記憶している最古の出来事は、大神会長との面会の場面だ。
デスクの奥にある大きなガラスの向こう側には無数のビル郡が眼下に広がっていた。調度品も置かれていないためか通された一室は思っていたよりも広く感じられた。
秘書もボディーガードもおらず、広大な部屋に一人で5分程度待たされただろうか。自分がこの部屋に入ってきた際に通った扉が開けられ、ライトブラウンのスーツに身を包んだ男が入ってきた。毛髪は全て白く染まり、己の身長と比べると一回り程小さく、腹こそ若干前に出ているものの顔の輪郭はスッと引き締まっている。
そして何よりも、眼光が鋭く、また強い。これまで出逢ってきた人物とは比べ物にならないくらいだ。
彼こそ一代で世界五指に数えられる大企業にまでのし上がった大神グループ会長、大神美智男本人であった。
「貴様の名前など興味もない」
開口一番に言い放たれた言葉は世間の常識に照らし合わせれば間違いなく非礼と捉えられる。
だが大神会長としては至極当然と考えている節があった。今対面している人物に今後面会する機会があるかわからない人間の名前など、覚えても無駄なのだから。大体次に会える程度の人間ならば、このような無礼な言葉を投げつけるはずがない。
「任務は一つだけだ。逃げ出した“実験生物(モルモット)”を捕まえろ」
それだけ言ってしまうと大神会長はスタスタと歩き出して部屋から出て行ってしまった。こちらは声を発するタイミングさえ与えて貰えなかった。
だが全世界に何十万人と従事している大神グループの人の中で、会長と会って直接声をかけてもらえる人がどれ程いるだろうか。幹部でさえ年に数回しか会えない人もいることを考えれば、この対面は破格の待遇に違いなかった。
たった数分の面会だけが、今もなお記憶の片隅に残されている。そのことを誇りに思ったこともないし、人に話そうとも思わない。
自分は今を生きている。過去も未来も興味がない。猟犬は飼い主の思考に似るのかも知れない。
【 猟犬 】
あれからどれ程の月日が経過したのか定かではない。あの日与えられた使命を全うすることだけを考えて生きてきたから、他のことは気にもならない。
名前は『灰原』と名乗った。同じ立場の人間達は皆揃って上も下も名前があるが、下の名前などあってもなくても支障はない。
代わりに階級が名前の後ろにくっつくことがよくある。実働部隊の隊長という“役割”なので「隊長」と。実際この部隊の総責任者は灰原本人なのだが、その事実を知っているのは限られた人数でしかない。
あの時告げられた“モルモット”を捕まえるための私兵集団―――最も、日本国内で自分の利益のために働く軍隊を一企業が保有していること自体問題があるので、公には『政府直轄の秘密機関・サイボーグ対策室』と名乗っているが。呼び名はCCR。
肩書きは実にありがたいものである。街中で銃をぶっ放しても、裏で取引して痕跡すら残さず消してしまう。警察も自衛隊もオオガミと口裏を合わせているのでマスコミに漏洩する心配もない。CCRの名前自体が都市伝説と化していた。
銃火器の類はオオガミの軍事関係会社から融通(譲るというよりも実践試験の色合いが強い)してもらえ、常に最新鋭の武器を手にすることが出来る。
万が一“モルモット”との戦闘において被害が生じた場合でも、世界で名前を知らぬ者などいないオオガミの保有する財力の前では文句など出るはずがない。口封じも込めて景気良く金を積めば問題はすぐに解決する。
……そうそう、オオガミの研究所から逃げ出したのは本当のモルモットではなく、人間である。だが、普通の人間ではない。
アンドロイドだ。
人工的に造られた人間を、オオガミの研究所で様々な実験の材料として研究を重ねていた。主に対戦争用に。
世界で凌ぎを削っていく上で欠かせないのが戦力である。表の社会で国と国が争うように、裏社会で会社と会社が互いの力をぶつけて戦っているのだ。その戦争が時にビジネスとなり、そして新たな勢力との結びつきに関係してくる。
