだが、残念ながら難しい。大小問わず事件は常に発生する。ただ一つ言えることは、我々は目の前の事件を解決することが課せられた唯一の使命であることだ。任された事件の大きさに関係なく、だ。事件が起きれば必ず被害者がいることが居ることを忘れてはならない。被害者抜きに事件のことを語るなんて有り得ないからな」
 ゆっくりと、まるで諭すような話に二人は静かに耳を傾けていた。数々の修羅場を目の当たりにしてきた中で積み重ねられた経験を年長者から若者への訓戒という形で伝えたい気持ちに、一語一句聞き漏らさないように自然と背筋を伸ばして聞いていた。
 全て言いたいことを語り終えると、フゥと一息つく。そして再び柔らかい眼差しを高杉の方に向けた。
 「……なんて、な。これはオレが常に心の中に留めている“信念”みたいなものだ。高杉さんには高杉さんの思うことがあるだろうし、今話していたことが参考になるようなら頭の片隅にでも置いてくれたら、話した甲斐があったってもんだ」
 「とんでもないです!!」
 高杉は力強く否定すると、勢いに任せて一気に語り始めた。
 「今まで、ただ単純に『役に立ちたい』『活躍したい』とばかり考えていましたが、五十嵐さんの話を聞いている内に、そんな自分の考えが浅はかだったと気付かされました」
 そう話す高杉の瞳はキラキラと輝いていた。根が真面目だからなのか、単に人の話に流されやすいだけなのか、まだ分からないが先程まで話した五十嵐の話に感銘を受けたことに違いはない。
 世の中にこういう人が多いと嬉しいのだが、と五十嵐はその眩しい若人を眺めながら思った。東京の特に中心部に居る人間にはこう簡単に自分の考えが伝わらないことを身に沁みて実感していたからだ。出世することしか頭にない者ばかりに囲まれた中での生活は息苦しさを常日頃から感じながら、もっと事件の本質に目を向けて欲しいと何度考えたことか。
 会計を済ませた後、再び車に乗り込んだ三人は雑談に花を咲かせながら高杉を自宅まで送り、五十嵐と成宮は滞在先のホテルへ向かう。
 「……どうされます?」
 不意に運転中の成宮が傍らに座る五十嵐に向けて声をかけると、五十嵐は「何がだ」と問い返した。聞かなくても分かっているのに、と内心思いながら返事を返す。
 「このまま見届けるおつもりでしょうか?」
 恐らく事件が一定の解決を見るまで居座る魂胆なのだろう。隣から返答は無く、その顔には「当たり前だろう」とはっきり書かれていた。成宮は大きな溜息を一つ吐いただけでその後は何も言わなかった。
 確認しなくても五十嵐の性分から考えればこうなるとは大方分かっていた。ハンドルを握りながら、宿泊しているホテルに延長を申し入れたり諸々の経費の工面、さらには滞在を引き延ばす口実といった課題を如何にしてクリアにしていくかで頭が一杯になった。この手の細々とした手続きは五十嵐よりも自分の方が得意であり、常にその仕事は任されっぱなしであった。いつものことだと諦めの心はあっても、やはり上司の勝手に振り回される身は辛いものがあり、溜息の一つを吐いても文句は言われないだろう。
 そのままホテルに直帰した二人はそれぞれの個室に吸い込まれるように入っていった。成宮は今日集めた情報を簡潔にまとめてノートパソコンに叩き込み、ついでに押し付けられた難題にちょっとだけ手をつけて眠りについた。

 翌日。滞在するホテルで出された軽食を手早く片付けると、すぐに支度を整えて車に乗り込んだ。
 「道は分かるな」
 「はい。昨晩の内に調べておきました」
 運転席に座ってシートベルトを締める成宮の返事に頼もしさすら覚えた。本当に彼女は優等生だ。こちらが言わなくても予め先回りして準備してくれるので、お陰で自分は捜査に集中出来る。
 一応不慣れな場所ということで五十嵐の手中には地図が握られていたが、それも取り越し苦労になるだろう。既に成宮の頭の中には行き先の経路は頭の中に叩き込まれているに違いない。瞬時に覚え、その内容も詳細に長く記憶する。これも一種の才能であり、大きな武器だ。
 主要道路は朝の通勤時間帯に重なったこともあって混雑していたが、それを抜けると車の数はグッと減って流れが一気にスムーズになった。歩道には赤や黒のランドセルを背負った子どもがチラホラと見かけるようになってきた。
 片側一車線の道路を順調に進んでいくと、古い木造住宅が立ち並ぶ住宅地に差し掛かった。さらに進んでいくと家々の真ん中に、灰色のコンクリートで造られた大きな建物が見えてきた。その建物こそ、今から向かう場所の目的地である。校門には『刈安小学校』と鋳物で作られた看板が掲げられていた。この刈安小学校こそ、被害児童が通っていた小学校である。
 ただし、学校の周囲に児童と思われる子どもの姿は全く見られない。平日の朝であれば当たり前のような光景が見られないことに若干の違和感を抱きつつ、校内の駐車場に車を停めた。人気のない静かな学校に一抹の不安を覚えながら、校舎の方に向かって歩き出した。
 「お早うございます、警察の者ですが……」
 生徒が校内に入る入り口から離れた場所にある外部出入り口の脇に備え付けてあったインターホンで身分を明かすと『そのまま玄関に入ってお待ち下さい』とだけ告げられて切られた。二人は言われた通りに入り口から入って玄関で待つ。五分ほど手持ち無沙汰な状態で待っていると、二十代後半か三十代前半と思われる女性が現れた。恐らく、この学校の教師なのだろう。
 「お待たせして申し訳ありません。こちらへどうぞ」
 女性は下駄箱からスリッパを取り出して二人の前に並べる。二人は一礼してスリッパを履くと、空になっている場所に自分達の履物を入れた。
 やはり校内も水を打ったような静けさで、子どもの声は一切耳に入ってこない。異様な雰囲気にキョロキョロと周囲を窺う二人の様子を察してか、女性が声を添えた。
 「……昨日の今日ですので、今日は特別に臨時休校としました。児童の中にはショックを受けた子も居たみたいで、親御さんから幾つかそういった旨を伝える連絡も頂いていましたので、このような措置を取りました」
 その説明を受けて腑に落ちた二人は、女性の案内でしんと静まり返った屋内を粛々と進んでいく。小学校の建物の中に足を踏み入れるのはいつ以来か覚えてないが、こんな気持ちで学校の中を歩くとは思ってもいなかった。
 廊下を通り、階段を上がって通されたのは校長室。賞状やトロフィーが飾られ、奥の窓側には大きな机が据えられている。その手前の革張りのソファには既に二人の中年男性が座っていた。
 「お待たせして申し訳ありません」
 型通りの挨拶と簡潔な自己紹介を済ませると、相手からも紹介が入った。小太りの男性がこの学校の校長を務める三河、隣に居る細長い男性が小谷教頭、そして引率してくれた女性は被害児童の担任をしている川島。三河は太っているためか汗が額に滲んでいて、頻りとハンカチで拭っていた。小谷の方もどこか落ち着きがなく、目線も宙を泳いで定まっていない。
 「亡くなった歩さんのことについて二つ三つお聞きしたいのですが」
 成宮がハキハキとした口調で質問をするが、三河は口の中でモゴモゴと言ったものの何と言ったのか聞き取れなかった。その様子を見てすかさず小谷がバトンを受け継ぐが、すぐにソファの横に立つ川島に視線を送った。担任である川島に全て丸投げだ。
 一応この学校の責任者という立場にある人間に聞くのが筋だと思っていたが、自分達は極力この件に関わりたくない、という姿勢が明らかだった。
 全てを任された形となった川島は覚悟を決めて、スッと背筋を伸ばして答え始めた。
 「大人しくて真面目なお子さんでした。クラスの中では目立つような存在ではありませんでしたが、掃除や道具の片付けなどといったことは自分から率先して行ってくれました。遅刻や欠席もありませんでしたので、今回の一件につきましては担任としてただ困惑しています」
 あまりに模範解答すぎる。五十嵐は川島の言葉を聞いた第一印象はそう受け止めた。まるで記者会見で弁明する際に、予め用意された文章を読み上げているのと同じではないか。多分だが、今日訪問するに当たって事前に想定問答を練っていたのだろう。
 聞いている分には特別引っかかるような点は見当たらない。しかし、自分達が知りたいのは綺麗事の裏に隠された部分なのだ。上っ面だけで塗り固められた文言など、百回聞いても無駄である。
 成宮もその点を了承しているらしく、追及する手を緩めるつもりは無い。
 「クラス内でイジメやトラブルがあったという話は?」
 「私の耳に入っていませんでしたので、恐らく無かったと思います。時々ふざけ合いから活発な男子児童同士で些細な喧嘩に発展することもありましたが、それ以外は基本的に仲の良いクラスだと考えています」
 この『耳に入ってない』という単語も厄介で、人の受け止め方によっては逃げ口上と勘繰りたくなる。年齢が上がれば自我が発達して、自分に影響が及ばないように口を噤んだり周囲の人間に迷惑をかけまいと泣き寝入りするケースも出てくる。逆のパターンで言えば『誰かに言ったらもっとひどい事をする』と脅しをかけることも考えられる。そういう可能性を全て排除した前提の話など、有り得ない。
 さらに五十嵐が注意深く目の前の三人を観察していると、川島が回答する前に必ずソファに座る上司二人の様子を目で窺っているのが分かった。その行動一つで、川島だけを矢面に立たせる形で背後から無難に乗り切ろうという魂胆が透けて見えた。
 三河・小谷は何も言葉を発しない割には出されたお茶に手をつける機会が異常に多く、三十分も経たない内に器は綺麗に空っぽになってしまった。五十嵐と成宮は数回口をつけただけ、川島に至ってはお茶すら出されてないにも関わらず、だ。
 五月下旬という季節なので特別空調は必要のない快適な環境であったが、責任者二人は真夏の炎天下に居るように汗だくになっていた。三河のワイシャツは噴き出した汗でぐしょ濡れで、ハンカチも湿っていて何の役にも立ってない。小谷は顔が常に真っ青で、五十嵐や成宮から時々浴びる視線から目を逸らしている。
 そして顕著だったのは、亡くなった被害児童の話やイジメの有無について話題が及ぶと敏感に反応していることだ。本人達は必死に隠そうとしているのだろうが、顕著に表れているのだから“どうぞ疑って下さい”と言ってるも同然だ。
 川島は冷静かつ丁寧な話し方で、こちら側の質問に対して応じている印象はある。でも、傍らに控える責任者二人の様子を見ていると、裏があると思えてならない。
 その後も質問を重ねて聞きたいことを全て聴取し終えると、こちらの連絡先を相手に渡してそのまま学校を後にした。三河も小谷も校長室から出ようとはせず、川島だけが最後まで付き添っていた。
 「何か隠していますね。特に校長や教頭がバレバレでした。恐らく何らかの事実が明るみになるのを恐れているのでしょう」
 今日の所は収穫ゼロで引き上げる形となったが、あれだけ明確にうろたえる様子を見せ付けられると、掘り返せば何かあると思わない方がおかしい。
 成宮は畳み掛けるように言葉を続けた。
 「あの二人を突けば、何か重要な証言が得られる可能性が―――」
 「いや、それは無いな」
 言葉を遮るように五十嵐はキッパリと否定した。流石に憶測を即座に却下されて成宮もムッと眉を吊り上げるが、見ない振りをしてそのまま話を続ける。
 「多分に新事実を自らの口から明かすことは、あの二人の今日の様子からは考えられない。むしろ、出来るだけ隠して自分達に降り懸かる火の粉を抑えることに対して躍起になっている。保身に奔る輩はそこら辺の嗅覚が敏感だし、我が身に危険が及ぶような真似は絶対にしない」
 それにしても……と五十嵐は呟いて、そのまま言葉を紡ぐ。
 「保身一辺倒の二人に比べると、あっちの女性は胆が据わっていたな」
 「確かにそうですが……堂々としていたのは、手の内を探られたくない裏返しと捉えているのですけど」
 「あの場に控えていた上司の意向に副って、の発言だろう。警察が校内に乗り込むのは事前に知らせてあったとは言え、無難な言葉遣いに終始していた。もし最悪のケースとして捜査の手が伸びてきたら……」
 五十嵐は手刀で首をトントンと軽く叩く。責任を全て川島に押し付けて自分達は全力で逃げる、正しくトカゲの尻尾切りだ。「何処の社会でもやることは一緒だな」と独り言のように呟いたのを成宮は聞き流した。
 「それはそれとして、果たして話してくれますかね?場を変えたとしても口を割ってくれるかどうかは分かりませんよ?」
 「だからこそ、川島さんにだけ我々の携帯番号が入った名刺を渡したんじゃないか。情報源を明かさないことを条件にすれば“万が一”も有り得るぞ」
 腰が引けている上司二人よりも担任の方が正直に打ち明けてくれる可能性がある、と踏んだ五十嵐は内密に連絡先を伝えていた。裏面に私用の携帯番号とメールアドレスが記されている名刺をこっそりと紛れ込ませていたのだ。それは成宮にも同じことをさせている。
 「まぁ展開がどうなるかはあの人の胸三寸次第だな……」
 他人事のように空を眺めながらポツリと漏らした五十嵐の背中は、いつも通り自信に溢れていた。

 * * *

 その日の午後。通っている児童が自殺したことに対してメディア向けに学校の方から記者会見が行われた。以下、記者と学校側の一問一答。
 ―――自殺した生徒のことについてお話下さい
 『真面目で、大人しい子でした。クラスに飾られた花の水を取り替えたり、花壇に咲いている花々に水を撒いたり、学校で飼育している犬に餌をあげたり小屋を掃除したりと心優しい一面が強く印象に残っています。挨拶も自分からしっかり出来る子で、教師を始めとして他の親御さんや近所の方々の評判も良かったです』
 ―――児童が自殺に至った原因は何だとお考えでしょうか?
 『現在調査中ですので詳細につきましては回答を控えさせて頂きます。ご了承下さい』
 ―――昨今、児童の自殺においてクラス内でのイジメが関連している事案が多数報告されています。今回の一件でもクラス内でイジメなどがあったと思われますか?
 『先程も述べました通り、イジメの有無も含めて現在こちらで調査をしている段階ですので、詳しいことにつきましてはこの場でお答えすることは控えさせて頂きます。ただ、生徒のクラスにおいてそのようなことがあったという報告は今のところ受けていませんし、当該クラスの保護者から似たような類の相談を受けたとは我々は聞いていません。ですので、現段階においてイジメは無かったという見解を持っています』
 ―――学校側の責任についてどう思っているのでしょうか?
 『親御さんからお預かりした大切なお子さんを、その尊い命を自らの手で絶つということは教育者として忸怩たる思いです。亡くなられたご家族には、心よりお詫び申し上げます』
 (校長・教頭がその場で立ち上がり、深々と一礼。その瞬間、一斉にカメラのフラッシュとシャッター音が会場内で鳴り響く)

 * * *

 その一方で五十嵐と成宮はそれぞれ個別に集合住宅や学校の周辺で聞き込みをかけていた。
 「あのクラスは無法地帯ですよ。授業中でも平気で歩き回ったり友人とお喋りに夢中になったり。大多数は真面目に授業を受けているけれど、ほんの一握りの生徒が飛び抜けて酷い。最近では『歌うのが恥ずかしい』って集団ボイコットして勝手に楽器で遊びだしたり。担任の先生にもこの旨を伝えたのですが対応に苦慮しているみたいで……本当に、あの先生はお気の毒としか言えないです(音楽担当教師)」
 「学年共通の問題ですが、集団生活に慣れない子が未だに多くて……。『あの子と一緒のクラスじゃないとイヤ!!』って勝手に抜け出したり、嫌いな授業に出なかったり。そのことで生徒にきつく叱ると今度は保護者からクレームが入るんですよね。それも生半可なレベルじゃなくて夜中であろうと自宅にまで電話をかけてきて延々と『自分の子どもを差別するな、嫌がっていることを強要するのが本当の教育なのか、何故子どもの気持ちを優先させてあげないのか』云々。かと言って上に相談しても事なかれ主義で静観を決め込んで介入してきません。今では上と保護者の板挟みで悩んでいる教師は多いですよ。特に一度だけ文句を言う保護者達が団結して教師を無理矢理退職にまで追い込んでからは保護者の方が教師よりも立場が強くなってからは傍若無人振りに拍車が掛かって手がつけられません……(教師)」
 「最近の小学生?あぁ、あれはタチが悪い。イタズラなんて生易しいもんじゃ済まないよ。物は壊すわ、物は盗むわ、場所陣取るわでウチも手を焼いて困っているんですよ。一回万引きの現場を目撃してとっ捕まえたんですよ。すぐに保護者に連絡したらすぐに飛んできましたけど、何て言ったと思います?『ウチの子がそんなことする訳がない!!濡れ衣だ!!』って……もう開いた口が塞がりませんでしたよ。捕まえて叱った時はシュンとしていたのに親が来た途端にケロッとして親の後ろに隠れる有様。証拠、証拠と騒ぐから防犯カメラの映像を見せたら今後は黙り込んだと思ったら『これで良いんでしょ!』って万札を差し出されて握らされて。そういう問題じゃないと問い詰めようとしても『お金さえ払えば済むでしょ!』だって。ありゃ子どもも子どもだが、親も親だわ。今までの被害の分も弁済してもらおうと考えたけど、あんな親と関わりたくないからこちらが泣き寝入りするしかないですね(近所のコンビニ店長)」
 他にも色々と話を聞いてきたが、どれもあまり良い話ではない。透けて見えるのは我が儘やりたい放題の子どもに、それを庇う無責任な保護者の影。どちらも評判は端的に言って悪い。
 「こりゃひでぇな」
 一日中歩き回って集めた話を見返して五十嵐は思わず漏らすくらいに、事態は酷かった。その一方で亡くなった児童については数こそ少ないが心温まる話が拾えたことだけが唯一の救いであった。
 「挨拶が出来る、しっかりとした子でした。ご両親共に働いていて平日の夕方は一人で居ることもあったみたいだけれど、休日には家族仲良く出掛ける姿をよく見かけました(住人)」
 「この集合住宅で年に数回行われる清掃活動の時にはご両親と一緒に参加している姿が印象的でした。ここに住んでいる人達の中には積極的に出てくる人も少ないですから、余計にそう思うのかも。近くの公園で小さな子と一緒に遊んでいても、滑り台やブランコを先に譲ってあげるんですよ。偉いなぁって少し感動しましたよ。最近の子は“自分さえ楽しければそれで良い”って子が多いから余計に……(住人)」
 二人で掻き集めた情報をまとめても、被害児童が自殺に至るまでの理由が一向に見当たらない。家族仲が良く、思いやりのある子という印象が聞き込みをしていく中でさらに強くなった。
 しかし、あの日に暴かれた事実は衝撃的なものだった。凄惨なイジメの証拠が次々と明るみになり、これが自殺の原因だと誰の目から見ても明らかであった。
 五十嵐は懐から煙草の箱を手にして、一本だけ抜き取ると口に咥えて火を点ける。仄かに先端が赤く燈ると、口の隙間から白い煙が漏れ出す。行き場を失った煙は宙を彷徨い、風に揺られるまま自然に消滅していった。
 煙草を咥える五十嵐の表情は依然として険しいものであった。怒っているのか、苛立っているのか、それとも別の感情を抱えているのか推し量れない。
 元々喜怒哀楽を表に出す人だ。怒る時は烈火の如く激しく感情を相手にぶつけて、部下が手柄を立てれば自分のことのように心の底から喜びを全身で表し、遺族と向き合う際は近親者と接するように涙を流さんばかりに悲しむ。出来るだけ感情を殺して表情に出さない私とは対極にある。
 この数日、ほとんど同じような顔をしたまま捜査を続けている。常に眉間の間に皺を寄せて、眼光は鷹のように鋭く、口はへの字で結んで苦虫を噛み潰したような顔をずっと崩さない。口に煙草を咥えたまま腕組みをしてただ一点を見つめるだけで、何を思い、何を考えているのか全く読めない。
 と、そこへ成宮の携帯電話が振動する。画面には相手の番号だけ表示されているのみなので、登録されている誰かではない。かと言って私用の番号を伝えた相手は限られているので、ある程度は絞られる。成宮は五十嵐に目礼だけ済ませて着信ボタンを押す。
 『もしもし……』
 電話口から聞こえてきたのは、怯えが滲んでいる弱々しい声だった。聞き覚えのある声ではあったが、その時とは違って不安や恐怖が混じっていた。
 「ご心配ありません。あなたが連絡してきたことは誰にも口外しませんし、今周りには誰も居ませんのでご安心下さい」
 成宮は電話の向こうの相手に対して優しく安心させるような言葉をかけると、相手もホッとしたらしく安堵の声が漏れ伝わってきた。
 会ってお話したいことがある、と伝えてきた相手に成宮は待ち合わせの場所を伺った。すると相手からは『人目につかない場所であれば何処でも構わない』と返答が返ってきた。人の目を極端に怯えているのが、その一言の中に凝縮されているのが分かる。
 少し考えて、成宮は隣町の駅からやや離れた場所にある喫茶店を伝えると、相手も了承した。『二時間後に参ります』とだけ伝えられて電話は切れた。
 電話のやりとりを静かに聞いていた五十嵐は誰からの電話だったのか大体の見当がついていたらしい。すぐに煙草の火を消して、車のある方角へ向かって歩いていった。

