微笑の貴公子は鉄壁ガードマン

 あかつき大付属高校。高校野球に詳しい人の間では、その高校名は既に甲子園の常連校として名前が知れ渡っている。
 常連校とは言っても、野球部の歴史は浅い。まだ10年も経過していないのだが、地区予選に敵なしという圧倒的な実力を誇る実力校にのし上がってしまった。
 その背景には、千石監督が一貫して進める徹底した競争主義である。
 進入部員が野球部に入部する際には、その時点での実力を確かめるためのテストが課される。当然ながら一定以上の実力を持っていない者は問答無用に入部を許されない。
 入部が許可されたとしても、入部テストは序の口。まずは実力を考慮されて一軍・二軍に振り分けられる。大半の進入部員は二軍スタートだが、先輩部員よりも実力が勝っていると評価されれば一軍スタートも有り得る。
 二軍の設備は他の高校と比べてもそこそこ良い環境だが、これだけで満足していては一軍へ上がるというハングリー精神は育たない。
 一軍の練習設備は全国的に見ても最新鋭・最高峰のレベルにある。それだけではなく、一軍専用の練習グラウンドで様々な恩恵を受けることが出来る。
 さらに、一年に数回一軍・二軍の入れ替え試験が行われる。
 全ての部員が対象で、監督が設定する一定ラインをクリアすれば一軍に昇格、逆に一定ラインをクリアできなければ二軍に降格となる。
 その時点でレギュラークラスの実力を兼ね備えていたとしても、一軍残留ラインに到達できなければ否応なく二軍落ち、さらにはベンチ入りすら出来ないという悲劇が待ち受けている。
 この競争主義の世界で生き残れた猛者こそ、あかつきのレギュラーとして晴れ舞台に出ることが出来るのである。


 練習試合の翌日。突然の入れ替え試験が行われた。
 昨日の練習試合において、二軍にいる選手が一軍選手よりも実力的に上回っていると判断。急遽開催となった。ちなみに三軍選手は通常通りの練習である。
 結果、昨日試合に出場した選手の多くが一軍に上がることとなった。反面、何人かの選手が二軍へと降格となるのだが……これも勝負の世界。
 そして注目を集めたのは、やはり昨日の練習試合で活躍していた選手であった。
 暫定クリーンナップを組んだ二宮・三本松・七井は10球勝負で高得点を叩き出した。特に三本松・七井の両名は同率首位。
 「長打数はこっちの勝ちだネ」
 七井=アレフト。右に左に打ち分けることが得意な外野手。左投げ左打ち。語尾のアクセントが違うのはご愛嬌。だって日本育ちの外人ですから。
 長身でスラッとしているが、筋骨隆々という訳ではないモデルタイプ。それにお洒落なサングラスをかけているから女生徒からの人気は高い。
 「ふん、ワシの方がホームランは多かったわ」
 隣にいる七井よりも頭一つ背が高い男は、三本松。豪快なスイングで本塁打を量産する典型的な一塁手。右投げ左打ち。一人称ワシ。
 長打力という点においては、三本松と七井の二人が優れている。そのため互いにライバル視している。
 「バーカ。打った数はオレが一番だよ」
 一見するとヤンキーか?と思ってしまうくらいにガラが悪く見えるのは、二宮。右投げ右打ち。捕手。小さい頃からキャプテンである一ノ瀬とバッテリーを組んでいた、幼なじみ。あかつき大付属を選んだのも一ノ瀬がいたからだとか。
 直感的なリードとシェアな打撃が持ち味。投手を引っ張っていくリードなので、打ち込まれているとマウンドに行って文句を言いに行くことも。
 この三人の面子は今後も期待がかかる。