銃火器や戦車などの類のみならず、超能力や超人的な能力を持ち合わせた人間を、自らの手で生産していたのだ。
人道的見地から考えれば到底許されないことをしている。人間は意思を持ち、感情を有する生き物だ。それぞれが一つしかない命を持っている。
だから逃げ出した。自らが人間として生きるために。
しかしオオガミとしては由々しき事態だ。オオガミという企業体が戦っていく上で欠かせない戦力が逃げ出したばかりか、牙を剥いて襲ってくるのだ。一刻も早く始末しなければならない。
そのために精鋭のサイボーグを日本国内に配置。研究所が日夜行ってきた技術の粋を集めた結晶がどこまで役に立つか確かめる意味合いも含まれているものの、猟犬として野に放たれた。
CCRの部長として君臨している黒駒は、単なるお飾りにすぎない。戦闘能力も一般人並で調整役として優れているため灰原の上に(形式上では)立っている。
そして灰原を頭にして少数精鋭のエージェントが所属している。無論幾ら優秀であろうと、生き抜くために必死な脱走者によって倒されることも少なくない。投入された当日に命を落とすこともしばしば。
今日も狩る者として脱走者を追う日々は続く。そんな毎日に過去を気にしている余裕などない。
オオガミグループは数多の子会社を擁している。その中でも宣伝広告塔的ポジションにあるのがプロ野球球団である大神ホッパーズだ。
前球団ドリルモグラーズの親会社であるドリルトーイが経営不振に陥った折、買収したのが大神会長だった。球団買収当時は万年最下位のお荷物球団にも関わらず破竹の勢いで快進撃を続け、見事悲願の日本一を勝ち取っている。
その後は元の鞘に戻って成績不振を続けていたが、時々それまでとは打って変わって常勝街道を走る、なんとも不思議なチームであった。そんなチームだから利益を叩きだせるはずがなく、オオガミグループの中でも不良債権に近い状態だ。
だが、降って湧いたように脱走アンドロイドが球団内に潜入したという情報を掴んだ。
早速情報を精査した上で、こちらからもプロ野球選手に紛れて捜査することにした。潜入捜査を行うのは貴重な情報を獲得してきて、CCRの中でも身体能力がずば抜けて高いヤツを選んだ。
潜入捜査を始めてから数ヶ月は何の動きもなく、一種のガセ情報に思えた。
が、オープン戦になってホッパーズの選手が乗ったバスが突如爆発。これにより捜査継続ならびにさらなる調査を行うことを決定。
間違いなく脱走アンドロイドが関わっている。灰原の勘がそう囁いていた。
優秀な部下は何人もいる。その中でも際立って優れているのが白瀬芙喜子だ。
身体能力こそ現在ホッパーズに潜入捜査で入っているヤツに劣るが、その他の部類においては頭一つ抜けた存在だ。感情に流されることなく事実を客観的に分析することが出来て、尚且つ実践でも役に立つ。
そして頼もしいことに、彼女は既にCCRの実態を独力で見抜いたのだ。政府の後ろ盾など皆無、オオガミが生み出したアンドロイドを捕まえるための組織だと。この情報を知っているのはオオガミ幹部の一部と灰原、それに黒駒しかいない。
CCRの構成員にさえ見せていない真実を知った後でも、彼女は淡々と任務を遂行していた。正しくエージェントの鑑と言ってもいい。
……それに比べて、現在ホッパーズに出向している彼は能力こそ優秀だが、如何せん性格が相応しくない。
あまりにも人間的なのだ。喜怒哀楽が表に出やすく、そして感情に流されやすい。時として冷酷にならなければならないにも関わらず、彼にはそれが出来ない。
だからこそ白瀬をサポートに回して万全の態勢を敷いているのだが。今のところ野球選手として球団に上手く溶け込めている様なので問題はなさそうだが。
実力こそ買っているが、正直彼が気に入らない。灰原の中の評価としてはその程度である。
優秀なオオガミの狩猟犬として生きている灰原であったが理解できないこともある。
彼はどうも周囲の人を惹きつける魅力を持ち合わせているらしく、白瀬も彼のことを高く買っている節がある。
何故だ?