 約束した喫茶店に入ると、既に先客が到着していた。二人の顔を見て静かに頭を下げるだけで、それに応じて自然な流れでその人が座っている席に向かう。
 この店は人通りの多い道から一本入った路地にある喫茶店で、店の周囲には植え込みがあって外から見えにくい構造となっている。それでも外部の目を警戒しているらしく、その人は店の中で最も目立たない奥のテーブル席に一人で座っていた。
 「遅くなり、申し訳ありません」
 人通りのある窓側に背を向けて座るその人に、まずは遅れたことを詫びる五十嵐。
 「いえ、お呼び立てしたのは私の方ですのでお気になさらず」
 本人は気にしていない様子で、五十嵐の謝罪に対しても不快に思っている様子は見られなかった。ただ、その表情は心労の影響からか以前会った時よりも幾分やつれている印象を受けた。
 「さて……お話したいことがあると聞いて伺いましたが、どのような内容でしょうか?……川島さん」
 名前を呼ばれただけでビクッと肩が跳ねる。校長と教頭を前にして堂々と渡り合っていた姿が嘘のように、表情が沈んでいる。話をすると決めるまでに相当な葛藤があったのだろう。
 五十嵐と成宮はブレンドコーヒーを注文して、店の人がそれを運んでくるまで静かに待った。その僅かな時間さえも重苦しい雰囲気が両者の間を包んでいて、息苦しささえ抱いた。
 二人が注文したコーヒーが出されると、川島はカップに口をつけると覚悟を決めて口を開いた。
 「刑事さんは、どこまでお調べになられました?」
 やや具体性に欠ける質問であったが、今現状で知り得た範囲の情報を開示することにした。
 「被害児童の自宅では自殺に大きく関わる重要な物的証拠ならびに状況証拠を把握しています。また、学校関係者や周辺住民への聞き込みから、同級生に関する評判や事例なども幾つか集まっている、という状況です」
 「……ということは、歩さんが自殺した原因についても?」
 「はい」
 その返事に川島は小さく息をついて、肩を落とした。全てを悟ったようだった。
 「あの時は上司二人から口止めされていたのですね」
 成宮の問いかけに対して無言で頷いた。
 「生徒が自殺したことを告げると、『私の責任問題になるからいじめの事実は徹底的に隠せ』『知らぬ存ぜぬで押し通せ』と言われました。それから『もしもバラしたら君は二度と教壇に立てなくなるぞ』とも脅されました。これまでのイジメや学級崩壊の件で頭を悩ませていまして、何度か相談したのですが『君の指導の仕方が悪い』の一点張りで……同僚の教師達もこの状況を問題視しているのに責任者である校長と教頭はひたすら保身の為に事実を隠蔽しようと必死でした」
 一瞬、脅迫罪か何かで立件することは出来ないかと考えたが、言質がある訳ではないので難しいと判断した。第一、管轄が違うので立証出来ても立件するまでに至れないのが口惜しい。
 子どもが一人死んでいるにも関わらず、その責任が自分達の身に及ぶのを極度に恐れる余りに事実さえも闇に葬るつもりらしい。それくらい我が儘で身勝手な行動だと憤りを隠せなかった。
 川島はさらに言葉を重ねる。
 「子ども達は活発な子が多くて手を焼くこともありましたが、どうして悪いかしっかり説明した上で叱ると大人しく反省した態度を見せてくれました。ですが、翌日から保護者から猛抗議の嵐が始まりまして……『何故ウチの子だけ狙い撃ちするんだ』『アンタの教え方が悪いせいじゃないのか』と時には放課後の職員室に乗り込んでくることもありました。結局、こちらに何の落ち度はありませんでしたが、謝罪と誓約書を書かされました。
 それからも川島は幾つかの事例を挙げた上で、クラスの運営が如何に難しい状況だったかを切々と語り始めた。
 国語の授業中にある生徒達が騒ぎ始めまして、そのことを注意したら『お前の授業が退屈だったから集中出来なかったんだ』と言われ、反論すると暴れだして中には掴みかかってきた挙句に『こうなったら金で解決するしかない』と言い出す始末。校長に相談すると代わりに幾らか握らせるとその方は黙って引き下がりましたが、同僚からは『あの人は前からこうして脅して強請りを繰り返している』と言われたこと。
 通信簿に“二”をつけた際に、保護者の一人から電話でクレームが来て『小学校なんだから成績なんて飾りみたいなものだ。どうせなら子どもがやる気を出すために全部満点にするべきだ』と暴言を要求されたこと。
 水泳の授業で『男子の視線が卑猥だ』と難癖をつけて、男女別々にプールの授業を受けさせるべきだと無理難題を突きつけてきたこと。
 それ以外にも外部の人間から捉えても常識からあまりにかけ離れた要求や苦情を押し付けてくるとしか思えない事例ばかりで、開いた口が塞がらなかった。
 「親の影響があるのか分かりませんが、最近では教師を恐れない子が増えてきて、こちらが注意しても『親に言いつけてやるぞ』と逆に脅してくるのです。親御さんは実際に現場を見ている訳ではないので子ども達の言っていることを全て鵜呑みに信じ込んで、クレームをつけてくるのです」
 「この件を教育委員会に訴えることは考えなかったのでしょうか?」
 「それも考えましたし、実際に幾つかの案件に関して報告しました。ですが、保護者の中にはPTA活動などで教育委員会とパイプを持つ人も居たみたいで、私の報告した案件は全て握り潰されてしまいました。そればかりか保護者の人達や学校側にも事情を知られてしまい、双方から叱責されました」
 通常の場合、このような内部告発に関しては告発者の人権や立場を考慮して外部に情報が漏れることは決してあってはならないことなのだが、教育委員会とは関わりのない当事者の元に渡るとなれば秘匿性も保護もあったものじゃない。
 「……ということは、今回の一件が起きてから保護者から何らかの口止め工作などがあったりしましたか?」
 「はい。ありました」
 成宮の問いかけに対して川島ははっきりとした口調で答えた。事件後に複数の保護者からイジメの事実を明るみにしないように要請(というよりも脅迫に近い脅し)があったと言う。イジメと自殺の因果関係が公になることで我が子が不利な立場に追い込まれるのではないか、という気持ちも分からなくもないが、これでは事件を闇に葬る行為も同然だ。
 これらのことを全て自分の胸の内に秘めておくにはあまりにも大きすぎる。言われるがまま事件を無かったことにしても、時間が経てば自責の念に駆られて教職の現場から去るか、心の病に侵されて今後の人生を鬱屈とした精神状態で過ごさなければならなかっただろう。もし仮に川島がそのような事態に陥ったとしても、隠蔽を指示した学校関係者や保護者達は自分達がそこまで追い詰めたなんて微塵も感じることなく普通な生活を過ごしていくのだろうが……。
 川島からの独白は、事件の真相究明に向けて大きく前進する一歩だった。本当のことを知りたい両親にとっては辛いことかも知れないが、真実を知る権利がある以上は伝えなければならない。
 色々と抱え込んでいたものを吐き出して少しだけ表情が明るくなったものの、まだ川島の顔には影が差したままであった。自らの教え子が命を絶った衝撃の大きさは、担任である川島の心にも深く刺さっているのだろう。
 「私が……私が悪いのです」
 ポツリと呟くと、その瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
 今の今まで張り詰めていた緊張の糸が緩んだ拍子に、感情が一気に表に出てきたのだろう。珠のような涙は拭っても拭っても止まることなく溢れてくる。初めて会った時も、必死に自分を奮い立たせて応対に臨んでいたことを考えると、胸が痛んだ。
 若い成宮からは言葉をかけられなかった。自分と近しい年代の女性が過酷な扱いを受けていることに対して何と言えば良いのか見当がつかないし、励ましの言葉は今の彼女の心に届かないだろうし、否定的な言葉を発してしまうと余計に心を傷つけてしまう。自分を責めることで精神的に追い詰めることは分かっていたが、それを解決することに結び付ける手段を持ち合わせていない自分が無力に感じた。
 「泣いても還ってはきませんよ」
 毅然とした態度で声をかけたのは、やはり隣に座る年長者の五十嵐であった。
 「今は冥福を祈り、親御さんに全て打ち明けることが貴女に課せられた使命なのです。今回は死を防ぐことは出来ず最悪の結果になってしまいましたが、今後はこのようなことがないように努めていくことこそ亡くなった生徒への供養となるのではないのでしょうか?そして、決して貴女自信を必要以上に責めることも亡くなった生徒は望んでいないと思います」
 優しく諭すような言い方に川島の涙はさらに溢れ、ハンカチで必死に目元を押さえていた。……この人には敵わないな、と頭が下がる思いだ。人情で訴えたら五十嵐の右に出る者は居ないことだろう。
 今日の証言は重要なポイントになる。担任の教師がイジメの事実を認め、さらにそれを隠蔽しようとした疑いまで浮上したのだ。今後の捜査においても強力な後押しになることに違いはない。
 だが、それは一人の教師人生を左右する、大きな爆弾であることに変わりはない。扱い方を少しでも誤れば、その情報源を暴き出されて詰め腹を切らされることになりかねない。情報を秘匿にした上で、川島に危害が及ばないように最大限配慮する必要がある。教育委員会・保護者・学校が敵と考えれば、今の川島には味方があまりに少なすぎる。
 会計は全て五十嵐が支払い、捜査協力のお礼も兼ねて川島にはタクシー代を渡して先に帰らせることにした。知り合いに見つかる危険性が少ないにせよ川島は帽子とマスクを装着した上に昼間の時から髪型を変える念の入れ様に、今回の事件の特異性を垣間見た気分であった。

 夜も大分更けてきたので今日はこのコーヒーを満喫して仕事を納めることにした。ホテルの部屋に戻った成宮は今日一日集めた情報をまとめる作業に取り掛かった。要点をまとめておくだけでも、明日以降の捜査で無駄な手間を省いてスムーズに事を運ぶことが出来る。この情報は遺族にとっては非常に酷な内容となっているが、真実とは常に明快かつ単純なものではない。例え深い悲しみの傷を抉るような結末が出ようとも、真実を究明することだけが遺族にとって唯一の望みになるのだから。
 ここまでの捜査で得られた情報を高杉に伝えるべく、携帯電話に手を伸ばした。五十嵐と成宮はあくまで余所者であるので、今回の捜査ではあくまでサポートという名目で参加している。実際には地元警察の人間が粛々と捜査を進めているのだが、二人が単独で動いていることで別の観点から拾えた情報があるかも知れない。そうした点の擦り合わせを目的として、一度高杉に会う必要があったのだ。
 幸いなことに高杉の方も明日は都合が良いらしく、会う約束を結ぶことが出来た。待ち合わせの場所と時間を伝えて電話を切る。その後、五十嵐にもその旨を伝えて了承を得た。

 本来ならば関係者への聞き込みを行うのは高杉に与えられた役目だったし、実際に仕事もしっかりとやっていた。刑事課に配属されて日が浅く警察官としてもまだまだ若手の部類に属する高杉に対して、刑事の基本を徹底的に体の芯まで叩き込ませるのが上司の方針であったし、高杉もその点については理解していた。
 だが、偶然にも部外者ではあるが警視庁でバリバリ活躍する刑事と関わる機会に遭遇し、その経験と実績に裏打ちされた金言を賜るというまたとない経験も出来たことで、その方針は一変した。上司である刑事課長は五十嵐達と密接に連携することを認めたばかりか寧ろ積極的に近付いて行けとまで勧められた。先輩方は課長による突然の教育方針の転換に驚いたが、それもいつものことだと自然に浸透していった。
 いつもぼんやりとした表情を浮かべ、自分の思っていることをあまり口にはっきりと出さない課長は、周囲からも何を考えているのかイマイチ分からないことで知られていた。何を報告しても「うむ」の一言で済ませるだけ。書類を提出する際も良ければザッと目を通しただけで判を押し、悪ければ無言で返してくる。部下を信頼しての行動なのか、ただ単純に愚鈍なだけなのか。
 昨夜の夜に五十嵐の部下である成宮からいきなり連絡があり「明日時間が取れないか?」と相談された。課長の方からは『警視庁の刑事と行動するのを優先しても構わない』と許しは得ていたので、了解する旨だけ返事を伝えた。事後報告にはなったが課長にも報告するといつものように「行って来い」と一言だけ言われた。
 しかし、初めて顔を合わせた日のことは今でも鮮明に覚えている。早く一人前になりたい、役に立ちたい気持ちばかり前のめりになっていた自分にとって、五十嵐からの訓示は雷に打たれたような衝撃を受けた。それまでの自分があまりに小さな人間だったと恥じたし、翌日からは五十嵐の言葉を胸の中に刻み込んで、職務に全力で取り組む姿勢で臨んだ。その心替わりに周囲も気付いたらしく先輩諸氏から驚きの眼差しで見られることとなった。
 そして今日もまた部長は快く送り出してくれた。特別に何か言われた訳ではないが、それが逆に信頼されているようで妙にホッとした。

 二人と待ち合わせの場所は、管轄外の隣町にある喫茶店だった。駅からは近いものの一本路地に入った所にあるので少々分かりづらく、到着するまでに難渋した。それに電話口の成宮からは「普段捜査で用いている服やスーツでないものを着てきて欲しい」と奇妙な注文も付け加えられていたので、完全にプライベートで使う私服で来店した。
 店に入ると二人の姿は比較的分かりやすい位置で座っていた。どうやら早めに着いたらしく、既に注文した飲み物がテーブルに置かれている。高杉は知らなかったが、昨日川島と会った際に利用した喫茶店だったので道に迷うことは無かった。
 管轄外の隣町で、おまけに普段とは違う服装で会うということは、何か事情があるのだろう。自分の知らない所で捜査は進展しているのが経験の浅い身でありながらも薄々と感じ取れた。近隣の警察署の人間とは面識も無いのに必要以上に用心するのは裏があるとしか思えない。
 「急に呼び出して申し訳ないね」
 階級も年齢も明らかに上でありながら五十嵐は会って早々に丁寧な言葉をかけてきて、逆に若輩者の自分の方が恐縮する思いであった。改めて目の前に座る五十嵐に好感を抱くと共に、胸の奥で何かチクリと痛むのが感じた。
 とりあえず高杉はホットコーヒーを注文した。六月も近付いてきて春から夏へ移る境目とあって徐々に暑くなってきたが、どうもアイスコーヒーは体と相性が悪いみたいで胃もたれを起こしたり腹下しになることが多い。警官で胃が弱いとは職務上如何なものかと思うが、それでも不規則な生活には体が対応しているのだから不思議である。
 「今回の一件における全体像が見えてきた」
 五十嵐の口から事件の背景について少しずつ明らかにされていく。高杉もまた二人とは別に捜査を行っていたが日本で最大の警察組織である警視庁の最前線で活躍する現役刑事の実力に思わず息を呑む思いであった。自殺とイジメに因果関係があると薄々気付いていたものの、被害児童の置かれた環境の深刻さに言葉を失った。
 やりきれない最大の原因は、被害児童を取り巻く大人達の反応だ。不都合なものは隠す、自分の安全が最優先の教育者、我が子可愛さのあまり正邪を判断するメガネが曇っただけでなく過剰に介入してくる保護者、そして万事において波立たぬよう繕う醜い大人達の意思統一。こんな大人を鑑にして育った子どもがどのような性格になるかは容易に想像がつくし、事実その通りに育ってしまった。おまけに本来であれば子どもが間違った方向に進まないようにストッパーをかけるはずの親が逆に庇ってしまえば、一度傾いた向きから変わらず勢いを増して加速していくだけだ。
 幾度も悪い流れを止めるチャンスはあったのに、サインは出ていたのに、被害児童には何の落ち度もないのに、大人達の身勝手な都合によって失う必要のない命が一つ消えてしまった。現実は非情なものかも知れないが、これはあんまりな結末だ。
 重苦しい雰囲気が三人をすっぽりと包み込む。いつしか言葉を発することさえ躊躇われる空気が蔓延して、刻一刻と時間だけが過ぎていく。
 舌を焼くように熱かったコーヒーも場の冷たさを表すように冷めてしまっていた。試しに一口啜ってみるが焙煎された香ばしい香りは微塵も感じられず、ただただ苦味だけが口の中に残る不味く黒い液体と化していた。水で後味の悪さを洗い流そうとするも、味のないはずの水でさえ苦く感じる。高杉が生まれて初めて飲んだのはインスタントコーヒーだったが、作り手のミスだったか粉末の分量が多かったせいか凄く苦かった印象があるが、手元に置かれるコーヒーはその時感じた以上に苦味が口の中や舌の上に粘っこく残っていた。
 「……お二人は、この後どうされるおつもりでしょうか?」
 一番年少である自分が切り出すのはどうかと思ったが、高杉は自分の口から出てくる言葉を抑えられなかった。いや、逆に経験の浅い身であるからこそ率直に疑問をぶつけられる立場だと意識をすり替えた。通常ならば“『事件性は見られない』と分かれば、その時点で自殺と処理して捜査は終わり”だが、それではあまりに不条理だし納得がいかない。被害児童が自殺した背景には深刻なイジメという土壌が残っていて、その汚染された環境を完全に取り除かなければ第二の犠牲者を生み出してしまう可能性さえ否定出来ない。
 されど、教育というある種の聖域における出来事なので司法も警察も踏み込めるか未知数だし、自殺に至った要因を生み出しているのが未成年という点も問題である。それに教育委員会にしても現場の責任者である校長・教育の指導や監督義務があるにも関わらず、イジメの事実を握り潰した実績があるので介入せず放置する公算は大いに有り得る。子どもが一人自ら死を選んでも何一つ変わらない、なんて暴挙が最も可能性が高いのだから笑えない。
 自然と下がっていた頭を、思い切って上げてみる。目線を上げた高杉の瞳に映ったのは、テーブルに肘をついて深く考え込む五十嵐の険しい表情と、さっきまでの自分と同じように俯いてやり場のない視線を泳がせている成宮の姿。
 待った。誰かが答えを返してくるまで、じっと耐える。膝の上で握られた拳にじわりと汗が滲んでも気にしない。
 そして―――沈黙を切り裂くように、欲していた答えが発せられた。
 「泣き寝入りさせない。真相を全部明らかにした上で、覆っている暗雲を一掃するまで終わらせない」
 五十嵐から発せられた言葉に一切の迷いは無く、はっきりと断言する口調で言い切った。傍らで五十嵐の宣言を耳にした成宮の表情に幾分の変化も見られなかったが、少しだけ明るくなったように映った。
 「……警部ならそう仰ると思いました」
 よく考えてみれば、今目の前に座っている二人は所轄の人間ではないことを改めて思い出された。警視庁から所用で訪れていた時に一報が入ったと耳にしただけでお手伝いを買って出た身でありながら、地元の人間かそれ以上の情熱を持って捜査に当たっている。それも面倒だとか困難だとか理由をつけて立件することも躊躇われるような微妙な案件にも関わらず、全力で立件すると言い切ったのだ。
 「滞在期間の延長申請を済ませておきますね。後追いという形になりますが捜査協力を依頼された態で出しておきます」
 「それで頼む。使えるものは惜しまずジャンジャン利用していけ。このヤマが片付くまでは東京に戻らないからそのつもりで考えていてくれ」
 「……滞在を延ばすのでしたらホテルを変えましょう。解決まで道筋が付いていない以上は今のホテルだと経費が高くなりますから。警部、何か要望はありますか?」
 「ぐっすり寝れる場所なら多少オンボロでも構わない!!」
 「そもそも警部はどんな場所でも熟睡されるから問題無いじゃないですか」
 成宮はテーブルの上にノートパソコンを広げると、携帯電話を操りながら次々と事務作業をこなしていった。会話も掛け合い漫才みたいで息もピッタリだ。その間に五十嵐と高杉はそれぞれ調べてきた内容について打ち合わせを重ね、膨大な情報を一つに集約していく作業に没頭した。抜群の捜査センスと捜査員をまとめあげる求心力を兼ね備える五十嵐と、感情に左右されることなく端的に情報を分析する論理的な思考の持ち主の成宮は、一見すると相容れない関係のように映るが、こうしていると互いの長所を活かして上手く噛み合っているように感じた。これが警視庁で辣腕を振るうコンビなのか、と舌を巻く思いである。
 互いに集めた情報の擦り合わせも済ませると、また後日改めて会うことで同意した。その際に厄介になっている所轄の方に二人が挨拶したいと申し出があったので、高杉を介して刑事課長と日程を調整することも決まった。今後も立件していく為に協力を仰ぐことになるので、一度しっかりとした形で会って話がしたいらしい。通すべき筋はしっかり通す人だな、と高杉は思った。警視庁で数々の実績を残している人達なのに腰は凄く低いし偉ぶる素振りは一切出さない。キャリア組や仕事がバリバリ出来る人って無意識の内に所轄や現場の人間を見下すイメージがあったので、そういった悪いイメージが無いことに信頼が持てた。
 「今後とも宜しくお願いします」
 「うむ。頼りにしているよ、高杉君」
 別れ際に高杉の肩を軽くポンポンと叩いて、五十嵐は颯爽と店を出ていく。その背中をキラキラと目を輝かせて見送っていた。
 こういうさり気ない仕草一つを自然に振舞える所が魅力に繋がるんだろうな、と隣を歩きながら成宮は思った。人間味溢れるというか、相手のやる気を引き出すのが上手というか。人を惹きつける点に関しては敵わない。……冷静に分析しているけれど五十嵐の片腕として働いている現状はとても喜ばしいことだと感じてる。
 視線を感じたのか五十嵐が声をかけてくる。
 「どうした?オレの方ばかりじっと見て」
 「……いえ、何でもありません」
 平然と返事を返すと五十嵐は気に留めることなく再び前を向いて歩き出した。人には得意不得意が存在する。適性に応じて相応しいポジションで働くことが一番効率も良く幸せなことだ。今は限りなくそれに近い。
 少なくとも隣に居る上司は部下を見捨てて自分が助かろうと考える人ではない。皆と共に辛苦を味わいながらゴールを目指す。私はその仕事の邪魔をしないように、後方からサポートするのが向いている。
 いつか部下を持った時、自分も五十嵐さんみたいになれたらいいな。淡い願望を抱きつつ、絶大な信頼の置ける上司の背中をひたすら追いかける。