 「いやー、いきなり試験って言うからビックリだよ。オイラ打撃苦手だからねー」
 晴れて一軍のグラウンドに昇格したことを噛み締めつつキャッチボールをしているのは、オレンジ色の髪の小学生……失礼、歴とした高校生である。
 彼の名前は八嶋。通称『あかつきのイダテン』と称されるくらい俊足の持ち主。左投げ左打ちの外野手。走塁技術に関してはあかつき大付属において右に出る者はない。
 キャッチボールの相手は眼鏡がよく似合うインテリ系の顔立ち、四条。右投げ右打ち、二塁手。
 集積したデータを様々な情報を冷静な視点で分析する。マネージャーの兄。これは関係ない?これまた失礼。
 まぁね、と四条が返す。八嶋の屈託のない笑顔に釣られて表情は明るい。
 微笑ましい光景を横目に木陰で一人静かに精神統一をしているのは、九十九。右投げ左打ち。外野手。トレードマークは口に銜えた葉っぱ。
 特段これといった特筆すべき長所がないのだが、柔らかなバッティングがキラリと光る。悪球打ちも彼ならば出来る、はず!
 (しかし九十九が悪球打ちが出来るとなるとキャラ的に危ないかも……版権的な意味で)
 あっ!と言った時には既に手遅れの場合が多い。この時も然り。
 八嶋が投げたボールはとんでもない方向に向かい、九十九の頭に直撃した。
 ボールが見事に直撃してしまい、ドサッと倒れこむ九十九。そして一言「誰や、折角気持ちよく寝ていたのに」。
 この言葉を聞き逃す四条ではなかった。
 「寝ていた……だと?」
 「ぁ、四条。これは言葉のアヤでやな……」
 慌てて弁明しようとする九十九。だが説教モードに入った四条は誰にも止められない。みんな炎天下の中練習しているのに君というのは云々。

 強烈な打球が右に左に飛び抜けていく。
 これは打撃練習をしているのではない、監督直々のノックである。普段バットを握らない監督だが、ミスをしたり不甲斐ない選手がいると突発的に行われる。
 ゴロを捌いて送球する、なんて生易しいモノではない。普段のノックの時よりも距離が短い上に、右に左に振られて最終的には足腰が立たなくなる選手が続出するくらいにハードなノックなのである。
 その影で恐れられている監督の地獄ノックを志願した一人の部員が今グラウンドに立っている。彼の名を六本木。右投げ右打ち、遊撃手。春の陽射のような柔らかな表情は、甘いマスクが好きな人には堪らないだろう。
 これまでも何人かの部員が監督へのアピールを試みる形で志願して、結果見事に惨敗を喫することが多かった。大方の予想も監督へのアピールという見方が多かった。
 だが、その予想は時間が進むにつれて徐々に変化していった。
 普通なら5分も経過しないうちに疲れから強烈な打球にグラブが追いつかなくなるのだが、六本木は30分を経過したにも関わらず左右に振られても打球に追いついている。
 それに加えてキャッチする姿が実に美しいのだ。バックハンドの時も、ダイビングキャッチをするのも、ジャンプした時も。まるで役者が劇をしているかのように華麗な動きに目を奪われた。
 息が相当上がっているにも関わらず、パフォーマンスは衰えることを知らない。興味本位で見ていたはずなのに、その場に釘付けになって動けなくなっていた。
 「どうする、まだやるか?」
 「はい、お願いします」
 既にユニフォームは砂に塗れて汚れていた。顔や髪についている砂も気にしてない。肌からは汗が止め処なく溢れている。
 相当疲れているにも関わらず、自分からは止めようとはしない。これは梃子でも動かないくらいに強固な意志の持ち主なのだろう。
 (コイツ、外見とは違って内面は烈しい物を持っているな……)サングラス越しに、千石監督は六本木という選手をそう評した。
 《微笑みの貴公子》六本木優希が千石監督の印象に入ったのは昨日の練習試合であった。