まるで物語の主人公のように振舞い、論理的に説明できない行動を取ったとしても逆に良い結果になることも多々存在した。組織に生きる人間としてはあるまじき行為だ。
我々はあくまでオオガミの犬であり、忠実な駒である。駒が感情を持ってはいけないし、己が立場を弁える必要がある。
わからない。到底わかるはずがない。理解の範疇を超えたことは考えないことにした。
野球にのめり込んでいる部分はあるが、本来の仕事に関してはしっかりとしていた。
ホッパーズ内部に脱走アンドロイドの拠り所として名高い『サイボーグ同盟』の一員と思しき人物が潜伏している可能性があること、プロ野球選手全選手を対象にした抜き打ち検査においてホッパーズを貶める罠が潜んでいたこと、その他にも脱走アンドロイド摘発に駆り出された際にも目覚しい活躍を遂げていた。
身体能力は元々高い上に適応能力もあるため、スポーツである野球への応用も比較的スムーズに行えた。のみならず射撃の腕もCCRの中でもトップクラスなので、実践においては灰原の次に強いと噂されていた。
さらには直感に優れていて事件を嗅ぎ取る能力も長けている。この手のタイプに属する人間はいないので貴重な存在だ。
評価を変えようと思った矢先、突如として事件は勃発する。
サイボーグ同盟への情報漏洩の疑いが浮上。その犯人として浮かび上がったのが、彼だった。
支局が襲撃される事件が頻発していた。
活動していく上で幾つかの拠点を設置しており、その場所が攻撃の対象になることもある。そのため名義だけ借りて実際には使っていない場所も支局として含んでいた。
にも関わらず、ここ数回に渡って受けた襲撃は全てダミーではなく本物の支局が襲撃を受けていた。あまりにも出来すぎている事実に本部としても危機感を抱いた。
そこで撒き餌として偽りの情報を個別に捜査員に流した。もしも情報が漏れていたら、攻撃されたダミーの情報を割り振った相手が犯人ということになる。
実際に予想していた通り、偽りの情報を元にして襲撃を受けた。その情報を受け取ったのは、紛れも無く彼だったのだ。
呼び出された彼はかなり動揺していた。彼が見せた反応から確信した。『コイツはシロだ』と。
だが生半可な言い訳を述べ立てて「はいそうですか」と簡単に許す訳にもいかない。実際に情報は相手に漏れて、こちらは少なからず損害を被っている。もしも納得できるような答えがない場合には問答無用で斬り捨てる。
黒駒の口から今回の経緯を説明した。最初は反論していたが言葉も出てこなくなった。
正念場。このまま何も言えない、または濡れ衣だと喚き立てるようならば、それまでの男。
さて、彼はどう出る。
「―――ひとつ、思い当たることがあります」
長い沈黙を破ったのは彼だ。
「でも、これは俺に任せて下さい」
組織の裏切りを疑われている状態でありながら『信じろ』とは。
だが一度言葉を口にした以上はそれ相応の覚悟があると考えられる。その証拠に真っ直ぐ一点を見つめている瞳に迷いがない。
任せるに値する。そう判断した。
組織を危ぶませた責任を口にする黒駒を差し置いて、彼に全てを託した。ハッタリなのか本当のことなのか判断するのは後でも出来る。
実際、あの日以来襲撃はぱったり途絶えた。
周囲から疑惑の視線を浴びて混乱の渦にあった中で『思い当たること』に辿り着けるのは評価できる。
そして事実として情報が外に漏れ出ている疑いは消え去ったのだ。やはり彼は優秀だ。やるべきことはわかっている。
今思い返してみると、彼は自らの手で命を殺めていた経験がない。
このCCRはオオガミの研究所から脱走したアンドロイドを始末することが目的の組織。言わば殺戮集団なのだが、表向きの仮面の性質上、悪い違法サイボーグを逮捕することが目的と捉えているエージェントも少なくない。
“殺すことを目的”と“捕まえるのが目的”では考え方も大きく異なる。善良な市民のために法を逸脱した悪者を退治する、という程度にしか考えていなければ当然やり方も違ってくる。
だから甘いのだ。自分が正義のヒーローだと思っているから。
しかし、彼は知らないかも知れないが追いかけているのは悪者ではないのだ。生を受けた場所のために、生きるため必死になっている人間だ。
真実を知った場合に彼はどのような行動を取るだろうか。
答えは簡潔だ。間違いなく、彼ならば組織を裏切る。