 捜査が大きく動く。三人が疑うことなく信じていたはずなのに事態は思わぬ方向へ急展開していく。
 高杉と会った次の日の朝。寝起きで重たい瞼を無理矢理押し上げて資料に目を通していた五十嵐の部屋に、ノートパソコンを抱えた成宮が血相を変えて部屋に入ってきた。
 「どうしたんだ、こんな朝早くに」
 「……警部、こちらをご覧下さい」
 混乱から声が震える部下の様子から異変を察して、すぐに画面に目を移す。そこには信じられない文面が表示されていた
 [ 五十嵐警部・成宮警部補 
 先日出された地元警察からの応援依頼は本日付で却下することが正式に決定した。既に当該部署には通達済である。
 よって、このメールを確認次第、直ちに警視庁へ帰還することを命じる。尚、担当している案件は全て放棄せよ。 ]
 間違いがないように再度必要事項だけ記された文面を確認した上で、五十嵐は言葉を吐き出す。
 「―――どういう事だ?」
 怪訝な表情を浮かべて画面を睨む。あまりに突然な方針転換に解せない、といった感じか。
 その気持ちは成宮も同じようだが、場数を踏んでいない為か動揺が隠せず慌てた様子で首を振る。
 「分かりません。後追いという形式ではありましたが地元警察から出された応援依頼は了承されていました。それは確かです」
 万事抜かりなく事務手続きを行う成宮が言うのであれば間違いない。それが急転直下で覆されたとなると、何か裏があると考えるのが妥当だろう。
 所用で出掛けただけなのに一週間近くも無許可で現地に留まって好き勝手に捜査の手伝いをしていること自体、咎められても文句は言えない。後ろめたさを感じていたからこそ地元警察に働きかけて応援依頼を警視庁へ出すように促した。その前提を崩されると指示に従うしか道はない。
 だが、問題は自分達の処遇以外にもある。
 「『担当している案件は全て放棄せよ』、か」
 五十嵐が気にしていたのは文末に記されていた一文だ。“担当している案件”とは今扱っている自殺事件に違いない。どうして警視庁に伝わっているのかが分からない。
 応援依頼を出した際には『捜査協力の為』と端的な理由に留めさせたのは五十嵐の要望だ。深く詮索されたくなかったし、簡潔にまとめた方が分かりやすいからだと思ったからだ。
 わざわざ詳細に理由を書かなければ知られるはずがない。だが、文面から推察すれば現地で何をしていたか警視庁の面々は知っていると考えていい。
 不安そうな面持ちで成宮は恐る恐る訊ねる。
 「……どうされます?」
 「決まってる。命令があった以上は引き揚げるしか選択肢はない。大至急、東京へ戻る手筈を整えてくれ」
 はっきりとした口調で成宮に答えると再びノートパソコンを腕に抱えて自分の部屋へと戻っていった。切符の手配やホテルの支払いなどは通常だと部下に丸投げしていたが、あの様子だと自分のことだけで手一杯だと思うので代わりに行うことにする。
 自室の荷物は片手に収まる程度に少ないので撤収は簡単だ。あの文面から推察すれば直帰することが望ましいので、一番早く戻れる手段を調べた上で切符を押さえる。そうしている間に成宮もホテルから出る準備が整った。二人は慌しい足取りで警視庁へ戻るべく先を急いだ。
 その頃、地元警察の方でも動きがあった。
 先日から捜査を行っていた集合住宅における小学生の飛び降り自殺の案件は、“事件性が見られない”と判断して即時打ち切りが文書で通達された。
 いきなり張り出された内容に現場の捜査員達の間からは戸惑いや不満が渦巻いていた。昨日まで一生懸命になって事件の背景を探るべく汗水垂らして靴底を磨り減らして頑張ってきたのに、掌を返すような差配を不審を抱かない者は居なかった。
 しかし、上意下達が徹底されている警察組織において上の決定は絶対だった。それぞれが納得のいかないまま持ち場に散っていく中で高杉一人だけは爪が肉に喰い込む程に拳を握りながら文書の前で立ち尽くしていた。

 出先から突然発せられた命令に対して粛々と従い、五十嵐と成宮は警視庁に戻ると間髪入れないタイミングで刑事部長から呼び出しを受けた。休む暇もなく刑事部長の下に出向いたのは、朝一番で現地を直ちに発して半日近く経過した夕方であった。
 「……また勝手に他人の縄張りに口を出したらしいな」
 白髪の混じった白瀬刑事部長は般若の形相で入室してきた二人を睨んだが、刺すような視線に対しても五十嵐は意に介する素振りを見せず受け流した。数え切れないくらいに呼び出しを受け、激しい叱責をその身で幾度も味わってきた五十嵐にはピリピリと張り詰めた空気にも慣れている態度に白瀬は苛立ちを覚えた。それに加えて怒鳴っても眉一つ動かさない成宮の変化に乏しい表情もイライラする。
 その様子をハラハラとした心境で、白瀬の傍らに佇む安西参事官は成り行きを見つめていた。二人共に神妙な面持ちで聞く姿勢を見せているので白瀬は話を続ける。
 「どうして出掛けた先で先方に迷惑をかけるんだ?その神経が理解に苦しむ」
 「私達は捜査のお手伝いをしていただけです」
 白瀬の追及にも動じることなく反論したのは成宮。専門知識と経験豊富な捜査員は多ければ多い方が良い。本格的な捜査を行うには人手が不可欠だが、優秀な人材は時に部署間で取り合いになることもある。そういう苦労を知っているからこそ二人は自発的に協力を申し出て、先方は大層に喜んだ。平然と返されたことに苦りきった表情を見せる。
 「余計なことに首を突っ込むな。この案件は未成年の児童が自ら命を絶った、痛ましい事件だ。マスコミの報道も熱が冷める気配も見せない上に文科省は今回の対応で苦慮している。デリケートなことだからこそ細心の注意を払って捜査に臨まなければならない」
 明らかに釘を刺しに来たのは安西だった。激しやすく敵の多い白瀬部長を影ながら支える存在で、頑固で短気な白瀬も最側近である安西の意見なら耳を傾けるくらいに信頼を置いている。尤も、安西の方は頭も切れるし白瀬の舵取りも巧い。上手に乗せられているのだ。キャリア同士の出世争いは熾烈を極める状況にありながら献身的なサポートを見せる安西の姿勢に対して懐疑的な見方をする意見も一部にはある。
 “未成年の児童が自殺した事実”を突き付けられ、諭すような口調で言われては反論する材料は無い。成宮は言葉を返せずに口を噤む。そこへ怯むことなく割って入る声があった。
 「慎重に“日和見”するおつもりですか」
 明らかに火消しにかかる安西の指摘を強烈な皮肉という形で返したのは修羅場を幾度も乗り越えてきた強者の五十嵐であった。但し発言した張本人は口元を歪めて不満を露にしている。
 建前と理屈で抑え込みにかかる安西に対して、地雷原でも平気な顔をして着火したダイナマイトを放り込む豪胆さを持つ五十嵐相手には些か分が悪い。特にエリート街道を突き進むビニール育ちの参事官には刺激が強すぎた。
 自らに火の粉が降り懸かる予兆があれば真っ先に逃げる。大将首を敵に獲られないために雑兵を黙り込ませ、味方を囮として最大限利用した後には詰め腹を切らせる。まるで戦国大名の処世術みたいだが自分の首だけは是が非でも差し出さない点だけは大きく異なる。保身の為ならば寝首を掻くなんて造作も無くやってみせる。危険を感じ取る嗅覚は出世していく者には欠かせない要素の一つとも言われている。
 道の行く手を阻む災難を避けたり足を引っ張られる要素から縁遠かったりする人が着々と地位を上がっていく中で、自分が傷つくことを承知で何度も死地を越えてきた五十嵐という存在は根本から性質が違った。叱責や処罰を受けて何回も出世の道から外されても、猛烈な勢いで巻き返して再び同じ地位に返り咲く。平坦な道を歩くよりも困難な道のりを進んできた中で出世してきたのは、それだけ経験も実力も桁外れである証拠だ。事なかれ主義の集団で疎まれても、五十嵐は今の地位まで上り詰めてきた。肩書は警視、警視庁内でも遊撃班的位置づけの捜査八課を新設した上で窓際に押し込んだのに大人しくする気配は一向に見せない。
 胆が太い。どんな立場の人間に対しても媚びず怯まず恐れず、自分の信念に基づいて行動する。上層部でさえ扱いに困る厄介者に安西も手を焼いていた。
 「口を慎め、五十嵐」
 苛立ちと苦々しさが複雑に入り混じった表情で睨むと、「失礼しました」とばかりに頭を垂れた。本気で頭を下げている訳ではないと分かっているからこそ感情を逆撫でされる行為も同然だ。
 「分かったな。今後暫くは大人しく自分達の部屋に引き篭っていろ!!これがギリギリのラインだ。これ以上勝手な真似をしたら処分も辞さないからな、覚悟しておけ」
 決まり文句のように言い渡された命令を殊勝な態度で受けると、二人は部長室から静かに退室していった。その一連の流れが一種の儀礼みたいなようで、上役二人には不満としか映らなかった。

 「相当のお怒りでしたね」
 特に萎縮する訳でもなく淡々とした感じで成宮が話しかけてきた。これがつい先程まで雷を落とされていた者とは誰も思わないくらいに、あっさりとしていた。
 そして声をかけられた方もケロッとしていた。何度も経験しているだけに立ち直るのも早い。
 「まぁ、仕方ないさ。上の者なら『頼むから触れてくれるな!!』と裾に縋り付いてでも頼み込むくらいに微妙な案件だ。警察は何も悪いことをしていないのに応対を誤れば致命傷になる。オレも事を荒立てる気は全くないのに……信用されてないな」
 「そりゃ警部ですから」
 「……おい。今の発言は流石に傷つくぞ」
 「事実ですので反論したくでも材料がありません」
 廊下を並んで歩きながら押し問答のような掛け合いをしている内に戻るべき場所に辿り着いた。部屋の入り口には“捜査八課”と記されたプレートが掲げられていた。此処こそ五十嵐達が籍を置いている場所である。
 中に入ると人数に釣り合わない程度にゆとりのある空間が広がっていた。元々は警視庁にある倉庫の一つとして使われていた部屋で、広さと空間の高さだけが取り得な部屋で窓も天井近くに小さく取り付けられているだけ。影では捜査八課を“警視庁の島流し場”と呼んでいるとか。
 幾つかの机が固められた島が何個か存在していたが、どの机にも人影は見られない。それぞれが担当の事件を抱えていて多くが捜査に出払っていた。島と島の間にある通路をスルスルと奥へ奥へと進んで、五十嵐は一番奥にあるデスクの椅子に腰かけた。この机こそ五十嵐の席だが、不在の間に積み重なった決裁待ちの書類で山が出来上がっていた。
 「どうでした?」
 五十嵐のデスクの脇から声がかけられた。五十代と思われる壮年男性が人の良さそうな笑顔をニコニコと浮かべている。彼は“玄さん”と親しまれている人物で、捜査八課の次長を務める。行動派の五十嵐とは対照的に各部署との折衝や調整に長ける、言わば『縁の下の力持ち』のような存在であった。
 年が若い五十嵐に対して先輩風を吹かせることもないし嫉妬や僻みも存在しなかった。ただひたすらに陰日向から支えることに尽力している。何かと煙たがられる存在である捜査八課の面々だが、人当たりの良い玄さんだけは別格でエリートやキャリアの多い捜査一課の刑事達からも敬われていた。不平不満や出過ぎた物言いも一切無く、五十嵐が自由にやれるのも玄さんが居るお陰である。
 物腰が低いだけでなく五十嵐が全権を任せて留守を託せるだけの信頼を寄せる、捜査八課に欠かせない大切な人物だ。本当ならば窓際部署で遊ばせているのは勿体無いくらい有能な人ではあるけれど、玄さんも訳ありで捜査八課に配属されることとなり、現在に至る。
 「『余計なことはするな!!大人しくしてろ!!』と一喝。こっちとしても騒がれたくなかったから控え目にしていたのだが、どういう訳か分からないがこっちに知られることとなった。無念の強制送還だよ」
 気心の知れた相手だけあって口が滑らかである。堅苦しい役人向けの話し方ではなく世間話をしているようだ。五十嵐の冗談めかした言い方に「そんなことだろうと思っていました」と玄さんは苦笑いを浮かべて話に耳を傾ける。
 五十嵐の愚痴を聞くと、腰を上げて部屋の片隅に設けられている給湯室へ向かい、茶筒を取り出して急須に茶葉を入れる。捜査八課ではお茶汲みは新人や女性の仕事ではなく、各自が行う決まりとなっている。既に成宮が先に給湯室に入って水を入れたヤカンをコンロにかけていた。一服する際はお茶よりもコーヒー派の成宮は自分のカップにインスタントの粉末を入れてお湯が沸くのを静かに待っている。玄さんは棚から使い込まれた湯呑みを二つ出してお盆の上に置く。『どうせ淹れるなら一杯も二杯も手間は一緒だから』と語る玄さんのさり気ない好意だが、その些細な心遣いが非情にありがたい。
 その間に五十嵐は机に山積した書類に目を通して判を押す作業に没頭していた。出張中は玄さんが代行して捌いてくれたお陰で山は想像よりも低く抑えられていた。決裁のハンコは誰にでも預けられる代物ではなく、悪用しようと思えば経費を着服したり個人情報を外部に流出させたりすることが容易に可能となる。膨大な量の情報を仕分けした上で確認出来るだけの能力があるのもそうだが、それだけ信頼されている人であることが絶対条件だった。玄さんは両方兼ね備えているからこそ、不在時に大切なハンコを預けられるのだ。
 沸騰したヤカンの口から白い湯気が立ち昇ると、コンロの火を消して自分のカップに注ぐとコーヒーの香ばしい香りが辺りに広がる。次いで急須にヤカンの口を傾けてお湯を注いで、使い終わったヤカンをコンロに戻す。引き出しから常備してあるスティックタイプの砂糖とミルクを一つずつ入れてスプーンでかき混ぜる。一連の動作を行う中でも成宮は頭の片隅に引っかかる何かをずっと真剣に考えていたが、ようやくモヤモヤしていたモノがくっきりと判明した―――刹那、カップを握って一目散に自分のデスクに駆け込む。
 デスク上には未決裁の書類であったりコピー用紙サイズのカバーノートやシステム手帳などが置かれているだけで、女の子っぽさは微塵も漂ってない。それらを一度整頓した上で、カバンの中からノートパソコンと常に持ち歩いている大学ノートを取り出して、デスクに広げる。起動してからメイン画面が立ち上がるまでの僅かな待ち時間すらもどかしさを感じてマウスを細かく動かしてコンピュータを急かす。
 「PTAの線を洗った方が早いぞ。勘付かれないよう慎重に、な」
 何気ない風に言葉が飛んできて思わず顔を上げる。視線の先には相変わらず書類と格闘して見向きもしない上司の姿があった。
 閃いたら周囲の目も構わず一直線に走る。日頃は目の前の情報を冷静に分析して客観的に物事を判断する成宮だが、その一方で自分の“勘”に対して絶対の自信と信頼を持つ二面性を秘めていた。この直感は普段反応しないのだが、その代わりに一度発動すれば冴え渡り外れた経験が無い。刑事として大成する素質はしっかり持っていたからこそ、五十嵐の相棒として数々の現場に立ち会えたのだ。
 よく考えてみれば根本的におかしい点がある。どうして警視庁の人間が捜査に関わっているのを知られたか、だ。一般の人が刑事を一目見て“地元の人”か“応援の人”か区別がつくはずがないし、分かったとしてもあまり意味が無い。警視庁に自分達の勝手な行動が耳に入るケースとして考えられたのは、あまり介入して欲しくないと望んでいる教師が教育委員会を通して地元警察に苦情を入れて、そこから地元警察から警視庁にクレームが届く、といったものだ。幾つかクッションがあるので情報が伝わるまで時間はかかると思っていたし、それまでに片付けると考えていた。動きがあまりに迅速過ぎて不自然なのだ。
 恐らく五十嵐さんにしても同じ点で違和感を抱いていたのだろう。自分は完全な直感だったがあちらは勘に加えて経験もある。地雷が何処に埋まっているのか推察出来る辺り、場数の差がある。地方の警察本部から調べるつもりだったので五十嵐さんの助言は素直にありがたかった。お陰で的を絞りやすくなった。警察の捜査を一刻も早く終わらせたい、自分達に目が向かないように撹乱させたい意図を持つ人物かグループが居たとすれば、動きも活発になる。末端の捜査員は『応援で警視庁の刑事が来ている』程度の認識だから詳しい所属も知らない。全てを総合的に判断して導き出された結論は何なのか。今はそこまで至るために必要な材料を集める段階だ。
 警察の捜査も最近の流れを反映して情報をデータ化して共有することが多くなった。成宮もノートパソコンを常に持ち歩いていることもあり、データ化された情報を扱うのは得意分野だ。尤も、刑事が証拠を集めるのは今も昔も変わらず外に出て靴底を磨り減らして汗をかいて固めるのが主だが。根気も体力も要求される過酷で地道な作業だが、基本的にはそうして情報を一つ一つ拾い集めてくる。
 あちらで集めた資料の束を机の上に乗せる。先程淹れたコーヒーを啜るが既に舌を焼くような熱さは感じられない。一口だけ飲むと怒涛の勢いで資料を仕分けしていく。今欲しい情報が書かれている物だけ手元に置いて、残りは遠い所へ放る。放った先は自然と紙の束の山が高くなっていくのだが、それは日頃から整理整頓を徹底している姿とは程遠い状態だった。その分だけ仕事に没頭している証なのだが、我に返って黙々と片付ける様が齢を重ねた二人には微笑ましい光景だと思っていたが、それを指摘すればムキになって反論してくるので触れないようにしていた。一度熱中モードに入ると視野が極端に狭くなるのは成宮自身も自覚していたが、直すことは諦めていた。