      《 微笑の貴公子は鉄壁ガードマン 》





      ◆
      
      
 5月―――
 ゴールデンウィークも練習漬けの毎日だったあかつき大付ナインに、気分転換のイベントが待っていた。
 下旬に対外試合が組まれた。土曜日の昼。場所は二軍グラウンドにて。
 世間一般的に認知されているのは二軍グラウンドのみで、一軍グラウンドは関係者以外立ち入り禁止という鉄のカーテンに閉ざされている。
 対戦相手は、同じ地区の白鳥高校。
 あかつき大付属高校が出来る以前までは、地区予選では決勝戦に必ず名前を連ねる強豪校であった。だが、それも過去の話。
 強豪校のお株は完全にあかつき大付の代名詞として定着してしまい、逆に白鳥高校は衰退化の一途を辿った挙句今では泡沫候補にまで成り下がってしまった。
 白鳥高校側の思惑としては、ここで完膚なきに叩いておいて、夏の予選ではあかつき大付に勝ったという自信と相手側へ負けてしまったという印象を植え付けて久々の甲子園出場を狙っているのだろう。
 露骨な魂胆が見え見えであったが、敢えて監督はこの話に乗った。
 何故か。地味な練習の連続で選手も退屈しきっていた時期にこの話が舞い込んできた。気晴らし程度にはちょうどいいだろう、と考えたのだろう。
 あかつき大付から見れば、過去の強豪校すらもその程度にしか捉えていなかった。
 そして試合当日。
 『白鳥学園野球部』と書かれた一台のマイクロバスがあかつき大付の門をくぐった。
 その中の最前席……そう、助手席にどっかと座り込んでいるのが監督であった。
 後ろの部員があかつき大付属の学校自体の綺麗さ・大きさにやや呑まれている間、一人自分の世界に入っていた。
 (今までは辛酸を舐めさせられてきてばかりだが今回はそうはいかないぞ。何故ならば今回は選りすぐりの選手を私の手で手塩に育てた秘蔵っ子。公式戦どころか練習試合にすら出したことのない、言わばトップシークレットの秘密兵器!今回は少しばかり早いが、練習にはもってこい話だ……くっくっく。)
 監督が一人悦に入るのも無理はない。3年前、地元の優秀な生徒を自らの足で引っこ抜き、学校とは違う別の場所で密かに猛特訓を重ねた面子なのだ。
 色々と苦労もあったが、思い入れも人一倍。最早自分の世界に浸っているとしか言い様がないくらいである。
 バスから降りてグラウンドに入ると、選手達に軽めの練習を指示。選手達は各々キャッチボールやストレッチなどをして体をほぐした。
 最初こそその壮大なスケールや醸し出される雰囲気に呑まれていた選手達も、体を動かせば少しずつその緊張が和らいでいった。
 自分達は他所の二倍、いや数倍練習してきた。辛い時もあった。監督を恨んだ時もあった。だが、監督の愛情と期待を一心に背負っているという自負があったからこそ、ここまで来れた。
 そうこうしている内に今日の対戦相手であるあかつき大付属高校の選手が登場した……が。
 テレビで見る面子とは全く違う面子が顔を揃えている。どの顔も見覚えがない。昨年秋の公式戦に出ていた選手が一人も混じっていない。
 これはどういう話だ。白鳥高校監督が疑問に感じていると、ゆったりとした足取りで千石監督が姿を現した。
 射光避けにブランド物のサングラスをかけ、威厳を漂わせる千石監督。威厳なんか微塵も感じられない白鳥高校監督とは大違いである。
 まずは両校監督が挨拶の後、がっちりと握手。定番の光景である。
 「本日は胸を借りる気持ちでいきたいと思います。よろしくお願いします」
 思いのほか低姿勢なその態度に、白鳥高校監督は好印象を覚えた。甲子園常連校の監督ということで傲慢な態度かと思っていた自分の見識の無さを恥じる気持ちであった。