季節は晩秋に差し掛かり、冬がそう遠いものではないと薄々感じられる。
巷ではプロ野球の公式戦が面白いと騒いでいるが関係ない。興味も湧かない。
彼の身辺がおかしい、と報告が上がってきた。
今年夏頃にオオガミの地下工場―――アンドロイド生産工場―――へ単身侵入した、と大神本社経由で情報が入っている。恐らく脱走アンドロイドを探す途中で誤って侵入してしまったものと捉えている。
だから彼にはワンマンプレイに対する口頭注意だけに留めた。あまり深く追求するとパンドラの箱を開けてしまいかねない。
その後はホッパーズの一員として大活躍を遂げ、脱走者狩りの方でも功績を重ねてきた。順風満帆な生活を送っているのに何の不満があるというのだ。
極秘に調査を指示した。今回に限って白瀬は起用しない。アイツは彼に肩入れしていて相応しくない。性格から事実を捻じ曲げて報告することはないと思われるが、それでも用心するに限る。
調査結果が出るまで予想していた時間よりもかかったが、それ以上に驚かされたのはその内容だった。
『彼は組織から抜ける可能性が高い』
これは想定される事実。あの工場を目の当たりにすれば何か勘付いてもおかしくはない。
だが問題は次の一文にある。
『根拠は不明であるが、交際している女が関与している可能性がある』
女。
アイツは連れ添った女のために組織を抜けるのか。
背信行為が何を意味するか。粛清、即ち命を狙われるのだぞ。
くだらない。実にくだらない理由だ。
そんなことのためにアイツは命を賭けるのか。全くもって理解できない。
後日、白瀬から報告が上がってきた。
『彼はこの組織の実態を把握していました。そして、その上でマスコミに対して組織のことを通報する、と』
オオガミがやってきたことを弾劾すると共にCCRという組織の抹殺を図る。そのためにメディアに訴えるというのは実に有効な手段だ。
世界的大企業として成長したオオガミの一大スキャンダルだ。事実の信憑性が疑わしい情報を掲載する三流週刊誌はおろか、ワイドショーも飛びつきそうなネタだ。
彼が話した以上、本気でマスコミに情報を流すだろう。オオガミとCCRを潰すために。
それ以上の報告は何も聞かなかった。例え聞いたとしても意味の無い情報で、既に方向は決まっている。
裏切り者は始末する。彼は生かしておく訳にはいかない。
彼からも連絡があった。『港の倉庫裏にて待つ』と。
律儀なヤツだ。組織を抜けるに当たって上司に連絡してくるとは。自らの命取りになるかも知れないのに。
そして酔狂にも指定された場所に顔を出した。罠が仕掛けてあるかも知れないが、彼は卑怯な手を使わないと信じきっていた。
何故組織を抜けるのか大体のところは把握している。彼もまたCCRの実像を知ってしまったのだ。その性格から偽りの組織とわかった段階で抜けることは目に見えていた。
人間味が強いので己の正義感を信じて組織に属していた面もある。世のため人のために、と心の底から信じていたに違いない。
だが彼は知らない。正義など立ち位置でコロコロ変わることを。
「一つ聞きたい」
珍しく質問が口から滑り出た。何度考えてもわからなかったことがある。
「どうして白瀬を始末しなかった?」
直接会って話をした。ならば相手を襲うチャンスはあったはずだ。
これから組織を抜け出す以上は追われる立場になることもわかっている。その場で一人でも優秀な捜査員を封じておいた方が、後々のことを考えれば得策だろう。
だが、彼はそれをしなかった。生かしてそのまま帰っていった。
「そういう気になれなかったからです」
やはり聞いても無駄だった。理解できない。
気になる、気にならないの話ではない。生きるか死ぬかの問題なのだ。
『やはり彼はこうした仕事には向いていない』
はっきり告げると、彼はこちらに構うことなく勝手に話し始めた。
機密保持のためには少人数の方が向いている。現場に出てくることのない部長では凄腕揃いの捜査員をまとめることは困難。そうなると捜査員の動向を把握するためには現場にリーダーを置かなければならない。ならば現場を総括しているリーダーを倒せば簡単に組織は麻痺する。
情報を客観的に分析、短時間で必要な答えを導き出せる回転力、そして決断力と行動力。
どれを取っても一流のエージェントではないか。前言撤回、この場で失ってしまうにはとても惜しい。
あとは言葉などいらなかった。銃を抜き、鞘を放ち、お互いの命を賭してぶつかり合った。