 「何故ですか!?突然捜査を打ち切るなんて」
 刑事課は今朝方にいきなり伝えられた打ち切りの影響がお昼を跨いでも未だに尾を引いていたが、その中でも未だに納得せず気炎を上げているのが高杉だった。昼休憩を挟んでも不満は収まらず、先輩刑事の制止を振り切って課長に直談判を断行した。
 課長は温和な表情を崩すことなく、興奮した高杉を宥めるよう静かに語り始めた。
 「事件性を疑う材料が飛び降りた現場からも被害児童の周辺からも確認されなかった。状況や物証から本人の意思で自ら命を絶ったという見解は覆らないのだ。既に結論が出ている以上、無駄に捜査を続ける必要性は無い。現に、教育関係者や被害児童が通っていた学校の保護者から苦情に近い申し入れが警察に何件もあったのだ。我々としても、ここら辺が潮時なのだ」
 「では、周辺から得られた証言や被害児童の自宅から発見された物証についてはどうお考えですか!?」
 これまでなら課長に諭されれば素直に引き下がっていた。しかし、今回は折れることなく懸命に食い下がる。
 「被害児童は評判の悪い生徒から深刻なイジメを受けていました。周辺住民から迷惑に思う声も上がっており、校内でも傍若無人の振る舞いでやりたい放題。遺品を見れば極限まで追い詰められる主要因であり、自殺に至った直接的な原因ですよ!?これをウヤムヤにしたまま放置すれば第二・第三の犠牲が出てもおかしくありません。一刻も早く何らかの形で対応する必要があると自分は考えます。その為にも今ある証拠を固め、さらに深く追求していくことが―――」
 「それは、我々の仕事なのか?」
 高杉が熱く最後まで語る前に、課長が短い言葉で問うた。その声は常と変わらず特に力の入っている風でも無かったが、刺すような目でこちらをじっと見つめられて高杉も思わず言葉を呑んだ。凄みと迫力で怯むのを確認して、課長はさらに続ける。
 「警察の仕事はあくまで犯罪を犯した者を捕まえ、検挙することだ。確かに被害児童の周辺では軽犯罪の域を超える事案が発生していたが、そうした訴えや届け出はこちらに届いていない。今回こうして痛ましい事案が発生したことで明るみになったけれど、本来であれば教育現場に携わる人間が対処する事案であり、素行不良に関しても家庭の躾けの範疇に当たる問題だ。我々が勇み足で踏み込むには些か拙速に過ぎる。あくまで我々は事故案件を調べているのだ。それ以上のことはする必要がない」
 「ですが……」
 「全てを明るみにして子ども達に自らの過ちを認めさせて悔い改めて心からの謝罪をさせたとしても、亡くなった子が生き返るのか?」
 はっきりと指摘されて高杉は言葉に詰まる。問答無用で痛い所を突かれ、苦い表情を浮かべる。
 「死んだ者が蘇るなんて現実では有り得ない話だ。それに警察は被害者に代わって復讐を代行する機関でもない。理不尽で納得いかない気持ちは分かるが、少し頭を冷やせ」
 今度こそ心を挫かれた高杉は反論せず悔しさと失意の滲んだ表情で課長の前から後にした。その萎んだ背中を眺めながる課長の隣では、先輩刑事が後輩の無礼に対して頭を下げる。
 「……申し訳ありません。後でしっかり叱っておきますので」
 「構わんさ。誰だって“若気の至り”ってのは経験しているんだし」
 手をヒラヒラと振って気にしてないと意思を示すと、先輩刑事の顔にも安堵の色が浮かぶ。腑に落ちない裁定に捜査員の感情が爆発するのは度々とはいかないがよくあることだ。それが課長に直談判するまで爆発するのは少し勇み足ではあったが。
 「しかし、高杉の肩を持つ訳ではありませんが、今回の動きは自分の目から見てもあまりに性急でしたね。どこからか圧力がかかったのでしょうか?」
 部屋から出て行った高杉の姿を確認して、先輩刑事は声を潜めて課長に訊ねる。年数を重ねた先輩刑事の目から見ても、急転直下の決定に対して不信感を抱かざるを得なかった。前日までは普通に捜査を行っていたのに日が変わると上層部が『これ以上の捜査は不要』と現場の意見も聞かずに一方的に打ち切るケースは経験したことがない。もし捜査が打ち切られるのであれば現場にもそういう噂の一つや二つ流れていてもおかしくないのに、今回は気配すら感じなかった。かなり熱の入っていた高杉程ではないにしても、現場には大なり小なり不満は皆持っていた。今は宥める側に立っている先輩刑事もその一人で、表に出してないが心の内には疑念が幾つも存在していた。
 「噂では警察本部の幹部に今回の学校に通っている児童の保護者と懇意にしている人が居るらしくてな……PTAの役員をしている人も実は警察関係の奥さんだったり複雑に絡んでいるという話だ。どうもそこら辺から横槍が入った、というのが一連の決定に大きく関係している、という見方が中にはある」
 「しかし疚しいことが無ければ別に継続しても構わないのでは……?逆に、自分の子どもが通っている学校が自殺する生徒を出すくらいに酷い状況だったら、この機会を利用して膿を出し切る為に背中を押すのが普通と思いますけど」
 「一般的に考えれば、な。特に教育熱心な親御さんなら我が子の為に環境を改善したいと熱望する気持ちは強いだろう……では、それにも関わらず何故懸命になって隠したがるのか?」
 「……成る程。公にしたくない事実が明るみになって欲しくないから先手を打った、と」
 ようやく合点がいったと先輩刑事。背景に潜んでいる闇が漠然とながら透けて見えた。警察が自分達の近辺を嗅ぎ回っているので、いつ自分達の抱えている闇に気付かれるか不安になる。おまけに何故か知らないが東京の警視庁でやり手として知られる敏腕刑事が捜査に加わっていて、既にパンドラの箱の中身について推測出来る段階まで捜査が進んでいると聞く。最早一刻の猶予も許されないと判断した人々が形振り構わぬ強攻策に打って出た、ということか。
 「それにしても思い切った手を打ってきましたね。隠蔽工作と捉えられたら週刊誌とか新聞社の記者が喰いつく恰好の餌じゃないですか……もしかしたら警察担当の記者に洩れるかも知れませんね」
 各所轄にはテレビ局や新聞社の警察を担当する記者が常に出入りしている。平時は一人だが社会的に大きな事件が発生すれば社会部や本社から応援が送られて増員される場合もある。現場に出ている刑事や職員と顔馴染みの関係になれば特ダネを提供したりする場合もあるし、予期せぬ展開から情報が洩れて記事に発展することもある。日頃から番記者も僅かな変化を見逃さないように神経を尖らせている強者も中には居るので、警察としても扱いに困ることも時々あった。
 「上もそれを警戒して各部署にかん口令を出していると聞いている。まぁ、昔から『人の口に戸は立てられない』と言うし、鍵もかけられる訳じゃないから洩れない保証はないな」
 「うっかり口を滑らせないように用心しないといけませんね」
 軽口を叩く先輩刑事は分相応を弁えているので心配はないが……純粋に正義感に則って行動する若手を内心憂慮していた。勇み足かも知れないが、高杉は決して間違ったことをしているとは思えない。あれ以上迂闊に踏み込んだら将来を潰される恐れがあったので敢えて痛い所ばかり突いて封じたが、邪道で正論を覆している自分に負い目も感じていて胸がチクリと痛んだ。
 先輩刑事は一礼して辞する背中に安心感と物足りなさを感じながら課長は黙って見送る。きっとアイツは今から慰めにでも行くのだろうが、理不尽を飲み込むだけ経験を積んだことが果たして正しいかどうかという葛藤が生まれた。

 「―――やはり警部の読み通りでした」
 一言も発することなく没頭すること数時間。久しぶりに口から出た言葉が思った以上に大きくて逆に困惑した。溜まった決裁待ちの書類の山を片付けて椅子に座りながら天井に向かって大きく伸びをしている五十嵐が、その声にピクリと反応する。成宮は手元に置いていた書類を何枚か掴んで五十嵐のデスクへと一気に駆け寄る。
 「警察本部の幹部に当該校に通学している子どもが居ました。妻はPTAの役員を務めています」
 事情聴取のために頂戴した在籍児童のリストと警察本部の役職に一致した部分をマーカーでラインを目印に付ける。
 「さらに、三親等以内で警察に在籍する保護者、同窓会などで共通の友人や先輩後輩の関係にある保護者も何人か該当しました」
 成宮は説明を加えながら別の色のマーカーで線を引く。次々と味気ない紙の上に違う色が塗られていく様を五十嵐は黙って見守っていた。手が止まったところでじっと色の付いた名前をじっと見据え、やがて口を開いた。
 「これだけ、じゃないだろ?」
 「はい。これに今まで得た証言を元に、素行の悪い生徒と重ねてみました」
 黒のペンで在籍児童のリストの名前の横に『○』で印をつけていく。すると驚いたことに色をつけられた名前と重なったものが多かった。警察関係でなく地方議員や教育委員会と幅広い人脈に影響があることが一目瞭然だ。
 「ここまで張り巡らされていたとはちょっと想像を超えていたな」
 苦笑いを浮かべながら懐から煙草の箱を取り出して一本咥える。『室内は喫煙ですよ』と目で制する成宮の鋭い視線は痛いくらい分かっているので火は点けないが、改めてそのネットワークに目を剥いた。迂闊に踏み込みすぎた、と自分の見通しの甘さを容赦なく突きつけられる。真正面から向き合うのは五十嵐の常套手段だが、陰湿な相手は搦め手から攻めるのが得意なので上手く隙を突かれた形だ。本来ならば捜査権を持たない応援の身。抑えるならば首輪の鎖を引っ張れば、どれだけ抵抗しようと居るべき元の家に戻らざるを得ない。権力と血縁を最大限に利用して、あとは何事も無かったように収束させる。互いの利害が一致して事件は闇へと葬り去られる。
 ギリッと歯が擦れる音が静寂に包まれた部屋に響く。その沈黙が、逆に重苦しい。
 懸命に自殺した背景を洗い出し、自らの命を絶つまでに追い込んだ真相が少しずつ明るみになってきた。様々なピースを掻き集めて全体の形がぼんやりと見えてきたのに。大人の都合で誤った解決方法に導くやり方は間違っている。成宮の拳を握る力が無意識の内に強くなり、爪が肉に食い込む。
 「どうされますか?」
 可能ならばすぐにでも現場に戻りたい。無為に時間を過ごしている間にも状況は改善していく見込みは無い。今は大騒ぎしているから自重しているだけで下地はまだ手付かずのまま放置されている。介入することの是非は賛否が分かれるかも知れないが、野放しにしていればいじめから犯罪へと繋がっていく懸念を見過ごすわけにはいかない。特に学校という場は精神的にも未成熟な子どもが一つの集団となって生活している、一般社会とは全く異なる特殊な環境だ。一刻も早く大胆に手を入れていかないと他の児童に悪影響を及ぼす可能性が非情に高いと考えている。
 「……このまま大人しく椅子に座って静観していると思うか?」
 「いえ、鎖で繋がれていたとしても引き千切っていかれる方ですので、何があっても動くと思っています」
 「人を猛獣扱いするか」と小さな抗議を口にするが、傍らに居る玄さんが口に手を当てて懸命に笑いを堪えているのを見ると、必ずしも皮肉とは言い切れない様子。玄さんまでそう思っていると知って、少し傷ついた。
 確かに、すぐ横の建物で火の手が上がっていても椅子に座って事態が落ち着くまで我関せずを決め込んでいれば今頃はもっと高い役職に就いて、広い部屋で一人一日中誰かが持ってきた書類にハンコを押すだけの仕事をしていたことだろう。それぐらい五十嵐には実力もあったし、ノンキャリアながらエリート街道に近い道筋を辿っていた。ただ、自分の器が役所の求めている適正な規模を遥かに上回る大きさだったからので現在の立ち位置で落ち着いている。
 改めて成宮から渡された資料に目を落として、色づけされた部分をじっと見つめる。
 相手のネットワークを甘く見積もっていた。琴線に触れた結果、余所者二人は東京に強制送還されて捜査は打ち切り。でも、オレ達は相手が慌てる部分まで核心に近付いていたのだ。それに時は戻せなくても結果は変えられる。回り道上等、そんなの幾らでも挽回してきた。
 そもそも自殺と分かっていて捜査を継続していたのは“責任の所在をはっきりさせた上で適切な処置を行うこと”を主観に置いていた。誰かを逮捕するとか立件することが解決とは考えてなく、通常とは少し違った形で解決に向けてアプローチしていく必要がある。歪んだ流れを少し変えるだけで、澱んだイジメの温床は時を経て消えていくと確信していたからこそ、積極的に動いていたのだ。
 問題は、必要以上に警戒している一部の人間と問題を蒸し返されたくない教育委員会や教職員か。下手に動けばまた察知されて動きの封じ込めにかかられる。元々印象が良くない我々にすれば今回の強制送還でかなりお怒りの上層部をこれ以上刺激したくない。漠然と方向性は見えているのに介入する方法がまだ見えてこない。どうやって相手の監視の目から逃れた上で捜査を進展させていくか。なかなか両立しにくい難題ではあるが、やらなければならない。
 「……知恵が欲しい」
 手にしていた資料を静かに机の上に置き、目の前で直立している成宮と正対する。五十嵐の真剣な眼差しに溜息を一つ吐いて「また無理難題ですか」とボヤく。しかし渋る姿勢はそれまでで、近くの椅子を引っ張り寄せて座ると方策が無いか考え始めた。
 まだ齢は若いし捜査経験も浅いが、捜査八課の中でもかなり頭が切れる存在。その才能を見抜いた五十嵐は期待をかけて自分の側に同伴させ、結果ブレーンとして常時置いておきたい人材に育ってくれた。一歩挽きながら積み重ねた経験から助言を提案してくれる玄さんとはまた違った視点や考え方で意見が聞ける。組織に柔軟な思考でより良い方向に導いていてくれる貴重な存在だ。願わくば減らず口をもう少し減らしてくれると嬉しいのだが、それは望み薄だ。
 方向性を明かすと成宮は即座に思案顔となる。そのタイミングで玄さんも近寄ってきて成宮に淹れたばかりのコーヒーを差し出した。考え事をしている際にコーヒーを飲んでいる後輩の癖を知っていたからだ。
 自分の無理難題に文句を言いながら最後まで付き合ってくれる。どれだけ時間がかかっても道筋を立ててくれる確信と誇れる部下を持てた幸せで五十嵐の胸は満たされていた。

 「ああいう結末にはなったが腐らず頑張れ」
 同情とも励ましとも取れる言葉を同僚や先輩からかけられた。誰よりも気合を入れて動いていただけに思いがけない顛末となって肩を落とすと心配してのフォローだったし、実際に納得がいかず課長へ直談判に動いた。
 だが、そんなことがあってもやる気を失うということは無かった。一時は感情的になったものの、その後は与えられた職務を忠実に行うよう努め、目の前の仕事に集中した。地味で決して評価されない事であったとしても面倒に思わず、先の見えない捜査にも文句は一言も発さなかった。その殊勝な態度に先輩や上司からは「変わったな」と株を上げたが、本人は全く気にすることは無かった。
 『事件に大きいも小さいも無い』
 初めて五十嵐と接触した日の夜、晩飯ついでに立ち寄ったファミレスで言われた言葉は、それまでも新米ながら一生懸命頑張ってきた自分の考えが未熟だったと痛感させられると共に刑事のあるべき姿として自然に自分の心に刻み込まれた。目先の事件にばかり追われ、成果ばかり求めていた姿が恥ずかしかった。どんな事件であろうと常に全力を傾けて捜査する。それこそ国民の税金を給料として頂戴する警察官としてあるべき姿だと思い、挫けず腐らず職務を全うするべく打ち込んだ。それが教えを受けた五十嵐への恩返しだと信じて。
 ……でも、不可解な結末を認めた訳ではない、けれど。
 強引な幕引きには裏があるとは分かっている。警察組織は世論の突き上げを喰らうと時に方針を曲げることはあるが、マスコミが騒ぎ立てている今の段階で無理矢理捜査を終結させたのはどう考えてもおかしい。課長へ怒鳴り込んだ後の叱責が先輩からのお小言だけで済んだのも、今回の裁定に対して全員が違和感を覚えていたことが影響していたのだろう(あれから不満を露にせず淡々と職務に邁進している姿も好材料となっているのを自分では気付いていないが)。課長の言葉は自分の独り善がりを指摘されて反論出来なかったが、真実を明らかにすることは間違っていることだろうか?責任を追及せずに集結させることが、果たして亡くなった児童の意思を継いでいると言えるのだろうか?
 自分の信念と目の前の現実とのギャップに葛藤を感じない日は一日として無い。その中でも落とし所を探している自分に、ちょっとイラついてもいた。
 と、懐が静かに振動する。携帯電話に着信があるらしく、一旦作業の手を止めて携帯電話を取り出す。そこに表示されていた番号を一目見るとすぐに驚きの表情を浮かべ、半拍の間を置いて電話に応じた―――

 「何?有給休暇だと?」
 五十嵐に雷を落として数日、安西はその後の様子を探るべく玄さんを小会議室に呼び出して動向を確認すると、そういう反応が返ってきた。無論、その回答は想定外の内容だった。
 「はい。彼は根っからの仕事人間なのは周知の事実。休日出勤も構わず、代休も取らないまま職務を遂行する状況が常態化していました。有給休暇が全く消化されてないことも総務の方から何度か指摘されていましたので、この際に溜まった有給を使ってリフレッシュしようと考えたみたいです。成宮も五十嵐と共に仕事で詰め切りでしたので一緒に有給休暇を申請して息抜きするみたいです」
 「……何処に行った!?」
 事実を坦々と述べる玄さんに苛立ちを覚えて言葉を荒げる。上司である白瀬の側に居る時は常に一歩引いてサポート役に徹して感情を表に出すことは少ないが、安西自身も決して感情の抑揚が乏しい方ではない。
 「さぁ。プライベートなことですので分かりかねます。細かく詮索するのも如何なものかと思いますし……」
 安西の激しい言葉を受けても静かに言葉を返すだけで、決して尻尾を掴ませない。
 問い詰めたところで口を割るとは安西も思っていない。恫喝も見返りも一切通じない相手は最も厄介な人種の一つだと経験で分かっている。整然とした佇まいは老執事のようで、現に目の前に居る玄さんは捜査八課にとって似たような役どころだった。求められたポジションに応じて別の人格を演じている自分と違い、自ら引いて指揮者が全力を出せるように黒子役に徹する。出世や権力に微塵の魅力も持たず、与えられた役割でやりがいを感じながら安定と満足の中で仕事に全うする。玄さんは安西とは対極の立場に居る人間だ。
 そして答えは既に分かっていた。
 今この状況で五十嵐を自由にさせるということは、飢えた虎を野に放つも同然の行為だ。元々制御が難しく手に負えない相手をこれまで難渋しながら檻の中に閉じ込めようと苦心してきたが、いつも網の目をすり抜けるように脱出していく。今回も一応予防線を張ったつもりだったが無駄に終わった。
 これから何をするか考えただけで頭が痛むし、胃が締め付けられる思いだ。白瀬からやり場の無い怒りを一身に受ける身のも自分なんだぞ、と嘆きたくなる。そして二人が再び事件に関与することでどういう展開になるか不透明だ。もしかしたら文科省から苦情が来るかも知れない。だが、もう遅い。賽は勝手に転がってしまった。あとは被る波を如何に少なく済むか祈るしかない。

 目覚まし時計のアラームで川島は目を覚ました。時刻は毎日設定してある時間。今日は日曜日。週に一日だけ与えられた仕事から解放される曜日だ。だが、心も体も鉛のように重くて何かに対して意欲的な気分とは到底言えない。
 そんな違和感を抱いたのは、自分が受け持つクラスで不協和音が生じ始めた頃からだ。
 キッカケは近所の住人から学校に入った一本の電話からだった。
 『店で万引きをしていた児童を捕まえたが、呼び出した保護者から凄い剣幕で逆ギレされて挙げ句の果てには開き直られた』
 電話の主は校区内でコンビニを営む店長からで、その児童というのが今の自分が担当する教室の生徒だった。時期は忘れたが、昨年だったのは確かだ。
 当時の自分は担任じゃなかったけれど、外部から見ていても担当するクラスの中で歯車が狂いだした感覚は持っていた。歪んだ状態は解消されることなく、クラスの面子も変わらず学年だけが上がり、自分がそのクラスを受け持つこととなった。
 新学期になって暫くの間は問題が無いように映ったが、クラスの雰囲気が次第に落ち着いてくると授業中に好き勝手な行動をしたり他の生徒を困らせるような態度を取ることが出てきた。その度に注意して一旦は鎮まるものの、時を置いて再び似たような事例が起きるといったことが繰り返された。
 問題行動を起こすのは大体決まった子ども達で、おまけに悪い者同士でグループを組んでいた。複数になると大人に対して怖いとか恐れるといった感覚が薄れるようで、徐々に行動がエスカレートしていった。
 それに対して出来る限りの対処は講じた。保護者に連絡して学校内外の問題行動を逐一伝えた上で、家庭で注意するように促した。
 しかし、返ってきた反応は想像の域を遥かに逸脱していたものだった。
 『何かの間違いじゃないか』
 『証拠はあるのか!?』
 『そもそもアンタ達の教え方が悪いんじゃないか』
 あまりに現実から乖離した発言に言葉を失った。我が子の言葉だけ鵜呑みにして真実を捻じ曲げるとは考えてもいなかった。
 自分一人で解決するには大きすぎると判断して、校長や教頭に事情を説明した上で指示を仰いだ。すると返ってきたのは『とりあえず様子を見る』という、消極的な意見だった。
 校長も教頭も、自分の学校から問題行動が起きた事実を是が非でも認めたくなかったのだろう。そうなれば責任問題となり、自分達の査定に大きく影響する。追及されるのを極度に恐れていた。
 事態打開を図るべく教育委員会に働きかけてみた。これまでの経緯や背景を簡潔にまとめて意見書という形で何度か提出した。しかし、待っても待っても回答は無かった。
 そうしている間にも状況は少しずつ悪化の一途を辿っていく。対策を打てないまま時間だけが過ぎて、やがてイジメの兆候が見られるようになった。
 イジメは先が全く見えない霧みたいなものだ。払っても、吹き飛ばしても、完璧に消し去ることは不可能だ。
 被害者が何を望んでいるか。それによって着地点も変わってくる。謝罪、賠償、贖罪、復讐。被害者が望んでいる形へ向けてどのようにアプローチしていくか。
 加害者に対してどのように関与していくか。イジメそのものを認識していたか否か。保護者の責任は。被害者の意思も踏まえて着地点をどこにするか。
 無限に湧き出る選択肢を、教師は一つ一つ正しいか間違っているか分からないままに選ぶことを強制される。それは模範解答の存在しない問題用紙を生徒と共に探るようなもので、どの教科を教えるよりも困難で、解決までどれだけの時間と労力を消費するか分からない中で折れない強靭な精神力を要求され、葛藤と困惑と苦悩の渦中に身を投じるも同然だ。
 ならば“イジメが存在する”事実から目を背けるのか。それは絶対に間違っている。被害者に原因も責任もない。悪いのは、歪んだ状況を生み出した者だ。
 それに子どもは様々な経験をしてきた大人の教師よりも未熟で不完全な存在だ。心身共に成長途中の段階である子どもは自分に対するマイナス要因への耐性は備わっていない為に大人が考える以上に苦痛を感じていることになる。
 一刻も早く、この悪い流れを断ち切らないといけない。その思いばかり先走って事態は思うように進んでいかないことに苛立ちを隠せなかった。
 そして―――最悪の展開を迎えることとなる。
 イジメを受けていた生徒が飛び降り自殺。その一報を耳にした瞬間、全身の血が一気に失われるような感覚に陥った。衝撃の大きさのあまり、一報を受けてから次に覚えている場面まで数十時間の空白が生まれるであった。その間は思考回路も殆ど機能していなかったに違いない。
 次に思い出したのは、学校の外部出入り口で帰っていく刑事二人を見送る場面であった。遠ざかる背中を見つめながら、自分の教え子を死なせた今の状況で出来ることを必死で考えた。
 自分の心の中を占めていたのは自殺を選んだ生徒への悲しみではなく、救えなかった命に対する自責の念だった。懲罰覚悟でもっと大々的に動いていたら結果は違っていたかも知れないと思うと、本当に胸が張り裂けんばかりに痛んだ。
 だからこそ、名刺に書かれていた電話番号に連絡した。事実を告白することで、少しはあの子の意志を繋げたらいい、という一心であった。
 刑事さんは一生懸命に真相へ迫ろうと努力した、らしい。しかし願いは届かず、捜査は打ち切りになったと警察から発表があった。
 ……私はこれからどうすればいいのだろうか。
 未だ手付かずの深刻な状況の中、淡々と授業をやっていけるだけの自信は無い。暫くは問題児達も大人しくしているだろうが、いつ元に戻るか今から不安で仕方がない。
 月曜日の朝一番に辞表を提出して全てを投げ出す事が出来れば、どれだけ楽になることか。逃げることすら許されない立場を思うと、溜息が自然と漏れる。
 やる気の出ないまま布団に包まっていると、携帯電話が振動する音が入った。自堕落ながら寝転んだまま手を伸ばして電話を取り、画面を見る。そこには番号だけ羅列された、見知らぬ相手からの着信。
 もう考えるだけの気力も湧かずにそのまま誰とも分からない番号に応じる。
 「もしもし……」
 弱々しい声で電話に出ると、相手が身分を明かした途端に川島の思考回路は一瞬で覚醒した。何故私の番号を知っているの?と疑念を抱いたが、そんな些細なことはどうでも良い。
 切れたはずの糸が繋がる予感がヒシヒシと伝わってきて、胸がドキドキしてきた。相手の話にじっくりと耳を傾けながら、事態打開に向けて縋る思いで必死に携帯電話を握り締めていた。