 試合の準備が整い、試合開始の時が刻々と迫ってきていた。
 先行白鳥高校で、後攻あかつき大付属高校。審判はあかつき大付属高校の選手が行う。9回、コールドなし。特に特別なルールはなし。事前の申し合わせはこんなところであった。
 一塁側のベンチにどっかと座った千石監督は、対戦相手である白鳥高校監督の小物さっぷりに嫌気が差していた。
 (……所詮あの程度か)
 侮蔑の感情。実力もないのに過去の栄光に縋っている輩などに未来などないという一貫した考えが、千石の中にはある。
 こちらの選手は一軍選手は一人も入っていない。二年主体で、期待している一年も今日の試合の面子の中に含まれている。
 あくまで相手のレベルを見越した上で考えた、格下相手のお気楽オーダー。あの程度の高校にはこの程度で十分である、という気持ちの表れであった。
 実際先発するのは中学時代圧倒的な実力を誇っていた期待の一年、猪狩守。
 既に140キロを超える直球と抜群のスタミナ、高校生相手に十分通用する変化球と制球力を持っていたが、まだ高校に入って1ヶ月しか経ってない選手を登板させるのも、格下相手にどこまで通用するか見極めるためであった。
 他のメンバーも、現在一軍の主体である三年が抜けた後のことを考えた二年生主体のメンバーを揃えている。とは言え、どの選手も個性派揃いなのだが。
 マウンドには先程の猪狩守。これが実戦初登板なのだが、貫禄があって堂々としている。物怖じしている様子など全くない。むしろこの状況を楽しんでいるかのようだった。
 投球練習を傍観する白鳥高校ナイン。この段階で既にスピードガンは何回か140キロを計測していたが、それ以上にストレートには伸びがあるようであった。
 こちらは既に雰囲気に呑まれようとしていた。やや顔が白い。
 選手の表情を見て監督は、とりあえず自分のスイングをしてこいとだけ選手に伝えた。今まで自分達が練習してきたことを思い出せ。そういう意味も込めて選手を送り出した。
 バッターボックスに入る。プレイボールを告げる一球。ズドン、と重い響きが球場に響いた。
 遠くで眺めていた時よりも伸びがある直球。手元でグイっと伸びてきた。そして速い。
 今まで自分のチームの投手や打撃マシンでは到底比較が出来ないくらいに、打ちにくい生きた球。
 打てるかな。一瞬不安が過ぎるが、監督の言葉を信じてみる。とりあえず振らないと。グリップを握る力が自然と強くなる。
 次の球。見送る。直球。ボール。
 なんとなくではあるが、タイミングは掴んだ。1.2の3で打てば当たる。確信は持てないが見えた光明。
 そして3球目。また直球。1.2の……3!
 乾いた金属音。打球は右中間を真っ二つに裂いていく。
 駆け出したら止まらない。止められない。一塁キャンバスを周り、そのままの勢いで一気に二塁を陥れた。
 いける。あのあかつき大付属の投手から初っ端に二塁打。俺達いける。
 打った本人も、事の行方を見守っていた白鳥高校ナインも、選手を信じて送り出した監督も、確かな確信を持った。
 次のバッターが打席に入る。監督からの指示は『変化球は捨てろ』。ストレートに的を絞った。
 変化球に手が出そうになるが、寸でのところでバットが止まる。際どいコースに放り込まれるストレートも、辛うじてファールに出来る。
 粘りに粘ったものの、最後は渾身のストレートに振り遅れて空振り三振。だが、決して打てないとは思わなかった。
 入れ替わりに入ったバッター。左打席に入る。ベンチにて監督に一言二言囁かれたことを、心の中で反芻していた。
 その初球。胸元から大きく切れ込んでくるスライダー。予想通りだった。
 監督から言われたこと。それは『初球は変化球で来るから狙っていけ』。
 元々ミート力には自信があった。合わせることも得意だと自分でもわかっていた。だから3番に入れたと自負している。
 芯でとらえた打球は低い弾道でセンター方向へ。抜ければ先制点を叩き出す事が出来る……バシィッと乾いた音が、全ての希望を一瞬にして消し去った。
 ピッチャー僅かに右を抜けていった打球は、一気にセンターまで抜けるかと思われたが、ショートが反射的に反応して打球はグラブに収まった。
 さらに収まった打球をそのままセカンドにトスして、飛び出していたランナーを刺してチェンジ。全てはあっという間の出来事であった。
 だが、手応えはあった。今回こそ相手の好守に阻まれたものの、ホームはそれ程遠くないものと誰もが思っていた。