何故だ。何故倒れない。戦闘能力においては圧倒的優位に立っているはずなのに。
当時のオオガミの技術を結集して生まれたのが己自身だ。万が一負けるようなことがあれば、それはオオガミの名を汚すことになる。
与えられた肉体も、施された技術も、今手にしている武器も、全てが全て彼を上回っている。
それなのに互角、いや、若干押されつつある。
この強さは一体何なのか。何故ここまで対等以上に戦えるのだ。
―――嗚呼、そうか。
やっと気付いた。彼の力の源を。
ようやく理解出来た。統計上の数字を上回る、爆発的な力がどこから来るのか。
彼は誰よりも人間臭い。それ故に、逆境を跳ね返す強烈な力を秘めているのだ。
守るべき対象がいる。生きることへの執着が強いことは、土壇場で自らの力の飛躍的に昇華させる。
徹底的に感情を捨ててきた俺には、そんなものなどない。
そして彼を心の底で蔑んでいた気持ちも本当は違っていたのだと悟った。
―――俺は嫉妬していたのだ。自ら強烈な光を発して、何者にも縛られず自由に飛んでいる姿に、憧れを感じていたのだ。
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灰原が亡くなった一報を大神会長に伝えたが、予想通り目立った反応を示さなかった。
朝一番に会長室を訪れると、眼前に広がるビル郡を黙って見下ろしていた。そのまま報告を受けた。
その時の表情は報告者にはわからなかった。ずっとガラスの方を向いていて表情を伺うことが出来なかったのだ。だが会長は何とも思っていないのだろうと推察できた。
オオガミグループは今や世界を代表する大企業にまで成長した。数え切れない程の子会社・傘下企業を抱え、大企業同士のせめぎ合いを仕掛け仕掛けられ、一般人には理解できない範疇にあるのだ。
こうした生活を送っていれば、例え自分のグループの人間が命を落としても感慨が湧かないのは当然のことかも知れない。冷淡と思われるかも知れないが、企業のトップとして備わるべき素質の一つなのだ。
報告者は言いたいことを言い終えると即座に部屋から退室した。大神会長は無駄を嫌う。用事もないのに留まれば要らぬ火の粉を被ることになるから。
頬に伝う感触を感じたのは、報告に伺った者が去って暫くしてからだった。無意識の内に瞳から溢れ出ていた。
いつ以来だろうか。涙を流したのは。
関係企業も含めれば掃いて捨てる程の従業員を抱えているオオガミグループをまとめ上げるために、出来うる限りの感情を排した。今や大神美智男が采配を揮えば、即座に何人の尊い命が紙切れよりも軽く失われるのだ。
だから感情を込めるのをやめた。可能な限り人の名前を覚えないことにした。全ては自分自身を守るために。そうしなければ精神が狂ってしまうからだ。
その点で言えば、ヤツは実に有能だった。
ヤツがオオガミにとって忠実な犬であり、組織の駒であることに変わりは無い。実際よくオオガミのために働いてくれたし、逃げ出した者の大多数を駆逐することが出来た。
役割を終えたCCRなど船頭を失った小船に過ぎない。役に立たない船は解体して葬り去るに限る。
頭の中では簡単に割り切れる。考えも整理出来ている。
……それなのに、何故涙が止まらないのだ?
オオガミの研究所から生まれたヤツは、いつでも替えを造れる。量産することも可能だ。
だが、飼い主に忠実な猟犬に、いつしか感情が入っていたことを今更ながら思い知らされた。失ってからようやくその大きさに気付かされたのだ。
胆が据われば決断は早い。拳で涙を拭うと、即座に会長命令で次世代サイボーグの研究を指示した。
灰原の意思を継ぐ、誰にも負けない最強の戦士。オオガミがこれまで培ってきた技術を持ち寄れば可能だ。
幾らかかろうとも構わない。一刻も早く完成させてみよ。そこには会長の強い意志が感じられた。
後年、大神美智男が暗殺されるも、『犬井灰根』と名乗る者が、息子であり後継者となった大神博之を支えることになる。
外見は先に倒れた灰原に瓜二つである。寡黙で喋り方も似ているという話がある。
この者の名前に灰原の“灰”がついていること、そして名前に“犬”がついていることは、偶然かそれとも―――?
END
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