 シトシトと降る雨は気持ちが凹む。地面を勢いよく叩く豪雨は瞬く間に全てを濡らしてしまうが、いつ止むか見当もつかない長雨は人を憂鬱にさせる。空には灰色の雲が隙間なく詰まっていて、青空を望める兆しは全く期待出来ない。高層階の窓から手を伸ばせば届きそうだが、忌々しい雨雲は遥かずっと上にあって取り払えそうにない。
 あれから何もやる気が起きない。強烈な虚無感が体も頭も覆っていて、指一本動かすのも億劫に感じて一日中ボーっと空を眺めていることが多くなった。記憶も曖昧で、葬儀のこともあまりよく覚えていない。報道であの子の死が伝わるとマスコミが押し寄せてきて電話も暫くは鳴りっ放しになったが、応対する気力も出ないまま放置していると自然と電話は鳴らなくなった。ただ、まだ耳の奥で呼び出し音が響いている感覚は抜けていない。もう、全てがどうでも良くなった。
 愛する夫と我が子の三人、これから仲良く過ごすと信じて疑っていなかった未来が突如として手の中から消えてしまった。あの子が屋上から飛び降りたと聞いた瞬間、普通に生活してきた日常から奈落の底に突き落とされた感覚に陥った。
 嘘でしょ?何かの悪い冗談でしょ?そうだと誰か早く言って。
 受け入れがたい事実も、警察の手にとって現実のことだと突き付けられた。何故、どうして、私の子が。死ななければいけない理由なんて全く無いのに。しかし、訪ねてきた刑事によって私の知らないあの子の姿が次々と明るみにされていった。預金残高が限りなくゼロに近い預金通帳、汚され傷つけられた衣服、中傷や心ない言葉が刻み込まれた教科書類。それらが出てくる度に『母親失格』といわれているようで、証拠として出てくる品々一つ一つが胸に深く突き刺さった。
 気付けなかった自分が悪い、とひたすら責めた。生まれてからずっと一番近くで接してきて、家族として同じ時間を共有してきたのに、あの子のことを上っ面だけしか見てなくてこんなに苦しい思いをしていたなんて夢にも思わなかった。
 口数が少なくなってきたことも、学校や友達のことを自分から話さなくなったことも、自分の部屋に入れたがらなくなったことも、全部大したことではないと捉えていた。年頃の子どもは大人になるに従って変わっていくと周囲からも聞いていたし、自分も子どもと同じ世代の頃はそうだった。特に悪いことをしている訳ではないので温かく見守っていたし、心配する夫にもそう伝えて安心させた。仕事が忙しい為に接する機会が少ない夫も私の言葉に納得してくれた。それが、まさかこんなことになるなんて……。あの時、しっかり確かめておけば、あの子が自殺するなんて悲劇は起きなかったかも知れない。抱えている悩みを話してくれれば、遠慮なく気持ちを家族に打ち明けられる雰囲気にしていれば、もっと声をかけてあげていれば、もっとあの子のことを見ていてあげていれば。後悔は心の底から際限なく湧き上がってきて、心は容量を超えて破裂しそうな勢いで膨らんでいく。
 テレビのニュースや新聞記事で我が子の報道も知っていたが、起こったことを述べるのみで『どうしてこうなったか』は触れられない。誰に責任があるのか、悪いのは誰かと騒ぎ立てるが、もう放っておいて欲しかった。どれだけ騒いでも、あの子は戻ってこない。それなら静かに冥福を祈っていたい。
 先日、警察から電話で『事件性は見られないので捜査は終了します』と連絡があった。以前訪ねてきた壮年の男性の声でも、連れ立った若い女性の子とも、後から遅れてやってきた若い男の人の声とも違った。ただ、電話の向こうの人の声が事務的で冷たかった、という印象だけが脳裏に強く残った。それがどれだけ前のことだったか、それとも昨日のことだったか、思い出せない。
 怒涛の勢いで目の前を過ぎていった時間も、私には関係ないことのように思えた。愛する我が子を失った悲しみや痛みは想像以上に私の心を蝕んだ。魂を抜かれて毎日マネキン人形のように空を眺める日々を過ごす。もう、このまま朽ち果てても構わないとさえ思う。
 ピンポーンと呼び鈴の音色が室内に響いた。最近は事件のことを察して訪ねて来る人は少ない。誰だろうか。いつもなら体のダルさが勝って居留守を決め込んだのだが、今日は不思議と力を込めなくても自然と立つことが出来た。フラフラと覚束ない足取りで扉まで歩み寄り、シリンダーをカチリと横に廻してから僅かに扉を開ける。
 隙間から伺えたのは、先日訪ねてきた壮年の男性の顔だった。確か、五十嵐と名乗っていたような。
 「お忙しい所すみません。少し、お時間よろしいでしょうか?」
 そう言った五十嵐は穏やかに微笑んだ。陽に灼けた褐色の肌に白い歯がキラリと光り、その好印象につい惹き込まれる。
 「えぇ、構いませんよ。どうぞ……」
 ふと自分がどのような顔をしているのか、無性に気になった。乱れた髪、手入れが行き届いていない肌、何日も着続けて襟回りがくたびれたシャツ。しまったと思った時には五十嵐が玄関に足を踏み入れた後であった。

 「散らかっていて申し訳ないですが……」
 快く招き入れてくれた幸恵は恥ずかしそうに言ったものの、以前来た時と比べてもそれ程に散らかっているとは思わなかった。むしろ生活感が薄れているように感じた。部屋に隅に埃が溜まっていたりゴミ箱が山盛りになっているくらいで、他は整然としている。ただ、ゴミ箱の中はプラスチック容器が多くを占めていて、分別もキチッとされてないことから、気力が失われているものだと推測された。
 先日会った時と比べて、頬が痩せているのがすぐに分かった。目の下に隈も出ていて、声にも張りが感じられない。悲しみが身も心も侵食しているのが手に取るように伝わってくる。
 茶菓の用意をしようとしていた幸恵に対して固辞する意志をそれとなく伝えると、以前と同じ場所に座る。向かい合わせとなる位置に腰を下ろすが、体つきも一回り細くなったように感じる。
 「今回はどのような用件でしょうか?警察の方からは先日捜査は終了したと連絡を頂きましたが……」
 幸恵は何の前触れもなく刑事が再訪してきた目的が分からず探るような口調になる。捜査は終結したのだから今更事情聴取を行うとは考えにくい。恐らく事件の概要を遺族に伝えられてないと五十嵐は見た。
 どうしてこうなったのか。失われた命が戻ってこない以上、遺族としては真実を知りたいという気持ちが一番強い。殺人事件でも同様だが、せめて経緯だけでも知りたいと願う人も少なくない。心身衰弱の状態にあるので追求する意欲が削がれているけど、いつか心が満ちれば亡くなった理由や背景を求める気持ちが湧いてくるだろう。
 「実は、今回の痛ましい一件について分かったことをお伝えしようと思いまして、本日突然の訪問ということになりました」
 刹那―――それまで虚空を彷徨っていた瞳に光が帯びた。刻が経つにつれて全身に温かい血が満遍なく行き届くのがはっきりと見てとれる。魂が、元のあるべき場所に吹き込まれた。
 止まっていた時が、今ようやく動き出した。
 それを見届けると隣に座る成宮へ目配せをする。幸恵へ一礼してから徐々に喋り始めた。
 「屋上の実況見分や集合住宅の住人から得た目撃情報、その他遺留品や状況から総合的に判断した結果から第三者が関与した可能性は限りなくゼロに近いと断定されました。屋上の扉は内側からなら誰でも解錠させられること、防犯カメラに不審な人物が確認されないこと、転落防止用に設けられた柵に付着した指紋等から、事件性は見られず自殺と警察は判断しました」
 成宮の報告はあくまで触りの部分であり、報道などでも伝えられている事実に過ぎない。それでも幸恵は目を見開き、息を呑んで報告に耳を傾けていた。分かっているけれど未だに信じられない、という心境か。
 まだ人の親になったことのない成宮には察するに余りある。僅かに間を置いて再び口を開く。
 「自殺に至った要因は、被害児童の周囲を取り巻く外的要因が非常に大部分を占めると見ています」
 端的にまとめたが、学校生活における一部の同級生と隠蔽体質のある学校の二点が主である。
 「一部生徒による校内秩序を乱す行為が常態化しており、その影響が他の生徒へ矛先が向くようになりました。いつからかは詳しく特定されていませんが、昨年度からこのような状況になったと調べの中で分かりました。最初は大人しく内気な生徒に対して『気に食わない』『目障りだ』という理由で言葉による攻撃、並びに叩いたりちょっかいを出すからかい行為がエスカレートして仲間で囲んで殴る・蹴るといった暴行行為に発展。さらに学校外に呼び出して金銭や物品を要求するまでエスカレートしていきました。その様子を目撃した生徒が密かに当時の担任に知らせて、後日当該生徒数人を職員室に呼び出してイジメの事実を確認、口頭で注意した上で全生徒の前で謝罪させました。数日後に改めて当該生徒と面談した際には対象生徒に謝って仲直りしたと報告がありました。ですが、この話は加害生徒達による嘘でした。教室で一応謝ったものの、被害児童に直接謝罪した形跡はなく、仲直りした事実も存在しませんでした。校外で行われたイジメがどこから担任に洩れたか、執拗な追求がその日から始まりました。結果、一人の同級生が現場を偶然目撃したこと、翌日に一人で担任の元へ駆け込んだことが判明しました。生徒達は通報した生徒を逆恨みによる報復の為に、事実を知った当日から行動を開始しました。それが―――」
 正しい正義感を持ち、強い責任感を持っていて、他人の痛みや気持ちを察することの出来る優しさを持っていた被害児童。そのことを改めて口にしなくても、すぐに理解した。
 「ここからは推測の域になりますが……恐らく人目のつかない場所に被害児童を呼び出して『あの子の代わりになれ』とでも囁いたのでしょう。告げ口をしたことで叱責すれば手痛い反撃に遭うのは想定済みだったでしょうし、逆に強い意志を持つことを逆手に取って善意を弱味につけ込んだものだと。若年ながら手口が巧妙ですし卑劣極まりない。被害児童は同級生の身代わりとしてイジメを一身に受けるようになり、やがてエスカレートして金品や物品を強請るようになりました。多分ですが……『今度も大人に言ったら他の子を同じ目に遭わせてやる』と脅したものと考えます。他人に危害が及ぶと釘を刺す点では常軌を逸しているとしか言えません。誰にも相談出来ず、その小さな体で理不尽な要求を延々と甘んじて受けていた、と考えられます」
 神妙な面持ちで口を挟むことなく黙って話を聞いていたが、遂に堪えきれず幸恵の右の瞳から大粒の涙が雫となって零れ落ちた。涙の通り道を次々と零れた涙が頬を静かに濡らす。込み上げてくる感情を抑えられず、嗚咽が漏れる。それまで塞ぎ込んでいた思いが涙となって全て吐き出そうと泣く姿に、成宮がハンカチを差し出す以外は言葉もかけず差し控えた。今は泣きたいだけ泣かせた方が良い、余所者が邪魔するのは野暮ってもんだ。
 暫くして「取り乱して申し訳ないです」と幸恵は頭を下げた。嗚咽は止まったが泣き腫らした瞼は赤く染まり、渡されたハンカチは涙で濡れていた。
 「誰が自殺するまで追い詰めたか現在のところ見当はついていますが、物証は無く全て状況証拠と我々の推測を結び付けた推察に過ぎません。例え仮に立証したとしても未成年ですので刑事責任を問えません。今回の件に関わっていると思われる生徒名については個人情報保護の観点と未成年者保護の観点から開示することは差し控えさせて頂きます」
 また、と成宮はさらに言葉を継ぐ。
 「事態が深刻化した背景には学校が積極的に解決に向けて動かなかったことも大きな要因だと考えられます。担任は望ましい姿へ導こうと奮闘されていましたが、生徒の保護者が担任や学校、教育委員会に対して圧力をかけ、問題を揉み消そうと画策しました。校長や教頭など学校責任者は自らの評価に関わると捉え、深刻なイジメがあったにも関わらずイジメ自体が存在しなかったように教育委員会に報告し、実際に書類や意見書を握り潰していました。保護者の中には教育委員会やPTA、その他行政に関わる人々との繋がりが確認され、それらの縁故を利用してあらゆる手段を尽くしてイジメの存在が明るみにならないように工作を続けていたのが伺えます。……単に加害児童だけでなく、その子どもを取り巻く保護者や学校なども被害児童を自殺にまで追い込んだ責任があると考えます」
 淀みなく説明する成宮の口元が一瞬歪んだ。何の罪もない子どもを死に追い詰めた大人に対して純粋な憤りを感じているのだろう。我が子可愛さのあまりに行き過ぎた行動が結果として一人の児童を自殺にまで至らしめた事実は、過保護という言葉で済まされる問題ではない。それが許されるなら子どもを自殺で失った親が加害者に対して復讐することも成立してしまう。自己保身のために今目の前で起きている問題を隠蔽するなど言語道断だ。
 「……以上が、今回発生した事件に関する一連の経緯になります」
 全てを明らかにした後、沈黙が三人の間を包んだ。時が止まったような、息をするのも躊躇してしまう程の静寂。ただ、時を刻む時計の針の音だけが部屋に響いていた。
 「―――そう、ですか」
 幸恵は小さく息を吐いて、窓の外の世界へと目をやった。
 あれだけ知りたかった真実を耳にしたのに、どうしてすっきりとしないのか。大切な我が子の最期まで結ばれたのに。寧ろ、絡んだ糸はそのまま放置しておいた方が幸せだったのかも知れない、とさえ感じた。
 浮かばれない気持ちはこの空模様のせい?……答えはすぐに分かった。苛立ちをぶつける対象が、見えないのだ。相手は分かる、でも追求したくても責任の所在があやふやで、該当する人々はみんな火の粉を被るまいと必死になって逃げている。靄のような存在で、目で見えるけど手につかめず、風が少し吹いただけで姿も消えてしまう。我が子を失ったエネルギーをぶつけられない自分に、失望しているのだ。
 『泣き寝入り』という言葉が頭に浮かぶ。これ程にこの言葉が当てはまる状況はない、と考えた自分自身に苦笑する。が、とんでもない。誰も罪に問われなくて放置していたら必ず次の犠牲が生まれてしまう。我が子は救えなかったが、これ以上自分の手で命を絶つ子が出ないで欲しいと切実に願う。
 「これから、どうされるおつもりですか?」
 電話では捜査が終了した旨を伝えられた。お節介なことだと気付いた時には言葉が口から発せられた後だった。
 どんな形で処理されていくのかはテレビドラマやニュースとかで大まかに知っているが、それはあくまで小さな箱の中の世界という印象が強い。そもそも普通に生活していれば刑事さんのお世話になることなど無縁なのだ。非日常だからこそ成立するエンターテイメントとして楽しめる。
 事件は既に集結した。ここからどう覆して被害者遺族が望んでいる解決まで導いてくれるのか。恐らく可能性としては限りなくゼロに近い。そして、罰せられる加害者は我が子と同じ年齢の子どもだ。逮捕することも、賠償を求めることも、名前も顔も交付応されることも未成年という厚い壁で守られて叶わない。ならば代わりに責任を追及したいが、保護者も学校も自らの過ちを認めようとしないばかりか証拠を隠そうとしている有様だ。
 「―――このまま事件を野放しにしておくつもりはありません」
 重苦しい雰囲気を打ち破ったのは、五十嵐の低くはっきりと通る声だった。
 「一人の同級生が自殺するまで追い込んだ、忌まわしき状況は払拭されず今も残されています。何らかの対処を行わなければ第二・第三の犠牲が生まれる可能性が極めて高い状態です。そして時が経てば加害者の心から反省や思いやりの心が薄れ、イジメもさらにエスカレートしていくことでしょう。そうなれば、全ての子どもがさらに傷つく事態を招くことになります。負の連鎖を断ち切るには、今しか無いのです」
 決して声を荒げることなく、それでいて力強い口調。その声の中に強い意志が含まれていることが、ヒシヒシと伝わってくる。
 その言葉は同じ時間を共にしてきた成宮の心にも響いた。だが側にいる者だからこそ分かることもある。自己保身に走る大人達への怒りが、その瞳に宿っていた。
 「誤った道を正す方法は様々あります。ですから、未成年ということで細心の配慮をしながら自ら犯した罪の大きさや重さを認識させ、悔い改めるのが最善の策だと私は思います。子どもだからこそ、本来あるべき姿に戻ると信じたいからです」
 信念。その二文字が幸恵の頭に浮かんだ。
 目の前に座っている二人は自分の信念を曲げずに貫く人だと、今日で会って二回目の人間ではあったがそう思った。例え高い壁があっても数千人が行く手を立ち塞いでも、それを形振り構わず突破して真っ直ぐに歩いていく人だと察した。その道がどんなに困難で険しいと分かっていても、遠回りすることなく突き進むのだ。
 ……もし、叶うのなら、あの子の思いをこの人達に託したい。あの子もきっとそう思っているに違いない。
 「よろしくお願いします」
 深々と体を折って二人に頭を下げる。理由はない。この問題を全て明るみにしても大切な我が子はこの家に帰って来ない。ただ、また同じように苦しむ子が出るかも知れないならあの子はきっと悲しむはず。そう考えると、他人事のように思えなかった。
 そして想いを託された二人も目の前の母親から込められた気持ちを理解し、表情を引き締めて頷いた。