 思っているだけでは現実にはならない。長く生きていればそれを実感する人は多いだろう。
 ホームは思っていた以上に近いようで遠かった。猪狩守から再三ランナーを出すものの、憎らしい緑髪のショートが職人芸の如き華麗な守備でチャンスを潰していった。
 抜けそうな当たりはダイビングキャッチで。頭の上を越える打球はジャンプして。ピッチャー返しも難なく捌いて一塁にストライク返球。奥深い打球も素早く一塁へ。
 恐らくあのショートがいなければ3点はもぎ取れた。ヒットになる当たりも何本損しているかわからない。
 一方、こちらの投手陣は対照的にどんどんと失点を重ねていく有様であった。
 初回、秘蔵中の秘蔵っ子として温め続けた投手が、その実力を如何なく発揮した。
 左サイドスローから繰り出される切れ味鋭い直球と、大きく曲がるスライダーの前に三者三振という華々しいスタートを飾った。
 だが、華々しさも散ってしまえば儚いもの。
 味方のエラーやコントロールミスから来る四球こそあれ、まだヒットは一本も出ていなかった。記録上は。
 一巡してからはあかつき大付ナインのバットが鋭くなってきて、芯をとらえてきていた。何本か危ない当たりもあったが野手の正面だったり大飛球になったりと助かっていた。
 7番の五十嵐はスライダーに翻弄されて最後は空振り三振。体が一回転するくらい豪快なスイングであった。
 ベンチに引き上げてくる時の表情は、悔しさが前面に出ていた。
 「惜しかったなぁ〜。あと数十センチなんやけど」
 「やかましい!」
 口に銜えた葉っぱをピコピコと上下に動かす仕草が癇に障ったのだろう。いつも以上に大きな声が球場内に響いた。
 怒鳴られた本人はどこ吹く風という感じで、涼しげな表情のまま打席に向かう。
 ヘルメットから出るくらい長い後髪は、“野球小僧=坊主頭”という概念を完璧に覆している。もっとも、あかつき大付属自体頭髪や服装については大らかなのだが。
 平気でサングラスをかけている生徒もいるし、長髪の部員は当たり前。髪の毛の色も色鮮やかに違っている。
 この点、身なりは心の表れだと信じている白鳥高校監督は嫌悪感を覚える。やはりそれなりに身なりもキチンとしておかないと野球人ではないと考えている。
 (三振したあのバッターはパワーだけだったな。スイングは良かったが当たらなければ問題はない)
 バッテリーも監督の期待に応えた。正に監督の考えている配球通りに、尚且つその配球が絶妙だったことに少し気持ちが良いと感じた。
 だが……次のバッターはそんな甘いヤツではない。バッテリーも監督もそう感じた。
 捉え所がわからない、と言えばいいのだろうか。何を考えているのかがさっぱりわからない。感情すら表に出てこない。いつも眠たそうな表情。相手の心の中を読もうにも読めない。
 さっきの打席は粘りに粘られて最後は高めの直球をはじき返されたが、幸いにもセカンドの正面だったので抑えることが出来た。
 さて、得意なコースは。苦手なコースは。狙っている球種は。
 相手の一挙手一投足を食い入るように見つめていたが、何もわからない。そして、どう攻めればいいかわからない。
 早めに追い込むべきか、際どいコースを慎重に突いていくべきか、打たせてとるべきか、三振を狙うべきか。今司令塔の頭の中は大混乱であった。
 サインをなかなか出せない。ついバッターに目が行ってしまう。頭の中で整理がつかない。
 こうなると八方塞り。厳しいコースを攻めて、駄目なら歩かせればいい。次のバッターはそんなに怖くない。
 サインは、決め球とも言うべき外角ぎりぎりに入ってくるスライダー。外側から急に切れ込んでくるスライダーに手は出せないと踏んだ。
 そしてゆっくりとセットポジションに入る。だが、その時であった。
 バッターの口元が緩んでいた。その不気味な笑みに、心なしか嫌な予感がした。
 ピッチャーの手からボールが放たれた。白球はやや打者から離れる方向に向かって進んでいく。
 だが、一定距離進んだ頃から急激にバッターの元へ切り込んでくる。切れ味鋭くストライクゾーンぎりぎりに。
 それを予感していたかのように、何の迷いもなくバッターはバットを振った。別に当てに行くこともなく、極々自然に。
 すると、バットがボールに吸い付いていく……いや、ボールがバットに向かって当たりに来た。もっともボールが飛ぶポイントとタイミングを計ったかのように。
 カキーンと、澄んだ金属音が球場に響いた。白球は遥か彼方の青空に向かって突き進んでいく。
 「ライト!バック!」
 打たれた瞬間、即座に指示を出すキャッチャー。上手く流し打ちされた打球は、このまま行くと右中間奥深くに突き刺さるだろう。
 長打コースに入れば二塁、いや三塁は陥れられるだろう。無闇にピンチを作りたくない。不安が心の奥底から尽きることなく湧き上がってくる。
 マイナス思考になっている場合、良い結果をもたらすことは少ない。
 打球の行方を見守っていたが、打球の勢いは衰えることなくフェンスを軽々と越えていった。
 ライナー性の当たりだったから、フェンスは越えないと思っていた。しかし、そんな甘い予想は脆くも打ち砕かれた。
 そんなことはお構いなしに悠々と走るバッター。ガッツポーズをするでもなく、弾けるような笑顔を見せるわけでもない。ただ淡々とした表情。
 悠然とホームベースを踏む。あれ程遠かった1点を、先制されてしまった。しかも意外な伏兵によって。
 大きな絶望感がバッテリーを包む。たった1点取られただけで、ここまで表情が暗くなるとは思ってもいなかった。
 次のバッターはなんとか打ち取ったものの、白鳥高校はこの回を最後にガラリと変わってしまう。
 尻上がりに調子を上げてきた猪狩守の前に三者三球三振。バットに当てることすら難しい程であった。
 そしてあかつき大付属の攻撃。ここで地獄を見た。
 1番から始まる攻撃で、先頭バッターにストレートの四球を与える。そこから二盗塁で一気に三塁まで到達させてしまう。
 焦ったピッチャーが制球を乱してここでも四球。一度キャッチャーがマウンドに駆け寄ってピッチャーを落ち着かせようとするが、効果は無かった。
 続く三番には左中間に突き刺さるツーベースで2点献上。そこから四番・五番・六番の三者連続ホームラン。
 白鳥高校監督の顔色は真っ青であった。自信を持って送り出したエースが、情け容赦なく自分が見ている前で打ち砕かれていく光景を見ていられなかった。
 次のピッチャーの肩を温めるまでの間はマウンドを守り続けなければならないのだが、一刻も早くマウンドから下ろしてやらなければならないという焦りもある。
 点差がどんどん開いていくだけならまだいい。「これがいい経験になった。次はこうならないようにするぞ!」と部員に喝を入れれば次に繋がる。そして成長するだろう。
 が、今の状況はそんな悠長なことを言えるような状態ではなかった。このままだと自信喪失どころかトラウマになりかねない……ここまで徹底的に甚振る気か。
 ふとよぎった、試合開始前の監督同士のやり取り。
 「今回の試合はコールドなし、9回までやり遂げましょう」
 千石監督からの提案。別に問題ないと思った。その時はまだ勝てる自信があった。
 今思い返せば、この展開を予期していたのだろう―――圧倒的な実力差と、超えられない壁と恐怖を植え付けることを想定して。