 数日後。痛ましい事件の余韻は徐々に薄れ、以前のような日常が戻りつつある。日数が経過したことに加えて警察の捜査が打ち切られたこともあり、校舎周辺に姿を見せていたマスコミの影もいつしか消えてしまっていた。
 命を絶った生徒のクラスも再開直後はその衝撃からひっそりと静まり返っていたが、日数が経過するに従って徐々に以前のような日常の光景が蘇りつつあった。休み時間の間に気の合うクラスメイトと談笑したり、教室内を駆け回ったり。何処にでもある小学校のクラスの休み時間の光景が戻ってきたのは良い兆候であった。
 「しっかし、アイツのせいで大変だったよなー」
 教室の片隅で何人かの生徒が固まって集まり、ヒソヒソと声を潜めて何か喋っていた。
 「ホントホント。マジでウザいよね」
 「何で勝手に死んじゃうの。訳分からねーよ」
 「分かる分かる」
 「そうそう」
 「……で、次どうする?」
 「うーん、誰にしようか考え中。お前、誰か面白いヤツいる?」
 「アレはー?死んだアイツが庇ったヤツ」
 「お、いいじゃん!!」
 「だってアレのせいでアイツが死んだようなもんだもんね。オレらがしばらく遊べなかったのも、アイツが自殺したのが原因だし、今度はアレに償ってもらおうぜ」
 「アレもオドオドしてオレらの言う通りに動いてくれたし、あとはチクらないように脅せば暫くは楽しめるね」
 「いいねー」
 「さんせー」
 「じゃあ、次のターゲットはアレにけってーい」
 直後、次の授業を知らせるチャイムが鳴る。騒がしい雰囲気をまだ少し残した中でも生徒達は自分の席へ戻っていく。その流れに合わせて教室の隅に固まっていた集まりも解散して、各々の席に座る。
 次の授業は道徳。国語や算数といった主要科目と比べると幾分か堅苦しさが和らぐ授業なので、休み時間の雰囲気がまだ教室内に残り香のように漂っている。予鈴が鳴ったにも関わらず立ち歩いている生徒も何人か見られ、周りの子と喋っている子も少なくない。先生が来るまでは許されるかも知れないが、筆記用具すら机の上に出していない子が大半を占めるのも些か問題があるような。
 少し経ってから担任の川島が教室に入ってきた。ようやくお喋りも収まり始め、授業をする空気が徐々に出来上がっていく。
 「さて、今日の道徳の授業ですが、特別講師の方がいらっしゃいます」
 特別講師?誰なんだろう?思わぬ発言に教室内がざわつく中、扉を開けて二人の大人が入ってきた。
 一人は眼鏡をかけたスラリとした高身長の若い女性、もう一人はそこそこ年を重ねたごつい男の人。どちらもスーツ姿である。思わぬ来客の登場に教室は一転して静まり返る。
 「では当番の方、号令を」
 川島に促される形で今日の当番の子が「起立」と号令をかける。一斉に椅子が引かれて教室内は喧しくなるが、やがてさざ波が引くように静寂となり「礼」と当番の子のよく通る声が教室に響く。全員が登壇している二人に向かって「よろしくお願いします」と言うと同時に頭を下げた。中には声も出さずちょこっと頭を動かしただけで頭も下げない態度の悪い子も何人か居たが、真面目な大勢の声に紛れてか不真面目な態度を示す子に注意したり指摘する子は居なかった。
 再び床を鳴らして着席すると、静かになるのを待って男の人が口を開いた。
 「今日は命について少し考えてみましょう」
 唐突に切り出されたテーマに困惑顔の生徒を置き去りにして、男の人は白のチョークを手にして黒板に“いのち”と書いた。事の成り行きを皆が黙って見守る。
 男の人は振り返って教室の中を一通り見渡した後、話を続ける。
 「君達の中で、死んだ人が生き返ったって話を聞いたことがある人は居ますか?」
 いきなり投げかけられた質問に隣同士で目と目を合わせる子が何組か見られた。少しだけ沈黙が続いた後に一人の子がおずおずと手を上げた。
 「はい、そちらの子」
 男の人は手を上げた子の方に向かって静かに手で指して発言するように促す。
 「テレビでそういう事があると聞いたことがあります」
 その回答に一旦頷くと、男の人はその答えを聞いた上で答えを返した。
 「うん、確かに“死んだ”と思っていた人が蘇るという話は時々あるね。でも、それは仮死状態……まだ本当に死んでなかったから目を覚ました、ということなんだ。つまり、漫画やアニメなど空想の世界は別にして、現実の世界では一度亡くなった人間が生き返るってことは絶対に有り得ない話なんだ」
 頭ごなしに否定する訳でもなく、あくまで穏やかな語り口で話していく。発言した子も納得した表情を見せて席に座る。
 「右手で胸の辺りを触ってもらうと分かると思うけど、微かにトクントクンと動いていると思います。その動いている場所にあるのが心臓です」
 男の右手が胸の中央からやや左の部分に触れる。教室内の生徒も同じように触ると、心臓が動いているのを自分の手で確認していた。
 「みんな一人一つ、命を持って生きています。『私だけ二つあります』なんて事は心臓と一緒で、絶対にありません。そう考えると、自分の命って大切にしなきゃいけないなー、って思いませんか?」
 問いかけられて何人かの生徒が頷き返す。しかし、中には退屈そうな表情を浮かべて『何言ってるのこの人』と顔に書いてある生徒も何人か居るのも、男の人の目は見逃さなかった。
 「君達の命は君達だけのものじゃないんだよ。お父さんとお母さんが居たからこそ、この世に君達は生まれてきたんだ。そして、赤ちゃんの頃から育ててくれたから今日ここまで立派に成長することが出来たんだよ。今だとお父さんかお母さんが居ない、あまり大切に育てられた記憶がない、という子も少なからず居るかも知れないけど、誰かが支えてくれたから大きくなれたし、顔も声も分からない親が居たから命を授かった。この事だけは忘れず覚えておいて欲しい」
 真剣な眼差しで話す男の人に引き込まれるように、多くの子が固唾を呑んで話の行方に耳を傾けている。いい表情だ、と壇の上で話す男の人は手応えを感じていた。
 ここで話し手が脇で控えていた女の人に移る。眼鏡の真ん中をクイと押し上げて、一歩前に出る。
 「ただ、悲しい事に一つしかない命を自分から捨ててしまう人が少なからず存在します」
 落ち着いた口調で、教室内の生徒一人一人の顔を確かめるように眺めてから話を続ける。
 「ここ数年、およそ三万人の人が自らの手で命を絶っています。一番多いのは君達のお父さん・お母さんの年代ですが……実は君達と同じような年齢の子ども達も三万人の中に含まれています。その数は病気や事故で命を落とす子どもの数よりも多く、この傾向は世界中にある他の国と比べても異常に高い数値で推移しているのは残念ながら日本しかありません」
 ここまで黙って聞いていた子の一人がいきなり立ち上がった。
 「すみません、こんな分かりきった話ばかり続けて何の意味があるんですか?」
 明らかに敵意を剥き出しに突っかかってくる態度の生徒に二人は大人の余裕でさらりと受け流す。
 「えぇ。これはみんな十分に知っている話だよね。じゃあ、ちょっと話を変えてみようか」
 不満そうな表情を浮かべながら渋々椅子に腰かける。その生徒がこれまで極一部の微妙に聞く姿勢が異なる集団の一人であることに気付いていた。
 「君達の中で『あー、自分の命なんか要らないやー』って思っている子はいますか?」
 男の人が挙手を促すが首を横に振ったりじっと壇上の男の人の顔を見つめるばかりで、誰も手を上げようとする素振りを見せる子は一人として出てこなかった。
 「そりゃそうだよねー、普通だったら死にたいって考えもしないよね」
 努めて明るい声で同意を求める。だが、仮面を被っていたのはそこまでだった。
 「……じゃあ、どうして一人一つしかない大切な命を捨ててまで生きることを諦めたのかな?」
 単刀直入に切り出した問いに何人の子の表情が途端に険しくなる。一瞬にして教室内の空気が張り詰めるのが分かった。
 男の人も女の人もこれまでと一転して一言も喋らなくなった。誰かが答えてくれるのを静かに待っていた。恐らく誰も何も言わなければ延々に待ち続けて放課後まで粘り続けるだろう。
 これだけは譲れなかった。この答えは自分達の口からじゃなく、子ども達の中から出て欲しかったから。
 凍りついた雰囲気の中、一人の生徒が恐る恐る手を上げた。
 「えーと……生きてるのが嫌になったから、ですか?」
 勇気を持って答えてくれた生徒に賛同を示す二人。でもまだ納得している様子ではない。
 「うん、確かに“生きるのが嫌になった”のは間違いじゃない。じゃあ、どうしてそう考えてしまったのかな?」
 生徒の答えのさらに奥へ踏み込むことを促す。すると間を置かず別の子から手が上がる。
 「……死んでしまった方がいい、と思ったから、です」
 求めていた答えが出てきたことに手応えを覚えた男の人は力強く「そう」と応える。
 「“生きていたい”という気持ちと“死んでしまいたい”という気持ち。普通だったら天秤にかかることはありません。何故なら、“死んでしまいたい”なんて誰も考えないからです」
 ここで男の人は振り返って白のチョークを握ると、黒板の左側に“生きたい”、右に“死にたい”と書いて、その言葉を器に載せた天秤の絵を簡潔に描く。黒板に絵として明示してあげることにより、イメージしやすくなるよう配慮したのだ。
 「でも、苦しんでいる人や悩みを抱えている人は自分の命をこの天秤の片方に載せてしまいます。『このまま生きていくべきか、それとも死んでしまった方がいいか』と。一生懸命悩んで考えて、死にたい方にバランスが傾いて何かの拍子でストッパーがかからず、一つしかない命を自分の手で終わらせる選択を下してしまいます」
 チョークで右側の秤に大きく丸を描いて黒板を叩くと、その音に反応して何人かの生徒がビクッと肩を震わせた。仏頂面のまま不満を露にしている生徒も若干名。
 「そこまで追い詰めてしまうのはどうしてか?そんな簡単に命を捨てたいなんて思う人は滅多にいません。特に子どもの場合はそうです。本人には殆ど死にたくなるくらいに追い詰められる原因はありません。多くの場合は、自分以外の誰かによって追い詰められた末に生きることを諦めて自殺してしまう道を選んでしまいます」
 「自殺する子どもの多くは周囲に対してSOSのサインを出しません。我慢して、堪えて、耐えて、誰にも自分が悩み苦しんでいる様子を大っぴらに見せることはありません。それはどうしてか?理由は、知られたくないから。自分が悩み苦しんでいることを誰かに気付かれて、他の人に余計な心配をかけたくないのです。だから一生懸命に隠し続けます。そして、その子が死んでから初めて周りの人々はあの子が悩み苦しんでいたことに気付くのです。『嗚呼、どうして分からなかったのか』と思うのです。でも、その時にはもう遅いのです。後悔しても、反省しても、失われた命が戻ってくることは二度とありません」
 「いい加減にして下さい!!一体何が言いたいんですか!?」
 静寂を切り裂いて一人の子が叫んだ。教壇に立つ二人も遂に来たか、と内心で身構えた。先程から不満そうな視線をこちらに向かってずっと投げつけてきた集団の中に居た一人であることを見逃さなかった。
 興奮した面持ちの生徒に対して冷静な口調を保ったまま、静かに反論する。
 「最初にも言った通り、命について考えてみようということです。だから、こうして話を進めてきた訳で……」
 感情的な発言もさらりと受け流す大人の余裕を見せつけ、淡々と答える。だが、苛立ちを表に出したまま先程の子は続けた。
 「“命は一人一つのものだから大切にしてね”ってのは分かったよ!一々言われなくてもみんな知っていることじゃないか!こんなくだらない事を延々と続けるくらいなら他の事をやった方がずっと効率的だと思います!!」
 そうだよね、と周囲に目で同意を促す。その子と親しい間柄の周りを囲む集団は揃って頷いて賛意を示し、他の子もその一部の勢いに押される形で戸惑いながらも賛同していく。
 これでどうだ、と言わんばかりにこちらを睨みつける。その瞳には明らかな敵意が滲んでいた。
 「……“ごめんで済むなら警察は要らない”。確かにその通りだ。それで全てが円く収まるならオッサン達の仕事は必要ない」
 唐突に切り出された展開に若干困惑する生徒達。そこへ追い討ちをかけるように女の人が畳み掛ける。
 「申し遅れました。私達は東京の警視庁で刑事をやっている、分かりやすく言えば警察の人です。私は成宮、隣に居るオッサンが五十嵐と言います」
 (おい、いくら上司の紹介でオッサンはないだろ)と成宮に目で抗議するが(ご自分で仰ったじゃないですか)と涼しげに受け流す。
 “警察”という単語はやはり相当効果的だったみたいで、一様にざわつく生徒達。一方で気色ばんだのは先程まで反抗的な態度を見せていた子どもだった。
 「何で警察の人が学校に来るんだよ!!だって捜査は終わったじゃないか!死んだ人は生き返らないって自分で言っていたじゃん!」
 目に見えて動揺しているのが丸分かりだが、本人達は気づいていない。一方で取り巻きの面々は顔面を蒼白にして黙り込んでいる。
 「捜査は確かに終了しました。我々が学校に来る理由もありません」
 五十嵐が素直に受け入れると苛立っていた生徒が少しだけ満足したような表情を浮かべた。若干勝ち誇ったような雰囲気すら滲ませているのが少し腹立たしいが。
 しかし、それも一瞬の出来事であった。
 「ですが、事件はまだ終わっていません」
 凄みを利かせた表情でジロリと睨むと、それまで噛み付いていた生徒が怯んで一気に押し黙ってしまった。
 「君達と同じ教室で一緒に学校生活を送っていたクラスメイトが自殺した。何故そうなったのかを調べて、ある程度『こういう形だった』と分かったから捜査は終了しました。でも、人が一人死んでいるのに『こういう形だった』で済ませて全ては解決した訳ではありません。自殺した根本的な原因を取り除かない限り、次の犠牲者が出ると思ったからこそ、我々はここに立っているのです」
 その発言で一部の生徒の表情が途端に固まった。先程の休み時間の間に、クラスの片隅で何かを相談していたグループだ。
 自分達のやってきたことが責められるのではないか。これからやろうとしていることも全部この今来た警察の人は分かっているのだ。
 これまで我が儘でやりたい放題やってきたけれど、この人達には通用しない。逆に今までやってきたことに対して何らかの罰を与えられるんじゃないか。そう考えると、二人の大人が急に怖くて恐ろしい存在のように感じた。
 少々強引かも知れないが、今ここで止めないと加害児童だけでなく関与しなかった生徒も含めて全員の未来が明るくない。歪んだ環境で育った子はどこかしら屈折した大人へ成長してしまう可能性が非常に高く、それを阻止する為には不幸の連鎖を断ち切る必要がある。処罰覚悟で学校に乗り込んだのは、荒療治を施しに来たのだ。
 「そもそも、どうしてイジメはいけないことだと思いますか?」
 五十嵐が質問を投げかける。だが、萎縮させたことが尾を引いているのか、言葉を発しようとする生徒は少ない。机に俯いたり、目を逸らしている生徒が壇上から窺える。
 迷った末に、川島が予め壇上に用意してくれた生徒名が記された座席表に目を落とす。問題行動を起こすグループは前後に二つある扉の後ろ側の扉の付近に固まって座席を構えている。恐らく席替えなどがあっても意図的にその位置を確保しているのだろう。その扱いすら異常であることが透けて見える。
 ふと目に飛び込んだ名前の生徒を読み上げる。呼ばれた生徒はビクッと体を震わせ、オドオドと周囲を見回した後に席を立つ。
 「えーっと……イジメられた相手が嫌だと感じる、から?」
 その答えに五十嵐は大きく頷く。答えた生徒はその態度に心の底から安堵した表情を浮かべ、静かに着席する。まるで教師と生徒の関係だ。
 「人はみんな違うから、嫌だと感じるポイントもそれぞれ異なります。自分は『これくらいなら大丈夫だろう』と思ってやった事も、実は相手からすると物凄く嫌だと感じているかも知れません。それを分かった上で続けていればイジメになります。人が嫌がっている様子を見て楽しむのもイジメです。単純なようですが実は複雑で、遊びとからかいとイジメの境目は人によって違いますし線引きが非常に難しいです」
 例えば、と言って五十嵐が隣に居る成宮の肩を叩く。静かな教室内にパシンと乾いた音が響いた。
 「隣に居る成宮さんが自分の目から見て『元気がないな』と見えて、元気づける意味を込めて軽く叩きました。私はそう思っています。ですので、私はこれをイジメとは考えていません。……では、成宮さんはどう感じましたか?」
 「痛いです。何で叩かれたのか理由が分かりません」
 問われて間髪入れずに成宮は即答した。
 「別に普通通りで特に元気がないと思ってもいません。それなのにいきなり五十嵐さんは何も言わずに肩を叩きました。五十嵐さんはスキンシップの一環としてやったのかも知れませんが、私にはそう感じていません。不快です」
 「……と、このように二人の間で感じ方に違いがあったのは分かったよね?」
 うんうん、と頷く子ども達。そこへ五十嵐が畳み掛ける。
 「君達から見て、今の行為についてどう思いましたか?」
 生徒に向けて水を向ける。考えるだけの時間を少しだけ取り、再び座席表を見て目に付いた名前の子を指名する。
 「何も言わずに叩いたのでイジメかな?と思いました」
 続けてもう一人の生徒にも同じ質問を問いかける。
 「何と言えばいいかな……仲が良い関係ならイジメじゃなくてスキンシップかな?と思いました。ちょっと強く叩いたかも知れないけれど、すれ違い様にポンと肩を叩くということは私達でもやることですし」
 二人の答えは分かれた。
 「今、二人が言ってくれたように、人それぞれ捉え方が違うことが分かりましたね。私が加害者、つまりイジメている側の人間。成宮さんは被害者、イジメられている側の人間。今は一回叩いただけ、じゃあこういう状態が長く続いていたとします。どうしたら問題は解決すると思いますか?」
 次のステージに入った、と感じた。しかし五十嵐も成宮もこの先の展開を読めなかった。こういう風に持っていきたいというビジョンは一応固まっていた。しかし、自分達の本職は警察官であって子どもの教育分野のプロではない。年頃の子どもを相手にして自分達が伝えたいことを完全とは言わないまでも言い分を理解させることは難しいと今この場で改めて痛感させられた。
 数学の公式みたいに一つの設問に対して一つ明確な答えが存在している問題ではない。自分達が考えている答えに近づけるよう、出来る限り導くことくらいしか出来ないのが実にもどかしい。
 教室内が静まり返る。生徒達の表情も厳しくなっていく。まずい流れだ。出口が見えない状態で停滞していても解決への糸口はなかなか見つけられない。どうすれば打開出来るのだろうか?
 そこへ川島が横から口を挟む。
 「近くの人と相談しても良いですよ」
 ナイスアシストだ。やはり毎日教壇に立つ現職の教師は違う。難問に直面して固まっている現状を察して、答えを導きやすい方向へ転換してくれた。お陰で空気が少し変わった。
 川島の提案を呼び水にしてザワザワと近くの生徒同士で相談する光景が多く見られるようになった。先程までは自分一人だけで考えて答えを探していたが、互いに意見を出し合って相談することで議論が活発になったのが目に見えて分かる。
 暫く成り行きを見守っていると、一人の生徒が手を上げた。
 「大人の人に相談するのが良いと思います。子ども同士だと解決しないと思うからです」
 悪くない答えだ。五十嵐は発言した子の方に向かって一つ頷く。
 しかし、残念ながら正しいけれど間違っている。
 「確かに大人の力を頼るのは一番良い方法です。担任の先生やお父さん・お母さん、近所の人でも構わないでしょう。相談することで、話すことで、解決に少しでも近づけるでしょう。でも……どうして歩さんはそうしなかったのでしょうか?」
 “歩さん”というワードで先程解された空気が一気に凍り付いてしまった。無意識の内に目を背けていた現実と直視させることは避けて通れないことではあるが、ここまで反応が出るとは予想していなかった。皆が一様に暗い表情をして目線が下に落ちている。
 いつかは出さなければいけない言葉だと思っていた。つい先月までこのクラスに居た同級生の存在が、今では前から居なかったように扱っている状況に違和感を覚えていた。腫れ物に触る扱いはおかしいじゃないか。そう考えている五十嵐だからこそ、今このタイミングで口にしたのだ。しかし劇薬は少し効き過ぎたみたいだ。明らかにバツの悪そうな顔をして黙り込んでしまった。
 カチカチと壁に掛けられている時計が一秒を刻む音が教室内に響く。その沈黙こそ今この場の重苦しさを象徴しているのだが、みんな息を潜めているばかりで誰も声を発しようとしない。アプローチがやや強引だったか。五十嵐が再び声をかけようとした時、スッと手が上がるのが目に入った。先程発言した子だった。勇気を出して手を上げてくれた生徒に敬意を表して、丁重に指名する。
 「えっと、心配させたくなかったから、誰にも言わなかったのだと思います」
 素晴らしい子だ。こちらが伝えたかった事に、自力で気付いてくれた。五十嵐は教壇の下で小さく拳を握った。
 「その通りです。親御さんに学校でイジメられている事を伝えれば確実に学校か担任の先生に伝わるでしょう。しかし、それは親御さんに余計な心配や負担をかけてしまうのでは?と考えて躊躇することも十分に考えられます。そして担任の先生に相談しても解決に近付くどころか悪化した経験があったら、どう思いますか?『いくら言っても一緒』と諦めることも考えられませんか?」
 後ろに付け加えたのは川島からの証言を元に推察される事案だ。川島から聞いた証言には被害児童から嫌がらせの相談を受けたとあり、その旨も業務日誌や川島個人が保有するノートに記載されていた。実際に加害児童と面談したが事実関係を認めず、『保護者に言うよ』と言っても『ウチの親、忙しいから会えないよ?』と悪態をつく始末。結局、口頭注意で終わらせたが、それ以降被害児童からイジメに関する相談は無かった。ちなみにその日の日報には相談内容や加害児童の発言や反応を詳細に記していたが、被害児童が自殺してから検めて日報を確認するとその記載が全て削除された上に内容が改変されていた。恐らく自殺との因果関係を追及されたくない責任者による隠蔽工作だろうが、その件については今後じっくりと調べさせて頂くとして。
 「誰かに迷惑をかけたくない、心配させたくない、と思って嫌なことや苦しいことを自分の中に抱え込む人が世の中には大勢居ます。それは決して悪いことではありませんが、自分で解決出来ないくらいに溜め込んでしまう人も中には少なからず存在します。それは年齢に関係ありません。それぞれがそれぞれに悩みを背負って、毎日辛い思いをして過ごしています。さて、自分一人で悲しいことや辛い思いをしている人に対して、どうしれば良いと思いますか?……自分がそういう立場にあると想像して考えてみると分かりやすいかも知れませんよ?」
 さり気なくヒントを出して自分達で考えさせる。五十嵐も成宮も確信していた。大丈夫、この子達ならきっと自分達の力で答えを導いてくれる。そこへ川島が生徒達に向けて呼びかける。
 「みんなー、席を移動して机をくっつけて友達同士で話し合ってもいいですよ」
 努めて明るい声で提案すると早速子ども達が思い思いに移動して気の合う友達同士で固まり始める。机を寄せ合うことでグループが鮮明になり、互いに意見を出して話し合いが活発になった。やはり現役の教師、子ども達の扱いでは川島の方が一枚上手だ。
 「好きな事ことをして気分転換したら気持ちが明るくなると思います」
 友達同士で話し合うことで流れが良い方向に傾いた。だが、その答えは悪い線ではないが求めている答えではない。
 「うん、自分の好きなことをしていると嫌な気分を忘れて気持ちが少し軽くなるよね。……でもね、物凄く深刻な人はね“何かしよう”というエネルギーすら空っぽになっている人も少なくないんだ。好きなことがお金の必要なことだってあるでしょ?でもね、お金も要らなくてもっと手軽に気持ちが楽になる方法があるんだよ。それって何だと思う?」
 方向性は悪くなかった。だからもう少しだけ考えれば分かるはず。信じているからこそ答えを敢えて言わずに待つ。あとちょっと、時間をかければ―――
 直後、授業終了を告げる予鈴が無情にも鳴り響く。道徳の授業が終わってしまった。その瞬間、五十嵐は黒板側に顔を向け、成宮は子ども達に見えないように唇を噛む。
 学校側と交渉して与えられたのは道徳の一時間だけ。それ以上の延長は断じて認められない、と何度も厳しく念押しされた。無理に捻じ込んだ手前、この条件を呑む以外に道は無かった。
 あと少し、もう一歩二歩。そこまで答えは近付いていたのに。ここで終わったら何も変わらない。しかし、タイムリミットは過ぎてしまった。悔しいが、ここまでだ。
 多くの児童が困惑の表情を浮かべて壇上の三人に視線を送る一方で、後方で悪態をつくばかりで反発以外の発言は一切しなかったグループは休み時間と知って面倒臭い授業から解放されたと言わんばかりに清々しい顔をして席から立ち上がる。そのまま重苦しい空気の教室を飛び出して遊びに出ようと動き出した瞬間―――川島の声が教室内に響き渡った。
 「みんな、このまま道徳の授業を続けます。トイレに行きたい子は行ってきても構いません。休み時間の間も友達同士でこの問題について話し合っても大丈夫です」
 担任からの一言に反応は極端に分かれた。大半は安堵の表情を浮かべ、少数は苦々しい表情に変わる。五十嵐も成宮も驚きの眼差しで川島を見つめてしまった。次の授業は国語、受け持ちは担当の川島だから独断で授業を変更しても問題ないが……この特別授業を行う際につけられた条件を自ら破ることになる。それは即ち、学校や教育委員会の決定を反故にしたも同然の行為だ。当然のことながら彼女の評価に影響して今後の教師人生に大きなマイナスになることだって有り得るのだ。
 「私、お二人の姿を見て決めたんです。“このままじゃいけない”って。例え私が罰を受けたとしても、保護者からクレームを受けることになっても、絶対に最後までこの授業をやり遂げるんだ、って。中途半端な終わり方は絶対に嫌だ、と強く感じたんです」
 視線を生徒達から逸らさず、子ども達には届かないくらいの声で、二人に小さな決意を明かしてくれた。その瞳には迷いも揺らぎも一切見られなかった。あの校長や教頭の脅しと現実のギャップに挟まって苦しんでいた弱々しい姿をしていた時とは見違えるくらいに強く、筋の通った立派な教師として輝いていた。
 「……済まんな。また叱られることになる」
 「気にしていません。警部と一緒ですからある程度の叱責は覚悟していましたので」
 肩を寄せて囁く二人。こちらは土壇場で風向きが変わったことで戸惑いはしたけれど、逆に覚悟は固まった。
 こうなれば一蓮托生、とことん付き合うまで。処分上等、始末書や叱責が怖くて刑事なんかやってられるか。上からの評価なんて大分昔に気にしなくなった。萎えかけた気持ちが上向くと、目線も自然と高くなった。
 次の予鈴が鳴るまでの十分間、活発に意見を話し合うグループ、ブレイクで雑談するグループ、一人一人が静かに考えるグループ、それぞれが頑張って答えを見つけようと努力する姿が多く見られた。一方で教室の隅に陣取っていた面子は運動場へ遊びに行って帰ってくる気配は全く見せない。その分だけ空気が軽くなったからか、議論は大いに盛り上がっていた。
 そして次の時間のチャイムが鳴る。運動場に遊んでいたグループも渋々ながら遅れて教室に戻ってきて席に座ると、川島は生徒達に向かって声をかけた。
 「では、さっきの質問で『こうだと思うなー』って意見のある人はいますか?」
 すると幾つかのグループから手が上がる。川島はその一つのグループの子を指名する。
 「誰かとお喋りすること!!これならお金もかからないし、簡単に誰でも出来るから!!」
 「遊ぶこと!!携帯ゲームとか無くてもみんなで遊ぶ方法は沢山あるよ!!」
 「似てるけど、体を動かすこと!!サッカーとか鬼ごっことかしたら、その時だけ夢中になれるし!!」
 ……これは思った以上の収穫だ。自分達が想定していた以上に答えを見つけ出してくれた。子どもの視点だからこそ見つかる答えもあるんだな、と逆に感心してしまった。
 五十嵐は頬を綻ばせながら応えた。
 「素晴らしい。君達は私達が思っていた以上に答えを見つけてくれました」
 素直に賞讃の言葉をかけると、子ども達は一様に明るい表情を浮かべた。やはりよく知らない人からでも褒められると嬉しいのだ。一人一人の顔を見つめながら五十嵐は話を続ける。
 「人と話す。これが一番嫌な気持ちや辛い気分を和らげてくれる特効薬です。話を聞いてあげるだけでいいのです。暗い顔をしている子に『大丈夫?』と声をかけるだけで、その子は“自分は一人じゃないんだ”と前向きな気持ちになります。何気ない一言かも知れませんが、その言葉が大きな勇気になるのです。いつもと違う、何か雰囲気が変わった。そのちょっとした変化に気付いたら一歩近付いてあげて下さい。遊びに誘う、話しかける、グループに入れてあげる。その行動が大きな希望に繋がることを、忘れないで下さい」
 教室内を見渡すと、多くの子ども達が五十嵐の目を見ていた。確かな手応えを感じながら話の締めに入る。
 「イジメられている子の多くは何も声を上げずじっと耐え忍んでいます。その様子を見て、反応を面白がってイジメる子達はどんどんエスカレートしていきます。大切なのはイジメられている子が出しているサインに気付いてあげること、そして声をかけること。追い詰められている子は必ず何らかのサインを出しています。元気がない、持ち物が少なくなったり汚れている、いつも俯いて暗い表情をしている、言葉数が少なくなった、最近一人で居ることが多くなった。そういうサインに気付いたら、迷わず声をかけてあげて下さい。その小さな一歩は大したことじゃないかも知れませんが、悩み苦しんでいる子にとってはとても大きな一歩になります。一人じゃない、誰か私を見てくれている、それだけで世界は大きく変わります。小さく縮こまっていた世界が急に開けて広く大きな世界に生まれ変わるような感覚になります。そして……君達には他人の痛みが分かる子になって下さい。最初から完璧に分かる子なんか誰もいません。友達付き合いや同級生と関わっていく中で、相手がどういう気持ちで居るのか、自分の発言で相手はどういう思いをしているのか、そういう小さなことを考えるところから始めてみて下さい。そうしたことを積み重ねていく内に、自然と相手の気持ちや痛みが分かるようになってきます。それが大切なクラスメイトを失った皆さんが出来る、小さな償いになります」
 再び教室の中をじっくりと見回す。一人一人の瞳に、強い決意の火が灯っていた。その火は例え小さくても時が経てばいつかは心を照らす大きな炎となっていくだろう。ここから先は自分達の仕事ではない。伝えたいことを全て教えた以上は、部外者は静かに引き上げるだけ。
 五十嵐が川島に目で合図する。それに応じるように小さく頷いて、川島は生徒達の方に向き直る。
 「これで道徳の授業を終わります」
 捜査の要となる山場を無事に乗り越えて、胸のモヤモヤが晴れた五十嵐と成宮は清々しい気分で教室を後にしようと生徒達に背中を向ける。すると背後から「起立」と号令がかけられ、生徒達が一斉に立ち上がる。驚いて振り返ると、みんなが立ち去ろうとしている二人に向かって視線を送っていた。
 「ありがとうございました!!」
 「「ありがとうございました!!」」
 当番の号令と共に、みんなが一斉に大きな声で挨拶すると共に頭を下げていた。教室の後方で不承不承頭を下げているグループのもご愛嬌ということで静かにスルーする。
 これで環境は大きく変わった。これからは仮に誰かが好き勝手な振る舞いをしようとすれば、クラスの中の誰かが指摘して、それにみんなが同調して調和を乱す行動を許さないだろう。イジメの下地は加害者と被害者と傍観者の三者が存在することで成立する。傍観者の割合が少なくなり新たに糾弾する存在が現れれば加害者に対して厳しい目が向けられ、やがてイジメは自然消滅の方向に向かっていく。これまでやりたい放題していた児童からすれば居心地の悪い状況になるだろうが、それこそ正常な姿なのだ。歪みを正した以上、我々の出る幕は無い。部外者は跡を残さず静かに去るのみ。
 五十嵐は生徒達に深く一礼して教室から出て行った。成宮もそれに倣う。
 晴れ晴れとした気持ちで玄関へ向かう途中、後ろから慌しい足音を立てて二人に近付いてくる気配に気付いた。振り返ると血相を変えて大粒の汗を額に浮かべた校長と、同じく興奮した様子で息を切らせている教頭の二人であった。
 こちらとしては全て万事解決して高揚している気持ちに水を指された気がして、少し気分を害した思いだ。
 「ア、アンタ達!!約束では一時間だけと言っていた筈ですよ!!」
 激しい勢いで迫ってくる教頭に五十嵐は平然と切り返す。
 「私共は特に何も……ただ、授業の経過に従ったまでです」
 「惚けないで下さい!!担任の川島先生に無理を言って時間を延ばさせたのでしょう!!これは明らかな業務妨害ですよ!!警察に被害届を出してもいいんですか!?」
 明らかに脅しにかかる文言を口にするが、五十嵐は疚しい思いが微塵も感じてないので落ち着いて言葉を返す。
 「どうぞ、お構いなく。それより、警察の手が入ると探られたくない腹を調べられるのは其方様の方じゃないですか?」
 「な、な、何の事ですか?」
 思わぬ展開に話が流れていくことに対して明らかに動揺する校長。その額から息を荒げていた時に出ていた時とは違った汗が噴き出す。
 「業務日誌の改竄、証拠の隠蔽、報告書の偽造。調べればすぐに分かることです。校内のパソコンを押収するだけで、貴方達のやった事が全て明るみになりますよ」
 自分達のやったことを匂わせると、二人の表情が一気に青ざめていった。今更ながら自分達の犯した行為の重大さに気付いたらしい。
 校長と教頭が行った行為は公文書偽造の罪か何かの罪に該当するだろう。そうなれば保身どころの話で済まなくなる。裏で教育委員会が関与しているかいないかまでは分からないが、捜査令状を請求して本格的な取調べが行われることになるだろう。
 靴箱から自分達の靴を取り出すと、追いかけてきた二人の方を向かずに吐き捨てるように言葉を発した。
 「全て正直に打ち明けていれば良かったのに。生徒より自分の身が大切ですか。一度鏡でご自身の姿を確認してみては如何でしょう?そこに映る自分は教師として相応しいかどうか」
 ヘナヘナと膝から崩れ落ちる教頭、血の気が引いて蒼白となった顔で呆然と立ち尽くす校長。五十嵐と成宮の二人は挨拶もせず、静かに校舎を後にした。

 後日、地元警察の手が刈安小学校ならびに管轄する教育委員会へ捜査の手が入った。
 先日のイジメによる自殺に関して、証拠隠蔽や業務日誌の改竄、報告書や意見書の不正な形で処分された形跡がある疑いで調べが進められ、現場を統括する三河校長や小谷教頭が書類送検される事態にまで発展した。ここまで事態を悪化させた責任を痛感した教育委員会の幹部は総辞職、体制を一新してイジメ撲滅に向けて今後努力していくことで信頼回復に努めると表明した。
 その捜査には所轄警察署からも刑事が動員され、その中には高杉も含まれていた。別に志願した訳でもなく、復讐とか敵討ちの気持ちも一切無かったが、一つの捜査として淡々とやるべき事をこなしていった。ただ、少しでも亡くなった被害児童の気持ちが浮かばれればいいなぁ、と仄かに私情を挟んでいたのは秘密である。
 一連の経緯は地元新聞社の独自取材によって大々的に取り上げられ、小学校における深刻なイジメの実態や幼い命が犠牲になることが間違っていることを綿密な取材としっかりとした記事で問題提起する形で文章としてまとめられ、多くの小学校でイジメ問題に取り組むキッカケとして大きく活用されていくこととなる。

 高杉は刑事課の自分の席で、地元紙の紙面をじっと眺めていた。そこには先日の集合住宅における児童の自殺に端を発した一連の事件の流れを詳細に記されていた。
 自殺の背景にあったイジメの実態や責任者による無責任な隠蔽工作。その綿密な内容には記者の熱意や矜持が透けて見える思いだった。取材もしっかり行われ、捜査した内容と相違点は無かった。
 あの時、電話に出て正解だった。高杉は心の底からそう感じていた。
 突然の捜査打ち切りから暫くしてからあった、一本の着信。それは東京に強制送還された川島からであった。
 『自分達の代わりに川島へ連絡して、クラスの子ども達と話せる機会をどうにか作って欲しい』
 電話の向こう側から聞こえてくる声の裏に、以前ファミレスで聞いた五十嵐の仕事に対する信念が伝わってきた。そして、自分は捜査打ち切りで半分諦めかけていたが、東京に送り返された二人は今でも諦めてなかったのを強く思い知らされた。
 『こんな中途半端な幕引きでは誰も得はしない。汚れた土壌を入れ替えない限り、悲しみの連鎖は延々と続いていく。放置していたら必ず次の被害者が生まれてしまう。そうなる前に何とか食い止めたい。どうか力を貸してもらえないか』
 その提案に考えるまでもなかった。躊躇なく『分かりました』と即答した。今回の捜査では出過ぎた真似をしたとお小言を喰らっていたのでこれ以上深入りすると何らかの処分があるかも知れない、と重々承知している。でも、正しいと思った事を行うことがどうしてダメなのか。覚悟はもう決まっていた。これで警察を辞めることになっても、悔いはない。
 熱が冷めない内にと、その日の間に川島へ連絡した。相手も同じ思いだったらしく、快く了承してくれた。但し『今はマスコミや教育委員会の目で過敏になっているので、間を置いて』と条件をつけられた。生徒に接触する名目は“同級生が自殺したことに対する、生徒への心のケア”として、とアドバイスも添えてくれた。
 翌日、内密に学校を訪ねて川島の助言通り“数日後、生徒達に心理面のケアを目的とした授業を行いたい”旨を校長と教頭に提案した。これ以上は教育現場に外部の人間が立ち入ることに対して強い抵抗感を抱いていた責任者二人は当初渋っていたが『今回限り、教育現場に介入しない』と約束すると不承不承応じる運びとなった。その際には『一時間だけ』と制約がつけられ、教育委員会やマスコミには絶対洩らさないようにと何度も念押しされた。それはこちらも同じ思いだ。とっておきの策は直前まで知られたくないのはこちら側としても同じだから。
 自分は一度切れた糸を繋いだだけ。後は何もしていない。仕事としては手間ばかりかかる小さな仕事かも知れないが、仕事に大きいも小さいも関係ない。小さな仕事で山が動くキッカケが生まれるのを、教えてもらえたから。

 何度目を通したか覚えてないが、その記事を全て読み終えると自然に肩の力が抜けた。氏名や学校名は伏せられていたが、その日の朝に届いた新聞の紙面で我が子の亡くなった事件の成り行きを全て知る事となった。
 昨日の午後、何の前触れも無いまま大勢の同級生が家を訪問してきた。その手には花やお菓子などそれぞれが思い思いに何か持っていて、口々に「歩さんの仏壇に手を合わせてもいいですか?」と聞いてきた。思えば、あれから同級生もその保護者も、私の家に訪ねてくることは無かったなと今更ながら思い出した。
 拒む理由は無かったので招き入れると、みんな行儀よく順番をついて居間の片隅に置かれた小さな仏壇に向かって静かに手を合わせていった。中には仏壇の遺影に向けて「ゴメンね」と謝る子も居たのが印象に強く残った。最後の一人が終わると代表の一人が「突然押しかけてご迷惑をおかけして、すみませんでした」と大人顔負けの対応をしてくれたのは正直驚いた。この子達にどんな心境の変化があったのか不思議に思う事もあったけれど、亡くなった我が子に対して手を合わせてくれるその気持ちだけでも素直に嬉しかった。
 さらに後日、郵便受けに一通の茶封筒が入れられていた。宛名も何も記されていない封筒の中身を不審に思いながら恐る恐る開けてみると、何枚か束ねられた手紙が出てきた。便箋に直筆で書かれた手紙には、我が子に対して心ない言葉を浴びせていたことや金品や物品を強要していたことを赤裸々に告白し、今は自らの行為の愚かに気付いて後悔していると記されていた。手紙の最後には謝罪の言葉と共に『二度と同じ過ちを犯さない』と誓いの文言で締められていた。
 文面の構成から推察すれば、恐らく大人が無理矢理書かせた感じではない。一文字一文字に思いを込めて、文章も相手に自分の気持ちを伝えようと考えながら書いた痕跡も随所に見られた。でも、これに関してはどう扱えばいいか今の段階では分からなかった。『二度としない』と誓われても、誠意を率直に表して謝られても、死んだ我が子が戻ってくることは決して無いのだ。疑っている訳ではないけれど、まだ気持ちの整理がついていない以上は生理的に受け入れられなかった。
 どうするか迷った末に、仏前にそっと添えておくことにした。少しの間に華やかさが増した仏壇の片隅に隠れるように置かれた茶封筒を、愛する我が子はどう受け止めるのだろう。答えの分からないモヤモヤを残り香として漂わせながら、今日という日がいつものように過ぎていく。