 結局、白鳥高校は大差で敗れた。疲弊した選手を手放しに褒め称えた監督の背中は、どことなく小さかった。

 練習試合後、千石監督は今日の試合のデータ分析に勤しんでいた。
 こうなることは試合をやる前からわかっていた。元甲子園の常連とは言っても所詮落ちぶれたランクの学校。実力は高が知れている。
 それよりも選手である。気分転換のイベント程度にしか考えていなかったにしては上出来な内容であった。
 即戦力として見込んでいた猪狩守は要所要所踏ん張ったし、天才の片鱗を随所に覗かせていた。一軍に上げてレベルの高い練習を積ませれば秋にはエースとして君臨するだろう。あとは猪狩守の才能を如何にして引き出すか。
 キャッチャーの二宮は少々ムラがあるという欠点が大分直ってきた。打撃も好調だし、今年の夏は一ノ瀬と組ませるに値する。既に一軍の正捕手を超えている。
 意外だったのは外野手の九十九。あの個性派軍団の中でも異彩を放つ……何と言うのか、一匹狼みたいなヤツがここまで活躍するとは。レギュラーとまではいかないが、ベンチ入りは確実。
 そして一番の収穫は……なんと言ってもアイツだろう。
 ヒット性の当たりを何本もアウトに変え、相手に持って行かれそうになった流れを引き戻した。その華麗な守備は見ていて惚れ惚れするくらいだ。
 もし今日アイツがあのポジションにいなかったら……と思っただけでぞっとする。猪狩守が無失点に抑えられたのもアイツのお陰だし、アイツがいなければ間違いなく3点は失っていた。
 ファインプレーばかりではない。普通のゴロを捌くだけでも、最も素早く的確にアウトにするための流れが見事に完成されていた。
 その守備に無駄な動きなど一つもない、基本に忠実。しかし魅せる場面・期待される場面に必ず結果を残す。安心感と共に気分が高揚する選手など滅多にいない。
 さらに素晴らしいのは、常に絶やさない笑顔。ピンチの時でも、守備についている時も、キャッチボールの時も、いつも良い笑顔。
 その屈託も無い笑顔に、何人の選手がリラックスしただろうか。五十嵐なんかは最初緊張でガチガチだったのに、試合終盤では緊張が取れているのが表情だけでわかった。
 ありゃ魔術師……いや、《微笑みの貴公子》か。
      