 東京、警視庁。その片隅にひっそりと設置された捜査八課は相変わらず平常運転を続けていた。
 窓際部署とは言え、他の課では処理し切れない仕事が廻ってきて常に捜査八課に属する刑事達が対応に大忙しであった。それは課長の五十嵐もまた同じで、書類に目を通してハンコを押しながら部下の捜査状況に耳を傾ける、二人か三人に分身することが叶うならばそうしたいくらいに仕事に没頭していた。
 午後四時過ぎ。総務の方から速達便が届いたと一通の小包が届けられた。宛先は警視庁捜査八課・五十嵐課長。送り主は高杉。
 溜まった仕事を大方片付けて一段落したところで、今持ってきた小包の封を開ける。中に入っていたのは地方紙の新聞が一部だけ。日付は今日。恐らく今日購入してそのまま郵便局に駆け込んで送ってくれたのだろう。
 高杉と一緒に仕事したのがかなり昔のような記憶があるが、まだ一週間も経っていないなと思い直した。有給休暇を利用する荒業で、応援で携わった自殺案件の後始末をつけに行ったが、やはり有給休暇明けに刑事部長から呼び出しを受けた。
 『何をしていた』と重ねて追求されたが『思い切って地方へ出掛けて、羽を伸ばしてきました』とだけ押し通した。陥落しないと見た刑事部長の矛先が成宮に向かったが『暫く帰ってない実家に帰省していました』とだけ返事した。その場で成宮が『休暇中に何処で何をしていても構わないのでは?プライベートも一々申告しないといけないのでしょうか?』と真面目顔で切り替えした際には聞いているこっちがヒヤヒヤしたものだ。平時から冷静なのはいいが、相手を挑発するのも如何なものかと後で叱ったのも良い思い出だ。
 さて、本題に戻るとして……この朝刊に一体どんな意味があるのか。
 普段は入れてもらっている身なので今日は玄さんの分も含めてお茶を淹れて席に戻り、新聞を広げる。すると見開きで大きく記事が組まれ、その内容をじっくりと読み進める。余計な脚色の含まれてない、端的に事実を伝え問題提起する記事を引き込まれるように夢中で貪り読んだ。そして記事の内容に満足して読み終えた。
 「警部、こちらにハンコをお願い出来ますか?」
 ちょうどタイミング良く成宮が決裁を求めてきた。渡された書類を受け取ると共に、それまで目を通していた朝刊を差し出す。
 「今日の朝刊だ。高杉君から届けられた」
 それだけ伝えると何を言いたいかすぐに分かったらしく、引っ手繰るように新聞を受け取ってその場で立ちながら読み始めた。当該記事を見つけると途端に文字を追う速度が緩やかになり、全て確認し終えると静かに畳んで返してきた。
 「……これで解決、ですね」
 「あぁ。そうだな」
 偶然居合わせた現場の案件を、宙ぶらりんな状態で終わらせたくなかった。横槍が入って不本意な形で東京に送り返されて意地になったのもあるが、中途半端な形で捜査の終焉を迎えるのは許せなかった。決して好ましい方法ではなかったかも知れないが、お陰様で無事に自分達の目指すべき着地点に落とすことが出来たことに心底ホッとしていた。尤も、この事件が解決しても犠牲となった命は戻ってこない。でも、一定の解決が適ったことで全てが良い方向に向かっていけば、かけた労苦も報われる。
 窃盗や詐欺のように犯人を捕まえて、裁判にかけられて、その罪を何らかの形で償い被害者の傷が時間の経過と共に癒えて元通りになる案件は限りなく少ない。それでも自分達は日夜発生する事件に全力を傾ける。ちょっとでも良い結果になることを願って。
 「……さぁ、有給でたっぷり休んでいたから仕事はたんまり溜まっているぞ。一つ一つ片付けていくぞ」
 「はい」
 応える成宮の口元が僅かに上がっているのを五十嵐は見逃さなかった。他の部署からは“鉄の女”“感情を表に出さない氷の女王”なんてあだ名がついている部下も、最近になってようやく感情を少しずつ表に出すようになってきた。これもまた、良い傾向だ。
 「……私に何かありましたか?」
 「いや、何も」
 五十嵐の思わせぶりな反応に小首を傾げつつ、自分の席へと戻っていく成宮。頼りになる優秀な部下の遠ざかる背中を温かい目で見送る五十嵐の表情は、捜査の時とは打って変わって穏やかな顔をしていた。

 この町を大きく揺るがした、小学生による集合住宅からの飛び降り自殺とその背景にあった悲惨な実情という非常に痛ましい事件の傷も時の経過と共に少しずつ癒され、人々の記憶から薄れ始めた夏の終わり頃。高杉は刑事課長に突然呼び出しを受けた。それも刑事課でなく、場所を移して二人きりで、という条件付き。内容は一切告げられていない。
 業務に関する話や伝達事項であればその場で直接行うのが普通であるのに、わざわざ小会議室に呼ばれて二人きりで話し合いとなると、否が応でも動揺する。先輩からも「何やらかしたんだ?」と軽口を叩かれる始末。最近は刑事課の仕事にも慣れてきて、大きなミスや失態は犯していない(小さな凡ミスはしょっちゅうやっているので胸は張れないが……)ので身に覚えは無い。あるとすれば……例の事件で色々と出過ぎた真似をやらかしたことか。
 東京の警視庁で辣腕を振るう凄い刑事と一緒に仕事をして触発された影響からか、事件関係者に対して相手の知らない所で電話番号を入手した上で連絡したり、捜査方針に対して悪態をついたり、捜査の枠を超えた出過ぎた行為を行ったり。……思い返せば色々と身に覚えのあることが山程あるではないか。
 しかし、あの時の行為について悪いことをしたと思ったことは一度も無い。越権行為だったかも知れないが、事件解決に向けて仕方なく犯した行為だった。なので処罰も甘んじて受けるつもりだし、その覚悟も出来ている。覚悟が決まっているのに直前になって怖気づく辺り、まだまだ警察官としてあるまじき姿かも知れないが。
 指定された時間より少し早めに小会議室に入ると、まだ誰も居ないことに内心ホッとした。これで自分が後だったら気まずくなって余計に心理的圧力がかかるところだ。無人の会議室で何をするでもなく呆然と立っているのもアレなので、とりあえず椅子に座って課長が来るのを静かに待つ。
 五分くらい待っていると、不意に扉が開いた。現れたのは課長だった。座っていては失礼だと反射的に椅子から立ち上がる。
 「おう、早かったな」
 課長は少し驚いた顔をしていたが、高杉の目から見る限り機嫌は悪くないように映った。尤も、課長は喜怒哀楽をあまり表に出さない人なので油断は禁物だが。
 手にしていたのは缶コーヒーが二本。書類や封筒の類は一切手に持っていない。それだけで少し気持ちが和らいだ。もし仮に上から処分があるとすれば書面という形で伝達されるので、それが無いのは一つの安心材料だ。
 「まぁ立ち話もアレだ、とりあえず座ってくれ」
 言われて高杉はそれまで自分が座っていた椅子に腰かける。すると課長は自分の椅子から程近い位置にある椅子を引き寄せ、高杉と正対する形で座った。
 ……こういう場合って机を挟んで向かい合わせが定石なんじゃないですか、と自分の中のイメージと異なったので戸惑ったが、それもそれで距離が開いているだけ気分が重くなる要因になるので近い方が良いですけど。
 しかし、内密に二人きりで話すというのは一体どういう内容の話なのだろうか。
 刑事課から別の部署への異動の内示。外部からの圧力や上層部の印象の悪さから考えられなくもない。
 暗に辞職を書かされる。これも先述した理由から考えられるが、こんな若造の首を飛ばすのであれば別に懲戒解雇であっさり済ませても不思議でないか。いや、逆に経験が浅い刑事が突然辞めさせられるのも不自然だから辞表を出せということか。
 それとも処分を予め伝えることで心の準備を促す目的とか。話としては有り得なくもない。
 色々な可能性が脳内でグルグルと巡る中、いきなり課長から手が伸びてきた。
 「ほら、これでも飲め」
 差し出されたのは先程手にしていた缶コーヒーの一本。
 「頂きます」
 恐縮しながら受け取ると、課長はこちらに構うことなくプルタブを開けて一口飲む。まぁ二本あるなら一本は自分用に買ってきてくれたのかな、と考えなくもないけれど……早く本題に入って欲しいと思ったのは自分の我が儘だろうか。
 自分も課長と同じように缶コーヒーのプルタブを引いて、一口啜る。ほんのり温かいから買ってからまだ間もないのだろう。香ばしさと苦味が口の中で合わさり、少しだけ気持ちが落ち着く。
 部屋の中にコーヒーの香りが仄かに漂う中、課長は何の前触れもなく切り出した。
 「高杉。お前、東京に行く気は無いか?」
 いきなり打ち明けられた内容に思わず目が点になった。
 東京?どうして?課長の言っていることが理解出来なかった。
 地方の警察官は主に現地で採用され、道府県内の管轄する警察署内で人事異動が行われて転勤する場合もあるけれど、基本的に同じ管轄の中で行われるので他所の管轄に人事異動するケースは滅多にない。例外なのは言わばキャリアの警察官が警察本部に転属となるパターンで、都道府県の枠を超えて全国各地に転勤するケースも多々見られる。しかし、高杉のように現地で採用されたノンキャリアの警官に関しては定年まで同じ管轄で過ごすということも珍しくない。
 混乱するのも想定済みだったらしく、課長は丁寧な口調で説明を始めた。
 「実はな、先日警視庁の五十嵐さんから電話があってな。『お宅の高杉君を是非我が捜査八課に迎え入れたい』と申し出があったんだ。私の一存では決められないので本人の意思を確認してから折り返し連絡する、とだけ先方には伝えたが……どうする?」
 五十嵐さんが、直接電話をかけてくれて、しかも『迎え入れたい』って……それってつまり、期待されている証拠ってこと?端的に言えば引き抜きですよね?
 思わぬ展開に頭がついていけてないが必死に冷静になって考えようと苦心して、課長に問い返す。
 「でも、課長はどうお考えなのですか?」
 「刑事課自体、人数が足りてない状態でお前を手放すには惜しい人材だと考えているが、こんな話は滅多にないからな。こちらとしては本人の意思に任せたいと思っている」
 課長はあっさりとした感じで話してくれたが、その中でも自分を評価してくれていることが端々に滲んでいることが率直に嬉しかった。さらに課長は付け加える。
 「それに……先日の一件で上層部は高杉の行動力についてあまり良い評価と受け止めてないらしい。地道に頑張ればいつか挽回出来ると思うが、東京に出て五十嵐の下で働けばもっと羽ばたけるのじゃないか、と見ている。試してみる価値は十分にあると思うぞ」
 付け加えられたのは上の反応だった。やはり出過ぎた真似の代償は大きかったみたいで、好意的に見られてないことが課長の話から浮き彫りとなった。末端の捜査員の評価など簡単に覆ると思うが、一度ついたイメージを払拭するのは時間がかかるに違いない。それを考えると心機一転、新天地で頑張った方がまだ芽があるということを暗に示唆している。
 そして課長は全て自分の意志を尊重する姿勢を強調していた。どちらを選んでも構わない。もし残るのであればこれまで通り励んでいって欲しい。そういうメッセージもヒシヒシと伝わってくる。
 ボールはこちらにある。自由に選べるからこそ、真剣に悩んだ。今の仕事も悪くない、と思っている。面倒見の良い先輩、気の合う仲間、静かに成長を見守ってくれる上司。こんな雰囲気の良い職場はなかなか巡り合えないだろう。
 東京という不慣れな土地に移ることに不安もある。知人も友人も家族も側に居ない離れた場所で、今まで通り仕事を続けていけるだろうか。五十嵐や成宮はあの時みたいに自分を快く引き受けてくれるだろうか。先の見えない所へ飛び込めるだけの力を、自分はあるのだろうか。次から次へと湧いてくる不安や迷い。でも―――
 「お受けします。行かせて下さい」
 高杉は課長の目を見据え、はっきりとした言葉で自分の意志を表明した。
 迷いや不安よりも、チャレンジしたい気持ちが上回った。五十嵐が期待してくれているから自分を呼んでくれたのだ。その気持ちを前向きに捉え、もっと飛躍出来る可能性を信じて未知なる世界に飛び込む決意を決めた。
 「……そうか」
 高杉の反応も予想していたらしく、課長は短く応じるに留めた。その表情は嬉しさ半面、寂しさ半面といった感じか。
 課長もまた自分の可能性を心から信じていた一人らしく、英断を尊重すると共に頼りになる部下を失うことに対して残念だと思う気持ちが素直に表れていた。それがまた嬉しく、そして期待に添えないことに申し訳なさを感じた。
 それも一瞬のことで、缶コーヒーをグイッと一気に呷って晴れ晴れとした表情で告げた。
 「分かった。先方にはそう伝えておく。あとは手続きなどもあるから正式な申し入れは一ヵ月後くらいになると思っていてくれ」
 「了解しました。残り短い期間になりますが、気を抜かず職務に邁進していきます」
 ハキハキとした口調で答えると、課長は満足そうな表情を浮かべて頷いた。まだ別れの時まで間はあるけれど、それまで今まで通り与えられた仕事に全力で取り組むことこそ恩返しになると高杉は考えていた。
 高杉は先に立ち上がり「失礼します」とだけ告げて会議室を後にした。パタパタと廊下を駆けていく足音を耳にしながら、課長は一人で一抹の寂しさを手元に残った空の缶を弄ぶことで紛らわそうとしていた。子飼いの刑事が巣立つのは喜ばしいことながら、育ててきた身としては離れて欲しくないと微かに願っていたのは勝手な親心なのかも知れない。

 夏の名残である残暑もようやく落ち着いて、秋の気配が少しずつ漂い始めた頃。飛び降り自殺のあった集合住宅の現場に、五十嵐と成宮の姿があった。かなり涼しくなってきたお陰で、日向で太陽光を浴びても汗が滝のように出るようなことはもう無い。
 あれから数ヶ月経って、辺りはすっかり元の雰囲気を取り戻していた。車を停めて集合住宅の敷地を歩く二人は少し前の出来事を懐かしみながら歩いてく。その手には大きな花束が抱えられていた。
 「すっかり秋の風情だな」
 五十嵐が独り言のように洩らすが、成宮から相槌は返ってこない。成宮も成宮で色々と思いを馳せているのだろう。
 やがて目指していた場所に辿りつくと、静かに花束を草むらの片隅にそっと立てかけた。缶ジュースや小さな花束が置かれたその場所は被害児童が飛び降りた現場のすぐ近くで、五十嵐と成宮も静かに手を合わせて故人の冥福を祈った。
 あの痛ましい状況の跡はすっかり消え失せ、献花されていることだけが事件のあったことを思い起こさせる基点として残されていた。未だに花を添える人が絶えないということは、それだけ事件が風化してない証でもある。
 それから二人は集合住宅の中に入り、遺族の元を訪ねた。今回は前もって訪問することを伝えてあるので、幸恵が二人を出迎えてくれた。捜査の一環ではなく、あくまで私的な訪問であった。
 五十嵐と成宮は居間に通されると、部屋の片隅にある仏壇に目が留まった。両脇には小さな花が添えられており、色紙も供えられていた。
 「同級生の子が、夏休みの間は毎日欠かさず誰かが来てくれてお参りしてくれました」
 幸恵は温もりのある声で説明してくれた。
 同級生は仏壇に手を合わせながら、色々と語りかけてくれたらしい。最近の学校であった出来事だったり、自分が何か自慢出来るようなことを報告したり、逆に失敗したことを語りかけたり。返事は無いけれど、話すことで何か意思の疎通が出来るのではないかと期待して言葉をかけていた。その光景がとても微笑ましい、と幸恵は語ってくれた。
 その話を聞いて五十嵐は心の底から、あの授業をやって本当に良かったと実感した。同級生が死んだことから目を背け、元から居ない存在のように扱うことはどうしても避けたかった。かと言って腫れ物扱いされず、静かに冥福を祈るような優しい子になって欲しい。イジメの歪んだ環境を変えると共に、他人の痛みの分かる子に育って欲しいというもう一つの目的を果たせたことに満足していた。
 二人は仏壇に手を合わせると、長居せず茶菓の持て成しも固辞してすぐに部屋を後にした。もう、自分達が居なくても大丈夫。あの子達は自分達の足でしっかりと歩いていける。どんな困難が待ち構えていても乗り越えるだけの力は身についていた。
 屋外に出てふと空を見上げると、雲一つない快晴であった。いつまでも透けるような青空が延々と広がり、心もウキウキと躍り出しそうなくらいに綺麗な空だった。

 それから一週間後。東京・警視庁。
 キョロキョロと周囲を見回しながら廊下を進む、一人の青年の姿があった。今日から警視庁に配属となった警察官で、それまで務めていた警察署とは規模も人数も全く異なる雰囲気にまだ慣れてない様子らしく、緊張からか肩が幾分硬くなっていた。
 こっちで合ってるのかな……?何回か職員に確認しながら歩いてきたけれど、そんな場所があるような感覚が一切無いのだけれど。不安が渦巻く心を押し殺しながら、ゆっくりとした歩調で先を進んでいく。まるで摩天楼みたいだ。歩いている内に方向感覚が麻痺しそう。
 警視庁の入り口を通って十五分。ようやく目的の場所を目視で確認することが出来た。迷路のゴールをようやく発見した気分で内心ホッとする。
 捜査八課と書かれたプレートの部屋。今日から、ここが自分の職場となる。
 扉の前で大きく深呼吸をして、決意を固めてドアノブを捻って扉を開ける―――コンクリートが剥き出しとなり、窓は天井に近い高い位置に幾つかあるだけで空間が異様に広い、まるで倉庫みたいな部屋だった。
 そこは机で作られた島が幾つか点在する、二十人弱が居る大きな間取りの部屋みたいだ。入り口の脇には給湯室も設けられていて、一応は捜査員が仕事する場所だと辛うじて分かるくらい。
 中央の通路の先には大きなデスクが構えられ、そこには見慣れた顔の人物が煙草を咥えて座っていた。
 「おぉ、高杉君!!」
 相手はこちらに気付いて大きな声で呼んでくれた。それに対して高杉はペコリとお辞儀する。それと同時に部屋の中に居た人々が一斉にこちらを向いたので、視線を浴びて注目されることに慣れてない自分は小さく肩を丸めた。
 その相手は手招きしてこちらに来るよう促していたので、それに応じてスルスルと中央の通路を進んでいく。予め荷物は宅急便で送ってあったので、手にしていたのは地元の名産品である土産が入った紙袋くらいだ。
 居た堪れない気分で相手のデスクの前に立つと、大きく息を吸い込んで挨拶する。
 「本日より警視庁捜査八課に配属されました高杉巡査部長です。色々と勉強不足な部分はあると思いますが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
 自分でもハキハキと喋れたと少しだけ満足すると、相手も思わせぶりな笑みを浮かべて応えてきた。
 「ようこそ、高杉君。改めて自己紹介させてもらう。私が課長の五十嵐だ。一応階級は警視だが、みんなから“警部”と呼ばれているのでよろしく頼む。警視庁内で“厄介者の集まり”とか“扱いづらい人間の宝庫”と陰口を叩かれる窓際部署へ志願してきた英断に感謝する」
 五十嵐が自ら“窓際部署”と断言する辺り、相当な場所なのだろうなと覚悟はしていたけれど、一見しても以前まで所属していた刑事課とあまり変わりがないと感じた。
 すると五十嵐の方から右手を差し出してきた。自分も応じて右手を差し出すと、五十嵐はグッと自分の手を力強く掴んで握手した。その人並み外れた強さに痛みを感じると同時に、手の温もりを強く実感させられた。
 「高杉君の場所は成宮の隣だ。分からないことがあったら成宮に聞いてくれ」
 五十嵐が手で指し示す方向に自分が前もって発送しておいたダンボールが置かれたデスクが目に入った。その横では成宮が一心不乱にノートパソコンのキーボードを叩いて作業に打ち込んでいた。
 示されたデスクの前に立つと、机の上に名札が置かれていた。『警視庁・捜査八課 高杉』と刻まれたネームプレートを目の前にして、ようやく自分がこの場所の一員になったんだという実感が込み上げてきた。
 作業に打ち込んでいる途中で邪魔するのもどうかと思ったが、面識があるとは言え今日からお世話になる身である以上は隣の成宮に挨拶することにした。
 「成宮さん」
 声をかけると作業を中断して、成宮がこちらを向く。
 「今日からお世話になります、高杉です。色々と分からないこともあるかと思いますが、よろしくお願いします」
 「こちらこそ、よろしくお願いします。……あまり愛想が良くない方なので不機嫌かなと思うこともあるかと思いますけど、気にせず声をかけて下さいね」
 そう言うと再び画面に目を戻してキーボードを一心不乱に叩き始めた。どうやら自分の外見について自覚しているらしく、アドバイスを添えてくれた。
 まだまだ脆い信念かも知れないが、いつかは大樹のように揺るがず立派な生き様になればいいな、と淡い期待を夢見て、まずは荷物の整理整頓を始めることにした。
 これからどうなるか分からないけれど、とりあえず振り回されて揉まれながら仕事をやっていくしかない。事件に小さいも大きいも無い。その信念を一緒にする仲間と共に、波乱万丈に満ちた刑事生活が今から始まろうとしていた―――



 (了)


 五十嵐と成宮のコンビは、サイトで絶賛更新凍結中の『SEA☆SKY★STAR RETAKE』で登場するキャラクターでした。実際五十嵐に関しては先述した作品に登場しています。
 自分の中ではまったキャラクターで「いつかどこかで使えないか」と考えていた時に、大津で中学三年生の男子生徒がいじめを苦に自殺した事件が世間で話題になり、そこから作品の元が作られた……という感じです。
 ちまちまとノートに書き進めていましたが、途中途中で山場があってその度に執筆を中断→気が向いて再開を繰り返しました。なので初期と終盤でかなり作風に差が生じたため、原本をデジタル化するに伴って大幅に書き直した、という逸話があります。
 五十嵐のイメージとしては世界的怪盗の三代目が主人公のアニメ作品で登場する刑事、成宮は……モチーフにした人物はいませんが眼鏡をかけたクールビューティーな女性をイメージです。高杉に関しては漫画などでよく出てくる“普通な主人公”な感じです。

 原稿用紙250枚以上という制約は、地味に苦しみました。〆切も迫る中で文章量が届きそうにないのでどうやって増やそうか、と追い込みでは二重の苦しみを味わいました。
 しかし、出来に関しては自分でも納得の内容でした。五十嵐も成宮も自分の考えていた以上に動いてくれて、その点では助かりました。

 五十嵐・成宮を題材にした作品は、まだ幾つか「書いてみたい」というストックがあります。もし機会があれば、またこの二人を主人公にした作品を書いていきたいと思っています。

※ 『第十二回小説現代長編新人賞』落選作品

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