      
      ◆
      
      
 昨日の試合でもそうだったが、この守備は間違いなく全国クラスの実力だ。高校生どころかプロでもここまでのレベルの選手は数えるくらいだ。
 白球を追う眼差しは特にそうだ。打った瞬間から彼は別人格になったのではないか、と思うくらいに鋭い眼をしていた。反射神経も申し分ないが、グラブ捌きも実に見事だ。
 その容姿も関係するが、どうも人々の目にはその守備は華麗に映るようである。ファインプレーをした時の興奮が、何気ないプレーの中にも見えるというのは魅力なのかも知れない。
 そして何よりも重要なのは、抜群のセンスが滲み出ている守備ではない。これは野球をするために必要な技術という訳ではないのだが……彼は周りを和やかにする雰囲気の持ち主だ。
 笑顔がトレードマークである八嶋とは違った落ち着いた笑みが、浮ついたチームに落ち着きを与え、個人の緊張を解き解す。
 ガチガチに緊張して強張っていたのでは実力を発揮できない。その頑強な氷を静かに溶かす彼の微笑みは、選手にかける効果的な言葉よりも価値が高い。
 外面はニコニコと優しい顔をしているが、内面は違う。熱血が売りな五十嵐よりもっと熱い、熱い魂を備えている。
 こっちに来た球は何がなんでも捕ってやる。泥臭くても、格好悪くても、形振り構わない。アウトにしてみせるという気概がヒシヒシと伝わってくる。
 何が彼をここまで駆り立てるのかは知らない。だが、悪くはない。それでこそ鍛え甲斐がある。
 六本木、どこまでついてこれるか楽しみにしているぞ。
 「行くぞ」
 「はい!」
 腹の底から出た声がグラウンドに響いた。再び強く叩き付ける金属音と乾いたミットの音が一帯を包んだ。


 パワプロ9のあかつき大付属編も今作で3作目。わかりやすい個性で非常に書きやすくて重宝しております。

 九十九、八嶋と来て3作目は六本木。やっとお気に入りの3人を書くことが出来ました。
 (ちなみに順位は九十九=八嶋=六本木>二宮>四条>三本松・七井>>(中略)>>五十嵐)
 前にも書きましたが、九十九・八嶋・六本木の3人は話を広げていく上で使い勝手が良いです。自由奔放な八嶋、掴みどころがない九十九、少し大人しい六本木というのは原作にはない組み合わせですが、この組み合わせであかつき大付属高校の日常を描くのが楽になるのです。二宮や四条、三本松に七井もいてあかつき大付属高校野球部という一つのストーリーが完成するのですが。

 個人的には六本木の魅力は守備だけではなく、あの微笑もあると信じたい。
 打球が飛んできて眼が変わるというのも素敵なことだと思う。でも、普段から見せるあの優しい微笑みがあってこそ、六本木というキャラが成立するのだと。
 今回六本木の持病については何も触れませんでしたが、それも関係しているのだろうと。
 そして卒業後には憧れの人と再会したと。いい話ではないですか。

 他の方の小説とは違った一面を見出していただければ幸いです。

 (2009.08.24. up.)

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